浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

山本太郎、頑張る!

2018-07-20 08:00:57 | 政治

カジノ法案強行採決!山本太郎が安倍政権の被災地無視に吠えた!「誰のために政治をやっているんだよ!」

 参議院のインターネット中継。1:05:00頃から山本太郎の怒り

http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php

 自民党、公明党という政党の、無慈悲な対応に怒りをもつ。

 賭博を推進する自民党、公明党。こういう政党が政権を握っていることを悲しむ。
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大学

2018-07-20 07:21:58 | その他
 首都大学東京という大学。もとは東京都立大学。私が高校の頃、名称は東京都立大学であった。朝鮮史の旗田氏、労働法の沼田稲次郎氏など、そうそうたる顔ぶれの教授陣がいた。私の高校からも、都立大に行った者もいた。

 それがいつしか、大学の名が変わった。石原慎太郎という人が都知事になってからだ。私はなんでこんな人が都知事になるのかと訝ったものだが、東京都民は石原氏が好きだったらしい。

 美濃部亮吉という学者を知事にした東京都民も、いつのまにか保守化したのか、あるいは都政なんかはどうでもよいと考えるようになったのか、その理由はとんとわからぬが、それ以降、都知事にはテレビなどにでる「有名人」が知事となっている。政策より「有名人」という傾向が強くなっているような気がする。それだけ都民の政治意識が低下しているということでもある。

 さて首都大学であるが、その名に変更された時に、なんでこんな名にしたのかと思った。

 今日の「朝日」デジタルに次のような記事があった。

「首都大」→「都立大」 認知度アップへ、旧名称復活?

 首長の権限が強くされた頃から、首長が勝手なことをやることが増えた。大学の改称や、大学の機構改革(たとえば横浜市立大学)など。どちらかといえば、右翼的な人がそういうことに口を出す。

 名称の変更は、歴史の消去でもある。名称の変更により、東京都立大学の歴史は消されたのだ。

 それとともに、不利益なことがおきたようだ。そしてまた、知事の意向によって旧名称に変えられるかも知れない。

 最近の施策は、トップダウン。人々の意見より、トップからの意見が実現されていく。そういう制度に変えられたのだ。それとともに、自治はなくなり、下意上達すら覚束ない。

 権力者による支配が強化されている。それを皆が受け容れる。独裁者が生まれるわけだ。
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平田篤胤のこと

2018-07-19 21:39:24 | その他
 平田篤胤と彼の神道を、私は信仰の対象としてではなく、近世末から近代初めにかけての国学的な思想の流れの一つとして、つまり学問の対象として読んだり、考えたりしています。

 信仰の対象とするということは、超歴史的に篤胤を捉えるということです。

 私はそういう宗教的な考えはありません。私は、篤胤が生き、人々が彼の著作なりを読んで門人となり、またその没後でも神官などが「没後門人」として活躍していたことを、その時代の特徴として歴史的に捉えようとしています。平田派の学問などが、当該期の歴史にどのような影響を与えたのかを考えるために、篤胤の著作などを読みます。

 横浜の方から、篤胤についてのコメントをいただきました。

 吉田麻子『平田篤胤  交響する死者・生者・神々』 (平凡社新書)も読みましたが、これは平田の思想を肯定的に捉えようとした、篤胤を学問的対象として描いた著作です。今、手元にありません(書庫)が、篤胤の思想を考える上で参考になりました。吉田麻子という方は、吉田神道とは無関係の方だと思いました。

 なお信仰の対象として捉えるということは、主観の中に篤胤を放り込むということでもありますが、私は無宗教なので、そういう方法はとりません。

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生活保護、利用者という呼称

2018-07-19 07:26:33 | 政治
 小田原市の生活保護行政が変わった。

「生活保護なめんな」ジャンパー問題から1年半、小田原市が進めた生保改革

http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/welfare/p-cassi/
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【演劇】エイコーン「松井須磨子」

2018-07-18 20:25:15 | その他
 今日は、観劇。栗原小巻さんの、ピアノの伴奏をバックにしての一人芝居である。約90分、休憩なしで演じ、歌い、語る。

 小巻さんが何才かは知らないが、貫禄がありましたね。それにあんなに声がハスキーだったかな、と思った。

 さて、ストーリーは、小巻さんが松井須磨子になって、語り、歌う。

 松井須磨子について、私は研究したこともないので、大雑把なことしか書けないが、1886年生まれの松井は、やはり日露戦争後、「文壇では硯友社一派の封建的遺習に対して自然主義、現実ばくろがさけばれ、個性の尊重、個人の解放が合言葉となり、政治的には軍部と藩閥批判、普選の要求、そして社会主義運動が頭をもたげ」(山川菊栄『二十世紀を歩む』)るなど、新しい動きの中に、松井はいた。

 イプセンの「人形の家」を好演し、新しい女性の生き方、一人の個人(人間)として生きることを、劇を通して示した松井須磨子。そのなかで、島村抱月とめぐり会う。松井須磨子と島村は、新劇運動を担う。ところが、島村は1918年、スペイン風邪により死去、翌年須磨子は、島村抱月を追って自死を選ぶ。

 抱月を追って自死を選んだ須磨子のことを考えると、果たして彼女は自立できていたのか、と思う。

 この時代の女性は、今よりも因習に縛られていたはずだ。家制度、男尊女卑などの因習を打ち破って新しい女性の生き方を、ノラを通して示したにも拘わらず、愛する男のあとを追って自死を選ぶ、というのは、どうなのだろうか。

 関東大震災のなかで虐殺された大杉栄、伊藤野枝。もし大杉だけが虐殺され、野枝が生き残った場合のことを想像すると、野枝は大杉のあとを追って自死を選ぶことはなかっただろう。

 **********

 新劇は、古典文学とともに、人生に問いかける。新劇を見ない人々は、損をしていると思う。

 さて、来年の上演候補作がパンフレットに載っていた。私は、前進座と加藤健一事務所の演劇は、好きではない。しかし、静岡県では、必ず入る。この二つの劇団、上演作品に思想性が感じられないからだ。
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驚き

2018-07-18 05:58:04 | その他
 昨日、豊田市の小学校で、校外学習をした一年生の子どもが熱中症で亡くなったというニュースがあった。そして今日、「朝日新聞」のこの記事を読んだ。

「エアコンある教室にとどまる勇気を」 熱中症の専門家

 しかし、エアコンのある教室? これを読んで驚いた。浜松市の小中学校で、エアコンが教室に入っているところなんかあるのか。私立は冷暖房完備をアピールしているが、公立学校は入っていないだろう。

 こんな暑い季節、猛暑の中で勉強させようなんて、もう無理だ。文科省の授業時数確保策の中で、夏休みが減っている。9月も暑い。

 学校にエアコンを入れるべきだ。

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2018-07-18 05:42:39 | 政治
 夢を見た。なぜか逮捕されたという夢だ。警察官は現れない。出て来たのは、検察官である。思想的な問題で逮捕されたようであった。検察官の質問が、そうしたものばかりであったからだ。女性の、あまり美人でない検察官の、「軍事に関わるな」という趣旨のことばが印象に残った。もう一人の検察官は、私の兄弟の数を間違えた主張をしていた。

 すでに安倍政権は、官僚を支配し、司法に関わる裁判官、検察官をみずからの手中に入れている。森友を起訴しなかった女性検察官は、函館に栄転したという情報が流れている。警察官は言うまでもない。伊藤詩織さんの事件で明らかなように、安倍周辺の人脈による命令で逮捕も阻止できるのである。

 国家権力は、強大な権力を持っている。憲法に保障された「人身の自由」すら奪うことが出来るのだ。実際に数々の冤罪がそれを証明している。

 安倍政権は、戦前治安維持法が猛威をふるった時代を理想としているようだから、安倍に対する反対勢力を、国家権力(警察、検察権力)をつかって、抑え込む施策にでてくるのではないか。

 私の夢は、その前触れかも知れない。この夢が、杞憂であったとなることを望む。

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【映画】「タクシー運転手~約束は海を越えて」

2018-07-16 20:53:22 | 映画
 韓国映画。1980年5月に実際にあった光州事件。全斗煥軍事独裁政権に抗して民主化運動を行った光州市民に、軍は銃器をつかい鎮圧を試みた。光州市を閉鎖し、韓国の軍隊は市民を無差別に殺戮した。その実際の姿は、隠されていた。しかしドイツのジャーナリストは光州に潜入し、軍が市民を殺戮する姿を撮影、数々の危険に遭遇しながらも何とか脱出し世界に報じた。

 この映画は、そのドイツ人ジャーナリストをソウルから光州に運び、そして脱出させたタクシー運転手を描く。

 前半部のタクシー運転手のある意味滑稽な日常生活は、金儲けのために外国人ジャ-ナリストを乗せてから、徐々に変化していく。タクシー運転手の日常生活からは想像できない出来事が起きていた。光州で何が起きているかを撮影に来たジャーナリストと同一行動をとるのだから、無数の危険と隣り合わせであった。

 ジャーナリストの問題意識を持っていなかったタクシー運転手は、しかし光州の状況、光州市民の怒りと闘いに触れる中で、彼自身も変化していく。光州の姿を世界に伝えて欲しい、これは抵抗する光州市民の意志であると同時に、タクシー運転手の意志となった。

 光州における軍と市民との行き詰まる闘い、市民に対して無差別に銃弾が撃ち込まれる。ジャーナリストとタクシー運転手は、それを見届け、世界に伝えるべく光州を脱出。

 光州事件は、世界に発信される。

 後半、私は拳を握りながら、必死に画面を追った。私の目は喰いいるように、事態の展開を追った。

 韓国は、このような過酷な歴史を経て、今がある。

 私は韓国史を勉強し、それを書いたことがあるが、韓国の近現代史は、壮絶であった。植民地支配、南北分断、朝鮮戦争、軍事独裁政権・・・・・・韓国市民の苦痛を日本人がどれほど同時代的に見つめていたのか。日本の責任は、実は重大である。私は、韓国のこうした歴史を繙く時、日本人としての責任を感じ、申し訳ないと思う。

 韓国の今は、光州事件など韓国の人々に襲いかかった圧迫や迫害と闘い、振り払ってきた歴史が支えているのである。とても感動的な映画である。多くの人に見てもらいたい。

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スルガ銀行の不正融資

2018-07-16 08:35:39 | その他
 私は某社の辞典で、岡野喜太郎のことを書いたことがある。岡野喜太郎は、スルガ銀行の創始者である。スルガ銀行の会社沿革史にも、岡野喜太郎のことが記されている。

https://www.surugabank.co.jp/surugabank/corporate/history/#event-1887

 岡野は、地域住民の経済生活の向上を助けるという扶助の精神で金融事業を営んでいた。そうした創業の精神を知っている私は、今回の不正融資の事件が大きく報じられている中、スルガ銀行に匿名で創業者の精神を踏みにじることのないようにというメールを送った。創業者が地下で泣いているだろう。

 しかしスルガ銀行は、みずからの不正について、表面では謝罪をしながらも、実質的には居直っているようだ。信用を失った金融機関がどうなるか。

 スルガ銀行の創業者一族は、長泉町にビュッフェ美術館を持っている。またその周辺にも、いくつかの施設を展開している。

 私はスルガ銀行に口座を持っているわけではない。しかしビュッフェ美術館に何度も足を運び、また創業者の精神を評価したことから、スルガ銀行に特別の思いをもっていた。

 もうスルガ銀行に対するプラスの評価は捨てるべきである。

 ただ、高額の借金をした人々、うまい話にはウラがある、のである。ほんとうに儲けられるものは富豪らがすでに行っていて一般の人には渡さない、ということを知っておくべきだ。うまい話には、詐欺と虚構が隠されている。

 なぜか、そんなことで金が儲かるわけがないというような詐欺的な儲け話に投資している人々がなくならない。騙されやすいのだろうか。それとも金がありすぎて詐欺的なものにも投資してみようとおもうのだろうか、一か八かだ!というように。

 スルガ銀行の行ったこと、それが公になったとき、その後のスルガ銀行の対応には、驚き呆れたが、ふつうの人々は、詐欺的な儲け話にのらないことを肝に銘じるべきである。

「優等生」称賛の裏で恫喝や重圧 スルガ銀、不正の構図
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猛暑の夜

2018-07-15 23:33:24 | その他
 エアコンを稼働させないと眠れない時期になった。快適な温度にした状態で、私はAmazonMusic、あるいはクラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Labelで、クラシック音楽を流し、本を読んだりしている。

 今は、フジ子ヘミングのピアノ。彼女の演奏は、手編みのようだ。編み棒がピアノ、毛糸が楽譜。どういうものができるか、色は?かたちは?それらはすべて彼女の手にかかっている。

 以前、「クラシック音楽へのおさそい」の楽曲の解説を読んでいた時、ある演奏家の「楽譜通りにひかないようにしている」という文言を読んだ記憶があるのだが、はてそれが誰であったのかを思い出せない。

 フジ子ヘミングのピアノは、楽譜に即して弾いているのだろうが、どうも彼女の手が自由に自己を語るように動いているようにきこえる。

 政治、社会のことを考えずに、このような音楽を聴いたり、小説を読んだりする生活を待っていたのだが、それはできそうもない。頭の隅に、しなければならない仕事のことがいつもこびりついている。

 それは講演の準備だけではない。書くこと、そのために読むこと。

 それ以外に、今日やったように、実家の障子を張り替えることなどである。汗まみれになって障子を張り替えた。8月中旬には、離ればなれに生活している家族が帰ってくる。少しでも快適な環境を、という気持ちからだ。

 こう暑いと、何もしたくなくなる。明日も映画を見に行くつもりだ。「タクシー運転手」。韓国映画だ。韓国を、私はいつも見つめている。もう10回以上行っている。韓国では、老人に道を聞かれる。しかしわからないから、チョヌンイルボニン。나는 일본인
 おそらく私の先祖は朝鮮半島から渡ってきたのだろう。朝鮮半島のことが、気にかかるのだ。

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何のための児童相談所

2018-07-15 20:40:01 | その他
 香川の病院が、品川の児相に殺された女の子のことを連絡していたそうだ。いったい品川の児童相談所は何をしていたのか。浜松市のように、やる気のない公務員を配置していたのか。

虐待継続、診療情報を児相に伝達 香川の病院、5歳児死亡1週間前

 この家庭にとっては、この女の子は邪魔者であったのだろう。ひょっとして、品川の児相にとっても。

 愛情によってつくられたシェルターが必要だ。
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【映画】「万引き家族」

2018-07-15 20:00:19 | 映画
 ヨーロッパで受賞する映画。外国映画の中でも、アメリカ映画はハッピーエンドで終わり、完全なエンターテインメント。考えることもなく、ただその時間を楽しめばよい、というのがアメリカ映画。ヨーロッパ映画は、思想や思考が背景にあることを示唆する。

 「万引き家族」は、ヨーロッパ映画の範疇に入る。

 出演している樹木希林をはじめ、子役まで、みごとな演技。子役の二人のうまさに、とりわけて賞賛したい。

 映画のテーマは、これだっという決定的なものはないような気がした。家族のあり方というものにフォーカスしようとしていたのか。そういう面もある。親による子どもに対する虐待。「愛情があるから叩くなんとことはあり得ない」といいながら、子どもをぎゅっと抱きしめる。「愛情ってこれだよ」。その通りだと思う。好きな人を、子どもであれ、おとなであれ、抱きしめ、頬をあわせるのが愛情だ。
 自分の子どもでない子どもを愛せるか・・・という問いがなされた場合、私はおそらく無理だと応えるだろう。そういう経験がないからだが、しかし愛情というのは、血縁関係とは関係なくわき上がるものだ。愛情とは、対象となる人をいとおしく、大切に思う心情だ。

 この映画には、そうした愛情が描かれていたような気がする。血縁関係のない人々が集まり、家族を構成する。血縁関係がないから、家族となる必然性はもともとあるわけがない。偶然性の中で、その家族の一員になっていく。そこでそれぞれが、たすけあい、いとおしく大切に思いあう。しかし、必然性がないから、偶然性の中でその家族から離れていく者もでてくる。

 家族とは、一定の時間、人々が溜まる場であるといえるかもしれない。その人々が血縁関係があってもなくても、である。いずれ、年月が、確実に、その家族をばらばらにしていく。その溜まっているあいだ、そこにいる人々は、お互いを信じ合い、たすけあい、いとおしく思う。

 血縁関係があっても、現代の家族には、それぞれをいとおしく大切に思うという関係の不在が指摘される。

 「万引き家族」の家族が住むあの家は、ある種の溜まり場であったのではないか。血縁関係をもったふつうの家族から離れざるを得ない人々が、現代社会にはたくさんいる。そういう人々が集まってくる溜まり場。そこは決して経済的に豊かではない。家族はもはやシェルターの機能をもたなくなっている。
 しかし人間には、シェルターは必要だ。愛情でつくられているシェルターが・・・・・

 この映画は、その姿を描いたのではないか。

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今日はチャイコフスキー

2018-07-14 21:16:57 | その他
 ロシアという国家は、専制的な権力により支配される時代が長かった。今も、プーチンにより、同じような専制的な政治体制が存続している。ロシア国民には、そうした政治風土があっているのかも。

 もちろん専制的な政治体制は、非難されることはあっても称賛はされない。

 ところがそうした体制下であっても(あるからこそ?)、文学や音楽にはすごい人物が誕生する。

 ドストエーフスキーは、私の青春時代に大きな影響を与えた文豪であり、大学時代は、この人の文学作品に覆われていたといってもよい。それ以前から、プーシキン、ツルゲーネフ、ゴーリキー、ゴーゴリ、チェーホフなど、高校時代はロシア文学に耽ってもいた。ただ私は、トルストイを読む機会を持ってこなかった。本は持っているが、読まなかった。

 音楽では、チャイコフスキーとラフマニノフ。どうしてかくも美しいメロディを生み出すことができたのだろうかと、聴きながらいつも思う。チャイコフスキーのバレエ曲や、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。

 今日は、猛暑。夕方畑に行き、汗まみれになった。いつもは2時間近く作業をするのだが、さすがに今日は1時間あまりでやめる。
 帰宅してエアコンを稼働させ、涼しい環境の中で聴きたくなったのがチャイコフスキーであった。まずはヴァイオリン協奏曲、そしてピアノ協奏曲第一番。そして序曲1812年。

 ロシアは、だからすごい国だ。啄木も、同じような気持ちを持っていたようだ。それはこの後紹介する。



 
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啄木(19)

2018-07-14 20:51:12 | その他
「貧」をみつめる

 借金に追われ続けた啄木。貧困が、啄木一家にまとわりついていた。借金地獄への入口を探し当てたのは、啄木であった。盛岡中学校を中退した直後の上京で、啄木は多額の借金をした。それをカバーするために、僧侶である父親が納めなければならなかった金を、その借金返済に充てた。それが原因で、啄木の父は住職の地位を失い、それ以後啄木は一家を経済的に支えていかなければならなくなった。

 借金がないと、啄木一家の経済生活は立ちゆかない。啄木が稼いでも、その金は消えていく。啄木がより大きな収入を得るための投資的な金は、実を結ばない。

 まさに「はたらけど はたらけどわが暮らし楽にならざり ジッと手を見る」である。

【その後私は思想上でも実行上でも色々とその「生活改善」といふことに努力しました。併しやがて私は、その革命が実は革命の第一歩に過ぎなかつたことを知らねばなりませんでした。現在の社会組織、経済組織、家族制度・・・・それらをその儘にしておいて自分だけ一人合理的生活を建設しようといふ事は、実験の結果、遂ひに失敗に終らざるを得ませんでした。その時から私は、一人で知らず知らずの間に、Social Revolutionist となり、色々の事に対してひそかにSocialisticな考へ方をするやうになつてゐました。恰度そこへ伝へられたのが今度の大事件の発覚でした。】
(大島経男宛書簡、1911年2月6日)

 借金地獄に一度入りこむと、そこから脱出することができない。働いても、働いても、である。啄木は、みずからの「貧」を突き詰める中で、自分自身の「貧」が、自分だけのことではなく、社会全体の構造にその原因があるということに気付く(小説「足跡」、「葉書」、「二筋の血」など)。

 社会主義的な思考は、啄木の近いところにあった。しかし、1910年、大逆事件が起きる。啄木にとって、それはとても大きな衝撃であった。

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高校野球

2018-07-14 07:25:08 | その他
 今日は、静岡県でも38度を超える猛暑ということである。

 夏の高校野球の大会、静岡県でも試合が行われる。静岡県では、私が高校生の時でも、一年生は全員が高校野球の応援に行かされた。強制である。学校から球場までの交通費、球場の入場料も、生徒負担である。私は、これがイヤであった。

 私が高校3年の頃、春の甲子園大会に出場したことがあった。その前年の秋季大会は次々と勝っていったので、私も自主的に応援に行ったことがある。
 
 さて今日は猛暑、野球の試合が行われ、おそらく高校一年生は応援に駆り出されることだろう。だが、この殺人的な猛暑のさなか、強制的に応援させるというのはいかがなものであろうか。

 事故があってから検討する、ということであってはならない。
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