地方の通信局の記者をしている友人から久しぶりに電話があった。1日二本の記事を書くというある種のノルマをこなしているのだが、そのために自分自身が書きたいことが書けない、何か自分がしていることに意味が見いだせなくなった・・・などという内容であった。いろいろ聞いてみると、彼が書いた記事には、歴史的には新発見であるようなこと、特異な生き方をした鉱山労働者の記事など、魅力的なものがあった。彼はそれらをみずからさがし出して書いていた。意味のある記事を書いていても、それが読者にどう受け入れられているのか、あるいはボクのような歴史の研究をしている者にどううけとられているのか、そういうある種の反応が得られないために、ちょっと悩んでいたようなのだ。
ボクは以前某誌に、「地方記者へ」という文を書いた。それは、記者は歴史の記録者たれ、という趣旨のものであった。歴史研究の際、一次史料や資料がなかなかないとき、やむを得ず過去の新聞記事を検索するのだが、そこには有益な、歴史の一部を切り取ったようなものが散見される。ボクらはそれを活用させてもらう。
新聞記事は、今生きている人々のためだけではなく、未来の人々が過去を振り返るときに読まれるものでもあるのだ。
ボクはそういうことを話した。
さて、『いいがかり』を読んでいたら、こういう文にであった。
記者がなすべきことは、それぞれの場所で小さな事実を掘り起こしていく仕事だ。日々が調査報道だ。自ら調べ、掘り起こした事実は何よりも強い。何ものにも萎縮する必要はない。時の権力への「違和感」を地域の現実から裏付ける作業を、まだ埋もれている歴史の証言者を世に出す営みに、立ち止まっている時間はない。
書いたのは、河北新報社編集委員の寺島英弥氏。ボクが彼に話したようなことを本書に発見した。
本書は、「原発「吉田調書」記事取り消し事件と朝日新聞の迷走」という副題がついている。したがって、本書の主要な内容は、1章の「「吉田調書」記事取り消し事件を考える」に記されている。朝日新聞が、「吉田調書」記事を取り消す必然性はないのだということを、事実に基づいて解明している。「吉田調書」記事の主眼は、わが国では福島原発事故のような過酷事故が起きたとき、それを収束する人々、組織はないのだ、ということである。これは、原発再稼働を志向する者たちにとりきわめて都合の悪い内容である。だからこそ、新聞、週刊誌を巻き込んで、「原発マフィア」が朝日新聞をバッシングしたのである。そして朝日新聞は、それに屈した。
2章は「わたしはこう思う」ということで、様々な人たちのこの事件移換する「思い」を記したものだ。
そのなかでもと共同通信記者、そして同志社大学で教鞭を執っていた浅野健一さんの文に、「福島原発事故では、朝日も含む記者クラブメディアは発生から約3ヶ月の間、毎日、毎秒、誤報・虚報を垂れ流したではないか」があった。思い返せばまさにそうで、ちょうどボクが仕事を辞めたときだったので、日夜原発事故の情報を集めてこのブログにどんどん紹介していった。今ではアクセス数は少ないけれども、マスメディアによる「誤報・虚報」情報ではない情報をさがし出して次々と載せたことから、ものすごい数のアクセスがあったことを思い出す。
その他にも、重要な指摘がたくさんあり、ボクはいつも読書するときには線を引き、書き込みをし、付箋を貼っていくのだが、各所にその作業のあとが残っている。
さて、3章は「ジャーナリズムの危機」。ここには永田浩三、別府三美奈子、野中章弘三氏の文が掲載されているが、まことに重厚で、最近の朝日新聞の問題がどのような意味を持つかが記され、中身がたいへん濃いものとなっている。ここはまさに付箋だらけである。
300頁を超える本であるが、読み終わるまでに思いの外時間がかかった。それは内容が濃く、鋭い問題提起がなされているからである。
今研修中のM君、そして走り回っているHさん、この本は買って読むべきです。ジャーナリストとはいかなる仕事であるかが具体的に記されています。2400円+悪税。
ボクは以前某誌に、「地方記者へ」という文を書いた。それは、記者は歴史の記録者たれ、という趣旨のものであった。歴史研究の際、一次史料や資料がなかなかないとき、やむを得ず過去の新聞記事を検索するのだが、そこには有益な、歴史の一部を切り取ったようなものが散見される。ボクらはそれを活用させてもらう。
新聞記事は、今生きている人々のためだけではなく、未来の人々が過去を振り返るときに読まれるものでもあるのだ。
ボクはそういうことを話した。
さて、『いいがかり』を読んでいたら、こういう文にであった。
記者がなすべきことは、それぞれの場所で小さな事実を掘り起こしていく仕事だ。日々が調査報道だ。自ら調べ、掘り起こした事実は何よりも強い。何ものにも萎縮する必要はない。時の権力への「違和感」を地域の現実から裏付ける作業を、まだ埋もれている歴史の証言者を世に出す営みに、立ち止まっている時間はない。
書いたのは、河北新報社編集委員の寺島英弥氏。ボクが彼に話したようなことを本書に発見した。
本書は、「原発「吉田調書」記事取り消し事件と朝日新聞の迷走」という副題がついている。したがって、本書の主要な内容は、1章の「「吉田調書」記事取り消し事件を考える」に記されている。朝日新聞が、「吉田調書」記事を取り消す必然性はないのだということを、事実に基づいて解明している。「吉田調書」記事の主眼は、わが国では福島原発事故のような過酷事故が起きたとき、それを収束する人々、組織はないのだ、ということである。これは、原発再稼働を志向する者たちにとりきわめて都合の悪い内容である。だからこそ、新聞、週刊誌を巻き込んで、「原発マフィア」が朝日新聞をバッシングしたのである。そして朝日新聞は、それに屈した。
2章は「わたしはこう思う」ということで、様々な人たちのこの事件移換する「思い」を記したものだ。
そのなかでもと共同通信記者、そして同志社大学で教鞭を執っていた浅野健一さんの文に、「福島原発事故では、朝日も含む記者クラブメディアは発生から約3ヶ月の間、毎日、毎秒、誤報・虚報を垂れ流したではないか」があった。思い返せばまさにそうで、ちょうどボクが仕事を辞めたときだったので、日夜原発事故の情報を集めてこのブログにどんどん紹介していった。今ではアクセス数は少ないけれども、マスメディアによる「誤報・虚報」情報ではない情報をさがし出して次々と載せたことから、ものすごい数のアクセスがあったことを思い出す。
その他にも、重要な指摘がたくさんあり、ボクはいつも読書するときには線を引き、書き込みをし、付箋を貼っていくのだが、各所にその作業のあとが残っている。
さて、3章は「ジャーナリズムの危機」。ここには永田浩三、別府三美奈子、野中章弘三氏の文が掲載されているが、まことに重厚で、最近の朝日新聞の問題がどのような意味を持つかが記され、中身がたいへん濃いものとなっている。ここはまさに付箋だらけである。
300頁を超える本であるが、読み終わるまでに思いの外時間がかかった。それは内容が濃く、鋭い問題提起がなされているからである。
今研修中のM君、そして走り回っているHさん、この本は買って読むべきです。ジャーナリストとはいかなる仕事であるかが具体的に記されています。2400円+悪税。