窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

吉野ヶ里遺跡②

2010年10月16日 | 史跡めぐり
吉野ヶ里遺跡


  2年振りに吉野ヶ里遺跡を訪れました。前回は僕のブログのスキルが足りず、詳しくご紹介できなかったので、今回は数回に分けて少し細かくご紹介していきたいと思います。



  吉野ヶ里遺跡は紀元前3世紀頃から紀元3世紀頃まで、およそ600年に渡り栄えたとされる、発掘されている中では弥生時代最大規模の環濠集落です。その大きさはおよそ50ヘクタール、福岡ヤフージャパンドームが6個納まるほどです。1992年に国営吉野ヶ里歴史公園として、遺跡の上に公園が整備され、考古学的知見に基づき宮殿、櫓、竪穴式住居、高床式倉庫など数多くの建造物が再建されています(上の画像をクリックすると拡大画像を見ることができます)。

  遺跡からは支配者層の居住区である南内郭、祭祀や政治の中心である北内郭の外、墳丘墓、村、倉庫群、交易を行う市などが発見されており、まさに一つのクニのようです。冒頭の画像の通り、広大な敷地に数多く再建された建造物の中を歩いていると、まるで弥生時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えます。



  入口は、環濠集落の東門にあたるところからです。門の上に、木でできた鳥がとまっていますが、これは弥生時代に鳥が穀物の霊を運んできたり、悪霊から守ってくれると考えられていたことによるそうです。古代日本における太陽信仰、鳥信仰については、かつてご紹介した「龍の文明、太陽の文明」が興味深いです。



  逆茂木・乱杭。城柵の後ろにV字型の濠を廻らし、そのまた後ろに先を尖らせた杭が逆さに打ち込んであります。敵の侵入を防ぐためと考えられますが、相手が騎兵で、馬が濠を越えてきたのでもない限り、こんなものが果たして防衛の役に立ったのか疑問です。因みに、弥生時代に日本に馬はいなかったというのが定説のようです。

  次回は、王や支配者層が居住していたとされる、南内郭についてご紹介します。

吉野ヶ里歴史公園

佐賀県神埼郡三田川町大字田手1843



  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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