僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

初マラソンを快走!?~奥びわ湖健康マラソン~

2024-05-20 17:25:25 | 風景・イベント・グルメ
 人の趣味趣向というのは時に信じられないような変化があるようで、ランニングを始めることになろうとは1年前の自分が知ったらさぞやビックリすることでしょう。
一定の距離を走るなんてのは高校の体育の時間以来だし、山登りを始めるまでは歩くのもあまり好きではなかったのにも関わらず走り出したのです。

走り始めた頃は数百mも走れずの状態でしたが、少しづつ走れる距離を伸ばしていって、5㌔とか3㌔のコースを設定して週に何度か走っています。
5㌔なら安定して走れるようになりましたので、5㌔コースが設定されている「奥びわ湖健康マラソン」が初マラソンのデビュー戦です。



「奥びわ湖健康マラソン」は3コースあり、15㌔コースに約1500名・5㌔コースに400名少々・1.5㌔に200名弱の方、計2000名以上がエントリーされています。
当方がエントリーしたのは5㌔コースで、これが今の実力レベルでは精一杯です。

開催場所はJR永原駅の近くの長浜市役所西浅井支所で、とってもローカルな駅近くの施設からのスタートとなります。
JRの運行本数がとても少ないので車で現地に向かいましたが、会場が近くなると道路が渋滞してきて他府県ナンバーの車も多い。



会場に到着すると初めてのマラソン大会の雰囲気に緊張感とワクワク感を感じつつ、スタートとゴールを確認します。
このところ夏日が続いていたので暑さとも戦わなけらばならないかと思っていましたが、幸い曇り空で気温が上がらずコンデションはまぁまぁです。



フィニッシュはゴールと書かれたエアアーチを通り抜け、両脇に人がが並ぶ直線コースを駆抜けることになる。
タイムとか順位とかは関係のないレースなので、自分の力を試しつつ走ることを楽しみたいな。



開会式での浅見長浜市長の挨拶と、横に並ぶは「スポレク滋賀2008」のマスコットのキャッフィーと2025年に滋賀県で開催される国体のマスコット「チャッフィー」。
開会式が始まる前は出場前のランナーたちが列を作って、ビワコオオナマズのマスコット・キャラクターたちと記念撮影をされていましたよ。



発走はまず15㌔レースからですが、1500名ものランナーが走るとスタートラインに並ぶまでが大変です。
15㌔レースだけスタートが別の場所になっているので1500名のランナー大移動が始まります。



ところで、当方が走ろうと思った一つの要因は、山行をしている時にトレイルランニングの人を何度か見かけ、カッコ良いなと思ったことが始まりです。
トレランをするにはまず平地で10Km走れる事が必要と言われますので、走り始めたのが最初です。

決めた距離を走れるようになってくると、次は時間を縮めることに関心が移ってきて購入したのが「オン(ON)」のシューズのクラウドモンスターです。
ホカオネオネのシューズかONのシューズかで迷いましたが、履き心地が良かったONの方を購入。(価格は2つとも同じくらい)
ONはスイスのシューズメーカーで、この靴を履き始めてから1Kmあたり30~45秒くらい早く走れるようになりましたよ。



...ということで当方が走った5㌔コースは、序盤は人の渦に囲まれてスローペースでしたが徐々にペースを上げていく。
ペースの上下はあったものの、最終的には練習での最高タイムに1秒及ばなかったものの、たいへん満足できる結果となりました。

初経験で困ったのはエイドでの給水で、走りながら飲み物を飲むのはなかなか難しく、これは慣れが必要ですね。
ただ途中の集落内では、家の前で観戦して励ましの声を掛けて下さる方々(主におばぁちゃんたち)が多数おられ、これは心強かった。
下は参加賞のタオルです。



記念に購入したのは奥びわ湖健康マラソンのオリジナルTシャツです。
スピードは遅いながらもとても気持ち良く楽しく走ることが出来ました。
来年の大会にはこのTシャツを着て走ろう!

 


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東近江市五個荘「商家に伝わるひな人形巡めぐり」~雛匠 東之湖 清湖雛物語~

2024-03-03 15:03:03 | 風景・イベント・グルメ
 近江商人は、大坂商人・伊勢商人と並ぶ日本三大商人とされ、天秤棒で担いで行商の旅をする姿でよく知られています。
なかでも「てんびんの里」をキャッチコピーとする五個荘は、行商から大商人になった近江商人が多いとされます。
重要伝統的建造物群保存地区には、近江商人屋敷の白壁の屋敷や蔵、舟板塀のある町並みが残ります。

五個荘ではひな祭りの前後1カ月に「商家に伝わるひな人形めぐり」が開催され、近江商人屋敷と風情ある町並みと豪華な雛人形が公開されます。
また、近江商人屋敷の中江準五郎邸では雛匠「東之湖」さんが製作した「清湖雛物語」が開催され、新作の人形を見るのも楽しみのひとつになります。



東之湖さんは近江新之助上布(本麻ちぢみ上布)を使い、伝統的な手法で雛人形や創作人形を作られている方です。
「清湖雛」は2004年に始まり、「清湖雛物語」に展開され、2013年からは「近江八景シリーズ」が始まり、今回遂に近江八景は完成しています。



2023年に製作された「石山秋月」は、石山寺に七日間の参籠をして「源氏物語」を書き出した紫式部をイメージしたものでしょうか。
中央が「石山秋月」で、両隣には同じく近江八景の「堅田落雁」と「瀬田の夕照」が並びます。



「清湖雛」は、湖国の自然をモチーフにして作られていますので、琵琶湖を配して四季の折々の湖国を演じています。
白砂の琵琶湖を取り囲むように「六人官女」「三井晩鐘」「矢橋帰帆」「比良の暮雪」「堅田落雁」が湖周を取り囲みます。



「比良の暮雪」は、雪に覆われた冬の終わりから春の訪れをイメージできる作品で、今頃の季節を象徴するような人形です。
湖西の比良山系を琵琶湖越しに眺めると、蓬莱山を中心にまだ標高の高い所には積雪した白い山肌が見えます



中央左には春の桜をイメージさせる十人囃子が並びます。
十人囃子の後方には「清湖雛物語」の四方の守り神の一人の「湖北の水の神」が展示。



五個荘の「商家に伝わるひな人形巡めぐり」はコロナ渦で緊急事態宣言が発令された年の3月に訪れたのが最後になります。
4年振りに訪れた人形巡めぐりで変わったなぁと感じたのは各商人屋敷に「吊るし雛」の展示が多かったことでした。

江戸時代の頃は、雛人形はとても高価なものだったため、一部の裕福な家庭で飾られるのみで一般家庭ではなかなか手にはいらないものだったといいます。
「吊るし雛」は生まれてきた子供の成長を祝うため、祖母や親戚・近所の人が人形を布で作って持ち寄り、ひな祭りの時に吊るしたものだそうです。



庶民的な「吊るし雛」とは対照的に、平安時代の京都の寝殿(天皇が居住していた宮殿)を模したのが「御殿飾り」の雛人形です。
「御殿飾り」は明治・大正から戦後にかけて流行したとされますが、こんな豪華絢爛なお雛様を飾ることが出来た家庭は限られていたのではないでしょうか。



「御殿飾り」が作り始められた頃には、屋根のない「源氏枠飾り」と呼ばれる雛人形もあったそうです。
この雛人形は明治45年生まれの方の雛人形だそうで、109年経ち昔は高価なものだったので大切に受け継がれているとありました。



中江準五郎邸の蔵には五個荘小幡町で江戸時代から明治時代にかけて作られた郷土玩具「小幡でこ」が展示されています。
五個荘は中山道に面していたことから、往来する人の土産や玩具として伏見人形の製法を工夫して「小幡でこ」を考案したそうです。



「小幡でこ」は300年の歴史があるとされ、明治初期までは4~5軒のお店があったものの、現在は本家九代目の細居家だたひとりになったそうです。
人形の種類は、節句人形や十二支などの縁起物など約400種類あるようですが、需要が減ってきて後継者問題も抱えているようです。



「御殿飾り」や「源氏枠飾り」が展示されていたのは「外村繁邸」ですが、ここにもたくさんの「吊るし雛」が飾られていました。
「吊るし雛」には“うさぎ”“鶴・亀・這い子・去るボボ・羽子板・独楽など縁起の良い飾りが吊るされ、女子の生まれた家の初節句のお祝いをしたようです。





近江商人屋敷の3つ目はスキー毛糸で一代にして財を成した藤井彦四郎邸を訪れます。
総面積8155.3平方メートルの中に総ヒノキ造りの客殿や主屋に土蔵、ログハウス風の洋館など豪商ゆえの豪邸です。

公開されている近江商人屋敷は庭園も見事なのですが、藤井彦四郎邸の池泉回遊式庭園は約25mプール8個分という広大な庭園です。
この御屋敷は、皇族方や貴賓客を迎える為の迎賓館として造営されたのですが、そこには地元の雇用促進の意味合いもあったようです。
変わり種の雛人形は、花(絞り布)のお雛さまで、内裏雛はボタン・三人官女は八重クレマチス・七人囃子はパンジーで下2段を含めて5段の雛人形となっている。



もうひとつ珍しい雛人形は、打掛の前の「狆引き官女」の人形です。
狆(ちん)は、日本原産の愛玩犬で5代将軍・徳川綱吉の時代には江戸城で座敷犬・抱き犬として飼育された改良犬だという。

昔はお産で命を亡くしたり、乳児の死亡率の高かったため、お産が軽く育ちやすい犬に安産と子供の健やかな成長を願って飾られたそうです。
「狆引き官女」は昭和初期まで雛飾りのひとつとして飾られていたそうですが、見るのは初めて。
官女がひいている座敷犬の狆(ちん)は、白黒の可愛らしい小さな犬です。



客間には大正から昭和にかけて制作された段飾りのお雛様が並び、七段飾り(「十五人飾り」)はよく見たオーソドックスな雛人形です。
市松人形が飾られていますが、姉妹に一人一対のお雛様を飾れない場合、二人目からは市松人形を贈ったりしたようです。



「節句」は年に5日あり、人日(七草)上巳(桃)端午(菖蒲)七夕(星まつり)重陽(菊)が定められています。
五節句は季節の変わり目でその邪気を払い、無病息災や子孫繁栄を願う伝統行事で、それぞれの節句に意味があるようですね。


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2024年「長浜盆梅展」✖早川鉄平さんの切り絵コラボ

2024-02-25 16:08:08 | 風景・イベント・グルメ
 「長浜盆梅展」は今年で第73回目の開催を迎えて、梅の香りを届ける湖北の春の風物詩となっています。
昨年に続いて今年も雪が降ったのは一度だけで、雪に埋もれることはなく、厳冬の季節を実感する事が減ってきています。

田舎道を歩いていると、薹が立ったフキノトウが花を咲かせているのに気付いたりしますから、季節が巡るのは早いものです。
ウォーキングをしていても梅の花が咲いているのを見かけますので、そろそろ見頃かと思い長浜盆梅展に訪れました。



盆梅展は、今年で4年連続となる米原の切り絵作家・早川鉄平さんとのコラボと夜間特別企画「盆梅と竹灯り」が開催されています。
会場となる「慶雲館」は、明治天皇皇后両陛下が京都行幸啓の帰路に滞留されるために建てられた建物で、国の名勝の指定を受けています。



門から前庭に入ると道の両端に竹灯りが灯されており、幻想的な雰囲気で迎い入れてくれます。
盆梅も幾つか配置されていて、梅の花と竹灯りのやさしい光と大きな大灯籠や巨石の庭石など前庭にして見ごたえのある庭です。



慶雲館は元からあった本館と新館があり、まず「玉座の間」のある本館の2階へ上がります。
竹灯りが並ぶ階段を登っていくと、盆梅と竹灯りの饗宴の間となっており、後方の書は犬養毅の「天行健」の書。



部屋から池泉回遊式庭園の主庭を見降ろすと、竹灯りのライトアップと円錐状に雪吊りした庭木の対比が面白い。
かつてはこの庭の向こうに琵琶湖を眺望することが出来たといいますので、琵琶湖を借景とした見事な庭だったと想像されます。



盆梅展のハイライトは本館の一階の間で、壁側と縁側に沿って大きな盆梅が並びます。
長浜盆梅展で最も歳を重ねた梅が「不老」で樹齢は伝400年、高さ240cm・直径60cmの大きな古木です。
まだ蕾がありますが、係の人の話だと“咲くのが早すぎて盆梅展終了までもたないかも”と心配しておられました。



リフレクションに照らし出される人気の撮影スポットには、その樹形が不老長寿を感じさせるという蓬莱の白梅が見頃です。
左右下後ろの4面が鏡面になっているので写り込みが面白いのですが、人の姿までもが影のように写ってしまうのが難点です。



下は実物の蓬莱を写した写真。



次はリフレクションの蓬莱。



館内に展示された盆梅の開花状態には差がかなりありましたが、部屋にはほのかな梅の香りが漂っていました。
もう春近しということで、これからの季節は里山を出歩くたびにスプリング・エフェメラルに出会えるかもしれませんね。



1階の縁側から見た主庭の竹灯りです。
庭を歩いて見たかったけど、夜間は安全のため庭に出ることは出来ないのが残念。



主庭には2匹の鯉の竹灯りのモニュメントがあります。
中国の黄河にある「竜門」という滝を登った魚は竜になると伝えられており、登り切った魚は鯉だけだったという故事があるという。

この「竜門」のことを「登竜門」といい、登り切った鯉は立身出世のシンボルとして「鯉の滝登り」という言葉になったという。
そんな故事にちなんで、夫婦の鯉が竜になるイメージを描いたとされ、その竜は今年の干支になる。



渡り廊下を通って新館にはいるとまずは早川鉄平さんの鯉の切り絵と盆梅のコラボが展示されています。
竹灯りも切り絵も竜になる鯉をメインにしているのが面白いですが、鯉が竜になるのがテーマになっているのはヒネリが効いている。



新館の盆梅は蕾が多かったのが残念でしたが、琵琶湖をイメージしたと思われる湖面にある盆梅は開花まであと僅か。
屏風の上には宙を舞う竜の姿が垣間見えています。



反対側の壁には宙を舞う竜の姿がアニメーションで映し出されます。
今年の盆梅展は干支の辰を主題に置いて、鯉と龍の故事とうまくつなげていて面白い展示でした。



最後は、空を飛んでいく竜の姿の動画です。




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「あのベンチ」を探して!~彦根市 琵琶湖の畔~

2024-01-14 16:55:55 | 風景・イベント・グルメ
 NHKの『ドキュメント72時間』という番組で、彦根市の琵琶湖の湖畔のベンチが「琵琶湖畔 あのベンチで」というタイトルで取り上げられていました。
SNSなどでは有名なスポットだそうで、「あのベンチ」と呼ばれるベンチのある場所へ訪れる人が多いそうです。

番組では72時間の間に訪れる人の話を聞いて番組が構成されていましたが、たった一つのベンチを巡っていろいろな人のドラマが語られていました。
訪れる人は犬の散歩がてら立ち寄った人や週または月に何度か訪れる人。ビワイチの方やツーリングの方、遠方からわざわざや訪れる人など様々。



ベンチは琵琶湖を前にしたセンダンの木の下にある何の変哲もないベンチです。
しかし、訪れる人の想いや背景にあるものは様々で、琵琶湖を前に自分を見つめ直したり、癒されたりの場所としても描かれる。



放送では多くの方々が訪れている様子が映し出されており、放送の翌日ということもあって人で溢れているかと思いきや、到着した時は当方だけでした。
小雨で人が動きにくかったこともあったと思いますが、運よく太陽の光が差してきた時間帯でもありました。



琵琶湖の北の方には琵琶湖沿いに車を停めて座れるベンチが何ヶ所かありますが、孤独感が強すぎて寂しくなる場所がよくあります。
その点、ここは琵琶湖横の集落の間を通る旧道沿いにありながらも、一人になれる場所で、人とのほど良い距離感が感じられる場所です。



冬の夕日は南側に沈むということでこの方向に夕日は沈みますが、この曇り空では夕日は期待できそうにないですね。
「あのベンチ」の正面やや右には多景島、左には沖島があり、霞む対岸は天気が良ければ高島市や比良山系が望めそう。



湖岸には「近江湖の辺の道」の標柱が立てられており、「近江湖の辺の道」は湖西の近江舞子から近江八幡国民休暇村までの遊歩道だといいます。
全長140㌔の道は湖辺の自然や文化遺産を効率的に結ぶ遊歩道で、「環びわ湖周遊自然歩道」とも呼ばれているようです。



ところで、湖周道路には以前から気になっていた看板があり、ちょうどいい位置で信号待ちとなりましたので記念にパチリ!
『めっちゃ おもろい動物園』は甲賀市水口町にある室内動物園ですが、《近江八幡駅から徒歩3時間52分》って、歩いて行く人いるのでしょうか?



話を戻すと、以前は「あのベンチ」は琵琶湖岸を走るライダーたちの間で秘密の場所だったそうです。
今は“映えスポット”として有名になっていますが、「あのベンチ」に訪れる人にはいろいろな想いがあるようです。
言い方を変えると、人それぞれが抱える背景や想いを「あのベンチ」から垣間見たようにも感じます。

<追記>
翌朝、雲一つない青空に導かれて、もう一度「あのベンチ」へ行ってみました。
朝の琵琶湖の美しさには、いろいろなことから救われる気分になりますね。






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紅葉に包まれた池はモネの『睡蓮』を思わせる美しさだった!

2023-12-08 06:16:16 | 風景・イベント・グルメ
 今年の秋は何度か紅葉の名所と呼ばれる場所に訪れたのですが、紅葉の進み具合・色彩・時間・光などベストな状態の紅葉に出会うのに苦心しました。
紅葉の出来栄えは、夏の暑さ・晴れ日と雨の日のバランスがいいと綺麗な紅葉になるといいますが、自然のものゆえに人間の力ではコントロールできない領域になります。

紅葉のシーズンもそろそろ終わりかと思って向かった寺院では、最後に今年最高の紅葉を楽しむことが出来て大いに満足致しました。
寺院は山麓にひっそりと佇んでおり、近くの山々はスギなどの植林が少ないこともあり、落葉広葉樹が色づいて山々もとても綺麗でした。



総門から入ると参道には黄~橙~赤の紅葉が見られ、竹林との対比も美しい参道でした。
緩い石段や道の脇の石組の苔も実に風情があっていい雰囲気の寺院です。



御堂のある境内までの道は逆光になってしまいますが、竹林の間から光が差し込んできて、青空が広がってくれている。
この日は朝のうち曇っていたので心配したものの、到着する前に晴れ間が出てきて助かりました。



石段を登って境内地に入ると、鐘楼の周りには黄色や橙色や赤の紅葉の競演です。
まさに見頃の紅葉狩りとなり、カメラで撮影中の人が2~3名いるだけの紅葉の隠れスポットです。



落葉した葉もありましたが、境内は掃き清められて何ヶ所かに落葉がまとめられていて整備の良さを感じます。
集めた落葉は燃やされるのかどうかは分かりませんが、落ち葉で焚き火をして焼き芋を焼いてみるなんてのは風情がありますね。



境内にいくつも点在する紅葉はこの辺りが一番見頃となっており、紅いカエデも美しかったと思いますが、黄色い銀杏も綺麗に色づいていて美しい。
紅葉の名所とされる場所では、どうしても人が写り込んでしまいますが、ここではほぼ人がいないので気遣い不要でゆっくり出来ます。



大きな銀杏の木はフレームに納まりきらない大きさでしたが、見事に色づいています。
このサイズの大きな樹だと銀杏の実もたくさん収穫できるのでしょう。



あっと驚いたのと、ここへ来れたことの運の良さを感じたのは、銀杏の木が放生池にリフレクションで写り込んでいたこと。
合わせて睡蓮の葉の上に散らしたかのように紅いカエデの葉が落葉していたことです。



池の周囲は落葉した紅いカエデが絨毯のように色取り、水面には銀杏の木や睡蓮の葉や落葉したカエデの葉が浮かぶ奇跡のような光景が広がります。
また青空と空に漂うような雲も写り込んでおり、実際にある睡蓮や落葉と写り込んだ銀杏や青空がうまく融け込んでくれました。



これはクロード・モネの「睡蓮」の紅葉版だなとつぶやきたくなるような光景。
何年の何月/何日の何時/何分にしか見ることの出来ないベストなタイミングに恵まれて来訪できたことに大いに感謝します。



睡蓮の葉の上に散らしたように紅葉した落ち葉が浮かび、水面には青空と雲が写っています。
意図的に作った光景ではなく、自然にこういう光景となったと考えると、自然の面白さに感動を憶えます。



広角レンズを付けた一眼レフかミラーレスのカメラで撮ったらもっと綺麗な画像になったのでしょうね。
今年の紅葉を堪能できたひと時でした。



最後に石段横に会ったグラディエーションの綺麗なカエデを眺めて終わりとします。
晩秋の景色が終わると雪の季節。



昨冬は降雪量が少なかったと記憶していますが、今年の雪はどうなるのでしょうか。
降らないのも困りますし、降り過ぎるのも困る。ほどほどにお願いしたいところです。


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鶏足寺(旧飯福寺)・石道寺の紅葉~木之本町古橋~

2023-11-28 12:33:33 | 風景・イベント・グルメ
 紅葉は、色づき具合や日光の加減など“その年のその日の何時何分”にしか見られない光景があり、最高の瞬間は宝くじに当たるが如くと言われます。
「鶏足寺(旧飯福寺)・石道寺」はコロナ渦を経て、4年ぶりの受入再開となった鶏足寺の紅葉狩りに十数年ぶりに訪れてみました。

今年は紅葉の状態が悪いとあちこちで聞きますが、鶏足寺も例に洩れずレッドカーペットは見られず、本来なら参道に覆いかぶさっているはずの紅葉も少ない。
もっとも良かった年の鶏足寺と比較したらという話で、赤色を中心として美しく色づいたカエデは多く、観光客の方からは感嘆の声があがっていました。



駐車場から集落内を歩いていくと「亀山の茶畑」という茶畑があり、この茶畑は平安期に最澄が己高山鶏足寺を再興した際に茶の木を植えさせたことに始まるという。
古橋は三成の母の故郷とされ、三成が幼少の頃過ごした寺院があり、関ヶ原合戦に敗れた後に光成が隠れた「大蛇の洞穴」など三成にまつわる伝承の多い地です。
この「亀山の茶畑」で産出されたお茶は石田三成ゆかりの「三献茶」として販売されているそうです。



「鶏足寺(旧飯福寺)」の柱の後方の参道はレッドカーペットになるため通行禁止ですが、落葉した紅葉はすでに変色してしまっている。
もう少し早い時期にくれば良かったのかな?と世話役の方に聞いてみると、今年は落葉が始まったのが早く落葉も少なかったので少し残念な年になりましたとのこと。



紅葉は急な寒暖差がある日が続くことや、日中に秋晴れが続きながらも適度な降水量があって乾燥しないことが条件だといいます。
観光情報では鶏足寺の紅葉は今が見頃となっていましたので、今年の紅葉のベストタイミングではあったようですけどね。



鶏足寺の歴史について触れると、鶏足寺のあった己高山は古来よりの山岳信仰の山であり、鶏足寺は行基によって724年に己高山の山上に創建されたという。
「己高山仏教文化圏」は、修験道・白山信仰・天台密教の影響を受けながら仏教圏として発展していき、湖北の観音信仰に大きな影響を与えたとされます。
鶏足寺の境内地には「己高閣」「世代閣」という文化財収蔵庫があり、己高山仏教圏にまつわる数多くの仏像等が収納されています。



紅葉は赤く焼けた葉が中心になり、黄色や橙色などの紅葉が見られてバリエーション豊かな紅葉が楽しめます。
訪れる方も本格的なレンズを付けたデジイチからデジカメ、スマホまで幅はあるものの、熱心に撮影されておられました。



鶏足寺から石道寺へ行く道の途中にも茶畑があり、この辺りのカエデが一番見頃だったと思います。
このカエデはこんもりとした樹冠に葉が茂っていて、ちょうどいい感じに色づいた紅葉でした。



石道寺には素朴ながら気品のある「木造十一面観音立像 (平安時代中期・重要文化財)」や藤原時代の「十一面観音立像」(旧高尾寺)が祀らています。
寺の池の横にあったカエデも紅葉の状態が良く、時間帯が良ければリフレクションが綺麗なのではないでしょうか。



現在ある鶏足寺は、己高山の山の上にあった寺院を山麓の旧飯福寺跡へ移したものですが、同じ領域内には鶏足寺の鎮守社だったとされる「与志漏神社」があります。
与志漏神社の二之鳥居への参道のカエデも見頃に色づいていて、こちらにはあまり人は流れてきませんのでゆっくり紅葉見物が出来る場所です。



「観音堂」のある場所への石段を登って行くと「己高山」がよく見える場所がありました。
写真中央からやや左奥の山が己高山(標高923m)です。
熊に遭遇する危険があるので一人での登山は控えて下さいと注意事項のある山なので怖ろしくて登ったことはありませんが、いつか登ってみたい山です。



鶏足寺は紅葉スポットとしてあまりにも有名になってしまい、4年ぶりの受入とあって、オーバーツーリズム対策がされて極端な人の集中はありませんでした。
ゆったりめに紅葉見物が出来ましたので、帰りに五平餅を食べて、お土産に「丁稚ようかん」2種を購入。



古橋の集落はや山麓に近く、普段は静まり返っているような集落ですが、紅葉の期間はお店を出して地元の物産を売られたりしてにぎわいます。
甘酒や五平餅の販売、お茶や柚子や里芋に薩摩芋や唐辛子など、地元の方の声高く売られており、紅葉期間は古橋の集落にお祭りがやってきたようです。


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彦根城金亀児童公園で「猿回し」~「二助企画」の二助三助~

2022-12-22 17:33:33 | 風景・イベント・グルメ
 何でそんなに猿回しに遭遇されるの?と呆れられてしまうほど猿回しによく出会います。
彦根城を観光していたら「猿回し」のノボリが立ち、お猿さんと猿使いの方がおられるのを発見。さっそく席に座って人が集まって来るのを待つことにしました。

よく遭遇する猿回しは大阪の「仁助企画」というプロダクションで、今回登場のコンビは「仁助三助」のコンビ...ということは社長自らのコンビで出演です。
二助企画には17組のコンビが在籍して活動中とのことでこれまで何組かは見ていますが、二助三助の三助猿はこれまでの猿とは比較にならないほど体が大きい。



ちょうど昼時ということもあって集まりが悪い中、自転車で駆け付けた子供が2人座ったのを見て初見の人も安心されて人が集まり出し、舞台が始まることには立ち見の方の輪ができる。
下は人の集まり待ちの時、客を飽きさせないように三助がポーズをつけて各方向を向いての写真撮影タイムの時のものです。



まず最初の芸は「竹馬でハードル連続ジャンプ」で、これはまずは足慣らしといったところです。
三助は2011年6月25日生まれの♂で京都生まれ。人間に直すと35~36歳くらいになるとか。



体が大きいためか跳躍力は高く、最初はハードルを横に並べての飛び石ジャンプでしたが、次は縦に三段積んだ竹馬大ジャンプです。
竹馬に乗りながら高いハードルを越えますので、かなり迫力があります。



猿は神様の遣いとされて1000年も前から行われているといい、日本の伝統芸能のひとつとして人々を和ませてくれますので、見かけると通り過ぎてしまうことの出来ない芸です。
“猿真似”や“猿芝居”なんて言葉がありますが、猿回しは15分ほどの時間ながら芸のクオリティの高さと猿使いの方の軽妙なトークや猿の小ネタ・大ネタは日頃の憂さを忘れさせてくれます。



竹馬のハードル跳びの後は跳び箱を飛んで逆立ち着地と逆立ち上りの芸です。
自然の中で出会う猿は木から結構離れた木まで飛んだりはしますが、逆立ちで着地はしませんので調教あってのものです。



二助企画の猿回しコンビでは三助が特に大きいせいもあってか、跳び箱ジャンプの距離がかなり遠い距離になっています。
まさに驚異のジャンプなんですが、運動能力で人は猿には絶対勝てないなと実感してしまう跳躍力です。



二助さんの話だと猿も年齢を重ねると自我が芽生えてきて芸をさせるのも大変とのこと。
うまく動いてもらって客を楽しませる技術も中々大変だと思いますが、芸の内容を指示するコンビにだけ分かる合図のようなものがあるように感じました。



ところで、彦根城に付随する「玄宮楽々園」へは十数年振りの再訪となり、その時は彦根城の祭りで武家衣装や町人姿の人に囲まれながらの庭園散策でしたが、今回は観光の方が歩かれているのみでした。
「玄宮楽々園」は彦根藩4代藩主・井伊直興が整備したとされ、後に第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として現在の形に近い形に整備されたという。
「楽々園」の方の庭は枯山水の庭になっており、「玄宮園」の大きな池泉回遊式庭園と対極をなしています。



「玄宮園」の池には9つの橋が架かるといい、近江八景を模して作られているとされています。
いわゆる大名庭園になるとはいえ、大名庭園は彦根藩の「玄宮園」以外には加賀藩の「兼六園」くらいしか行ったことはなく記憶も曖昧です。



12月ながら一部紅葉が残っており、山の上には彦根城の天守が見えます。
江戸時代の天下泰平の世では有力な藩が競い合うようにして造園したため、日本庭園の造園技術は最高の水準になったとされています。



玄宮園に橋は多いのですが、渡れる橋はひとつだけ。
彦根城や玄宮楽々園は朝の散歩に最適な場所だなぁと思いましたが、開場時間があって有料なのでそれは無理なようです。




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三雲城址の「八丈岩」~湖南市吉永字城山~

2020-10-22 05:30:00 | 風景・イベント・グルメ
 湖南市吉永界隈には「三雲城址」や「八丈岩」ののぼりが何本も立てられており、行先表示の看板に誘われるようにして三雲城址へと向かいました。
三雲城は、六角氏の重臣で甲賀五十三家に数えられる三雲氏の居城だったといい、1488年に三雲高典膳に築かせた城とされます。

六角氏は三雲城を逃げ込み用の本城とし、観音寺城を責められた時にも、この城に逃げ込んだと伝わります。
三雲氏は六角氏が滅亡し三雲城が落城した後、城主・三雲成持は織田信雄に仕え、その後は蒲生氏郷に仕えた後、江戸時代には徳川幕府の旗本として仕えたとされます。



三雲城址の林道を登っていくと、途中に「八丈岩」へ通じるハイキングコースの看板があり、八丈岩への階段を登っていく。
興味深いのは、司馬遼太郎が『風神の門』のなかで「三雲成持の甥にあたる三雲佐助賢春が猿飛佐助である」としていることでしょうか。
猿飛佐助がこの三雲城に育ち、この山で修行していたとすると、佐助がこの坂を駆け上がっていったことがあったのかもしれない。



「八丈岩」は、2つの巨大な岩が立つようにしてあり、かつては三雲城の見張り台として使われていたともいいます。
高さ5m・幅10mとされる八丈岩はカメラのフレームに収まらない大きさで、巨岩の多い湖南地方の凄さに改めて感じ入ることになります。



岩の裏側に回るとゴツゴツとした巨岩が重なるようにして集まっていることが分かる。
「八丈岩」がある場所は崖にもなっていますので、不注意に歩くと落下してしまいますので、慎重に動かないといけません。



岩の横に三雲城址へつながる道がありますので、少し進んでみると、八丈岩が見渡せる見晴台があります。
よくこんな不安定そうな形で長い間あったものだと感心しますが、巨石の多い場所は湖南にはいくつかありますので、湖南の巨石の文化の豊さが伺われます。





見晴台から眺める八丈岩は不思議な姿でもあり、迫力のある姿をしており、正直凄いという言葉しか浮かばない。
“落ちそうで落ちないのが八丈岩”というのもよく分かります。



このまま進めば、三雲城址まで行けるはずでしたが、元来た道を戻り、再び八丈岩まで戻ってくる。
反対側から眺める八丈岩も今にも落ちそう(倒れてきそう)ではあるものの、これまで何度も地震が来ても倒れなかったのですから、絶妙のバランスで立っているのでしょう。



八丈岩は受験生の信仰を集めており、“落ちそうで落ちない”の御利益にあやかろうと「合格祈願石」に願い事を書かれる人が多いようです。
八丈岩の下には祠があり、平たい石とマジックが置かれていますので、願い事の書かれた石が積みあがっています。
この景色の元で祈願すれば、受験や試験に対する気持ちも高まってくるでしょうね。



ところで、三雲城址への林道の途中に「奇石」と書かれた看板があり、巨石がありました。
“上(横)から見れば犬頭さん、下(前)から見れば象さん”とありましたが、いまいちよく分からない。
確かにスヌーピーの頭のように見える角度はあるのですけどね。





象さんはどこから見たらいいのか分からずじまい...。



湖南地方を訪れると、摩崖仏が彫られている巨岩も含めて、巨石が多い一帯だと実感する場所が多くあります。
三雲城址では「八丈岩」で折り返して帰ったのですが、その先には石垣の位置や巨石・井戸跡などが残されれているようです。
三雲城の石垣等の用材は、秀吉の中老・中村一氏が水口岡山城を築く際に持ち去ったといい、水口岡山城が廃城になった後は水口城の築城の時に部材として転用されたといいます。




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「明智十兵衛屋敷跡」と「十二相神社」~光秀の出身地は多賀だった!?~

2020-03-29 18:55:15 | 風景・イベント・グルメ
 NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀と滋賀県は「坂本城」や明智一族の菩提寺である「西教寺」のつながりから“大津との縁が深い”というのが大方の意見かと思います。
ところが何と、湖東にある多賀町では“明智光秀 多賀出身説”が持ち上がり、光秀のルーツは多賀にあり!との説があるようです。

光秀の前半生は謎に包まれているとはいいますが、多賀出身というのは聞いたことがありませんでした。
ただし多賀では“出身説”としており、“誕生説”ではないところが微妙なところとはいえ、説は文献や伝承を元にした大真面目な説です。



十兵衛屋敷跡がある多賀町佐目の集落は、三重県と滋賀県の県境に位置し、伊勢神宮と多賀大社の参拝の通り道にあたる地だったとされています。
戦国時代には近隣武将や土豪の勢力争いの最前線になる地であったこともあって、周囲を山に囲まれたこの地には山城が幾つかあったといいます。
屋敷跡の後方に見えるのは高室山でしょうか。ここにもかつて山城があったと聞きます。



佐目が光秀の出身地とするには幾つかの理由があり、一つは17世紀後半に編纂された『近江温故録』という地誌に書かれた内容と佐目の口伝が一致すること。
“光秀の2~3代前の美濃出身で土岐氏に仕えていた先祖が明智十左衛門と名乗って佐目に住んでいた。”
“十兵衛は六角高頼に仕官し、2~3代後の十兵衛光秀は越前朝倉家に仕えた。”と書かれてあるという。
“山崎の戦いで光秀の家来ではなかった犬上衆が昔の旧き(ふる)好み(よし)で応戦した”という伝承もあるようです。


(多賀観光協会チラシ)

佐目には光秀の「ミツ」の字をもらい、「見津(ミツ)」と書いて「けんつ」と読む一族がいるといい、実際に表札が確認出来ました。
明智の一族が佐目に住んでいた話がどこまで光秀につながっているかは分かりませんが、興味深い話です。

ところで、十兵衛屋敷跡のすぐ山側には佐目の鎮守社である「十二相神社」があり、参拝に向かいます。
主祭神は「少彦名命」とされ、少彦名命は大国主命と協力して国土の経営にあたり「医薬・禁厭」などの法を創めたとされています。



境内から背後の山にかけて杉の巨木が多いが、何といっても社殿両側にある4本の杉の巨木の迫力と神秘的に魅入られる。
樹齢は500~1000年といい、下段の2本の杉は胸高周囲4.9mと4.5mの巨木。
上段には6.5mと6.15mと更に太い杉がある。





これだけの巨木があると圧倒されるしかないが、境内にある木はどれも几帳面に枝打ちされており、よく整備されていることが分かる。
佐目は多賀町でも三重県いなべ市と隣接したかなり奥地にある集落という印象を受けましたが、なぜ明智十兵衛は美濃から佐目へ来たのでしょうか?



明智十兵衛屋敷跡で世話方の話を聞いている時に“道路に車が何台も停まっているところがあっただろう。あそこの山でミツマタが満開だから寄っていったらどうか。”と教えて頂きました。
現地へ行って山から出てこられた人に聞くと“20分くらい登ったら群生があるよ。凄く綺麗だよ。”と教えてもらって砂利道の登り坂を登っていく。



ミツマタの群生は山の斜面一帯に広がり、道の反対側の谷側にも群生が広がっている。
まさに周囲全てがミツマタの花に埋め尽くされていて、ミツマタの群生地というよりミツマタの花の森と呼んだ方がしっくりくる。



ミツマタは中国産の落葉低木で江戸時代から製紙に使われていたといい、枝が必ず三叉に分かれることからミツマタの名が付いたそうです。
山へ入られる人も多く、ここが有名なミツマタ群生地とは知らなかったにも関わらず、満開の時期に教えていただけたのは運が良かったですね。



ツマタの群生地への入口付近にはエメラルドグリーンのため池があります。
なかなかに神秘的な場所です。



『麒麟がくる』での光秀は美濃を舞台に活躍していますが、実は多賀町佐目の出身だったと別のストーリーを思う浮かべるのも面白いかもしれません。
山々に囲まれた佐目の周辺は自然が多く、十二相神社の杉やミツマタの群生地などを見ながら心が満たされていくのを感じます。


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「長浜豊国神社 十日ゑびす」の福餅まき~滋賀県長浜市~

2020-01-11 09:30:00 | 風景・イベント・グルメ
 兵庫県の西宮神社では「十日えびす」の「福男選び」が毎年ニュースなどで取り上げられ話題になりますが、長浜の豊国神社でも“商売繁盛でササ持ってこい”のお囃子にのって十日ゑびすの神事が行われます。
長浜豊国神社は「豊国大明神(豊臣秀吉)」と 「事代主大神」、「加藤清正」、「木村重成」を主祭神として祀り、長浜城で一国一城の主となった秀吉の3回忌に神社は建立されたといいます。
しかし、江戸時代には江戸幕府により秀吉信仰が禁じられると、祭神は町年寄によって密かに祀られていたとされ、明治維新後に豊国神社として復活したようです。



各地方には当地ゆかりの人物を奉ることが多く、例えばこの長浜の秀吉さん、彦根の井伊さんなど地域に関係があった人を崇敬することがあります。
長浜では秀吉縁の豊国神社、秀吉の砂金の振る舞いに起源を持つ「長浜曳山祭」などの行事があり、秀吉が長浜城主だったのは3年ほどだったにも関わらず秀吉愛のようなものが浸透しています。



JRの長浜駅から5分ほどの距離にある豊国神社のお囃子は、長浜駅のホームや商店街からでも聞こえるほど市中に響き渡り、福餅まきの時間には多くの方が神社に集まられます。
神社へ参拝される方は、まかれた餅に今年の繁栄を祈り、福餅を掴むことで今年一年の繁栄を期待してのハレの時間となります。



まず本殿に参拝して今年の繁栄を祈念致しますが、それほど人の数が多くないのは皆さん餅まきの場所取りをされているからであります。
参道には福笹などの縁起物を売るお店が並び、巫女さんたちが店頭に立たれて戎講のにぎやかな光景がひろがります。



長浜は、滋賀県の北部の田舎町にありながらも神社は豪奢な造りになっていて、拝殿は1898年の秀吉三百回忌に合わせて再建されたという建築物です。
譜代大名筆頭の井伊家がおさめる彦根藩に属しながら、恵比須さんをカモフラージュにして密かに秀吉を祀っていた長浜城下の町衆の意気が感じられる話です。

本殿の横には「出世稲荷神社」が建てられており、秀吉の出世物語にあやかりたいと参拝者が絶えません。
出世稲荷神社は内部が回廊になっていて周回することができ、回廊を歩いて行くと拝殿の裏側にも拝所がある。





さて、そろそろ餅まきが始まりそうなので境内を移動します。
驚くのは集まった人の多さと餅が飛んできそうな場所への密集状態でしょうか。
福娘さんたちが手に持っているのは“福”のシールが貼られた福餅で、皆さんこの餅を狙っています。



舞台の前に並ぶ人はリタイヤされた世代の方が多く、緩やかな餅まきになるかと始まる前は思っていましたが...。
最初の餅がまかれた瞬間から修羅の如くの押し合い圧し合い奪い合いが始まります。

飛んできた餅に手を伸ばせば他の方が伸ばした手の爪でひっかかれて血が滲む。
押されて後ろに倒れてしまいましたが、後方にいたおばぁさんも一緒に倒れてしまい支えながら起こすことにもなった。
とはいえ、周囲に居た人より多少背が高くリーチが長いのでお餅はキャッチしましたけどね。でも福餅はなし。



餅まきが終わりかけると混雑を避けて早々に甘酒の御接待を受けに行く。
大きな釜で甘酒を煮られていますが、餅まき会場から移動された方が次々と来られるのでここは大賑わい。
ご奉仕の方は大変そうでしたが、神社でのこういう活気は気持ちが晴れますね。



お店では立派な福笹や熊手の縁起物が並びますが、お値段もかなりのもの。
景気を反映してか大きな縁起物を買って帰られる人は少なく、小ぶりな縁起物を買われる方がチラホラといった感じ。



福餅まきは、福を掴みたい参加者の激しさに少しあさましいと恥じ入ってしまうほどでした。
餅まきが終わった時に自分の後ろで倒れた小柄なおばぁちゃんが餅が取れてなかったら分けようかと声をかけようとしたら、福の貼った餅を2個しっかり握っておられました。
福は奪い合っても得られるものではなく、福が来るべき人のところへ訪れるのでしょう。(教訓)


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