浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

風刺画

2015-05-06 09:45:52 | メディア
 風刺画というのは、支配者や権力をもっている人間、権威などを、笑いを織り交ぜながら批判する絵である。

 フランスの『シャルリー・エブド』による、ムハンマドの「風刺画」が契機となってテロ事件が起きたことは記憶に新しく、またアメリカではムハンマドの風刺画展に関してまた事件が起きた。

 以前にも、「表現の自由」はどのようなことでも表現できるのかと問うたとき、それは違う、というのが、共通のコンセンサスとなっているはずだと書いた。人種差別などを肯定し、それを声高に叫ぶのは、「表現の自由」か。東京や大阪などで行われているヘイトスピーチは、「表現の自由」により権利として認められることなのか。ノーというしかない。

 では、『シャルリー・エブド』の場合はどうか。

 『Journalism』5月号で、清水勲氏は次のように書いている。

敵、すなわち風刺する対象がよくわkらないところにある。敵はイスラム教なのか、ムハンマドなのか、それともイスラム教徒なのか。風刺の対象とする権力には宗教が含まれるのか。このように敵が一見してよくわからない画は、風刺画といえないのではないか。

「ムハンマド描写画」の最大の弱点は、世界中に15億人いるイスラム教徒を悲しませたところにあるのではないか。物言わぬ人々(弱者)を傷つける画は、風刺画とは言わない。

言論の自由を唱えれば何を描いても良い、というものではない。そこには良識というブレーキが必要だ。それが利かなくなると、傷つく人々がいることを忘れてしまう。とくに宗教に関することは良識で配慮しなくてはならない。そして、風刺画を描くなら、敵(過激派組織やテロリストなど)を明確にして描くべきだろう。
 ところで、「シャルリー・エブド」は何故、くり返し「ムハンマド描写画」を描いてきたのだろうか。それは、フランス社会にある反イスラム感情、反移民感情の表れなのではないか。フランス社会でイスラム教徒は人口の7%であり、同誌は、描写画という手段でフランスの少数派宗教を侮辱してきたといえるのではないか。


 ボクも、『シャルリー・エブド』のムハンマドの「風刺画」を、差別的な画だと思う。民衆を苦しめ、痛めつける権力者や権威に対して抵抗するという風刺画の本質が見えないからである。

 
コメント
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