僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

ミサゴの季節にはまだ早い?

2018-07-29 17:22:22 | 野鳥
 “夏だから暑いのは当たり前”と言ってしまえばそれまでなんですが、いわゆる盛夏も暦の上では折り返し地点といったところでしょうか。
とはいえ8月の下旬くらいまでは猛暑が続きそうですので、まだ当分は暑い日々が続くということになりそうです。

鳥見の方も暑くってつい億劫になりがちですが、水辺なら少しはマシかと思い出かけてみました。
複数のミサゴが飛び交う季節にはまだ早いものの、1羽のミサゴが狩りにきていましたので、しばらく相手をしてもらいました。



このミサゴはダイブして水中から上がってきたばかりのやつで飛び込んだ場所は死角になっていて見えなかったのですが、コースはいいところを飛んでくれました。
水飛沫は滴らせているものの狩りは失敗でしたので、相変わらずミサゴの狩りの成功率はあまり高くないようですね。



こいつは途中で休憩をはさみながら何度か上空を旋回してくれはしましたが、見ていた時間帯では狩りは成功しなかったようです。
ミサゴの季節が始まれば複数のミサゴが飛んできますので、その時にはでっかい獲物を捕まえて飛ぶカッコイイ姿が見たいものですね。



さて、ミサゴ待ちをしている時に頭上から聞き馴染んだ囀りが聞こえてきます。
見上げてみるとホオジロが木の上で囀っている。

あれっ?ホオジロって今の季節は高原で子育てしているはずなのに、なんでこんな所で囀っているの?
もう子育てを終えて低地に戻ってきたのでしょうかね。



この水辺にはイソシギが居たのですが、近くに居たのにも関わらず、飛ばれてから気が付くというお粗末さでした。
逆にずっと愛想よくポーズを決めてくれたのは別の場所に居たコチドリ。





季節の進み方は早いものでもうオニユリが満開の花を咲かせています。
真夏の花の芙蓉も早いところではチラホラ咲いてきていますので、野の花の季節感には楽しみが多い。



ところで、野鳥の好きな人は日常でも鳥の姿を見かけるとついチェックしてしまう習性がありますよね。
住宅地で自転車をこいでいた時に偶然発見したのはササゴイでした。

ササゴイは湖北では会えない野鳥ではないけれどたまにしか会えない鳥で、当方にとっても久しぶりの出会いでした。
距離はいい位置に居たのですが、如何せんスマホのカメラしか持っていず、スマホではとてもじゃないけど遠すぎました。
まぁササゴイは次の出会いに期待することにしましょう。



おまけは恒例の長浜・北びわ湖大花火大会のクライマックスの様子です。
このクライマックスは終わったかと思うともう一度始まり、2度訪れる心憎い演出でしたよ。




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御朱印蒐集~兵庫県 加東市 御嶽山 清水寺~

2018-07-26 18:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「清水寺(播州清水寺)」
この寺院も西国三十三所の札所らしく、山上の難所(標高約500m)に寺院はあります。
高速道路を降りると山村が続き、道端には“窯元”の看板がいくつか見える。

「丹波立杭焼」の窯元だと思いますが、道中には「兵庫陶芸美術館」へ向かう道の看板があり、陶芸の郷の雰囲気が感じられる。
この界隈には道沿いに川は見えないものの、「信楽」の山村の風景を連想させます。



「みつばち牧場」という養蜂場の近くから林道に入りますが、くねくねと曲がった道が続き距離も長い。
麓に登山口がありましたが、歩いて登るとすると、かなり難所の寺院に思われます。
朝早めの参拝だったこともあって、山の木々から聞こえてくる小鳥の囀りは、何ともにぎやかなもので、その声の聞き分けすら出来ないにぎやかな状態でした。



清水寺は西国三十三所巡礼の第25番札所で、今より1800年前に印度の僧:法道仙人が御嶽山(標高:793m)に住まわれ、鎮護国家豊作を祈願されたのが始まりとされます。
627年には推古天皇の勅願により根本中堂が建立、725年には聖武天皇の勅願により大講堂が建立されたと伝わる天台宗の寺院です。

朱色が鮮やかな仁王門は1980年の再建。
かつてあった仁王門は昭和40年の台風によって崩壊してしまったようです。
その年(1965年)は3つの台風が相次いで上陸して暴風・大雨で大きな被害があった年だったようですね。



金剛力士像は、岡倉天心に従事した奈良の仏師:菅原大三郎の大正10年の遺作だそうです。
近代の仏像はデフォルメを抑えたバランスの良さと、細かく丁寧な細工が多いように思います。





西国三十三所札所には「清水寺」が2つありますが、京都にある第16番札所の「清水寺」ほどではないにしろ、参拝者が多いのは西国三十三所の札所ゆえかと思われます。
参道の土産物屋さんも開いていない早い時間にも関わらず、次々と人が来られるのには少し驚きを感じつつも放生池に面した手水舎で心身を清めます。



大講堂は1913年(大正2年)の山火事により焼失。1917年に当山上の材木(杉材)によって再建された建物のようです。
御本尊の「十一面観音菩薩」と脇士の「毘沙門天」「地蔵菩薩」が祀られており、ここが西国三十三所の札所となります。





間口九間(約16m)の大講堂の内陣まで入ると、御本尊の「十一面観音菩薩坐像」の姿がある。
大講堂が山火事で焼失していますから御本尊は再建後の仏像になるかもしれませんが、お線香を焚いて対面させていただきました。




西国三十三所パンフレットより

大講堂から清水寺の本堂にあたる根本中道への道に鐘楼がありました。
この鐘楼は1913年に山火事で焼失し、1919年に再建されたとされます。

この鐘楼は「開運の鐘」と呼ばれていて、実際に撞くことができます。
階上にある梵鐘を撞くのは初めての経験で、中にある階段を登って鐘を撞かせていただきましたが、これは滅多にない経験が出来てありがたいことです。





根本中堂は627年に推古天皇の勅願で金堂として建立されましたが、他の堂宇と同じく大正2年の火災で焼失してしまい、大正6年に再建されています。
寺院参拝の時に、長い石段の先に堂宇が見える光景を見ると心が踊りますね。



根本中堂に祀られているのは御本尊「十一面観音菩薩」、脇士「毘沙門天王」「吉祥天女」となり、大講堂の3尊とは1尊が違っています。
本尊の「十一面観音菩薩」は、開山:法道仙人の一刀三礼の秘仏となっており、大正2年の炎上の際には自ら避難したという逸話が残されています。





後白河法皇により創建されたという常行堂の跡地には「地蔵堂」が創建されています。
昭和12年の創建といいますから、清水寺は生きているかの如く、新しい堂宇が創建されているようです。



ところで、清水寺がなぜ清水という寺号が付いているかの由緒の地がありました。
それは開山:法道仙人が水神に祈って湧水した霊泉「滾浄水(おかげの井戸)」が清水の由来になっているそうです。

この井戸をのぞきこんで自分の顔を写したら「寿命が3年延びる」と言い伝えられているようですので、のぞいてみます。
もしこの井戸が寿命を延ばす御利益ではなく、自分が死ぬ時の顔を写すものだったら...などと怖しいことを想像しそうになる神秘的で、鏡のような水面に映るもう若くはない自分の顔を見てしまいました。



清水寺に入山してからずっと気になっていた小鳥の囀りでしたが、複数のキビタキの声が聞こえる方向へ行くと、運良く一瞬その姿を見せてくれました。
鳥用のカメラは持参していませんでしたので写真は撮れませんが、しばらくバード・ウォッチングの時間を取ることにします。





声は聞こえるものの、高い木ばかりですので姿は視界には入らず。
結局、姿が見えたのはキビタキとヤマガラだけでしたが、野鳥の濃度の高い場所だなぁということは実感できます。



最後に訪れたのは「大塔跡」。
1157年に平清盛の聖母と伝えられる祇園女御の建立で、かつては本尊として「五智如来」を祀っていたとされます。

明治40年(1907年)に焼失し、大正12年(1923年)に再建されたものの、昭和40年(1965年)の台風で大破してしまったようです。
現在残っているのは敷石のみで栄華の跡形もありません。



駐車場へ戻る途中に入山した時にはまだ開いていなかった「清水茶屋」が開いていましたので、展望台に上がって眼下の景観を望みます。
茂っている木々の隙間から見える景観ですが、土地勘がなくどちら方面を見ているのか分らない。



火災・台風などで何度も危機を迎えながらも、再建と続ける清水寺には再生のエネルギーがあるのでしょう。
本坊に飾られていた生花からも躍動感が感じられましたが、この大きな花瓶は地元の窯元のものかもしれませんね。




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東近江市『識蘆の滝』

2018-07-23 19:50:00 | 風景・イベント・グルメ
 酷暑の日が続いていますので少しは雨が降って欲しいところですが、被害が出るほどの大雨は困りものです。
涼める場所はないものかと山の林道へ行ってみたものの、2ヶ所崖崩れがあり断念して戻るハメとなりました。

最初の崖崩れは何とかかわせたのですが、次の崖崩れの場所は木の根っこが土ごと陥落していて道路を完全に塞いでしまっていてどうしようもない。
この山は諦めて、滝を見て涼もうかということで東近江市の『識蘆の滝』へと車を走らせます。



もともとが滝好きなので機会を見つけて滝を見に行きますが、1~2時間の登山が必要な滝は登山慣れしていないのでちょっと無理です。
『識蘆の滝』は駐車場から数分のところにあると聞いて安心していたけど、道はなかなかの山道でした。



『識蘆の滝』はかつてこの地を治めていた戦国武将・小倉実澄という方が応仁の乱によって荒れ果てた京都・相国寺から僧を招いて庵を設けたことからその名が付いたとされます。
滝のある識蘆谷は日本コバ(山の名前:標高934m)の山中に源がある渓流のようです。
途中で渓流を横切ることになりますが、置かれている石を石渡りしながら渓流を渡るため、足の置位置を考えながら歩かないといけない。



さらに進むと滝の水音がしてきますが、今度は水のない沢を登っていくことになります。
渓流の水はどうやらこの沢の地下を流れているようでしたので、この水のない沢が遊歩道になっているようです。



さて、いよいよ滝へ到着です。
滝は二段の滝で上段下段があり、上下合わせると約25mといい、水量も豊富ですから見ごたえは充分です。



周囲には腰掛けられる岩がゴロゴロしていますので大き目の岩に腰掛けてマイナスイオンを全身に受ける。
この場所の気温が何℃かは分かりませんが、涼しくてとても気持ちがいい。



滝壺のエメラルド・グリーンの美しさが映えるが、水深はかなりありそうです。
足を水に浸してみたかったけど、神聖な場所なのでやめておきます。



下段の滝の横の岩の間には「不動明王」の石仏がありました。
滝に不動明王が祀られているのはよくありますが、識蘆の滝も修験の道場だったのかもしれませんね。
最後に滝に向かって合掌してから識蘆の滝をあとにします。



標識板には『識蘆の滝』の上流にもう一つ「永禅の滝」があると書かれてあり心が動きます。
しかし距離500m30分とあり、こちらは断念です。

理由は、体力面はともかくとして方向音痴ですので誰も来ない山道で迷ってしまうのが怖いからなのです。
この後、駐車場からの帰り道はもと来た林道を降りるだけなのに、通行止めになっている道路へ迷い込んでしまったくらいですからね。


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ボ-ダレス・アートミュージアムNO-MA~「GIRLS 毎日を絵にした少女たち」~

2018-07-21 06:08:08 | アート・ライブ・読書
 アール・ブリュットとは“正規の美術教育を受けていない人が自発的に生み出した、既存の芸術のモードに影響を受けていない作品”のことをそう呼び、障がい者の創作活動を限定した言葉ではありません。
ボ-ダレス・アートミュージアムNO-MAで開催中の展覧会「GIRLS 毎日を絵にした少女たち」に登場する3人の女性はまさしくアール・ブリュットの定義に当てはまるような方々といえます。

3人の女性、1913年生まれの塔本シスコさんは50歳の時、1916年生まれの仲澄子さんは90歳になってから。1914年生まれの犬方ゑいさんは82歳で絵を描き始めたといいます。
大正生まれの3人の想像と追憶の世界には、彼女たちの憧れの世界とノスタルジックな日本の風景が溢れ出さんばかりです。



塔本シスコさんは、今年2月にびわ湖大津プリンスホテルで日本・中国の31名の作品を集めて開催された「日本と中国のアール・ブリュット 共融地点」にも展示されていた方です。
個人的にはもう一度見てみたかった作家でしたので、今回の企画は願ってもないいい機会です。

案内文によると、シスコさんは50歳の頃に画家である息子が描いた100号の絵画の表面の絵の具を包丁で切り落とし、上から自己流の絵を描き始めたとあります。
その絵は日本的の情景を描きながらも、熱帯的でもあり、素朴でもある美しい色彩の絵だと思います。


「ネコ岳ミヤマキリシマ」(1989年、ダンボール・油彩)

大正生まれにも関わらず、“シスコ”と奇妙な名前が付いているのは、父が若い頃、サンフランシスコへ行くことを夢見ていたことにちなむそうです。
1900年代はカリフォルニア州へ移民する日本人が多かったとはいえ、自分の娘の名前にしてしまうのですから余程の憧れがあったのでしょう。


「絵を描く私」(1993年、カンヴァス・油彩)


「私の窓からの眺め」(1995年、ダンボール・油彩)

今回の展覧会で塔本シスコさんの展示は、一階のフロアーから階段にかけてになります。
和装の人形や粘土細工、拾ってきた空き瓶に描いた作品など展示作品についても見応えは充分です。



2階の和室は表替えされた畳の良い香りが漂う中に仲澄子さんの作品が展示されていました。
澄子さんは90歳になって絵日記を描き始めたといいますが、その動機は遠い昔のことを、子供や孫、ひ孫に伝えておきたいという気持ちだったそうです。


「糊の跡」(1997年、カンヴァス・油彩)

2階の広縁には「すみばぁちゃんの思い出日記」と題して、絵日記を語りと音楽でつなげた映像のコーナーがありました。
昭和生まれの当方と大正生まれのすみばぁちゃんの幼年期は当然ながら共通点はありませんが、幼い頃の楽しかったこと・怖かったこと・小さな冒険など、昭和の時代の幼年期を思い出してホロッとくるようなノスタルジーには共通する部分があるように感じます。


「おどり」(1998年、紙、クレヨン)

映像の中には兵隊さんへの淡い恋心を描いたものや、大東亜戦争の辛い経験を描いたものがあります。
3人の作家に共通して言えるのは、戦争を経験して戦争の悲惨さ・無意味さを知っていることなのです。
当時、散々苦労されたことと思いますが、すみばぁちゃんの晩年は、子供が5人に孫が10人、ひ孫が11人と幸せな晩年だったようです。

3人目の犬方ゑいさんの展示は蔵の中です。
旧家を改造したNO-MA美術館の中でも、離れにある蔵の中での展示は毎回楽しみにしています。



ゑいさんは82歳で絵を描き始められて、動物や家族・旅行先の風景などを思うがままに描かれています。
「山の中のトラの親子」はゑいさんの孫にあたるイラストレーター・ヒジカタクミさんとのコラボレーションユニットで描かれた絵で好感が持てます。


「山の中のトラの親子」2014年、NEKOKONO(犬方ゑい+ヒジカタクミ)

ゑいさんは高齢になってからも、ゲートボールやカラオケに精を出し、99歳まで自転車に乗っていたという元気なおばぁちゃんで、愛煙家でもあったといいます。
また、地元の仮装大会では水戸黄門に扮装したり、18番の「どじょうすくい」を踊ったりとサービス精神旺盛な方でもあったようです。

蔵の中にはたくさんの絵がありましたが、気になったのは次の絵です。
両岸に満開の桜が咲く川にいるのはコウノトリ?

今でこそコウノトリが人工繁殖を経て野生復帰した姿が見られるようになっていますが、1971年には野生のコウノトリは絶滅しています。
大正生まれのゑいさんにとってはコウノトリが身近な野鳥だった頃の日本が記憶に残っているのでしょう。


「お花見」

大正・昭和・平成を生きた3人の少女と、昭和・平成・○○(次の元号、その次の元号も)を生きる当方とは時代は大きく違い、経験したことも違いますが、どこかに共通点があるかもしれません。
西暦でいえば20世紀から21世紀を生きた人という表現ができますので、同じ時代に生きた人同士ともいえますね。


図録


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御朱印蒐集~滋賀県 高島市 高巌山 興聖寺~

2018-07-18 18:35:35 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高島市朽木にある「興聖寺」は、近江守護・佐々木信綱が曹洞宗開祖・道元禅師を訪ね、承久の乱で戦死した一族の供養をお願いしたのが始まりとされます。
承久の乱(1221年)は、後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権の北条義時の争いとされており、北条氏による執権政治の始まりとなった戦だと歴史に残ります。

佐々木信綱が道元禅師に供養をお願いしたのは1237年。
1240年には七堂伽藍が完成し、1243円には永平寺の直末となり、曹洞宗第三の古道場とまで称された巨刹となったようです。
また興聖寺は1598年まで永平寺の別格兼務地だったと寺伝にあります。



佐々木信綱は宇多天皇の直系とされる人物で、その曾孫の朽木義綱が「朽木氏」として当地を統治したとされ、朽木氏は戦国時代を経て廃藩置県まで続いた家系のようです。
室町時代の第一二代将軍「足利義晴」は当地に3年、第一三代将軍「義輝」は6年半滞在されたといいます。
現在は寂れた感のある湖西地域は、かつては畿内と若狭湾・北陸地方を結ぶ鯖街道が通り、京都との繋がりが深い地域だったのでしょう。



スローブになっている参道を登っていくと、山門がみえてきます。
興聖寺は元々安曇川を挟んだ対岸にあったそうですが、江戸時代に大火にあって現在地に移ってきたそうです。



石標に「承陽大師 開闢道場」と彫られてあり、「承陽大師」とは道元禅師の諡号。「開闢道場」としての開山は永平2世孤雲懐弉禅師とされているそうです。
また興聖寺は京都宇治市にも同名の寺院がありますが、宇治の興聖寺は道元禅師が開山した最初の修行道場であり、由緒ある寺号をいただいていることからかつての繁栄ぶりが忍ばれます。



寺院のパンフレットに司馬遼太郎の「街道をゆく」の一文が紹介されています。
“むかしは近江における曹洞宗の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裡それに鐘楼といったものがおもな建造物にあるにすぎない”
確かにかつてあったという七堂伽藍などの繁栄ぶりは想像がつかないひっそりと山村に佇んでいるような寺院でした。



鐘楼は諸堂の中で最も古い建築物だそうですが、時代は分らない。
頭貫の上で支える邪鬼がいますが、痛みが激しかったのか左腕が肩から取れていますね。



興聖寺の本堂は古い建築ではなさそうですが、京都宇治の興聖寺の法堂を意識した造りになっています。
道元禅師が朽木の里を伏見深草の興聖寺に似ているから高巌山興聖寺とするよう勧奨したという故事にならったということなのでしょう。



本堂外陣は非常に煌びやかな雰囲気となっており、内陣へ入ると須弥壇への階段を上がり釈迦如来坐像(平安後期・重文・像高87cm)を間近で拝むことができます。
釈迦如来像の左には普賢菩薩像、右に文殊菩薩像と脇侍を配した釈迦三尊となっていますが、この近さ同じ高さで拝めるのはあまりありませんので大変ありがたい気持ちになります。





右の脇陣には禅宗らしく一六羅漢像が並んでおり、左の脇陣には観音像が33躰ありましたが、これは西国三十三所巡礼を意識して奉納された仏像なのかと思います。
後陣には歴代住職の位牌が並び、中央に道元禅師と孤雲懐奘(永平寺第2世、興聖寺開山、諡号:道光普照国師)の仏像が並びます。

道元禅師の仏像は元々は古い仏像があったそうですが、安置されている仏像は新しいものになっています。
これは永平寺の堂宇の火災で仏像が焼けたために興聖寺で祀っていた道元像を永平寺に出したことによるものだそうです。
代わりに孤雲懐奘の頭部だけをもらい、躰を後補で付けたが微妙に大きさが違うと御住職が残念そうにおっしゃっておられました。

後陣に安置されている仏像には他に「縛り不動明王坐像」が安置されています。
千早城の戦い(1333年)で朽木時経が北条高時の命により焼き討ちをした際に、倒幕運動に呼応した楠木正成の念持仏だったとされるものを持ち帰り、興聖寺の鎮守として祀っているといいます。



ところで、興聖寺には第一二代将軍・足利義晴が滞在されていた時代があり、その時に佐々木一族や京極高秀、浅井亮政、朝倉孝景の協力で京都銀閣寺の庭園を元に「旧秀隣寺庭園(足利庭園)を作庭したとされます。
巨大な杉の大木の前の石標には「足利将軍義晴公之庭園」と刻まれておりますが、かつてはもっと見晴らしがよく、安曇川の清流と蛇谷ヶ峰を借景とした庭園だったのだろうと思われます。





庭園の端まで来ると、蛇谷ヶ峰(901m)と鏡のような水田の美しい景色がありました。
個人的には庭園よりもこういった風景の方が楽しめるかな。



あくまで印象の話ですが、滋賀県には浄土真宗各派の寺院が多くあるように思われる中、南西・南東には天台宗寺院が多く、福井県に近い地域には曹洞宗の寺院が多いように感じられます。
さほど広くはない滋賀県の中で、それぞれの地域ごとに宗派の分布がみられるのはなぜなのか?調べてみると面白いかもしれませんね。


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御朱印蒐集~滋賀県 大津市 安曇山 葛川明王院~

2018-07-16 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 “鯖街道”とは日本海に面した小浜の街と京の都をつなぐ街道であり、小浜からは海産物や大陸・朝鮮半島の文化を京都へと運び、京都からは小浜へ都の文化を持ち込んだとされています。
小浜を早朝に出て昼夜歩けば一日で京都に着き、塩でしめた鯖が丁度いい味になっていたといわれますが、荷を担いで約70キロの山道を歩き続けるのですから如何に健脚でもこれは大変なことです。

鯖街道にはいくつかのルートがあるようですが、小浜をスタートとして熊川宿を経て、今津町保坂から朽木~途中越~大原~八瀬~出町柳に至る若狭街道が現在はポピュラーな道となっているようです。
自然豊かな街道を琵琶湖の北部から南へと進んで行み、朽木に入り安曇川沿いを走る頃になると、鯖寿司屋・蕎麦屋・渓流釣り・キャンプ場が軒を連ねています。
さらに若狭街道を南下して高島市から大津市に入ると目指す寺院「葛川明王院」の標識が見えてきます。



葛川明王院は比叡山無動寺の奥の院と呼ばれ、天台宗回峰行者が毎夏に行う葛川参籠の修行の場とされてきたようです。
平安時代初期の延暦寺の僧・相応が回峰行の道場として859年に開山し、比叡山延暦寺では「回峰行の聖地」とまで呼ばれています。



相応和尚(建立大師)は、近江国浅井郡(現在の長浜市)の出身で、15歳で比叡山に入り修行し、千日回峰行の祖と呼ばれている方です。
出身地の浅井町では「五先賢」の一人として数えられており、現在も郷土を代表する賢人として敬愛されているそうです。(五先賢:相応和尚、海北友松、小堀遠州、片桐且元、小野湖山)

“右・明王谷林道”、“左・明王院”と彫られた石標を左へ向かうと明王滝川にかかる三宝橋が見えてきます。
橋に覆いかぶさるような新緑が美しく、橋の下には安曇川の上流の谷川のひとつ明王滝川の清流が流れます。



橋の向こうには巨大な杉。ゆるやかな石段と取り囲むような石垣の先に納経所(政所表門)がありますが、着いた時には政所表門はまだ開いていない。
この辺りは登山やハイキングの出発点となっているのでしょう、寺院参拝の方は見られずフル装備のハイカーの方に多く出会います。



比良山系はピークや滝が多い山系だと聞きますが、山登りをするには知識も経験もありませんので山へは入れない。
山道を2キロほど歩けば“三の滝”へ着くとありましたが、生来の方向音痴もありますので行ってたら間違いなく迷子になっていたでしょうね。



次々と訪れるハイカー達のにぎやかな様子とは違い、明王院へ訪れる方はおられず寺院は静まり返っています。
右に護摩堂、正面の石段の先には本堂、左には弁天堂と手水舎。まさしく深山の寺院です。





本堂(1715年)・護摩堂(1755年)・庵室(1834年)・政所表門(1526年)は重要文化財に指定されており、政所表門を別にすると江戸時代の建築物となります。
各堂は破損・腐朽が進んでいたため、平成17年度から22年度にかけて保存修理が行われ、現在はかなり整備された姿となっています。



本堂は“葺(とちぶき)屋根”を復元しているといい、修理に伴う調査では平安時代の建築部材が多数再利用されていることなどが発見されたそうです。
保存修理はされていますが、本堂の古刹ゆえの重厚感は充分に残されています。扁額には“息障明王院”の文字が読み取れます。





本王の外陣に入ると、外の明るさとは打って変わり、真っ暗な空間となっています。
入口に照明のスイッチがあると書かれていましたので、スイッチを探して電灯をつけると中の様子がよく見えるようになりました。



外陣には奉納額が幾つか掛けられていますが、気を引かれるのは“黄不動”の奉納額でしょうか。
平面的に描かれている絵ではなく、立体的な盛り上がりが見られる額でした。



明王院の御本尊は千手観音立像・不動明王立像・毘沙門天像(全て平安後期の作・重文)となりますが、内陣の厨子の前に安置されているのは「不動明王立像」と脇侍の「矜羯羅童子」と「制多迦童子」。



寺院にいいた時には気がつかなかったのですが、内陣の右側の梁に“懸仏”が掛けられてありました。
内陣へ入ることは出来ませんが、もっとしっかりと見ておけばよかったのですけどね。



最後にやっと開門した政所表門から寺務所へ行って御朱印を頂く。



滋賀県は湖北・湖東・湖南・湖西と4つの地域に分類されることが多いのですが、湖西・朽木地域には独特の風景があります。
辺鄙な場所のような印象はあるものの、京都などの都市部からは思いのほか近く、都市部の方が日帰りで自然を楽しめる場所になっているようです。
ランナー・登山者・渓流釣り・山菜刈り・キャンパー・鯖寿司や蕎麦の味覚を楽しむ人・バーダーなど湖西・朽木地域は各々の趣味を楽しめる地域ですね。


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御朱印蒐集~長浜市余呉町 久澤山 全長寺~

2018-07-11 18:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 琵琶湖の北の木之本から敦賀へと向かう道筋に鏡湖と呼ばれる余呉湖があり、その先北へ数㌔のところに全長寺があります。
全長寺は梅雨の季節には“あじさいとだるま寺”として名を知られている寺院で、あじさいの花園がどんなところか見たいこともあって参拝致しました。

紫陽花鑑賞には時期が少し遅いようにも思いましたが、余呉地方は豪雪地帯であることもあってか、紫陽花の花期は他よりも少し遅いようで花は充分に楽しめたと思います。
ただ、花よりも寺院の方が実に興味深く感じられ、運良く内部拝観出来たことに感謝している次第です。



余呉地方は山間にある小さな集落が多く、少し寂しい感じさえしてしまうところなのですが、寺院も国道365号線を外れて細い道を進んだ先にひっそりと建てられていました。
かつての全長寺には七堂伽藍が建立されていたそうですが、現在は本堂・庫裡・書院という造りになっており、寺務所を経て御住職の家にもつながっているようでした。





全長寺の縁起は1469年に浄土宗の一宇が開かれて全長坊として始まったようですから、まだ応仁の乱が終わっていない時代になります。
その後の1526年に禅門に帰依して、1597年には曹洞宗の寺院として開山されたといいます。

1777年になると近在の池原・国安・文室・東野・今市五ヶ村より現在の境内地の寄進を受けて、七堂伽藍が建立され中興の時代を迎えたようです。
現在に至るまで寺院が残ってきたのは、帰依されている地域の方々の尽力があったのでしょう。

全長寺は“あじさいの寺”と呼ばれるだけあって、境内には50種1000株といわれる紫陽花が満開の花を咲かせています。
入口に安置された石仏は聖観音でしょうか。紫陽花の花を鑑賞するかの如く立たれておられました。



参道の左側には紫陽花園、右側には蓮池があり、季節柄両方の花が楽しめました。
山門の前にある石灯籠は、比較的新しそうに見えるものの大きなもので、近年にどなたかが寄贈されたものかもしれません。



この山門は平成3年に改修されたそうですが、門にはしめ縄がかかっていますね。
これは曹洞宗特有というより地域の信仰の形なのでしょうか。



本堂に行く前、本堂の左前にある観音堂からお参りさせていただきました。
大きな達磨大師像の奥に観音堂はあり、扉が開かれています。



観音堂に祀られているのは「馬頭観音菩薩立像」。
この馬頭観音像は近隣の池原村別所山上(440m)にあった天台宗万福寺の本尊だったとされます。

この辺りは関ヶ原の合戦の舞台のひとつにもなった場所だったことから万福寺は戦火で焼失し、1611年に山麓に再建されたものの、明治になって寺院の老朽化により仏像は全長寺に移されたようです。
仏像の製作年代は分かりませんが、湖北には西浅井山門・高月横山神社・鶏足寺・西浅井徳円寺・浅井町野田と6躰の馬頭観音がありますから、湖北には独特の馬頭観音信仰があったのかと考えられます。



本堂は県の重要文化財に指定されている建築物で、江戸時代の1789年の建立とされます。
現在は屋根の葺き替え工事中となっていますが、勾配の強い長い屋根となっているのが分かりますね。



本堂へ入ってすぐの廊下は鶯張りになっており、外陣・内陣・位牌堂へと広い空間が拡がり、工事中の外観とは違って落ち着いた佇まいの場所でした。
内側の柱には永平寺の紋「竜胆車(りんどう)」、外側の柱には總持寺の紋「五七桐」が掛けられ、曹洞宗の2大本山の紋があしらわれています。



須弥壇には御本尊である釈迦三尊。
中央に本尊・釈迦如来坐像、右に普賢菩薩、左に文殊菩薩が脇侍として並び、脇陣には曹洞宗寺院らしく十六羅漢像が安置されています。
お釈迦様のお姿は、びわ湖百八霊場頂いた御多念(おたね)で拝むことが出来ます。



本堂は面白い造りとなっていて、本堂から境内に向かって丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」がありました。
禅宗らしい薀蓄のある2つの窓ではありましたが、如何せん工事中のため窓から見る外の風景はブルーシートと足場が見えるのみ。

須弥壇の右側には念仏で描かれた「永陽大師」と、般若心経で描かれた「心経竹軸」の掛け軸がかけられてあります。
永陽大師とは道元禅師の諡号であり、心経竹は水戸光圀の頃に帰化宋人・東皋心越の筆によるものだとされ心経竹は寺宝だということでした。

    

掛け軸に並ぶ厨子には「聖観音菩薩立像」が祀られてあります。
この仏は金属製の仏像で、近在の信心深い方が自宅(寺ではない)で祀っていたが、その方の死後に家族があまりにも立派すぎる仏像のため、家では祀りきれないということで全長寺に納められたそうです。



須弥壇の裏側にある位牌堂には、達磨像・大権修理菩薩(曹洞宗特有の菩薩)に守られるかのように全長・頤正全養・道元の人仏像と共に毛受(めんじょう)兄弟の位牌が安置されています。
全長寺は毛受兄弟の菩提寺となっているそうですが、この毛受兄弟という聞き慣れない兄弟をご存知の方は歴史通ですね。当方はこの兄弟の話のことはここで初めて知ることになりました。

毛受兄弟は柴田勝家の家臣として活躍した方で、賤ヶ岳の合戦に敗れた勝家が討ち死に覚悟で切り込もうとした時に止めて身代わりになったとされます。
勝家を北ノ庄の居城へ退却させる時間をかせぐため、取り囲む秀吉軍に対して勝家に成りすまして応戦。
手勢わずか200の兵で秀吉軍に立ち向かい、大将・勝家への忠義を果たし兄弟共に討ち死にしたと伝わります。

賤ヶ岳の合戦は勝った秀吉側の“賤ヶ岳の七本槍”や“北ノ庄城落城”の物語が多く語られますが、勝家側にも数多くのドラマがあるようですね。
前田利家の戦線離脱も多くは語られていないことからも、やはり歴史は勝者によって作られるということなのでしょう。


全長寺HPより

庫裡へ回ると達筆の額や屏風が幾つか飾られている中、150年前に中国から伝わったという達磨絵がありました。
大きさ4畳半の達磨絵は八方睨みとなっており、大きさといい色彩の鮮やかさといい見事な迫力の絵で、同じ構図で描かれている若沖の達磨絵にはない頭上のコブがしっかり描かれていますね。

さらに別の部屋にはもう一躰(3尊)の釈迦三尊が祀られていましたが、その横には「宇賀弁財天」。
宇賀神の乗った弁財天というと竹生島の宇賀弁財天信仰を思い浮かべますが、聞いてみると関連はないとのことでしたので、宇賀弁財天とは普遍的な信仰なのかと思われます。



ところで、境内を歩いていた時に驚いたのは寿老人の後方にある巨大な杉の老木です。
老杉は高さ30m、幹周り5.8mあり、樹齢400年以上といいますから、樹に魂が宿ったかのような迫力があります。



境内には七福神の石像が各所に分かれてありますので、毘沙門天さんを紫陽花と一緒に撮ってみました。
白い紫陽花の花の上にはアマガエル。休憩中でしょうかね。





恵比寿さんの像の後ろには蓮池があり、ちょうど花期を迎えていました。
ぐるりと蓮池を一周しましたが、白い蓮の花に赤い蓮の花、ギンヤンマやオオシオカラトンボが飛び回っているにぎやかな蓮池です。







全長寺に安置されている像の中で一つ謎が残っています。
達磨絵の前に「マリア観音」が安置されていたのですが、このマリア像は100年ほど前に長浜市の高畑というところから奉納されたものだそうです。

湖北でキリシタンの話を聞いたことがありませんので確認してみたところ、“賤ヶ岳の合戦には高山右近や黒田官兵衛などのキリシタン大名が参加していたのでその事と関係があるのでは...。”ということでした。
マントのようなものを頭からかぶり、その手には巻物を握っているキリスト教由来の像が寺院にあるのは実に不思議です。

最後に少し離れた場所にある毛受(めんじょう)兄弟の墓碑に立ち寄りました。
大きな亀の上に乗る墓石は明治9年に滋賀県令(今の知事)・籠手田安定氏によって建立されたそうです。



毛受兄弟の墓碑は山際にある地元の墓地のさらに奥にある「毛受の森」というところにあります。
怖いくらいに寂しい場所ですが、森は地元の保存会の方により整備されており、当地の方々が毛受兄弟を弔う気持ちが伝わってきます。

毛受兄弟は兄・茂左衛門と弟・勝照のことをいい、勝照の「勝」の字は勝家から賜ったとされます。
柴田勝家への忠節を成し遂げた毛受勝照は享年25歳だったと伝わっています。


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御朱印蒐集~福井県 高浜町 本光山 馬居寺~

2018-07-07 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 福井県高浜町の海岸線を行くと、海岸に切り立ったように山が迫り、その間に集落が点在するような風景が続きます。
海水浴場が幾つかある緩やかな海岸には日本海岸特有の奇石やむき出しの大岩はあまり見られず、奥琵琶湖の景観とどことなく似ている感じがして懐かしさのようなものを感じてしまいます。

違いがあるとすれば防波堤があることになりますが、その風景と琵琶湖の風景との違和感はわずかであり、高浜の海はリアス式海岸で半島が入り組んでいる分、琵琶湖の方が広いような錯覚さえ持ってしまいます。
そんな高浜の海岸線から山へ向かって登っていった先に「馬居寺」はありました。



馬居寺の創建は、福井県で最も古く飛鳥時代の創建だとされています。
聖徳太子が愛馬・甲斐の黒駒にまたがって諸国を遍歴の折、愛馬が見えなくなり探しておられると、南の山からいななきが聞こえ、光明が輝いたので「此処ぞ観音の霊地である」として堂塔を建立し、馬頭観音坐像を刻み安置されたという伝説が残る寺院です。



現在の馬居寺は高野山真言宗の寺院ですが、寺院の境内を巡っていると“聖徳太子”や“空海”の逸話が多く残されているのが面白いですね
まず苔むして雰囲気のある石段を登ると、その先には山門が見えます。



石段の途中の脇には石仏が安置されてあります。
そう古い石仏ではないと思いますが、苔も生えてきており、もう少し風化してくるとまた違った印象になることでしょう。



本光山の扁額が掛かった山門から入山すると納経所しか見当たらない。
寺院の方に本堂はどこにあるか聞いてみると、100mほど参道を登ったところにあると言われます。
納経所に御朱印帳を預けて、教えてもらった道を観音堂を目指して登ることになりました。



途中に「泉水(せんすい)」という湧水があり、かつてこの水は高浜城主がお茶会に所望され、お茶を飲まれたと伝わる水です。
大きな岩が木の根の力に負けず、泉水を守っているのは大変力強い印象を受けます。



観音堂への道は木々のトンネルを抜けていくような道で、誰も来ない山道をあちこちにころがる獣糞を踏まないように注意して歩いて行きます。
日陰の道だったこともありましたが、山の古刹へ向かう期待感が高まってくるのが嬉しい。



道の途中には「熊野神社」が祀られており、社殿は新設された建築のようですが、風情のある参道に佇むようにありました。
熊野神社というくらいですから熊野三山の勧請を受けた神社だと思われますが、太平洋に面した熊野と日本海に面した高浜ではあまりに遠く、逆に言えば熊野信仰が如何に強いかと感じる神社となります。



本堂の石段の下に手水舎があり、巨石をくり抜いた手水には山水を引いているのか、勢いのある水量の水が注がれています。
手水舎後方の坂には石塔・石仏が置かれ、独特の雰囲気を醸し出しており、その姿を見ながら身を清めます。



本堂への石段はこれまた風情のあるものとなっており、山の古寺の素晴らしさを再び堪能することが出来ました。



馬居寺の御本尊は「馬頭観音坐像」ですが、観音堂にはおられず後ろに建てられている収蔵庫に納められています。
御本尊は秘仏で、24年に一度の本開帳と12年に一度の中開帳のみですので、今回そのお姿は拝見出来ず。



観音堂では拝所でお参りするだけとはいえ、扉は開かれてあり、千社札も多く貼られていることから参拝者
は途切れない寺院のようでもありました。
鰐口を撞いてからお参りしましたが、なんともいい音がする鰐口でしたので、聞き惚れるようにして手を合わせます。



馬居寺の馬頭観音菩薩坐像は平安時代後期の作とされており、国の重要文化財に指定されています。
その尊顔には怖しいまでの憤怒の表情を浮かべており、思わず身構えたくなるようなお姿です。
片膝を立てたその姿には今にも立ち上がろうとするような姿勢を感じますし、平安仏の迫力とでもいうものがみえます。





堂の右横の斜面には鎌倉時代から江戸時代のもととされる石仏群が安置されており、独特の空気感のある場所となっています。
木漏れ日がこの石仏群だけを照らしていて美的なものさえ感じてしまう石仏群でした。



馬居寺の近くには舞鶴の「松尾寺」、同じ高浜の「中山寺」、そしてこの「馬居寺」と馬頭観音菩薩を祀る寺院が多く集まっています。
どうしてこの地に馬頭観音菩薩信仰が根強いのかは分かりませんが、馬頭観音を中心としての信仰が広がったのがこの地方特有の信仰だったのでしょう。


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御朱印蒐集~福井県 高浜町 青葉山 中山寺~

2018-07-03 18:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所29番札所の「松尾寺」は山号を「青葉山」といいますが、同じ青葉山の山号を持つ寺院に中山寺があります。
青葉山は京都府舞鶴市と福井県高浜町にまたがる山で、福井県側から見える山容が富士山に似ていることから、若狭富士とも呼ばれます。

青葉山は双耳峰の山であり、西峰(692m)の中腹には松尾寺、東峰(693m)の中腹には「中山寺」が建てられています。
県境の山を境に2つの寺院が建てられているのは、この山が古来より修験道の修行場だったことも影響していると思われ、いづれの寺院にも古刹感が溢れています。



中山寺への道中は、棚田が連なる日本の原風景といえる景色が続く道を進むことになります。
海抜83mの地点にある寺院駐車場からは日本海を望むことができ、海岸線に沿って高浜の集落が広がる様子が分かります。



寺院の縁起は736年に聖武天皇の勅願により、泰澄大師が創建したと伝えられています。
創建当時は「社家・阿弥陀・観音」の三尊を安置していたとされますが、鎌倉時代に馬頭観音坐像を本尊として再建されたとされます。



仁王門には像高9尺といわれる「金剛力士像(鎌倉期)」2躰が安置されており、その筋肉質の上半身に迫力を感じるものの、仁王様とは格子入りのガラスと木の格子越しにしか対面出来ないのが残念なところです。
この金剛力士像は国の重要文化財の指定を受けていますから、文化財保存のためというのは止むを得ないのでしょう。

寺院の方の話によると金剛力士像2躰は、ロンドンの大英博物館で開催された「鎌倉時代の仏像展」に貸出しされて一般公開されたことがあるそうです。
またこの金剛力士像は仏師・湛慶(運慶の嫡男)が彫ったものといわれており、力感はまさに鎌倉仏の良さが感じられる仏像だと思います。





緑に包まれた短い石段を登ると、そこからが本堂の建つ境内となります。
冬の寒々とした空気の中で寺院を訪れる時の引き締まった気分もいいですが、美しい緑を眺めながらの参拝も何とも言えない心地よさがある。



鐘楼は近年改築されたのか、四脚部を除いては真新しい木材が使われています。
梵鐘は撞けなかったため響きは分かりませんが、新たに鋳造されたものではなさそうでした。





本堂にお参りする前に書院へ拝観料と御朱印をお願いに行くと、“本堂の案内はどうしましょう?”と言われましたのでお願いを致しました。
“でも、慣れてないので紙を読むだけですけど...”。もちろんお願いしましたよ。

案内されて中に入った本堂は五間四面の室町時代前期に建立され、重要文化財に指定されている建築物となります。
昭和40年に解体修理が行われ、平成19年には桧皮葺が葺き替えられたそうです。



本堂の内部では外陣・内陣を自由に見ることができますが、御本尊の馬頭観音菩薩は秘仏のため拝観は出来ません。
厨子の前には1798年に彫られたというお前立ちの「馬頭観音菩薩坐像」が安置されており、間近での拝観が叶います。

馬頭観音菩薩を安置した厨子の左側には「毘沙門天立像(鎌倉期)」、右側には「不動明王立像(南北朝期、鎌倉期両方記載あり)」が安置されていて、密教的な雰囲気が漂います。
中山寺は真言宗御室派の寺院で、総本山を京都・仁和寺としますから真言密教の一派の寺院となりますので密教色が濃いのも当然ですけどね。



一通りの説明を聞いて本堂を出て境内を歩いていると、寺院の説明書きと一緒に仏像の写真がありましたので写真を撮らせてもらいました。
格子ガラス越しにしか見えなかった金剛力士像の正面からの姿を見ると、改めて上半身の筋肉に力感を感じます。
しかし、この金剛力士像の凄いところは、仁王門で横から見た時の迫力(奥行)だと思います。



秘仏の馬頭観音菩薩坐像(鎌倉期・重文)は金剛力士像と同じく湛慶の作とされ、三面八臂で尊顔には憤怒の表情が見られます。
今年の1~3月頃にあった東京国立博物館での特別展「仁和寺と御室派のみほとけ-天平と真言密教の名宝-」展にも展示されたとおっしゃっていましたが、仏像は東京の方に集まって観る機会が多いのか?と少し僻みが出てしまいますね。





ところで、青葉山の東西にある松尾寺(舞鶴)と中山寺(高浜)は両寺院ともに馬頭観音を御本尊としています。
青葉山一帯には馬頭観音の信仰が集まる何かがあるのかと大変不思議な思いがあります。
若狭観音と呼ばれる青葉山を福井県側から見ると確かに富士と名が付いてもおかしくない山容をしています。



京都府側から青葉山を見ると、双耳峰の山であることがよく分かり、2つのピークが見られます。
写真左の西峰中腹には松尾寺、東峰中腹には中山寺。
古来よりこの地の人々は霊山として信仰してきたのでしょうね。



馬頭観音菩薩は観世音菩薩の化身で六観音の一つであり、人間の持つ悪業障を砕き、また災難を除くとされます。
また、“水難から逃れる、外敵を防ぐ”などの信仰であったり、修験道や密教系の呪術の信仰からの影響があるなどの緒説があるそうです。


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