僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

干支の兎が神の使い「小槻大社」に参拝~滋賀県栗東市~

2022-12-31 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2023年の干支は「癸卯(みずのと・う)」、十二支では「卯(う)」でうさぎ年です。
“うさぎは跳びはねるので飛躍の年”とか“子沢山なので豊穣・子孫繁栄の年”と言われていますので、明るい話題が多い1年になって欲しいと願います。

神話の世界の「因幡の白兎神話」では、兎は大国主命(大己貴命)の求婚譚に登場する神の使いとされています。
「因幡の白うさぎ」は、ワニをだました兎が仕返しに皮を剥がされ、大国主命の兄の八十神たちに意地悪されて苦しんでいるところを大国主命に助けられ、兎の予言通り大国主命は美しい姫と結ばれたという話。
栗東市には大己貴命(大国主命)を配祀神として祀り、兎を神の使いとする「小槻大社」があり、兎は「御神兎」として奉られています。



「小槻大社(おつき)」は、古代に栗太郡の豪族・小槻山君が祖神として「於知別命(第11代垂仁天皇の皇子)」を祀ったのが始まりとされ、於知別命を御祭神として祀っている。
小槻氏は奈良時代宮廷に釆女を貢進し、平安時代から明治の新政に至るまで官務家(左大史)を世襲して朝廷に仕えたという歴史を持つ家柄だという。



神社は住宅地の生活道路の奥まったところにひっそりと祀られており、道に迷いながら到着しましたが、「大社」と名が付くだけあって広い境内を持つ神社でした。
参道の両脇には石灯籠が並び、ほぼ全ての石灯籠に「真向兎」の御神紋が彫られています。



「小槻大社」の御祭神・大己貴命(大国主命)の「因幡の白兎神話」にちなんで祀られているのかと思いますが、小槻山君の“槻”は“月”とも読み替えられ、月は兎にまつわる。
大己貴命(大国主命)が配祀神として祀られたのは、境内と隣接した天台宗・楽音寺(廃寺)の影響で、日吉大社西本宮から勧請されたものと推察されているそうです。



兎の石像が祀られている場所は参道に複数個所あり、「御神兎」として真向きの兎と立ち上がった兎の石像も祀られている。
大津市の「三尾神社」にも兎が祀られており御神紋は「真向きのうさぎ」ですが、三尾神社の方は三尾明神が卯の年・卯の月・卯の日・卯の刻・卯の方から現れたという言い伝えによるものだとか。



参道の横には「小槻大社古墳群」があり、小槻大社周辺には5世紀に築造された古墳が17基確認されているという。
小槻大社古墳群は小槻山君一族の墓とされていて、住宅地の中にある小槻大社の鳥居近くには「下戸山古墳」、同じ下戸山地域には「和田古墳群(9基)」など古墳の密集地帯でもある。



1号墳と呼ばれる円墳の墳頂には「龍王社」の祠があり、周辺に点在する石はかつての石室を構成した石組の一部と考えられているという。
この古墳は径25mの円墳で横穴式石室があったと推定されているが、知らなければ古墳と気付けないかもしれず、近隣に点在する古墳も田圃や宅地や墓地に姿を変えている場所が多い。



境内には「本殿」「拝殿」と八坂社(祇園社)、日吉社(山王社)、稲荷社が祀られており、周辺は鬱蒼とした木々に囲まれています。
この境内では毎年5月5日に例祭「小杖祭り」の祭礼が行われて花傘踊りが奉納されるという。
「小杖祭り」の風流踊は「草津のサンヤレ踊り」とともに「近江湖南のサンヤレ踊り」として国の重要無形民俗文化財に指定されているとのことです。



本殿と拝殿の右側には御神木が祀られており、分岐した枝が伐られていることから独特の姿をしています。
幹周は巨樹レベルではないものの、樹高の高さは神社を取り巻く木々に負けず劣らずの高さがあります。



「本殿」は永正16年(1519年)に建立された建築物で国の重要文化財に指定されている。
本殿内の宮殿には平安期の「木造男神座像(伝落別命像、伝大巳貴命像)の2躯が祀られていたといい、こちらも重要文化財の指定を受けているといいます。
(栗東歴史博物館に寄託)



本殿の向拝には「六角型菱灯籠」や「燈籠」が吊るされており、灯籠にも神紋である「真向兎」があしらえられた珍しいものです。
神社では生き物を神使として捉えることが多々あり、その種類は哺乳類・鳥類・爬虫類・想像上の生物と幅広く、人は生き物に霊的なものを感じ取ってきたとも言えます。





神使としての生き物は、神社の縁起や御祭神の縁に基づいて後年になってから奉られるようになったと思いますが、それぞれの神社での奉り方には興味深いものがあります。
うさぎの長い耳のように感度良く情報を集め、災難は脱兎の如く回避して、急坂をピョンピョン飛び越えていくような飛躍の年になることを願います。




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「大溝城址」と「乙女湖」~織田信長の琵琶湖城郭ネットワーク~

2022-12-28 18:08:28 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「近江を制する者は天下を制す」とは戦国時代の近江を表す言葉で、近江には京の都へ入る東海・北陸からの主要幹線があり、要衝と琵琶湖水運を抑えるため織田信長は琵琶湖近くに4つの城を築いたといいます。
「坂本城」は比叡山延暦寺焼き討ち後に明智光秀が城主となり、「長浜城」は浅井長政を小谷決戦で滅亡させた後、羽柴秀吉が城主となる。
「安土城」は信長の居城として築城され、湖西高島市の「大溝城」は信長の甥である織田信澄を城主とし、琵琶湖の制海権を掌握したという。

4城ともに琵琶湖に面する、あるいは内湖によって琵琶湖とつながっている城で、光秀や秀吉など信長配下の有力武将が配置されていたのが配置図で分かる。
しかし、今はどの城も石垣などを残すのみとなり往年の姿はなくなっています。



「大溝城」のある勝野の町には中央に「西近江路(旧北陸街道」が通り、江戸時代に大溝藩の陣屋があったことから古くて大きな建築物が多く、宿場町のような雰囲気があります。
一時期は観光の町だったようですが、日曜にも関わらず大半の店は閉められており、町は閑散としたものでした。



「大溝城」の城主の織田信澄は信長の甥ですが、父の信勝は謀反の企てにより信長に殺され、柴田勝家の許で養育された方とされます。
信長の居城である「安土城」の大手道には「伝 前田利家邸跡」「伝 羽柴秀吉邸跡」「伝 徳川家康邸跡」の遺構があると伝わりますが、「織田信澄邸跡」は本丸に近い黒鉄門近くにある。

「織田信澄邸跡」と「森蘭丸邸跡」は本丸や二の丸・三の丸に近くの中枢部にあることから、信澄や蘭丸は側近として信長の信任が厚かったことが伺われます。
残念ながら信澄は正室が明智光秀の娘だったことにより、本能寺の変の際に織田信孝・丹羽長秀によって謀反人の汚名を着せられて殺されてしまいます。



「大溝城」は信澄の死後、丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正・京極高次らが城主を勤めたものの、やがて解体されて水口岡山城(甲賀市)に移されたといい、今は本丸跡の石垣などが残るのみ。
江戸時代には分部光信が初代大溝藩主となり、大溝陣屋を築いて城下町を整備したとされますので、現在はこの本丸跡だけが安土桃山の遺構となります。



石垣は野面積みとなっており、隅部は算木積みとなっているが、木が根を張っていて一部は崩壊しそうになっている。
かつての本丸・二の丸・三の丸は「乙女ヶ池」という内湖に囲まれていて琵琶湖にもつながっていたそうですが、内湖も一部を除いて埋め立てられてしまっています。



織田信長の琵琶湖城郭ネットワークは知りうる限りでは、安土城の石垣はかなり修復されていますが、長浜城は城は建てられているものの博物館としての城、坂本城に至っては湖底に石垣があるのみ。
そう考えると大溝城はまだ遺構が残っている城址になり、石段を登って天守跡まで行くことが出来る。



このスペースに天守があったのかと思ってしまうほど狭い感じがしますが、当時はどのような天守が建てられていたのでしょう。
江戸時代に築かれた名城と呼ばれるような天守閣の印象があり過ぎて想像するのは難しいように思えてしまいます。



本丸の規模は、南北約57m・東西約52mとされ、天守台跡の表示のある場所には大きな岩や加工された石が積まれています。
この辺りからは安土城の軒丸瓦と同じ軒丸瓦が出土しているようですが、安土城のような金箔瓦は出土していないといいます。
これは信澄が甥であり、信長の直系一族ではなかったため金箔瓦の使用が認められなかったと滋賀県文化財保護課の解説にありました。





1664年の「大溝城下古図」では大溝城の主要部が内湖に囲まれており、すぐ横には琵琶湖に面した城であったことが分かります。
琵琶湖に面していることで有事の際には舟で軍勢が駆けつけることができ、京と若狭を結ぶ湖水運の拠点としても便の良い位置にあった城だと考えられます。



城を取り巻いた外濠だった内湖の乙女ヶ池にはかつての船着き場かと思われる遺構が残り、湖の東西を対岸まで渡ることができる橋が架けられています。
時代劇に出てくるような橋だなぁと思いながら対岸まで渡ってみると、対岸近くの橋の上にはナンキンハゼの実がたくさん落ちていて季節を感じます。



所々に竿を垂れる人がおられるような広い内湖が残っていますが、古地図からすると昔はもっと広い内湖だったと推測できます。
乙女ヶ池は古代史にも登場する内湖とされ万葉集の歌枕として詠まれているといい、かつては「洞海」と呼ばれ昭和初期から「乙女ヶ池」と呼ばれるようになったという。



大溝城址と乙女ヶ池を一回りしましたので、大溝城の瓦や高島にある古墳出土品が展示されている「高島歴史民俗資料館」へと立ち寄ります。
高島歴史民俗資料館のすぐ近くには「鴨稲荷山古墳」がありますので、まずは古墳に立ち寄る。



近江高島といえば第26代天皇の継体天皇の出生地とされていますが、継体天皇は第15代応神天皇の五世孫ですから、本来は天皇には到底なれない血筋の方です。
継体天皇は幼いときに父を亡くして母の故郷である越前国で育てられて越前と高島を行き来したといい、高島では有力豪族であった三輪氏の庇護を受け、三輪氏は二人の妃を継体天皇に嫁がせたとされます。

「鴨稲荷山古墳」は多数の豪華副葬品が出土した前方後円墳とされていますが、今は石棺を保管する覆屋だけが残ります。
高島には継体天皇に関連する遺跡や伝承が多く残るものの、天皇になった経緯には謎めいた部分が多く、神話の時代を含む天皇系統では継体以降が現在の天皇系統の始まりとする説があります。



前方後円墳の跡形もないような原っぱに石棺を納めた覆屋があり、中には入れませんが3方向の窓から石棺を見ることが出来ます。
石棺は凝灰岩製の刳抜式石棺だとされ、奈良県と大阪府にまたがる二上山から運び込まれたものとされ、副葬品の豪華さから継体天皇の三尾氏出身の皇子が被葬者だという説があるようです。



継体天皇以降の系統は息子・孫と歴代の天皇が続き、曾孫に聖徳太子(厩戸皇子)までいますから、飛鳥時代の大王の系譜として血をつないだ方ということになります。
高島・越前時代に三輪氏の妃と婚姻していた継体天皇は、24代仁賢天皇の娘であり25代武烈天皇の姉である手白香皇女を皇后に迎え、その子供たちが天皇に即位したのは血統を正すためだったのか。



古墳のすぐ近くには「高島歴史民俗資料館」がありますので立ち寄ってみると、興味深いことに鴨稲荷山古墳の石棺や冠・靴などの復元品が展示されていました。
1階の展示室の真ん中には家形石棺の復元品があり、蓋石の部分が半開きになっています。



石棺の中には謎多き被葬者が葬られており、当時の被葬の様子が垣間見えます。
棺内に納められていた副葬品は東京国立博物館に保存されているため実物を見ることは叶いませんが、復元された副葬品の展示からは6世紀前半の古墳の副葬品に想像を膨らませることが出来ます。



「鴨稲荷山古墳」から出土された「金銅製冠」は正式には「金銅製広帯二山式冠」というそうで、「滋賀県立安土考古博物館」にも復元品があったと思います。
煌びやかな冠の頭上にある飾りは魚の泳ぐ波の上に舟が浮かんでいるようにも見えることから、渡海してきた渡来人との関わりを指摘する説があるという。



煌びやかという点で「金銅製飾履」も実に豪奢な履物となっており、履物の裏側が鏡に映り装飾がよく見える展示方法となっています。
これほどの金銅製宝冠と飾履が副葬品が埋葬されていた古墳ですから、豪族というよりも大王にまつわる人物の墓と推定される説には頷けるものがあります。




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宇佐山城址と坂本城址~宇佐山テラスからの琵琶湖~

2022-12-25 06:36:56 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大津市の近江神宮の後方に控える宇佐山は比叡山系の南東に連なる低山で、山腹には「宇佐八幡宮」が祀られ、山頂には「宇佐山城址」があります。
また宇佐山八幡宮の麓側(標高約150m)の地点では古墳時代中期前半から後期の古墳群が確認されており、「宇佐山古墳群」と呼ばれているといいます。

山頂の「宇佐山城」は、織田信長が浅井・朝倉連合軍に備えて森可成(森蘭丸の父)に築かせた城で、安土城以前に近江で最初に石垣による築城を行った城郭とされている。
その後、比叡山焼き討ちで武勲をあげた明智光秀が坂本の地を拝領し、「坂本城」を築いたため宇佐山城は廃城になったと考えられているようです。



近江神宮の駐車場から坂道を登っていくと「宇佐八幡宮」の石標があり、この先が宇佐八幡宮の参道となっている。
大津市の宇佐八幡宮は平安時代の河内源氏の2代目棟梁の源頼義(頼朝の5代前の先祖)が1065年、前九年の役を平定して当地に館を構えて九州大分の宇佐神社を勧請したという。



石標の後方に“よしず”に囲まれて結界が張られている場所があり、その中央岩の上に御幣が立てられている。
もしかするとここは宇佐山古墳のひとつのようで、後方にももう1基の古墳があるように見える。



古墳の上に神社や祠が祀られていることが多いと感じているのですが、諸説ありつつも古墳=神ではなく、後世になって古墳があった場所に神を祀ったということのように思います。
少し登ると宇佐八幡宮の鳥居があり、ここから先は神の領域に入りますので、帽子を脱いで一礼して鳥居を抜けていきます。



朱色の玉垣に囲まれた結界の中にもう一つの鳥居があり、中に石をお祀りしています。
この小山も円墳ではないかと言われている場所で、直径10mほどの円墳とされているものの、形を把握は出来ない。



祀られている岩は「御足形」と名付けられ、源頼義が宇佐八幡宮を勧請して創建した際の御神示の沓形と称して信仰されているといいます。
御利益は健脚を祈り霊験を受けるとされていますので、健脚を祈ってもっと歩けるようお祈りしておきました。



ここで道は表参道と神輿道に分岐していたので門構えのある表参道を登ります。
この辺りまでは下界の喧騒が若干聞こえてきますが、坂を少し登ればこんなに落ち着いた佇まいの神社があるのは大津ならではなのかなぁと思いつつ歩を進めます。



門をくぐって進んだ先には「金殿井」という天智天皇ゆかりの井戸があります。
667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都して翌年に天智天皇として即位するのですが、その頃の伝承でしょうか“天智天皇御平癒の霊泉として拝飲す”と書かれてありました。





参道の途中に宇佐山城址への分岐がありますが、まずは参拝ということで石段を登って宇佐八幡宮の拝殿・本殿へと向かいます。
標高200mの山腹にある神社とは思えないほどの立派な神社で、御祭神は応神天皇を祀り、境内社には若宮八幡宮・丹後宮・蛭子社・高良社 (稲荷社)をお祀りしています。



参拝した後は石段を下って分岐まで戻り、宇佐山山頂を目指します。
道は最初はゆるやかで後半少し急なところもありますが、急勾配の所や崖の横などにはロープが張られ、時には倒木や木の枝を使って道が仕切られていたりするので道迷いはありません。



ただ木の根が剥き出しになっている場所が多いので、躓かないように歩かないと足を引っかけてしまいそうです。
ふくらはぎに負担を感じるような道が続きますが、地元の小学生のメッセージを書いた看板や道しるべが各所にあるため退屈せずに登っていける。



崖の上の方に本丸の石垣が見えてきました。
滑り落ちそうになりながらも何とか登りきって石垣の前へと登りますが、落ち葉で滑りやすい急坂なので次は下りるのが大変そうです。



宇佐山城は湖西から京へ上る場合に必ず通る街道筋であり、街道を監視する役割があったとされ、浅井・朝倉連合軍に組した比叡山延暦寺の僧兵との戦いは宇佐山城から坂本へ下って戦ったといいます。
この戦いで兵力に劣る森可成らは討ち死にしたものの城兵の抵抗により落城を免れ、摂津で三好三人衆と戦っていた信長軍の入城により浅井・朝倉軍を追い詰めていったとされます。



山頂近くまで登ると道が両サイドに分かれていて、ひとつは眺望の良い「宇佐山テラス(三の丸跡)」への道で、もうひとつはNHKと民間放送のアンテナ施設のある「本丸跡(宇佐山山頂)」。
階段を登って本丸跡へ行くと、本丸跡地はアンテナ施設がスペースの大半を占めており、周りにある周回道に山頂表示があった。



アンテナ施設を越えて二の丸跡だと思われる場所に行くと、石仏が祀られている。
建物に独占されている山頂(本丸跡)よりこちらの方が雰囲気がありますね。



山頂から下りて「宇佐山テラス」へ向かうと目の前には湖西からの琵琶湖の絶景が広がります。
毎度のことながら琵琶湖の南湖は巾が狭いなぁと感じてしまうほど対岸の草津が近い。
琵琶湖大橋の向こうに見える島は沖島でしょうか、観音寺山らしき山も確認出来ます。



南西方向には大津プリンスホテルと近江大橋。
後方の山々は金勝アルプス、山の向こう側は信楽といった感じでしょうか。



宇佐山城は明智光秀が坂本の地を拝領して「坂本城」を築城後に廃城となっています。
せっかくなので光秀の坂本城址へと寄り道して見ましたが、城址公園や石碑があるだけで見事なまでに何も残っていませんでした。

坂本の住宅街を歩いていくと「坂本城の二の丸跡」だったとされる場所に「坂本城址」の石碑が建っている。
復元図によると琵琶湖に面して本丸、内堀を挟んで二の丸、中堀を挟んで三の丸があり、その外側が外堀。中堀に沿って北国街道が通っている。



信長は4つの城で琵琶湖の水運を押さえたといい、「安土城(信長)」「坂本城(光秀)」「長浜城(秀吉)」「大溝城(織田信澄)」が配置されていた。
それぞれ琵琶湖や内湖を利用した城となっており、信長が交通と水運を重要視して主要な人物を城主に充てていたことが分かります。
坂本城址公園は本丸のあった場所より少し南になりますが、石碑や説明板と共に明智光秀の像が立てられていました。




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彦根城金亀児童公園で「猿回し」~「二助企画」の二助三助~

2022-12-22 17:33:33 | 風景・イベント・グルメ
 何でそんなに猿回しに遭遇されるの?と呆れられてしまうほど猿回しによく出会います。
彦根城を観光していたら「猿回し」のノボリが立ち、お猿さんと猿使いの方がおられるのを発見。さっそく席に座って人が集まって来るのを待つことにしました。

よく遭遇する猿回しは大阪の「仁助企画」というプロダクションで、今回登場のコンビは「仁助三助」のコンビ...ということは社長自らのコンビで出演です。
二助企画には17組のコンビが在籍して活動中とのことでこれまで何組かは見ていますが、二助三助の三助猿はこれまでの猿とは比較にならないほど体が大きい。



ちょうど昼時ということもあって集まりが悪い中、自転車で駆け付けた子供が2人座ったのを見て初見の人も安心されて人が集まり出し、舞台が始まることには立ち見の方の輪ができる。
下は人の集まり待ちの時、客を飽きさせないように三助がポーズをつけて各方向を向いての写真撮影タイムの時のものです。



まず最初の芸は「竹馬でハードル連続ジャンプ」で、これはまずは足慣らしといったところです。
三助は2011年6月25日生まれの♂で京都生まれ。人間に直すと35~36歳くらいになるとか。



体が大きいためか跳躍力は高く、最初はハードルを横に並べての飛び石ジャンプでしたが、次は縦に三段積んだ竹馬大ジャンプです。
竹馬に乗りながら高いハードルを越えますので、かなり迫力があります。



猿は神様の遣いとされて1000年も前から行われているといい、日本の伝統芸能のひとつとして人々を和ませてくれますので、見かけると通り過ぎてしまうことの出来ない芸です。
“猿真似”や“猿芝居”なんて言葉がありますが、猿回しは15分ほどの時間ながら芸のクオリティの高さと猿使いの方の軽妙なトークや猿の小ネタ・大ネタは日頃の憂さを忘れさせてくれます。



竹馬のハードル跳びの後は跳び箱を飛んで逆立ち着地と逆立ち上りの芸です。
自然の中で出会う猿は木から結構離れた木まで飛んだりはしますが、逆立ちで着地はしませんので調教あってのものです。



二助企画の猿回しコンビでは三助が特に大きいせいもあってか、跳び箱ジャンプの距離がかなり遠い距離になっています。
まさに驚異のジャンプなんですが、運動能力で人は猿には絶対勝てないなと実感してしまう跳躍力です。



二助さんの話だと猿も年齢を重ねると自我が芽生えてきて芸をさせるのも大変とのこと。
うまく動いてもらって客を楽しませる技術も中々大変だと思いますが、芸の内容を指示するコンビにだけ分かる合図のようなものがあるように感じました。



ところで、彦根城に付随する「玄宮楽々園」へは十数年振りの再訪となり、その時は彦根城の祭りで武家衣装や町人姿の人に囲まれながらの庭園散策でしたが、今回は観光の方が歩かれているのみでした。
「玄宮楽々園」は彦根藩4代藩主・井伊直興が整備したとされ、後に第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として現在の形に近い形に整備されたという。
「楽々園」の方の庭は枯山水の庭になっており、「玄宮園」の大きな池泉回遊式庭園と対極をなしています。



「玄宮園」の池には9つの橋が架かるといい、近江八景を模して作られているとされています。
いわゆる大名庭園になるとはいえ、大名庭園は彦根藩の「玄宮園」以外には加賀藩の「兼六園」くらいしか行ったことはなく記憶も曖昧です。



12月ながら一部紅葉が残っており、山の上には彦根城の天守が見えます。
江戸時代の天下泰平の世では有力な藩が競い合うようにして造園したため、日本庭園の造園技術は最高の水準になったとされています。



玄宮園に橋は多いのですが、渡れる橋はひとつだけ。
彦根城や玄宮楽々園は朝の散歩に最適な場所だなぁと思いましたが、開場時間があって有料なのでそれは無理なようです。




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現地体験型VR観光で「彦根城」を訪れる~ストリート・ミュージアム~

2022-12-19 06:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 現地体験型VR観光「ストリート・ミュージアム」というアプリは、今は失われてしまい見ることができなくなってしまった史跡を、現地で今の姿とありし日の姿を比較して見ることができます。
アプリが使える史跡は城郭・神社仏閣・古代遺跡・産業遺産・街道宿場町などがありますが、数の多いのは城郭となっていて、滋賀県では安土城と彦根城があります。

安土城は廃城になって数百年、石垣などは復元が進められていますが、天守閣は勿論なく礎石のみとなっているため、ストリート・ミュージアムではバーチャルな城郭の姿が楽しめました。
彦根城は天守が国宝に指定(犬山城・松本城・姫路城・松江城)されていて、ありし日の姿が残されているお城ですが、さてバーチャルで見たらどんな感じになるのでしょうか。



彦根城は徳川四天王の一人・井伊直政が関ケ原の合戦の軍功によって近江国北東部を領地とし、当初は石田三成の居城であった佐和山城に入城したものの1603年から金亀山に彦根城の築城を開始したという。
彦根藩主・井伊家は江戸時代に大老を5代6度出した家系であり、明治の時代には華族として彦根藩知藩事を勤め、その後彦根市長を9期に渡って務めたといいます。



彦根城は湖岸道路を走行すると必ず目に入るお城ですが、訪れたのは2007年に彦根城 西の丸三重櫓で開催された「ホリ・ヒロシ人形姫絵巻」以来で15年振りになります。
城では観光客の多さに驚くこととなり、これは観光復興キャンペーンの影響が大きいのかと思います。



ゆるやかで段の広い石段を登っていくと重要文化財「彦根城天秤櫓」へと到着する。
ここに架けられた廊下橋は表門山道や大手門山道から敵が入ってきた場合は落として敵の侵入を防止すると伝わる。
建物土台の石垣は右が築城当時の打込みハギ積み、左が江戸後期の落とし積みとなっていて時代による石垣の積み方の違いがみえます。



廊下橋を渡っていくと「天秤櫓」へ入ることが出来るが、その手前に「オオトックリイチゴ」という彦根城固有の植物群が見られます。
オオトックリイチゴは自生の「ナワシロイチゴ」と中国・朝鮮半島原産の「トックリイチゴ」の自然交配種とされ、7月には淡紅色に熟した果実が実るそうです。



「天秤櫓」は豊臣秀吉の長浜城の大手門を移築されたものだとされており、わずか41年で廃城となった長浜城の遺跡となるようです。
もっとも長浜城も築城の折には浅井長政の小谷城の資材を流用したとされていますから、廃城の資材の流用が普通に行われていたことが伺われます。



この場所をストリート・ミュージアムで見ると、天秤櫓の奥に高い石垣に守られた天守や西の丸があり、その裏側が断崖絶壁となっていて平城ながら守りは堅そうです。
ただし江戸期に入り戦乱はほぼ終結していますので、彦根城は戦乱で攻め込まれることのなかった城です。



方角は違うものの城下の様子を比較してみると、VRで広がる城下は城の近くに大きな家は年寄りや家老の家で、離れるに従って奉行などの家。遠くは足軽や奉公人などでしょうか?
城の直下には広い土地に大きな家が並んでいる場所が並び、江戸時代には井伊藩でそれなりの身分だった人が住んでいた一角なのかと思います。





天秤櫓の上から本丸方向を眺めますが、城内に入ってしまうと石垣が高いため、なかなか本丸が見えてきません。
この坂の先にある高い石段が本丸などがある場所で、内堀の中しか残っていないにも関わらず城内は広い。



太鼓門へと向かう石段の上に現れてきたのは天守の姿。
面白いのは石垣の本丸右下の石垣だけがただの石垣ではないことで、一枚岩を削って石垣としています。



岩は表面が削られて石垣と同じような角度に加工されているように見えます。
本丸のエリアまで登ると岩の反対側が確認出来ますが、元々あった巨石を使って石垣とうまく組み合わせたようです。





本丸のある高台から東側には石田三成の居城・佐和山城のあった佐和山が見える。
佐和山方向にはかつて松原内湖があり、佐和山城と琵琶湖は湖水運でつながっていたとされ、“三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城”と言われた城郭が築かれていたという。
尚、松原内湖は大正から昭和にかけて干拓され、太平洋戦争後には消滅して農地化が図られますが、減反政策が始まると施設用地化や宅地化されて農地は姿を消したといいます。





さて天守のVRですが、彦根城は安土城のように礎石程度しか残っていない城址とは違って、国宝として保護されているお城ですから、現実もバーチャルもあまり変わりはない。
バーチャルの方は看板や人の姿がないためにスッキリして見えるのはいいですね。





彦根城の「西丸」は本丸のスペースより広く東西60m・南北160mあり、史跡としては北西の端にある「西の丸三重櫓と続櫓」以外は何もない。
西の丸三重櫓は搦め手(裏手)からの敵の攻撃に備える守りの要だったといい、琵琶湖を監視する役目があったといいます。
西の丸三重櫓と続櫓は1767年の火災により類焼してしまったものの、1853年にかけて再建されており、建物は重要文化財に指定されている。



彦根城の入城券には国の名勝でもある「玄宮園」の観覧券が付いていますので、天守の裏側の井戸曲輪を通って石段を下っていきます。
黒御門跡へと続く石段から天守を眺めましたが、記憶にあった彦根城の印象とは随分と違い、大きさや広さを感じます。



城の反対側へ出る道は、人の多かった大手門方向の道とは違って人もまばらです。
彦根城にいる間に断続的に太鼓の音が聞こえていて何かお祭りでもやっているのかと思っていましたが、金亀公園まで歩いていったらそれは判明です。...続く。




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石田三成の佐和山城跡を巡る~龍潭寺から佐和山城址へ~

2022-12-16 17:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城」という狂歌があるように、「佐和山城」は石田三成の居城であり三成が入城後には五層の天守が高くそびえたつ近世城郭だったと伝承されています。
「三成に過ぎたるもの」と佐和山城とされたのは、時代の敗者ゆえに貶めるような狂歌とされたのだと思いますが、実際の佐和山城の中は荒壁・板敷きで畳もない質素な造りだったという。

「佐和山城」の歴史は古く、鎌倉期の佐保氏(佐々木氏)・小川氏(六角氏)・磯野氏(浅井氏)・丹羽氏(織田氏)を経て石田三成が入城したという。
徳川の時代になると井伊直政が入城したものの領民の三成への思慕が強く、彦根城の築城を行った後に佐和山城は廃城になったとされている。



佐和山へは井伊家の菩提寺である「龍潭寺」の山門から入り、観音堂の横を通って登山道へと入る。
江戸時代には三成軍の残党が佐和山へ入らないように警備する役割もあったといいますが、元禄期になると石田三成の菩提を弔うことが許されたという。
参道には「石田三成公像」があり、「石田三成群霊供養」の碑の横には「佐和山観音」が祀られていて、戦いの歴史から弔いの歴史へと時は流れている。



佐和山城址を登り下りする時に驚いたのは、山頂へ行かれる方の多かったことです。
彦根観光で訪れてそのまま登られる方、登りたいから登っている当方のような人、面白いのは三成人気もあってカメラを首に下げた女性の一人姿が多かったことです。
一般的に歴女やカメラ女子とか呼ばれる方々だと思いますが、やはり現地へ行かないと分からないことが多いですから、その気持ちは当方も同じでよく分かります。



山門をくぐって龍潭寺の境内に入りますが、寺院のご好意により拝観料はなく、そのまま観音堂方向に進み登山口を目指します。
境内は苔や樹木が多いのですが、菩提寺とあってやや重い雰囲気を感じながら進みます。



参道の脇には「佛足石」や七福神の石仏を横目に観音堂の横を抜けると、墓地のエリアに入るとちょっと気味悪く感じるが、後方に人が歩いてきていたので安心感がある。
苔むした佛足石に足形ははっきりと見えるのは、この石が昭和の時代に奉納されたものだからでしょう。



墓地へと向かう道の注意書きの看板には“野猿の群れが出没します。”とあり、山自体は単立の山だが猿山になっているようです。
登り道で猿に出会うことはありませんでしたが、帰り道の墓地の中では野猿の群れがすぐ近くにいてヒヤリとすることになる。



道は低山にも関わらず、いや低山ゆえにと言った方が良いかもしれませんが、なかなかの急坂が続きます。
とはいえ急坂を登っていくと、段々と山の上の方に光が差し込んでいるのが見え、ゴールはさほど遠くはないと思えるのがいい。



山の道筋で切通し等の城跡を示す看板がありますが、あまりにも城址に対する知識が不足しているため言われてみれば切通しがあるのは分かるのだが...といった程度の理解力。
ぼっこりと穴が開いていて半ば壊れた標示があるのが西之丸の「塩硝櫓跡」と呼ばれる曲輪で、塩を保管する場所だったという説があります。



西の丸跡に着くとここにも竪堀らしきはあり、古地図には西の丸に「焔硝櫓」(火薬の保管場所)があったとされている。
そして最後の急坂を登りきると空が開けて本丸跡に到着です。



ここが“三成に過ぎたるもの”と歌われた佐和山城の本丸跡となります。
視界の広がっている場所があって、西にある琵琶湖側や東にある伊吹山側が見渡せますが、本丸跡らしい形跡はほとんど見られません。

本丸は大規模な「破城」があり、一説には石田氏をの遺徳を偲ぶ領民が多かったことから井伊直正が何も残らない状態まで破壊したとされています。
山頂には五層の天守が築かれたと伝わるだけあって広いスペースとなっており、山頂表示と三角点は少し離れた場所にあるためやや広めの山頂を歩き回る。



山頂表示のすぐ下には三等三角点。
ここが山頂の南の端のようで、ここから先にも曲輪が存在したようです。



「千貫井」と「石垣」の案内板があったので進んでみると「隅石垣」らしき石に辿り着く。
彦根市教育委員会の調査で本丸跡の外周を測量したところ、この石垣と同じ高さにある石垣跡が発見されたという。
と考えると基底部の広さから佐和山城が五層の天守の城だったというのもあり得ると思えてきます。



このままっ直ぐに進んで下山すると彦根駅側に出てしまいますので、折り返して山頂へと戻り、元来た道から下山することにします。
山頂から見える伊吹山の裏側にあたる関ケ原で合戦が行われて西軍が敗れた後、三成の父の正継や三成の兄の正澄は2800の軍勢と共に籠城した末に自害し、城は焼き放たれたとされます。



目の前に見えるのは彦根城のある彦根山。
かつては彦根城も佐和山城も琵琶湖の内湖が目の前にあり、湖上運送や軍事上の防御の拠点となっていたようですが、すっかり干拓されていまってかつての面影は知る由もありません。



彦根城をズームで撮ってみました。
彦根城を見降ろせて、城郭がしっかり確認できる場所はこの佐和山の山頂からだけかもしれません。
徳川幕府によって悪者扱いされてしまった三成もこれにはビックリでしょうね。



ということで下山しますが、龍潭寺の墓地の辺りまでくると野猿の群れがたむろしていました。
頭上の木を飛び移ったりしておりましたが、人も猿も必要以上に近づかず一定の距離を取っているので滅多なことはない。



最後に龍潭寺前にある三成マンホールのカラーバージョンです。
三成マンホールは長浜市・米原市・彦根市に計7カ所ありますが、カラーバージョンはここ龍潭寺前と彦根駅前だけのようです。




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大原観音寺から横山城址(観音寺山)を巡る!

2022-12-13 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市と米原市の境目の辺りに「伊富貴山 観音護国寺」という天台宗の寺院があり、弥高寺・太平寺・長尾寺の三ヶ寺と共に伊吹山四大護国寺とされていたといいます。
開基は平安時代に遡り、当時は伊吹山の山中に寺院があったようですが、鎌倉期または南北朝期に現在地に移転されたと伝わります。

「大原観音寺」には“秀吉が鷹狩りで立ち寄った際、寺の小僧をしていた石田三成に茶を所望したところ、1杯目はぬるい茶を、2杯目は少し熱い茶を茶碗に半分ほど、3杯目は熱い茶を小さなお茶碗で...。”
という石田三成 「三献の茶」の逸話が残り、茶の水を汲んだと伝わる井戸(石田三成水汲みの井戸)が残されています。
(古橋の法華寺にも「三献の茶」の逸話は伝わる。)



長く緩やかな参道を登っていく途中でハッと息をのむのは、農作業するマネキンの姿です。
猿除けかと思いますが、薄暗い時間帯に見たらちょっと怖いでしょうね。



大原観音寺は通常非公開の寺院ですので御堂は閉じられている。
本堂は江戸時代の建築物で重要文化財に指定されており、御本尊の十一面千手観音・四天王像・不動明王・伝教大師像などがお祀りされています。
過去に参拝して内陣に入れて頂けたのはもう6年も前ですから、御開帳が待ち遠しい寺院になります。



さて、今回は寺院参拝に訪れたのではなく、目的は寺院の後方にある横山(観音寺山)へ登ることでした。
横山の山の峰には「横山城跡」があり、戦国時代には浅井長政が築いた「横山城」があった山になります。
横山へは観音寺側から3つのコースと、山の反対側の石田町から登るコースがありますが、かつての旧道のような“龍の背コース”から登ってみます。



登山道は“整備はされているが荒れている”という状態で、積み重なった落ち葉の上に折れた小枝が散乱しており、何ヶ所かには倒木があって道を阻む。
倒木を乗り越えたり、潜ったりしながらの道は、さしずめアスレチックでもやっているようですが、草が茂っている場所があったりで少々気味悪く感じる道です。



途中に「鏡岩」という巨石がありましたが、苔と草で残念ながら鏡のようには見えない。
この先には「お化け岩」の看板があり、山側に岩があったものの、急勾配で道もないため登ることが出来ず、確認は出来ませんでした。



案内図には「読誦回向の塔」とあり、それはこの塔のことだと思います。
転がり落ちてきそうな巨石の前に塔が立っており、ここで故人にお経を唱え供養されたのでしょうか。詳しい由来は不明です。



読誦回向の塔のすぐ先には「峠の地蔵」が祀られています。
この峠に地蔵尊が祀られているのは、おそらくは昔は長浜市石田町と米原市朝日町を結ぶ山越えの道だったのかと思います。

昭和8年に「観音坂トンネル」が開通してからは山越えの必要はなくなったようですが、初代の観音坂トンネルは心霊スポットとしてTVなどでも取り上げられた怖いトンネルでした。
夜は真っ暗でトンネル内は細く、道が曲がりくねっていて事故が多く、崖下には池がありかったことから心霊スポットになっていた場所です。
2016年に広くて明るい新観音坂トンネルが開通して利用されるようになると、旧観音坂トンネルは閉鎖されたそうです。



観音坂の峠まではやや荒れた道でしたが、途中にある東屋から先は道がかなり整備されてきます。
綺麗なテーブルセットのある展望台を越え木段に導かれるように進んで行くと、平成26年に改修されたという鐘楼堂へ到着します。

鐘楼堂のある場所は横山城の南城跡とされ、山頂があるのは北城跡になります。
梵鐘を撞かせて頂きましたが、やや低い音で長く余韻の残る鐘の音で、注意書きにあった“平和への願いを込めて鳴らしましょう。”に気持ちを込める。



横山には「西国三十三番観音巡拝コース」も設置されており、ここが満願となる谷汲山 華厳寺の石仏になるようです
この日、観音巡拝コースは一部分だけしか歩かず「龍の背コース」から「十三仏巡拝コース」を周回をしましたので、いきなり西国三十三所巡拝は満願寺だけの巡礼となりました。



見晴らしの良い場所から琵琶湖を眺めてみます。
長浜市の建物の並ぶ街並みの向こうには、琵琶湖に浮かぶ竹生島。
山登りを始めてから、いろいろな場所から琵琶湖を見おろす機会が増えました。



そして横山(観音寺山)北峰にある横山城跡(北城)へ到着します。
道中に曲輪(郭)や堅堀・虎口など城跡の遺構が残りますが、何度も城跡のある山に登りながら理解力不足のため、地を見てかつての城郭の想像が出来ない。

横山城は浅井長政が六角氏に対する防御拠点として築城したといい、姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破った織田信長軍により攻略されたといいます。
その後、横山城は木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)が城番を勤め、浅井氏が滅亡した後に秀吉は長浜城を築城して居城を移したことにより、横山城は廃城になったとされます。



横山は標高が312mの低山ですが、後方数キロの場所に浅井氏の本拠である小谷城が控え、東に北国脇往還・西に北国街道を見下ろすことができる交通の要衝を押さえる山だったようです。
信長にとっては美濃からの道が続き、浅井氏と直面するこの横山城が戦略的に是非手中に納めたかった城だったと考えられます。
姉川の戦いでは大依山に陣を張る浅井・朝倉軍と、横山に布陣する織田・徳川軍が向かい合い、その間にある姉川で戦うことになります。

山頂には三角点があり、ちょうど伊吹山が美しい姿を現してくれました。
そのわずか数分後には伊吹山が雲を被ってしまいましたので、到着した時間が良かったですね。



下山は「十三仏巡拝コース」で下りましたが、崖沿いの急で細い道でしたので陥落要注意の道でした。
十三仏は道の脇にお祀りされており、驚いたのは巨石の下に祀られる石仏が何ヶ所かで見られたことです。



道の脇にお祀りされている十三石仏もありましたが、少なくとも4カ所では巨石の下に十三石仏が祀られている。
十三仏は初七日〜三十三回忌までの13回の法要を司る仏様とされていますので、暗く細い道を歩いていると死後の冥途への道を歩くような気持にもなる。





岩が大きいのでフレームに入れようとすると崖に足を掛けないと写真が撮れない場所もあります。
急坂のきつい所には太いロープが張ってあったので心強かったが、観音寺の本堂が下に見えてきた時はホッとする瞬間でした。“後少しだ!気を付けて下りよう”といった感覚です。



下山途中に見た花はコウヤボウキ・アキノキリンソウと柚香菊と思われる花。
晩秋の花が終わったら冬の季節になり、次はスプリング・エフェメラルの花が待ち遠しくなる季節を迎えます。



大原観音寺には「石田三成水汲みの井戸」がありますので立ち寄ってみます。
有名な「三献の茶」が実話かどうかはともかくとして、逸話に連なる井戸は今も水をがたくわえられています。



石田三成の生誕地は、横山の観音坂を越えた長浜市石田町とされており、「石田治部少三成屋敷跡」や石田家の墓地や氏神とされる八幡神社、三成の資料を保管する「石田三成資料室」があります。
地元の方の話だと、江戸時代に敵と位置付けられていた三成でしたから、町内には石田を名乗る家はなく、菩提を公に祀ることは出来なかったとか。
五輪塔や石仏、古墳の石棺の蓋と思われる「石棺蓋(唐戸ばし)」などがあったが、地元の方は詳しかった年寄りが皆亡くなってしまって分からなくなってしまったと言われていました。



通りをウロウロとしていると地元のお爺さんに声を掛けられ、三成の旗印「大一大万大吉」のマンホールへ案内してもらいました。
この「三成マンホール」は石田三成のゆかりの地7カ所の設置されていますので、探してみるのも面白いかもしれませんね。




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「竜ヶ岳」の360°ビューの山頂と重ね岩~鈴鹿セブンマウンテン/鈴鹿百座~

2022-12-09 17:38:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 岐阜県・三重県・滋賀県にまたがる鈴鹿山脈は南北60㌔近くに渡って山脈が続き、千m前後のピークを持つ山が連なっています。
代表的な山は「鈴鹿セブンマウンテン(過去の登山大会の山)」とか「鈴鹿10座(東近江市選定)」があり、2つの選定山のうち5山は重複しているものの時々名前を聞く山々ばかりです。

鈴鹿の山にはゴツゴツとした巨石やパノラマビューの山頂など魅力的な山があるようですので、前々から登ってみたいとは思っておりましたが、遭難事故の話を聞くことがありヤマビルの巣窟とも書かれている。
しかし、セブンマウンテンと百座の両方に選定されている山で1座だけ初心者でも登れそうな山「竜ヶ岳(1099m)」がありましたので、登ってみることにしました。



竜ヶ岳への最短ルートは「表道登山道」からの登山となり、林道を進んで石榑峠にある登山口へと向かい、数台駐車されている路肩に車を並べました。
この場所は三重県いなべ市と滋賀県東近江市の境界にあたり、道はここで封鎖されていてつながってはいない。



同じ時間帯に登り始めた人や登山道に人の姿が見えるのが心強く、誰もいない山に登る怖さはないけど、初めての鈴鹿ですから慎重に落ち着いて登ろうと自分に言い聞かせる。
登った日は11月の下旬でしたが、登り始めた時の気温は何と5℃。あまりにも寒いので首元にタオルを巻いて体を冷やさないようにしました。



登り始めるとまず急な傾斜の道が続き、いきなり鈴鹿の山の洗礼を受ける。
幸いにして掴みやすそうな木々が多いので、木の幹を助けにして登って行きます。



楽しみにしていたのはこの岩場の急登です。
一部チェーンやロープの張ってある場所がありますが、岩を掴みながら登っていくのはプチアドベンチャー気分を味わえて楽しい。
花崗岩が風化して滑りやすい箇所もあるとはいえ滑るほどではなく、むしろフカフカの落ち葉の方が滑りやすいかもしれません。



今回の唯一の間違いは、この岩場を登り切った後、目の前にあった急登へ進んでしまったことです。
登ってしまったらもう下りられないので、木の根を掴みながら四つん這いになって上に見えたなだらかそうな場所まで登り、上から登山道を探す。
すると下に道が見えたので、下りやすい傾斜を探して登山道へ合流。岩場登りを楽しみすぎて目の前にあった急登を道だと思い込んでしまったようです。



石榑峠の看板が2カ所あり、この峠はかつては“伊勢参りの近道で伊勢から政所の茶摘みに行く娘たちの通った道でもあった。”とされている。
鈴鹿の山を越える峠道はいくつかあったようですが、こんな厳しい道を通って伊勢との往来があったのは今の交通状況からい思えば驚異の健脚だと思います。



この辺りは砂利道となっていて滑りやすくなっており、危険につき侵入禁止のロープが張ってある場所や迂回路もあった。
登りはそうでもないが、下りの時にはズルッと滑らないように注意が必要な場所です。



山の下に広がるのは伊勢湾で、四日市のコンビナートも遠くに確認出来ます。
山の上から琵琶湖を眺めることはあっても伊勢湾は初めての事。これにはちょっと感動です。



竜ヶ岳の上方には「重ね岩」が見えており、早く到着したくてウズウズしてきます。
「重ね岩」は登山道の途上にあるのですが、この時点ではそれが分かっておらず、どの道を進めば「重ね岩」へ行けるのだろうと悩んでいた次第。



そんな悩みもなんのその、登山道の横に「重ね岩」の下り口がありましたのでさっそく岩へ向かってみます。
この岩場は登山口からも見えており、他にも道はないけど巨石が見えていました。これが鈴鹿の山のひとつの魅力なんだろうなと納得する。



この重ね岩には信仰の形跡は見当たらないが、これは最後の集落からあまりにも離れているからかとも思う。
背後にある山々の名前までは分からないものの、どこまでも山脈が続いており日本が国土の67%(2/3)が森林になる山の国だと改めて実感する。



では、岩の下まで下りてリュックを置いてから重ね岩に登ってみましょう。
実際に岩の最上部まで登って両手を広げて写真撮影されている人もいましたが、風が吹きさらしとなっていて、下は崖。
最上部まで登るのは怖いので突き出した岩と岩の間の中二階のような場所まで行くだけとする。



これで目的のひとつを果たしたので登山道まで戻る。
こういう場所に来ると他の鈴鹿の山にも行きたくなりますが、鈴鹿セブンマウンテンや鈴鹿百座で初級者が登れそうな山はここだけですので、スキルアップが必要ですね。



登山道に戻るともう最初のピークは見えてきますが、ここからがなかなかの急登が続きます。
とにかく稜線まであとひと踏ん張り。ここが我慢のしどころです。



ちょうど下山途中の方とすれ違いましたので“あの上が山頂ですか?”と聞いてみると、“あそこまで登って右へ歩いていくと山頂だよ。”とのことで山頂近しに安堵する。
実は竜ヶ岳の良いところはここから天上の稜線歩きが楽しめることで、ゆるやかな稜線を歩き最初のピークを越えて2つ目のピークに山頂があります。



一つ目のピークを越えたらいよいよ山頂のあるピークが見えてきた。
こういう長い稜線歩きは初めてのことで、山歩きの楽しさを満喫しつつも晩秋の竜ヶ岳だけでなく、春の竜ヶ岳の緑の稜線も歩いてみたくなる。



そして山頂へ到着。
山頂は風があって少し寒かったが、何人かの人が休憩されたり写真を撮られたりしています。
三重県側から登ってこられた方もおられたようで、登山道で会った人の数より多く感じました。



二等三角点も分かりやすい場所にありましたので記念撮影。
山頂表示と三角点があると登頂出来たなぁと納得できるのがいいな。



少し前に登山した時、5時間くらい水分補給だけで行動食も取らずに登り下りして歩き続けていたらエネルギー切れでボロボロになった苦い経験から軽食を摂って休憩する。
ちなみに軽食はバナナカステラ2本と缶のカフェオーレ。バナナ入りアンの甘さで疲労回復効果があるかは不明ですが、休むのも山登りなのでしばし休憩。



休憩後には360°のパノラマを楽しみながら記念撮影。
ここから先に書いている山の名前は間違っている可能性がありますが、まずは「御岳山」と「乗鞍岳」。
両方の山ともに山頂部はすでに冠雪しており、裸眼で見る御岳山は実に綺麗でした。



方向を変えると「藤原岳」の向こうに「白山」。
「白山」も冠雪しており、これが見られたのは運が良かったと思います。



北を見れば御池岳の向こうに伊吹山の頭頂部が頭だけ出しています。
霊仙山かとも思いましたが、円形の山頂方位の金属板に伊吹山とありました。
この高さから伊吹山を見たことがありませんので、いつもの伊吹山とは随分と感じが違います。



東側を見れば木曽川と揖斐川が2本筋のように流れているのが見え、その先には伊勢湾が望めます。
標高千mちょっとのいわゆる低山の部類に入ってしまう山ですが、山頂からの景色は素晴らしいものがあります。



西側には琵琶湖の姿も垣間見えます。
山は長命寺山でしょうか?琵琶湖の向こう側には比良山系も見えていて、こちらは馴染みのある光景です。



最後は山の名前は分からないけど鈴鹿の山々です。
山の経験や自力が付いてきたら鈴鹿の他の山にも登りたいと思いますが、まだ当分先になりそうです。






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「鬼室神社」と「人魚塚」~日野町小野~

2022-12-06 17:39:58 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 国道307号線を利用する時に日野町の辺りに「鬼室神社」の行先表示があり、しかもその表示にはハングル文字が付け加えられている。
いったいどんな神社なんだろうと不思議に思っていましたところ、東近江市に出かけた際に立ち寄る機会があり鬼室神社へ参拝することができました。
国道沿いに行先表示があったものですから、すぐ近くかと思っていたら山あいに向かって約6キロほど離れた鈴鹿の山麓に神社はありました。

鬼室神社は大津に都を定めた頃、百済からの渡来人の中に鬼室集斯という高官の文化人がいて、その墓が神社の本堂裏に祀られていたと伝承されているようです。
神社としては1429年に不動堂を建てたことが始まりとされ、江戸期まで崇拝されていたものの、明治の廃仏毀釈により不動堂は西宮神社と改名して1950年に鬼室神社となったという。



鬼室集斯の父・福信将軍が大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面の恩山別神堂にお祀りされていることから、日野町と韓国の恩山面は1990年に姉妹都市協定を結んで交流が行われているという。
案内板にハングル文字で表示されているのはこの影響だといい、案内板が道筋の各所にあるのは韓国からの参拝者に分かりやすいようにしているのかもしれません。



境内の外からも良く目立つのは「集斯亭」という韓国の古代建築様式を模した建物で、日野町と韓国恩山面の都市交流20周年を祈念して2009年に建てられたものだそうです。
曲線の屋根や色鮮やかな丹青の集斯亭は日本離れした大陸的な建物で、主に休憩所として利用されているようである。





鬼室神社は鳥居と本殿と石燈籠があるのみで、本殿はごく普通の社ですが、拝殿と本殿がひとつになったような建物です。
拝殿には「百済金銅大香爐(香炉)」と「金銅弥勒菩薩 半跏思惟像(韓国)」の写真が掲げられており、これは韓国恩山別神堂に関わるものと推測されます。





鬼室神社の由来となっている鬼室集斯の墓は本堂の裏にあり、石祠の中に鬼室集斯の墓碑が祀られているという。
鬼室集斯の墓碑に関する説は諸説あり真偽のほどは結論が出ていないようですが、この墓碑によって姉妹都市として民間レベルでの異文化交流が深められており、真偽にはこだわらないとのこと。



いずれにしても滋賀県には当時の韓国の百済や新羅にまつわる伝承の残る社寺が多く、渡来人との関係は深かった、または渡来人の有力者がいたのは確かなようです。
7世紀半ばの百済は新羅に攻められて国は滅亡しており、日本に渡ってきて定着した百済人によってもたらされた文化や技術が多かったようです。





ところで、小野集落にあった周辺地図を見てみたら、不思議で尚且つ興味をそそられるものがありました。
この集落は鈴鹿山系の直下の麓のような位置にありますが、こんな山奥近くになんと「人魚塚」があるという。
Uターンする場所もなさそうな細い道を山に向かって進んでいくと、「人魚塚」の看板を発見!興奮しました。



滋賀県の人魚伝説については、東近江市の「願成寺のミイラ(人魚)」や「観音正寺の人魚伝説」などが伝えられており、東近江と人魚は関係が深い。
619年の「日本書紀」には「蒲生河に物有り。その形人の如し」と書かれているといいます。

「人魚塚」の人魚についてもいくつかの伝承があるようですが、山奥に人魚伝説が残るのは実に不可思議な話です。
鬼室神社の鬼室集斯の墓も人魚塚と呼ばれていた時代があったといいますので謎は深まるばかり。



いずれにしても何か人魚あるいは得体のしれないものへの畏れがあったのかと思われます。
伝承や妖怪というものは得体のしれないものに人の想像力が加わっていると思いますが、何か元になるものがあったのでしょう。
碑はやや曲がりながら墓碑にも見えるような姿で立っており、ここは山との結界になっているのかもしれません。





もう少し山の方へと進むとお地蔵さんの祠が祀られ、草に覆われた人魚塚とは違って花が供えられています。
ここから先は鈴鹿の山々になり、山を越えていく人たちが手を合わされた場所なのでしょう。



お地蔵さんは風化して見にくくなってはいますが、複数の頭が見えますので六地蔵かと思いました。
この先にも道はあるようでしたが、この先は山へと続く極細の酷道ですのでここで折り返します。



山の方向を見てみると「綿向山」とその奥に頭を出しているのは「雨乞岳」でしょうか。
地図を眺めるとそんな感じなんですが、この辺りまでくると鈴鹿の山々はもう目の前です。




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日本百名山「伊吹山」~初冠雪の前に登山~

2022-12-02 18:00:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 伊吹山は滋賀県米原市から岐阜県揖斐町や関ケ原町にまたがる標高1377mの山で、滋賀県では最高峰の山となり、深田久弥が選んだ「日本百名山」のひとつです。
これまで伊吹山以外の百名山に登ったことはありませんが、麓の登山口・三之宮神社から登るコースから登ったのは遥か昔の小学生だった頃以来です。

夏休みに担任の先生に引率された有志のメンバーで、ナイトハイクして山頂で御来光を見るという企画でしたが、特に苦しかった記憶はなく楽しい夜間登山だった記憶があります。
その後はドライブウエイで8合目まで行って山頂へ行くことはありましたが、今回は小学校以来の登山口・三之宮神社から山頂コースで登ってみることにしました。



「新・花の百名山」に選ばれて花の山として有名な伊吹山とはいえ、晩秋の季節には花はないけど雪が降ったら登れなくなってしまうの一心でよく晴れた小春日和の日に伊吹山へ訪れました。
驚いたのは山麓駐車場に7時前に到着したにも関わらず、次々に車が入ってきて各駐車場では客引きをしておられる。
まるで京都辺りの有名観光地のような感じで、伊吹山の人気ぶりが伺われます。



まず三之宮神社で伊吹山登山の守り神である山ノ神に参拝して本日の登山の無事を祈ります。
三之宮神社は、山ノ神として大山咋命を祀り、大国主命と玉依姫命の3柱を祀る神社で、麓に三之宮・2合目辺りに二之宮・山頂に一之宮を祀る。



伊吹山では自然環境を保全や植生回復事業・登山道整備のために「伊吹山入山協力金」導入していますので、協力金を支払って登山口へと向かいます。
受付には何人か人が並んでいて、後続にも早朝から登山者が集まってきていますが、誰も人のいない山を登る不安感がないのは助かります。



登山開始前に少し寄り道して「ケカチの水(悔過池)」のところへ立ち寄ります。
伊吹山は江戸時代まで山岳修行の山だったといい、行者は「ケカチの水」で身を清めて山頂の弥勒堂を目指したといいます。
また、ヤマトタケルが草薙剣を持たずに伊吹山の山ノ神(白いイノシシ)と対峙し毒気にあたり、高熱を癒した「命の水」とされている。
(同じ話は醒井の「居醒の清水」にも伝わる。)



それでは山頂まで6キロの道のりを登り始めますが、木々の中を通り抜けて一合目を目指すと途中に「ひろきち地蔵」というお地蔵さんが祀られている。
「ひろきち地蔵」はひろきちという人が6合目で見つけたお地蔵さんを家へ持ち帰ったところ病気で寝込んでしまい、見舞いの村人にお地蔵さんを伊吹山へ返してくれと頼み、運びあげてお祀りしたという。



かつてのスキー場でパラグライダースクールをやっていると思われる開けた場所を登って二合目を目指すと、「二之宮神社(白山神社)の案内があり、「石神(シャクシ)の森」と「白山神社」があるという。
お店か何かの家があったので道を教えてもらったが、「松尾寺跡・上杉神社」しか見当たらず、「白山神社」はどこか分からず仕舞い。



伊吹山では弥高寺・長尾寺・太平寺・観音寺を以って「伊吹山四大護国寺」としているが、ここでは「伊吹山五大護国寺」として松尾寺を数えている。
「四大護国寺」という数え方と「五大護国寺」という数え方があるのか分かりませんが、早い年代に堂宇を焼失し堂宇も何も残っていないことが関係しているのでしょうか。

この寺域は伊吹信仰における「いわくら信仰」の故地であったといい、岩の祠の中には弥勒石仏が祀られています。
山頂には「南弥勒菩薩」と「弥勒菩薩堂」が祀られていますので、古来より山伏や修験者が山中で修行を行い弥勒菩薩を信仰していたと言えるのかと思います。



不思議なことに、境内だったと思われる場所には「上杉神社」という上杉謙信を祀る簡素な神社があり、「上杉大明神」の扁額が掛かっています。
「上杉神社」は江戸期享保の時代に勧請されたといい、祭祀を依頼したのは若狭小浜藩士だったとされていますので、何とも不思議な神社です。



二合目を過ぎると広いススキ原があります。奥にある山は徳蔵山といい薬草が多く、かつては絶好の草刈り場だったといいます。
伊吹山には平安の昔、「伊吹童子」という酒呑童子につながる鬼の話や、その父である伊吹弥三郎にまつわる伝承が残り、この草原は伊吹弥三郎が鞠を蹴った場所だとされている。
山には鬼や山之神、あるいは悪しきものの伝承が伝わることが多いが、それだけ山を霊的なものとして捉え、崇敬と畏れを感じていたということでしょうか。



五合目が近づいて来ると、周囲の景色は一変します。
ここから先は九十九折の急登となりますが、この日はよほど運が良かったのか、年間300日以上雲に包まれるという伊吹山にほぼ雲がなく青空が広がっている。



そして五合目に到着。
ここは標高880m、山頂まで2.4㌔の所です。
山頂までの登りはコースタイム通りに登りましたが、実際は次々と後続者に抜かれていく。みなさん健脚揃いです。



六合目の手前には避難小屋があり、その先には登山者が点々と連なっています。
ここから急登と石灰岩がゴロゴロとした道が続き下山者もいるので、若干渋滞してきます。



八合目の辺りまでくると西方向に「行者岩」が見えてきます。
「行者岩」は平等岩ともいわれる伊吹山修験の霊場とされ、円空が伊吹山で修行をした際に「行者岩(平等岩)」で修行をしたことを残しているといいます。



急登の九十九折の登山道をさらに登ると「手掛岩」が見えてくる。
かつて伊吹山は修験の山で女性の入山が許されておらず、出家した夫を求めて山へ登った女性が七分まで来た時、強風が巻き起こり女性を岩から引き離して谷へ投げ落としたという。
最後まで岩にしがみついた女性の指跡がいつまでも岩に残っているとされ、ここから上は神の領域であることを示しているという。



さて、ここから先は伊吹山からの絶景が望めるエリアに入ります。
伊吹山の登山道は土だけの部分がほとんどなく、石がゴロゴロとした歩きにくい道ばかりですが、この辺りからはカレンフェルトという石灰岩が形成する山の度合いが強くなってきます。



早くから稜線は見えているものの、中々山頂に届きません。
右の崖の部分に人影が見えますが、あそこは西遊歩道の展望台。景色は抜群だったものの風が強く吹き、肌寒く感じてしまう場所でした。

伊吹山は若狭湾と伊勢湾に挟まれる本州では最も狭い場所で、日本海からの雪雲に吹き付けられる豪雪地帯であり、世界の山岳史上最高の積雪量が記録されている山です。
初冠雪も平年値で11月20日、2021年は11月4日となっていますから、初冠雪直前の登山となりましたが、登山した日は地上の気温が20℃超えでしたから、特別な天候に恵まれたようです。



山頂には日本武尊の像が祀られており、この前には参拝と記念撮影の方が列を成していました。
雪が降る前の晴天の日に登山した方やドライブウエイで上がってきた人を含めて伊吹山を訪れた方がそれほど多かったということなのでしょう。



山頂標識の前にも記念撮影の方が並び、次の番の方に写真をお願いしている方が多く、和気あいあいムードです。
独りで写真を撮ってもらうのも気恥しいので、人が下りた一瞬の間に山頂表示を撮っておきました。



伊吹山の一等三角点は山頂標識のある場所とは少し離れた場所にあり、三角点まで来る人は日本武尊や山頂標識にいた人よりかなり少ない。
山頂が広々としている山へは行ったことがないのですが、伊吹山の山頂部はかなり広く宿泊や食事のできる売店のエリア以外にも一回りすれば山頂散歩といっていいような広さがあります。





伊吹山の山頂の広いスペースには「日本武尊の像」「白イノシシの像」「一等三角点」「大乗峰 伊吹山寺 覚心堂」、伊吹山測候所で勤務中の遭難で亡くなられた方々の「殉難之碑」が点在している。
中でも伊吹山の弥勒信仰を表すものとして「南弥勒堂」と伊吹山山岳信仰の中心的な御堂とされる「弥勒堂」が別々の場所にお祀りされています。

「南弥勒堂」は明治45年に弥勒石仏と石室が建設されて開眼供養されたものだといい、尾張国御嶽照王教の方々によって建設されたという。
名称から御嶽山の修験道や山岳信仰と関係がありそうであり、同じく修験道や山岳信仰の山である伊吹山に奉納したものかと推測してみる。



「弥勒堂」の方は18世紀前半の絵図にも描かれているといい、かつてはここに多くの石塔や石仏が祀られていたようです。
山麓上野地区(登山口のある集落)では弥勒堂の前で松明を焚く「千束焚」を行って雷踊りを踊って降雨を祈ったといい、古くより雨乞いの場として山頂は「弥勒の庭」としていたといいます。



伊吹山の山頂には伊吹山一之宮ともされることがある「大乗峰 伊吹山寺 覚心堂」という薬師如来を本尊として祀る天台宗寺院があります。
伊吹山は古代より修験の山で、平安期には比叡・比良・愛宕・神峯-金峰・葛城(高野)と並んで本朝七高山として信仰されていたといいます。

明治維新後の修験道廃止によって衰退し、山頂の覚心堂が復興したのは平成の世になってからのこと。
伊吹山では「伊吹回峰行」や「常行三昧」などの修行が復活してきているそうで、総じていう「伊吹禅定」が行われていると書かれているものがある。



山頂ウォークを終えて下山に入ります。
11月中旬とは思えない暑さと好天に恵まれて、体の塩分が抜けてしまったと思うくらい汗をかき、気持ちのいい時間でした。
9合目辺りから眺める琵琶湖は、湾曲した琵琶湖のラインがはっきり認識でき、竹生島もはっきり見えますが、その先は霞んでいる。



ここで今日の反省です。
下山途中に3合目まで下った辺りからエネルギー切れで足がガクガクになってペースダウンしてしまいコースタイムを遥かにオーバー。
歩いてばっかりでろくに休憩を取らず、行動食での栄養補給やお昼ご飯を食べないまま歩き続けていたのが裏目に出ました。
大いに反省して、次からは山登りの基本行動をしっかり守って登りたいと思います。

追記:伊吹山は12月2日に初冠雪が観測されました。平年より12日遅い初冠雪だそうです。


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