浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

絶望的な「大阪維新の会」

2021-04-28 22:17:07 | 政治

失敗だらけの大阪のコロナ政策は検証せず、図書館批判を見当違いの自称ファクトチェックする維新。もちろんそれも「ファクトチェック」チェック

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『週刊金曜日』5月7日号

2021-04-28 21:37:51 | 

 水曜日なのに、『週刊金曜日』が届いた。いつもながら、重い課題が並んでいる。

 まず最初に「金曜日から」というコラム欄。編集担当者の落書きみたいなもので、巻末にある。そこで土井伸一郎さんが村山由佳の『風よあらしよ』に言及し、伊藤野枝を描いた瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』、『諧調は偽りなり』を読み返したこと、そして田中伸尚さんの『飾らず、偽らず、欺かず』(岩波書店)、すでに亡くなっている松下竜一さんの『ルイズ 父に貰いし名は』を連休中に読もうとしている、と書かれていた。伊藤野枝を主観のままに書き上げ、そこに自己を投入し、史実をねじ曲げてかかれた栗原康の本に言及していないことがよい。私は栗原本を読んで怒りを覚えた。その批判をこのブログでも記したが、某誌にも載せた。岩波があんな本を発刊したことに驚いた。

 さて、最近行われた国政選挙で野党陣営が勝利したことが書かれていた。そこに山口二郎が書いているが、小選挙区制という「制度に対する評価は別として、小選挙区で勝たなければ、政治を変えることはできない」と。その通りではあるが、そういう制度の成立に旗を振ったのは誰かと問いたい。私は山口を許していない。

 特集は「コロナと五輪は両立しない」。当たり前のことだ。「東京五輪は“一大感染イベント”になる」という飯塚真紀子さんの言う通りである。全メディアが、五輪はやめよう!というキャンペーンをやったらどうかと思ったが、しかし主要な新聞社がオリンピックのパートナーになっていたことを思い出した。この点でも、私は新聞社を信用しない。カネまみれのオリンピック、汚辱にまみれたオリンピックを、新聞社が支えているのだ。

 福島原発事故の汚染水の海洋放出についての、満田夏花さんの政府東電のウソを指摘している。

 米中対立に関して日本が米中戦争に巻き込まれる、巻き込まれるどころか前線になる可能性があり、この問題はもっと真剣に考えていかなければならない。柳澤協二さん、猿田佐世さん、泉健太議員の座談会が載せられている。柳澤、猿田さんの主張は明快だ。しかし、私は立憲民主党をまだ信用できないままである。

 次はミャンマー問題。日本政府や日本企業がミャンマー国軍と深い関係にあり、国軍のクーデターにも沈黙している。日本政府、日本企業はカネ儲けには血眼になるが、倫理や正義については考えない。野獣のようである。ミャンマーの蛮行を、日本が支えている。朝鮮戦争でも、ベトナム戦争でもそうだった。日本経済は血の臭いを嗅ぎつけるのだ。

 宇田有三さんの「多くの国は国防のために軍隊を維持しているが、ミャンマーは「軍が国を持つ」特異な体制です」に納得。

 その言い方にならって、現在の日本は、「多くの国は国防のために軍隊を維持しているが、日本はアメリカのために軍事力をもつ特異な国家です」。

 ほとんど読んでしまった。

 最後に、「論考」の「医療従事者は我慢の限界です」という看護師さんが書いた文に同感し、同時に政府、大阪や東京などの自治体に怒りを覚えた。 

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絶対の自信

2021-04-28 06:49:35 | 社会

 こういう人が官僚になっているのか、という思いである。池袋の事故。

 私も初代プリウスから、現在もプリウスに乗っているが、今まで車が自分の意思に反して動いたことは一度もない。流石にトヨタの技術の粋を集めただけはあると思いながら運転している。

 いつもは速度をあげずに走る癖がついている。10年ほどはバス通勤をしていたので、バスの速度・時速30㎞程度の走りに体が慣れているからだが、それでも何らかの約束をしたときには、少し速度をあげている自分を発見する。

 さてかの飯塚某も、おそらくフレンチを食べに行くということから、それを意識しながら運転していたであろうから、速度を出していただろうと推測する。そして速度を上げてしまって事故。松永さんの奥さんと子どもを殺してしまった。そして他の人も傷つけてしまった。

 ふつうの人格なら、自分自身がしてしまったことに対して、強烈な自己嫌悪と自己反省、後悔、相手に対する強い謝罪意識がわきあがるはずである。しかし飯塚某は、車が勝手な動きをしてしまった、という。おそらく飯塚の家族も飯塚某に意見をしているのだろうが、聞く耳を持っていない。それほどに飯塚某は、自分自身が「正しい」という絶対的な自信をもっているのだろう。

 そこには絶対的なエリート意識があると思う。官僚の世界は、そういう意識をいつのまにか育んでしまう。オレはエラいんだ、という自意識。間違いを認めないという意識は、官僚には必ずある。

 国家無謬説を、官僚たちは体現する。官僚は政策を計画し実現していく過程で、不具合をみつけることもあるが、それに対して反省はしない。国家は過ちをしないということから、官僚もみずからの過ちを認めてはならないのである。そういう体質が、今回の事故でも現れている。

 新型コロナウイルスに関して、厚労省の医系技官やそれに連なる「感染症ムラ」の住人たちも、いっさいみずからの間違いを認めず、死者が1万人をこえても、無為無策の出たとこ勝負で通している。感染した国民が悪いのだ、感染しないようにするべき国民が感染したのだから、それは自己責任だ、という無策。

 台湾やニュージーランド、オーストラリアなど、抑え込んでいる国があるのに、そこでの経験を学ぼうとしない。自分こそが正しいという絶対の自信。そういう官僚たちが、日本の歩む道を歪ませる。

 政治家はいうまでもないが、行政に携わる官僚たちもろくでなしが多いことが証明された。この隘路にある日本、そこから脱け出すためには、人々が賢明になるしかない。賢明な人々が、政治家や官僚を変えていくしかない。若しそれが出来なければ、日本は終わりだ。もうそうなりつつある。

 

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