僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

岐阜羽島の「円空仏」~中観音堂(羽島円空資料館)~

2020-04-27 17:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 江戸時代前期の修験僧「円空」は諸国を遊行し、その生涯に12万体もの仏像を彫った方とされています。
円空は美濃国に生まれ、早くから仏門に入ったといい、長良川の洪水で母を亡くしてからは寺院を出て窟ごもりや山岳修行をされるようになったといいます。

全国行脚で訪れた場所は美濃・飛騨・愛知・滋賀・長野などの近隣国だけではなく、近畿・関東・東北・北海道にまで及んだといい、山岳修行では伊吹山(滋賀)や大峰山(奈良)などで修験の厳しい修行をしたとされます。
円空のあらゆる民衆の苦しみを救済したいと願う慈悲の心は、素朴で荒削りながらも微笑みを浮かべた表情から伺い知ることができ、作風は従来の仏像の古典にとらわれない自由な彫像といえます。



円空仏が拝観できる岐阜県羽島市の「中観音堂」の入口には「有寳寺」の寺標があり、明治初期に廃寺となった寺院の痕跡だけが留められている。
有寳寺は1671年に円空によって自らが彫った「十一面観音立像」を本尊として建立された寺院だったといいます。
今は観音堂と資料館が建てられており、17躰の「円空仏」と再現されたレプリカ仏・奉納された円空調の仏像が数え切れないほど安置されています。



観音堂と羽島円空資料館の前には「現代円空彫師・山田勝美氏」作による「円空旅立ちの像」(裏面には不動明王立像)がモニュメントとして置かれている。
像が納められた御堂には「EnkuRoad SmileGate」と英語圏の人にも分かるように書かれていますが、“円空ロード スマイルゲート”とは面白いネーミングです。



中観音堂の正面にある須弥壇に安置されていたのは「十一面観音立像」は、222cmある背の高い観音さまです。
内陣の横には円空仏がズラリ並ぶ訳ですが、どの仏像も特徴のある仏像揃いとなっています。



十一面観音像の表面はなめらかに彫られてはいるものの、素朴な印象が強く、他に類を見ないような笑顔をされ、頭頂の化仏さえもが笑っている。
この何とも言えない優しい表情からは身近さが感じられ、円空が民衆の苦しみを救済したいとの気持ちを微笑で表したい想いが伝わってきます。





「聖徳太子像」と「鬼子母神像」も同様に微笑を浮かべています。鬼子母神が持っているのはザクロでしょうか?
鬼子母神は元々は鬼女と呼ばれ、自分の子供を育てるために人の子供をさらって食べていたといいます。
釈迦から人肉を食べたくなったらザクロを食べよと論され心を改めたといい、サクロの実に種が多いことから鬼子母神には子授け・安産子育てのご利益があるといいます。



「不動明王立像」と「大黒天」はかなり特徴的な姿をされている。
力強い不動明王・財宝を与える福の神の大黒天のそれぞれの役目をデフォルメしたように彫られていて実に頼もしい。





像高約112cmの細長い「観音像」は見る角度によって高い台の上に座る坐像に見えたり、横から見ると立像に見える造りがされています。
大半の仏像が桧木を使っている中で、唯一クスを使っているので木色がかなり違っている仏像でもあります。



中観音堂を拝観し終わると、そのまま歩いて「羽島円空資料館」へと入ることが出来る。
資料館には円空仏のレプリカや資料類、円空が描いた絵画などが展示。
円空の絵画はシンプルに簡略化されたもので、実に味わいのある絵を描かれています。



円空の微笑仏と一般的にはまとめて言いますが、幾つかの円空仏を見ていくと少し傾向の違う仏像も見られます。
「金剛童子」や「護法神」は怒髪天を衝くような髪となっており、少年コミックにでも登場しそうな姿をしている。
尚、護法神の右後ろに見えるのが円空さんの描いた仏画です。





円空仏の題材は多岐に渡っており、資料館には羽島市にある「長間薬師寺」に祀られている「薬師三尊像」のレプリカが展示されてありました。
「薬師如来立像」「日光・月光菩薩」の3尊ともに穏やかな微笑を浮かべていて、癒される仏像です。



中観音堂と羽島円空資料館の境内(駐車場)で驚くのは所狭しと並べられている円空彫りの仏像でしょうか。
奉納された仏像かと思われますが、実際に円空仏と奉納仏を比較して識別するのが困難に感じるほど忠実に再現されている。

奉納仏は、古そうに見えるが裏面を見ると平成の中頃に奉納されたものが多かったのももう一つの驚きでした。
また、中観音堂・羽島円空資料館のある羽島市上中町では家の前に円空彫りの仏像を置いている家がかなり多かったのも印象に残ります。



ところで、中観音堂から道を挟んだ所には「円空上人産湯の井戸」があり、今も水を汲み上げています。
円空は1632年にこの集落に生まれたとされるものの、生家は特定されておらず、ここを「円空の産湯の井戸」と語り継がれてきたといいます。





確認されているだけでも円空仏は約5300躰あるといい、その膨大な数の仏像の目的の一つは、民衆が気軽に拝めることだったと考えられています。
また、円空さんは一般大衆の救済以外にも差別や抑圧に苦しむ人々のための造仏も行っていたといいます。

円空さんは61歳で十二万体の造仏を成就したといい、64歳の時に母が亡くなった長良川湖畔の寺院で即身仏として入定されたと伝わります。
江戸時代から今に至るまでどんな辛い時代にあっても、円空さんの仏は慈悲の微笑で我々を迎えてくれていたのだと思います。
今の危機的状況が落ち着いて、再び円空仏に会える日を楽しみにします。
(2019年10月某日 拝観)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三重県の摩崖仏3~伊賀市 『岩根の摩崖仏(花の木三尊磨崖仏)』~

2020-04-22 18:02:02 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 白洲正子さんは「近江山河抄」の“近江路”の中で、近江の石造美術の良さについて“美しい石材・帰化人の技術・民衆の自然信仰”を取り上げて書かれています。
また、湖南市の「岩根」を通られた際には“岩石の多いところ”と触れておられ、実際に岩根には「車谷不動磨崖仏」や岩根山を山号とする「岩根山不動明王摩崖石仏」などの摩崖仏があります。

滋賀県南部に「岩根」であるとか「石山」「大石」など石にまつわる地名が多いのは、それだけ石の山が多かったということになるのでしょう。
その石の山に原始信仰や修験道に渡来人の文化が混在していって石の文化が生まれていったといえます。
三重県の伊賀市にも「岩根」と名の付く土地があり、そこには「岩根の摩崖仏」があると知り、興味深く「岩根」へと向かいました。



住所は分かっていたので現地付近へ到着は出来たものの、どうしても場所が分からない。
同じ地名の場所を行ったり来たりするが、見つけられず住所付近にあった小学校で聞いてみる。

学校職員の方らしき方に聞くと、“摩崖仏は学校の敷地内にあります。車を学校の駐車場に停めて入ってください。”とのことでした。
思わず“学校内に入ってもいいんですか?”と聞いてしまいましたが、了解をもらわずに構内に入って不審者扱いされても困ります。
“どうぞどうぞ!”とおっしゃって頂けたのはありがたい。



おまけに森の入口まで案内して頂き、ありがたく森へと入っていく。
森の横には低学年用のプールなどもあって和みつつ森へ入るが、途中から道が荒れてくる。



“おかしいな~もう着いてもいい頃なのに...”と思いながら竹藪を進むと、竹藪漕ぎ状態となってきて、その先は行き止まってしまう。
さすがにこれはおかしいと思い、来た道を戻ることとなる。



入口から数十m入ったところまで戻ると、竹藪の向こうに摩崖仏があった。
巨石は幅8m・奥行7m・高さ3mの花崗岩で、上部は苔むしていて何とも雰囲気が良い。



摩崖仏は右から「釈迦如来」「阿弥陀如来」「地蔵菩薩」が肉彫りで彫られ、一番左には「五輪塔」が浮き彫りで彫られている。
地蔵菩薩の横にある銘には1306年を示す刻銘があるといいますから、鎌倉後期に彫られた摩崖仏になります。



鎌倉期に彫られた割に実に状態がよく、風化の程度も程よいと言ったら失礼にあたるだろうか。
実際に著しい劣化はなく、仏の表情や光背に彫られているものまでしっかり読み取れる。



伊賀市教育委員会の説明書きには“釈迦は過去仏、阿弥陀は未来仏で、過去と未来の関係で一組として考えられている。”
“阿弥陀は極楽の教主、地蔵は地獄からの救済が主な役割で、表裏一体の関係にある。”とある。



三尊の左側には錫杖と宝珠を持った「地蔵菩薩立像」が立ち、左右にある蓮華をさした宝瓶の下には合掌した座像が4躰並ぶ。
鎌倉期の摩崖仏だというが風化の跡はあまり見られず、表情の穏やかさまでもがしっかり読み取れる。



「阿弥陀如来立像」も左右に蓮華をさした宝瓶が彫られ、その表情は笑いかけているような優しい表情に見える。
摩崖仏の正面の方向が小学校の校舎になりますから、子供たちを優しく見守る三尊という印象が強く湧いてくる。



一番右には「釈迦如来立像」となり、お釈迦さんも実に穏やかで優しい表情をされている。
世は鎌倉時代末期に近づき、徳治(1306年)の元号は天災の凶事を断ち切るために行われた改元だという。
そんな時代にありながらも穏やかなる救済を叶えるために彫られたのでしょう。



三尊像は幅2m高さ1.5mほどの枠の中に納められており、五輪塔は別の枠に浮き彫りされている。
五輪塔は死者が空・風・火・水・地の五大へ帰っていったことを象徴し、死者への供養の意味が込められているという。



現在の「岩根の摩崖仏(花の木三尊磨崖仏)」は小学校の校舎横の森の中にひっそりと祀られていますが、かつてこの摩崖仏の前には大和と伊賀を結ぶ街道があったといいます。
街道が通っていた頃、街道を行く旅人たちが安堵し、心を和ませていた岩根の摩崖仏は、今は静かに小学生たちを見守っておられます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三重県の摩崖仏2~伊賀市 『中ノ瀬摩崖仏』~

2020-04-17 06:20:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 三重県は広域には“中部圏”と区分されていますが、地方区分では和歌山県・奈良県・京都府・滋賀県と隣接する近畿地方に含まれる県になります。
“石の文化”を辿っていくと、奈良~京都~滋賀~三重(伊賀)へとつながっているような“石の文化の道”があります。
具体的にいえば、平城京から南山城を通って大津・栗東・湖南・甲賀の各地域を経由して、甲賀と隣り合わせの伊賀へと到達したような石の文化の道。

三重県は「神の国」との印象がありますが、実際は古くから仏教文化の栄えた地だといい、伊賀市には多くの摩崖仏や石仏が数多く残されているようです。
全く土地勘がなく、情報もわずかしかない状態で、伊賀市を巡って到着したのは「中ノ瀬摩崖仏」の神々しい姿でした。



摩崖仏の付近には駐車場がないため、国道163号線の道路脇の邪魔にならないスペースに車を停めて歩きましたが、駆け抜ける猛スピードの車の多さにはかなり怖い思いをした。
かつては摩崖仏の前を流れる服部川の対岸の山に伊勢神社へと続く伊賀街道(伊勢参宮街道)が通い、伊勢神宮へ参拝される方の往来があったといいます。



「阿弥陀三尊摩崖仏」の中尊(像高276cm)は、鎌倉期に彫られたものではないかといわれており、伊勢別所(新大仏寺)の創建にたずさわった宋人系石工の子孫の手によって造立されたといわれます。
左右の脇侍は線刻像ではっきり読み取れず、少し様相が違うのは中尊が彫られた後の室町期に彫られたものだからだという。



雰囲気としては大津市の冨川摩崖仏を思い起こすような摩崖仏であるが、半肉彫りの中尊からは穏やかな表情が伺える。
岸壁には阿弥陀三尊の他に「地蔵菩薩立像」「不動明王立像」が彫られているが、脇侍同様に見えにくい状態になっている。





特に印象に残るのは、頭の後方に拡がる放射光と大きな目鼻立ちの尊顔であり、大きな岩の最上部の目立つところに彫られている。
鮮明に読み取れる梵字種子(1枚目の写真)は「アク」の字に見える。アクなら不空成就如来となるが正確なところは分からない。



毎度のことですが、摩崖仏を拝観する時に周辺を見て回ると、摩崖仏でないものまでが摩崖仏に見えてきます。
こういう勘違いや見誤りというのはこういう場所では、なぜか面白く感じます。



国道を挟んで中ノ瀬摩崖仏の前を流れる川は服部川。
今は伊賀街道の道筋は見えませんが、かつて山の方に通っていたという伊賀街道を旅する人々が、川を隔てた岸壁に見える中ノ瀬摩崖仏に手を合わせておられたのでしょう。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三重県の摩崖仏1~津市 『石山観音摩崖仏』~

2020-04-13 18:08:08 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 日本には古来より磐座信仰といったものがあり、現在でも山を御神体とする神社などでは奥宮とでも呼べるような場所に巨石が祀られていることが多い。
また、巨石の岸壁などには仏像を彫った摩崖仏が多く残されており、最大の分布地は大分県になるとはいえ、近畿地方にも摩崖仏が集中している地域があります。

近畿の摩崖仏を知っている範囲で辿っていくと、奈良県を始点とした場合、京都木津川市や南山城を経て、滋賀県大津市・栗東市・野洲市・湖南市・甲賀市へと続いていく。
さしずめ「石の道」とでもいうべき経路は、さらに三重県に入ると甲賀市と県境でつながる伊賀市やさらに東の津市まで石の道はつながっているようです。



摩崖仏は、一般的には古来からの修験道や山岳信仰に渡来人の持ち込んだ石の文化が結びついたものとされており、上記の地域は山岳信仰が盛んだった地ともいえます。
また、石の文化が成立するに足る岩山が多い地域だったことや、有力な帰化人が多く住んでいた影響もあったのでしょう。

「石山観音摩崖仏」は、露出した200mほどある花崗岩層が風雨に浸食された山で、標高160mの山全体に約40躰の摩崖仏・石仏が彫られています。
この石山観音は京や近江から伊勢へと向かう旧伊勢別街道が近くにあるといいますから、伊勢詣での途中に立ち寄った旅人もいたのかもしれません。



石山観音には鎌倉末期から室町期・江戸期、さらには昭和以降に彫られた石仏まであり、巨大な岩山に500年以上にわたって仏が彫り続けられてきたということになります。
江戸時代初期には、真言宗寺院(浄蓮寺)の別院(浄蓮坊)が一帯を管理してきたともされており、そのためか随所に西国三十三カ所の観音石仏が安置されています。



入山口にある西国三十三所一番札所・青岸渡寺の御本尊「如意輪観世音菩薩」石仏を拝した先には、室町時代初期の像だという像高3.24mの「地蔵菩薩立像」の姿がある。
摩崖仏は光背の部分を深く掘りくぼめて、仏体を高く掘り残してあり、これは石山の他の仏像にも共通する手法だといいます。



風化の跡が見られるものの、お顔の微笑んだような表情は読み取ることができ、約1時間ほどの道中の最初からこれだけの見事な摩崖仏があることに期待が高まってくる。
尚、この地蔵菩薩立像石仏は、近隣の石山三郷(楠原・林・楠平尾)の“雨乞い”の本尊だという。



地蔵菩薩観音石造を越えて山に入ると見えてくるのは「聖観世音菩薩立像」のお姿。
像高2.52mの摩崖仏は、石山摩崖仏群の中で唯一年代がはっきりしているといい、1848年に唐招提寺の聖観音を模写して彫られたものだという。



その時に下絵となった軸(紙本淡彩聖観音立像)は、近隣の浄蓮寺に現存しているというが、唐招提寺の聖観音とはどの観音像を指しているかは不明。
残念なのは顔の部分の風化が進んでいて表情が伺えないことです。
石山の石質は脆弱で脆いといわれますので、全体的に光背が深く掘られているのは摩崖仏を保護するためかと思われます。





石山摩崖仏群で最も古いとされるのが鎌倉末期に彫られたとされている「阿弥陀如来立像」。
残念ながら木漏れ日で斑状になり、実際に見た感じとは随分と印象が変わってしまいましたが、像高3.52m、台座を含めて5mの大きな摩崖仏の衣文は清涼寺式衣文の影響を受けているという。



道行けば横には西国三十三所の観音像が祀られていて、「第七番(岡寺)」の表示の先には苔むした「如意輪観音」が祀られている。
弘法大師様が岡寺の御本尊である「塑造 大如意輪観音坐像」の胎内に納めたという「半跏思惟像」と同じ姿をされているようです。



石山の頂上には巨巌というより“山自体が巨巌”とでもいいたくなる岩の壁があり、山にくぼみを彫って札所観音が祀られている。
岩に石段が彫られているので三十三所巡礼は可能ですが、急坂になっている場所もあって、道を選ばないといけない。





山頂での見どころに「馬の背」という馬が首を垂れて、草を喰むのを馬上から見たような姿を思わせる石の稜線があります。
この位置からは鈴鹿の連山や安濃の平野、伊勢湾までもが視界に入るといい、初日の出の名所でもあるという。
ここにいたのは早朝でしたので、天気には恵まれたものの、逆光が強く遠くまで見渡すことは出来ず。



笑い話ですが、頂上にある馬の背へ行く登り道が分からず、岩を無理やり登って辿り着いたのは記憶に残る出来事でした。
近くにゆるやかな登り道があったのには、岩から降りる時に気が付いた...。



山を下りて駐車場まで戻った後、橋の下の小川の一角にある「橋下の地蔵」へと向かう。
案内表示がなければ近づかないような場所だが、橋の下には地蔵菩薩が2躰と梵字種宇が彫られている。



この場所への入口に“マムシの生息地です。毒蛇に注意”と書かれていたのが不気味で川へ降りるのが躊躇われる。
さすがにこの季節にマムシは活発に活動していないだろうとはいえ、そもそもマムシの居そうな場所なんてのはジトジトして薄気味悪い所です。

なぜこのような場所に摩崖仏が彫られているのかについてはよく分かりませんが、水辺で亡くなった方の救済をされているのでしょうか。
また、この2躰の地蔵菩薩は山中にあるような摩崖仏とは少し様相が違い、羅漢像のようなお姿にも見える。



座像は地蔵菩薩というより僧像のようにも見えますが、耳は大きく長い耳たぶが福福しく垂れている。
錫杖と宝珠を持った立像は衣文がリアルに彫られて顔は天を見上げている。



“石の道”を辿って三重県津市まで来てしまいましたが、この石の道はここが東端になるのかもしれません。
三重県では滋賀県の甲賀市と隣り合わせになる伊賀市に多くの摩崖仏や石仏があるといいます。
せっかくですので伊賀市の摩崖仏のごく一部だけでも立ち寄りたいと伊賀へと向かいます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「酒波寺の行基桜(エドヒガンザクラ)」~滋賀県高島市~

2020-04-09 18:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 地元でソメイヨシノが満開となっていますが、コロナ自粛の影響により花見客はまばらになっているようです。
桜の花が咲き、散るといよいよ春も本番という気持ちになりますし、咲いたと思ったらあっさりと散ってしまう姿も日本人の好みに合うとされますが、今春は控えめにということになります。

一言で桜といっても、日本には約600種ともいわれる種類の桜があり、よく見かける桜としては“染井吉野・八重桜・枝垂桜・山桜・大島桜”といったところかと思います。
ソメイヨシノは生活圏にもたくさん咲いてはいるものの、高島市には推定樹齢500年とも600年ともいわれるエドヒガンザクラが「酒波寺」にあるといい、参拝に訪れました。



「酒波寺」は740年、聖武天皇の御願により行基が千手観世音菩薩を本尊として建立したと伝えられており、七堂伽藍・四十九坊の大寺院だったとされます。
中世には浅井長政の庇護を受け、天台・真言の兼学道場として栄えていたようですが、1572年に織田信長・信忠によって焼き討ちされて寺領が没収されてしまったといいます。



本堂は江戸時代の1662年に再建されてはいるものの、現在は本堂・寺寶館・護摩堂と鐘楼・山門のみとなっている。
朱大門は、2015年に442年ぶりに再建されたといい、鮮やかな朱塗りがよく映え、阿吽の金剛力士像も安置されていることから、再建への道を進んでいる寺院といえます。



朱大門から続く参道の両側は桜並木に彩られ、石畳にかぶるように咲くソメイヨシノが美しい。
雨が降ったり一瞬晴れたりの不安定な天気ではあったが、そのおかげで誰も来ない寺院は貸し切り状態の花見です。



「山門」へと続く石段の左側にそそり立つ木が「酒波寺の行基桜(エドヒガンザクラ)」。
幹径4m・樹高21.5m・樹幅22mという長身の大木は、大きすぎて桜の木とは思えない。



酒波寺のエドヒガンザクラは平成15年の大雪で大枝が2本裂けて半分の姿となったといいますが、横に並ぶ杉と比べても見劣りしないその大きさに驚きます。
桜の幹には祠のようなものが見えますが、ここからは炭が出てきたことから寺院が焼けた時に焦げ、再生したものだとされています。



空洞化した幹の内部は祠に見立てられており、中には五輪塔を彫った石碑が安置されている。
年代等は分かりませんが、中世の最盛期の遺構か江戸期の再建時のものか...。





山門まで来て後ろを振り返るとエドヒガンザクラの見事な姿が望める。
この枝の広がりでありながら、以前の半分になってしまったというと、平成15年まではいったいどんな巨大な桜だったのかと想像してみる。





山門から入山して今度は石垣の上の見下ろす位置からエドヒガンザクラを眺める。
日陰になってしまうため見にくいが幹は苔むしており、古木の良さが伝わる。





境内には「本堂」と「寺寶堂」「不動明王護摩堂」が廊下でつながった形で建つ。
本堂は江戸時代に再建されているといいますから、その建造物が維持されていると思われ、左右に連なる建物はその後に増設されたものかとも思われます。





一番左にある「不動明王護摩堂」の横は歴代の住職の墓となっており、下段にあった石仏には“阿闍梨法印亮深”と“享保?年”の銘があり、他にも幾つか石仏がみられる。
護摩堂も本堂も曇りガラスのため内部の様子は分かりませんが、寺寶堂の中には位牌が並んでいるようだった。



寺院はここまでかと思いきや、「寺寶堂」の下に「大権現参道」への入口がある。
はてさてどうなっているのかさっそく堂の下をくぐって裏山にあるという参道へと向かう。



「寺寶堂」の裏側には古刹感いっぱいの石段が続いている。
少し登った先に「山王大権現」の祠と「小一品稲荷大明神」の祠がある。
「山王大権現」は天台宗の鎮守神であり、日吉大社の祭神で比叡山とは縁が深い神仏習合の神。





先にはまだ石段が続いており、上には朱色の社が見える。
山へと続く石段というのは当方にとっては魅力たっぷりに感じてしまい、ワクワクしながら石段を登って行く。



石段の上にあったのは「愛染大権現」の祠で、横にはプレハブの「行基堂」。
ここが行き止まりかと思うが、まだ登れそうな道がある。
地面から根が浮き出て生命感を感じる古木の大木の横を上へと登って行く。



道の先にあったのは池に面した「善女龍王」の祠。
「善女龍王」は空海の伝説にある“雨を降らせる力を持つ龍王”であり、愛染大権現(明王)とともに真言宗とつながりの深い神。

その奥には「太郎坊」「次郎坊」が祀られた祠があり、「愛宕神社」や「阿賀神社」に祀られる天狗「太郎坊」と、比叡山から比良山移り住んだという「次郎坊」は、いづれも山岳修業の霊山に住む天狗。
「大権現参道」を行くと修験道や神道、天台宗や真言宗の密教色が残り、かつて兼学道場の山だったことを伺い知ることが出来ます。



ところで、境内には苔むした石造宝篋印塔や石造の五輪塔があったのも印象に残ります。
銘は全く読み取れませんでしたが、それなりの年月は経っているものかと思います。





雨が降ってきたら雨宿り、陽が差して来たら石段登り下りと気長に過ごさせて頂き、ゆっくりとした時間が過ごせました。
エドヒガンザクラは“散り始め”の時期だったとはいえ、まだ花には間に合い、ソメイヨシノも満開の見頃でした。



この地域には「いまづ自然観察クラブ」の分布調査によると、138本のエドヒガンザクラがあるといい、名の知れた桜の名木があるといいます。
桜の名木を求めて周辺を散策していた時、田圃の横にあるのを見つけたのは「弥勒堂石塔」の姿。



なんとか持ちこたえてくれていた天気もこの辺りまで来た時に本格的に降り出してきました。
これで撤収となり、琵琶湖の湖西から湖北に向けて車を進めます。
毎年大渋滞を起こす「海津大崎の桜」も今年は雨とコロナ自粛の影響で駐車場の係の方も手持無沙汰な様子です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「岩船神社」の岩船・磐座と「山面古墳群」~滋賀県東近江市~

2020-04-05 16:42:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 東近江市(旧能登川町)にある猪子山(別名:上山)は、繖山(別名:観音寺山)・伊庭山・瓜生山と連なる山塊に含まれ、山塊の最北端にある標高268mの山になります。
頂上には岩窟の中に観世音菩薩石像を祀る「北向岩屋十一面観音」があり、渡りのシーズンには渡りのタカが観察できる野鳥ポイントとなっています。

猪子山の頂上へと向かう林道には「上山天満天神社」が祀られてあり、麓寄りにある「岩船神社」は「岩船」や「磐座」などの巨石崇拝の遺品が見られる神社です。
東近江市から栗東市にかけては“石の文化”があったといい、それは甲賀市を経て伊賀市の辺りまで続くといいます。
また、猪子山および繖山には聖徳太子にゆかりのある寺院・神社が多く、信仰の深い霊山と言えると思います。



「岩船神社」は、天慶年間(938~946年)に創建された「上山天満天神社」の境内社として創建されたと伝えられており、御祭神として「津速霊大神」を祀る。
津速霊大神は、728年に高島比良の山から湖上を岩船に乗って渡ってきた「比良大神(白髭明神)」を先導した神だとされています。



祠の後方に祀られているのが「岩船」であるが、巨石としての神々しさもさることながら、確かに船の形に見えるというのが興味深い。
“728年に湖上を渡ってきた”という伝承のある岩船を、海を渡ってきた渡来人が多かった湖東地方で、渡来人の末裔たちに伝わる渡海の記憶のメモリアルと考えてみるのも面白い。



東近江市には「百済寺(ひゃくさいじ)」という聖徳太子が開基した寺院があり、聖徳太子は百済(くだら)と関係が深かったとされている。
百済からの渡海ルートとして若狭から湖東を経て斑鳩に至るルートがあったとされ、渡来人が近江地方に大陸の文化を持ち込んだ痕跡は多い。



岩船の正面、船首にあたる部分から見ると、この巨石の大きさがよく分かる。
注連縄が張られている岩船からは、巨石崇拝・自然信仰から神道へとつながっていった信仰の歴史を感じざるを得ない。



林道を少し登っていくと山の斜面に看板らしき物が見え、看板には「磐座」を示す説明文が書かれてあった。
“天慶年間(神社の創建と同じ)菅原道真公の御神霊 比良より繖山の勝菅の岩屋に鎮まり給うとあるが、この磐座をさすものと思われる。”とある。



「岩船」では比良大神(白髭明神)、「磐座」では菅原道真となっているが比良から繖山にやって来たという話は同じ伝承となっています。
比良大神と菅原道真公が同一の人物というよりも、当地にゆかりのある人物を象徴的な存在として伝承しているのかと思われます。



ところで、道真公には“学問の神”と称されるように学者であり、政治家でもあり、あるいは“日本三大怨霊”の一人に数えられている人物ですが、その出自は土師氏と関係があるといわれる説があります。
土師氏は、古墳造営、埴輪・土師器を製作する集団とされ、東近江の地にもその一族が居住していたとされます。

繖山には6世紀後半に築造されたと考えられている古墳が180基以上確認されているといい、古墳群としても12の古墳群が確認されているそうです。
猪子山の麓から山頂にかけての一帯には「山面(猪子山)古墳群」と呼ばれる33基の古墳があり、幾つかの古墳が見学出来ます。



林道から逸れて道を下りていくとすぐに「猪子山23号墳」が開口している場所が見えてきます。
猪子山に表示された「古墳位置図」では5つの古墳が案内されていますが、今回はこの23号墳と14号墳の2つの古墳に立ち寄りました。



猪子山23号墳は直径約14mの円墳で古墳時代後期に築造されたものだそうです。
石室の規模は約9mで、玄室の長さ4.4m・幅は2m・高さ2.3mあるといいます。
羨道は長さ4.6m・幅1.4mで床面には石が敷かれていたそうです。



「猪子山23号墳」から林道に戻り少し登って行った先に「猪子山14号墳」があるようで案内板がありました。
23号墳の周囲に他の古墳はないようですが、14号墳の北側には14基の円墳が確認されており、こちらの古墳の方が古墳群の中心部に近いのかもしれない。



14号古墳は横穴式石室(両袖式)を持つ、直径16~17m・高さ8.5mの古墳時代後期に築造された円墳だといいます。
玄室内から鉄釘が出土していることから木棺で埋葬されたのではと考えられています。



玄室の長さは3.4m・幅2.8m・高さが2.6mと23号墳と規模的には同じくらいですが、感覚的には23号墳の玄室の方が広く感じた。
内部は湿気があるのは兎も角として、林道を歩く人の声が古墳の中から聞こえてくるように感じてしまうのは少し怖くて気味が悪い。



「山面(猪子山)古墳群」からは金環・メノウ製の勾玉や丸玉・ガラス製の菅玉や小玉が発掘された古墳があるといいます。
ガラス玉は中国・朝鮮半島を経由して輸入されていたといいますから、有力な一族がこの地を治めていたと考えられているようです。



猪子山の林道を歩くと、斜面の低い所にショウジョウバカマがあちこちに咲いていて美しい。
花を眺めていると地元のウォーキング中のおばさんから声をかけられて、猪子山の季節の花についていろいろと教えていただけました。
ショウジョウバカマが終わるころには○○が咲き、あそこを登った所に○○、もっと上まで登っていくと○○...名前を知らない花もあったが、植生の豊かな山のようです。

また、野鳥の声もよく聞けて、“この山に来ると五感が研ぎ澄まされるのです。”と納得の言葉も聞ける。
この山でバードウォッチングしている人が“この山で99種まで見つけたけどキリのいい100羽まであと1羽が見つからない。”と聞かれた話をお伺いしました。
この山だけでその数の野鳥を見つけられているとは、かなり年季の入ったバーダーだと思います。



“この山でカタクリの花は見れませんか?”と聞くと“この山では聞いたことがないが、他の山で咲いていると聞いたことがある。でも結構登らないといけないよ。”とのこと。
改めて馴染みの場所へカタクリの花を探しに行くと、ひとつだけ花弁が開いているカタクリがあった。



カタクリの花を見るといつも思うのは“こんなに小さな花だったっけ。”ってこと。
小さいながらも可憐なカタクリの花ですが、この群生にはギフチョウは来てはくれません。
カタクリの花に留まるギフチョウにも会いに行きたいですね。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御朱印蒐集~東近江市「林天神社」と「上山天満天神社」~

2020-04-01 20:03:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県東近江市にある繖山(432.7m)は古来からの霊山として人々の信仰を集め、西国三十三所の札所・観音正寺を始めとする数多くの神社仏閣の集まる山です。
繖山には巨石が点在して古代より巨石崇拝の信仰を集めていたといい、複数の古墳群が確認されていることから湖東における聖なる山のひとつだったといえます。

繖山の北側は旧の能登川町になりますが、能登川には菅原道真を祀る神社が幾つかあるといい、道真公の伝承を辿って、3社に参拝をしてきました。
最初に参拝した「林天神社」は、JR能登川駅から数分の距離にあり、この神社は月に数日だけ開所される授与所で書かれる“月替わり朱印”が御朱印ファンの人気を集めているようです。



林天神社は繖山の北方にある“猪子山”の麓に創建された「岩船神社」が起源とされ、平安時代の天慶(931~947年)に創建されたと伝わります。
御祭神として「天常立命」「菅原道真公」の2柱を祀り、「天常立命」は天地ができる時に天空に生じたという神だといいます。
「菅原道真公」は、勅使として敦賀の気比神宮に向かう途中この地を訪れたことが御縁で合祀されたと考えられているそうです。



遊具などもある整備された公園の角にある林天神社は、拍子抜けするくらいこじんまりとした神社です。
石標には“天神社”と彫られており、錯覚を起こしそうになりますが、林天神社は厳密にいうと林町にある天神社となるのでしょう。



そもそも道真公がなぜ能登川に立ち寄ったかについては、古墳時代にこの辺りに土師氏(古墳造営、埴輪・土師器を製作する集団)が居住していたことによるといいます。
菅原家は、野見宿祢(後の土師氏)から出た一族とされる説がありますので、古墳群のある猪子山近くのこの地を訪れたという伝承にも根拠がありそうです。



授与所は神社から徒歩で10分くらい歩いた住宅街の一角にあり、授与品は道真公の絵馬・白梅の形のおみくじ・梅の花をかたどったお守りなど道真ゆかりのものが多い。
それゆえ本殿の御神紋は「梅鉢」となっており、道真には付き物の「神使の牛」が境内に祀られている。



また境内にはひらべった形をした磐座が祀られている。
「林天神社」は「岩船神社」を起源としているとされており、この磐座は岩船神社に祀られている巨石の岩船から来ているのではないだろうか。
確かにこの磐座は船の形を模しているように見える。



磐座の上には鯉を形どったおみくじが置かれていた。
鯉は立身出世の象徴であるといいますから、林天神社の授与所鯉みくじをされた方が納めて帰られたのかもしれません。



では、林天神社の起源である岩船神社へと向かいますが、まずは猪子山の麓の岩船神社から少し登った場所にある「上山天満天神社」に参拝します。
「上山天満天神社」の社伝では「岩船神社」は境内社であるとされていますから、「上山天満天神社」→「岩船神社」→「林天神社」とつながっていくことになります。

上山天満天神社は728年に社号を得たとされ、御祭神は「天常立命」と「菅原道真公」で林天神社と全く同じです。
1347年には足利尊氏に3000歩の社領を許され、1573年には織田信長より3000歩の社領を許されたと伝わります。
3000歩を単純に3300㎡と計算すると、膨大な社領を有する神社であったことになります。



この鳥居の奥の林道は、猪子山の山頂にある「北向岩屋十一面観音」へと続く道。
桜はこれからが見頃といったところで、鳥居の奥の林道には人が絶えることなく登り降りしていかれます。



猪子山頂上へと向かう中道から分岐した舗装道を登った先に「上山天満天神社」はあり、静寂に包まれた神社でした。
この分岐した道は頂上へのウォーキングコースから外れているため、参拝者しか訪れずほぼ人の姿はありません。



拝殿から本殿へと続く建物は麓にあった鳥居からかなり離れていることから、かつての社領が広かったことを伺い知ることが出来る。
山道しかなかった頃は中腹にある「上山天満天神社」に参拝し、「北向岩屋十一面観音」まで行かれる方は稀だったのかもしれません。



本堂の右手に木の階段があったので登って行ってみる。
猪子山には林道の他にも整備された登り道が幾つかありましたが、かなり急な階段となっているため健脚な方でないと辛いのでは?と思います。
登りはここまでとして、開けた場所から眺望を楽しむ。地平線の向こうには琵琶湖が広がります。



北方向に見えるのは荒神山でしょうか。
山の周辺には住宅や工場・店舗が並び、田園地帯はここからだと随分と奥の方になります。



3社目の神社である「岩船神社」はこの「上山天満天神社」の下方に位置し、巨岩の岩船を祀る神社で実に迫力のある神社でした。
また周辺には古墳群が幾つかあり、「山面古墳群」の古墳にも立ち寄ることにました。...続く。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする