「安倍文殊院」は日本三文殊の霊場として知られており、残りの2寺は京都府「天橋立切戸の文殊」、山形県「奥州亀岡の文殊」とされています。
創建は645年、大化の改新の年に左大臣・安倍倉梯麻呂が安倍一族の氏寺として建立したのが始まりとされます。
また一般的には大阪阿倍野の出生とされている安倍晴明が出生した地(奈良県桜井市)とする伝承もあり、晴明ゆかりの寺院ともされています。
御本尊の「文殊菩薩」は快慶作で国宝に指定されており、「渡海文殊群像」として人々の信仰を集めているといいます。
創建当時の安倍文殊院は「法隆寺式伽藍配置」による大寺院だったといい、鎌倉時代に現在地に移転してからも塔頭寺院二十八坊を有する大寺だったようです。
しかし1563年、畿内を支配していた松永弾正の兵火によって焼失。江戸時代の1665年に現在の文殊堂が再建されたようです。
安倍文殊院にはいろいろ興味深いものがありますが、特に興味深いのは国の「特別史跡」に指定されている2つの古墳でしょうか。
「西古墳」は645年当時のまま保存されているといい、創建者・安倍倉梯麻呂の墓であると伝えられているといいます。
古墳の内部には弘法大師が造られたと伝わる「願掛け不動」が祀られており、古墳内部に入って石仏を拝することが出来ます。
説明板に“645年当時のまま”とあり、その時代には既に正確に石を加工する技術があったことが伺われます。
ゆがみのない直線のカットは綺麗すぎるようにも見えますが、それほど渡来した技術は凄かったということなのでしょうか。
玄室の天井岩は1枚岩で大きさは15㎡といいますから、墓の主とされる安倍倉梯麻呂は有数の権力者だったと思われます。
安倍倉梯麻呂は649年に亡くなったとされていますから、生前から自分の墓を準備していたということになります。
もう一つの古墳は「東古墳」といい、こちらも飛鳥時代に造立されたといいます。
またの名を「閼伽井の窟」とも呼ばれているということで、玄室と外部を結ぶ通路部分にかつては井戸があったことに由来するようです。
東古墳の内部には地蔵石仏が安置されていて、井戸と思われるような石組みがあります。
巨大な天井岩が組まれていますが、内部の石の加工は西古墳ほどは手が入っていないため、安倍倉梯麻呂より身分の低い方の古墳なのかと思います。
さて、本堂では外陣から須弥壇を前にして、一定の間隔(15分置きくらい?)で寺院の方の説明が行われます。
説明されていた若い僧は学生時代に落語研究会で揉まれたような巧みな口調で説明をされており、亭号や噺家の名を持っていそうな語り口でした。
保管庫を兼ねた本堂内には本尊の「騎獅文殊菩薩像」を中心にして向かって右に「善財童子像」、獅子の手綱を持つ「優填王像」。
向かって左側には「維摩居士像」と「須菩提像」。しかし何といっても大迫力なのは御本尊の文殊菩薩になります。
文殊菩薩は胎内墨書銘より1203年に快慶が造ったものと明らかになっており、檜の寄木作りの菩薩は高さ7m・重さ1tとその大きさにも驚きます。
拝観している間に中でご祈祷が始まり、あまり聞きなれない華厳宗のお経が堂内によく響く。
エコーのかかったような響きの読教を聞きながら見る文殊菩薩は生き生きとして見え、ありがたみが増してくる。
仏像はやはり本来あるべき形で拝むのが一番感じ入るものがあると見惚れ聞き惚れてしまいます。
本堂や西古墳の付近には放生池の真ん中に霊宝館を兼ねた「金閣浮御堂」があり、魔除け・方位災難除けを祈願へと参ります。
入る時に「おさめ札」を渡されますので「七参り」として七難に合わないように、7回まわって回る度に札を1枚づつ納めて祈願します。
安倍文殊院は奥へ行けば行くほどスピリチャルな場所が多くなり、寺院でいえば奥之院のような印象を受けます。
「白山堂」は御祭神が菊理媛神を祀り、白山信仰と陰陽道は古くより深い結びつきがあったといいます。
尚、白山神社本殿は安倍晴明ゆかりの社として室町後期に建立された建造物で重要文化財の指定を受けています。
その横には「弘法大師像」とお砂踏みがあり、空海はここにも居られるのかと少し不思議に思う。
しかし、空海は華厳宗の大本山である東大寺の別当を務めた時代があり、華厳宗東大寺の別格本山とされる安倍文殊院とはつながりが深い。
神社の最奥の高台には安倍晴明を御神体として祀る「安倍晴明堂」が再建されています。
安倍晴明が陰陽道の修行をしたとの伝承があることから、高台から空に向かって「安倍晴明公 天文観測の地」の碑が建てられています。
神秘化されて謎めいた晴明のことですから、どこに出現してもおかしくはないイメージがあり、実際にここにも晴明が訪れたと考えるのも楽しい。
祠の前にある「如意宝珠」は“いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある”とされており、如意宝珠を撫でてご祈願下さいとある。
「天文観測の地」の碑の横から見た展望は奈良の盆地の光景が広がる。
左奥には葛城山、ふたコブある山が二上山。やや手前右にあるのが耳成山といったところか。
左中央辺りには藤原京あったようですから、日本の中央集権国家の始まりの場所となる。
ところで、安倍文殊院では拝観料を支払うとお接待のお抹茶と落雁が頂けます。
吉野葛入りの落雁には五芒星が刻まれており、上品な味ながらもとても甘い。
京都へ行くと平安の時代の痕跡が残り、奈良には古代~飛鳥~平城京の痕跡が残っている。
個人的には天台密教と観音の里の滋賀を入れて、3府県をぐるぐると巡っているのです。
創建は645年、大化の改新の年に左大臣・安倍倉梯麻呂が安倍一族の氏寺として建立したのが始まりとされます。
また一般的には大阪阿倍野の出生とされている安倍晴明が出生した地(奈良県桜井市)とする伝承もあり、晴明ゆかりの寺院ともされています。
御本尊の「文殊菩薩」は快慶作で国宝に指定されており、「渡海文殊群像」として人々の信仰を集めているといいます。
創建当時の安倍文殊院は「法隆寺式伽藍配置」による大寺院だったといい、鎌倉時代に現在地に移転してからも塔頭寺院二十八坊を有する大寺だったようです。
しかし1563年、畿内を支配していた松永弾正の兵火によって焼失。江戸時代の1665年に現在の文殊堂が再建されたようです。
安倍文殊院にはいろいろ興味深いものがありますが、特に興味深いのは国の「特別史跡」に指定されている2つの古墳でしょうか。
「西古墳」は645年当時のまま保存されているといい、創建者・安倍倉梯麻呂の墓であると伝えられているといいます。
古墳の内部には弘法大師が造られたと伝わる「願掛け不動」が祀られており、古墳内部に入って石仏を拝することが出来ます。
説明板に“645年当時のまま”とあり、その時代には既に正確に石を加工する技術があったことが伺われます。
ゆがみのない直線のカットは綺麗すぎるようにも見えますが、それほど渡来した技術は凄かったということなのでしょうか。
玄室の天井岩は1枚岩で大きさは15㎡といいますから、墓の主とされる安倍倉梯麻呂は有数の権力者だったと思われます。
安倍倉梯麻呂は649年に亡くなったとされていますから、生前から自分の墓を準備していたということになります。
もう一つの古墳は「東古墳」といい、こちらも飛鳥時代に造立されたといいます。
またの名を「閼伽井の窟」とも呼ばれているということで、玄室と外部を結ぶ通路部分にかつては井戸があったことに由来するようです。
東古墳の内部には地蔵石仏が安置されていて、井戸と思われるような石組みがあります。
巨大な天井岩が組まれていますが、内部の石の加工は西古墳ほどは手が入っていないため、安倍倉梯麻呂より身分の低い方の古墳なのかと思います。
さて、本堂では外陣から須弥壇を前にして、一定の間隔(15分置きくらい?)で寺院の方の説明が行われます。
説明されていた若い僧は学生時代に落語研究会で揉まれたような巧みな口調で説明をされており、亭号や噺家の名を持っていそうな語り口でした。
保管庫を兼ねた本堂内には本尊の「騎獅文殊菩薩像」を中心にして向かって右に「善財童子像」、獅子の手綱を持つ「優填王像」。
向かって左側には「維摩居士像」と「須菩提像」。しかし何といっても大迫力なのは御本尊の文殊菩薩になります。
文殊菩薩は胎内墨書銘より1203年に快慶が造ったものと明らかになっており、檜の寄木作りの菩薩は高さ7m・重さ1tとその大きさにも驚きます。
拝観している間に中でご祈祷が始まり、あまり聞きなれない華厳宗のお経が堂内によく響く。
エコーのかかったような響きの読教を聞きながら見る文殊菩薩は生き生きとして見え、ありがたみが増してくる。
仏像はやはり本来あるべき形で拝むのが一番感じ入るものがあると見惚れ聞き惚れてしまいます。
本堂や西古墳の付近には放生池の真ん中に霊宝館を兼ねた「金閣浮御堂」があり、魔除け・方位災難除けを祈願へと参ります。
入る時に「おさめ札」を渡されますので「七参り」として七難に合わないように、7回まわって回る度に札を1枚づつ納めて祈願します。
安倍文殊院は奥へ行けば行くほどスピリチャルな場所が多くなり、寺院でいえば奥之院のような印象を受けます。
「白山堂」は御祭神が菊理媛神を祀り、白山信仰と陰陽道は古くより深い結びつきがあったといいます。
尚、白山神社本殿は安倍晴明ゆかりの社として室町後期に建立された建造物で重要文化財の指定を受けています。
その横には「弘法大師像」とお砂踏みがあり、空海はここにも居られるのかと少し不思議に思う。
しかし、空海は華厳宗の大本山である東大寺の別当を務めた時代があり、華厳宗東大寺の別格本山とされる安倍文殊院とはつながりが深い。
神社の最奥の高台には安倍晴明を御神体として祀る「安倍晴明堂」が再建されています。
安倍晴明が陰陽道の修行をしたとの伝承があることから、高台から空に向かって「安倍晴明公 天文観測の地」の碑が建てられています。
神秘化されて謎めいた晴明のことですから、どこに出現してもおかしくはないイメージがあり、実際にここにも晴明が訪れたと考えるのも楽しい。
祠の前にある「如意宝珠」は“いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある”とされており、如意宝珠を撫でてご祈願下さいとある。
「天文観測の地」の碑の横から見た展望は奈良の盆地の光景が広がる。
左奥には葛城山、ふたコブある山が二上山。やや手前右にあるのが耳成山といったところか。
左中央辺りには藤原京あったようですから、日本の中央集権国家の始まりの場所となる。
ところで、安倍文殊院では拝観料を支払うとお接待のお抹茶と落雁が頂けます。
吉野葛入りの落雁には五芒星が刻まれており、上品な味ながらもとても甘い。
京都へ行くと平安の時代の痕跡が残り、奈良には古代~飛鳥~平城京の痕跡が残っている。
個人的には天台密教と観音の里の滋賀を入れて、3府県をぐるぐると巡っているのです。