浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

驕りと想像力

2011-07-13 07:03:54 | 日記
 私は今病院に通っている。私が病気というのではなく、友人の見舞いである。

 昨年9月、脳幹血栓で倒れ、今も首から下がほとんど動かない。左手は右手より相対的によく動くが、通常の動きはできない。歩くこともできないし、ほとんど寝たっきりである。

 第2東名の工事を請け負い、早朝から深夜まで、納期に間に合わせるためにかなり無理をして働いていたようだ。そしてその場所も新城市という、通うにも2時間近くかかるところであった。おそらく第何次下請けであっただろう。

 中学校の同級生であるから、他人事ではない。友人の奥さんに聞くと、夜11時頃会話をしていて突然ろれつが回らなくなり倒れたとのこと。血管を流れていた血栓は、突然彼の血流を止めたのだ。

 私は、彼の可能な限りの復帰を求め、足繁く通っている。

 この友人の病気、そして今度の東日本大震災といい、驕りということを感じる。年齢を重ねているにもかかわらず自らを若い時のままと錯覚する驕り。技術力で自然を制御できる、核エネルギーでさえ押さえ込めるという驕り。

 そうではなく、大自然の力の前に、私たちは「生かされている」のだ。「生かされている」が故に、生きているのである。夜寝る前に、明日は今日のように「生かされる」のだろうか、と不安を抱く。朝、いつも通りに目を覚ますと、「生かされている」ことに感謝すると共に、「生かされている」ことに最大限に価値あらしめようと思う。と同時に、「生かされる」ことが続くように大自然に祈る。

 私たちは、いずれにしても、自らの意思でこの世界に登場するのではなく、I was born、つまり受け身として登場したのである。


 驕りを持つと、想像力を働かせなくなる。

 驕りの中にある原子力マフィアである経産省、電力会社、原子力学者らは、福島原発がいかに巨大な被害をもたらしたかについて現実を見ることもなく、さらにより過酷な事故を想像することもせず、原発推進を図ろうとしている。

 驕りは、捨てなければならない。驕りは現実を見る目を曇らせ、想像力を失わせる。
コメント
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