西村一之牧師の「説教」を読む。聖書を真剣に読んだことのない私にとって、理解することが難しい箇所がたくさんある。だけど、ところどころに、同意というか、心に響くものを発見する。
北九州の各地で、たくさんの方が亡くなられた。その人たちや、その周囲にいる人々の悲しみを思う。遠方に住む私は、そうしたことしかできない。その他では、義援金を送るくらいだろうか。今朝新聞を見ながら、もどかしさを感じていた。
西村先生の「説教」のなかに、こういう描写がある。
最後の晩餐のとき、イエスは弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭くということをされた。ペテロは、恐れ多いと思ったのか「私の足を洗わないでください」と。
これをどう考えるか、ということであるが、そこにキリストの愛があるという。主イエスによって、当時は奴隷や下層の身分の者が行っていた足を洗うという行為を、主がなされた。あなただったらどうでしょう、足を洗ってもらえますか?
私なら、みずからよりも途方もなく立派な方にそういうことをさせてはならないと思い、ペテロと同様のことを言うだろう。そもそもそういうことを他人にしてもらうなんてことは考えない。
なぜイエスはそうしたのか、天に帰るその時に、弟子たちに自らの愛を刻印しようとしたのだろうか。
西村先生は縷々話を展開していくのであるが、こういう箇所があった。
わたしたちは心の中でですね、たくさんの友人、知人、家族がおります時に、その人のことをおもうっていうのは、その人のために場所を空けているわけですよ。その場所には他の人を入れさせません。
心の中に、その人の場所を空けておく。これもすばらしいことばだ。
西村先生は、この話を死との関わりの中で話し始めている。
私の周囲から、知っている方々が亡くなっている。その一人一人を、私は思い浮かべることができる。それは、心の中に、その人たちの場所を空けているからだ。思い出すということは、その空いている場所、その人しか入れない場所、そこにその人を招くということだろうか。
しかし私はふと思う。私が個人的に知らなかった人々にも「場所」をあけておこう、と。福島原発で自殺した方、戦争で非業の死を迎えさせられた人々、シリアやイラクで殺された人々、今度の災害で命を落とした人々・・・・・・・・・その人たちのことを思うために。
私たちには、いつも想像力が必要だ。
なお、この『まぶねのかたへに』は、聖隷クリストファー大学の図書館にあります。
北九州の各地で、たくさんの方が亡くなられた。その人たちや、その周囲にいる人々の悲しみを思う。遠方に住む私は、そうしたことしかできない。その他では、義援金を送るくらいだろうか。今朝新聞を見ながら、もどかしさを感じていた。
西村先生の「説教」のなかに、こういう描写がある。
最後の晩餐のとき、イエスは弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭くということをされた。ペテロは、恐れ多いと思ったのか「私の足を洗わないでください」と。
これをどう考えるか、ということであるが、そこにキリストの愛があるという。主イエスによって、当時は奴隷や下層の身分の者が行っていた足を洗うという行為を、主がなされた。あなただったらどうでしょう、足を洗ってもらえますか?
私なら、みずからよりも途方もなく立派な方にそういうことをさせてはならないと思い、ペテロと同様のことを言うだろう。そもそもそういうことを他人にしてもらうなんてことは考えない。
なぜイエスはそうしたのか、天に帰るその時に、弟子たちに自らの愛を刻印しようとしたのだろうか。
西村先生は縷々話を展開していくのであるが、こういう箇所があった。
わたしたちは心の中でですね、たくさんの友人、知人、家族がおります時に、その人のことをおもうっていうのは、その人のために場所を空けているわけですよ。その場所には他の人を入れさせません。
心の中に、その人の場所を空けておく。これもすばらしいことばだ。
西村先生は、この話を死との関わりの中で話し始めている。
私の周囲から、知っている方々が亡くなっている。その一人一人を、私は思い浮かべることができる。それは、心の中に、その人たちの場所を空けているからだ。思い出すということは、その空いている場所、その人しか入れない場所、そこにその人を招くということだろうか。
しかし私はふと思う。私が個人的に知らなかった人々にも「場所」をあけておこう、と。福島原発で自殺した方、戦争で非業の死を迎えさせられた人々、シリアやイラクで殺された人々、今度の災害で命を落とした人々・・・・・・・・・その人たちのことを思うために。
私たちには、いつも想像力が必要だ。
なお、この『まぶねのかたへに』は、聖隷クリストファー大学の図書館にあります。