西国三十三所巡礼の寺院へお参りすると、寺院に西国巡礼独特の雰囲気を感じることがあります。
信仰の熱気のようなものとでもいえばよいのでしょうか、巡礼の霊場を辿っていくことによって熱気とともに包容されていくような安堵感さえ覚えてしまいます。
そこには西国三十三所巡礼が「観音巡礼」であることの影響があると思いますが、巡礼寺院は庶民的な観音信仰が文化として根付いている場所だからなのかもしれません。
「今熊野観音」は西国第十五番霊場で、京都東山の地にありながらも人は少なめで落ち着いた趣のある寺院でした。
今熊野観音寺は807年弘法大師・空海が熊野権現のご霊示を受けて当地に庵を結ばれ、嵯峨天皇より管財を賜って十一面観音像(秘仏)を本尊として御堂を造営されたのが始りとされます。
また平安末期の1160年には後白河上皇が本尊を本地仏として「新熊野神社」を造営されたとも伝わります。
今熊野観音寺には朱色の「鳥居橋」を渡って入山することになりますが、“鳥居”と橋の名に付くのは熊野権現との関わりの深さからなのでしょう。
今では“寺と神社は別のもの”のようになっていますが、明治の神仏分離令で神仏習合が禁止されるまでは習合が普通の姿だったといわれます。
今熊野観音寺は南北朝の兵火・応仁の乱などで伽藍を焼失したと伝わりますが、その後見事に復興されて現在に至るとされます。
鐘楼には年代を感じさせる石塔や石地蔵が並び、信仰の歴史を伺い知ることが出来ます。
梵鐘を撞くことは出来ませんが、この梵鐘は太平洋戦争のときに供出されたものの、元のままの姿で残されて無事戻ってきたという逸話があるそうです。
“運が良かったのは観音様のご加護があったから”といい解釈が出来そうですね。
境内には観音様の石仏が祀られていました。(阿弥陀菩薩・准胝観音・十一面観音・不動明王・地蔵菩薩かな?)
寺院の裏の巡礼道には西国三十三所の観音石仏が祀られた祠があり、簡易的な三十三所巡礼もできます。
今熊野観音寺の本堂はかつての奥の院順礼堂にあたると伝えられ、現在の建物は1712年に宗恕祖元律師によって建立されたものと寺の由緒遠隔にありました。
本堂の中で読教されている姿は見えませんでしたが、声明のような美しい響きの御祈祷の声が聞こえてきて、朝のひっそりした寺院に響いておりました。
外陣の雰囲気はまさに三十三所巡礼の寺院の雰囲気が漂っています。
三十三所巡礼の寺院に共通するのかもしれませんが、奉納された奉納額や千社札が貼られているのを見ると、その信仰の歴史に魅力を感じてしまいます。
御本尊の「十一面観世音菩薩」は秘仏のため拝観できないものの、光に照らし出されたお前立ちが神々しい姿を観せておられます。
厨子の右の脇陣には「恵比寿神」「三面大黒天」「准胝観音座像」が祀られ、左の脇陣には「薬師如来立像」「十一面観音立像」が祀られておりました。
パンフレット
さて、内陣の正面に興味深いものを見つけました。
最近「懸仏」に関心があるのですが、ここで懸仏に出会えるとは思いもしておらず、嬉しい発見です。
懸仏は神仏習合の証として、一般的に神社で御神体とされる“神鏡”と“仏”が合体した姿をしています。
画像では見えませんが、円形の10時と2時の位置には獅子の造形が取り付けられており、状態もいいものです。
今熊野観音寺の境内には「稲荷社」「熊野権現社」「金龍弁財天」など小さな神社があり、かつての神仏習合の歴史が遺されていることが実感できます。
懸仏との思わぬ出会いですっかり気をよくして、大師堂へお参りをいたしました。
「ぼけ封じ観音像」の後方に大師堂はあり、暗い堂内には不動明王像がかすかに見ることが出来ます。
寺院の裏山にあたる巡礼参道を登っていくと、西国三十三所巡礼の各寺院の観音石仏が祀られた祠が続き、一番上にある鮮やかな朱色の「医聖堂」へとたどり着きます。
「医聖堂」には医界に貢献された多くの方々が祭祀されているそうですが、朱色があまりにも鮮やかなのは平成28年に丹塗りの塗り替えをされたためのようです。
境内の隅には“当山創建時(平安様式)”のものとされる「三重石塔」がありました。
かなり風化した感がありますが、それゆえの味わいのある石塔です。
今熊野観音寺は“真言宗泉涌寺派”の寺院で西国三十三所巡礼寺院であるとともに、「泉涌寺」の塔頭寺院の一つに数えられています。
しかし泉涌寺のような皇室的な印象は全くなく、静寂とは違う意味での静かで落ち着きのある寺院と印象を受けます。
信仰の熱気のようなものとでもいえばよいのでしょうか、巡礼の霊場を辿っていくことによって熱気とともに包容されていくような安堵感さえ覚えてしまいます。
そこには西国三十三所巡礼が「観音巡礼」であることの影響があると思いますが、巡礼寺院は庶民的な観音信仰が文化として根付いている場所だからなのかもしれません。
「今熊野観音」は西国第十五番霊場で、京都東山の地にありながらも人は少なめで落ち着いた趣のある寺院でした。
今熊野観音寺は807年弘法大師・空海が熊野権現のご霊示を受けて当地に庵を結ばれ、嵯峨天皇より管財を賜って十一面観音像(秘仏)を本尊として御堂を造営されたのが始りとされます。
また平安末期の1160年には後白河上皇が本尊を本地仏として「新熊野神社」を造営されたとも伝わります。
今熊野観音寺には朱色の「鳥居橋」を渡って入山することになりますが、“鳥居”と橋の名に付くのは熊野権現との関わりの深さからなのでしょう。
今では“寺と神社は別のもの”のようになっていますが、明治の神仏分離令で神仏習合が禁止されるまでは習合が普通の姿だったといわれます。
今熊野観音寺は南北朝の兵火・応仁の乱などで伽藍を焼失したと伝わりますが、その後見事に復興されて現在に至るとされます。
鐘楼には年代を感じさせる石塔や石地蔵が並び、信仰の歴史を伺い知ることが出来ます。
梵鐘を撞くことは出来ませんが、この梵鐘は太平洋戦争のときに供出されたものの、元のままの姿で残されて無事戻ってきたという逸話があるそうです。
“運が良かったのは観音様のご加護があったから”といい解釈が出来そうですね。
境内には観音様の石仏が祀られていました。(阿弥陀菩薩・准胝観音・十一面観音・不動明王・地蔵菩薩かな?)
寺院の裏の巡礼道には西国三十三所の観音石仏が祀られた祠があり、簡易的な三十三所巡礼もできます。
今熊野観音寺の本堂はかつての奥の院順礼堂にあたると伝えられ、現在の建物は1712年に宗恕祖元律師によって建立されたものと寺の由緒遠隔にありました。
本堂の中で読教されている姿は見えませんでしたが、声明のような美しい響きの御祈祷の声が聞こえてきて、朝のひっそりした寺院に響いておりました。
外陣の雰囲気はまさに三十三所巡礼の寺院の雰囲気が漂っています。
三十三所巡礼の寺院に共通するのかもしれませんが、奉納された奉納額や千社札が貼られているのを見ると、その信仰の歴史に魅力を感じてしまいます。
御本尊の「十一面観世音菩薩」は秘仏のため拝観できないものの、光に照らし出されたお前立ちが神々しい姿を観せておられます。
厨子の右の脇陣には「恵比寿神」「三面大黒天」「准胝観音座像」が祀られ、左の脇陣には「薬師如来立像」「十一面観音立像」が祀られておりました。
パンフレット
さて、内陣の正面に興味深いものを見つけました。
最近「懸仏」に関心があるのですが、ここで懸仏に出会えるとは思いもしておらず、嬉しい発見です。
懸仏は神仏習合の証として、一般的に神社で御神体とされる“神鏡”と“仏”が合体した姿をしています。
画像では見えませんが、円形の10時と2時の位置には獅子の造形が取り付けられており、状態もいいものです。
今熊野観音寺の境内には「稲荷社」「熊野権現社」「金龍弁財天」など小さな神社があり、かつての神仏習合の歴史が遺されていることが実感できます。
懸仏との思わぬ出会いですっかり気をよくして、大師堂へお参りをいたしました。
「ぼけ封じ観音像」の後方に大師堂はあり、暗い堂内には不動明王像がかすかに見ることが出来ます。
寺院の裏山にあたる巡礼参道を登っていくと、西国三十三所巡礼の各寺院の観音石仏が祀られた祠が続き、一番上にある鮮やかな朱色の「医聖堂」へとたどり着きます。
「医聖堂」には医界に貢献された多くの方々が祭祀されているそうですが、朱色があまりにも鮮やかなのは平成28年に丹塗りの塗り替えをされたためのようです。
境内の隅には“当山創建時(平安様式)”のものとされる「三重石塔」がありました。
かなり風化した感がありますが、それゆえの味わいのある石塔です。
今熊野観音寺は“真言宗泉涌寺派”の寺院で西国三十三所巡礼寺院であるとともに、「泉涌寺」の塔頭寺院の一つに数えられています。
しかし泉涌寺のような皇室的な印象は全くなく、静寂とは違う意味での静かで落ち着きのある寺院と印象を受けます。