僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「北向岩屋十一面観音」と「錣峰三神社」~滋賀県東近江市~

2020-02-27 18:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 東近江市にある猪子山(標高268m)の山頂に「北向岩屋十一面観音」と呼ばれる岩窟の中に祀られた石仏があるといいます。
猪子山から繖山(標高433m)へは尾根沿いに通じており、「北向岩屋十一面観音」「石馬寺」「桑実寺」「観音正寺」「教林坊」などの寺院が山中に存在する霊山といえる山々。

また、東近江市から野洲・栗東にかけては“巨石や磐座”に対する信仰が感じられる地域で、古墳も多いことから古代より文化が栄えた地でもあったとされています。
猪子山の「北向岩屋十一面観音」は、奈良時代に安置されたものとされ、平安時代には坂上田村麻呂が鈴鹿の鬼賊退治のため、岩屋にこもり十一面観音菩薩に武運を祈願したとも伝わります。



麓の集落で道に迷いながら林道の登り口を探していた時に感じたことは、猪子山の上へと向かう長い石段のある神社が多いこと。
また集落の外れには道祖神として祀っているのかと思われる石仏地蔵が多い。
それだけ神山に対する信仰が深いということになり、寺院も多くみられる信仰の深い地域ともいえます。



当方は「北向岩屋十一面観音」へつながる石段の登り口まで車でショートカットしたのですが、麓から歩いて登っていかれる方が数組おられたのには驚きます。
おそらくは地元の方なのでしょうけど、信仰と健康づくりの両面から日常的にお参りされているのかと想像します。



石段は急な傾斜となっていたが、誰もいない山道とは違って人の姿が見えるので安心して登れる。
とはいっても途中まで登ると、さすがに息が切れてくる。

疲れがきたところにいい言葉の彫られた短歌の石碑があり、その言葉が気持ちを和ませてくれる。
『急坂を 息を切らして 登りきて 観音さまに 会うぞ嬉しき』



観音堂は巨石と一体化したように建てられており、背後にある巨石は「天鈿女命(観音さまの祠岩)」として祀られています。
「天鈿女命(アマノウズメノミコト)」は、「岩戸隠れ」で天照大神が天岩戸に隠れた際に岩屋の前で踊り、大神を誘い出したとされる女神です。



この祠石に岩窟があり、中に祀られた「十一面観音石仏」は、十一面観音の女性的な部分と女神が融合されるようにして信仰されてきた印象を受ける。
観音堂内には先に参拝された方が焚かれたと思われる線香の煙と香りが漂い、厳しい修行の場所というより柔らかな場所のように感じる。



岩窟に祀られた十一面観音石仏は、像高48cm・光背30cm・蓮座高13.5cmの石造仏で、合掌した手に数珠を掛けている姿は珍しいといわれている。
観音堂の中は綺麗に整備され、花も活けられていることから、日常的にお世話をされている方がおられるのでしょう。





観音堂のすぐ横には「巨石信仰岩神群/磐座」として「玉祖神命」が祀られています。
玉祖神命は、天照大神が天岩戸に篭った時におびき出すために「八尺瓊勾玉」を造った神とされ、八尺瓊勾玉は「三種の神器」として謂われがある神器です。
2019年10月に行われた「即位礼正殿の儀」でも三種の神器のうちの「草薙剣」と「八尺瓊勾玉」が「高御座」に運ばれて、皇位が継承されたのも記憶に新しいところです。





猪子山から眺める眺望は雲はかかってはいたが絶景が拡がり、見晴らしがよい。
右に見える山は荒神山。地平線の奥には琵琶湖が広がる。



琵琶湖の手前にある湖は伊庭内湖。
近江八幡市の伊崎寺などがある山と沖島の向こうに微かに見えるのは比良山系かと思われます。



伊庭内湖の上空には気球が飛んでいる。
時折、バーナーの炎も見えましたが、この気球はどこから来てどこへ飛んでいくのでしょうね。



眺望は琵琶湖方面と東側の展望台からも眺めることができる。
こちらは連なる山系の間に広がる盆地ですが、位置関係はよく分からない。



帰路に立ち寄ったのは、近江の奇祭「伊庭の坂下し祭り」の神事が行われる「繖峰三神社」でした。
急勾配の岩場の斜面を重さ400キロもあるとされる三基の神輿を御輿上げし、坂下しの神事の当日に引き下ろされるといいます。



「伊庭の坂下し」は五穀豊穣を願う神事だといい、ニュースや新聞などで取り上げられることの多い神事ですが、登るのも困難かと思われる難所続きの岩場で神輿を下していく猛々しい神事です。
道の途中には高低差6mの断崖絶壁の難所や角度40°を越える急斜面もあるといい、そこを400kgもあるという神輿を下す勇壮な祭りはまさに命がけ。
神事はかつては4月下旬から5月上旬に“辰に昇りて巳に下る”として日を選んでいたそうですが、現在は5月連休に行われるようになり、およそ850年前から神事は行われているといいます。



鳥居の奥にある坂道を見ただけで登る気力が失せてしまい、鳥居を入ったところで手を合わせて帰りましたが、この坂道は約500m続くといいます。
伊庭の坂の凄さは入口から見ただけでは実際の凄さは分かりませんが、“伊庭の祭りは一度は見やれ、男肝つく坂下し”なんて歌もあるそうです。



ところで、猪子山での石段登りの道中では何種かの野鳥が見聞きすることが出来ました。
見聞き出来たのは、冬の野鳥のジョウビタキ・アオジ・ツグミ・アカゲラもしくはアオゲラの囀りなど...。
猪子山は“タカの渡り”の観察ポイントとして有名な山ですが、越冬する小鳥も多そうな山でしたので、伊庭内湖と合わせて探鳥してみるのも面白いかもしれませんね。


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御朱印蒐集~米原市 吸湖山 青岸寺~

2020-02-23 17:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 寺院には“修行道場の寺・皇族や武将の菩提寺・豪華絢爛な寺・ひっそりと観音さまを祀る寺”など諸々の寺院がありますが、滋賀県米原市にある青岸寺は“穏やかな気持ちで和める寺院”だと思います。
この1年間に何度も参拝しているのは、穏やかな気持ちになって自分を取り戻せる”時間が過ごせるからなのでしょう。

また、寺院の穏やかさもさる事ながら、青岸寺の中にある茶寮「喫茶去(Kisaa-ko)」のスイーツも毎回の楽しみにしています。
本尊「聖観音菩薩像」を祀る本堂、国指定の名勝「青岸寺庭園」、書院「六湛庵」を巡りながらゆっくりとした時間を過ごしたあとのスイーツは格別なもの。



かつてこの地には南北朝期に近江守護職であった佐々木京極道誉が建立したという「米泉寺」のがあったといいますが、1504年の兵火で焼失。
その時に「本尊聖観音像」のみが難を逃れ、その後小堂で祀られていたといいます。

江戸時代になると、彦根大雲寺三世要津守三和尚が朽ちた小堂に祀られた観音像を拝しひどく心を痛め、1650年に再興を期して入山。
敦賀の在人・伊藤五郎助の尽力により再興を果たすものの、五郎助は亡くなってしまい、五郎助の諡を以って青岸寺と改称し、井伊家の援助を賜り現在の青岸寺となったようです。



青岸寺はJR米原駅からのアクセスのいい場所にありますが、太尾山の西麓にひっそりと堂宇を構えています。
とはいえ、参拝して「喫茶去」でカフェを楽しまれる方は絶えず、皆さん思い思いの場所でくつろいでおられます。



玄関から入ると“どうぞご自由に過ごして下さい。”と声を掛けられ、縁側に腰かけたり、畳の間で横になってみたりとゆっくりとした時間を過ごします。
本堂には本尊の「聖観音菩薩坐像(南北朝期)、十一面観音菩薩立像(鎌倉後期)、「役小角像」などが祀られ、厨子の扉には「十六葉八重表菊」の紋がある。



「青岸寺庭園」は井伊家が彦根城敷地に「楽々園」を築いた時に石組みごと供出し消滅してしまったものの、1678年に彦根藩士・香取氏により再興されたといいます。
庭園は通常期は枯山水庭園だが、雨量が増えて“蹲”が満水になると回遊式庭園となる趣向を凝らしたもの。



庭には白砂の代わりに杉苔を敷き詰めてあり、季節・雨量・庭の変化に伴い様々な姿を見せてくれます。
この冬は雪がないため“雪の青岸寺庭園”な見られませんが、“冬囲い”された松の庭園も見応えがあります。



縁側や庭に面した部屋のテーブルには庭園の風景が反射して美しい。
テーブルに写り込んだ庭園の風景は、水に写る姿のような緩やかな波の上に漂う風景のよう。





可愛らしいお地蔵さんの姿があるが、次の写真上のお地蔵さんは泣いているかのように涙が流れているように見える。
世を憂うように悲しむお地蔵さんと微笑みを絶やさず心を和ませてくれるお地蔵さんの対比だと勝手に空想を膨らませる。





茶寮「喫茶去(Kisaa-ko)」はお洒落なカウンターで住職が点てて下さるサイフォン珈琲を楽しむことができます。
カウンター以外にも庭に面した縁側や小部屋に置かれたテーブルで庭園を楽しみながらティータイムを過ごすことも出来る。



お楽しみのスイーツは“ほうじ茶プリン”と“抹茶ガトーショコラとゆず茶のセット”。





「喫茶去(Kisaa-ko)」のカウンターにそっと置かれていたのが「ほっとする禅語70」の本。
禅問答のような難解さはなく、押しつけがましくもなく、ちょっと落ち着いた時に自分を見直してみるような本のようです。

「ほっとする禅語70」に書かれていた「喫茶去」とは禅語で“お茶を召し上がれ”というただそれだけの言葉。
“相手が嫌いな人であっても一杯のお茶を差し出せる余裕、理屈抜きに一杯を差し出すことこそ禅の心”...“とあります。




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御朱印蒐集~京都市右京区 霊亀山 天龍寺~

2020-02-19 19:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「京都五山」は足利幕府3代将軍・義満が臨済宗寺院の寺格を決めたとされており、「天龍寺」はその第1位の寺院の位置付けとなっています。
京都五山の別格には「南禅寺」がありますので頂点とは言えないものの、2位以下には「相国寺」「建仁寺」「東福寺」など京都の代表的な臨済宗寺院が名を連ねます。
ただし、格付けはあくまで足利幕府の政略的なもののようで、順位変更や脱却・没収などを経て、現在残る順位は義満没後に定められたものだといいます。

天龍寺は醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏を開基、臨済宗の禅僧・夢窓疎石を開山として1339年に創建。
造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したものの造営費用には足りず、不足を補うため元との貿易を再開するために使用されたのが「天竜寺船」だといいます。
その後、何度も火災に見舞われながら明治9年(1886年)には臨済宗天龍寺派大本山となるも、上知令により嵐山・嵯峨野の境内を没収されて現在の境内地となったようです。



往年の規模はなくなったとはいえ、天龍寺は「世界文化遺産( 古都京都の文化財)」の一つとして登録を受けており、歴史的な文化遺産の寺院であることは確かです。
天龍寺は一大観光地である嵐山の中心部にあり、新型肺炎の影響で観光客が激減するもそこは嵐山、やはり訪れる人は多い。



「総門」から入山すると参道の両サイドに塔頭寺院が並び、奥には「法堂」・世界遺産となる「天龍寺方丈」へとつながる。
入山口にあった「勅使門」は工事中で姿は満足に確認出来ない状態だが、「総門」から続く広くて緩やかな参道を進むと、方丈の前で「鐘楼」と赤松が出迎えてくれる。





参道の正面には「庫裡」があり、ここが諸堂(大方丈・書院・多宝殿)へ入る際の受付となっている。
天龍寺を可能な限り見ようとすると、諸堂参拝料・庭園参拝料・法堂「雲竜図」の特別公開とお金がかかる。
今回は庭園参拝料を支払って庭園に入ることにした。



庫裡には天龍寺の顔ともいえる大衝立の「達磨図」があり出迎えてくれるが、当方は堂宇に沿った外回りとなる池泉回遊式庭園「曹源池庭園」の周辺を歩く。
衝立の達磨は天龍寺住職だった平田精耕老師が描かれたものだといい、庫裡は1899年の建築だといいます



庫裡の正面にある石組は作庭師・曽根三郎によるもので、前日に参拝した真如堂の「涅槃の庭」を作庭された方。
曽根さんは天龍寺でこの枯山水を作庭された他、特別名勝「曹源池庭園」から続く「百花苑」を作庭されており、今回の京都では偶然にして曽根さんの庭を2寺で見ることとなった。



「曹源池庭園」へと向かうと方丈の正面には中門があり、その間には白砂の枯山水庭園が望める。
方丈には本尊「釈迦如来坐像(重要文化財)」が祀られているといい、大きな「雲龍図」が描かれているが、雲竜図の方は堂外からも見ることが出来た。





方丈の西側は「曹源池庭園」と面しており、開山・夢窓国師の作庭で、雲がなければ嵐山・亀山・小倉山・愛宕山を借景とした池泉回遊式庭園となる。
曹源池は大きな池ですが、後方に人工物がなく山を借景としているためしているためとても広い庭園に見える。



庭園は素晴らしいのだけど、ここで雪が降りだす。
建物の屋根がある部分はいいが、歩き出すと雪が舞ってとても冷たく、体が冷えてくる。
見える庭園の姿も借景となる山々にこれぞ雪雲といった雲がかかり、寒々とした冬の風景に拍車がかかる。





青空の下、曹源池に紅葉や青紅葉が写り込む時期はさぞや美しいだろうと想像してみる。
人ごみが嫌いなので嵐山を訪れる機会は少ないが、好天の日に池に木々が写り込む絶景の庭園を見てみたいものです。



方丈から多宝殿へと向かうと曽根三郎さん作庭の「百花苑」へとつながっていく。
この季節であっても苔は美しく、馬酔木や椿の花が咲き、季節に花を付ける木々が数多く植えられているのに気付く。
小山の中を周遊することもできますので、花に包まれる季節はさぞや美しいのだろうと思います。





後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂である「多宝殿」まで来るとさらに雪が降りかかってくる。
堂内には後醍醐天皇の像と歴代天皇の尊牌が祀られているといい、小方丈からは渡り廊下が設けられているようでした。



天龍寺の塔頭寺院や総門には「瓦塀」がその独特の姿を見せてくれます。
瓦塀は瓦を埋め込んで作られているため堅牢な塀となるだけではなく、幾何学的な面白い紋様を生み出しています。



せっかく嵐山に来たので「竹林の小径」へ足を伸ばしてみましたが、まさに人・人・人で、新型肺炎も雪もお構いなしといった状態でした。
天気が天気なので竹林のいい景色は味わえなかったものの、雰囲気だけは感じることが出来たのは良かったかなと思います。





「竹林の小径」の行き止まりにあるのは「野宮神社」。
「野宮神社」は、天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王が伊勢へ行かれる前に身を清められたところとされ、縁結びの御利益があるといいます。
京都で縁結びの御利益のある神社へ行くと、毎度のことながら参拝者の多さに驚きますね。



神社の奥には「野宮のじゅうたん苔」と呼ばれる庭園があり、参拝に並ばれている方々の間を通して頂いて様子を見に行きました。
確かにじゅうたんのように苔が広がっていて高級な生地のような肌触りを想像するが、日が差さずくすんだ色になってしまったのは残念。



この日の朝は京都で迎えたのですが、朝起きたら外が雪で真っ白になっていたのには驚きました。
今年初めての雪で、おそらく今季最後の雪化粧を京都で楽しむこととなりました。
(雪はその後もう一度積もりました...。)




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『美人のすべて』展~京都嵯峨嵐山「福田美術館」~

2020-02-16 15:30:15 | アート・ライブ・読書
 京都嵯峨嵐山の渡月橋近くに「福田美術館」がオープンしたのは2019年10月のこと。
福田美術館は「100年続く美術館」をコンセプトに、現代まで受け継がれてきた日本文化を次世代に伝え、さらなる発展へと繋がる美術館を目指す」として開館されました。

今回開催された『美人のすべて』展は、福田美術館の開館後2テーマめの美術展で、日本画家・上村松園を中心に鏑木清方・伊東深水・木島櫻谷などの美人画約60点を公開。
展示は3室に分かれており、「美人画競演~松園を中心に」「多様化する美人たち~美人画の変遷」「伝統に生きる美人」の3つのカテゴリーに分類しての展示でした。



福田美術館は、渡月橋から桂川に沿って2~3分も歩けば美術館が見えてくる最高の立地条件にあり、近代建築の手法を使いながらも京都の町屋をイメージさせる造りとなっている。
驚いたのは次々と入場される来場者の多さで、美人画、特に上村松園の人気の高さを痛感することになりました。



上村松園は1875年、京都に生まれますが、誕生の2か月前に父を亡くし、母親の女で一つで育てられたといいます。
明治の時代に画家を目指すなど当時はあり得ない事だったようで、周囲からの中傷が絶えなかったとされながらも絵を描き、1948年には女性として初めての文化勲章を受章されたといいます。

また、未婚の母として息子・上村松篁を育て上げておられ、世間の風当たりは冷たかったと思われるなか、絵を描き続けたのは強靭な精神力の持ち主だったのだろうと考えられます。
「初雪」は1939年の作品で、雪に覆われた蛇の目傘を持ちながら左手で着物が濡れないように褄を持ち、難儀しながら歩きつつも表情は初雪を楽しんでいるかのように笑みを浮かべています。


「初雪」 上村松園

「花見図」は花びらを散らしている八重桜を背景に季節の変わり目を感じているような絵。
手に持った扇と頭にかぶった桜色の揚げ帽子に付けられた扇が対照的で面白く感じます。


「花見図」 上村松園

「浴後美人図(1900年頃)」は裸体を描いたもので一瞬ドキッとするが、イヤらしい感じはしない。
そこには恥じらいのようなものもなく、淡々とした日々の生活の姿が描かれているからなのでしょう。


「浴後美人図」 上村松園

「姉妹之図(1903年頃)」は、本に顔を寄せ合っている仲睦まじい3姉妹が描かれている。
明治時代の京都の町屋の様子など知る由もないが、この3人を大阪の商人言葉で言えば“とうさん・いとさん・こいさん”とでもなるのだろうか。


「姉妹之図」 上村松園

動物画の名手とされている日本画家・木島櫻谷が描いた「婦女図屏風(婦女四趣)」は1925年の作品で、長らく所在が確認されていなかった作品だといいます。
1扇ごとに対照的な女性の姿を描いており、身分の違いを髪型や服装で描き分けていて、それぞれの人生を歩む女性の姿の美しさが伝わってくる。


「婦女図屏風(婦女四趣)」 木島櫻谷

今回の美術展で初公開となったのは上村松園の「雪女」で美術展の中でも異彩を放つ作品でした。
元々は、近松門左衛門の全集「大近松全集」の付録として作られた木版画の原画とされており、絹糸に墨・胡粉・金泥で描かれているという。

雪女は、“雪が降るなかで命を落としつつも恋人の危機を救うために雪女になった姿”を表現しているといいます。
姿かたちが変わり果てても想いを遂げようとする姿に、怖ろしいまでの情念を感じてしまう作品でした。


「雪女」 上村松園

「四季婦女」は1887~1896年頃に描かれていて、松園初期の作品になると思われます。

1枚の絵の中に納まる4人の女性は、琴を奏でる手を休めてメジロの囀りに耳を傾ける女性。
内輪で扇ぎながら金魚鉢で泳ぐ金魚を見つめる女性、和歌を詠む女性、雪山の掛け軸を眺める女性。
四季折々の姿は季節が進むに従って、年を重ねていっているようにも見える。


「四季婦女」 上村松園

「振袖物語(1919年)」を描かれた山川秀峰は美人画で知られる日本画家だそうです。
“偶然見かけた少年に一目惚れし、同じ柄の振袖を作らせた娘が焦がれ死にする。その形見の振袖を着た他の娘も相次いで死に、供養のために炎に投じられた振袖は燃えながら空を舞い、江戸の街を焼き尽くした。”

逸話に基づいて描かれた作品ですが、左の少年のなんとも妖しげで存在感のある姿に魅了されます。
うっとりとした目で恋焦がれる女性たちの表情もリアルに描かれている秀作は異才・山川秀峰のデビュー作だといいます。


「振袖物語」 山川秀峰 

『美人のすべて』展では「美人画の変遷」としてまとめられているゾーンがあり、江戸時代から近代に至るまでの美人画の変遷を辿ることができます。

18世紀に描かれた東燕斎實志「雪中美人図」は、松園の「雪女」と同じようなモチーフながら浮世絵のような描き方に見える。
初々しい初雪の光景と、苦難の道を想像させる光景との違いはありますが、やはり時代によって描き方が変わっているのが分かります。


「雪中美人図」 東燕斎實志

西山翠嶂の「花見(1909年)」に描かれた人物たちは、着物姿にハイカラな洋傘という姿をしており、当時の最先端のお洒落をしたハレの姿。
ファッショナブルなスタイルに決めて華やかな花見に行く春の晴れがましい空気感が伝わってきます。


「花見] 西山翠嶂

福田美術館の次回の展覧会は『若冲誕生 〜葛藤の向こうがわ~』が予定されており、伊藤若冲を中心に曾我蕭白・円山応挙などの作品が展示されるようです。
京都には国立などの大きな美術館・博物館以外にも中規模の美術館が幾つかあるのは実に羨ましいことです。





嵐山の時間制限のない市営駐車場に車を停めたので時間の許す限り、久しぶりの嵐山を散策する。
相変わらず人の多い場所だが渡月橋を歩いている人を見ると、圧倒的に人の数は少ない。やはり新型肺炎の影響なのでしょうね。


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御朱印蒐集~京都市左京区 鈴聲山 真如堂(真正極楽寺)~

2020-02-13 19:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都市左京区にある「真如堂」は正式には「真正極楽寺」といい、984年に比叡山の僧・戒算上人により延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来を安置して開創された寺院とされます。
「真正極楽寺」は“極楽寺と名乗る寺は多いが、ここが正真正銘の極楽の霊地”という意味を込めて名づけられ、「真如堂」は本堂を表したといいます。

その後の1467年になると応仁の乱によって焼失。
御本尊は比叡山の黒谷に難を逃れ、寺院は何度かの移転や焼失に遭ったものの、1693年に現在地での再建が開始されたといいます。



境内は紅葉の名所として有名で紅葉・桜・青紅葉の名所とされていて冬の季節は華やかさには欠けるが、広い境内には見どころが多く、見事な庭園も有している。
白川通りを途中で折れ真如堂へ向かう道には寺院が点々と立ち並ぶ京都らしい風景が見られる。



朱色に塗られた「総門」は1695年に完成したものだといいますが、珍しいことに敷居がない。
これは真如堂の西側にある神楽岡(吉田神社)の神々が夜にお参りに来る際につまずかないように敷居がないのだといいます。



境内へ入ると正面に「本堂」、右に「三重塔」が見え、緩やかな石段の両端には枝が覆いかぶさるように広葉樹が植えられている。
季節によってこの参道は紅葉に染まったり、青葉に染まったりするのでしょう。



石段を登った右に建つ「三重塔」は1817年の再建で、高さは30mあるといいます。
三重塔は2018年の台風で被災したそうですが、すでに修復は終わり重厚感のある姿をみせてくれています。



「本堂」の前にある「宝篋印塔」には享保13年戌申年(1728年)と彫られてあり、寺院が再建されていた時代の姿が伺われます。
本堂の再建が1717年でしたから、その後に宝篋印塔や堂宇・三重塔が再建されていったのかと思われます。



本堂の内々陣にある厨子には御本尊「阿弥陀如来立像(平安期・重文)」、安倍晴明の念持仏だったという「不動明王座像(平安期)」、「十一面千手観音立像(平安期)が納められているという。
残念ながら御開帳は毎年11月15日のみということでこの日は写真で見るのみ。



ただし、脇陣に祀られている「文殊菩薩騎獅像(鎌倉期・伝運慶作)」、「伝教大師像」「天台大師像」や江戸期の「舎利塔(室町期)」「釉貼花花卉鳳凰六耳壺(室町期)」などは拝観が叶う。
境内にある堂宇にもアクリル板越しにはなるものの、数躰の仏像が安置されていますので仏像の寺としても魅力のある寺院です。



本堂の仏間から渡り廊下を進んで「書院」へ行くと、「涅槃の庭」「随縁の庭」という個性的でありながらも穏やかな気持ちにさせてくれる庭園が広がります。
書院の入口前にある蹲には「真如堂」の巴瓦が置かれているのも味わいがある。



「随縁の庭」を作庭されたのは重森千青さん。
千青さんは、作庭家「重森三玲」さんの孫にあたられる方で、「随縁の庭」は重森三玲さんの「東福寺 方丈庭園」の升目の庭を思い起こさせる作庭となっています。



真如堂は三井家の菩提寺で三井高利らの墓所があることから、「四つ目の家紋(三井家家紋)」を使った独創的な枯山水庭園となっています。
東福寺の方丈庭園を作庭された祖父・重森三玲さんと同じく重森千青さんの庭も他では見ることのない独創的でモダーンな庭園だと感じます。



「随縁の庭」とは打って変わって「涅槃の庭」は借景と石組を使った古典的な良さと凝り方が見られます。
前庭となる庭には白砂が川のように敷かれ、由緒のある石灯籠や石材が配されている。



左にある「燈明寺石燈籠」は鎌倉時代のものだといい、山城国・燈明寺に伝わっていたものを三井家宗山が入手。京都新町通り邸に設置されていたもの。
その後諸々の戦火等を逃れて東京水道橋の邸に移されていたものを新町三井家第十代高遂氏の卒寿の記念として真如堂に寄贈されたといいます。



石燈籠と同じ場所に変わった形をした蹲があり、どんな意味があるか聞いてみたが、三井家からの寄贈としか分かりませんでした。
丸くくり抜いた蹲の外側に水が溜まり流れるようになっており、個性的な中にも面白さを感じる蹲です。



「涅槃の庭」は東山三十六峰を借景として“釈迦涅槃図”を表現した庭で、見る角度によって様々な姿を見せてくれます。
中央に入滅する釈迦を表し、嘆く弟子や釈尊の生母・摩耶夫人を石組で配して、白砂でガンジス川の流れを表す。





作庭家は曽根三郎という方で、曽根さんは「天龍寺の前庭」「天龍寺の曹源池庭園の修復」「宝厳院庭園」など数多くの庭園を作庭された方だそうです。
「涅槃の庭」は、借景となる東山連峰の高さに合わせて庭が作庭されてあり、五山送り火の如意ヶ岳が釈迦の頭部、東山の稜線に合わせて作庭されているのは見事としか言いようがありません。



真如堂には重文の墨画や前川文嶺・孝嶺親子による襖絵なども多数ありますが、息を飲んだのは「齋藤真成」という方の洋画でした。
齋藤真成さんは真如堂の第53世貫主にして洋画家でもあり、京都教育大学特修美術科の教授でもあった方のようです。

一見アブストラクトな作品のように見えるが、アールブリュットのような雰囲気のする絵で、海外を中心に個展を開かれていたようです。
斎藤さんは2019年に102歳で亡くなられたといい、堂内には1点だけ作品があったのですが、自由で力強い作品に圧倒されてしまいました。



ところで、真如堂の堂宇には「元三大師堂」「鎌倉地蔵堂(鎌倉地蔵)」「縣井観音堂(縣井観音)」「茶所(善光寺如来)」「薬師堂(石薬師)」があってそれぞれの仏像をお祀りしています。
興味深いのは奈良・長谷寺御本尊の分身である「十一面観音立像」を祀る「新長谷寺」でしょうか。



西国三十三所第22番札所の「総持寺」には平安時代の公卿・藤原山蔭にまつわる助けた亀の恩返しと観音の霊験に関する縁起が伝わりますが、この新長谷寺にも全く同じ話が伝わります。
藤原山蔭は天皇の側近であったとされ、四条流庖丁式の創始者ともされ、総持寺・新長谷寺・吉田神社(京都左京区)を創建した方とされます。
3所の神社仏閣には山蔭の影響が伺え、観音信仰(長谷寺十一面観音)の信仰が非常に深かった方だったようです。



真如堂(真正極楽寺)は左京区にありながらひっそりとした隠れ寺院のような印象通りの見どころの多い寺院でした。
冬の枯れた季節にも関わらず、参拝者が絶えないのは京都という場所柄もあるでしょうけど、それだけ人をひきつける魅力のある寺院ということなのでしょう。


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御朱印蒐集~滋賀県大津市 圓満院門跡~

2020-02-10 20:10:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 “門跡寺院”とは皇族や公家の出身者が住職を務めていた寺院のことをいいい、圓満院の説明では“現在、門跡寺院は17ヶ寺ある。”といいます。
17ヶ寺の門跡寺院は仁和寺や大徳寺・三千院など大半が京都にある寺院となり、滋賀県には滋賀院門跡と圓満院門跡があるのみで、残りは関東の輪王寺が数えられています。

圓満院は987年、第2代天皇の村上天皇の第三皇子・悟円親王により創立された寺院とされ、開基当時は“平等院”と呼ばれていたといいます。
1052年には関白藤原頼通が京都宇治にあった別荘を「平等院」として開基し、平等院の名を譲った三井平等院は「圓満院」と命名されたと伝わります。



圓満院は江戸初期までは京都岡崎の地にあったともいわれ、門跡寺院としては天台寺門宗(総本山は三井寺こと園城寺)の三門跡(圓満院・聖護院・実相院)の一つとされていたようです。
天台宗は山門派と寺門派が対立していた歴史がありますが、現在の圓満院は天台宗系の単立寺院となっています。



大津市のこの界隈には「大津市歴史博物館」や「園城寺(三井寺)」があるため馴染み深い地域となっているのですが、圓満院門跡に参拝するのはこれが初めて。
場所的には大津市歴史博物館とは隣合わせで、三井寺の山門とは歩いて3分ほどの場所にあり、今まで立ち寄らなかったのが不思議なくらいです。



現在は勅使門が開門されており出入り可能となっていますが、門にかけられている幕には皇室の菊花紋である“十六葉八重表菊”が描かれ、ここが門跡寺院であることを示しているが、境内に入ると少し空気が変わり、ある種独特の雰囲気となる。

5つの宝輪のあるオブジェのような塔は「鐘楼」にあたるのでしょう。
下に吊るされた梵鐘には“発願 円満院門跡創建1千年の年”と彫られ、“建立 昭和59年釈尊降誕日”とあります。



鐘楼の前には「洗心不動明王」が祀られ、“石仏不動明王尊を自分と観想し三井の冷水を掛け、心を洗い心身を清浄にする”と書かれてありました。
不動明王に冷水を掛けましたが、他の門跡寺院の印象とは少し空気感が違い、違和感を少し覚えたのはオブジェのような鐘楼の影響だと思います。



そのまま「秘仏金色不動明王」を祀るという「不動尊 三心殿」へと参拝します。
不動護摩の護摩供が行われる日は参拝者が多いと思われますが、この日は全く人の気配がない外陣へと入っていく。



三心殿は近年になってから建てられたと思われる建物で、護摩堂という感じはしない。
圓満院が門跡寺院たるゆえは、重要文化財となっている「宸殿」と名勝史跡指定を受けている「三井の名庭」となり、三心殿は護摩供の場としての役割を果たしているようです。





「宸殿(重要文化財)」は、1619年に徳川幕府第2代将軍・秀忠の息女「和子(東福門院)」が後水尾天皇の后として御所に入る際に京都御所に建てられたといいます。
1647年に東福門院源和子の娘である明正天皇(第109代天皇)によって圓満院に下賜されて現在地に移築されたようです。



南北2列の計6室からなる宸殿の各部屋にはかつては狩野派の障壁画が描かれていたようですが、現本は京都国立博物館に収蔵されており、複製のみが見られる。
部屋の奥にはタンチョウヅルが舞う煌びやかな着物が掛けられ、かつて狩野探幽の障壁画があったことを表す墨書きの板が置かれている。



歴代天皇のお位牌を泰安する「本堂」に最も近い部屋は“玉座の間”となっており、この玉座に後水尾天皇は座したとされています。
後水尾天皇と和子の時代は、徳川将軍家が婚姻政策で朝廷を懐柔し、姻戚関係を持った頃。
東福門院源和子さまは、さぞや気苦労が多い人生を過ごされたことでしょう。



圓満院門跡の見どころは「宸殿」と宸殿の南側に広がる名勝史跡「三井の名庭」、併設された「大津絵美術館」となり、宸殿までくると門跡寺院の空気感に包まれる。
池泉鑑賞式「三井の名庭」は、室町時代の相阿弥の作庭とされており、現存する姿となったのは宸殿が移築された1647年頃の築造だとされます。



細長い池の中の左には“鶴島”、右側には“亀島”を配し、池の背後には築山、手前には白砂と落ち着いた佇まいの庭園で、腰かけて観想できるよう椅子が置かれている。
腰かけて眺めていると、後方では座禅会、築山からは冬の小鳥の囀り。





圓満院門跡と隣接した三井寺は“天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に御産湯に用いられたという霊泉を「御井の寺」と呼び、後に三井寺となった”と伝わります。
両寺院の背後にある長等山は名水が湧き出す地のようで、宸殿の近くには湧き水「三井の名水」がコンコンと湧き出しています。
この名水は百四十余才の長寿が叶うといい、少量口に含んでみる。



楽しみにしていたのは「大津絵美術館」で、隣の大津市歴史博物館へは大津絵を見に何度か来ているほどの大津絵ファン。
大津絵は江戸初期に街道を行く人に縁起物として売ったのが始まりだといい、風刺の効いた作風とデフォルメされた絵の面白さを併せ持った庶民のためのアートです。



大津絵美術館で最も興味を持って見たのは「鬼の念仏」の像(フィギュア)でした。
かつて大津絵を売る店の前には広告塔として大津絵のフィギュアが置いてあったといい、もう一つの大津絵の魅力に魅かれます。



大津絵が描かれたのは掛け軸や色紙だけでなく、徳利にも描かれており、この徳利には「瓢箪鯰」を画題として描かれている。
禅の公案を皮肉って風刺の効いた画題を扱いながらも、“諸事円満に解決し水魚の交わりを結ぶ”の効がある水難除けの護符として使われたというのも大津絵の面白さです。



オブジェのような鐘楼には面喰いましたが、宸殿にはレプリカとはいえ狩野派の障壁画や庭園など門跡寺院の佇まいを感じることができ、何より大津絵が数多く展示されているのは嬉しいことでした。
「園城寺(三井寺)」と「大津市歴史博物館」に挟まれたひっそりとした寺院ではあるものの、座禅を組みに来られた方に丁寧な説明をされていたのが印象に残ります。


左:「外法と大国の梯子剃」、右:「瓢箪鯰」


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「鏡神社」と「西光寺跡」~滋賀県 蒲生郡 竜王町~

2020-02-07 06:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 竜王町にある「鏡神社」は、新羅の王子であったという「天日槍尊(アメノヒボコノミコト)」を主祭神として祀る神社で、主祭神である天日槍は紀元前31年に新羅国より多くの技術集団を連れて来朝し、近江の国に集落を成した方だといいます。
技術集団は陶物師・医師・薬師・弓削師・鏡作師・鋳物師などを指すといい、天日槍が持ってきた日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名の由来になっているといいます。

日本書紀には垂仁3年「近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍(新羅国王子)の従人なり」と記述があるそうで、鏡山一帯に渡来人・帰化人の文化があったことが記述に残ります。
また、神社のある鏡山は竜王町・野洲市・湖南市にまたがる山で、山中には古墳時代後期から飛鳥・奈良時代にかけて須恵器などを焼いていた「鏡山古窯址群」が数多く存在する場所となっています。



鏡は、かつて近江国から陸奥国へつながる東山道の宿場だったといい、1174年には源義経(牛若丸)が京都鞍馬から奥州への旅路に鏡の宿に泊まって元服したとの伝承が残ります。
その伝承により鏡神社の参道には“源義経 元服の地”ののぼりが連なり、義経と鏡の地とのつながりが今も残ります。



鳥居の手前には源義経「烏帽子掛けの松」の伝承があり、鏡の宿で元服した牛若丸がこの松枝に烏帽子を掛けて鏡神社に参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願したとされます。
しかし、伝承の残る松は1873年に台風によって折損してしまい、現在は幹の部分だけが保存されています。



境内には祓を司どる」「祓戸大神」が祀られ、石碑と共に“祓を行う祓戸”が仕切られている。
境内の配置からすると、祓戸で穢れを落としてから本殿の3柱に参拝するということなのでしょう。



現存する本殿は、室町中期に建てられた建造物だとされ、重要文化財に指定されている。
本殿には主祭神の「天日槍尊」と配祀神の「天津彦根命」「天目一箇命」が祀られており、「天津彦根命」は隣市・近江八幡市の馬見岡神社の祭神と同じ。
「天目一箇命」も隣市・野洲市の三上神社の祭神と同じですから影響を受けあったことも考えられます。



鏡の宿は平安末期から鎌倉・室町時代までは宿場町として栄えていたものの、中山道が整備されたことによって「守山宿」と「武佐宿」の“間の宿”となったといいます。
国道8号線に沿って歩くと、“鏡の宿本陣跡”や“源義経 宿泊の館跡(白木屋)”の跡地を示す石碑や看板がありました。



ところで、鏡神社から数百m歩いた竜王山系の星ヶ峰(標高222.6m)には「西光寺跡」というかつての寺院跡があり、その遺構が残されています。
西光寺は伝承では最澄によって開基され、嵯峨天皇の勅願所として僧坊300を擁する大寺院であったといいます。
鎌倉時代から室町時代にかけては将軍などの宿陣は西光寺で行われることが多かったとされる歴史のある寺院のようです。



鉄柵を自分で開けて山の麓へと入っていくと、西光寺址の石碑と奥へと続く道がある。
入ってすぐの場所に「仁王尊」の御堂があり、奥のやや広がった場所には「石灯籠」「宝篋印塔」がある。
山を進めば「星カ崎古墳」や「星カ崎城址」があるといいますが、20~30分の山登りが必要だということで上へは登らなかった。



まず「仁王尊」のお堂へと参拝しますが、この御堂の中には石造仁王像が安置されています。
かつて仁王尊は阿形・吽形の2躰があり、西光寺の門前で守護していたと考えられますが、1躰は山崩れの際に地下に埋没されてしまったと伝わります。



石造の仁王像とは初めて見るように思いますが、扉を閉じられている。
横に法要の時の写真があり、格子の隙間からもお姿が見えましたので確認すると、この仁王石仏が阿形なのが分かります。





遠くからでもよく目立つのが、高さ282cmあり竿の部分が非常に長い「石灯籠」でした。
覆屋の中に保存された灯籠には1422年の銘があるといい、室町初期の作として重要文化財に指定されているそうです。



灯籠のは八角柱となっており、火袋には4面に蓮華座の上に立つ仏像が序られていて、優美な印象を受けます。
この灯籠はかつて星が峰の中腹にあった若宮王子神社本殿前にあったとされているが、荒廃したため現在地に移したといいます。



「石灯籠」から数mの所に向き合うように建てられているのは鎌倉後期に造られたという「宝篋印塔」の見事な造形です。
相輪上部は一部欠損しているものの、高さ210cmの塔は、二段の基壇・基礎・灯身・笠・相輪と造形も見事なら、バランスも非常に良い。
塔身だけが色の違うのがより美しく感じ、思わず見惚れてしまうような魅力があります。



塔身の四隅には鳥の彫刻・梟が彫られており、遺例としては珍しいものだといいます。
この造形を梟や鳥の姿と見るのは難しいが、かなりシンボライズされたものなのでしょう。



鏡山は標高385mの山で、山の中腹には巨石や磐座があり、廃寺址には摩崖仏などが残されているようです。
とはいえ、こんな道を一人ぼっちで登り山へ入っていくのはちょっと怖い。あっさりここで引き揚げます。



かつて栄えた西光寺は、今は遺構を残すのみで麓から眺めると、ただ低山があるのみ。
とはいえ、西光寺址の遺構の周囲はよく整備されており、地元の方の尽力が伺われる。



鏡山周辺地域には古墳が多く残されているといい、有力な豪族がいたことが伺われます。
湖東や湖南地域では渡来人が築いた文化や技術のようなものに出会う機会が度々あり、その痕跡を興味深く感じます。


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「藤樹神社」と中江藤樹~滋賀県高島市安曇川町~

2020-02-03 06:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 中江藤樹や陽明学は、教科書に載っていましたので聞き覚えはあるとはいえ、名前以外は知らないのが実際のところです。
高島市の安曇川町にある「藤樹神社」に参拝に訪れた折に「藤樹書院」と「中江藤樹記念館」で説明を聞いてようやく概要がつかめました。

「藤樹神社」は1922年に近江聖人・中江藤樹のために建てられたという神社で、中江与右衛門命(藤樹)を御祭神として祀られているといいます。
明治の学者が祀られているというのには不可思議さを感じますが、日本での陽明学の始まりとする中江藤樹の思想を慕い影響を受けた信奉者と、藤樹の出生地の安曇川町の小川村の方々の誇りによるものが大きいようです。



中江藤樹は小川村の農家の長男に生まれたものの、武士であった祖父の養子となって100石の禄をはんだといいます。(父は武士を継がなかった)
外様大名の武士であった藤樹は鳥取県米子や愛媛県大洲へと領地替えがあった後、大洲藩を脱藩して故郷である安曇川へ戻ったといいます。

脱藩というと聞こえが悪いのですが、藤樹は安曇川に残した母の事が気がかりであり、また自分の健康上の問題(喘息)もあって脱藩を願い出ていたようですが、叶わず。
大洲藩としても有能な学者であった藤樹を手放すことに躊躇があり、また大洲藩内のお家の中のもめ事などによって藤樹の願いは叶わずやむなく脱藩したとされます。



小川村に戻った藤樹は、酒の小売りなどをしながら生計をたて、訪れる弟子や集落の人に学問を教えていたといいますが、1648年に41歳の時に生涯を閉じる。
後述しますが、江戸時代が終焉を迎える頃、藤樹の陽明学に影響を受けた人物らが歴史を作っていく時代がやってきます。

神社の境内に入ると樹高20m・幹周4.8mで樹齢400年以上といわれる「ダマの木」が聳え立ちます。
境内にはかつて「万勝寺」という比叡山の三門三千坊の一院があったといいますが、大きな勢力だったがゆえに織田信長の兵火によって焼亡したといいます。
したがってこのダマの木は「万勝寺」の境内だったころからあったものと考えられているようです。



「ダマの木」はずいぶんと痛みが見られるのが痛々しくもありますが、葉がよく茂っており生命力の強さを感じます。
苔むした木の根元にはいつの時代のものか地蔵石仏がひっそりと安置されていました。



ダマの木の横には「庚申塔」という江戸時代の石造品があり、舟形光背の中には「見ざる・聞かざる・言わざる」の三匹の猿が陽刻されています。
“見ざる”は読み取れますが、“聞かざると言わざる”は劣化していて確認しにくい状態になっています。



さて神社に戻って...。参道には2つ目となる中鳥居があり、奥には拝殿が見えます。
本殿へは横から回ってお参りすることになりますが、道は枯山水の砂紋のような箒目があり、毎日整備されているかのように乱れの少ない状態でした。



本殿を拝所から拝み神社を後にしましたが、神社の御利益は学問の神として祀られているため、絵馬などには合格祈願の願いが書かれたものが多く見受けられます。
神社の創建には渋沢栄一が多大な寄付をすると共に、藤樹神社創立協賛会顧問に就任して財界知己への寄付の呼びかけを行ったといいます。



神社の境内には「中江藤樹記念館」がありますが、まずは「藤樹書院」へと向かいます。
藤樹書院は故郷・小川村に帰った藤樹が開いた私塾で、かつて庭に大きな藤の木があり、その木にちなんで藤樹の名で呼ばれたのだといいます。
当初あった書院は1880年の大火で焼けてしまい、現在の建物は1922年に建てられたもので国の史跡に指定されています。



陽明学は、元は孔子の儒教から派生したもので、日本には儒教から派生した朱子学が江戸時代に採用されたといいます。
朱子学は身分差や上下関係などの序列を重要視した一面があったといいますから、統治する側からは秩序を保てる体制作りに役に立ったのでしょう。

対する陽明学は、知の積み上げという面を持つ朱子学とは違って、心ありき・心を磨くことを大事にし、学びと行動が一致することを重要視したといいます。
その行動力ゆえに権力者には疎まれて迫害を受けることもあったといい、陽明学に影響を受けた人物としては大塩平八郎・吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛・佐久間象山など歴史の変革者が多くみられます。



藤樹書院に着いた時はまだ時間が早く閉まっていたのですが、係の方がすぐに開けますということで開けてもらって中へ入れせてもらいました。
係の方からは約1時間に渡って説明をしていただき、また隣にある施設の「良知館」でもお茶を飲みながら説明を続けていただきました。
かなり詳しく説明していただけたので、分からなかった陽明学や藤樹の事がずいぶん理解出来るようになったのは実にありがたかった。



驚いたのは藤樹書院の中に位牌を並べたような祭壇があったことです。
聞くと、これは「神龕(がん)」といい、儒教のしきたりでお祀りするものだそうです。
仏教での位牌より早くからあったといい、学問的な要素の強い儒教にも宗教的な側面があるのは意外なことでした。

「神龕(がん)」の蓋を外すと中に名前が書かれていて棺桶のようになっています。
「祭式」という行事の時には海山の幸を供えて祭典が行われるといい、神龕の横に開けられた穴から魂が抜けて、魂が訪れるといいます。





祭壇の上に掛けられた扁額は、寛政8年に光格天皇より藤樹書院に対して下賜されたもので、金箔の残る額の字は右大臣・藤原忠良の筆になるもの。
平成から令和に代わる時に論議のあった生前退位は記憶に新しいところですが、最後に生前退位した天皇が光格天皇だったことから名前に聞き覚えがある方もおられるかと思います。



「藤樹書院」の書は、九州肥後細川藩の老臣・三淵家の養嗣子の分部昌命が贈ったものといい、その後も細川藩当主の直系である細川護熙さんも藤樹書院を訪れて見事な書を送られています。
中江藤樹の教えには「五事を正す」として「貌(顔つき)」「言(言葉づかい)」「視(まなざし)」「聴(よく聞く)」「思(思いやり)」があります。
人が当たり前のことが当たり前に出来ないのは今も昔も同じなのでしょう。



最も印象に残ったのは「到良知」の透かし彫り。
「到良知」は“人は誰でも良知という美しい心を持って生まれてくるが、次第に醜い欲望の心が起きて良知を曇らせてしまう。
欲望に打ち勝って鏡のような良知を磨き、正しい行いをするのが大事”という。
近年では儒教や陽明学発祥の中国から訪れる方が多いそうで、中国から入ってきた儒教思想を日本から逆輸入している現象が起きているといいます。



藤樹書院から藤樹神社までの帰り道に、玉林寺という寺院の境内外にある中江藤樹のお墓にも立ち寄りました。
藤樹は儒教の方ですから寺院の境内内ではなく、境内外の敷地に墓標があります。
変わっているのは、墓石の後方に小山が盛られているところで、これは儒教式だということです。



最後に訪れたのは「中江藤樹記念館」でしたが、ここでも約1時間ほど館内の説明をしていただけました。
こちらにも中江藤樹の生涯を示す史料が豊富に保管されており、大塩平八郎の文書など珍しいものが多く展示されてありました。



「藤樹書院」で“これだけの資料があるのですから入館料を取ったらいかがですか?”と聞くと、これまで集落で守ってきたと自負している長老たちが許さないだろうと言われていました。
藤樹書院は14名ほどのボランティアが年中無休でお世話にあたられ、説明をされている方の他にも砂紋を直されている方、草木の手入れをされている方の姿があります。
この地の方が如何に中江藤樹を敬愛されているかがよく伝わってきます。


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