浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

システム

2015-05-11 21:00:02 | 日記
 『東京新聞』夕刊に「作家が選ぶきみに贈る本」というコーナーがある。今日から中村文則が担当する。
 中村は、なぜ『教団X』を書いたのかをまず説明する。

 戦前・戦中の日本のことも書いたのには、現在の日本が少しずつ右傾化・全体主義化していることへの僕なりの危惧があった。

 そして、日本の「システム」をこう捉えることを記す。

 日本はシステムが一度出来上がれば、もう誰がトップになっても止めることができなくなる。現在の日本の流れは非常に危険だ。

 例えば十年後、さまざまな戦争に巻き込まれ、膨大な自衛隊員が死傷し、中東諸国からも強く敵視されるようになった無残な日本を見て「こんなはずじゃなかった」と愕然とするような事態が来ないように、僕たちはみんなで考えていかなければならない。

 的確に日本人の特質を捉え、まさに今必要な想像力をもって、読者に訴えかけている。

 開高健という作家が『パニック』という小説を書いているが、昔それを読んだ時、これは日本人のことを描いているのではないかと思ったことを思い出す。
 日本人は、組織やシステムのなかに入り込むと、その組織やシステムに同化し、まさにそのなかで疑問を持たずに歯車として動いていく、そしてそのなかで強く馴化し、まさに「アイヒマン」化する。みずからが個であり、異質性を有する者であることを忘れ去る。
 だからこそ、中村が言うようなことが起こるのだ。

 そして、現在。

 安保法案が与党で了承されたのだろうが、戦闘への参加の道が開かれていく。その結果、中村が指摘するような事態が起きていくことだろう。

 ボクはよく、想像力を働かせよという。安倍政権が進めていることが、どのような事態を引き起こすか想像してみよう、と。

 日本人が、中東の人々だけではなく、自衛隊が戦闘に参加する地域の人々から「敵視」される、その人々の眼を想像してみよう・・・

 もうそれは1945年で、なくなったはずなのに。
 
 
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訃報

2015-05-11 08:36:37 | 日記
 新聞を開いたら、長田弘さんの訃報が記されていた。75歳だという。長田弘さんの詩は、清澄で、時間的にも空間的にもどこまでもどこまでもひろがる宏遠さをもっていた。

 はじめて長田さんの本を読んだのは、ずっと若い頃であった。『私の21世紀書店』(中公新書)、同書は毎日出版文化賞を獲得した。そのときに書評で知った。その本は、いろいろな本について、短文で紹介するものだが、その文章が、清澄で、静かで、それでいてすごい含蓄のあるものであることを発見し、そこで紹介されていた本を何冊も読んだものだ。

 それ以降、長田さんの本が発行されると、あまり高くない本は買っていった。今も書庫に並んでいる。書庫まで行くのはたいへんなので、長田さんの詩を、ネットで探してみた。
 あった、あった。

http://www2.hannan-u.ac.jp/lib/material/recommended/recommend_1212.html

 そこからコピペさせていただく。その素晴らしさを知ってほしいからだ。

  「自由に必要なものは」


     不幸とは何も学ばないことだと思う
     ひとは黙ることを学ばねばならない
     沈黙を、いや、沈黙という
     もう一つのことばを学ばねばならない
     楡の木に、欅の木に学ばねばならない
     枝々を揺らす風に学ばねばならない
     日の光に、影のつくり方を
     川のきれいな水に、泥のつくり方を
     ことばがけっして語らない
     この世の意味を学ばねばならない
     少女も少年も猫も
     老いることを学ばねばならない
     死んでゆくことを学ばねばならない
     もうここにいない人に学ばねばならない
     見えないものを見つめなければ
     目に見えないものに学ばなければ
     怖れることを学ばなければならない
     古い家具に学ばねばならない
     リンゴの木に学ばねばならない
     石の上のトカゲに、用心深さを
     モンシロチョウに、時の静けさを 
     馬の、眼差しの深さに学ばねばならない
     哀しみの、受けとめ方を学ばねばならない
     新しい真実なんてものはない
     自由に必要なものは、ただ誠実だけだ


 そして今日の『中日新聞』、一面コラムにも長田さんのことが。

詩の一節を比べていただきたい。一つは<涙が洗ったきみやぼくの苦い指は>。もう一つは<涙が洗ったきみやぼくの若い指は>。「苦い」が「若い」となっている。誤植である。それでも、その詩人は「若い」のままにして詩集に収めた▼詩人の長田弘さんが亡くなった。七十五歳。誤植を修正しなかったのは詩と言葉、生き方へのこだわりかもしれぬ▼詩は号令やプロパガンダではない。人の間違いも受け入れ、活(い)かせる器量のある言葉こそ「死んでない詩の言葉」と考えた。「修正するよりもはるかに詩的なことに思われた」(『誤植読本』)▼誤植の話ともつながるか。長田さんの作品から、聞こえてくるのは自然や人が生まれ、死んでいくことをあるがままに受け入れたい「願い」である▼<聴く、という一つの動詞が、もしかしたら、人の人生のすべてなのではないのだろうか?>。花を見る。波の光を眺める。窓を開ける。街を歩く、考える。読む。いずれもが「聴くことである」といい、「聴くこと」は「愛すること」と書いている。われわれは叫び、戦い、美しいものを「聴くこと」を忘れていないだろうか▼「そのとき、ふりかえって、人生は森のなかの一日のようだったと言えたら、うれしい」。森の出口で何とおっしゃったか。長田さんの森から言葉たちが別の人の森へ飛んでいったのならば、うれしい。
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