今はもう亡くなっているが、劇作家の飯沢匡が書いた『武器としての笑い』(岩波新書)という本がある。そのなかに一休宗純について書いたものがある。
テレビ漫画の、あの一休さんのことであるが、本物の一休さんはなかなかの変わり者であったようだ。とはいえ、彼は後小松天皇の子、今で言えば「皇族」である。彼は、加藤周一から「『狂雲集』の一休禅師は悟道の高僧か,破戒の官能詩人か」などと言われている。
一休について、飯沢は「生まれながらにして差別(賤しいのだけが差別でなく貴いのも差別である)されたものの悲しみを我々は知らなくてはならぬ。」(154頁)と書く。天皇のこであるということで、一休は「差別」されるのである。
天皇(一族)は「身分」である。血統で決められるのであるから、「身分」というしかない。それに封建的とつけてもつけなくても「身分」であり、そのような「身分」が存在する限り、「平等」はない。
現在も天皇制という制度があり、その制度を担う一族である皇族は、ふつうの生活はできない。皇族はおそらく古代からの習俗と、近代の専制的な天皇制を構築したときに付加された天皇を装飾する儀式などに囲まれて、息苦しい日々を過ごしていると思われる。
さて、皇族のひとりの女性が、結婚したいと考えている。相手の男性もそのつもりである。日本国憲法は、その二人の合意があれば結婚できるとされている。しかしその男性にはいろいろな問題があり、それがメディアなどにより激しく報じられている。ふつうの人なら別にどんな男性と結婚しようが、あるいは離婚しようがそれは自由である。
ところが、皇族はそういうわけにはいかない。ふたりの結婚について、国民の多くは反対している。その理由は、女性が税金で生活してきて、また結婚すると皇籍を離脱するので高額のカネが支給されることになっている。そのカネが、「あの男」のものになる!ということに対する怒りのようだ。もしそのカネがなければ、人々が二人の結婚を批判することはまずないように思う。
私はこれに関しては、どうでもよい、とう意見である。婚姻の自由は憲法上の權利でもあり、婚姻は私的なことでもあるからだ。高額のカネといっても、アベノマスクに比べればたいしたカネではない。私は税金の使途という点から見れば、安倍晋三=自民党・公明党政権からスカ=自民党・公明党政権の浪費、じぶんの身内や支持者への湯水のように流された税金について怒るべきではないか、と思う。
また批判は、飯沢が言う「貴い差別」でもあるように思う。
私は、天皇制はなくすべきだとずっと思ってきた。天皇家のために、天皇家の人々を国民とすることにより(現在は、彼らは「象徴」という国家機関である)、彼らを解放してやるべきだと思っている。市井の人として生きていけばいいじゃないか。そのほうが幸せではないだろうか。そうすれば自由に結婚できるし・・・
どのような「差別」もあるべきではない、それが「貴い差別」であっても、である。