オスプレイが事故をおこして死傷者がでた。しかし、アメリカ政府も、日本政府も「安全」を繰り返す。オスプレイは下記のコラムにみられるように何度も事故を起こしている。
今日の「中日春秋」である。
「権」という字には、「はかりのおもり」との意味がある。かつて度量衡を変えることは権力の象徴的な行為であったが、度量衡は今、国際的な約束事となり、簡単には変えられぬようになった
▼しかし尺度を恣意(しい)的に変えたがるのは、権力者の変わらぬ習性なのだろう。目を凝らしていないと、彼らは自分の都合のいいよう、しかも気づかれぬように物差しを変えるようだ
▼例えば経済産業省が示した試算によると、二〇三〇年の時点で、原発の発電コストは、風力発電の半分以下で、火力や水力よりも格安になるという。福島の惨事がいまだ収束せず、除染や賠償の費用は膨れ上がる一方なのに、なぜそうも低コストなのか
▼物差しを変えたからだ。同様の試算は二〇一一年の暮れ、脱原発を掲げた政権下で行われたが、今回はその時より事故の発生確率を半減させた。当然、専門家から異論が出されたものの、役所が押し切ったという
▼もう一つ例を挙げれば、米軍の輸送機オスプレイ。「寡婦製造機」と揶揄(やゆ)されるほど事故を起こしていたが、米軍は事故の重大さを示す損害額の基準を倍に引き上げていたそうだ。尺度を変えれば、重大事故の数など簡単に減らせるのだ
▼権を『日本国語大辞典』で引けば、「はかりのおもり」に続いて「臨機応変の処置。便宜的な手段。方便」とある。尺度を方便で変える権威の軽さよ。
原子力発電所(核発電所)も「安全」、それもご丁寧に“絶対”がついた「安全」を政府や「原子力ムラ」の住人は語っていた。しかし3・11。
そして今度は、「国民の安全」を図るために、「戦争」をする、それも自国が攻撃もされていないのに、他国のために軍事行動を展開するというのだ。
かくも、日本の「安全」は軽くなっている。日本の「安全」は、実際は「危険」と同義語になっている。ことばの本来の意味を取りもどすことが必要だ。