浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

後退するテレビ報道

2015-05-05 23:00:12 | メディア
 リテラの「憲法記念日にテレビから憲法が消えた テレビで憲法がタブーになった! 憲法記念日に民放はスルー、NHKは政治家に丸投げ」を読んで驚いた。もうテレビでは、憲法記念日に憲法を報じることはなくなるのか。

 今までみていた「報道ステーション」、しかし「自殺」したと判断したため、もうボクはみなくなっているが、4日の「報道ステーション」は憲法を「スルー」したという。なるほどやはりほんとうに「自殺」してしまったのだな、と思った。

 リテラの記事は下記。

http://lite-ra.com/2015/05/post-1075.html

 TBSはまだマシのようだが、テレビメディアは報道の点では、もうダメだな。

 『Journalism』5月号で、TBSテレビ報道局のディレクター・樫田小夜さんが、こう書いている。

 「インターネットでいつでも情報を見られるから、新聞やテレビはもういらない」という人もいます。しかし、テレビの報道は、情報を“流している”のではありません。“伝える”メディアです。

 これはその通りと言いたいが、現実のテレビは“伝える”をしているか、と問わなければならなくなっている。いつの時代でもそうだが、メディアはいつもその主体性が問われているのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「9条を抱きしめて」

2015-05-05 22:06:25 | メディア
 ボクは、アレン・ネルソンという人を知らなかった。しかし今、日曜日深夜に放映されたNNNドキュメント`15の「9条を抱きしめて」をみて、彼を知った。もとアメリカ海兵隊員。黒人の子として生まれ、18歳で海兵隊に入隊した。そしてベトナム戦争に従軍し、そこで多くのヴェトナム人民を殺した。

 帰国して家族と住み始めたが、PTSDに苦しめられ、家を出てホームレス生活に入った。ある日、小学校の教員になっていたもと同級生から声をかけられ、小学校でベトナムのことを話す機会があった。話しを終えた後、子どもから「ミスター・ネルソン、あなたは人を殺しましたか」と問われた。彼は苦しみながら、真実を話した。子どもたちは自分自身を軽べつするのではないかと思ったが、子どもたちはネルソンのために泣いてくれた。

 アレン・ネルソンに、人間的な感情がわき上がった。

 そして彼は沖縄に来た。ベトナムに行く前に、彼は沖縄で訓練を受けていた。その沖縄に、今も基地があることに驚きを抱いた。

 ある人から、英文の日本国憲法を渡された。彼は、9条を読んで、大きく心を動かされた。その後のネルソンは、まさに「9条を抱きしめて」生きた。ネルソンは、日本全国で、自らの戦争体験とそして9条を語り続けた。

 9条は、日本の憲法ではあるが、しかし9条の存在は、世界の平和を求める人々に力を与えている。

 ボクは、このドキュメントをみて、改憲問題を国内問題として考えるのではなく、9条は世界の9条であること、9条が存在していることが世界にいかに大きな力を与えているかを考えるべきだとおしえられた。

 いつものように、『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』(講談社)を注文し、そしてDVDを注文した。

 今月の講座では、アレン・ネルソンのことを話そうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】山本義隆『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(みすず書房)

2015-05-05 12:17:48 | その他
 “知性を抵抗の糧に”ということばが、読み終えて浮かんできた。山本義隆は、東大紛争時の東大全共闘議長であった。全共闘については何度か書いているが、歴史的にはプラスと言うよりマイナスであったのではないかというのが今のボクの考えである。

 以前にも書いたことだが、この頃「自己否定」ということばがはやった。その頃発売されていた『朝日ジャーナル』は、全共闘の機関誌的な役割を果たしていたが、当時ボクもそれを購読していて、全共闘の人々が主張する自己否定が究極的には自己の存在を物理的に無化しなければならない、いわば絶望としての自己否定ではないかと考えていた。その自己否定の延長線上に「大学解体」ということばもあり、大学も自己も、現体制を支えるものとして存在している以上解体し、否定しなければならないという論理であった。
 しかし、大学も自己も、現体制を止揚(変革)しうる主体としての可能性をもったものである以上、解体や否定はなんの解決にもならない、自己も大学も、すべて存在するものは変化していくものであるし、また変化させることのできるものなのだ、というのがボクの考えであった。

 そうして自己否定や大学解体を叫んだ者たちは、いつのまにかスーツを着用して現体制の重要な担い手として存在するようになった。

 多くがそういう道を歩んでいったなか、山本義隆は、みずからが主張した論理を、大学紛争が終息したあとも考え続けていたのだろう、その片鱗が、彼の著書にはあり、本書にはそれがもっとも端的に表れているのではないかと思うのである。

 本書は、もちろん原発依存社会からの脱却を志向する。長いものではないが、ここには考えるべきエッセンスが必要十分に知らされている。「原子力発電」(最近村上春樹が、「原発」ではなく「核電」とすべきだといっているがそれは正しい)が単なるエネルギー政策ではなく、外交・防衛政策の一環であること、そして原発の未熟さ、放射性廃棄物の処分の問題(「原子力村」の主張は、まさに狂気の論理である)、科学技術の奢りの問題などをわかりやすく論述している。

 ボクは本を読むときは線を引き、書き込みをしながら読み進むが、各所でそうしたことを行った。ほぼ100頁の薄い本だ。だが、考えるべき論点はきちんと整理されて提示されている。

 まさに「知性」を「抵抗の糧」とする実践的な本だ。1000円+悪税。読む価値は大いにある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『Journalism』5月号

2015-05-05 00:13:42 | 政治
 みずからの思考を鍛えていくためには、とにかく人と話をすること、活字を追うことが大切だ。そして人と話をすると言うときには、様々な多種多様な人物と接することが必要である。
 
 ただし、職から離れると、話をする人はやはり減っていく。したがって、自覚的に、話す人がいるところに足を運び、話す人を求めていかなければならないのだが、それは容易ではない。
 であるが故に、今日も活字を追う。今日は『Journalism』5月号が届いた。今月号の特集は、「ジャーナリズトをめざす大学生へ」である。しばし読みかけの本を置いて、本誌を読む。

 いつも最初に読むのは、金平茂紀氏の文である。また今月号は、永田浩三氏の文もあった。両氏の主張は重なることが多い。永田氏は、「「忖度」こそが日本の表現の不自由の本質」であるといい、金平氏は「放送の独立性・自律性を殺しかねない権力(者)側の幼稚な認識、それに輪をかけて自粛・萎縮を繰り返すメディア側の臆病な姿勢の双方が問われなければならない」という。

 「自粛」「萎縮」「忖度」が、日本の表現の自由を不自由にしていることは言うまでもないが、それだけではなく、金平氏が指摘する「省庁の記者会見をみていてつくづく思うことがある。記者たちが質問をしなくなっているのではないか」に通じることであるが、ジャーナリズムはいかにあるべきかを認識できていない記者、問題意識を持たない記者の存在も、表現の自由を不自由にする要因であると思う。何故にジャーナリズムの世界に入っていくのか、それについてきちんとした考えを持つべきであるが、そういう思考のない記者もいる。

 ついでにいえば、地方議会の議員になりたいという者のなかに、議員としての職責とは何かを考えずに、軽い気持で、一定の地位と金をもとめてのみ立候補する人もいる。

 若者のなかに、かる~い気持でいきていこうという傾向をみることもある。

 話は戻して、本号には、そういう若者のために、ジャーナリストとはいかなる者であるかを考えてもらおうという善意が記されている。まだ全部を読んではいないが、その志向は評価に価する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする