歴史を叙述するときにその根拠となるのは史料である。
今、NHKの大河ドラマで、井伊直虎を取り上げているが、そのほとんどはフィクションである。なぜか、史料がほとんどないからである。私のところにも直虎について話して欲しいと言ってくる人がいるが、私は歴史は話すがウソは話せないと言って断る。
さて、最近政治家の中で、その当時に書かれた「記録」よりも、現在の「記憶」のほうを優先して語る者がいる。驚くべきことだ。歴史学では、その当事者が、その時に記した「記録」を最優先する。
今回の加計の獣医学部新設問題では、山本大臣が獣医師会を訪問して語ったことが議事録として残っていてそれが報じられたが、山本大臣はそれを半ば否定している。
どちらが史料価値が高いかと言えば、一方の当事者である獣医師学会がその時に作成した議事録である。問題となっていることを隠さなければならなくなった大臣の現在の「記憶」は、明らかにウソをつかなければならなくなった状態でのそれであるから、史料価値はほとんどない。
安倍政権、首相から大臣、それに官僚まで、よくもまあ嘘をつき続けることができるものだと関心してしまう。嘘で塗り固めた安倍政権。その中には、ウソをついてはいけないよと教える立場の文科省の大臣、副大臣もはいる。
みっともない政権ではある。
https://mainichi.jp/articles/20170721/k00/00m/010/102000c?fm=mnm