スカ=自民党・公明党政権はじめ日本の支配層は、日本を畳もうとしている。日本に住む人々のいのちを守ろうともしない。そんな日本には、何の期待もなくなった。
上先生の正論。
スカ=自民党・公明党政権はじめ日本の支配層は、日本を畳もうとしている。日本に住む人々のいのちを守ろうともしない。そんな日本には、何の期待もなくなった。
上先生の正論。
暉峻先生は、近世文学の研究者である。とりわけ井原西鶴の研究をされていた。されていたというのは、もうお亡くなりになったからである。人間いつまでも生きてるわけにはいかないからさ・・・という声が聞こえてくるようだ。
さて本書は、近世の川柳を集めて解説を加えたものである。どんな川柳かと言えば、セックスにかかわるものが多い。それを先生は学問的に(と一応書いておかなければ)、そして軽妙洒脱に説明していく。 COVID-19がまん延する中、少しは笑いたいなあと思う方には、最適の本である。とにかく各所で笑わざるを得ない。おそらく先生も笑わせるぞという強い意図を持って書かれたはずだ。
しかし川柳であるからとバカにしてはいけない。川柳の中には、漢文の知識、それ以前の古典文学や歴史を背景にして書かれたものが多い。あなどるべからずである。
近世は読書文化が花開いた時代でもある。字を覚えた庶民は、本を読んだ。字を覚えなくても、絵が描かれていた。貸本屋もあんがいあったし、出前してくれる本屋もあった。今どきの本を読まない若者よりもよほどたくさんの知識を持っていただろう。
さて、先生は銭湯について蘊蓄を傾ける。まず川柳をあげる。「入込みはぬきみはまぐりごったなり」。言うまでもなく、近世の銭湯は混浴であった。混浴がなくなったのは1885年。明治の時代に入ってからだ。となると、この川柳は、そうした混浴の状態を活写したものだ。混浴の銭湯がなくなったので、ストリップなどが始まったのだと、先生はおっしゃる。
川柳とは無関係であるが、紹介されていたので書き留めておかねばなるまい。かの本居宣長先生であるが、彼の屋号は鈴の屋である。その理由を、暉峻先生はこう記している。
先生は二階に住んでおられて、机上に鈴をおき、もよおされた時に、それをチリンチリンと二ふりされると、奥方が上がってこられる。チリンチリンチリンと三ふりされると、おめかけが上がってくる、という仕組みになっていたことは、知る人ぞ知るである。(143)
川柳について、先生はこう書いている。
川柳を愛する庶民は、史書に登場する人物や事実だけに着目し、いかなるプロパガンダもいっさい受けつけない。それは匿名という絶好のかくれ蓑を着た彼らが、本来の庶民精神を発揮し、神さまであろうと、貴族であろうと、英雄であろうと、政治家であろうと、ひと皮むけば、「なにいってやがんだい、おれたちとおんなしことをやったんじゃねえか。」という信念にもとづき、その権威をみとめないからである。史上の人物にさまざまな制服を着せる史家に対し、その制服をぬがせ、人間として対等におつきあいを願うというのが庶民の史眼である。(145)
権威を、今風のことばでいえば、「脱構築」するのが川柳なのだ。権威とは、まわりの人間が権威と認めるから権威となるのである。そうなると権威は威張り出す。権威に威張らせてはならない、それが庶民の心意気というもんだ。
この本を読んでカラカラと笑い、コロナ禍の一服の清涼剤としたい。
日本の有権者で投票行為を行うのは、テレビを見る人びと。だからテレビに屢々出ていれば、選挙では安泰なのだ。それを大阪の首長たちは知っている。何もしなくても、ただテレビに出てさえいればいいのだ。それに応じて、テレビも彼らを何度も、あるいは恒常的に出演させる。
そういう構図が、とりわけ関西では続いてきた。