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姉川の戦いは信長軍の勝利に終わったものの、堅固な山城であった小谷城を落とせなかったとされますが、越前の朝倉氏を滅亡させた後に、羽柴秀吉の軍勢の急襲により落城し、久政・長政は自刃したという。
小谷城址では秋のイベントで「小谷城シャトルバス」が運行していて“番所”までバスで行け(期間外はマイカー可)、イベント期間中は小谷城跡の要所で地元語り部ガイドがご案内をしてくれます。
城址ファンではないものの、城跡を巡りながら小谷山の山頂を目指そうという、ちょっと観光登山のようなハイキングに出かけてみました。
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好天に恵まれた連休最終日とあって駐車場には他府県ナンバーの車が多く、バスを待つ人(ほぼ満員)や麓から登山される方、出陣の準備をする「長浜武将隊」の方などでにぎわっていました。
係のおばさんに山頂までの時間を聞くと“本丸から1時間くらいかなぁ。最後の登りはキツイですよ。”とのことでしたのでトータルで1時間半くらいを想定してバスに乗り込みます。
バスはたった5分の道のりでしたが、心地よい晴天がそうさせているのか和やかな雰囲気で林道を進み、下車した後は“番所”を通って“御茶屋跡”を通過する。
“番所”はかつて登城者の検問所があった場所だといい、“御茶屋跡”は主郭の最先端に位置する曲輪の軍事施設で、かつては庭園もあったとされています。
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道は石がゴロゴロとしている場所があるものの、広くて歩きやすい整備された道です。
シャトルバスで来られた方は城跡を目的に来られている方が大半ですので、スタスタと歩いていた当方は集団から抜け出して城跡を巡っていくことになります。
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“首据石”は初代・亮政が六角氏との合戦の折、敵方に内通していたかどで家臣の今井秀信を殺害し、首をこの“首据石”にさらしたと伝えられているという。
織田信長が台頭し始めた戦国時代の近江国は、北に浅井氏・南に六角氏が覇権を争っており、信長は長政とお市の政略結婚で同盟を固める。
しかし、長政は信長が浅井氏の盟友である越前・朝倉氏を攻めたことで同盟は破綻して、お市は数奇な人生に翻弄されます。
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長政の妻や子が居住したとされる“大広間”(「千畳敷き」と呼ばれる曲輪)の前には“黒鉄御門”と呼ばれる御門跡が往時の小谷城の面影を残している。
浅井家が滅亡した後、長浜の地は羽柴秀吉に与えられますが、秀吉は琵琶湖に面した長浜城を築城して、小谷城は破壊して廃城にしたといいます。
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この辺りにおられた地元語り部ガイドの方に“桜馬場跡の端まで行くと景色がいい場所があるよ。”と教えてもらい“桜馬場跡”の端まで行ってみる。
見降ろす景色の正面にあるのは虎御前山で、信長が小谷城を攻めた時に最前線の砦を作った山。その奥には琵琶湖に浮かぶ竹生島と琵琶湖近くの山本山が見えます。
小谷城に籠城したものの、すぐ目の前に自軍を遥かに凌ぐ兵力の織田軍が迫っているのは恐怖としかいいようがなかったでしょう。
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南東方向には奥に伊吹山、田園地帯を挟んで見えるのは「姉川の合戦」で浅井・朝倉軍が軍議を開いた大依山と岩崎山。
右の田園地帯の奥には小谷の支城の横山城のあった横山。姉川の戦いで勝利した信長は横山城の城番として秀吉を配置したという。
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“本丸跡”は落城寸前まで長政が居住していた場所で、高さ12mの位置に南北40m・東西25mの広さを持ち、別称「鐘ノ丸」とも云われるそうです。
ただし場所は広いけれど、広場があるだけで何もないのでかつての姿は想像するしかない。
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“大堀切跡”は長政の本拠である本丸と、久政の籠る小丸を区切る堀跡とされているが、夜半に攻め入った秀吉軍により占拠されてしまったという。
これにより久政軍と長政軍の親子は分断され、小谷城の落城へとつばがる。この際にお市と浅井三姉妹は信長軍へと引き渡される。
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中丸や京極丸から回り込んだ場所には“大石垣”の一部が残る。
野面積みの大石垣は自然石をそのまま積み上げているので、手や足を掛ける場所が多く登りやすい感じがするが、排水性が高いため崩れにくいという利点があるそうです。
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城址の最後の砦は“山王丸”であるが、石垣が破壊されて岩がゴロゴロと転がり、一種独特の姿をしている。
ここには廃城前に山王権現が祀られていたといい、現在は麓の小谷寺の一角に祀られているという。
小谷寺には美しい「如意輪観音像」が安置されており、コロナで御開帳が中止されているものの、惚れ惚れするような仏像です。
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山王丸から先はいよいよ急階段の登りが始まります。
麓で地元の方に聞いた時に、“最後はしんどい山道ですよ。”と聞いていたが、ラスト600mから始まる木段は息が切れて何度も立ち止まることになりました。
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湖北の山では熊の出没情報を時々聞きますが、小谷山も例にもれず熊に遭遇する可能性のある山だと聞きます。
熊に遭遇したらどうしようとちょっと怖さがあったのですが、この日は山頂まで登られる方がチラチラとおられましたので、不安は解消。
雑談も出来ましたのでほのぼのとした楽しい思いをさせて頂きました。
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大嶽(おおずく)城跡は初代の亮政が1523年頃に築城したと伝えられている。
信長の小谷城攻めの時には朝倉氏が布陣したが、形勢不利とみた朝倉軍は一乗谷へ撤退。信長軍は追撃して朝倉氏の滅亡へとつながる。
山頂へ着くと何やらにぎやかな声。山仲間なのでしょう70代くらいのおじいさんやおばぁさんがガヤガヤとやっています。
楽しそうな姿を見ていると、年を重ねてもやはり大事なのは健康なんだと実感します。
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小谷山は500mにも満たない低山とはいえ、最後の急坂を登ってきたので達成感は充分に感じられます。
紅葉の季節に登れば、また違った意味での楽しみがあるような山です。
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また、小谷山は登る途中に何ヶ所か眺望の良い場所があるのも魅力的です。
地元の方の話だと、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」(平成23年度)の時に、かなり整備されたそうで、放映前は“桜馬場”などは藪が茂り入ることも出来ない場所だったそうです。
この方角は桜馬場からも見えましたが、標高が高くなっているため西池まで見えるようになった。
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北西方向には山本山系の山々と奥には葛籠尾と奥琵琶湖。
琵琶湖には竹生島が浮かぶように見え、手前には田園地帯が広がっている。
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本丸跡まで下山してくると、「長浜武将隊」の面々が勢揃い。
石垣の前には武将・鎧姿の姫・足軽・前田利家?が睨みを効かせており、足軽はこちらに槍を向けている。
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石垣の上には毛利勝永?と明智光秀?の武将と子供の武将。
兜の前立を見てすぐに誰か分かる知識はないので武将の名は正確ではないと思いますが、格好が決まってますね。
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「長浜武将隊」の方々には大サービスして頂いて、石垣の上に登ってもらって全員集合の記念撮影です。
日本五大山城にも数えられる小谷城の城跡に武将が揃い、石垣の上から見降ろされると戦国の世にタイムスリップしたような楽しさがあります。
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観光登山を楽しんだかのようにしてシャトルバスの発着点である“番所跡”まで戻ってきたが、ちょうど昼時でバスの運行がなく30分待ち。
地図を確認すると林道を下って望笙峠まで下りると“追手道”という旧道に入れそうでしたので、駆け足で林道を下って追手道から下山する。
追手道は急坂で石がゴロゴロとした歩きにくい道でしたが、麓から登ってもよかったかもしれませんね。