今月号の『世界』に、「晩年の吉野作造」(三谷太一郎)という文が載っている。政治学者・吉野作造は1933年3月に亡くなった。1933年といえば、すでに「満州事変」が始まり、まさに日本が国際連盟を脱退した年である。その後、アジア太平洋戦争、そして敗戦へとつながる時期、日本近代史のなかでもっとも暗い時代であった。
吉野は、大正デモクラシーの旗手であった。そして死の直前まで、民主主義の敵である軍部の台頭に抗して闘い、「一粒の麦」として去って行った。
今また、吉野が晩年に体験したような時代状況に生きる羽目になるとは思わなかった。しかし、吉野のように、生きていきたいと思う。
さて、昨夜、嵐の中、地域における平和運動をどのように展開していったらよいかという会議に出席した。
実質的な壊憲策動がおおっぴらに展開されているなか、どのような運動が求められているか。
もちろん、参加者は、永年平和運動を担ってきた人々だ。いろいろな意見が出されたが、「これだ」というものは出てこない。よくよく現実を視ると、否定的な状況が山積みされているからだ。
平和運動の担い手でもあった労働組合は、「連合」という平和には無関心な全国組織に支配され、マスメディアは政府の広報機関と成り下がっている。多くの国民は格差社会の下、それ相応の生活に満足しなければ生きていけない状況に追い込まれ、平和が大事だと考える人々も「統一」した運動を展開するでもなくバラバラになっている。
だがしかし、1930年代はどうだったのだろう。1930年代も反戦平和を求めて動いていた少数の人々がいた。吉野作造もその中の一人だ。
1930年代、どのような動き(運動)があれば、戦争を阻止することができたのだろうか、という視点から、「戦前」をもう一度振り返ってみる必要があるのではないか。
吉野は、反軍のために、無産政党の「合同」を進めようとした。しかしその「合同」した組織の中に「親軍」的な勢力が入り込んでしまい、そうした勢力が大きくなってしまった。
だが、吉野がめざした「合同」は、考える価値があると、ボクは思う。ただ、ボクは某政党がよくつかう「共同」ということばにはどうも違和感をもつ。1960年代後半から70年代に主張された、「統一戦線」ということばが好きだ。
吉野は、大正デモクラシーの旗手であった。そして死の直前まで、民主主義の敵である軍部の台頭に抗して闘い、「一粒の麦」として去って行った。
今また、吉野が晩年に体験したような時代状況に生きる羽目になるとは思わなかった。しかし、吉野のように、生きていきたいと思う。
さて、昨夜、嵐の中、地域における平和運動をどのように展開していったらよいかという会議に出席した。
実質的な壊憲策動がおおっぴらに展開されているなか、どのような運動が求められているか。
もちろん、参加者は、永年平和運動を担ってきた人々だ。いろいろな意見が出されたが、「これだ」というものは出てこない。よくよく現実を視ると、否定的な状況が山積みされているからだ。
平和運動の担い手でもあった労働組合は、「連合」という平和には無関心な全国組織に支配され、マスメディアは政府の広報機関と成り下がっている。多くの国民は格差社会の下、それ相応の生活に満足しなければ生きていけない状況に追い込まれ、平和が大事だと考える人々も「統一」した運動を展開するでもなくバラバラになっている。
だがしかし、1930年代はどうだったのだろう。1930年代も反戦平和を求めて動いていた少数の人々がいた。吉野作造もその中の一人だ。
1930年代、どのような動き(運動)があれば、戦争を阻止することができたのだろうか、という視点から、「戦前」をもう一度振り返ってみる必要があるのではないか。
吉野は、反軍のために、無産政党の「合同」を進めようとした。しかしその「合同」した組織の中に「親軍」的な勢力が入り込んでしまい、そうした勢力が大きくなってしまった。
だが、吉野がめざした「合同」は、考える価値があると、ボクは思う。ただ、ボクは某政党がよくつかう「共同」ということばにはどうも違和感をもつ。1960年代後半から70年代に主張された、「統一戦線」ということばが好きだ。