発刊されたばかりである。「節電」により少し暗い電車の中で読んだ本だ。よい本である。500円+悪税だからそんなに高くはない。
内容は、内橋克人の「不安社会をつくる」、なだいなだの「靖国合祀と憲法」、大江健三郎「九条を文学の言葉として」、小森陽一「井上ひさしさんの言葉」の4つ、いずれも講演の記録である。話し言葉がそのまま活字化されているので、とても読みやすい。
作家で劇作家である故井上ひさしさんを偲んでの講演の数々、しかしその内容は大震災を真正面に据えて知的刺激に満ちたものだ。
内橋さんの講演は、主に原発に焦点を絞っているが、そのなかで様々な論点を提示する。まずデンマークなどと比較した日本の惨状。日本のメディアは、外国の情報をあまり報道しないので、日本と異なる国民尊重の事実を知り、日本政治の貧困に唖然とする。
そして「不安社会」についての説明。その特色として「私たちの社会では、経済的な変動、あるいは社会的な変動がおこると、そのしわ寄せはかならず、社会的弱者のもとに集中してい」るということ。本当にその通りである。社会的弱者の姿は、日常生活のなかでは余り目にすることはない。しかし少し目をこらすと見えるのだが、多くの国民は見ない。「どこまでいっても日本人というのは、当事者になってみないとわからないものなのか」という井上ひさしの嘆きが記される。
私も思う、日本人の多くはいろいろな事実が知らされても、想像力をたくましくしないので、実際に当事者になってはじめて気づく、しかし、直面したことだけ知らされるが、そのことが過ぎ去れば忘れてしまう。問題を解決すべきものとして自らの俎上にのせようとしない。
なぜならそこには「頂点同調主義」(故哲学者・久野収のことば)があるからだ。「“てっぺん”、お上のいうことにすべて合わせていく、同調していく、みずから好んで、ということです。お上に逆らって社会的排除を受けるのが、怖い。私たち日本人は、律儀で、忍耐強く、義理堅く、きわめて礼儀正しい。今回も、災害にあたって、そうした評価を海外で受けたというような報道がなされています。もちろんそれは美徳です。美徳ではあるけれども、そのことのなかの、なにが問題なのか。頂点、つまり支配層、上層、丘紙の言うがままに「同調」していって、結果において「てっぺん」が間違いを犯せば、国民みんなが間違う。異議を唱えることができません。これを頂点同調主義ーてっぺんに同調して生きるーと呼ぶのです」。
今回の放射能の汚染でも、お上がいうから安全だ、」などという人が多いようだ。お上がやることを疑う、お上がやることに抵抗する・・・そういう精神が今求められている。
今静岡で歌川国芳展をやっているが、江戸時代の歌川も天保の改革に対して抵抗している。抵抗や批判こそが、政治や社会、芸術でも文学でも、進歩をもたらすのである。
大江の「九条を文学の言葉として」も、知的で刺激的だ。「人間は悲しい気持ちで考えると真面目になる」は、現今のテレビ番組を想起すればよくわかる。権力の保持者たちは、バカ番組を垂れ流して、人間を悲しくさせない、真面目にさせない、そのようにしている。
小森は、井上ひさしの『吉里吉里人』(新潮文庫)から、すばらしい文章を引用している。これも読むべき小説だ。
さて、この本の中で大江が井上ひさしの『日本語教室』(新潮新書)から何カ所か引用している。それがよかったので購入して読んでみた。簡単に読めておもしろかった。日本語に関する知識を少し得ることができた。
暑さを忘れる本であった。
内容は、内橋克人の「不安社会をつくる」、なだいなだの「靖国合祀と憲法」、大江健三郎「九条を文学の言葉として」、小森陽一「井上ひさしさんの言葉」の4つ、いずれも講演の記録である。話し言葉がそのまま活字化されているので、とても読みやすい。
作家で劇作家である故井上ひさしさんを偲んでの講演の数々、しかしその内容は大震災を真正面に据えて知的刺激に満ちたものだ。
内橋さんの講演は、主に原発に焦点を絞っているが、そのなかで様々な論点を提示する。まずデンマークなどと比較した日本の惨状。日本のメディアは、外国の情報をあまり報道しないので、日本と異なる国民尊重の事実を知り、日本政治の貧困に唖然とする。
そして「不安社会」についての説明。その特色として「私たちの社会では、経済的な変動、あるいは社会的な変動がおこると、そのしわ寄せはかならず、社会的弱者のもとに集中してい」るということ。本当にその通りである。社会的弱者の姿は、日常生活のなかでは余り目にすることはない。しかし少し目をこらすと見えるのだが、多くの国民は見ない。「どこまでいっても日本人というのは、当事者になってみないとわからないものなのか」という井上ひさしの嘆きが記される。
私も思う、日本人の多くはいろいろな事実が知らされても、想像力をたくましくしないので、実際に当事者になってはじめて気づく、しかし、直面したことだけ知らされるが、そのことが過ぎ去れば忘れてしまう。問題を解決すべきものとして自らの俎上にのせようとしない。
なぜならそこには「頂点同調主義」(故哲学者・久野収のことば)があるからだ。「“てっぺん”、お上のいうことにすべて合わせていく、同調していく、みずから好んで、ということです。お上に逆らって社会的排除を受けるのが、怖い。私たち日本人は、律儀で、忍耐強く、義理堅く、きわめて礼儀正しい。今回も、災害にあたって、そうした評価を海外で受けたというような報道がなされています。もちろんそれは美徳です。美徳ではあるけれども、そのことのなかの、なにが問題なのか。頂点、つまり支配層、上層、丘紙の言うがままに「同調」していって、結果において「てっぺん」が間違いを犯せば、国民みんなが間違う。異議を唱えることができません。これを頂点同調主義ーてっぺんに同調して生きるーと呼ぶのです」。
今回の放射能の汚染でも、お上がいうから安全だ、」などという人が多いようだ。お上がやることを疑う、お上がやることに抵抗する・・・そういう精神が今求められている。
今静岡で歌川国芳展をやっているが、江戸時代の歌川も天保の改革に対して抵抗している。抵抗や批判こそが、政治や社会、芸術でも文学でも、進歩をもたらすのである。
大江の「九条を文学の言葉として」も、知的で刺激的だ。「人間は悲しい気持ちで考えると真面目になる」は、現今のテレビ番組を想起すればよくわかる。権力の保持者たちは、バカ番組を垂れ流して、人間を悲しくさせない、真面目にさせない、そのようにしている。
小森は、井上ひさしの『吉里吉里人』(新潮文庫)から、すばらしい文章を引用している。これも読むべき小説だ。
さて、この本の中で大江が井上ひさしの『日本語教室』(新潮新書)から何カ所か引用している。それがよかったので購入して読んでみた。簡単に読めておもしろかった。日本語に関する知識を少し得ることができた。
暑さを忘れる本であった。