僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

甲津畑の「藤切神社」と「信長馬つなぎの松」~東近江市甲津畑~

2021-09-29 06:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 東近江市の「甲津畑」という集落は、三重郡菰野町の千種と甲津畑とを結ぶ「千種街道(千種越え」が通じていて、近江国と伊勢国桑名を結ぶ近江商人の商業ルートだったといいます。
街道と名は付くとはいえ、鈴鹿山脈の山を越えていく峠道になりますので、杉峠・根の平峠などの峠を越えていく山道だったようです。

「甲津畑」は、この方面では滋賀県最後の集落となり、先には山脈が立ちはだかる県内最奥の集落になります。
山の奥にある集落の名称に「畑」が付くことがありますが、山に囲まれた最奥のこの集落に「畑」の名が付けられたのも他の「〇〇畑」と同様の意味があるのでしょう。
ちなみに、米原市の東草野地区の最奥の集落は「甲津原」ですが、山奥の集落に「甲津」が付くのは何か意味があるのか気になるところです。



甲津畑集落は、永源寺方面とは山を隔てた南側にあり、両側を山に挟まれた盆地にある和南集落から更に奥に進んだ突き当りのような場所にある集落でした。
地図で見ると、甲津畑町は集落の近くの一部の田園を除けば山が大半を占め、雨乞岳なども含まれるその山域は三重県の御在所スキー場のすぐ近くまで甲津畑の町域となっています。

甲津畑を訪れたのは、その地名に興味があったのと「藤切神社」という苔の神社に参拝したかったためなのですが、神社がなかなか見つからない。
ナビの案内で進むと途中から未舗装の農道になり、それも途中で行き止まり。集落の中から和南川沿いに移動してやっと神社の入口を見つけました。



「藤切神社」は自然石を並べたような石段との横に並ぶ苔むした石の参道を楽しみにしたいたのですが、何と石段が板張りになっています。
ちょうど神社から下りてこられた世話方の人に聞くと、社務所を建てているので板張りにして歩きやすくしているとのこと。
石段は工事が終われば見ることが出来るけど、板張りの道は今だけ限定かと思い、気を取り直します。



鳥居の前方には2本の巨樹スギが結界を張るように立ちます。
山麓にひっそりと祀られた、静かで心地よい空気感が漂う神社だと感じます。



参道の横のスギの根っこには、石仏地蔵が前掛けを掛けてお祀りされていて、やや汚れた前掛けもありますが、ほとんどは真新しそうな前掛けです。
地元の方が時々新しいものを作って新しい前掛けに交換して、丁寧にお祀りされているのでしょう。



環境省の巨樹・巨木林データベースでは甲津畑町に9本のスギが登録されており、幹周3mちょっとから4.5mが9本と記載されています。
記載されたスギは、サイズ的にも藤切神社のスギのことを指しているのかと思われ、境内はスギの林のような雰囲気があります。



参道脇の灯籠や石には苔がびっしりと張り付いていて、モスグリーンの色彩が美しい。
ただ、苔は石以外の場所にはあまり生えている感じはせず、石にだけ苔が生えている不思議な光景でもあります。





岩の間にはいろいろな大神の名が書かれた板が掛けられており、1月に当社の「藤切神社」、2月が「愛宕神社」、以降は大神の名前となり、毎月違う神をお祀りされているようです。
湖東地方でこんな感じで月ごとに祀る神を書いた板が勧請縄に掛けられていたりしますが、こういった信仰はこの地方独特の信仰形態なのでしょうか。





さて石段(板張り)を登った先には「拝殿」「本殿」のエリアとなります。
「藤切神社」は、御祭神に『田心姫命・市寸嶋比売命・奥津比売命』の3柱を祀り、境内社には春日神社を祀ります。



御祭神の3柱は、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた「宗像三女神」と関係が深いと考えられますが、航海の守護神である宗像三女神が山奥の甲津原で祀られている由来は不明。
もしかすると「千種街道」を越えた先にある伊勢湾から信仰が伝わってきたのかもしれませんね。



本殿の横に続く道を行くと、小さな祠と愛宕神社の火伏の神を納めたような建物があった。
山側には石塔や石仏が数多く祀られていて、こちらの前掛けも新しい感じのものが多かった。
かつてこの場所に神宮寺があったのか、昔の「千種街道」の道筋に祀られていた石仏が集められたのか。





神社の世話方の人からは“昔は神社より先の山中に「甲津畑銅山(向山鉱山・御池鉱山)」があった”と教えていただきました。
鉱山は江戸期から明治・大正期まで採掘されていて、明治期の鉱山では300人余りが働いていて小学校や郵便局や役場出張所があったといいます。
しかし、鈴鹿山系の奥まった場所にあった鉱山ゆえに搬出費用がかり、採算が合わなくなり廃坑になったといいます。

世話方の人の話では“最近ハイキングやなんやで登山する人が多いが、廃坑跡まではかなり距離がある。行っても草木に覆われていて見つからないし、何もないよ。
草をかき分けて地面を探せば、スラブが見つかるかもしれないが...。”とのこと。
「御池鉱山」は、地図で見ると雨乞岳から更に山の中を進んだ場所にあるので、そんな山深いところで鉱山労働者の集落があったといいますから驚きます。



ところで、甲津畑と千種街道には織田信長に関わる話が2つ残されています。
1570年、信長の越前朝倉氏攻めの際に義弟・浅井氏の裏切りに会い、「金ヶ崎の退き口」で危機に瀕して這々の体で京都へと撤退します。
京都へ逃げ帰った信長は、岐阜へと逃げ帰ろうと千種街道を通って鈴鹿へ向かった時、六角承禎に雇われた杉谷善住坊に狙撃されます。
玉は体をかすめただけで外れ、窮地を脱っした信長は無事岐阜へ戻り、姉川の合戦に転じたという話。

もう一つは、かねてより近江と美濃を移動する時に千種街道を使っていた信長が、甲津畑で警護する速水勘六左衛門宅で幾度も休息した時に馬をつないだクロマツがあるという話。
「信長馬つなぎの松」と呼ばれるそのクロマツは、樹高6m、幹周2.5mの見事な枝ぶりと剪定の行き届いたクロマツです。



推定樹齢は250年(伝承では450年)とされており、信長の時代とは年数が合わないので子孫のクロマツなのでしょう。
思いもかけない場所に信長ゆかりの逸話が残り、まさに近江は歴史の宝庫といった感が強まります。



最後は甲津畑近くの田園風景です。
稲刈りの終わった田圃は1/3くらいで、訪れた日は稲刈りをされている田圃が幾つか見受けられました。
農家出身ではないのに、なぜか懐かしく感じてしまう風景です。




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秋の彼岸は彼岸花とアゲハチョウ!~ナガサキアゲハ・モンキアゲハ・クロアゲハ~

2021-09-25 19:00:00 | 花と蝶とトンボと昆虫
 不思議なもので、天候が不順だったり異常気象が叫ばりたりしても、その季節が来れば季節の花が咲きます。
先週末辺りからあちこちで彼岸花が咲いているのを見るようになり、中日の秋分の日には湖北地方が真っ赤に染まっていました。

彼岸花は公園や田圃の畔に咲くいているのをよく見かけますが、墓地に咲くことも多く、彼岸の季節と相まって少し気持悪く感じる方が居られるかもしれません。
とはいえ、彼岸花が咲き出すと秋が始まったことを実感でき、真っ赤に染まった花を見ると、彼岸花に集まるアゲハチョウの仲間たちを見に行きたくなります。



ナガサキアゲハは、日本の蝶では最大級の大きさを誇り、元は南方系の蝶でしたが、どんどん生息域が北上してきたため、温暖化の指標種といわれています。
湖北地方でも毎年ナガサキアゲハが見られますので、雪の多い地方にも関わらず越冬して繁殖しているということになります。



ナガサキアゲハの♀には白色紋があり、翅のつけ根にある赤の斑点は雌雄共通とのこと。
とはいえ、ナガサキアゲハが来ると特徴的な白色紋のある♀の方を追いかけてしまいますね。



彼岸花はほぼ満開状態で、やや盛りを過ぎて白っぽくなっている花はわずかにあるだけで、これから咲くつぼみも数えるほどしかありませんでしたのでちょうど見頃。
“綺麗な花には毒がある”との例え通り、花は美しいけど球根には毒があり、田圃の畦道に多いのはモグラやネズミを寄せ付けないためだとか。



彼岸花の集まるアゲハチョウで一番数の多かったのはモンキアゲハでした。
モンキアゲハもナガサキアゲハと同様に日本の蝶では最大級の部類に入る蝶で、翅にある白く大きな紋が特徴的な蝶です。



モンキアゲハは、山麓の森などで見かける機会もあって馴染みがある蝶で、この蝶も南方系の種類とされているようです。
日が照って暑くなってきた時間帯になり、他の蝶が出なくなってもモンキアゲハは活発に動いていましたが、よく見ていると時々日陰の葉に留まって休んでいる姿も見られました。



彼岸花にはアゲハチョウの仲間は集まってきますが、タテハチョウやシジミチョウなどの蝶は姿を見せません。
彼岸花の蜜を好むのはアゲハチョウの食性なのかもしれません。





クロアゲハも時々姿を見せてはくれたものの、すぐに大型のモンキチョウに追いかけられてその場を去ってしまいます。
蝶にも縄張りのようなものがあるのでしょうか。同種だと並んで飛んでいたりしますが...。



ナミアゲハも吸蜜にやってきました。
けっして小さな蝶ではないのですが、ナガサキアゲハやモンキアゲハと比べると小さいですね。



彼岸花に集まってきた蝶は、他はキアゲハとアオスジアゲハ。
アオスジアゲハは花には留まらず、通りすがりのように去っていきました。



日本に生息する蝶は約300種類いるといいますが、湖北の野や山で見られる蝶の種類は限られているに思います。
まもなくやってくるはずのアサギマダラに会えたら今シーズンは終わりかな?


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「畑の棚田と地蔵」・「八幡神社のスギ」~高島市畑地区~

2021-09-22 06:15:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高島市の畑地区は、『日本の棚田百選』に認定された「畑の棚田」が有名で、棚田の四季折々の風景を撮影に訪れる人も多いと聞きます。
『日本の棚田百選』は実際には100ヶ所ではなく134ヶ所ありますが、「畑の棚田」は滋賀県で唯一認定されている棚田になります。

「棚田」は「傾斜が多く平地と比べて生産条件の不利な、中山間地域と呼ばれる地域において、急傾斜の斜面(斜面勾配が1/20以上)に開発された水田」と定義されていて農林水産省が認定しています。
滋賀県には棚田が多いように感じていますが、百選に認定されているのが「畑の棚田」だけというのは少し意外な感じもします。



滋賀県では山間の辺鄙な集落の名前に「畑(注1)」が付くところがありますが、「畑」集落も標高300~400mの山腹に広がる棚田の田園地帯でした。(注1:君ヶ畑、大君ヶ畑、今畑、甲津畑など)
今は道路が整備されていて秘境感はないものの、かつては棚田が広がるかくれ里のような場所だったのだろうと想像できます。

「畑」集落には「八幡神社」が祀られており、応神天皇の皇子・隼別皇子が「拝戸水尾神社」の社殿を再建の折、父・応神天皇を奉斎し給ひし、畑の「八幡神社」となったと伝承されています。
畑の「八幡神社」には境内に巨樹スギがあると聞いて参拝しましたが、社伝や境内は広くはないもののスギの巨樹に囲まれた神社だと感じました。



細く背の高い常夜灯の後方には2本の巨樹スギが参道の左右に立っている。
環境省の巨樹・巨木林データベースに記載されているのが「八幡神社」のスギのことだとすると、この2本はそれぞれ幹周5mと4.4mで樹高が38mと43mということになるが、果たしてこれのことか?



環境省のデータベースの記載からすると、拝殿の横にあるスギは幹周5.3m、樹高43mということになり、樹齢は300年以上となる。
スギはやや右側に傾いていて樹皮は赤味を帯びている。この3本の巨樹以外にも境内にはスギの多い神社です。



拝殿には自然木に能面を浮彫した額が奉納されており、額には左から般若・翁・童子かと思われる能面が彫られています。
氏子の方が彫られたのかと思いますが、なかなかに味わいのある能面奉納額です。



本殿や境内社は、祠が覆屋の中にあり、応神天皇を祀る本殿や若宮八幡社などの4神が祀られています。
畑集落の真ん中辺りにある社殿は、集落の鎮守の神として祀られてきたのでしょう。



4社が並ぶ社殿の一番左には「山ノ神社」の祠が祀られています。
四方を山に囲まれた畑集落にあって、山の神への信仰は古くからあったことが推測されます。



ところで、畑集落内を移動していて驚いたのは地蔵石仏の多さでした。
棚田以外の集落内はさほど広くはないにも関わらず、あちこちに地蔵石仏が祀られており、それぞれ複数の石仏が合同で祀られています。



なぜこれほどの数の石仏があるのかは分かりませんが、畑集落は奥まった場所で山に囲まれている立地にあり、平地の開けた黒谷集落や鹿カ瀬集落に出るのも、谷を下る必要があったこと。
また、朽木方面へは山の峠を越えていく必要があり、道中に地蔵石仏が祀られていたのではないでしょうか。
道路が整備されるに従って、あちこちに点在していた地蔵石仏がまとめられたとも考えられますが、あくまで推測です。



かなり風化してしまった石仏が多いのですが、囲いの中に納まって祀っている石仏も多い。
写真が畑集落の石仏の全てではなく、まだ他にも石仏がありましたから、集落の規模からいって石仏の多さは尋常ではない。





さて、「畑の棚田」には359枚の棚田があるとされていますが、全ての棚田で耕作が行われている訳ではないようで、幾つかの休耕田が見られました。
訪れた時にはまだ稲刈りは始まっておらず、黄金の稲穂が頭を垂れる美しい田圃の風景が広がっていました。



棚田は幾何学模様のように広がっていますが、この感じだと機械は入りそうにありませんので手作業が多いのかもしれません。
こんなすり鉢状の土地に棚田を築き上げた先人の努力には恐れ入ってしまう風景です。



集落の生活圏に近い棚田では、石組の上に田圃があり、その下に民家があるといった感じで棚田が下へ下へとつながっていきます。
もう少し稲穂が頭を垂れてきたら、道路に「もみ」が落ちてきそうなまでの豊作です。



畑集落では山から流れ出る水は、生活用水であるとともに棚田を潤し、稲を育てる水だといいます。
集落から平地へ下る道は川に沿っていて、川には石仏にするには手頃そうな大きさの岩が多くありましたので、石仏の多さは岩の多い土地柄なのも影響しているのかもしれません。





棚田は、そこそこの広さがある田圃もあれば、えっそこにまで植えるの?と思ってしまうような田圃もあります。
棚田を鳥瞰できる場所を探してみたのですが、実った稲の匂いを嗅ぎながら棚田をウロウロとしていました。
とても静かで、穏やかで、秋の棚田に稲穂が実る美しい場所でした。


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杉野「横山神社」と「火伏の銀杏」~滋賀県長浜市杉野~

2021-09-17 06:18:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市高月町から高時川沿いに北上すると山麓に「石道寺」「鶏足寺」などの寺院があり、己高山仏教圏の中心といえる地域があります。
この周辺には「仏像」「巨樹」「野鳥」「野神」を目的に何度も訪れた場所ですが、川合集落辺りより北は国道303号線で岐阜県の坂内方面への通過で通ったのみの地でした。
今回は滋賀県最奥の集落「金居原」からの帰り道に「杉野」「杉本」の集落を散策してみました。



杉野は「横山岳(標高1132m)」の麓にある集落で、「経の滝」「五銚子の滝」という滝があるというのですが、滝まで登山口から1.5時間かかるということで、ハードルが高い。
少し集落内をうろうろした後、国道の南側にある「横山神社」に参拝してみます。



一之鳥居の前に立つ石標には「本宮 横山神社」とあり、推古天皇元年(593年)に横山岳の「五銚子の滝」上にある杉の巨樹に祭神天降りせられたりと伝えられているという。
後に「経の滝」の上に社殿を奉遷し、公文所、地頭職屋敷、名主屋敷、神宮寺等が有ったと伝へられているそうです。

1439年になると神主小野、姓は横山御左衛門、本殿をはじめ其の他の社殿祭神を1社に合祀し現在の地、小字宮内に遷したといわれています。
由緒からすると「横山岳」は社殿や神宮寺が建てられた信仰の山だったといえ、横山岳は己高山と谷で分かれている山ですから己高山仏教圏を構成する霊山の一つだったのでしょう。



杉野の「横山神社」は本宮と社名が付いていますが、高月町横山にも「横山神社」があり、957年に時の神主であった横山将艦が高月町の横山の地に勧請し、本地馬頭観音像を遷座したと伝えられています。
神社は両方とも御祭神に大山祇命を祀る神社ですが、横山の地に勧請した際に「本地馬頭観音像」を遷座したと伝えられています。

高月町横山の方の横山神社で馬頭観音を拝観したことがありますが、像高100cm、平安時代後期の作とされる三面八臂の像です。
湖北の馬頭観音は山麓の寺院に多く、田園地帯の寺院にはほとんど見られませんが、一般的に馬の守り神とされる馬頭観音と山麓とはどういう信仰があったのか?なぜ横山大明神の本地仏の馬頭観音が勧請されたのか?


(高月町横山「横山神社の馬頭観音像」)

「横山神社」の境内に入ると落ち着きがないほど空間が広く感じます。
どうやら境内や山側にあった大きな樹は根元から伐ってしまったようなのが広く感じる原因なんだと思いますが、切り株を見るとかなり幹の太いスギもあったようです。



拝殿の横、本堂へ通じる道の横にもスギがあったようですが、根元から1m足らずのところで伐られています。
由緒にある“横山岳の上にある杉の大樹に祭神天降”からすると、巨樹が依り代となるのですが、神社に御神木をお祀りするというよりも横山岳を神の依り代とすると解釈した方が良いようです。



山の斜面には境内社の3つの祠があり、それぞれ二之宮・三之宮・四之宮とされています。
二之宮(旧社号山王社)三之宮(旧社号蛭子社)は、“横山神社が現今の社地に遷座ありし際、倶に遷座された”とされ、四之宮は杉野の3つの地区それぞれで祀っていた祭神を合併遷座したという。



さて、杉野の集落は横山岳の麓ということもあり、集落の目立つところに“横山岳周辺観光案内図”があり、その中に「火伏の大イチョウ」があるのを見つけました。
大雑把な地図なので場所が分からず、地元の方に聞いてみると見える所まで案内して頂くことが出来ました。
案内して下さった方は“紅葉の時期に来たらすごく綺麗だよ”とおっしゃっておられましたが、イチョウの背が高いので集落のあちこちから眺めることが出来そうで、集落を見守っているような印象を受けます。



石標には“滋賀県指定自然記念物”と彫られてあり、周囲には3枚の案内板があります。
「火伏せのイチョウ」は今から約250~350年前に50数戸の民家を消失するという2回の大火事に見舞われたが、幸いにも白山神社・石道寺はこの木のおかげで大火の難を免れたと伝わるといいます。

そのため1枚の案内板にはこの樹の名称を「石道寺のイチョウ」と書かれていたが、石道寺のある石道集落まではかなり距離がありますので山火事だったとしても少し遠すぎるように思います。
別の案内板には“村はことごとく焼き尽くされたが、当寺(元龍寺)だけはイチョウのおかげで災難を免れた”と書かれてあり、こちらの方が受け入れやすい。



「火伏せのイチョウ」のサイズや樹齢については各案内板でバラバラで、幹周は4.4mと4.6m、樹高は20m・20m以上・50~60mとかなり違いがあります。
樹齢は200~300年・350年と違いがありますが、これは滋賀県・木之本町教育委員会・長浜市保存樹指定樹木標識の認識の違いということなのでしょう。



イチョウの印象は幹の太さに驚きは感じませんでしたが、とても背が高く、集落のシンボルツリーのような樹なんだと感じます。
上部の枝分かれした部分を見ると「乳イチョウ」が垂れ下がっています。樹齢の長いイチョウ独特の姿です。



このイチョウの樹の根元や周辺一帯には無数の数の銀杏(ギンナン)が落ちていて、あまりの数の多さに驚くとともに歩くたびに乾いたギンナンの皮が潰れる音がしていました。
地元の方はギンナンをあまり拾いに来られないのか、拾う数より遥かに落下するギンナンの数が多いのか?
樹の根元の周りには、これまた無数の数のイチョウの芽が生えだしているのもあまり見たことのない光景です。



杉野を通る道は、県境の金居原集落から杉野集落・杉本集落・川合集落へと続いているのですが、杉本集落の辺りまで来ると山麓の傾斜地に作られた段々になった棚田が広がるようになります。
杉野川に沿って南下していくと川の横に「弘法大師御腰掛石」と彫られた石標が建ち、横には石仏が祀られていました。



この腰掛石には“杉本の路の傍に弘法大師がかつて腰掛け、火難を封じ給うた腰掛石がある。それで、この石を虧取って燧石とする者多く、もう小さなものになってしまった。”との伝説があるようです。
弘法大師・空海にまつわる伝説はあちこちで目にしますし、腰掛石の伝説も目にすることが多い。
杉本の腰掛石は石仏の下にある石のことを指しているのかと推測します。



「弘法大師御腰掛石」の後方に杉野川に架かる石橋がありましたので橋の上から杉野川を眺めてみる。
下流へ行くと緩やかな流れとなる杉野川も、この辺りではなかなか激しい感じがして巨石の間を縫うように流れています。






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県境の集落「金居原」と「土倉鉱山跡」~滋賀県長浜市木之本町金居原~

2021-09-12 16:05:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 このところ県境の最奥の集落をぶらぶらと巡っており、木之本町最奥集落「金居原」まで行って、折り返し杉野地区を巡ってきました。
「金居原」集落というと秘境の集落のようなイメージがありますが、実際は国道303号線が通っていることから、県内や岐阜県揖斐川町坂内へ容易に行き来の出来る普通の山村でした。

現在のような国道が開通する前から八草峠(750m)を越えて美濃とつながっていてはいたといいますが、豪雪地帯でもあり、おそらく明治末期までは林業や炭焼きを生業にしていた人が住んでいたのでしょう。
しかし、明治末期を境に「土倉鉱山」が操業を始め、地元・金居原の人や東北・四国・九州などから集まった坑夫が銅・硫化鉄・少量の金・銀・微量の 鉛を採掘して集落は大いににぎわったとされます。



「土倉鉱山」は、太平洋戦争の頃には従業員500名が軍事に必要な銅の大増産に従事していたといい、最盛期には従業員366人およびその家族約1000人が暮らしていたといいます。
鉱山近くには坑夫社宅が軒を連ねて、銭湯や映画館・マーケットなどが建ち並び、冬の積雪量が多いために山麓の小学校まで通えない子供のための「分教場」もあったそうです。
昭和40年に閉山された後、集落(土倉村と堀近村)は廃村となってしまい、大半は山と同化してその痕跡をわずかに残すのみだとされます。



国道から逸れて林道を進むと見えてくるのは「土倉鉱山跡」です。
廃墟としか表現のしようがありませんが、スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」に登場する廃墟に似ていることから、「滋賀のラピュタ」と呼ばれてアニメファンの人気を集めていて、コスプレで訪れる若者も多いとか。



「土倉鉱山跡」は老朽化にともない立入禁止とされていて、選鉱所の前までしか行けませんが、内部は7階の構造になっていてアリの巣のように坑道が続いているといいます。
無理して入ったりすると事故は勿論の事、会いたくないような生き物たちや、見てしまったことを後悔するようなものに出会ってしまうかもしれませんので入らないのが正解です。



たった50数年前まで稼働していた鉱山なのにもう廃墟というよりも遺跡のような姿になっているのには驚きますが、コンクリートの骨の部分だけが残っているので、神殿跡のような印象すら受けます。
僻地のような場所で早朝なのにも関わらず、他にも散策されている人が数名おられ、車のナンバーを見ると結構遠い所から来られているようですので、「土倉鉱山跡」に魅力を感じる人が多いことが伺われます。



選鉱所を横から見ると左側に土管があり、迷路のような通路と仮置き場のようなスペースがありました。
鉱山が操業していた頃はこの道を通って、選鉱所で働かれていたのでしょう。





「土倉鉱山跡」と現在呼ばれている廃墟は、正確には「第3選鉱場跡」といい、1942年から稼働した3代目にあたる選鉱場とされます。
採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、砕かれた後に沈殿分離槽で分離した銅鉱石を取り出して、残りを下の階の槽へ運んで分離・取り出し作業を繰り返したといいます。



ただ当時のことですから、環境面や安全面での配慮は充分ではなかったのでしょう、坑内事故やじん肺で亡くなられた方もおられ、鉱毒を含んだ水を杉野川に流していたことから、魚も棲まない川と呼ばれていたという。
時代は変わった今でも化学が発展した結果、人体や自然に大きな被害を及ぼす問題が数多く生じていますので、進歩はしても進化はないのかもしれません。



選鉱場から少し奥に進むと、坑道への入口がありました。
ここからトロッコで入っていくと縦の坑道があって、エレベーターで地下へ降りて横の坑道に入って採掘していたのだという。
中の様子を見たかったが、真っ暗な上に入口が水溜まりになっているため寄ることが躊躇われてここまで。



「土倉鉱山」の説明書きによると、ここから2キロ先の奥土倉には2代目の選鉱場が残っているとあります。
奥土倉の選鉱場が現在の場所に移されたのは、冬季の度重なる雪害によって人命を落とされることが多かったことや鉱山の設備拡充が出来なかったこととされています。



2代目の選鉱場跡があるなら行ってみようと思いましたが、道がひどすぎる。
この道を2キロも進む勇気はないし、車がボロボロになるのは困る。断念です。



「土倉鉱山」が繁栄していた頃、町の様子はどんな感じだったのでしょうね。
規模は全く違うと思いますが、映画『幸福の黄色いハンカチ』の島勇作(高倉健)と光枝(倍賞千恵子)のような人が生活していたと想像してみるのは面白い。


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米原市上丹生「神明神社」と丹生川~「いぼとり地蔵」と丹生川~

2021-09-08 13:01:01 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の湖北地方の米原市と長浜市には「上丹生」「下丹生」と同じ名前の集落があり、しかも集落を流れる川も「丹生川」と同じ名前の川が流れる。
奈良時代の貴族「息長丹生真人」氏は米原市丹生を本拠としていたといい、「丹生」は水銀や赤土のことを示しますから、丹生氏は金属の採鉱や精錬に詳しかった一族と考えられます。

長浜市余呉町の上丹生と下丹生にはそれぞれ「丹生神社」があり、共に丹生都比売命(丹生明神)を御祭神の一柱として祀り、社伝には丹生真人の縁起が残るという。
おそらくは丹生氏の一族が鉱脈を探して湖北を巡っていたのではと思われるのは興味深く、今度は米原市の上丹生集落を訪れました。



上丹生集落は霊仙山の麓にほど近く、上丹生より奥には霊仙山の榑ケ畑登山口があるというが、榑ケ畑集落は1957年頃に廃村になったといいます。
霊仙山の周辺には廃村になった村や無住の村が多いのですが、雪が多く交通が不便なのと石炭などの産業が廃れていったことの影響があったのでしょう。

対して上丹生集落は「木彫りの里」と呼ばれ、仏壇づくりや工芸品の製作が盛んな地で、道沿いを進むだけでも何軒もの仏壇屋さんが見受けられます。
上丹生の木彫りは、およそ300年前の江戸時代に木彫りの技が伝えられ、木地師・空殿師・彫刻師・塗師・蒔絵師・飾金具師・ 金箔押師の職人が上丹生の集落に集まっているといいます。
そんな上丹生の集落の入口辺りには名水「いぼとり水」の湧き水と「いぼとり地蔵」の祠が祀られていました。



「いぼとり水」は、丹生川のきれいな水に魅せられた旅人がその水を手にした所、手にできていたイボが取れたといいい、以来霊験あらたかな水として水をもらいに来る人が多くなったと伝わります。
また、息長丹生真人の一族に生まれたという平安時代の僧・法性院尊意(13世天台座主)の「初洗いの水」とも伝わり、尊意は菅原道真の仏教学の師とされているという。



「いぼとり地蔵」の祠の横には万葉集巻十四東歌の碑があります。
『真金吹く丹生の真朱の色に出て言はなくのみそ我が恋ふらくは』とあり、“鉄を作る時に用いる丹生の赤土のように顔には出ても言わないだけです。私があなたを恋しく思っている気持ちを...。”の意だという。
この歌が詠まれた地は多数あって、ここで詠まれた歌とは限らないが、上丹生の地でみるとしっくりくる感があります。



上丹生集落をさらに進んで行くと何とも奇妙な光景に出会います。
大きな岩に水を通す穴が設けられたこの場所は治山施設だという。人工で作られた物には見えませんが、不思議な迫力があります。



さて、上丹生集落の最も奥に「神明神社」はあり、神社は泰澄が開基した「霊山寺」の鎮守の社とされています。
「霊山寺」は本堂と18の小寺院、僧侶や神官が29人いたとし、山の周辺には7つの別院があったといいます。
「神明神社」の御祭神は天照皇大神。霊山の山麓の神社の厳粛さを感じる社です。



境内にはイチョウの樹があり、石垣の上には拝殿と本殿が横並びに建ちます。
燦燦とした光を注ぎ込む朝日に照らされた社は、太陽神とされる天照大神の光が連想されて非常に心地よい。



2段に組まれた石垣は、拝殿よりも本殿の方がさらに高く積まれており、より天に近い場所に御神体がある。
山麓の神社に参拝する機会が増えていますが、やはり山の神社からは独特の雰囲気を感じます。



「神明神社」には石田三成の父・正継に関する逸話があります。
光成が豊臣秀吉に仕えた際に正継は息子・三成を補佐し、1591年に三成が佐和山城主となると、正継は近江国で300石を食み、三成が留守の時は城代として所領を治めたといいます。

関ケ原の合戦では西軍として佐和山城の本丸を守り、西軍が敗退した後に押し寄せた東軍を相手に戦い、多くの家臣を脱出させ、正継の長男で三成の兄である正澄と共に自刃して果てたという。
その石田正継は、上丹生と隣村で境界争いが起った際、神明神社を修築して起請を納めて公平な判決を誓わしめたと伝えられています。



本殿のある高い石垣の下には巨樹スギが4本。
太いものだと4~5m少々はありそうで、3本は姿勢よく真っすぐに立ち、残る1本は幹が途中で分かれていて荒々しい印象があります。



拝殿や本殿のあるエリアの隅には苔むした石垣の前に灯籠があるのですが、この灯籠には奉納された鉢や賽銭箱が置かれ、注連縄まで張られています。
さほど古そうな灯籠には見えませんので、もしかしたらこの場所には祭場か何か信仰につながるものがあったのかもしれません。



「神明神社」の鳥居の前には、丹生川が流れており、川に架かる石橋を渡って参拝するのですが、川の上流から大きな水音がするので上流へ歩いてみる。
鈴鹿山系から流れ出る水が一段低いところに流れ落ちているのですが、水量の豊富さと透明度の高い水に見惚れてしまいます。



上丹生集落は、丹生川と宗谷川の合流地点に広がる集落ですので、次は宗谷川の上流にある醒井養鱒場方面へと向かってみます。
上丹生から醒井養鱒場へ向かう宗谷川と並行した道筋は、「醒井峡谷」と呼ばれる景勝地とされており、醒井峡谷の静かで深淵な峡谷を眺めながら宗谷川沿いに歩いてみます。



醒井養鱒場では霊仙山(1094m)山麓の鍾乳洞から湧き出る清水を使ってニジマスやアマゴ・イワナなどの清流でしか生息することが出来ない魚を養殖しているといいます。
宗谷川に放流もしているようで、下流の川沿いの家では庭から釣り糸を垂れておられる様子も見受けられ、ちょっと羨ましくも思いましたね。




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上丹生の「丹生神社」と下丹生の「丹生神社」~長浜市余呉町~

2021-09-03 06:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高時川は、滋賀県と福井県の県境にある栃ノ木峠を起点として始まり、余呉町の丹生谷を通り、びわ町辺りで姉川と合流して琵琶湖に注ぎ込む1級河川になります。
丹生谷では「丹生川」という呼び方をされ、その上流部ではかつて「丹生ダム」の建設計画があったようです。(丹生ダムは2005年に建設計画を中止)



現在では余呉町の最奥集落となった「菅並集落」から「上丹生集落」へ向けて南下すると「よしのべ地蔵」の祠が祀られている。
旧道しかなかった時代は、中之郷と丹生谷、丹生ダム建設計画で廃村集落となった集落を結ぶ街道の道中無事を見守る地蔵さんだったのでしょう。



「菅並集落」を出て最初にある集落は「摺墨集落」で、「するすみ」と読む何かいわくありげな集落なです。
“「伊香郡誌」には、「1183年、木曾義仲が京都を奪ったとき、摂政藤原基通は摺見村(摺墨)の水上神社に武運長久を祈り名馬「摺墨」を得て源頼朝に献上したと云う。”
“また、源頼朝が宇治川合戦の際、家臣梶原景季に与えた名馬摺墨(磨墨)は摺墨村の産というとある。”と記載されているといい、馬と縁のある集落だったようです。



集落の案内板の横には「七々頭ヶ嶽観音堂」の石標が立ちます。
七々頭ヶ嶽観音堂は、七々頭ヶ岳(標高603m)の頂上にある観音堂(西林寺 観音堂)だとされ、「江州伊香三十三ヶ所観音霊場」の札所となっています。
「伊香三十三ヶ所観音霊場」の霊場は、「観音の里ふるさとまつり」や「丹生谷文化財フェスタ」、あるいは個人で訪れていますが、「西林寺 観音堂」は最難関の札所のように思える。



集落の入口にあるのは「旧丹生小学校」の校舎と運動場。
こういう木造の校舎ってなんか懐かしい感じがしますが、実際に通っていた小学校が木造校舎だったかどうかは記憶は不鮮明です。



「摺墨集落」と「上丹生集落」の境が分からないまま、上丹生集落に入ってしまいます。
「丹生」は一般的には水銀の原料のことですから、「丹生」と地名が付いたこの地は丹生の鉱床が採掘されていた地かと思われます。
余呉に「上丹生」「下丹生」「丹生川」があるように、米原市の醒ヶ井から霊仙山方向にある集落にも「上丹生」「下丹生」「丹生川」があり、湖北地方と丹生の関係は深そうです。



ところで、余呉町には「丹生神社」が2カ所あり、一カ所は上丹生・もう一カ所は下丹生にある。
道路沿いに「丹生神社」の石標があり、山麓にある「上丹生神社」へと向かいます。



余呉の神社には鳥居があってその奥に鬱蒼とスギが茂る神社が多く、どの集落にも立派な社がある。
御祭神は「彌都波能賣命」と「丹生都比賣命」の2柱で、社伝によると“天武天皇の御代に丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、山土と丹生川の水を供え、天津神を祀った。”と伝わる。

ここに登場する「息長丹生真人」は坂田郡(現在の米原市)を治めていた古代豪族の一族で、米原市には息長丹生真人一族の墳墓と考えられている6世紀後半の円墳が残る。
また米原市には敏達天皇の皇后「息長広姫」の御陵が今も残り、湖北地方で息長氏の勢力が丹生を求めて山に入り鉱脈を探していたことが伺われます。





灯籠がズラリと並ぶ石段を登ると想像していた以上の広い境内に出ます。
拝殿の裏側を回り込んだ最奥の一段高くなったところに「丹生神社」の本殿がありますが、前方はスギが並び後方には山が迫る、神秘的な空気感のある本殿です。



山麓の集落に祀られる神社に参拝すると、ある種の怖さや畏怖する気持ちを感じてしまいますが、やはり神とは畏れるものなのかもしれない。
上丹生集落の「丹生神社」の参拝を終えた後は、下丹生集落の「丹生神社」へ足を運びます。



下丹生神社も山を背にして森に囲まれた神社ですが、採光がいいため明るい感じのする神社です。
御祭神は「高靇神」と「丹生都姫命」で、上丹生神社の「丹生都比賣命」と下丹生神社の「丹生都姫命」は同じ神となります。
丹生都姫命は、丹生などの鉱物資源採取を行った丹生氏の奉じた神の別称「丹生明神」を指すという。

「高靇神」は水を司る神で雨乞いの神、山に降る雨を司る龍神ともされ、京都の貴船神社の本宮と奥宮の御祭神でもある。
上丹生・下丹生ともに水の神と丹生の神をお祀りしており、高時川の洪水や渇水に悩まされながら、鉱脈を求めたこの地における歴史観が垣間見えます。



本殿は山にとけ込むかのようにひっそりと祀られていて、拝所の玉垣の前にはかつての御神木だったかと思われる大きな切り株がある。
この樹は枯死したのか倒壊したあるいは伐られたのかは分かりませんが、近年は大型台風などで御神木が倒れて本殿や拝殿などに被害を及ぼすことがあり、御神木も受難の時代になってきています。



境内にはケヤキの樹が堂々として立っています。
しかし、境内下の低いところから見上げると、大きな洞が開いていて痛々しい姿でもありあました。



境内には祭場のような場所があり、一番上に祀られた石を見てみるも何も彫られていなかった。
祭場なのか墓のようなものか分かりませんでしたが、何かいわくのあるものなのかと思います。



下丹生神社の境内社は「蛭子神社」と「稲荷神社」で拝殿・本殿の左側にひっそりと祀られている。
「丹生神社」と隣接する「西蓮寺」にも「稲荷堂」と「大師堂」が祀られており、集落の信仰心の篤さが感じられます。



神社の参拝を終えての帰り道。村はずれまで来ると独特の枝ぶりのケヤキがありました。
祠や標示などはありませんでしたが、この樹は下丹生集落の野神さんではないでしょうか。



2本に分岐した枝は上部へ行くと更に分岐しており、幹周は5.2m・樹高は16mあるという。
湖北ではケヤキやスギを野神さんとして祀る集落が多く、余呉町にも何本かケヤキの野神さんがあります。



丹生や菅並の辺りにも愛宕神社の神を祀る「菅並のケヤキ」や、かつて存在したが枯死してなくなった「上丹生のケヤキ」、そしてこの「下丹生のケヤキ」と巨樹のケヤキがあった。
元々湖北地方にはケヤキが多かったのかもしれませんが、ケヤキは幹が分岐して樹幹が大きく広がっていくことが多いので、そこに何か宿るものを感じてしまうということもあったのかと思います。




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