昨日図書館から借りた栗原康『村に火をつけ白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店)を読み終えた。読みたくはなかったが、秋に伊藤野枝について語ることになっているので、仕方なく読んだのだ。
栗原が書いたものは、いつもみずからの人生を肯定するために、対象とする人物をみずからに引きつけて書いていくというきわめて主観的な内容で綴られる。歴史上の人物を客観的に捉えるのではなく、みずからの主観で、みずからの考え方、みずからの生をそこに書き込んでいく。その点では、きわめて傲慢な書き方である。描かれた人物に失礼ではないかと思うほどだ。
「あとがき」によれば、最近栗原に久しぶりに彼女ができたようだ。
かの女ができた。三年ぶりだ。まだつきあいたてということもあって、ひたすら愛欲にふけっている。好きで、好きで、好きで、どうしようもないほど。セックスだ。・・・・(163)
だから栗原は、この視点で野枝を捉える。
たとえば、1916年4月、野枝が辻潤の所から出て千葉県の御宿、上野屋旅館に行き7月まで滞在する。
その間どうしていたのかというと、大杉が三度ほど遊びにきていて、おたがいめちゃくちゃに愛欲をむさぼっていたようだ。
これは栗原の想像である。そうだったのかもしれないが、そうでなかったかもしれない。根拠なき想像。
そのあと、野枝は辻とのあいだに生まれた流二を里子に出す。
捨てたのだ。わが子を。ちきしょう、ちきしょう、どうしようもない。でもここからの野枝はほんとうにつよい。こうなったらもうなんだってやってやる。もう、なにもうしなうものなんてないのだから。野枝の体がだんだん軽くなる。いくぜ、大杉。野枝は、速攻で大杉の下宿先にころがりこんだ。だいたい、自由恋愛にルールだなんだのといって、経済的自立や別居を求めていたことのほうがおかしいのである。恋愛は自由だ。好きなときに、好きなだけ愛欲をむさぼればいい。約束なんてまもれない、結婚も自由恋愛もしったことか。野枝の自由度がどんどん増していく。そうだ、かましたれ。(84)
ここには多額の借金を負い(彼はそれを自慢げに各所で書いている)、経済的自立なんか考えない栗原のみずからの人生を投影している。彼にあうと、描かれた人物が栗原の現在と同化されてしまう。
「あとがき」で栗原はこう書く。
ながながと自分のはなしをしてしまったが、いいたかったのは野枝のよさもそこにあったんじゃやないかということだ。(167)
自分と同じだから、野枝に「よさ」がある、というのである。但し自分と同じといっても、自分勝手に自分と似ているだろうと主観的に思えたことについてとりあげ、野枝を材料にして自分自身を語る、それが栗原流なのである。
たとえば1918年の米騒動の記述がある。米騒動はたしかに最初は富山の漁民の主婦たちが騒ぎ、それが報じられたことから全国に波及していったのだが、各地でおきた米騒動の主役は男であった。栗原は米騒動を女性の運動であると説明している。
大杉がみた米騒動は、いわば主婦たちの暴動である。米価の高騰で、コメが買えない。だったらということで、主婦たちが米屋をおそい、その場で廉売所をつくらせる。こっちが買える値段で、やすく売らせるのだ。それでも買えなければ、カネもはらわずにもっていく。米屋がいやがれば怒鳴りつけ、下駄をなげつける。それでもきかなければ、放火である。どうせ食えないならば、コメごと燃やしてしまえと。警察がでてきたら、おっちゃん、あんちゃんたちも加勢して、なぐる、けるに、投石、投石だ。数万人の力でおしかえす。圧勝だ。(116)
しかしこの記述は栗原の想像である。事実ではまったくない。こうしたみずからの想像を根拠にして、彼は筆を進め、「米騒動の主婦たちは」、「夫をたよる必要なんてない、カネなんてなくてもなんとかなる、コメをもちさり、食らって生きる」という「感覚を手にしている」とする。
この本はやはり読む必要はなかった。昨日読み終えたのだが、今朝
『日刊ゲンダイ』のHPを見ていたら、高市早苗という政治家が若い頃書いた本の紹介があった。
栗原が書く野枝像と、高市が重なるのだ。その一部。
1992年の参院選に初出馬(落選)する1カ月前に刊行した自伝的エッセー、「30歳のバースディ その朝、おんなの何かが変わる」(大和出版)だ。
プロローグで〈恋の話をいっぱい書くことにした〉〈「頭の中は恋のことでいっぱい」のプライベートライフには呆れられてしまうかも〉と宣言した通り、男性遍歴を赤裸々に記している。驚くのは〈お酒の思い出といえば、地中海で、海の見えるホテルの部屋で、飲みィのやりィのやりまくりだったときですね〉と、カンヌでの情事まで洗いざらいブチまけていること。
〈それでウフフフフ……。朝、寝起きに熱いシャワーを浴びながら、彼が選んでくれた極上の赤ワインをいきなり飲み始める。バスローブのまま〉〈ルームサービスを食べるときも当然、ベッドで裸の上にブランケットを巻いたまま〉〈彼がすばらしいテクニックを持っていることは言うまでもない。トコトン、快楽の境地におぼれられる相手じゃないと話にならないわけ>――やれやれ。
全編これ、バブル臭が漂うが、気になるのは、高市大臣が恋に落ちる男性の特徴だ。本編には7人の交際男性が出てくるが、年上と分かるのは1人きり。執筆当時も年下男性と付き合っていたようで、〈三〇歳を過ぎて二五歳の若いピチピチした男の子をたぶらかすなんて、犯罪じゃないかという気がしていた〉〈でも、私は二〇代のときよりもいまのほうがいいカラダをしているかなって思う〉と打ち明けている。
栗原が「良い」と思う生き方を高市もしている。してみると、高市もアナキストなのだろうか。
伊藤野枝をきちんとみつめることが必要だ。同じ頃に岩波書店から出版された、田中伸尚の『飾らず、偽らず、欺かず』に描かれた野枝像こそ真実に近い。栗原は、人間がもつ機微を理解できない。栗原にとって重要なことは、カネと女(愛欲)なのだ。