今日、頼んでいた岩波新書『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』が届いた。むろん、届いたばかりで全く読んではいない。
矢内原の本を唯一冊持っている。『帝国主義下の台湾』である。霧社事件の調査で台湾に行ったことがある。そこで「原住民」(日本ではこのことばは差別語であるが、台湾ではこうのことばを使う)の高齢の女性から、戦時下から戦後の体験を伺った。すこし古い感じの日本語でいろいろなことを話してくれた。
その話の中で私が気付いたのは、1945年の敗戦と同時に日本では戦争とか集団的な暴力(内戦)がなくなり、「平和」のなかで生活するようになった、しかし台湾はそうではなかったということである。
日本軍が去っていったあとに中国国民党(軍)が来て、いなくなった日本人のあとに入り込んだ。いなくなった日本人は管理職であった。中国大陸からきて管理職になった人は、横暴で、権威主義的で、野蛮で、日本人がいたときのほうがよかったと思ったという。そして1949年、大陸が中華人民共和国になったとき、大陸から多数の中国人が押し寄せてきた。台湾はもっとひどいことになった。
そういう歴史を、個人の体験をもとにして話してくれた。
私は、あまりに台湾の歴史について無知であることを思い知らされ、台湾に関係する本を買いあさった。そのときの一冊がこの本だ。
そして矢内原については、無教会派のクリスチャンである故溝口正先生から何度も聞いたことがある。溝口先生は、確か矢内原と会っていた。その話を聴いたことがあるし、溝口先生も何度か書いておられた。
この本が出版されたことを知り、これは読まなければと思った。
私はクリスチャンではないけれども、溝口先生らから生きる上での教えをたくさんいただいている。おそらくそれは、無教会派のクリスチャンが受け継いできたものなのだろうと思う。
そのひとつは強さ、である。みずからの信念を曲げない、自己に対して妥協を許さない、ということだ。強さを担保しているのは、おそらく神の存在なのだろう。その強さをうらやましく思ったこともある。
それから無私ということだ。現世における「利益」(経済的、政治的、社会的・・・・)を求めない、ということである。だから、溝口先生の語ることは、純粋な動機から語られるから、説得力があった。私は先生の依頼に対して、一度もいやですと言ったことはない。自己のためではない、人のため、社会のため、あるいは神のためだったのかもしれないが、自己の利益のためでは決してなかったからである。
ただクリスチャンが皆そうであったかというと、そうではない。教会内での立身出世を図るようなクリスチャンもいた。だから人それぞれ、ということなのかもしれないが、しかし無私という献身は、クリスチャンに多いと思う。要するに人格者が多い。
私は、かつてはいろいろな運動に関わっていた。もちろん今でも関わっている運動があるけれども、運動圏内で、無私ではなく、己の立身出世のために運動を利用する人もいたし、あるいは私を排斥する人もいた。運動をする人々は善意の人が多いと思うが、しかしそういう人の中に無私ではない側面を持つ人を発見するときがある。私はそういう人からは遠ざかる、関わらない。
最近ストレートに権力者に食い下がる『東京新聞』の望月記者(女性)が賞賛されているけれども、男性には望月さんのような人は少ないと思う。男性には、どこかに「欲」(出世欲、承認欲、金欲・・・・)があり、その「欲」のために自重したり、忖度したり、あるいは「空気」をよんだり、己自身をストレートに表さない者が多い。私は、なぜか、そういう「欲」を持つ人かどうかを見分けることができる。
それは、「欲」をもたない無私の人間を見てきたからである。
人々との交流の場に出ると、そこには「欲」を持った人が必ずいる。こころのなかから、関わりたくない、という声が聞こえる。
今日も私は夕方畑に出た。作物を育てる農業には、「欲」はない。自然のあり方に従うしかない。今は、キュウリが豊作で、毎日10本程度収穫する。もちろん自家消費はできないので、隣人や親戚に分ける。あるいは隣で農業をしている人の畑でナスができないというとナスをわけてあげ、かわりにトマトをもらったり・・・・「欲」のない人間関係、助けあいの関係、こういう人間関係はとてもラクである。
人々との交流の場から離れたい、という気持ちが強くなっている。エラくなりたい人が多いから。
さて『矢内原忠雄』を読み始めよう。
矢内原の本を唯一冊持っている。『帝国主義下の台湾』である。霧社事件の調査で台湾に行ったことがある。そこで「原住民」(日本ではこのことばは差別語であるが、台湾ではこうのことばを使う)の高齢の女性から、戦時下から戦後の体験を伺った。すこし古い感じの日本語でいろいろなことを話してくれた。
その話の中で私が気付いたのは、1945年の敗戦と同時に日本では戦争とか集団的な暴力(内戦)がなくなり、「平和」のなかで生活するようになった、しかし台湾はそうではなかったということである。
日本軍が去っていったあとに中国国民党(軍)が来て、いなくなった日本人のあとに入り込んだ。いなくなった日本人は管理職であった。中国大陸からきて管理職になった人は、横暴で、権威主義的で、野蛮で、日本人がいたときのほうがよかったと思ったという。そして1949年、大陸が中華人民共和国になったとき、大陸から多数の中国人が押し寄せてきた。台湾はもっとひどいことになった。
そういう歴史を、個人の体験をもとにして話してくれた。
私は、あまりに台湾の歴史について無知であることを思い知らされ、台湾に関係する本を買いあさった。そのときの一冊がこの本だ。
そして矢内原については、無教会派のクリスチャンである故溝口正先生から何度も聞いたことがある。溝口先生は、確か矢内原と会っていた。その話を聴いたことがあるし、溝口先生も何度か書いておられた。
この本が出版されたことを知り、これは読まなければと思った。
私はクリスチャンではないけれども、溝口先生らから生きる上での教えをたくさんいただいている。おそらくそれは、無教会派のクリスチャンが受け継いできたものなのだろうと思う。
そのひとつは強さ、である。みずからの信念を曲げない、自己に対して妥協を許さない、ということだ。強さを担保しているのは、おそらく神の存在なのだろう。その強さをうらやましく思ったこともある。
それから無私ということだ。現世における「利益」(経済的、政治的、社会的・・・・)を求めない、ということである。だから、溝口先生の語ることは、純粋な動機から語られるから、説得力があった。私は先生の依頼に対して、一度もいやですと言ったことはない。自己のためではない、人のため、社会のため、あるいは神のためだったのかもしれないが、自己の利益のためでは決してなかったからである。
ただクリスチャンが皆そうであったかというと、そうではない。教会内での立身出世を図るようなクリスチャンもいた。だから人それぞれ、ということなのかもしれないが、しかし無私という献身は、クリスチャンに多いと思う。要するに人格者が多い。
私は、かつてはいろいろな運動に関わっていた。もちろん今でも関わっている運動があるけれども、運動圏内で、無私ではなく、己の立身出世のために運動を利用する人もいたし、あるいは私を排斥する人もいた。運動をする人々は善意の人が多いと思うが、しかしそういう人の中に無私ではない側面を持つ人を発見するときがある。私はそういう人からは遠ざかる、関わらない。
最近ストレートに権力者に食い下がる『東京新聞』の望月記者(女性)が賞賛されているけれども、男性には望月さんのような人は少ないと思う。男性には、どこかに「欲」(出世欲、承認欲、金欲・・・・)があり、その「欲」のために自重したり、忖度したり、あるいは「空気」をよんだり、己自身をストレートに表さない者が多い。私は、なぜか、そういう「欲」を持つ人かどうかを見分けることができる。
それは、「欲」をもたない無私の人間を見てきたからである。
人々との交流の場に出ると、そこには「欲」を持った人が必ずいる。こころのなかから、関わりたくない、という声が聞こえる。
今日も私は夕方畑に出た。作物を育てる農業には、「欲」はない。自然のあり方に従うしかない。今は、キュウリが豊作で、毎日10本程度収穫する。もちろん自家消費はできないので、隣人や親戚に分ける。あるいは隣で農業をしている人の畑でナスができないというとナスをわけてあげ、かわりにトマトをもらったり・・・・「欲」のない人間関係、助けあいの関係、こういう人間関係はとてもラクである。
人々との交流の場から離れたい、という気持ちが強くなっている。エラくなりたい人が多いから。
さて『矢内原忠雄』を読み始めよう。