「狩野芳崖 - 悲母観音への軌跡 - 」 東京藝術大学大学美術館

東京藝術大学大学美術館台東区上野公園12-8
「狩野芳崖 - 悲母観音への軌跡 - 」
8/26-9/23



絶筆「悲母観音」へと至った狩野芳崖(1828-1888)の画業を、初期よりの絵画、下図、模本、それに資料などによって概観します。藝大美術館での「狩野芳崖 - 悲母観音への軌跡 - 」へ行ってきました。

展覧会の構成は以下の通りです。出品は約80点ほどでした。

1.「芳崖の画業1 下関と江戸・東京」
 1828年、御用絵師の子として下関に生まれる。19歳の時に江戸遊学を果たすも、幕末の動乱が迫り下関へと戻った。維新後、全ての身分を失うが、50歳になって再び上京。苦難の末、画家としての生計をたてる。主に初期より維新までの作品、約30点。
2.「芳崖の画業2 フェノロサとともに」
 明治16年、フェノロサに弟子入りし、西洋画の造形、明暗法などを学んだ。フェノロサとの出会い以降の絵画、約20点。
3.「悲母観音へ」
 絶筆「悲母観音」へ至る軌跡。重文「悲母観音」とその下絵、または「悲母観音」とほぼ同一モチーフをとる「観音図」(複製)との比較など。
4.「悲母観音の周辺」
 悲母観音が与えた影響など。他作家の絵画、計6点。
5.「資料、模本」
 芳崖が取り組んだ模写一覧。または使用した印章、デスマスクなど。

前もってちらしを見た際には、せいぜい芳崖の「悲母観音」を取り上げた一点豪華主義の展示かと思っていましたが、会場へ行くとそれは大変な誤解であったことが良くわかりました。今展観は、もはや点数こそ少なめではあるものの、芳崖の全貌を詳らかにする充実した回顧展です。生誕180年、没後120年というメモリアルにも相応しい内容でした。



「晩年の日本画革新時代」(ちらしより引用)を知るばかりの私にとって、狩野派の伝統も色濃い初期作は非常に興味深いものがあります。応挙の写実を連想させる表現にて生誕の地、長府前田を俯瞰的に捉えた「馬席真景図巻」(1842)や、さながら南蘋派のように細やかな線描が光る「牡丹図」、さらには狩野派の伝統を良く伝える「山水図」などは、芳崖の優れた画力を見るにな十分な作品と言えるでしょう。またこの時期、彼は後の「悲母観音」へも通ずる女性崇拝の精神をとった「八臂弁才天図」を描いています。流れる水を表現する筆さばきもまた見事でした。



フェノロサと出会ってからの芳崖は、まさに近代の夜明けとも言えるような、西洋との奇妙な融合を遂げた、どこかエキゾチックな近代日本画を次々と生み出していきます。ここでは西洋の顔料を用いたピンクの眩しい「仁王捉鬼図」(1886)が見事です。西洋画風の遠近法に則ったひし形文様の舞台の上を、鬼を握りつぶした仁王がアニメーション的な表現によって描かれています。また猛々しい「不動明王」(1887)の下で光るオレンジ色にも目を奪われました。これまでの日本人があまり目にしなかった色を使うことで、また絵にさらなる新鮮味を与えたのは間違いなさそうです。

 

展示のハイライトは、やはり「悲母観音」へと進む芳崖の制作の過程を紹介した「悲母観音へ」のセクションです。ここではフェノロサと出会う以前に描いた、ほぼ「悲母観音」と同じ構図をとる「観音図」の複製を元に、本画に至るまでに描かれた何枚もの下絵が紹介されています。ハーフトーンを用い、独特な透明感のある色彩が美しい本画の「悲母観音」はさすがに見応え十分ですが、下絵、もしくは「観音図」との比較も楽しめました。この部分だけでも、この展示の企画が如何に優れているかが良くわかります。芳崖の制作の有り様を丹念に追うことが出来ました。



展覧会とは直接関係ありませんが、日暮里駅からSCAIを経由して芸大へと向かった際、芳崖の墓のある谷中は長安寺(地図)へ少し立ち寄ってみました。ここでは芳崖と、彼が「観音様」と呼び、そのモデルともなったという最愛の妻ヨシが仲良く一緒に眠っています。しばし手を合わせて来ました。

 

「狩野芳崖 - 悲母観音への軌跡 - 」は今月23日までの開催です。また10月からは、芳崖の生地、下関の市立美術館(10/4-11/5)へと巡回します。
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