僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~長浜市 木之本地蔵院(長祈山 浄信寺)~

2016-09-30 19:38:38 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近畿地方で暮らしてきた人はご存知だと思いますが、近畿地方には「地蔵盆」という毎年8月の後半に行われる古くからの祭事があります。
地域(自治会レベル等)に祀られている“町内の街角のお地蔵さん”の縁日のことで、小学生にとっては夏休みの最後のイベントで、楽しくもあるけど、夏の終わりを感じて少し寂しい気分になるお祭りだったように思います。

自治会で行う地蔵盆は町内だけで行う小規模お祭りですが、長浜市の木之本にある木之本地蔵院で行われる大縁日は規模が大きく、観光案内などによると毎年10万人の参拝者でにぎわうそうです。
JR北陸線の木之本駅から木之本地蔵院までの徒歩5分ほどの参道に露天が並び、門前町が縁日の期間中おおいに盛り上がりをみせてくれます。



木之本地蔵院は“木之本のお地蔵さん”として地域に定着していますが、正式には「長祈山(ちょうきさん)浄信寺」という時宗のお寺になります。
時宗は鎌倉末期に一遍上人が開祖となって興した宗派だといわれていますが、一遍上人は宗派としての発展よりも「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」・「捨聖(すてひじり)」と尊称されるように、遊行(ゆぎょう)により民衆を導いた方とされています。



木之本地蔵院の縁起には、天武天皇の時代(7世紀後半)難波浦(大阪府)に漂着した地蔵菩薩像を仏法のご縁深い場所に安置するために、奈良・薬師寺の祚蓮上人(それんしょうにん)に諸国行脚を命じます。
上人が北国街道を下ってきた時に柳の大木があり、柳の元へ御仏体を降ろして休憩していたら、仏像は動かなくなったため、この地こそ地蔵菩薩の有縁の地と定めて、伽藍を建立したのが始まりとされています。



また弘法大師(空海)も嵯峨天皇の時代(812年)に霊躰破損のおびただしい仏像を修復し、地蔵本眼経を書経して奉納したとの伝承があります。
寺の縁起抄にはありませんが、898年に菅原道真が参拝し、山号・寺号を長祈山 浄信寺と改号したという伝承もあるようです。



しかし、戦国時代の賤ヶ岳の合戦により焼失してしまい、1601年豊臣秀頼の命により片桐且元が再建。
豊臣の時代に再建された寺社には片桐且元の名がよく出てきますが、その建物も再び焼失して、現在の建物は宝暦年間(1751年 - 1764年)に再建されたものだそうです。



本堂には「御戒壇巡り」があり、全長56.7mの漆黒の闇の中を歩くことになります。
御戒壇巡りは「自分自身を省みて積み重ねた罪障を取り除くための精神修養の道場です」と書かれてあり、一人で中を歩いていきました。
真っ暗な闇の中を歩いて行って御宝印を封じた鍵前に触れてホッと一息、少し歩いて光が差し込んできた時にまたホッとする。



木之本地蔵院の御本尊は「地蔵菩薩」ですが、秘仏であるため本尊の写しとして建立されたのが「地蔵菩薩銅像」だそうです。
高さ6mとされる銅像で、第二次大戦中に供出命令を受けたものの、真言宗阿ジャ梨班目日仏(まだらめにつぶつ)上人および東上勝子夫人(東條英機の妻)の援助もあって供出をまぬがれたそうです。

木之本地蔵院は眼の仏様としても有名で、「身代わり蛙」という片目をつむった蛙の陶器が縁起物となっています。
この蛙は「眼が地蔵様のご加護で守られるように」と身代わりの願をかけ片目をつむっているということです。
大仏さんの足元や周辺には、数え切れない程の「身代わり蛙」が奉納されていました。



そんな縁起もあって、手水舎には竜ではなく蛙の口から水が出ていますが、これはちょっと珍しいですね。



境内の一番奥には阿弥陀堂があり、寺内には平安時代の作といわれる阿弥陀如来立像と阿弥陀如来坐像が祀られています。
大きな屋根ですので驚きましたが、屋根の一番上で野鳥(イソヒヨドリ)が綺麗な声でずっと囀っていたのが可愛らしい。



「木之本」の地名の由来は、木之本地蔵院の縁起に出てくる“地蔵菩薩が動かなくなった「柳の大木の元」”だとする説もあります。
伝承のような話からではあっても、信仰の根付いた場所ならではの話かと思います。


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ニラの花に集まるタテハチョウとシジミチョウの仲間たち~

2016-09-28 20:00:20 | 花と蝶とトンボと昆虫
 早春にカタクリやショウジョウバカマが咲きだす頃に始まる蝶のシーズンは、彼岸花やニラの花が終わる頃に閉幕してしまいます。
ということは3月の後半から10月初旬くらいが蝶の季節になりますので、今は最終コーナーを曲がってゴールに向かってるってとこですね。

ニラの花が咲いて、独特の匂いを漂わせると蝶たちが集まってきますので、蝶にとっては好みの花ということになるのでしょうか。
一般種の蝶ばっかりではありますが、次々と蝶が集まってきてましたので、乱射でパチリ!



まずはミドリヒョウモンからですが、この蝶は初夏の山と秋の平地の2回見ることが出来ますね。
初夏と秋のミドリヒョウモンは、違う場所で繁殖しているのか、同じ集団が高低差で移動しているのかは分かりません。



 似たような翅の模様の蝶でツマグロヒョウモンの♂。
 同じツマグロヒョウモンでも♀は翅の模様が全く違い、別の蝶に見えてしまいます。



黄色系のタテハチョウの仲間は似たようなやつが多いのですが、下はヒメアカタテハ。



 アカタテハも系統はよく似た蝶ですね。



 タテハチョウの仲間の最後はキタテハ。



ニラの花にはセセリチョウの仲間も来てましたが、そっちはパスしてシジミチョウの仲間です。
まずはウラギンシジミ。翅の裏面は真っ白で表裏全く違う翅の模様をしている蝶です。



ベニシジミは季節型で春型と夏型で翅の色合いが大きく変わりますが、こいつは春型に近い色合いですので秋型になるのでしょうか。



ツバメシジミの♀をパチリ!
後翅にある尾状突起からツバメの名がついているとか。



おまけで真っ赤なナツアカネをパチリ!



もひとつおまけでアキアカネをパチリ!



昆虫を探して楽しむ季節もそろそろ終わりに近づいてきてはいますが、あともう少し楽しんでおきたいですね。


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エゾビタキとコサメビタキをパチリ!

2016-09-26 06:50:00 | 野鳥
 楽しみなシルバー・ウィークでしたが、残念ながら最終の日曜日以外は晴天に恵まれませんでしたね。
朝、外の暗い曇天模様を見て一喜一憂されていた方も多かったかもしれません。
湖北でも彼岸花が満開の時期になり、群生のあるところでは周囲が真っ赤に染まる心躍る季節ですから、“たまには晴れてくれよ”といいたくなるようなSWでした。



シジュウカラやエナガ、コゲラの姿は多かったのですが、季節の野鳥の出が渋い中で、何とか出てくれたのはエゾビタキでした。



シーズンの定番の鳥なので、とりあえずは会えてよかった。
“ピントが枝にいってるよ”なんてのは、この際なしですよ。



コサメビタキは何度か見かけましたが、枝陰にいるのが困りものです。
姿は何度か見せてくれましたので愛想はよかったかな。





早ければ、今週にはヒシクイが飛来。来週以降にはコハクチョウが飛来するかも?
紅葉の季節はまだ先の彼岸の季節、野鳥の世界では冬の足音がヒタヒタと近づいてきた時期になりましたね。


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ハンミョウとイノシシ(ウリ坊)をパチリ!

2016-09-23 18:52:52 | 花と蝶とトンボと昆虫
 今年はハンミョウと縁があるようで、またハンミョウと出会うことが出来ました。
山沿いの道を歩いていたら、ぱっと飛んできて目の前の地面に留まったので、あっハンミョウ!としばらくその綺麗な姿を楽しませてもらいました。

ハンミョウには「道教え」という別名があって、これは人が近づくと少し飛んで、近くの地面に着地することから道を教えているように見えることからきているようです。
確かに「道教え」の動きをしていましたが、さてこのハンミョウは当方に道を教えて、どこへ連れて行ってくれるというのでしょうね。



もう甲虫の姿が見れる季節ではなくなってきているのにハンミョウが見られるのを不思議に思いましたが、ハンミョウは冬期には成虫のまま土中で集団越冬する甲虫だそうです。
とはいえ、今シーズンはもう見納めになるかもしれませんね。



前回は横からの写真が撮れなかったので、しゃがみこんでパチリ!
少しだけ大アゴが見えてますが、正面からだとさすがに飛ばれてしまいます。



さて、林道を車で進んでいくと、ゆるやかな崖の上をウリ坊が1頭駆けていきました。
帰り道にも同じ場所に見えましたので、今度は離れた場所に車を停めて崖まで歩いていくと...。
崖の向こう側では、案の定、木の根をほじくって食事中です。距離5mもない。



まだ縞模様のあるウリ坊とはいえ、体長は70cmくらいあり威嚇されるのも不安でしたが、もしも親のイノシシが近くにいて攻撃してきらどうしようと思いつつも...見てしまいましたわ。
草の陰になって全身が写らないのですけど、無理な姿勢で撮ったらこっちが崖から落ちちゃいますしね。



気づかれた!と思った瞬間、“ブギ~”とか“ブギャ~”みたいな鳴き声を上げ、このイノシシは崖をくだっていってしまいました。
成獣ではないとはいえ、声を上げて勢いよく動かれるとちょっとビビってしまいますね。


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稲穂の横を駆け抜けていくキツネ!

2016-09-21 18:30:30 | 野鳥
 稲刈りが終わった田圃が増えてきていますが、稲刈りの独特の匂いってありますよね。
稲刈り中の田圃の脇を通る時にあの匂いがしてくると、妙に懐かしさを感じてしまいます。
もっとも当方は農家の出ではないので郷愁にひたる理由はないはずなんですが、思い起こしてみると...。

子供の頃には近所にまだ田圃がわずかに残っていましたから、稲刈りが終わるのを待ちかねるように近所の子供たちが集結して遊んだ記憶が刷り込まれているのかもしれませんね。
おそらくそんな遊びをしていた我らガキどもは、みんな藁まみれ・泥まみれになっていたことでしょう。



田園地帯で野鳥を探していたら、民家の集落からキツネが一頭飛び出してきました。
まだ稲刈りの済んでいない田圃に沿って走って行き、畦まで来ると今度は畦に沿って走り去って消えていきます。



昔の田圃を駆け回っていたのは子供たち、今は田圃を駆け抜けるのはキツネやイタチ。
子供の頃の当方たちは、動物状態で遊んでいたということになりますね。



そんな幼かった頃から随分と年月が経ちましたけど、いまだに田圃道をウロウロしております。


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御朱印蒐集~米原市 伊富貴山 大原観音寺と石田三成の「三献茶」~

2016-09-18 21:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「歴史は勝者によって語られる」とは世の常で、関ヶ原の合戦の敗者である石田三成は江戸時代以降の歴史の中で悪者とされてきました。
徳川幕府によって流布された“三成は冷酷で官僚的・陰謀家の賊将”とかつてはされていたように思います。

しかし、近年は三成の再評価が進んできて、かつての姦臣としてのイメージは払拭されてきています。
NHK大河ドラマ「真田丸」での繊細ながら有能で義に厚い忠臣としての絶妙の人物描写の人気もあって、三成の出身地の長浜市と米原市・彦根市では「MEET三成展」が開催される盛況ぶりです。



さて、石田三成の有名な逸話に「三杯の茶(三献茶)」がありますが、その話の舞台になったとされているのが米原市にある「伊富貴山 大原観音寺」とされています。
「三献茶」の話には2つの説があって、「三成の出生地の石田村近くにある大原観音寺説」と「三成の母親の出身地である伊香郡古橋村の三珠院説」があります。
いずれにしても、秀吉が鷹狩りで立ち寄った際に寺の小僧をしていた石田三成を「三碗の才」で見出したとの話に古文書などの明らかな確証はないそうです。


(惣門)

大原観音寺は元々は「伊吹山四大護国寺」と呼ばれて、伊吹山中にあった4つの寺の一つ(他は弥高寺・太平寺・長尾寺)だったようです。
伊吹山護国寺は、三修沙門(平安前期の僧)によって開基されたお寺で、寺伝によると1347年に現在の地に移されたとされています。
当初は、南都六宗の一つである法相宗の寺院でしたが、現在地に移設後に天台宗の寺院となったそうです。



山あいにある田圃の里山風景を見ながら寺院の惣門(重要文化財)をくぐると、参道の向こうに石段と本殿(重要文化財)が見えてきて、やや寂れた古寺の雰囲気に満ちています。
本堂は1715年に再建されたものということでしたが、築300年の風格のある建物です。






本尊は十一面千手観音で、像を囲むように四天王像が安置されていました。
住職さんに堂内へ入れていただきましたが、不動明王や秘仏 伝教大師像の須弥壇があり、見事な仏像が安置されていて驚くこととなりました。
本堂の正面で屋根を支えている仁王様?の姿もあります。



大原観音寺の境内には「三献茶」で三成が点じたお茶の水を汲んだとされる井戸が「石田三成 水汲みの井戸」として残されています。
石碑に彫られているのは「太閤ニ茶ヲ献スル時 石田三成 水汲ノ池」とあります。



石田三成はその後、秀吉の関白就任にともない“石田 治部省(少輔) 三成”として辣腕をふるいますが、秀吉の死後は豊臣家内の対立・徳川家康の台頭を経て、天下分け目の関ヶ原の合戦に敗れた後、伊吹山へ逃走。
最後は実母の出生地近くの古橋で捕まり、京都六条河原で斬首と非業の死を遂げてしまいます。

ところで、観音寺から少し足を伸ばすと、石田三成の出生地の長浜市石田町があり、三成の屋敷跡に立つ石田会館(石田屋敷跡)など三成ゆかりの場所が多く残されています。
石田会館前の石碑には「石田治部少輔出生地」と刻まれており、三成の銅像とともに出迎えてくれます。
ちなみに、この石田会館の住所はなんと「石田町治部***番地」。人物名と位がそのまま町名になっているところにこだわりが感じられますね。



会館内には1907年に京都大徳寺の三玄院で発掘された三成の頭蓋骨の写真や絵巻物のパネルが展示されていて、ガイドさんの熱心な説明を聞くことが出来ました。
運営は地元のボランティアの方のようでしたが、石田の方々の三成愛が強く伺われます。

 

寺院ではないので御朱印はありませんが、三成の旗印「大一大万大吉」と三成の花押の朱印がありました。
「大一大万大吉」の意味を教えてもらうと「一人が万人のため、万人が一人のために尽くせば、天下の人々は幸せ(大吉)になれる」という意味があるそうです。
石田三成は実際に、領民に大変慕われていた人物だったと伝えられています。


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御朱印蒐集~大津市 近江神宮~

2016-09-16 20:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「京の都」・「奈良の都」と日本の古都のことを呼ぶことがありますが、滋賀県にも都があったことは余り知られていないかもしれません。
時は飛鳥時代の667年、天智天皇(中大兄皇子)により「近江大津宮」として滋賀県に初めて都が開かれました。(後に甲賀に743~744年に紫香楽宮(しがらきのみや)も開かれる)

しかし大津京は、672年の壬申の乱によりわずか5年ほどで廃都となってしまった歴史があります。
壬申の乱は天智天皇の息子・大友皇子と天智天皇の実弟である大海人皇子が対立した内乱とされていて、反乱側の大海人皇子(天武天皇)が勝利して都が飛鳥に移されてしまいました。



近江神宮は神社としての歴史は新しく、1940年に天智天皇をご祭神として皇紀2600年を記念して創祀された神社だそうです。
この神宮は、「小倉百人一首のかるた取り大会」や天智天皇が日本で初めて設置した“水時計(漏刻)”の歴史から「時計の神社」としての方が有名かもしれませんね。



最近では「ちはやふる」という漫画や映画の舞台にもなったようで、「ちはやふる女子」が多く訪れる神社のようです。
近江神宮は何と言っても朱色の楼門が見どころになるのですが、なんということか楼門は工事中で母衣の中でした。
着物・袴の「ちはやふる女子たち」も楼門がこの状態では絵になりません。



神社には“一の鳥居”・“二の鳥居”・“北鳥居”と3つの鳥居がありましたが、全て木造でした。また鳥居によく見られる額はありません。
石造りの鳥居や朱色に塗られた鳥居をよく見ますが、シンプルな木の鳥居は逆に新鮮さを感じます。



社殿は近江造りという独特の様式とされていて、拝殿は外拝殿と内拝殿の2つがあります。
外拝殿と内拝殿を取り囲むように回廊でつながっているようでした。


(外拝殿)


(内拝殿)

内拝殿の奥に見えるのは本殿で国の登録有形文化財に指定されています。
創建80年足らずの神社ですが、参拝客は多く、拝殿に向かわれる方が途切れることがほとんどない状態でした。


(内拝殿の奥に本殿)

神楽殿は毎年1月に百人一首の名人位・クィーン位決定戦が行われていて、TVのニュースで見ることのあるカルタ取りの熱戦はこの建物の中で行われているようです。
近江神宮でなぜかるた大会が開催されるようになったかというと、小倉百人一首の第1首が天智天皇が詠んだ歌であったからというのが理由のようですね。
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」(天智天皇)



時計館宝物館には寄贈された各時代の時計が展示されており、館近くの境内には「漏刻」「古代火時計」「日時計」等が置かれています。
日時計の示している時間を見てみたら、スマホとほぼ同じ時間を指していましたので、昔の人の智慧には驚いてしまいます。



近江神宮は朱色の楼門が魅力的で楽しみにしていたのですが、残念ながら今回はその姿を見ることは出来ませんでした。
これは“もう一度参拝においで!”ということなのでしょうね。


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御朱印蒐集~多賀大社 杉坂の御神木~

2016-09-12 20:08:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 御朱印蒐集をされている方で、同じ神社・仏閣の御朱印を何回か頂かれる方はおられるでしょうか。
毎年行われる祭典の時に頂かれたり、特別開帳の時などに改めて頂かれる方はおられるかもしれませんね。

御朱印友達が滋賀へ来ていたので案内を兼ねて、多賀大社に参拝したのですが、その方が書いてもらった御朱印を見ると当方が以前に頂いた御朱印と全く違っていたのには驚きました。
慌てて御朱印帳を取り出して書いてもらったのですが、禰宜の方に字体や言葉がなぜ違うのかと聞いてみると、“心の赴くままに書いています”と名回答を頂く。

 

御朱印の右上に「奉拝」や「参拝」と書かれることが多いのですが、この御朱印には「淡海國」と書かれてあります。
滋賀県はかつては「近江国」と呼ばれ、さらに古事記の時代には「淡海國」と呼ばれたことから、「淡海」とは滋賀の古称になります。

さて、多賀大社には「杉坂の御神木」という御神木があるということで、見に行ってきました。
多賀大社から直線距離で約6㌔(あくまでも直線距離です)の杉坂山にあるのですが、林道好きの当方もタジタジの細く曲がりくねった林道には苦戦しましたよ。



細く曲がりくねった林道で山を登っていくのですが、対向車とすれ違えそうな道巾もなく、途中から霧まで濃くなり、そもそもこの道でいいのか?と確信もなく、だんだんと視界がなくなってきて不安が高まる。
やっとたどり着いて見た光景は、霧の中にかすかに見える御神木でした。近くまで歩いていけそうな道をいくと神々しいその姿が見えてきます。



樹齢400年・樹高37m・幹囲約12mの巨木が霧に包まれた山中で見せてくれた、幻想的で神々しい姿に感動することしきり。
曇り空ではあったけど、3本に分かれた杉の間から太陽の光が差してくる。
聞こえてくるのは、わずかに野鳥の声とかすかな葉ずれの音だけで、神の憑代(よりしろ)と向き合える貴重な時間となりました。



帰り道に、御神木の感動の余韻を残しながらお礼を兼ねて、多賀大社の本殿へ参拝してきました。
多賀大社は何度訪れても清々しい空気の神社で気持ちのいい場所だと思います。





御神木は写真が下手なので大袈裟に書いていると思われるかもしれませんが、霧がかかっていたことが幸いして実に幻想的な光景でした。
日本人が古来から持っている感性というのは、こういうものかもしれないなと考えさせられます。


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彼岸花が咲く、ミサゴが飛ぶ、秋の風景

2016-09-10 17:30:15 | 野鳥
 先週末には咲いていなかった彼岸花があちこちで咲き始めていますね。
彼岸花には「吉兆・不吉」の両方の捉え方があり、「彼岸花は嫌い」と思ってる方もおられるかと思います。

当方は「これで秋が始まりそう」と季節の変わり目を知らせてくれる花で一面が真っ赤に染まる雰囲気があって好きな花なんですが、まだ今週は群生には至らずといったところ。
秋の虫の声がよく聞こえるようになってきていますし、これで蝉の声が止めば本格的な秋到来ということになりそうです。





さて、初秋をにぎわしてくれる野鳥というと、ミサゴがいますね。
少し前から飛んで行く姿を見かけるようになってきていますが、こちらもそろそろ本番のようです。



久しぶりにミサゴ・ポイントへ行ってみると何やら建築中で、随分と様変わりした様子に驚きます。
しかもミサゴ・シーズン到来ということもあって、ディレクターズ・チェアに腰掛けて大砲を構えているカメラマンがチラホラ。



並んで撮るのもどうかと思い場所を変えましたが、他の場所でも飛んでいますね。
遠くでダイブする姿は見られたものの、カメラの届かない距離でしたので、帰宅していくミサゴの姿をパチリ!



水辺には凄まじい数のサギの群れ、モズの声も聞こえてくるようになり、季節が進んできた感じがしてきます。
それもそのはずで、あと1ヵ月でコハクチョウやヒシクイがやって来るのですものね。


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『八方塞がり』のお祓い~近江八幡市 賀茂神社~

2016-09-06 06:06:06 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 『八方塞がり』という言葉を聞いたことがあると思います。
「この状況じゃ“八方塞がり”で何ともならない」のような使い方をすると思いますが、元々は陰陽道(おんようどう)でいう“どの方角にも障りがあって何もできない状態”から来ているそうです。

厄年のお祓いは知っていましたが、“八方除け”のお祓いがあるのを知ったのは少し前に参拝した近江八幡市の賀茂神社でのことでした。
今年の当方は“何ともやりきれない閉塞状態”が続いていたのですが、賀茂神社で『八方塞がり』の年に当っていたのを知った時は思わず納得してしまいました。

 

いよいよ気が詰まって我慢も限界にきてましたので、気分を一新したいと思い立ち、再び賀茂神社に参拝して八方除けのお祓いを受けました。
2016年はもう半分以上過ぎているとはいえ、太陰暦で年の初めとされる節分(立春の前日)を考えれば、『八方塞がり』はあと半年続きますからね。



賀茂神社は奈良時代に聖武天皇が陰陽道の祖とされる吉備真備に命じて創建され、平安時代に安倍晴明と並ぶ陰陽師であった賀茂氏の先祖の賀茂大神を御祭神として祀る神社です。
京都にある上賀茂神社・下鴨神社との関係はよく分かりませんが、上賀茂神社の御祭神の「賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)」、下鴨神社の「賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)」は賀茂神社でも大神として祀られています。





賀茂神社は背後に大きな森があり、境内には神木がいくつかあって、「気」が溢れてくる感じのある神社です。
拝殿や本殿はさほど大きな建物ではありませんが、これは度重なる兵火によって縮小せざるを得なかった歴史があるそうです。



賀茂神社の本殿で不思議なのは、神社の本殿の屋根には必ずと言っていいほどある『千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)』がないことです。
神社の本殿というと、屋根の両端にあるVの形に突き出している千木がありますが、賀茂神社にはありません。
京都の上賀茂神社や下鴨神社も同様にないそうですから陰陽道の神社にはないのかもしれませんね。



お祓いをして頂いたのは祈祷殿になりますが、禰宜の方の説明によると地元の樹木15種を使用して建築したため、総檜造りではないとのことです。
それぞれの樹木がそれぞれの使命を果たして祈祷殿は作られているともおっしゃってました
受けたお祓いは非常に丁寧なお祓いで驚いたのですが、儀式の前後に講話していただいた話は深みがあり感動を覚えるくらいでした。



<お祓い前の話の一部>
 ・杜(森)に入って、木の切り株に腰掛け、自然の気を取り入れるような気持ちになってください。
 ・落ち着いて五感に集中していけば六感で感じ取ることができるものがあるかもしれません。
 ・人や生き物(生きとし生けるもの)には全て生まれてきた使命があります。何が出来るか考えてみてください。

<お祓いの後の話の一部>
 ・縁があってお参りにきてくださるのは神様のお導きがあるのだと思います。本日は神様との縁を「言霊(ことだま)」でおつなぎさせていただきました。
 ・「陽」の気を取り入れて活力を養ってください。



さて、ご供与品の中にあった絵馬に願い事を書いて、祈願を致しました。
陰陽道の神社ですから、絵馬に書かれているのは八咫烏です。

左の黒い八咫烏は日本神話で神武東征(じんむとうせい)の際、神武天皇の道案内をしたとされるカラスだと思いますが、右の金色の八咫烏はなんでしょう?
これは、古代中国の伝説上のカラスである金烏(きんう)の影響だそうで、金烏は太陽信仰の象徴とされることがあるそうです。



陰陽道では、九星(一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫)を八角形の角に8星を配置し、真ん中に1星を配置して方位を占うとされています。
真ん中である中宮にくる星が『八方塞がり』の星になりますが、本来は強運であるものの、つまずくと最低になる、「最高と最低」のどちらかしかない方位だそうです。
当方は特別何かを信仰しているわけではありませんが、お祓いを受けて、気分一新で気持ちを切り替えるいいきっかけになったと思っています。


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