浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

年金はもう崩壊しているのか

2019-06-11 17:32:33 | 政治
 金融庁の報告書は、揺らぎつつあった年金制度への信頼をほぼ完全に喪失させた。若い人と話をしていると、「私たちに年金は支払われるのか」という問いを受けることがある。その際の回答は、「わからない」であったが、今回の騒動で、「とても足りないから貯金した方がよいと思う」を必ず付け加えなければならない。「百年安心」と言われていたのは、そんなに前ではなかったのに。

 さてその関係の記事。

金融庁「老後2000万円」の議事録発見! 厚労省年金局課長が年金削減認め「厚労省も職員に資産運用サポートしてます」

安倍首相が「老後2000万円」問題追及に逆ギレして「年金100年安心は確保されている」とインチキ強弁!

「老後へ2000万円貯めろ」麻生大臣の“飲み代”は年2019万円
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考えれば考えるほど・・・

2019-06-10 09:49:36 | 政治
 堺市長選で、維新の候補が勝利したという。先の大阪市長選、大阪府知事選その他の選挙で、大阪は維新の牙城と化した。もともと維新は大阪発祥である。維新は、大阪の「支配者」である。▲維新が唱えている都構想、あるいは維新が行っている政策、調べれば調べるほど住民にはマイナスになる。しかしそれでも大阪の人たちは、それにもめげず、維新に投票する。大阪のことをよく知る人に聞くと、大阪の人たちは自民党が嫌いなのだという。その受け皿として、維新という政党が受容されるのだ、と。▲だが維新の政策は、自民党の政策よりもさらに先を行く、どういう点で先を行くかというと、福祉や教育など住民にとって必要不可欠なことよりも、大資本に有利な開発優先、新自由主義的な私企業の儲けを保障するものなのだ。考えれば考えるほど、維新の政策は住民の望みを踏みにじる。それでも維新?▲大阪の地盤沈下はかなり前から指摘されている。大阪を拠点としていた大企業の本社が東京に移った、ということもある。大阪の「威信」が揺らいでいるので、大阪地域の人びとはもう一度大阪の「威信」を取り戻そうとして維新を支持しているのだろうか。だが本社機能の移転、首都圏以外の政治経済力の低下は、新自由主義的な政策展開の結果なのだ。そうした政策を批判するのではなく、最先端の新自由主義的施策を展開する維新を支持するというのは、どう考えてもおかしい。▲考えれば考えるほど、そういう考え方や行動にはならない、ということが増えている。それは大阪に限らない。考える材料を提供しなくなったメディアのあり方が原因なのか。それとも労働組合など中間団体の機能が徹底的に消されつつあるからなのか。こういう事態を打開する方策はあるのか。私は半ば絶望的である。
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コンビニ

2019-06-09 21:10:27 | その他
 久しぶりに通った道、コンビニがなくなり、建物だけが残っていた。コンビニは出来てはなくなり、出来てはなくなり・・・コンビニ式の建物が各所にある。介護施設となったり、焼き肉屋など別の店舗になったり、あるいは更地になったり、その盛衰の激しさを物語る。▲コンビニ経営は、それぞれの本部だけが丸儲けをする仕組みである、というような情報はずっと前からあった。本部は、それぞれの店が開店して物が売れれば、かならず利益があがるという仕組みだという。だからコンビニ経営はとてもたいへんであるという認識を私は持っている。▲しかしそれでもコンビニはつくられ、そして一定に期間が経過する中で消えていく。もう営業していないコンビニの建物を見る度に、事業に失敗した人が、またでたのだなと思う。▲ときどき新聞にはさまれたチラシの中で、コンビニの経営者を求めています、説明会があります・・・というものを見つける。コンビニ経営の実態を知っていれば応募することはないはずだが、次々とコンビニがつくられる以上、応募する人があんがいいるのだろう。ひょっとしたら、自分は成功すると思っているのかもしれない。私はいろいろな情報を得ているから、絶対にコンビニ経営には手を出さないが、自分は失敗しないと思う人もいるのだろう。▲コンビニ経営の仕組みを理解すれば、手を出さない方がよい案件であると思うはずだが、にもかかわらず脱サラしてコンビニ経営に入りこむのはどうしてなのか。私には理解できない。▲ほんとうに多いのだ、経営していないコンビニの建物が。
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児童虐待

2019-06-08 07:29:18 | 社会
 児童虐待のニュースには、心が痛む。『東京新聞』は社説でこの問題をとりあげ、昨日も「児童虐待 社会を根元から変える」を書いている。

 私は、ある時期に親の子どもに対する価値観が変わったのではないかと思う。いわゆるキラキラネームが話題になった頃である。私の血縁者は、埼玉県で中学校の教員をしていたが、生徒の名前に、「黄熊」と書いて「ぷー」と読ませたり、「茶目夫」、「茶目子」と名づけたりしている例を聞いていた。信じられなかった。

 私が自分の子どもの名前をつけるときに留意したことは、まず漢字の意味を生かすことであった。つまりどういう人間に育っていって欲しいかを名前に込めることである。次ぎに、字画が多すぎないこと、子どもが書きやすい字であることであった。そして読み方はふつう、であることだった。

 そこにあるのは、子ども(の成長)に対する期待であり、一人の人格を持った者としての尊重であった。

 しかしキラキラネームは、漢字の意味を考えない、突飛な読み方をする。まったく親の趣味的な関心によるもので、子どもを一人の人格を持つ人間として考えない、親の所有物であるかのような名づけ方であると思った。

 児童虐待は、その延長線上にあるのではないか。

 
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高齢者事故とプリウス

2019-06-07 21:40:44 | その他
 リテラにアクセスしたら、こういう記事が載っていた。

「相次ぐ高齢者ドライバー暴走事故はプリウスのせい」説は本当か? トヨタタブーで検証放棄するマスコミの体たらく

 私が使っているのもプリウスである。いわゆる3代目であるが、その前は初代プリウスに乗っていた。今のところ事故を起こしたことはない。しかし最近の高齢者の事故では、プリウスが多いということなので心配ではある。

 プリウスに問題があるというとき、Bレンジをバックギア(R)と間違えてしまうのではという意見があるが、それはないと思う。私はBレンジをつかったことがないし、操作する時にはギア自身を見ない。モニターだけを見る。またPレンジが別のボタンになっているからという意見もあるが、慣れてしまうとまったく違和感なく使っている。

 プリウスに構造的な欠陥があるのなら、早期に対応して欲しいとは思うが、事故はやはりアクセルとブレーキの踏み間違いが原因だろう。
 一昨年の11月だったか、わが家に飛び込んだ車は、トヨタのヴィッツであった。運転者の弁明は、アクセルとブレーキの踏み間違いということであった。しかし、私自身はなぜ踏み間違えるのか想像できない。

 歳を重ねていけば踏み間違いもあり得るから、今度はMT車にしようと思う。私は、ずっと好んでMT車に乗っていたが、左足を捻挫した時、クラッチペダルを踏むことに苦労した。クラッチペダルはなかなか重いのである。その経験からAT車にしたのだが、MT車の方が暴走を防ぐことが出来るというのなら、そうするしかないだろう。
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『東京新聞』を読む意味

2019-06-07 19:50:50 | メディア
 わが家の近くに『中日新聞』東海本社がある。東海本社版は、ほとんどが地域ネタで埋まっている。したがって読むところはなく、眺めるだけで終わってしまう。以前もこのブログに書いたが、地域ネタの面が6面ほどあり、時には第一面や社会面にも地域ネタが出される。地域ネタのほとんどは、読む価値はない。知らなくてもよいことばかりが並んでいるから、これではカネを払って購読する価値はない。

 同じ中日新聞でも、東京本社が発行する『東京新聞』にかえたら、新聞を読む時間がぐんと増えた。「特報」欄はいつも読み応えがあり、またその中の「本音のコラム」がよい。とはいっても、佐藤優や山口二郎はほとんど読まない。斎藤実奈子は必ず読む。また最近書き始めた三木義一のコラムはとても面白い。知性とユーモア、そして批判精神にあふれた文には、いつも感銘を受けている。昨日は「減税すれば税収増える」という題だが、もちろん三木はそれを肯定しているわけではない。税率を引き下げると富裕層が金をつかうから、回り回って庶民にも金が落ちるようになり庶民も豊かになるというデマをもとに税制改革をしたのがレーガン大統領の時代、「累進課税制度をフラット化し、税率を引き下げ」た。「その政権の中枢を担ったのが、アーサー・ラッファー博士」だと、三木は記す。しかし私は、この名をはじめて見た。新自由主義のイデオローグとしてはフリードマン、この人の本は何冊か読んだことがあるが、アーサー・ラッファー博士は知らなかった。この博士が、「トランプ政権でも中枢を担って」いるのだそうだ。レーガン税制改革は失敗し、格差が拡大したことは、アメリカだけではなく、同じような政策を進めた日本その他でも実証済みである。

 こういう記事がある。

トランプ大統領「自由勲章」をラッファー博士に。減税を訴える経済学者の主張とは?

 ラッファー曲線は、確かに聞いたことがあった。今では、ラッファー曲線は「ラッファブルlaughable」と笑われているらしい。

 三木のコラムの末尾は、ラッファブルと言いつつ、「怖い」である。

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まじめであること

2019-06-07 13:40:11 | 
 『Journalism』6月号が届いた。特集は「なにを信じるか」である。各論者は、そのテーマを前にしてまじめに考え、まじめに書いている。

 しかしそのなかにひとり、なにを書いているのか不明な文を載せているふまじめな論者がいる。いかなるテーマでも同じことしか書かない人、栗原康である。いちおう読んでみたが、「なにを信じるか」というテーマに対して、彼は「自由だ、自由だ、自由だ。相互扶助をぶっぱなせ!」と書いている。メディア誌から「なにを信じるか」というテーマで文書依頼が来た、栗原はその回答として「相互扶助」なのである。国会での安倍首相の答弁と同じ、質問をきちんと捉えずに勝手なことを回答する。栗原は安倍首相と同類である。
 栗原の主張は、すべて同じである。大杉栄を論じても、伊藤野枝を論じても、おそらく一遍上人を論じても、すべて同じような、それも栗原自身に似せた人物として描いてしまう。

 私は、こういうふまじめな論者が大嫌いである。他の論者、辻田真佐憲、東照二、武田砂鉄、渡邉久哲らがまじめに応答しているのに、栗原だけがフザケテイル!他の筆者や読者に対して失礼ではないか、と思う。

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誰からコメントをとるか

2019-06-06 06:51:41 | メディア
 記者が何らかの記事を書く時に、「識者」からのコメントをとることが多い。問題は、どういう人からとるかということである。そこに記者の立ち位置や問題意識のありかが如実に反映する。

 『AERA』の記事に、「【全国水道料金ランキング】1カ月2万円超も 家計を直撃する「水格差」の未来」というものがあった。使われている資料は、浜松市のスズキ市政が水道民営化を打ち出した頃にはすでに存在していたものであり、別段新しい資料ではない。この資料でも、浜松市の水道事業の将来はかなり健全であることが記され、私どもも利用させてもらったものだ。ヴァエリアなどの国際水道資本は、そのような健全度が高く金もうけが出来るところに進出してくるのであり、将来的に人口減で経営的に難しいところには進出してくることはないのである。私企業の事業目的は、金もうけであり、とりわけ現代の企業は株主資本主義だから、会社役員はいかに株主への配当を増やすかに全力を尽くさなければならない。

 さてこの記事において、記者は明治大学の田中秀明という学者からコメントをとっている。この田中という人物、官僚出身である。


 官僚が庶民のことを考えて行政をしているのではないことは、今や明白である。彼等はみずからの出世に勤しんでいるのであり、競争に敗れた官僚は中途で退職し、大学の研究職になったり、議員として立候補していることは官僚の生態として周知の事実である。官僚やもと官僚の多くは、退官後もみずからの立脚点を国家におき、そこには大資本の利害を代表するということも含まれている。

 記者が、そういう人物からコメントをとるということは、記者自身の立脚点を示すものとなっている。この記者は、国家的な政策に庶民を導いていこうと考えている御仁かも知れない。

 私たちに批判的精神が必要な所以である。

 
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多様性

2019-06-05 05:44:43 | その他
 今日は曇である。昨晩は早く蒲団に入ったので、目が覚めるのが早かった。早朝はなかなかやかましい。鳥のさえずりがなかなか多いからだ。子どもの頃と比べて、そのさえずりは多様になっている。実際見る鳥の姿にも、子どもの頃には見かけなかった色を帯びた鳥が飛翔している。飼っていた鳥を放したりして、外国から取り寄せた鳥が野生化しているようだ。▲人間の生活時間帯も多様になっている。その多様性は、日本人よりも外国人のほうに見られる。うらのアパートには、フィリピンから来た若い女性が二人で住んでいる。彼女たちは夕方、迎えの車に乗ってどこかに去っていく。そして未明に帰ってくるようだ。睡眠はそのあとにとるようで、ゴミを出す日には、彼女たちは私にとっては真夜中に出している。ゴミ収集車が来る時には、おそらく眠っているからであろう。月曜日、トイレに起きた時に、ゴミ集積場の方から外国語の会話が聞こえてきた。▲その部屋の2階にはベトナム青年が二人住んでいる。会ったことはない。彼等の生活時間帯も、私とは異なる。どこかで深夜に働いているようだ。日曜日には、聞いたこともない音楽が流れてきたりする。▲近所には、ブラジル人男性と結婚した夫婦が住んでいる。その家の車からは、これもまた大音量のリズミカルな音が聞こえてくる。▲裏のアパートには、もう一軒、ブラジル人一家が住んでいる。子どもは中学生、父親は深夜労働、母親もどこかで働いている。また他にも、公立幼稚園に、孫を連れて行く女性を毎朝見かける。インド人のようだ。また中国人が近くのアパートに複数で住んでいて、変則的な時刻にわが家の脇を自転車で通る。▲このように、子どもの頃と比べると、住んでいる人も、鳥たちも多様となっている。日本に住む鳥も、そして人々も、さらに多様性を帯びるようになっていくことだろう。そして生活時間帯も。この変化は、もう止まらないだろう。外国人との共生を、もっと積極的に考えていかなければならない時期に来ている。
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必見

2019-06-02 08:38:43 | 社会
安倍政権の「圧力」、望月衣塑子記者や前川喜平氏らが明かす。映画「新聞記者」に合わせて【動画】
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変わらない、変わる

2019-06-02 07:46:41 | 政治
 『東京新聞』も『週刊金曜日』も、30年前の天安門事件をとりあげている。天安門事件は、中国に於ける民主主義を求める運動であった。しかしそれは、共産党権力(軍隊)によって押しつぶされた。▲中国は有史以来、一貫して大国であり続けた。王朝の盛衰・交代はあったが、それぞれの王朝はそれぞれの時代において大国であり、同時に富国であった。中国が弱体化したのは、近代化が課題となった20世紀だけである。21世紀の現在は、政治大国であり、経済大国であり、また軍事大国である。その中心にあるのが中国共産党である。中国共産党王朝といってもよいだろう。▲中国の歴代の王朝は、専制的な国家体制で、あの広大な領土とそこに住む人々を支配してきた。広い領土と多数の人口をひとつの国家体制の下に治めるためには、おそらく専制的でない方法はあり得ないのだろう。現在でもそれはあてはまる。中国共産党による支配体制を維持するためには、民主的であってはならないのである。▲しかし、とは言っても、そこに住む人々に飴を配分しなければ、過去、王朝が倒れるときにおきた様々な蜂起に脅かされる可能性がある。飴と鞭、それは支配体制を維持するためにどこでも普遍的に行われてきた統治方法である。現在の飴はカネ、経済である。カネがばらまかれ、カネ儲けの機会が次々と生まれ、富豪が増えていく。庶民であっても経済生活が活発化していく。人口が多いから需要はある、カネがまわりはじめればカネ儲けはそう難しくはない。▲そうした経済活動の活発化を促進するために、インフラ整備も進む。またそこでカネが動く。富豪層だけでなく、中流階層も増大し、海外旅行にもでかけていく。中国共産党の政治は、人びとの経済生活を満足させてきた。▲変わらないもの、それは、専制的な政治である。変わるもの、それは人びとの生活であり、また中国の自然や文化である。『週刊金曜日』のジャーナリストであり作家の翰光は、「経済発展の名の下に中国人民に負の遺産を背負わせる」という文章には、その変化が綴られてる。高速道路や高速鉄道の整備が進む中、人びとの生活が犠牲にされている現実、豊かな文化を持つ風光明媚な麗江の変化(経済開発による自然破壊、文化の喪失など)・・・・。しかし同じようなことは日本でも存在する。私は既視感を持ちながら読み進めた。日本でも、「負の遺産」を庶民におしつける。日本でも、専制的な政治が行われている、ただはっきりと見えないだけだ。
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NHK、安倍政権の広報機関を証明

2019-06-01 20:29:29 | メディア
 こういう記事はもっとあるべきだと思う。

【政治考】NHKと政権の“距離感”に疑問
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生きるミッション

2019-06-01 07:08:19 | その他
 進化生物学者の千葉聡さんの「幸運の南硫黄島」を読んだ(『図書』6月号)。人を寄せ付けない南硫黄島に上陸して新種の生物などを探索する体験を綴ったものだ。千葉さんは「陸貝」の研究者らしい。「陸貝」といわれても見たことも聞いたこともない生物だ。南硫黄島のその故郷は北海道であるということで、どのようにして北海道の「陸貝」が南硫黄島に運ばれたのか不思議ではある。▲千葉さんはこの文のなかで、進化についてこう記す。「進化は、偶然の歴史と偶然の突然変異、そして遺伝的変異に対する自然選択ーより生存率や出生率の高い変異が次世代により多くの子孫を残すことで進むプロセスの結果である。そこに意思や目的は一切ない。彼らは夢など持たない。生きるというミッションを、ただ日々果たすだけである。」と。▲「生きるというミッション」か。この世に生まれたすべての生物は、「生きるミッションを、ただ日々を果たす」。▲わが家を取り巻くサザンカの樹。今ごろの季節になると、私は目を凝らして伸びてきた新芽のなかを覗く。毛虫の集団を見つけるためだ。放っておくと葉を食い荒らしてしまうから、殺虫剤を毛虫たちに噴霧する。この毛虫たちもひたすら「生きるミッション」に忠実である。生物たちの「生きるミッション」をひたすら果たしている姿は、見事でさえある。▲人間も生物であるからには、「生きるミッション」はある。死が生を絶つまでそれは果たされ続けるのだが、人間の場合は、みずからの意思でそれを絶ちきることがある。進化の結果、人間は「生きるミッション」に忠実であることに、疑問を抱くようになった。「生きるって何?」、「生きる意味はあるのか?」等々。他の生物は、こうした疑問を持たずに「生きるミッション」を果たし続ける。▲人間は、一人では生きていけない。この世に生まれた時から他者の手助けを必要とする。他者たちの動き、ことばを見よう見まねで真似ながら、学びながら、人間は成長していく。ところが、「生きるミッション」すら、人間は学ばなければならないほどに進化してしまった。そして、「生きるミッション」とはこれだ!と教えてくれるものではなく、それぞれがみずから「発見」しなければならない。その作業は、孤独でもある。それに失敗した人間が、ときに自死を選ぶ。「生きるミッション」が学ばれる場が必要だ。

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