僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「観音の里ふるさとまつり2019」10/10~高月町東柳野 長命寺薬師堂~

2019-10-31 17:52:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北には賎ヶ岳山頂から山本山にかけての尾根づたいに130を越える古墳群があるといい、「古保利古墳群」と呼ばれる古墳が集中する一帯です。
古墳時代にこの地には古墳文化が発達していて、有力な首長の一族は競って古墳を作っていた時代があったのかと思われます。

古保利古墳群は山頂だけではなく平地にも幾つかあり、特に東柳野の「姫塚古墳」は県内でも最大級の前方後方墳だとされ、4世紀頃の築造だといわれています。
姫塚古墳のある東柳野には「長命寺薬師堂」があり、鎌倉初期の薬師如来像が祀られていることから、「観音の里ふるさとまつり」の最後に拝観を致しました。

 

かつて琵琶湖畔には「阿曽津」という大きな集落があったとされますが、大津波によって湖に沈んでしまい、山の反対側にある平地側の西野・松尾・熊野・東柳野・柳野中・西柳野・磯野の各集落に移り住んだと伝わります。
琵琶湖には「阿曽津」だけでなく海底遺跡の発見や湖中に沈んだ村の伝説が幾つかありますので、大きな地殻変動で沈んだのかと思われます。
そもそも琵琶湖は数百万年前は三重県にあり、現在も少しづつ北へ移動していると言われますから、震災等で一気に沈むということがあったのでしょう。



長命寺は建久年間(1190年~1198年)に藤原資通の護持仏を以て創建されたと伝わります。
「薬師堂」毎月12日の夜7:00~8:30の間に開帳されるといい、オコナイ番が開帳前に掃除等をされ、集落でこの薬師堂と薬師如来像を守られてきたそうです。



「薬師如来立像」は寄木造・漆箔・玉眼の仏像で像高は39cmと小ぶりなお姿をされていますが、近年に奉納されたかのように金キラしており違和感を感じます。
これは数十年前に汚れが目立ってきたため修復に出したところ、このように金箔の貼られた姿となって返ってきた為だそうです。



仏像修復は「復元修復」と「現状維持修復」に大別されるようですが、この薬師さんの場合は漆箔が金箔に変わってしまっています。
個人的には歴史感の伝わる「現状維持修復」が良いだろうと思いますが、そこは個人の好みやその時代の考え方があるのでしょう。



薬師堂から道を挟んで「売比多神社」があり、合わせて参拝します。
薬師堂の参道は狭いため、世話方の方々は神社の境内に机を並べて接待にあたっておられます。





売比多神社は主祭神に「豊玉姫命」を祀り、相殿には「久留弥多神」を祀るという。
唐川の「日吉神社観音堂(赤後寺)」の「千手観音と聖観音(コロリ観音)」の足柄と像底には「久留弥多大名神」「御本地」の墨書があり、2躰の仏像が相殿の「久留弥多神」の本地仏であったと推定されています。



「売比多神社」はかつて「姫塚古墳」上に鎮座していたといい、室町時代に現在地に奉遷されたと伝わります。
本殿には1839年に高月町出身の薮田月湖によって描かれた「糸取図絵馬」が展示してあり、繭の釜煮や糸の巻き取りの様子が絵馬から伺えます。



ここから巡回バスに乗って終着の高月駅へと戻ります。
巡回バスなので効率良く回れましたので、予定していた以上の観音堂を巡ることが出来たのは収穫です。
来年はレンタサイクルでのんびりと巡回しよう。


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「観音の里ふるさとまつり2019」9/10~高月町重則 龍頭山 普門寺~

2019-10-30 17:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖周道路・片山トンネルの北側にある西山の辺りは、かつて集落を流れる余呉川が大雨の度に氾濫を起こして大きな被害をもたらしてきたといいます。
浸水や飢饉に苦しむ村人のために僧・西野恵荘が放水路を手掘りしたのが「西野隧道」で、5年の歳月をかけて1845年に完成させたといわれます。

西野隧道のある西野地区や隣村である松尾・重則にはそれぞれ観音堂があり、西野には「薬師如来」「十一面観音」と「千手千足十一面観音」。
また、松尾にも天台三尊形式の「十一面観音」が祀られ、十一面観音菩薩が集中している地域になります。
今回はまだ拝観したことのない普門寺の「聖観音菩薩」を拝観するべく、西野・松尾で巡回バスを降りる人を尻目に、重則で下車しました。

 

普門寺は自伝によると1413年に大友皇子の末裔・三位重則卿が開いたと伝わり、伝教大師・最澄作の聖観音菩薩立像を本尊としてお祀りするといいます。
湖北では最澄作と伝わる仏像の多さに驚くことになりますが、言い換えるとそれだけ天台密教の影響が強かった地ということになります。



寺院への道は雨でも降ってぬかるんだら滑り落ちそうな山道でしたが、逆にこんな道を歩けるのが嬉しくなったりするから不思議なものです。
普門寺が現在の大森山に移されたのは明治13年。堂宇の焼失による移設とされ、以前は薬師堂と並んで建っていたものを近年になって統合されたといいます。



低山の頂上に「普門寺」はあり、強風によって倒された杉の大木が横たわっていたものの、境内は雑草一つなく整備されています。
ちょうどバスツアーとかち合ってしまいましたので参拝者が多かったのですが、人の引くのを待って参拝させていただきました。



御本尊の「聖観音菩薩立像」は像高47cmの仏像で離れて見ると少し怖い表情にも見えてしまいます。
衣の紋様が非常に美しく、文様にも名称があるとは思いますが、詳しい事は分らない。





離れて観た時は怖い表情に見えた聖観音は、接近して見ると笑みを浮かべたような優しい表情をされています。



「薬師如来坐像」は「聖観音菩薩立像」よりも新しい仏像のように見えます。
山の中の小さな祠に祀られた仏像ですから、セキュリティをしっかりする必要がありますね。



観音堂のある山頂部の端には石仏が几帳面に並べられています。
かなり劣化しているように見えますが、一体いつの時代に彫られたものなのでしょう。



大森山の坂道を下って集落へ降りると、すぐ先に余呉川に架かるの橋が見える。
さらにその先には「観音の里ふるさとまつり」の赤いのぼりがはためいている。
巡回バスの到着にはまだ時間があるため、歩いて次の観音堂へと向かう。


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「観音の里ふるさとまつり2019」8/10~高月町片山 片山観音堂~

2019-10-29 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高月町から湖周道路を通って片山トンネルを抜けると、高月町では唯一琵琶湖に面している片山の集落に出ます。
ここまで来ると野鳥の楽園である湖北野鳥センターやオオワシの飛来する山本山がすぐ近くになり、別の意味でも親しんでいる地域になります。

片山は小松山の麓にある集落で農地はあまり見られず、かつては林業や漁業が生活の糧であったのかと思われます。
「片山観音堂」も神仏習合の観音堂であり、「片山神社」は平安時代の1183年には木曽義仲を撃とうとした平氏の軍勢が通ったとの記録がありますから、湖上ルートで片山港を経由したのかもしれません。

 

現在の片山は道路やトンネルが出来て、行き来が容易になっていますが、かつて小学生が通学する際には山を越えて通ったとも言われています。
市町村合併前の区分でいえば、片山は高月町に属するよりも湖北町に属した方が利便性がよさそうなものですが、片山を高月に含めておきたい事情があったのでしょう。



巨石2つを外門代わりにしたような入口の奥に片山神社の鳥居があり、境内に進みます。
今回参拝した寺院(神社)の中では片山神社だけが急な石段登りがあり、片山がその名の通り、山と琵琶湖の狭間の集落だということが実感出来ます。



石段の中間地点辺りから横に入ったところに観音堂はありますが、まずは本殿への参拝から始めます。
かなり勾配が強いのでゆっくりと登りましたが、久しぶりの石段に少々息が切れる。



上部は広がっているのかと思っていたがすぐ正面が拝殿になっており、参拝は段上のスペースで行うことになる。
振り返れば鳥居越しに琵琶湖が一望出来る絶景が広がり、関東などから初めて湖北を訪れて琵琶湖を見た人などはここからの景色に圧倒されたことでしょう。



石段を中間地点まで降りて横へ出た場所に観音堂はあります。
琵琶湖に向かって建っている観音堂には外回りを覆うようにもう一つの建物がカバーしている。
湖北地方は雪の多いところですから、こうしておかないと御堂がすぐに傷んでしまうのかと思います。



厨子の中にはこちらも琵琶湖を見下ろすように向かい合う「十一面観音立像」が祀られている。
十一面観音は、高台から舟の安全を守る観音様として信仰され、かつて津波が村を襲った時、村人の祈り応じて観音様が現れ、津波を押し戻して村を救ったとの伝承があります。
琵琶湖に津波があるのか?と疑問に思う部分もありますが、滋賀県の試算によると“長浜市沿岸に3メートルの津波が達する”との可能性を示唆しています。





観音堂の前から十一面観音様と同じ視野で見た琵琶湖。
目の前には片山港、左奥の尾上港の先には竹生島。右には葛籠尾崎がせり出している。
琵琶湖を挟んでかなり離れているが、葛籠尾崎は片山の飛び地。



片山神社の鳥居の横には真宗寺院(行善寺)が本堂を構えている。
湖北独特の信仰スタイルである神社・観音堂・真宗寺院の3つがこの一角に集まっています。



観音堂を巡って観音様に出会い、美しい琵琶湖の風景を眺める。
作家・井上靖が湖北の観音様に魅せられた気持ちが分かりますね。


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「観音の里ふるさとまつり2019」7/10~高月町西阿閉 朝日山 竹蓮寺~

2019-10-28 17:50:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北の観音さんには様々な伝承があり、それは戦火の時に土中に埋めたとか、水の中に沈めた、はたまた古道具屋で見つけたなどいろいろな話があります。
竹蓮寺の「伝 聖観音」にも伝承があり、大雨の時に余呉川の橋桁に流れ着いた像を村人が拾い上げて御堂を作って安置したとの話です。

世話方の方もさすがに傷みの具合から判断して“川を流れ着いたとはとても思えない”とのことで、失われていた宝冠や台座は古道具屋から入手したと話されていました。
仏像は一材から掘り出したもので内刳りは見られないため“これだけ重い仏像なら盗難されることはない”とまでおしゃっておられたのが面白い。

 

西阿閉まで来ると「山本山」は近くですので、山号が「朝日山」になっています。
具体的な根拠はありませんが、山本山の辺りには朝日山を山号とする寺院があることから、朝日山と名乗る寺院が幾つかあるのかとも思います。



当方は巡回バスで竹蓮寺へ来ましたが、停められている自転車を見るとレンタサイクルで巡回されている方も多そうです。
イベント会場以外ではコンビニも見当たらない地方ですから、皆さんも当方同様に腹ペコのまま参拝している同志もおられそうです。



竹蓮寺の観音堂も拝観に訪れると実に小さな御堂で2~3名で満員になってしまいます。
周囲をブラついて空いてから拝観しましたが、高月の観音堂の多くはホント村はずれにポツンと建てられていますね。



「伝 聖観音」は平安初期の仏像だとされ、地元では聖観音として親しまれてきたそうですが、近年の調査では「宝冠阿弥陀如来坐像」ではないかと言われています。
確かに頭頂の部分に傷みがあるため分かりにくくはなってはいるものの、専門の学者の調査では宝冠阿弥陀と断定されているようです。





仏像は正確には「螺髪宝冠阿弥陀」といい、全国でも6~7躰しかない珍しい仏像だといいます。
元々は膝上で阿弥陀定印を結んでいたとされており、現在の両手は後補によるもの。
そういう目見ると右手が少し大きいような感じもします。





頭部を確認すると今でも釘跡が残っており、頭頂に何かをかぶっていたことは間違いがなさそうです。
川を流れてきたといい、後補によって作り替えられている事といい、謎の多い仏像になります。
とはいえ、現在のお姿も充分に魅力的な仏像だと言えます。



己高山の近くの観音堂から西へ西へと移動してきましたが、いよいよ琵琶湖へ出ることになりました。
野鳥観察では何度も訪れているエリアにある観音堂ではどんな出会いがあるのでしょうか。


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「観音の里ふるさとまつり2019」6/10~高月町東阿閉 薬師堂・乃伎多神社~

2019-10-27 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「東阿閉薬師堂」は「乃伎多神社」の境内にある寺院で、この御堂も神仏習合の色濃い場所となります。
乃伎多神社はかつては「野北八幡」「北の八幡宮」と称され、安曇郷の鎮守として安曇連の祖神を祀っているといいます。

御祭神は「応神天皇」と「天造日女命」の2柱を祀り、延喜式神名帳にある「乃伎多神社」とする説があるようです。
薬師堂は乃伎多神社の神宮寺と考えられていますが、この寺院も賤ヶ岳の合戦の折の兵火に罹って焼失したといいます。

 

現在の社殿は1797年に再建されたものといい、神社の社と平安仏を祀る薬師堂、不動明王堂の3つの建造物が並列に並びます。
従いまして薬師堂へは乃伎多神社の大鳥居から入ることになります。



境内の最奥の左側に建てられているのが「薬師堂」。
須弥壇には平安後期の「薬師如来立像」「聖観音立像」、2躰の「毘沙門天」が安置されています。



須弥壇に並ぶ4躰の仏像を見てド胆を抜かれるのは両毘沙門天像の顔と姿ではないでしょうか。
4躰が並んでいる姿を見ると、全ての仏像が平安仏とは思えない姿となっています。



ただし薬師如来(総高94.4cm)と聖観音(像高108cm)には大きくは修復されていないと思われ、両仏ともに素朴さを感じる仏像です。
薬師如来は鼻がやや大きく、少し目尻が下がっているように見えるが、バランスの良い躰をされている。
聖観音は頭頂に化仏を載せており、髻と両手は後世に修理されたものであることから、元は十一面観音として造像され、聖観音として修理された可能性があるとされています。





4躰の仏像の台座の裏に書かれた墨書銘には1825年に修理された記録が残されており、東柳野の河口藤三郎という仏師が修理を担当したとされます。
東柳野村では京都で学んだ当地の仏師・浅尾宗儀が居住したといい、村からは宗儀の流れを汲む多くの仏師を輩出したという。

衝撃的なのは毘沙門天ですが、左の毘沙門天は頭上に兜をかぶっており、玉眼や体型といい、平安期のものとはとても思えません。
解説によると当初は平安期に造られたものと考えられるが、背面材を除くほぼ全身・台座・持物・表面の彩色は後補だといいます。おそらく破損がよほど激しかったのでしょう。





右の毘沙門天も同様に後補の部分があるようですが、先の毘沙門天ほどは衝撃を感じない。
こちらの毘沙門天は台座・両肩より先・持物・両足先・表面の彩色が後補だといいます。



八幡宮は小ぶりながらもよく整備された社で、オコナイや神事がここで行われるのでしょう。





境内には奥から順に「薬師堂・八幡宮」と並び、一番右側には「不動明王堂」があります。
不動明王は開帳されておらず、その姿は知る由もありませんが、造りを見ると元々不動明王の祠があり、祠を覆うように建物が建てられたように見えます。



この乃伎多神社では毎年9月13日に「モロコ祭り」が行われ、子供達の歌と舞が奉納されるそうです。
モロコとは琵琶湖固有種の「モロコ」と「諸子・諸戸」の意味があるといい、氏子の成長と五穀豊穣を祈願すると言われます。



巡回バスの停車場は「ヤンマー会館(東安閉公民館)」でした。
このゴチック調の建物を遠くからな眺めたことはありましたが、近くで見るのも中へ入るのも初めて。

ヤンマーの創業者の山岡孫吉は東安閉の出身で7人兄弟の6番目の子供だったといい、大阪へ方向に出て、紆余曲折の末にヤンマーディーゼル(現・ヤンマーホールディングス)を立ち上げたといいます。
成功した後には湖北の何ヶ所かにヤンマーの工場を作り、地元の人の雇用改善にも勤められたといいます。



山岡孫吉の功績を称えて、ドイツ発明協会から金牌が贈られたり、ドイツ大博物館より名誉理事に推薦されるなど海外での評価も高かったようです。
ヤンマー会館の中には西ドイツ(当時)アウグスブルグ市に滞在中にミューラー市町から贈られた石像が展示されてありました。(女流彫刻家ボーハイム 1898年の作)



観音を巡って各所を歩いていると、その土地に関する歴史や人物など仏像以外の興味深い事項にも出会えます。
さて、まだ時間は早い。今度は琵琶湖方面へ移動してみよう。


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「観音の里ふるさとまつり2019」5/10~高月町宇根 慈光山 冷水寺~

2019-10-26 17:23:23 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高月町宇根の「冷水寺」は寺歴を奈良時代に遡ることとなり、神亀年中(724年~)に行基が観音像を彫り、宇根野寺を建てたことが始まりだといいます。
貞観年間(859年~)には天台座主・円珍が安養寺と改称、1155年の後白河帝が石道寺に行幸の帰り宇根を訪れ伽藍を建築したと伝わります。

しかし1583年の賎ヶ岳の合戦で柴田勝家軍の放った火により観音堂は焼失、本尊は焼損してしまったといいます。
その時に焼損した本尊を村人達は守り続け、冷水寺として観音堂を再建し、長らく秘仏としてお守りしてきたそうです。

 

1702年には「鞘仏十一面観音像」を造り、焼損した本尊を胎内仏として祀り、その後守り続けてきたといいます。
どんなお姿になっても村の観音様を守り続けるという強い意思が感じられる話ですね。





冷水寺の寺名が付いた経緯には賎ヶ岳の合戦で焼き討ちに遭った観音堂を新たに建てた時に、その傍に盛衰が湧き出ていた事が由来となっているようです。
現在の冷水寺は明治以降にこの地に移築されたもので、清水は途絶えていたようですが、平成の修復の際に地下水が汲み上げられ、現在の御手洗所になったようです。
宇根は宇根野ヶ原と称されていたるところで水が湧き出し、田畑に恵みをもたらしてきた地下水の豊富な地域だったようです。



観音堂は中に3~4人入るともう一杯といった大きさ。
厨子には鞘仏の「十一面観音坐像」が居られるが、外観からは鞘仏だとは全くわからない。





鞘仏は江戸期の仏像となり、垣間見えるお顔はやや怒った表情にも見える。
人間の愚かさを叱りつけるような表情は、これまで胎内仏が辿ってきた歴史を考えると理解できるような気もする。





表の鞘の十一面観音が怒りの表情なら、胎内仏である十一面観音は見るも無残で痛々しい姿である。
ほぼ炭化してしまった焼損仏をよくこんな形で蘇らせてくれたと伝わるものは大きい。





1996年には伝承となっていた胎内仏の再確認を行われたといい、写真は1997年に鞘仏を取り外した時の写真のようです。
ちょうど台座の上あたりに顔があることになり、後世にこの仏像を見た人は現代の我々のように大いに驚かれることでしょう。



厨子の横にはかなり劣化・損傷した像があり、こちらは仏像というより神像に思える。
こういった破損仏を残し伝えていくのは、その時代に関わった人のある意味で努めなのかもしれません。





寺院の境内には小さな小さな資料館「冷水寺胎内仏資料館」があり、写真や資料が公開されています。
看板には年中無休 昼夜無休とありますので、いつでも見れる資料館ということになります。



仏像の胎内から胎内仏や古文書や経典などが発見されることがありますが、冷水寺の場合は後天的に鞘仏を作ったという珍しい仏像です。
ここまでして人々が守りたかったのは何なのか?そこには村の観音様を信仰する人々の厚い熱意のようなものが感じられます。


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「観音の里ふるさとまつり」番外編~「高野の野大神」と「井口の地蔵群」~

2019-10-25 18:01:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の「観音の里ふるさとまつり」は巡回バスで移動したのですが、車中から見た「野大神」の巨木に圧倒されてしまいました。
是非近くで見たいと日を改めて探しに行ったものの、記憶が曖昧でしたのでバスの順路を思い出しながら、やっとのことで見つけたのが高野にある“高野の野神さん”でした。

「野大神」は杉の木ですが、高月町には昔から大きなケヤキの木が多く、かつてはケヤキの古名「槻」を取って「高槻」と名付けられていたといいます。
その後、平安時代後期の歌人・大江匡房が月見の名所として詠んだことにより、「槻」を「月」に改めたと伝わり、現在も正式名は「高月」となっています。



「野大神」と呼ばれていることから農耕の神様として崇められてきたのだと思われ、高野の集落の入口に村のシンボルのようにこの巨大な杉はそびえ立っていました。
記録がないので正確なサイズは不明ですが、少なくとも電柱や電線よりは遥かに高く、幹も何人かで幹に手を回さないと届かないほど太い。



木の根っこの所には石が数多く積まれてあり、大半が前垂れをして微かに彫りが残った石仏らしきものや五輪塔の一部だったものが集められています。
集落の入口の三叉路にあるこの野大神は、農耕地と集落との結界でもあり、道祖神のような役目を負っていたとも考えられます。



野大神の横には石製の祠に石仏地蔵が祀られ、さらに横には石仏地蔵が積まれてあります。
湖北の農村にはこのように石仏が一ヶ所に集められているのをよく見かけます。



さて、もう一ヶ所気になっていたのは同じ高月町の井口集落にある石仏地蔵群です。
井口集落内の細い道を進みながら探すものの、中々行き当たらない。
地元の人に聞いて場所を教えて頂いて何とかたどり着くことが出来ました。



実は聞いた時に“石の地蔵さんがたくさんある場所をご存知ですか?”と聞いたところ、“たくさんはないけど石仏はある。”とのことでしたが、これは“たくさんある”だと思いました。
中央の大きな石には地蔵菩薩が透かし彫りされており、上部に割れた跡はあるものの、岩の形をうまく使って彫られているなぁと感心致します。



近くに居られたおばぁさんに“この石仏群はいつの時代のものとかご存知ですか?”と聞くと、農地整理をした時に田圃脇に祀られていたものや埋まっていたのを掘り出して集めたので古いことは分らないとのこと。
“集落の地蔵盆はこちらでされますか?”と聞くと、やはりこの石仏群の前で行われるとおしゃられていましたので、村人に守られ村を守るお地蔵さんです。



しかし、これだけの数の石仏地蔵や五輪塔が全部畦道にあったのかと不思議に思ってしまいます。
同じ長浜市の西浅井町「黒山の石仏群」では廃仏毀釈の時に山に埋めた石仏を掘り出してお祀りされていますので、こちらでも事情があったのかと一瞬想像してしまいます。
しかし、道祖神として地域のあちこちを守ってきた石仏群と考えるのが正しいのでしょうね。



湖北には集落でお守りする観音様やオコナイを始めとする神事が今もなお、しきたりを守りながら続けられています。
その中で何世紀にも渡って残されてきたものを見て回るのは実はかなり面白いことなのだと思っています。


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「観音の里ふるさとまつり2019」4/10~高月町井口 己高山 理覚院~

2019-10-24 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高月町井口の円満寺から歩いてすぐの場所に「理覚院」があり、この区間は徒歩での移動となりました。
理覚院は、かつてこの地にあった「己高山長安寺」という巨刹の一坊で、長安寺は800年に開基されてから平安・鎌倉期には隆盛を極めたとされます。

しかし、幾多の戦乱・政変・宗教的変遷を経て室町期中頃より寺勢は衰退し、天正年間には兵火によって荒廃してしまい、わずかに理覚院一坊だけが残ったといいます。
現在は民家のような「本堂・庫裡」と「観音堂」、「庭園」を残すのみですが、幾つかの意味で興味深い寺院でした。

 

理覚院は湖北では数少ない真言宗豊山派の寺院で、現在では別の寺院の住職が兼務されている寺院のようです。
同じ井口にある円満寺と同様に平安期など古い時代の仏像は残っていないものの、江戸期頃の仏像が多数祀られているのが特徴です。



井口集落は古来より高時川の水利に恵まれていたようですので水利に不自由がなく、仏像の奉納にかける余裕があったのかもしれません。
前の川にも綺麗な水が流れていて、子供の頃にこんな感じの川で網を持って魚捕りをしたなぁと懐かしく思う。



観音堂の中には厨子に納められた「聖観音立像」を中心にして、西国・秩父・坂東の三十三所札所の観音像と「十一面観音立像」の「百体観世音菩薩」が安置。
大きな仏像はありませんが、さすがにこれだけの数の観音像が並ぶと圧巻の迫力です。





御本尊の「聖観音菩薩立像」は像高40cmほどの仏像で、お顔の表情は女性的な印象を受ける仏像です。
表情から受ける女性的な印象以外にも、躰に対して小さく華奢な手がより女性的な印象を与えている。





未だに西国三十三所巡礼を満願していないのですが、ここへ参れば西国だけでなく秩父と坂東の札所巡りも仮巡礼出来るということになります。





ところで、世話方の方と話していて初めて知ったのが、当地の武将「井口弾正」の名前でした。
井口弾正は浅井家の重臣(湖北四家の一つ)だったとされ、系図で見ると「浅井長政」の祖父になる方です。

井口氏は遡れば崇峻天皇の後裔・常世親王を出自とするとされ、また近江国主・佐々木家の一族で東条氏と称したとされる名門の家柄のようです。
結局は、姉川の合戦で敗れた後、小谷城を責められた際に敗死したとされ、井口家は断絶したといいます。
(ただし地方に逃れた一族の末裔は現在も存在するらしいとのこと)





本堂と観音堂の間に石塔が並べられている一角があり、井口弾正の墓も含まれているという。
唯一年号が読み取れた石塔には“宝永7年(1710年)”の銘があった。



さて、本堂というか古民家というかといった御堂ではおばぁさんから丁寧な説明を頂きました。
須弥壇には智拳印を結ぶ「大日如来坐像」と「僧像」が2躰、「不動明王」が祀られている中、特に大日如来はとても見ごたえがあります。



元々大日如来は大好きな仏像なんですが、この凛々しいお顔の大日如来には人を引き付けるものがあり、宇宙の中心とされる如来の存在感があります。
観音堂・本堂にこれだけの仏像が安置されている寺院が無住とは惜しいなと思う。





世話方の話を聞いていると、現在この寺院には檀家が4件しかなく、元は農地もあったが農地改革により寺領がほとんどなくなったとおっしゃいます。
湖北は真宗王国とも言われますから、真言宗(豊山派)は中々苦しい事情がある中で、観音様を維持管理されてきた地域の方の尽力に感心します。。





本堂と観音堂の間には小堀遠州作とも言われる江戸前期の「理覚院庭園」がその姿をとどめています。
小堀遠州は市町村合併前の長浜市の出身で茶人・建築・造園など多彩な才を発揮し、寺院巡りの時に遠州の造園したとされる庭園を見る機会は多いと思います。



巡回バスⅠコースはこの後、渡岸寺観音堂を経て高月駅へゴールします。
では高月駅で別コースの巡回バスに乗って次なる観音堂へ向かおう。


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「観音の里ふるさとまつり2019」3/10~高月町井口 己高山 円満寺(日吉神社)~

2019-10-23 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「己高山 円満寺」は元々「井口日吉神社」の神宮寺だったといい、古くは奈良仏教や白山信仰の影響下にあり、近世まで天台宗に属していた寺院だとされます。
円満寺は、己高山五箇寺の「観音寺」の別院であったとされ、「惣山之七箇寺」の一つに数えられたといいますから、古い歴史を持つ寺院です。

平安・鎌倉期には末寺六坊を従えて栄えたものの、度重なる戦乱などにより次第に衰退していってしまい、現在は無住の寺院として井口区民によって護持されているといいます。
村は十組に分かれていて、毎月組毎に円満寺の法要を執り行っており、オコナイの神事の場でもあるといいます。

 

円満寺は日吉神社の神宮寺として境内の奥にあるため、入るのはやはり大鳥居からということになります。
鳥居の奥には拝殿・本殿があり、これだけ見ると中に寺院があるとはとても思えない感じがします。



鳥居の前には「鐘楼」と池が飛び境内のようにしてあり、「梵鐘」は県内で有銘鐘楼中で最古の銅鐘として重要文化財に指定されています。
銘には1231年とあるので鎌倉期の梵鐘になりますが、何と鐘を撞かしてもらえるという。

重要文化財なのでなるべく優しく撞かせて頂くと、実に柔らかく響きの長い梵鐘でした。
おそらくクラック等のない良好な状態なのでしょうけど、800年近くの間よく保存されてきたものです。



鳥居から神社の境内に入ると、正面が本殿、右奥が観音堂という配置になっている。
まずは神様にご挨拶してからということで、先に神社の方へと向かいます。



手水で身を清めようとすると、豊富な水量の冷たい水が流れて出ており、尺で掬った水を手に掛けると冷たくてとても気持ちが良い。
水の中にはおもてなしのお茶が冷やされているが、この冷たさなら程よく冷えることでしょう。



少し驚くのが神社の本殿がかなり立派な造りだったこと。
井口日吉神社は1270年に創立されたといい、現在の本堂は1738年の再建だといいます。
円満寺の縁起と合わない部分があるが、鎌倉期以降に神宮寺になったということか。



さて、円満寺は井口日吉神社の奥にひっそりと祀られた御堂でした。
かつての大寺は今は観音堂を残すのみとなり、栄枯盛衰は世の習いとはいえ少し寂しいものがあります。



「十一面観音立像」は室町期以降の作のようではあるものの、出来栄えは素晴らしく表情は美しい。
歴史ある天台系寺院ですから平安期の仏像が残っていてもよさそうだが、織田信長と浅井長政の合戦で灰塵に帰したということなのでしょう。





十一面観音立像は至近距離で拝観出来るのですが、落ち着き払った表情のお顔からは澄み切った心が伝わります。



右に祀られた「阿弥陀如来立像」はふくよかなお顔に微かな笑みを浮かべておられ、厨子からも年月が感じられます。
また、「地蔵菩薩坐像」は凛々しくも穏やかな表情をされ、集落の子供達を見守っておられます。





境内には何の木から不明ですが、幾本もの根が張って生命感の強さを感じさせる木がありました。
巡回バスの車窓から見えた「野大神」の大木が気になるのですが、あれがどこだったががどうしても思い出せない。



湖北の観音様は戦乱の戦で失われたもの、廃仏毀釈で失われたものが多数あると言われています。
しかし、土中に埋める・水中に隠す・失われたことにするなど地域の方の決死の信仰により守られてきた仏像が今も残ります。
小さな観音堂を巡って地域の老人方の話を聞くと、連綿と続いてきた“おらが村の観音さん”への強い愛が伺われます。


『星と祭』復刊本と『星と祭』復刊プロジェクト公式ガイドブック


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「観音の里ふるさとまつり2019」2/10~高月町高野 高野大師堂(高野神社)~

2019-10-22 17:38:17 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「高野大師堂」はかつて己高山満願寺と称して、己高山仏教圏の中心寺院「惣山之七箇寺」の一つだったとされます。
最盛期には四十八の僧坊が栄え、堂宇跡を連想させる地名が高野には今も幾つか残っているといいます。

高野大師堂は「伝・伝教大師坐像」を祀りながらも、「薬師堂」に薬師如来を祀り、横には「高野神社」の社殿が横並びになっているという神仏習合の寺院です。
己高山仏教圏は、山岳信仰に白山信仰や天台密教が融合していったと言われることが多いですが、各集落では「村の宮さん・村の真宗寺院・村の観音さま」の3つが並列している印象が強くあります。

 

観音巡りなのに神社の鳥居から入ることになりますが、これは湖北の観音堂ではよくあることかと思います。
それだけ湖北には神仏習合の名残りが残っていると言え、あるいは檀家寺とは別に村の観音さまと神様を守ってきた歴史が残っているとも言えます。



3つの堂・殿が横並びになる中、中心にあるのは「薬師堂」。
この御堂がかつての己高山満願寺を継承する御堂のようです。



堂内の須弥壇には造りの良い厨子が置かれ、中に「薬師如来坐像」が祀られています。
薬師如来像からは繊細な医師の印象よりも大病院の偉い先生のイメージがあり、割腹がよく頼りがいがありそうな薬師さんです。





厨子の横には「日光・月光菩薩立像」「不動明王立像」「毘沙門天」「一二神将」が並んで薬師さんを守護しています。
御本尊の薬師如来と比べて傷みや劣化が多く見られるのは、制作年代の違いなのかもしれませし、修復の有無かもしれません。





次に向かって左にある「大師堂」へと向かいます。
高野は実に自然豊かな集落で自然に溶け込むように堂宇があり、気持ちの良い場所です。
ただし、ここにも“熊に注意”の看板がありましたので、山へ入るとツキノワグマに遭遇するかも?



大師堂に祀られている「伝・伝教大師坐像」は九鬼隆一・岡倉天心らの調査により、明治24年に重要文化財の指定を受けています。
また、像内の墨書により1283年に仏師院信によって造られたことが判明している寄木造・彩色・玉眼の像高75.8cmの鎌倉期の仏像です。



かつては「伝・伝教大師坐像」は最澄の肖像だとされてきましたが、近年になってその特徴から慈恵大師良源(元三大師)の肖像だと考えられているそうです。
元三大師は比叡山延暦寺の第18代座主で出身が長浜市の虎姫だとされていますので、天台宗が盛んだったこの地に地元出身の高僧を祀ったとしても全く不思議な話ではないですね。



境内にはここにも地蔵石仏が集められて安置されています。
赤い前掛けは新しそうに見えるものが多く、高野の方が丁寧にお祀りされているのだと思います。



写真では分かりにくのですが、境内にある池はゴツゴツとした岩で組まれ、この池にも中々の魅力を感じます。



境内の一番右にあるのは「高野神社」の社。
大きな神社ではないものの、整備が行き届き気持ちのいい場所です。



巡回バスは30分毎に巡回しますが、段々と遅れが生じてくる。
待っている間に地元の方に“己高山はどの山ですか?”と聞いてみると、“正面の山。”とのことでしたので記念撮影をする。



別の方向にカメラを向けると稲刈りの終わった田園地帯が広がる。
琵琶湖近くの田園地帯と少し違うのは、どの方向を見ても山に突き当たることでしょうか。



今年の観音の里まつりは山間の隠れ里のような寺院から巡り始めましたが、次は平野部へと向かう。
巡回バスは西へと進み、高月駅方向に近づくに連れ、徒歩やレンタサイクルで寺院巡りをする人の姿が多くなってくる。


『星と祭』復刊本と『星と祭』復刊プロジェクト公式ガイドブック


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