できるだけ買わないようにしようと思いながら、次々と注文した本が届く。その一冊である。
「佐藤優」という人が書いた文をいろいろな媒体でみる。しかし私は読まない。ずっと前からそうだ。私の勘が働くからだ。彼は「売文家」ではないかと思っていた。というのも、彼はいかなる媒体でも登場するからだ。ふつうはそれぞれの思想や立場により、出場する媒体は限られてくる。
私は、彼はカネ儲けしたいのだろうか、と思っていた。いかなる媒体にも書くということは、彼には思想も立場もないということである。見ていて(読んだわけではない)、もしあるとしたら体制を批判しないということだろうか。もと外交官だから当然だが。
さて本書は、佐藤批判の書である。佐高は、しかし佐藤といっしょに本を出している。佐高も人を見る眼がないということでもある。だが、佐藤の姿に我慢がならず、ついにこういう本を出したのである。
書名通りに佐藤批判が多い。まず佐藤にとってのタブーとして、池田大作、鈴木宗男、竹中平蔵をあげている。タブーというか、佐藤はこの3人にぞっこんなのである。池田大作・創価学会を天にまで祀りあげ、現実社会では鈴木宗男と行動し、竹中平蔵に入れあげている。
私にとって、彼から得るものはない。だから読まない。
佐高は本書で、佐藤優を「知識の“武器商人”」、「危険な思想家」、「矮小な思想家」、「自公政権のお抱え知識人」、「思想なきウンチクおたく」などと批判しているが、ならばなぜ佐藤と本を出したのかと思ってしまう。
彼が書くものを見渡すと、どうもカネの臭いがする。創価学会系の雑誌の原稿料はかなり高額だと聞いたことがあるし、池田大作をほめれば多くの学会員が買うだろう。そして体制とくっついていたほうが、絶対にカネは入る。
しかし本書は、佐藤批判は三分の一くらいで、あとは佐高がいろいろなところに書いた文である。いつものように、佐高は様々な書籍や雑誌から知識を得て、それらをもとにいろいろなことに対して厳しい批判をする。博識である。
その中で一つだけ紹介する。「社民党は女性主導で再出発を」という文であるが、私もそう思っているからだ。男はだめ。とにかく自分自身をエラク見せるために行動するからだ。そのため、「転向」も平気である。大日本帝国時代には権力による暴力が「転向」を強いたが、今は暴力を振るわなくても、出世や名誉の「褒美」をちらつかせれば、すぐに「転向」してしまう。私はそういう人たちを知っている。
佐高もその辺を知っているようだ。こう書いている。
新自由主義に対決する社会民主主義の必要性がますます高まっている時に、なぜ、社民党を解党して、代表や幹事長が疑問なく伊勢神宮に参拝する立憲民主党と合流しようと思うのか。そこに私は、男たちの拡大志向の出世主義の臭いをかぐ。多分、それは市民感覚と離れた労働組合運動の中で培われたに違いない。端的に言えば、自治労の都合で今度の騒ぎは引き起こされた。
佐高の言う通りである。社民党には地方組織があり地道に活動している人たちがいるけれども、その幹部は議員出身者が多い。そして彼らは、多くは労働組合上がりの人物であり、べつに社会民主主義についての知識なんか持たず、労働組合の幹部をしているなかで、組合の推薦により議員としてでてきた人である。思想があるわけではない。だからすんなりと立憲民主党でも、どこへでも「参加可能」なのである。
社民党は、総評・社会党として一体となって行動してきた。総評がしっかりしていれば、社会党もしっかりする。しかし総評がなくなると、社会党は漂流を始めた。その漂流船から次々と別の船に乗り換え、みずからの延命をはかる者がでてきた。今回の解党劇は、その最終仕上げである。すでに党首を務めていた吉田忠智や、幹部であった吉川某も立憲民主党へと移り、全国各地でその動きが活発化している。
私は社民党支持であるが、立憲民主党へ移った人々は、私のような支持者のことを何も考えないということだ。彼らは、「私はいなくなる、あとは知らん」ということなのだろう。
かくて私は、人間不信となる。
この本は、なかなか面白い。短時間で読むことができる。政治に関する雑多な知識を得ることができる。