僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~奈良県桜井市 安倍山 安倍文殊院~

2019-11-28 06:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「安倍文殊院」は日本三文殊の霊場として知られており、残りの2寺は京都府「天橋立切戸の文殊」、山形県「奥州亀岡の文殊」とされています。
創建は645年、大化の改新の年に左大臣・安倍倉梯麻呂が安倍一族の氏寺として建立したのが始まりとされます。

また一般的には大阪阿倍野の出生とされている安倍晴明が出生した地(奈良県桜井市)とする伝承もあり、晴明ゆかりの寺院ともされています。
御本尊の「文殊菩薩」は快慶作で国宝に指定されており、「渡海文殊群像」として人々の信仰を集めているといいます。



創建当時の安倍文殊院は「法隆寺式伽藍配置」による大寺院だったといい、鎌倉時代に現在地に移転してからも塔頭寺院二十八坊を有する大寺だったようです。
しかし1563年、畿内を支配していた松永弾正の兵火によって焼失。江戸時代の1665年に現在の文殊堂が再建されたようです。



安倍文殊院にはいろいろ興味深いものがありますが、特に興味深いのは国の「特別史跡」に指定されている2つの古墳でしょうか。
「西古墳」は645年当時のまま保存されているといい、創建者・安倍倉梯麻呂の墓であると伝えられているといいます。



古墳の内部には弘法大師が造られたと伝わる「願掛け不動」が祀られており、古墳内部に入って石仏を拝することが出来ます。
説明板に“645年当時のまま”とあり、その時代には既に正確に石を加工する技術があったことが伺われます。
ゆがみのない直線のカットは綺麗すぎるようにも見えますが、それほど渡来した技術は凄かったということなのでしょうか。



玄室の天井岩は1枚岩で大きさは15㎡といいますから、墓の主とされる安倍倉梯麻呂は有数の権力者だったと思われます。
安倍倉梯麻呂は649年に亡くなったとされていますから、生前から自分の墓を準備していたということになります。



もう一つの古墳は「東古墳」といい、こちらも飛鳥時代に造立されたといいます。
またの名を「閼伽井の窟」とも呼ばれているということで、玄室と外部を結ぶ通路部分にかつては井戸があったことに由来するようです。



東古墳の内部には地蔵石仏が安置されていて、井戸と思われるような石組みがあります。
巨大な天井岩が組まれていますが、内部の石の加工は西古墳ほどは手が入っていないため、安倍倉梯麻呂より身分の低い方の古墳なのかと思います。



さて、本堂では外陣から須弥壇を前にして、一定の間隔(15分置きくらい?)で寺院の方の説明が行われます。
説明されていた若い僧は学生時代に落語研究会で揉まれたような巧みな口調で説明をされており、亭号や噺家の名を持っていそうな語り口でした。



保管庫を兼ねた本堂内には本尊の「騎獅文殊菩薩像」を中心にして向かって右に「善財童子像」、獅子の手綱を持つ「優填王像」。
向かって左側には「維摩居士像」と「須菩提像」。しかし何といっても大迫力なのは御本尊の文殊菩薩になります。



文殊菩薩は胎内墨書銘より1203年に快慶が造ったものと明らかになっており、檜の寄木作りの菩薩は高さ7m・重さ1tとその大きさにも驚きます。
拝観している間に中でご祈祷が始まり、あまり聞きなれない華厳宗のお経が堂内によく響く。

エコーのかかったような響きの読教を聞きながら見る文殊菩薩は生き生きとして見え、ありがたみが増してくる。
仏像はやはり本来あるべき形で拝むのが一番感じ入るものがあると見惚れ聞き惚れてしまいます。



本堂や西古墳の付近には放生池の真ん中に霊宝館を兼ねた「金閣浮御堂」があり、魔除け・方位災難除けを祈願へと参ります。
入る時に「おさめ札」を渡されますので「七参り」として七難に合わないように、7回まわって回る度に札を1枚づつ納めて祈願します。





安倍文殊院は奥へ行けば行くほどスピリチャルな場所が多くなり、寺院でいえば奥之院のような印象を受けます。
「白山堂」は御祭神が菊理媛神を祀り、白山信仰と陰陽道は古くより深い結びつきがあったといいます。
尚、白山神社本殿は安倍晴明ゆかりの社として室町後期に建立された建造物で重要文化財の指定を受けています。



その横には「弘法大師像」とお砂踏みがあり、空海はここにも居られるのかと少し不思議に思う。
しかし、空海は華厳宗の大本山である東大寺の別当を務めた時代があり、華厳宗東大寺の別格本山とされる安倍文殊院とはつながりが深い。



神社の最奥の高台には安倍晴明を御神体として祀る「安倍晴明堂」が再建されています。
安倍晴明が陰陽道の修行をしたとの伝承があることから、高台から空に向かって「安倍晴明公 天文観測の地」の碑が建てられています。



神秘化されて謎めいた晴明のことですから、どこに出現してもおかしくはないイメージがあり、実際にここにも晴明が訪れたと考えるのも楽しい。
祠の前にある「如意宝珠」は“いかなる願望も意のままに成就し、また悪を払い、災難を防ぐ功徳がある”とされており、如意宝珠を撫でてご祈願下さいとある。





「天文観測の地」の碑の横から見た展望は奈良の盆地の光景が広がる。
左奥には葛城山、ふたコブある山が二上山。やや手前右にあるのが耳成山といったところか。
左中央辺りには藤原京あったようですから、日本の中央集権国家の始まりの場所となる。



ところで、安倍文殊院では拝観料を支払うとお接待のお抹茶と落雁が頂けます。
吉野葛入りの落雁には五芒星が刻まれており、上品な味ながらもとても甘い。





京都へ行くと平安の時代の痕跡が残り、奈良には古代~飛鳥~平城京の痕跡が残っている。
個人的には天台密教と観音の里の滋賀を入れて、3府県をぐるぐると巡っているのです。


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『三重の仏像展~白鳳仏から円空まで~』~MieMu 三重県総合博物館~

2019-11-24 15:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 三重県津市にある「三重県総合博物館」では白鳳時代~平安~鎌倉・室町・江戸期にかけての三重の仏像が一堂に会しての展覧会が開催されています。
展示資料の総数は71点はほぼ仏像と神像であり、秘仏や新発見の仏像の初公開を含めて、三重県内では16年ぶりの本格的な仏像展だといわれます。

三重県というと思い浮かぶのは伊勢神宮を始めとする神の社ということになりますが、今回の仏像展を観ると三重県が実は古くから仏教の文化の影響が強い土地だったことが分かります。
和歌山からの熊野古道の影響もあるにはあるのでしょうけど、奈良から伊勢神宮までの道中は往来の多さと共に文化の往来もあったことが想定されます。



滋賀から奈良へ行く場合、甲賀市信楽~宇治田原~木津川~奈良のルートになりますが、三重へは甲賀土山~伊賀~津のルートとなる。
ということは、甲賀市を経由して奈良と三重(特に伊賀)は大きく言えば近い距離にあるといえる場所にあり、別の言い方をすると奈良からこのルートをたどれば松阪を経て伊勢神宮に到着するとも言えます。

都と伊勢神宮をつなぐルート上にはおそらく数多くの寺院が造営されたことが想像され、実際に三重県で重要文化財に指定されている仏像の数は全国で9番目の多さ(67点)であるといいます。
美術展図録の総論によると、三重県での宗派の分布は、北勢は浄土真宗・中勢は真宗高田派と天台真盛宗、松阪は浄土宗で伊賀は天台・真言宗、東紀州は曹洞宗が比較的多いとあります。
また、寺院址(廃寺)から発見された白鵬・奈良時代の塼仏(せんぶつ)の出土数は大阪に次ぐ多さであるといい、古い時代から仏教文化が栄えていたことが伺えます。



展覧会では「第1章 白鵬・奈良時代」「第2章 平安時代前期」「第3章 平安時代後期(十世紀)「第4章 同(十一・一二世紀)」を中心に、「第5章 鎌倉時代」「第6章 南北朝以降」と仏像に取り囲まれてしまうような構成となっています。
「第1章 白鵬・奈良時代」の「誕生釈迦仏」や古墳出土の「押出仏」・廃寺出土の「塼仏」・「仏頭」などは見る機会があまりない文化財ですので今回の仏像展は大変貴重だったと思います。
また夏見廃寺出土の螺髪はその大きさから2m以上の仏像があったことが推定できるとあり、かなり大きな仏像が白鵬時代から三重県に造像されていたことが伺われます。

平安時代前期の「阿弥陀如来立像」は、亀山市の慈恩寺の御本尊で像高161.9cm・一木造の漆箔の重量感溢れる仏像です。
三重の9世紀を代表する仏像だとされ、重要文化財に指定されている重厚な如来像です。



平安時代後期の「薬師如来坐像」は、明治初年に廃寺となった三津定泉寺の旧仏で現在は伊勢市の明星寺の収蔵庫に安置される仏像だそうです。
興味深いのは、この仏像の発願者が神宮神官を務めた当地の豪族の荒木田氏と度会氏を示す墨書銘があるということで、平安期の仏教と神社の関係が想像される仏像です。



同じく平安時代後期の「薬師如来座像及び両脇侍」は、真言宗「薬師堂」の本尊として伝来したもので、明治に廃寺になったあとに津市の光善寺に合併されたといいます。
この薬師三尊は県内最古の三尊像だとされ、重厚で重みのある薬師如来に合わせてか、やや腰をひねった日光・月光如来もたくましい菩薩との印象を受ける。



伊賀市勝因寺の「虚空菩薩坐像」は、通常秘仏の仏像が今回の仏像展で特別公開となっていました。
衣文は浅く彫られており、くっきりと彫られた顔は凛々しい。
素地であるためカヤ材の美しさがあるが、当初から素地だったかどうかは不明だといいます。



初公開とされているのが快慶作の「阿弥陀如来立像」。
松阪市の安楽寺の仏像で、足柄に「巧匠 法眼快慶」の墨書銘が確認されたそうです。
快慶の阿弥陀仏の幾つかを見ましたが、仏像の大きさといい顔の表情といい快慶の阿弥陀の良さが感じ取れる仏像だと思います。



展覧会のフィーナーレとあるのは4躰の「円空仏」になる。
「大日如来坐像(浜城観音堂)」「聖観音立像(三蔵寺)」「文殊菩薩坐像(中山寺)」が展示され、薬師如来立像と阿弥陀如来立像が表裏に彫られた両面仏(明福寺)」には思わず息を呑みます。

円空仏は愛知県・岐阜県に集中してはいるが、円空が志摩地区に滞在していたともされ、生涯で12万体の仏像を彫った円空仏が三重にあるのは不思議ではない。
特に三重郡菰野町の明福寺の「両面仏」は円空の良さが伝わる素晴らしい仏像で、後方に鏡を置いて両面が見えるようになっている展示方法も見事でした。

ところで、この日の三重県総合博物館では「基本展示室」が無料公開となっていましたので合わせて拝観しました。
基本展示室は「三重の多様で豊かな自然」「三重をめぐる人・モノ・文化の交流史」「自然とともに生きる」の3つのコーナーがあり、南北の生物相と東西の文化がからみあった三重の自然・文化の魅力が満載です。



エントランスには「ミエゾウ(ステゴドン・ミエンシス)」という古代の象の化石が展示。
来訪先の博物館に好んで行くのは、やはりその土地独特の自然や文化に触れられることが魅力なのかもしれません。

MieMu(三重県総合博物館)の開設5周年の記念特別展『三重の仏像展~白鳳仏から円空まで~』では、古都・「奈良や京都」の文化が流入した独自の仏像文化がよく分かる特別展でした。
仏像展での展示仏のあまりの多さに帰り道、頭の中で仏像が渦を巻いていましたよ。


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『大津南部の仏像-旧栗田郡の神仏』『大津絵-ヨーロッパの視点から-』~大津市歴史博物館~

2019-11-21 06:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大津市は言うまでもなく滋賀県の県庁所在地であり、かつて天智天皇の時代には大津京が置かれた古都になります。
ユネスコ世界文化遺産「古都京都の文化財」に登録されている「比叡山延暦寺」は大津市に所在する寺院になりますし、西国三十三所の札所寺院も「石山寺」「園城寺(三井寺)」「正法寺」と歴史ある古刹が多い。

大津市歴史博物館で開催されている企画展『大津南部の仏像-旧栗田郡の神仏』の旧栗田郡は、現在の草津市・栗東市・守山市の一部が含む地域で、湖南地方独特の宗教圏の影響を受けた地とされています。
栗東市の金勝山を中心とした一帯には、古来から盛んだった山岳宗教に神道が結びつき、飛鳥文化・奈良仏教・比叡山を中心とする密教の影響が非常に強い地であったようです。



琵琶湖から流れ出す瀬田川は淀川を経て瀬戸内海にまでつながる水運ルートになっていたといい、飛鳥や平城京へ木材などを石山寺を拠点として供給していたといいます。
そのため、流通路に乗って奈良仏教が流れ込んで従来の山岳信仰と融合したような形となり、神社仏閣の建立や仏像・神像の制作が盛んに行われてきたようです。



『大津南部の仏像-旧栗田郡の神仏』では「曼荼羅や仏涅槃図などの仏画」「神像や狛犬」「白鵬時代に存在した廃寺からの出土品」、旧栗田郡の寺院に祀られていた「仏像や懸仏」など全40点にも及ぶ多様な神仏を展示。
平安期(10~11C)に造られた大津市京町の九品寺の「聖観音立像」は重要文化財に指定されている美しい仏像で、“写真撮影コーナー”として唯一撮影OKとなっていました。



聖観音立像の説明書きに“ほぼ同時期のNo14.長寿寺像と見比べて下さい。”とあり、見比べてみると“髻の高さ・顔の表情・衣文の彫口”などほぼ同じ時代の仏像とは思えないほど違いが見られます。
湖南地方にはかつて複数の仏像工房があり、それぞれの仏師工房で仏像が彫られていたとされていることの影響がありそうです。

以前訪れた寺院で“野洲川の南側の仏像には「甲賀様式」の仏像の共通点があり、野洲川の北側は「善水寺」の工房が仏像を供給していて、それぞれの工房で特徴が違うと聞いたことがあります。
この仏像は善水寺の薬師如来像と同一工房で彫られたようですが、旧栗田郡の限られた範囲の中でも作者系統の違いによって異なった仏像が彫られていたということになります。
それだけこの地で仏像制作が盛んに行われていたということになるのでしょう。





展示品には珍しい「馬頭観音懸仏」などを興味深く拝見しましたが、写真などでは何度も見つつも初めての拝観となったのが建部大社の「女神坐像(平安期・重文)」でした。
平安時代後期に彫られた女神坐像は3躰あり、長い髪をした淑やかな平安美人という印象です。



ところで、今回の大津歴博の企画展は2本立てとなっており、「大津絵-ヨーロッパの視点から-」が同時開催されています。
2019年の春にフランス「パリ日本文化会館」で大規模な大津絵展『大津絵-日本の庶民絵画』が開催され、それを記念して大津市歴史博物館でもパリ展の展示コーナーを一部再現した大津絵展が企画されたとのことです。
大津歴博では元々常設展で大津絵は展示されていますが、今回は全く別の切り口での美術展となり大津絵の良さを再認識することになりました。



驚かされれたのは大津絵に出てくるモチーフをフィギュアにしたものが数点展示されていたことでしょう。
江戸の頃に店の広告塔として看板代わりに大津絵のフィギュアを店頭に置くことがあったようですが、大津絵の鬼が彫られた像はある意味で天に踏まれる邪鬼が単独で存在しているかの様相である。

 

構成は画題ごとに数点の作品が展示されているので絵面の違いを比較するのも面白いのですが、中には浮世絵師が大津絵の題材を取り込んで作品化しているものもあります。(歌川国安、二代 歌川広重)
大津絵は浮世絵の影響を受けていると思われますが、その大津絵が今度は浮世絵師に影響を与えているのは面白いですね。

また、大津絵には動物を題材にして動物だけを普通に描いた「動物絵」があるのも知らなかった事で、興味深いのは大津絵の有名な題材を合体させたスピンオフ作品まであることでしょう。
「鬼念仏」と「藤娘」が合体した画は、大津絵の代表的なキャラクターのリメイク作品ともいえ、大津絵の自由度の高さが感じられ、構図や配色を意識した大津絵の魅力に溢れています。



エントランスには半丈六の「地蔵菩薩坐像(平安~鎌倉期・園城寺蔵)」が穏やかな姿で鎮座しておられます。
この地蔵さんは像高135cmあり、大津市に現存する坐像では最大の地蔵菩薩だといいます。



図録を買って帰りましたが、大津歴博の図録は毎回、観るポイントや時代による違い・特徴を素人にも分かりやすく解説されているのがありがたい。



小高い場所にある大津市歴史博物館から正面を見ると高校のグラウンドの向こうに琵琶湖。
対岸には神の山である三上山。湖南で見る琵琶湖は湖の幅が狭いですね。




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御朱印蒐集~奈良県桜井市 談山神社~

2019-11-17 17:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 五重塔や三重塔のある寺院は多いのですが、この談山神社の「十三重塔」は何と13にもおよぶ軒を重ねる塔とは一体どんなものなのか?
談山神社へ参拝した動機は十三重塔を見たいという気持ちからでした。
談山神社の御祭神は中大兄皇子(天智天皇)と大化の改新を行った「藤原鎌足」だといいます。

飛鳥の法興寺(現在の飛鳥寺)での蹴鞠会で知り合った二人は、645年の5月に多武峰の山中に登って、「大化改新」の談合を行ったとされます。
談合を行った山ということから後に「談い山」「談所ヶ森」と呼ぶようになり、談山神社の社号の由来となっているようです。



藤原鎌足の死後の678年、「十三重塔」が長男・定慧と次男・不比等によって建立され、680年には講堂が建立されて「妙楽寺」と号されたといいます。
神仏分離令の発令までは神仏習合の寺社であり、廃仏毀釈によって神社となったものの、今も神仏習合の雰囲気が多く残ります。



国宝「十一面観音菩薩像」で有名な聖林寺は「談山妙楽寺」の別院だったというように、「談山神社」は聖林寺から山間の道を数㌔行った場所にあります。
奥地に来たような感のあるこの山で、中大兄皇子と中臣鎌足は極秘の談合をしたことになります。



正面鳥居から境内に入ると、すぐに横道に入ることになり、そこには城郭のような石垣があります。
聖林寺も同じような石垣に囲まれており、これは聖林寺・談山神社共に共通する特徴のようです。



談山神社には本殿・拝殿・末社など13棟と権殿・十三重塔が重要文化財の建造物に指定されており、境内全域に建造物がひしめき合っている。
他にも国宝の「粟原寺三重塔伏鉢(奈良国立博物館に寄託)」や曼荼羅図や刀など重要文化財の美術工芸品も多く所蔵しているといいます。



山際にある「岩座」と「龍神社」は古神道の信仰の姿を今に残した霊地だといい、岩に天上から神を迎え祭祀を行ったとされます。
また岩座を流れる水は大和川の源流の一つとなっているといい、社は飛鳥時代に大陸から入ってきた龍神信仰を結びついたものとあります。





さて、初見となった「十三重塔」はその異質な姿に驚きを隠せませんでした。
建立は678年ですが、現在の塔は室町時代の1532年の再建。
高さ17mの桧皮葺の屋根を葺くのはさぞかし大変な普請だったのではなかったでしょうか。



歴史の上で「七層塔」や「九層塔」を聞いたことや石造りの十三重塔を見ることは多いとはいえ、木造の巨大な塔には驚くしかなく、木造十三重塔としては世界唯一のものだという。
建立した藤原定恵(鎌足の長男)は唐からの帰国後に唐の清涼山宝池院の塔 を模して十三重塔を建てたとされています。



十三重塔を下から見上げるように見ると、反った屋根と層の間の隙間の狭さが特徴的な塔だといえます。
再建建造物とはいえ500年近くその姿を現存させているのはお見事の一言です。



本堂へは朱色も鮮やかな「楼門(重文)」から拝殿へと入って、「本殿(重文)」の正面へ回り向き合うことになります。
この日の参拝者は多くはなくゆっくりと拝むことが出来ましたが、談山神社では年間数多くの大祭が行われ、桜の季節などは大いににぎわうようです。



本殿は豪華絢爛な造りになっており、意外な感じがするほど華やかな造りとなっています。
当初の本堂は701年の創建で現在の本堂は1850年に建て替えられたものだといい、日光東照宮造営の際のお手本となったとされているようです。
再建の時期から考えると本殿と東照宮が“影響を受けあった”ということもあるかもしれませんね。



本殿と向き合う「神廟拝所(旧講堂・重文)」の下は掛け造りの舞台をなっており、太い柱が拝所を支えます。
拝殿の外を縁取るようにして設けられている縁からは古都の山々を見ることができ、風が吹き込み歩いているととても気持ちが良い。





神廟拝所の中は宝物の展示会場のようになっており、内部壁画には羅漢と天女が描かれている。
神廟拝所は元々妙楽寺の講堂であったため、神仏分離前の仏教色の強い場所といえます。
御簾がさげられた厨子の中には談山神社の御祭神である「藤原鎌足像」が安置。



藤原鎌足の妻は鏡王女とされており、摂社「東殿」に木彫りの像が祀られています。
東殿は恋神社とも呼ばれ、縁結びの神として信仰されているが、鏡王女は元は中大兄皇子の妃で後に鎌足の正妻になったといいますから中々複雑な男女関係です。



縁結びの東殿の奥には縁切りの祠がありますから、恋とはいつの時代も難しいものです。
話は戻って神廟拝所には伝運慶作と伝わる狛犬が展示されており、写実的な狛犬ではあるが運慶作かどうかはあくまで伝とのこと。



ところで神社を出て小川沿いの細い道を歩いて行くと不思議な形をした「摩尼輪塔(重文)」が目に入ってきます。
摩尼とは宝珠のことで八角大石柱笠塔婆の塔身には「明覚究竟摩尼輪」と彫られているそうで1303年の銘があるという。
上円部には梵字でアークと刻まれているといい、アークとは大日如来のことになるのでしょうか?



道をさらに進んでいくと「談山神社東大門」へと行き着く。
おそらくここまでが神社の領域だったと思うが、それにしても広い。

表門が城郭風になっているのは、境内にあった城郭風の石垣と同じ意味があったのかもしれない。
また、問の外には「女人堂」の石碑があり、もしかすると過去には女人禁制だった時代があったとも考えられる。



談山神社の表参道には数軒のお茶屋さんがあり、各種の奈良漬や古代米餅・草餅などが売られていたのでしばらく見て回ります。
栃餅があったので2個頼んで持ち帰ろうとすると温めてくださっている。

美味しい状態で食べるのが一番ということでお店で食べることにしたが、2個食べるとさすがに口の中が甘ったるくなってくる。
ところが、うまくしたものでサービスで頂いた奈良漬を食べるとこれが丁度良い具合となるのが面白い。



談山神社には古代神道が大陸文化の影響を受けたもの、仏教と神道の混合と分離、大化の改新にまつわるエピソードなど古代の歴史に想像を広げることができます。
奈良の飛鳥・桜井・宇陀方面には昔ながらの山里風景が残り、穏やかな気持ちとしてくれる場所。
喜ばしいことに奈良には未だ訪れたことのない寺社が膨大にあり、これからも訪れる機会が多いだろうと思う。


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御朱印蒐集~奈良県桜井市 霊園山 聖林寺~

2019-11-13 18:05:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 国宝に指定されている「十一面観音菩薩像」は7躰あり、画像等で見たものも含めて、それぞれの仏像の個性に好き好きはあるかと思いますが、どれも魅力的な仏像揃いです。
安置されている寺院は“滋賀県向源寺、京都観音寺、京都六波羅蜜寺、大阪道明寺、奈良聖林寺、奈良室生寺、奈良法華寺”の7寺となり、拝観できたのは今回の「聖林寺」で4躰目となります。

「聖林寺」は奈良時代の712年、談山妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原定慧(鎌足の長子)により建てられたとされ、後に真言宗室生寺派の寺院となる。
御本尊は「石造地蔵菩薩坐像」となり、有名な「十一面観音菩薩像」は神仏分離令の際に大神神社神宮寺の大御輪寺から移されたもののようです。
明治の神仏分離令の頃は仏像にとっては受難の時代だったといえるでしょう。



「聖林寺」は奈良桜井市の市街地からほんの1~2㌔移動した辺りから山里の風景に一変して、山と盆地の奈良らしい風景の中の小高い丘の上に建つ。
寺院は想像していたほど大きさではなく、ひっそりとした佇まいとなっていますので、「十一面観音菩薩像」を拝観したくて訪れる方が大半なのかと思います。



寺院を取り巻くのは石垣となっているが、これはなぜこういう造りになっているのか分らない。
「聖林寺」は江戸期に再興され、江戸末から明治にかけて「学問寺」として名声を得ていたといいますから、それも影響しているのかもしれません。



庫裡のある方向にも、山麓にあって建物の水平を保つためか石垣は続く。
幾部屋もありそうな建物の中で住持達は厳しい戒律を守って学問に励まれたのでしょう。



寺院の向かいには「地蔵堂」があり、堂の前には石仏地蔵さんが祀られています。
石垣の下などにも石仏は祀られており、御本尊の「石造地蔵菩薩坐像」にあやかって功徳を積むため奉納されたものかと思われます。



小高い丘に寺院があるため、山門に向かって石段を登るとみるみる景色が広がっていく。
山門への石段には花期の終わった蓮の鉢が並び、境内にも花色が垣間見えます。



拝観時間の少し前に到着したため、山門から大和の眺望を楽しむ。
奥に見える山は三輪山か?麓に広がる盆地は狭義のヤマト国だとされ、古代大和政権の中枢部だったといいます。



中心部にあたる場所にある前方後円墳は「邪馬台国の女王・卑弥呼の墓」ともいわれているそうです。
卑弥呼の墓かどうかについては諸説あるようですが、今はビルや住宅が並んでいるとはいえ、古代大和の風景を空想してみるのも楽しい。



山門の横にある石碑の字は「大界外相」は慈雲尊者の遺筆によるもので、これより聖域であることを示す結界であるという。
幕末や明治の時代。歴史的にはごく近世に聖林寺で学問に励んだ僧達がここに居た証ということになるのでしょう。



狭い境内には所狭しを木々が植えられ、整備されて気持ちの良い庭です。
本堂前にある石造りの十三重石塔が境内の庭を引き締め、傍にある灯篭の火袋には鹿の彫り物があり、空海由来の寺院であることを思い起させます。





本堂へは横から入らせて頂くことになりますが、まずは鰐口を叩いて手を合わせる。
扁額の横には陶器製でしょうか、天女の額が2枚掛けられています。





寺院へ訪れるまでは「聖林寺」イコール「十一面観音菩薩像」と考えていたのですが、内陣に安置された御本尊の「石造地蔵菩薩坐像」始めとして、仏像群は実に魅力的です。
中央には丈六の石仏「石造地蔵菩薩坐像」が脇侍 の掌善・掌悪童子を従えてどっしりと構えておられます。
「石造地蔵菩薩坐像」は元禄時代に女人泰産を願い、托鉢による浄財を集めて造像されたといい、その経緯から「子安延命地蔵尊」と呼ばれているそうです。


<観光パンフレットより>

須弥壇の左の脇陣には「阿弥陀三尊(鎌倉期)」、右の脇陣には「如来荒神坐像(室町期)」「毘沙門天立像(鎌倉期)」が安置。
御本尊前には「不動明王立像」「弁財天立像」も安置されている。

内陣の後方には16幅の「十六羅漢屏風(中国 元時代)」が置かれており、外観より広く感じる堂内は圧巻の空間となっている。
堂内から縁に出ると、大和の穏やかな風景が拡がり、一度座るとずっと座っていてしまいそうになる。



「十一面観音菩薩像」は本堂から渡り階段を登って行った先の「大悲殿」に安置されています。
本堂に安置された本尊とは別の場所に観音像が安置されているのは滋賀県の湖北地方に多く見られる形で、そこには廃仏毀釈の嵐が大きく影響しているのだと思います。



天平時代に造像された木芯乾漆像の十一面観音菩薩像は、頭部は小ぶりに見えデフォルメの強すぎない美しいプロポーションをされている。
目元はやや釣り上がり、口はキリッと結んでおられ、繊細に彫られた指は実際の指の長さと同程度に見えて必要以上に誇張はされていない。


<観光パンフレットより>

堂内は半分がガラスで仕切られており、下からの光に照らし出された観音さまが暗い堂内に浮き上がるように見える。
京都観音寺の「十一面観音菩薩像(国宝)」と比較されることが多いと言うが、受ける印象としては全く違うもので等身大の人間を美しく表現したものとの感を受ける。
尚、化仏三体を失っておられるそうではあるが、神仏分離令によって紆余曲折の時代があったのかもしれません。


<観光パンフレットより>

「大悲殿」は障子を開けて中に入りますが、外側には赤い鉄の扉がある。
せっかくなので鉄扉を閉めて、暗がりの中でライトアップされた観音さんと向き合う時間は素晴らしいものとなりました。
聖林寺の前庭には石の十一面観音がありますので、姿を確認して寺院を去ることとする。



奈良は奈良市エリアに大寺院や観光名所が多くあって興味深い地域になっていますが、山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリアにも大寺院は多いとはいえ、観光客が押し寄せる寺院は少ないように思います。
その長閑な一帯は里山風景の広がる地ともいえ、郷愁を感じる原風景が多く、各寺院には名だたる仏像が数多く安置されている地域であり、心の晴れる清々しい場所だと思います。


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『湖東三山 金剛輪寺の名宝-滋賀県立琵琶湖文化館寄託品里帰り特別公開-』展~愛荘町歴史文化博物館~

2019-11-10 17:10:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大津市の琵琶湖沿いに琵琶湖にせり出した城のような建物物の「琵琶湖文化館」があり、仏教美術など国宝・重文を含む約1万1千点が保管されているといいます。
琵琶湖文化館は老朽化のため2008年から休館し、「新生美術館(旧近代美術館)」に移動する計画が頓挫してしまい、保管された文化財は11年以上の間休眠状態となっています。

愛荘町にある「歴史文化博物館」では「金剛輪寺」から「琵琶湖文化館」に寄託されている文化財の『里帰り特別公開』展が開催され、休眠文化財のごく一部が公開されました。
「愛荘町歴史文化博物館」は小さな博物館であるにも関わらず、定期的に企画展が行われる博物館で、テーマにより時々訪れている博物館です。



30点ほどの展示物は「珠玉の工芸」「信仰と教学の世界」「聖なる隠者 十六羅漢」の構成で展示され、1点を除いて金剛輪寺から琵琶湖文化館・愛荘町歴史文化博物館への寄託品です。
愛荘町歴史文化博物館は金剛輪寺の惣門を抜けた参道沿いにあるため、金剛輪寺への石段には湖東三山の紅葉狩りに訪れた参拝客が数多く来られていました。
残念ながら紅葉の季節にはまだ少し早かったようですが、シーズンともなれば湖東三山は人で溢れかえることでしょう。



博物館を取り囲む屋外回廊は歩くことができ、前方にある庭園「玉水苑」の中も歩くことが出来る。
散策しているとジョウビタキの♂の可愛らしい姿を見つけたものの、すぐに飛ばれて探鳥はあえなく終了。





朱色の橋の向こうに展示棟(いざないの館)があり、企画展・常設展が開催されています。
こういった地方の博物館は地域に根ざした文化財を中心に展示されますので、大きな博物館での特別展とはまた一味違った雰囲気があるのが興味深いところです。



『珠玉の工芸』の章に展示されているのは、梵音具の「孔雀文磬(くじゃくもんけい)」や荘厳具の「金銅透彫華鬘(こんどうすかしぼりけまん)」など。共に鎌倉期の重要文化財の工芸品で琵琶湖文化館からの里帰り。
僧侶などが手に持って仏前で献香するための供養具だという平安期の「金銅瓶鎮柄香炉」は現存する柄香炉の中でも古いものだといいます。

最初に見た時に太鼓かと思ったのは「漆塗太鼓形酒筒」で、室町期のもので金剛輪寺の所有となっているが、当時の天台宗寺院では酒がふるまわれていたということでしょうか?
“飲酒戒(不飲酒戒)”という言葉があるように寺院では禁酒かと思っていましたが、特別な席では飲酒が可能だったのかもしれません。



『信仰と教学の世界』の章では、経典や曼荼羅図と共に曼荼羅の元図や配置図を示した古文書が展示されている。
また、結ぶ印をイラスト化したような「胎蔵界印図」や馬の医学書「医馬抄」や作法を示した教科書のような「次第法」など見慣れぬ文化財の展示もある。

仏像としては今回の特別公開では唯一の展示物「阿弥陀如来立像(鎌倉期)」は、金剛輪寺本堂の後陣に安置されている仏像で寺外では初公開だという。
像高は約90cmでふくよかなお顔をされた整った阿弥陀さまですが、肉髻珠は抜けており、両手と左足は金箔が貼られていることから後補なのかとも思われます。



最後の『聖なる隠者 十六羅漢』の章では金剛輪寺と西明寺の「一六羅漢像」の仏画が比較して観られる。
金剛輪寺本(江戸期)は一幅に一人の羅漢が描かれ、西明寺本(室町期)は一幅に二人の羅漢が描かれている。
色彩が鮮やかなのは岩山の座する西明寺本で、構図が良いのは金剛輪寺本といった印象です。


<金剛輪寺>


<西明寺>

博物館の隣には金剛輪寺の参道があるが、参拝はしなかったため惣門から出て行くことになる。
駐車場には自家用車や観光バスがたくさん停まっていたが、今年の「血染めの紅葉」の見頃はいつになるでしょう。




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『康慶・運慶の国宝仏』~興福寺「南円堂・北円堂」同時開扉~

2019-11-07 17:53:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 奈良興福寺の「南円堂・北円堂」では6年ぶりとなる同時開扉が行われており、2017年の『阿修羅 -天平乾漆群像展』以来2年ぶりに興福寺へ参拝しました。
『阿修羅展』は国宝館の改修工事に伴い、仮講堂の宗教空間の中での展示がされ、工事中の中金堂の横から入っていった記憶があります。
その時には南円堂も北円堂も開扉はされていなかったため、両堂に安置されている仏像は今回が初めてということになり、急遽思い立つと急ぎ近鉄電車に乗り込んで奈良へと向かいました。



南円堂は西国三十三所9番の札所にもなっており、年に一度の開扉と数年に一度の特別開扉のみだといいます。
そのためもあってか、御朱印を頂こうとする方々が長蛇の列を作り、時間を置いて前を通っても列が絶えることはありませんでした。



興福寺のランドマークとなるのは「五重塔」で、国宝の指定を受けている。
最初の五重塔は730年、光明皇后の発願により建立されたといい、現在の塔は1426年の再建。
塔の高さは50.1mあり、日本の木造塔としては東寺の五重塔に次ぐ高さだといいます。



前回に参拝した時にはなかった「中金堂」は2018年10月に落慶されて、奈良平城京らしい雰囲気を醸し出している。
中金堂は藤原不比等によって建立されたものの、その後6回に渡る焼失と再建を経て、天平様式を踏襲して復元されたといいます。



南円堂は創藤原冬嗣が813年に建立したといい、現在の建物は1741年に再建された重要文化財の建築物です。
堂内には康慶(運慶の父)作の国宝「木造不空羂索観音坐像」を中心に、同じく国宝の「木造四天王立像」が四方を守護し、国宝「木造法相六祖坐像」が不空羂索観音の横に並ぶ。



「不空羂索観音坐像」は像高336cmと大きな坐像。桧材の寄木造の仏像で三目八臂の特異な姿をされています。
宝冠には阿弥陀如来の化仏を付けて、高い髻をした重厚感のある坐像です。



東大寺の不空羂索観音立像とは随分と雰囲気が異なりますが、奈良時代の天平仏と鎌倉時代の慶派仏の表現方法の違いが当然あり、それぞれの時代の仏像の凄みが伝わってきます。
四天王立像は像高約2mと迫力のある仏像となっており、法相六祖坐像の方も鎌倉リアリズムの見事な仏像でした。



対する「北円堂」も南円堂と同じく八角堂で、藤原不比等の一周忌にあたる721年に創建されたといいます。
現在の北円堂は1210年に再建された御堂で国宝の指定を受けています。



北円堂には運慶作の国宝「木造弥勒仏坐像」を本尊として、国宝「木心乾漆四天王立像」が四方を守護し、弥勒仏の脇侍である「木造法苑林菩薩・大妙相菩薩半跏像(室町期)」が脇を固めます。
最も見応えがあるのは運慶作の「木造無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)」であり、見事なまでのリアリズム彫刻に魅入ってしまいます。

気になったのは四天王の内の持国天と多聞天だけが沓(くつ)を履かずに草履を履いていることでしょうか。
持国天と多聞天を二天像として本尊の左右に安置することがありますが、金剛力士的な意味合いで草履姿なのかもしれません。



ところで、奈良といえば鹿ですが、東大寺ほどではないにせよ興福寺にも鹿の姿がありました。
南円堂へと向かう石段の途中に石仏が祀られた「延命地蔵尊」があり、地蔵尊や石仏の合間に生えている草を求めて2頭の牝鹿が食事をしています。





寺院を出た後に猿沢池を歩いてみましたが、木々が大きく育っていて五重塔が隠れてしまうのが残念です。



大勢の観光客で溢れる“東向商店街”でお土産を買って近鉄奈良駅まで戻ってくると“せんとくん”がお出迎え。
せんとくんは奈良県のマスコットキャラクターで、特技はダンスだとか...。



今回の興福寺は参拝に訪れたというよりも、仏像を拝観にきたという感が強かったと思います。
平日にも関わらず人が多く混雑していたのには驚きましたが、国宝揃いの慶派の仏像群を2つの八角堂で拝観でき、思い切って訪れた価値があったと思います。


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金勝山の滝「落ヶ滝」~逆さ観音-落ヶ滝~

2019-11-04 16:16:16 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 金勝山の山に慣れるために、まずは「逆さ観音」を訪れたが、あまりにもあっさりと到着してしまったため「逆さ観音」から「落ヶ滝」へと向かうことにした。
「オランダ堰堤」から「逆さ観音」までの道は約30分。心地よい遊歩道を歩くのみでしたので、「落ヶ滝」へも同じような道が続いていると思い込んだのが間違いでした。

結果的に、金勝山は軽いハイキング気分では絶対に行けない山だということが身を持って体験出来ましたし、事前のチェックが必要な山だと思いました。
ピークは最高でも600m程度ですのでけっして高山とは言えませんが、一足山中に入ると気の抜けない山だと学習した次第です。



マップを見ながら「たまみずきの道」という九十九折の歩道を進みますが、アップダウンの少ない道とはいえ眺望はなく、同じような光景の道です。
“どれだけ歩いたら分岐点に着くのだろう。”と少し疲れてくるが、戻るわけにもいかず先へと進む。



道中、植物は多いものの花期のものは季節柄見られない。
風で落ちたのか?未成熟の栗かクヌギの実が道に転がっているのみ。
気になったのはシダの大きな群生が時々あること。これは道中の目印になりました。



分岐点から「落ヶ滝線」に入ると、道が急に山道らしくなってくる。
“やっぱこういう道がいいな。”と歩き出すが、それは一瞬で終わりました。



コースは何度も小川と交差するため、石渡りして越えていく。
写真の川は踏める石があったけど、渡る石がないところではつま先歩きしてしのぐことになった。



傾斜もきつくなってきた道を進むと、目の前に大きな巨岩。ロープが張ってある。
ロープを掴んで登れることは登れるが、降りる時は大変そうだ。...と登ってから思う。



下は登りきった巨岩の上ですが、この岩のとんでもない大きさに驚きます。
横に川が流れており、おそらく増水している時は今登った道は川に化けるのではないでしょうか。



巨岩登りが終わっても厳しい道が続き、“これは道なのか!”と言いたくなるような岩石の道があります。
しかも岩肌が濡れているので滑りやすく、掴まるものもないこの道。これも道なのか!



何度目かの川渡りをした先には木の根が剥き出しになった道へと続く。
思わず鞍馬山の参道を思い出しながらも、あまり木の根を踏まないようにして歩いていく。



最後の坂道を登りきると見えてくるのは巨大な一枚岩の上から落ちてくる「落ヶ滝」の独特の姿。
水量は多くはないが、約20mの高さから落ちてくる滝は見応え充分です。



ここまでくるのに汗びっしょりとなっていたため、下の小さな滝壺まで行って顔を洗わせていただく。
「落ヶ滝」は直下してくる滝というより、岩肌を水が滑り落ちてくるといった姿で、独特の色合いをした岩肌に見惚れてしまう。



強く印象に残るのは、自分だけかもしれないが、濡れた岩肌の部分が“蓮華座に座る仏の坐像”に見えてしまう事。
その印象ゆえ、神が宿る滝というよりも仏の宿る滝という思いがする。



「落ヶ滝」の看板の後方に道があったので登って別角度から滝を見る。
急な傾斜でずり落ちそうなこの道は、実は先に通じておらず、滝を上側から見たい人が踏み固めた道のようです。

この位置から見ると、滝の左上に丸みを帯びた巨岩が重ねられているのが見えるが、不安定そうに見える巨岩がよく落ないものだと感心する。
ここまで来れて良かった、素晴らしい姿を拝ませてくれてありがとう、無事に帰れるようお守りください、いろいろな思いを込めて手を合わせて「落ヶ滝」を後にする。



帰り道、遊歩道に出るまでの山道はもう気合で降りきるのみ。武道の経験などないが苦しい場所では“押忍!押忍!”とつぶやきながら降りていく。
遊歩道まで出るとあとは単調に歩くのみとなるが、途中で当方を和ませてくれるかのようにキンモンガが姿を見せてくれた。
キンモンガは金色の紋が特徴的で綺麗な蝶だが、分類上は蛾の仲間で低山でよく見かける。



今回、金勝山の一部を歩いたことで最短ルートでなら「狛坂磨崖仏」まで歩けるだろうと思えるようになりました。
これまでは「栗東歴史民俗博物館」にあるレプリカの「狛坂磨崖仏」で辛抱していましたが、いつの日か間近に拝することに現実味を帯びてきたような気がします。


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金勝山の磨崖仏「逆さ観音」~オランダ堰堤-逆さ観音~

2019-11-02 16:23:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県栗東市にある「金勝山(こんぜやま)」は、竜王山・鶏冠山・阿星山などの湖南アルプスを総称する山系のことだといいます。
金勝山は古来より「金粛菩薩(良弁)」の霊地だとされており、山中にある「金勝山 金勝寺」は、聖武天皇の命により紫香楽宮の鬼門鎮護のために良弁が創建(733年)した寺院だと伝わります。

「金勝寺」は役小角が修行した霊跡とされ、上記の金粛菩薩の伝承があることから、湖南地方で盛んだった修験道に始まり密教へと引き継がれていった湖南宗教圏の主要な寺院だったと考えられます。
そんな信仰の背景と湖南の山々に石の山が多く磨崖仏の文化があったことが影響して、金勝山には数多くの磨崖仏が残されています。



金勝山といえば「狛坂磨崖仏(平安時代初期)」が有名ではあるものの、山を知らない人間としてはいきなり山を縦走して行くのは不安がある。
そこで、まずは山の入口から距離の短い「逆さ観音」へ参って、山の様子が分かってから改めて「狛坂磨崖仏」へ行こうと考えた訳です。



金勝山は、持統天皇の藤原京や平安京の南都七大寺等の建設の頃より、木材の供給源として樹木が伐採されてきたため、一時は一大“はげ山地帯”となってしまったといいます。
山から樹木がなくなってしまったことにより、山から大量の土砂が流れ出して水害に苦しむこととなり、明治の時代になってから樹木の植栽と共に堰堤の建設がされたそうです。

「オランダ堰堤」は、オランダ人技術者ヨハニス・デ・レーケの指導により1889年に完成した砂防施設として土木学会が選奨土木遺産に選定しているとありました。
また、金勝山の樹木の植栽には多種の樹種が植栽されていることから、よくある杉の植林が並ぶ山の風景とは違い、再生された自然の山ともいえる姿をしています。





「オランダ堰堤」の砂防工事が「逆さ観音」に大きく影響しているのですが、まずは堰堤を横目に道を進む。
整備された遊歩道は歩きやすく、堰堤の辺りは子供連れで遊びに来るような場所となっており、ウォーキング気分で気持ち良く歩ける。



堰堤は上流に向かって何ヶ所かに設けられており、砂防施設群に沿って遊歩道が作られている。
30分ほどの心地よいハイキングで「逆さ観音」への分岐点に到着。



この道は元々は、金勝寺の横参道として作られたといい、磨崖仏は金勝寺への道標だったといわれます。
とはいえ、現在の歩道を利用しても金勝寺へは何時間かは要すると思われますので、広大な山中を駆け巡った修行者のキツさが伺われます。



「逆さ観音」はかつては逆さではない磨崖仏だったのですが、「オランダ堰堤」築造時に石材が不足し、山から石を切り出したことによってバランスを失い、山上からずり落ちて逆さになったという。
本来の姿を知る由はないとはいえ、かつては山の斜面に神々しく祀られていたのでしょう。



磨崖仏は中尊に「阿弥陀如来」・脇侍に「観音菩薩」と「勢至菩薩」を配した三尊形式にも関わらず、「観音」と呼ばれているのは“逆さになっても大洪水から守っていただいている”と敬う心からだとか。
鎌倉時代の初め頃に彫られたという「逆さ観音」は劣化してはきているものの、その姿はくっきりと読み取れる。





磨崖仏は3mはある巨岩に彫られており、中尊は1.4mほどある。
一番左の菩薩の部分から先は「オランダ堰堤」築造時に割取られたようであり、身を削られながらも衆生を見守る姿は痛ましくも美しい。



磨崖仏の裏側や周辺にころがる巨石群を見て歩いて、逆さ観音を後にする。
金勝山の山系には数多くの磨崖仏があるので、一瞬「狛坂磨崖仏」まで行こうかとの思いが頭をよぎったが、マップを見ると片道2時間はかかりそう。
行くだけなら可能だが、山は同じだけの距離を戻ってこないといけないので、体力・時間を考えて諦める。



とはいっても金勝山まで来て、遊歩道をちょっと歩いただけでは余力があり過ぎて物足りない。
近くを流れる渓流を見ていたら、山中にある滝が見たくなった。
マップでは約1時間で行けそうな所に「落ヶ滝」という20mくらいの名爆があるという。



“まぁ行ける所まで行って、無理そうなら戻ろう。”くらいの軽い気持ちで行ったが、これが山の経験のない素人の恐ろしいところ。
心地よい遊歩道とは打って変わった厳しい山道に驚くと同時に大いに苦しめられましたよ。...続く。


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