僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

コウノトリが飛んだ!

2017-05-30 18:50:15 | 野鳥
 田圃が広がる農道を走行していると、コウノトリの姿が見えます。
ちょうど駐車しやすい場所がありましたので、しばしのコウノトリ観察となりました。

最初は全く動かず、固まったような状態でしたが、そのうちに羽繕いを始めてフンを一発出したので、そろそろ飛ぶかと待っていました。
案の定、飛び出したのですがコウノトリの巨体では1回のジャンプでは飛び立てず、ホップ・ステップした後に空へ飛び立ちました。



まず羽ばたいてジャンプ!



飛び立ちかけるが巨体が重いのか風に乗れず、もう一度ジャンプ!



やっと体が浮いてきましたよ!



ここで羽ばたいて風に乗る!



行ってしまったなぁ~と飛んでいった先を見ていると、このコウノトリは上空を何度か旋回しながら戻ってくるではありませんか。
このままのコースで来てくれたら、頭上を通りそうになってきましたよ。





さらに旋回しながらこちらに近づいてくる!



最後は頭上を超えていきましたが、これはデカ過ぎ!



サービス満点のコウノトリでしたが、頭上を飛ぶコウノトリはフレームアウトで全て羽が切れてしまいました。
空が青かったこともあって、久しぶりに見に行ったコウノトリは見ていて気分が晴れ晴れするような姿を見せてくれましたよ。


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オシドリ・ゴイサギ・アマサギ&カイツブリの抱卵をパチリ!

2017-05-28 17:25:25 | 野鳥
 5月の初旬からほとんど鳥見らしい鳥見をしていなかったのですが、久しぶりに湖北田圃巡回の鳥見に出ました。
さすがに3週間以上も間隔が開いてしまうと湖北の季節は随分と変わってしまっていたのですが、それもそのはずで前回の鳥見はまだ遅咲きの八重桜が散り始めた頃でした。

もう今は渡りのシギチの仲間の姿はなく、夏の小鳥も山へ移動してしまっているでしょうから、田圃周辺の探鳥だけになりました。
川にはまだオシドリ♂の姿があり、その美しい冬羽を見せてくれましたが、前回見た時よりちょっと劣化してきたかも?



♀の姿は見つかりませんでしたので、すでに産卵して抱卵しているのかもしれませんね。
この♂も落ち武者状態になるまで見られたらいいなぁと思っています。





さて、ドッと入ってきていたのはゴイサギでした。
ホシゴイも含めて何ヶ所かで姿を見ましたのでゴイサギの季節も到来しているということなんでしょう。





アマサギの方も今月の初旬は数が少なかったものの、少し数が増えてきているようです。
多い年は集団が見られるのですが、今年は多い場所でも数羽の小グループを見ただけでした。





ところで、まだ今年は水鳥のヒナを見ていないのですが、抱卵はすでに始まっているようです。
カンムリカイツブリは1個の卵の抱卵を始めていました。





カイツブリも抱卵中です!



おまけでコウノトリをパチリ!
以前は中々会えない鳥だったコウノトリもすっかり滋賀県に馴染みのある鳥になりましたね。 




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大津市歴史博物館~大津絵と釈迦涅槃像~

2017-05-27 06:18:18 | アート・ライブ・読書
 『興味の趣くままに見たいものを見る』といった風に足を運んでいますが、少し前から興味を持っていた「大津絵」と滋賀の仏像本などに掲載されている「釈迦涅槃像」が大津市歴史博物館で公開されていると知り、鑑賞に訪れました。
大津絵は雰囲気は知ってるけど一堂に会して見る機会がありませんでしたが、ミニ企画展とはいえ約40点展示されていましたのでいい鑑賞機会となりました。



大津絵はその名の通り滋賀県大津市で描かれた名産品として始まり、ユーモラスにデフォルメされた絵面に風刺を込めた作品は土産物の域を超えて、人の心を掴んだ作品になったといえるかと思います。
初期の大津絵は仏画を描いていたとされており、最初のコーナーに展示されていた大津絵はまさしく仏画そのものでした。
18世紀頃から信仰の一環だった大津絵は大衆路線に変わっていって人気を博したそうで、浮世絵などと同じく木版摺物などの手法を使い大量生産されて大衆の楽しみの一つになっていったようです。


「鬼念仏」・・・ポストカード

「鬼念仏」は“鬼が念仏を唱えて布施を乞うて歩く姿”を描いていて、慈悲のない心にも関わらず、形だけの善行を積む偽善を風刺した絵だそうです。
大津絵には鬼を画題にした絵が多いのですが、どれも風刺が効いて絵面が面白いですね。


「鬼鼠柊」・・・ポストカード

「鬼鼠柊」はあの恐ろしい鬼が小さなネズミを怖がって柱によじ登って怖がっている面白い題材の絵でした。
柊は魔除けの効果があるとされ、節分にイワシの頭と飾る風習が日本にはありますが、さすがの鬼も柊は苦手ということなのでしょう。


「釣鐘提灯」・・・ポストカード

「釣鐘提灯」は天秤棒で釣鐘と提灯を猿が担いでいる絵ですが、重い方の釣鐘が上になっているという絵面で、本当の価値を逆さまに扱う猿(人間)を風刺しているとされます。
大津絵は風刺画としての面白さもありますが、どの絵も絵自体はシンプルに描かれていますから和風イラストのような感じで現在も人気があるのかもしれませんね。

江戸時代に大津絵は東海道大津宿の西端の追分・大谷の界隈で売られていたそうで、旅の途中に大津絵の店でお土産を物色している様子が描かれている絵がありました。
今も昔も旅先でお土産屋に立ち寄るのは旅の一つの楽しみですね。



さて、もう一つ見たかったのは釈迦涅槃像で、これは念願かなっての拝観ということになります。
涅槃像を祀った寺院はいくつかあるかと思いますが、当方は釈迦涅槃像を拝見するのはこれが始めてですので興味津々です。



この木造釈迦涅槃像は大津市歴史博物館が法然上人の没後800年を記念して浄土宗寺院の宝物調査(2012年~)で、大津市にある新知恩院の蔵の中から発見された仏像のようです。
まず驚くのはこの仏像の小ささです。なんと体長12.8cmのミニチュア仏像だったのです。

仏像は鎌倉時代の作とされ、仏師・快慶の作風に近いことから快慶工房の作ではないかともいわれています。
新知恩院は15世紀の創建とされていますから、この涅槃像の方が古いということになりますが、元々はどこの寺院にあったかは諸説あれど明確ではないんだそうです。


大津市歴史博物館HP

大津市歴史博物館のロビーには地蔵菩薩坐像(小関地蔵堂)が展示されているのも目を引きました。
こちらの仏像は像高135cmの半丈六の坐像で、平安~鎌倉期の作とされている大きな仏像です。
ミニチュアのような釈迦涅槃像とは正反対の大きな仏像で、仏像にはいろいろな姿があるのを実感してしまいます。


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NO-MAミュージアム展覧会『HELLO 開眼』~カネ吉別邸~

2017-05-23 19:55:55 | アート・ライブ・読書
 NO-MAミュージアムから歩いて10分足らずの日牟禮八幡宮の大鳥居の近くに『HELLO 開眼』の第2会場であるカネ吉別邸がありました。
第1会場のNO-MAミュージアムとこのカネ吉別邸ではそれぞれ各5人のアーティストの作品が展示されていて、両会場とも突き上げてくるような心の衝動を刺戟する展覧会となっていました。 



カネ吉邸宅へ入ってすぐの吹き抜けの土間には不統一な多種多様な像が展示されていて、まず目に入ってくる光景に驚くこととなりました。
Tの字の形に像が並べられているのですが、正面には板彫りの悟りを開いた釈迦の像があり、Tの字の交差する一番奥の部分には修行中の釈迦の苦行像があるという興味深い展示になっています。


宮崎甲子男「喫茶ブルボン」

福島県の喫茶店「喫茶ブルボン」のマスターの宮崎甲子男さんが、造られた作品を自身の喫茶店や店ガレージ一杯に展示されているということで、地元ならず有名なお店なんだそうです。
ネットで検索するとお店の様子が分かりますが、奇妙で珍奇で異様な感じのする喫茶店でした。


宮崎甲子男「喫茶ブルボン」

室内へ上がると各部屋に作品が展示されていて、祭礼や民俗などを撮影されているカメラマンの辻村耕司さんの部屋がありました。
主に滋賀県の自然を撮影されているカメラマンのようで、美しい写真が何枚か展示されていました。
祭礼・民俗の写真ではありませんが、彦根・宗安寺に祀られている石田三成の念持仏とされる千体仏の写真があり関心をひきます。宗安寺は井伊家の菩提寺でありながらも石田三成由来の仏像が数点祀られている寺院です。


辻村耕司 宗安寺 石田三成「千体仏」

第2会場となっているカネ吉別邸にも蔵があって、蔵の中には木村賢史さんのお面が展示されていました。
蔵の入口から見ても一瞬でその異空間に対しての緊張感が走ります。


木村賢史(蔵の入口から内部を見た様子)

木村さんは30年以上かけて数多くの面を製作され、伊豆熱川温泉に製作した面を展示する「日本仮面歴史館 福福和神面 」という施設を開館されているそうです。
蔵の中へ入ってみると龍?を被った人面があり、左右後方の棚に面の展示がされています。


木村賢史(蔵の中の様子)

狂言面・能面を中心とした展示になっていましたが、気になったのはやはり「毘沙門天(多聞天)」「増長天」「金剛力士」の面です。
四天王に数えられる毘沙門天も増長天も非常に怖い顔をしており、阿形の金剛力士も力強い顔になっていました。お面で見る天というのは初めてのことで興味津々になります。


毘沙門天(多聞天)


増長天


金剛力士

宮崎県の高鍋市には岩岡保吉翁という方が開山し、自ら刻んだ石像が700体以上ある場所があるそうです。
同地には持田古墳群があるそうなのですが、盗掘に心を痛めて古墳の一角を購入。古代の人の霊を慰めるため半生をかけて石像を彫られたといいます。
さすがに巨大過ぎて展示は出来ず、写真での紹介となっていましたが、とてつもない規模の聖地になっているようです。



「HELLO 開眼」と名付けられた今回の展覧会もNO-MAミュージアムらしくとても刺戟を受けるものとなっていました。
これも毎回のお約束になっている図録ですが、会場で見る作品とは違ったイメージの写真が掲載されているので違った視野からも楽しめるものでした。



ボーダレス・アートミュージアムNO-MAへ行くと、近江八幡市の重要伝統的建造物群保存地区(文化庁)に指定された近江商人の商家が並ぶ一角の小さな美術館から強い光が放たれているといった思いがします。
次の企画展が楽しみになりますね。


カネ吉別邸


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NO-MAミュージアム展覧会『HELLO 開眼』~ボーダレス・アートミュージアムNO-MA会場~

2017-05-21 16:55:55 | アート・ライブ・読書
 近江八幡市にあるNO-MA美術館へは2年ほど前から展覧会を見に行っています。
アールブリュット作品の魅力を知ったのもこの美術館でしたが、ボーダレス・アートミュージアムの名の通り、展示する作品・作家にボーダーはありません。

展覧会の企画に沿ったアーティストを選んで展示をされるのですが、企画の方・アートデレィクターのアーティストの選択・展示の見事さにはいつも感心してしまいます。
今回の『HELLO 開眼』展は「NO-MA会場」と「カネ吉別邸」の2ヵ所で開催されており、共に旧家を使った会場で、蔵の中での展示もされています。



最初に「ボーダレス・アートミュージアムNOMA会場」から見たのですが、入り口すぐに展示してある荒川朋子さんの「いつもみてるよ」にまずショックを受けます。
3cmくらいの大きさの顔にガラス玉が目に埋め込まれた顔の集合体の上にウィッグが被せられています。小さな顔の隙間は数千本はあろうかと思われる爪楊枝が差し込まれている作品です。
この不気味さというか、得体の知れないこの作品と逃げ場なく向き合っていると、「いつもみてるよ」と囁かれそうな感覚になる。


荒川朋子「いつもみてるよ」

荒川朋子というアーティストの作品には髪の毛を生やした作品が多く、本人のHPには“生やさなくていいのにと思うこともありますが、生やさずにはいられないのです。そうしてできたものたちを、私は愛さずにはいられないのです。”と書かれてあります。
次の「寂しくはない」にも無数の顔で造られた体には人毛が生やされています。


荒川朋子「寂しくはない」

作品からは呪術のようなシャーマニズムが感じられ、生々しい呪具とも受け取れるのですが、パーツになっている顔を見ると可愛い感じがしてしまうのが魅力でしょうか。
いくつかの作品では丸々とした柔らかい形のボディに特徴があり、毛の不気味さと対照的な柔らかさが感じられます。


荒川朋子「ふさすさ」(中央にある全身毛むくじゃらの作品)

荒川朋子さんというアーティストに非常に興味がひかれたのですが、同じように毛を使った作品を造られているのが大井康弘というアーティストです。
もっともこの方の場合は、毛が作品に見えるのではなく、“自分の体毛や好きな木の実”を作品に入れているという意味になります。
自分の毛や木の実をティッシュに包み、新聞紙で覆い、ガムテープで巻いた芯材の上に粘土を足していくとされます。作品が自分の分身と化しているということでしょうか。

 
大井康弘「ガネーシャ」


大井康弘「ぞうさん」

宮川隆さんは沖縄宮古島に生まれ、東京でグラフィックデザイナーとして活躍されているそうですが、ある時に突如頭の中に情報が流れ出し、絵を“書いてしまった”ということです。
宮古島には「カンカカリャ」と呼ばれるシャーマンが存在するそうですが、これらの作品群はトランス状態に入って絵を描いてしまったということなのかもしれません。
この絵を見たときは、菩薩があふれて梵字が書かれているのか?と思ってしまったのですが、これは「ユタの見た光景」ということなのかもしれません。



宮川隆「タイトルなし」

入江沙耶は海外も含めて個展を開催されているアーティストだそうですが、「カンノンダスト(菊理媛神)」という作品は「破壊と再創造」の作品といえます。
掛け軸に描かれた観音菩薩像を消しゴムで消して、その消しゴムのカスから千手観音像を造ったと書かれてありました。
膨大な手間と超絶技巧により造られた作品ですが、現代の膨大に発生するゴミに対するアンチテーゼといった作品とも受け取れます。





入江沙耶「「カンノンダスト(菊理媛神)」

現在、NO-MAミュージアムとなっている旧家には蔵があって、蔵の中では一円敏彦さんの作品が展示されていました。
“滋賀県湖東地方の山奥深くで木を彫り、野草茶を楽しむ”と紹介されていて、山奥の自然の中で造形作品を造りながら過ごしているという仙人のような方のようです。





一円敏彦「無題」

NO-MAミュージアムの展覧会の説明文には「この展覧会では、古来から人が身近に感じてきた“悟り”や“魂”など、不可視な精神的世界について考えるきっかけを与えてくれる作品を展示する」とあります。
展覧会はまだNO-MA会場だけの分ですが、この展示内容に付けられたタイトルが『HELLO 開眼』とは見事な企画だと思います。



ボーダレス・アートミュージアムNO-MA(旧野間邸)


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京都国立博物館 特別展覧会~「海北友松」と「仏像入門」~

2017-05-17 18:40:08 | アート・ライブ・読書
 『この絵師、ただものではない!』とサブタイトルが付けられた海北友松の特別展覧会が京都国立博物館で開催されています。
同時開催の『仏像入門』の仏像展示と明治の建築物である京都国立博物館の建物見たさで訪れることになりました。

海北友松は滋賀県の湖北地方(長浜市瓜生町)の出身といわれる方で、瓜生町(うりゅうちょう)は小谷城があった小谷山・須賀谷温泉から山を一つ挟んだところにある村です。
友松は戦国時代の浅井三代に渡って使えた重臣の家に生まれたとされますが、幼少の頃より京都の東福寺で修行していたといわれます。
1573年に織田信長による浅井攻めにより、浅井家滅亡・兄弟討死の後、海北家の再興を望みながら還俗するも武士を捨てて絵師となったと伝わります。



海北友松展覧会が開催されている京都国立博物館は京都東山にあり、道路を挟んだ隣に三十三間堂・智積院などの神社仏閣が多く並ぶ文化ゾーンに建てられています。
明治時代の1897年に帝国京都博物館として開館され、開館120周年記念特別展覧会として今回の海北友松が開催されているようです。



明治の建築物らしくレンガ作りのモダーンな建築で明治の雰囲気たっぷりの建物となっていて、これは重要文化財に指定されています。
今回の展覧会は平成知新館という3階建ての展示館での開催で「明治古都館」での開催ではありませんが、すでに10万人以上(5月11日に達成)の来館者が訪れていますから、日本画がある種のブームになっているように思えます。



展覧会は「絵師・友松のはじまり-狩野派に学ぶ-」の第1章から、「豊かな詩情-友松絵の到達点-」の第10章まで10ブロックに分かれて展示されていて、友松の作品の変遷が分かりやすい構成になっていました。
海北友松といえば、建仁寺の龍図のイメージが強くその系統の作品を想像していましたが、大半の絵は山水画などの屏風が中心で違和感を感じてしまうこととなりました。


 
「柏に猿図」・・・ポストカード

まず印象に残るのは第1章に展示されていた『柏に猿図』でしょうか。
日本には居ない手長猿のような白と黒の猿が描かれた大きな画(177.9×138.4cm)が掛け軸に仕立てられて展示されていて、猿の体毛などはかなり詳細に描かれています。
説明では“狩野派風と友松風が混在している”初期の作品と書かれてありましたが、はてさて意味が?...といったところです。


「松に叭々鳥図襖」

第3章の「飛躍の第一歩-建仁寺の塔頭に描く-」に展示されていたのは重文の「松に叭々鳥図襖」。
この絵のキャッチコピーは『武士の希薄ほとばしる!刀を振り下ろしたかのような筆さばき』とあります。
そう言われましても、感性が悪いのか・勉強不足なのか理解出来ず悩ましく思えてしまいます。



「竹林七賢図」

松に叭々鳥図襖」と同じく重要文化財に指定されているのが、「竹林七賢図」(第4章:友松の晴れ舞台)という竹林で清談にふけった七賢人の姿を描いた建仁寺所有の絵です。

七賢人にちなんだ友松の話を書くと...・
海北友松は滋賀県の湖北地方の出身とされており、長浜市の旧浅井町という地域は五先賢という5人の賢人の出身地とされています。
その5人の中に海北友松も含まれており、他の4人は比叡山延暦寺の高僧「相応和尚」(千日回峰行の創始者)、賎ヶ岳七本槍の一人で秀吉の家臣「片桐且元」、江戸時代の造園建築家「小堀遠州」、明治の漢詩人「小野湖山」となるようです。(余談)

さて、あまりにも有名な雲龍図ですが、やはり海北友松というと雲龍図という印象ですね。
墨の濃淡の使い分けだけで描かれた龍の迫力には圧倒されてしまいます。その反面、禅師のような表情とも受け取れる龍の顔には擬人的なイメージもあり、見応えがありました。(第8章:画龍の名手・友松-海を渡った名声-)


 
「雲龍図」・・・ポストカード

ところで、今回の展覧会で秘かに楽しみにしていた『仏像入門』の部屋ですが、これは期待も予想も遥かに超えた素晴らしい展示でした。

◇最初に待ち構えていたのは京都・愛宕念仏寺の「金剛力士立像」(鎌倉時代)。鎌倉期の力強い仁王様にまずは感動。
◇京都・妙博寺の十一面観音立像のバランスの悪い姿(顔が大きくでっぷりとした短足で腕だけがアンバランスに長い)。こういう姿の観音像をまれに見ることがありますが、妙な魅力を感じるお姿です。
 京都・般若寺の普通のお姿の十一面観音立像と並んでいましたので比較に興味深いものがあります。
◇ガンダーラの仏頭やマトゥラーの半身像や唐の仏像など海外の仏像も展示されており、日本で熟成された仏像との違いにも明確なものが感じ取れました。



国宝「大日如来坐像」「不動明王坐像」・・・河内長野市HP

息を呑むというか、その神々しさに圧倒されてしまうのが、大阪河内長野市・金剛寺の国宝「大日如来坐像」・「不動明王坐像」でした。
智拳印を結んだ「大日如来坐像」に見とれていると、横におられた方が数珠を持って智拳印を結び、何やら教を唱えておられます。博物館で観る仏像とはいえ、思わず手を合わせたくなる平安時代末期の素晴らしい仏像です。

3mを越す大日如来坐像の横には同じく国宝で2mを越す「不動明王坐像」が祀られていました。
鎌倉時代作の不動明王は、仏師快慶の弟子・行快の作とされ、保存修理の影響もあってかお顔はやさしい表情をしておられます。
全部で25作(28躰)の仏像が並ぶ部屋は、全てを一気に見てしまうのはもったいないくらいの贅沢さを抱きます。

「仏像入門」の部屋を過ぎると、再び海北友松の展示が続きます。
水墨画の多かったこの展覧会には珍しい金屏風の作品で、重文の「花卉図屏風」(京都・妙心寺)が展示されていました。



「花卉図屏風」・・・パンフレット

先月、偶然に長谷川等伯の障壁画を観る機会がありましたが、海北友松と同時代に活躍した絵師で、同じような題材を絵にしてはいても、随分と作風が違うように思います。
当時の日本画には定型のようなものがあるのか、“手の長い猿の画”“深山幽谷の山水画”“雲龍図”“金箔画”などの題材が共通して描かれています。
もっとも、2人の絵師のどこがどう違うと具体的に言葉には出来ないのがもどかしいところで、やはり日本画を観るのは難しいものだと思います。



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御朱印蒐集~京都東山 五百佛山 智積院~

2017-05-14 16:37:37 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都東山の阿弥陀ヶ峰を背にして建立されている真言宗智山派の総本山・智積院という寺院があります。
阿弥陀ヶ峰には豊臣秀吉の遺骨の眠る「豊国廟」があり、近くには同じく秀吉を祀った豊国神社がありますので秀吉との縁がありそうです。

しかし、智積院はある意味で秀吉とは関係の深い寺院となりますが、それは敵対した歴史があるという意味での関係になるようです。
秀吉とは敵対したものの、逆に徳川家康の恩命が深く、智積院は豊国神社の坊舎や土地や秀吉が夭折した棄丸(秀吉と淀君の子)の菩提を弔うために豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺を拝領して再興を果たした寺院だといいます。



寺歴としては、835年の空海の入定後に荒廃していた高野山の復興に尽力した興教大師・覚鑁が1140年に高野山から根来山(和歌山県)へ移り根本道場としたのが始まりとされています。
鎌倉時代の中頃になると大伝法院(根来寺)を高野山から根来山に写し、最盛期には2900の坊舎と6000人の学僧を擁する大寺院になったとされます。



戦国時代、戦力を誇る寺院の僧兵と戦国武将との戦いが比叡山延暦寺しかり、石山本願寺しかりとあったわけですが、和歌山の根来寺の僧兵“根来衆”と秀吉の戦いもあったとされます。
根来衆1万の兵は鉄砲も所有して戦いましたが、秀吉により全山が灰塵と化してしまいます。

秀吉の焼き討ちの前年の「小牧・長久手の戦い」では徳川家康の味方につき、関ヶ原の合戦や大阪の陣でも家康について活躍をしたとされますから、秀吉とは敵対関係にあった寺院ということになります。
その時代の根来寺は、紀伊・和泉に八か所の荘園を領有して経済力があり、大量の鉄砲を装備した強力な武力を保持していたとされますから押さえておきたい相手だったのかもしれません。

結局、秀吉の紀州攻めによって根来衆は壊滅的状況となったようですが、根来衆の残党は関ヶ原の合戦以降も活躍したそうです。
余談になりますが、子供の頃にTVで見た「仮面の忍者 赤影」で飛騨の里の影一族(赤影・白影・青影)と根来忍者が戦うシリーズがありましたが、その根来忍者とは根来寺の僧兵がモデルになっていたのかもしれませんね。



そして豊臣家が滅亡して徳川家の世となった時に家康の恩命により再興を果たしたのが、現在の智積院ということになるようです。
智積院は真言宗智山派の総本山とされ、教義のことは分かりませんが、成田山新勝寺・高尾山薬王院・大須観音寶生院など全国に3000余りの寺院を有する宗派といわれます。



講堂は大きな建物ですので門越しにしか写真に入りませんが、内部には客間に意匠の違う襖絵が奉納されていて庭園も見所のあるものでした。
客間は「胎蔵の間」「不二の間」「金剛の間」と続き、それぞれの間に田渕俊夫画伯の襖絵が展示されています。

最後の2間にあった襖絵は後藤順一という日本画家の作品で「浄」(桜にマガモ・ウサギが描かれる)、「百雀図」(スズメとカルガモの親子が描かれる)がありました。
この画家は日本画の中に野鳥などの生き物を描かれる作風の方のようです。

講堂は縁側を一周歩きながら襖絵を見る造りになっており、外には枯山水の庭園がありました。





一番奥の部屋は大広間になっていて華やかな色彩の襖絵で統一された部屋で、庭園が全て見渡せる造りになっています。
ゴロリと寝転がってみたくなるような落ち着く部屋でしたが、無作法はイカンと思いとどまります。



個人的には庭園愛はあまりないのですが、ここの庭園は綺麗でしたね。
ありきたりですが、枠越しに見る庭園には和んでしまって、しばらく縁側に座って見ていました。





講堂の出入口横には宝物館があり、長谷川等伯一門によって描かれた国宝障壁画を納められています。
桃山時代に狩野派に対抗した画家ということになるようですが、一言でいうと絢爛豪華な障壁画という印象を強く感じます。



智積院の本堂に相当するのが金堂になります。
金堂としては1701年に建立されたものの、1882年に焼失し、1975年に建てられた新しい建築物のようです。





本尊は密教寺院ですからやはり大日如来の坐像です。
結ばれている印は智拳印 ですから金剛界の大日如来ということですね。



金堂の右手には明王殿(不動堂)があり、ご本尊の「不動明王坐像」が祀られています。
祀られている不動明王坐像は智積院の源流である根来寺から持ってきたという説もあって、寺院としてのルーツへのこだわりが見られます。
またお堂自体は京都四条寺町にある浄土宗・雲院の本堂を譲渡されたものです。





最後にまわったのは弘法大師空海を祀った大師堂になりました。
ここはひっそりと静まり返った堂で落慶したのは1789年ということでした。



総門の正面にある大玄関の横では木蓮の花が満開でした。
奥には本坊・奥書院・宸殿になりますが、こちらは僧侶の方の領域ということになります。



智積院の入り口には大きな狛犬が左右に置かれていて少々違和感を感じてしまいます。
その違和感は大きさもありますが、おそらくその形によるものかもしれません。
どことなく古代エジプトの石像のような立体感を感じる石像ですね。



智積院の魅力は、名勝庭園と長谷川等伯一門による障壁画ということになるのかもしれませんが、境内には花の樹木が多く参拝しながら散策するにはいい場所だと思います。
すぐ近くには京都国立博物館があり、寺院も数多くありますので、東山界隈をゆっくり探索してみるのも面白そうですね。


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御朱印蒐集~京都東山 南叡山 妙法院門跡~

2017-05-12 06:46:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 蓮華王院・三十三間堂を拝観した後、東山界隈をウロウロしていると妙法院門跡という格式の高そうな門跡寺院が見えてきました。
予備知識はなかったのですが、この妙法院は近世から三十三間堂を管領していた寺院で、現在も三十三間堂を所管している寺院だといいます。
従って蓮華王院・三十三間堂の本坊になるのがこの妙法院ということになります。

“そういう縁でここへ来たのか”と妙に納得しながら入っていきましたが、残念ながらこの寺院は特別公開時以外は堂内は非公開になっています。
しかし境内の散策は自由でしたので、春の陽気もあって境内を散策してみました。



妙法院は天台宗の寺院で平安時代初期に最澄によって開基されたと伝わります。
天台宗では青蓮院(京都東山)・三千院(京都大原)と並んで「天台宗三門跡」に数えられる格式の高い寺院とされています。

開基された頃の妙法院は比叡山上にあったそうですが、後白河上皇の時代に京都の地へ移転したようです。
後白河上皇は法住寺殿の造営を進め、三十三間堂を造営することになるのですが、その管掌権の継承のため妙法院の寺基を確立したとされます。
尚、妙法院の門主は初代門主が最澄で15代門主が後白河上皇といいますから、後白河上皇とは非常に縁の深い寺院ということになります。



また妙法院は豊臣秀吉が建立した大仏殿・方広寺の本坊でもあったことから、秀吉とも縁のある寺院になるようです。
「庫裡」は1595年の建立とされ、秀吉の時代には千人の僧の食事を準備したといわれる建築物で国宝に指定されています。



屋根にある閣のようなものは「煙出し」と呼ばれる調理の際の煙を排出するためのものだったようですが、何とも立派な換気口です。
内部は吹き抜けで梁が巡らされているようですので特別公開の時に見てみたくなる趣のある庫裡です。




パンフレットより

庫裡の隣には江戸時代の建築物の「大玄関」があり、この建物は後水尾天皇中宮の東福門院(徳川秀忠と浅井三姉妹の江の娘)の御殿を1619年に御所より移築されたものだそうです。
内部には三室二十面の狩野派の襖絵があるようで、建築物と共に重要文化財に指定されています。



大玄関の正面には「唐門」があり、この四脚門は江戸中期の桜町天皇下賜と伝わります。
勅使門として使われていたようですが、五本筋塀が門跡寺院の格式を表していますね。



宸殿には阿弥陀如来像と室町時代の後花園天皇(102代天皇)からの歴代天皇と皇后の御位牌が奉安されており、善3代の各御祥月(命日)には法要が行われているようです。
今上天皇は第125代天皇ですから102代天皇以降の22代分の天皇が奉安されているということになります。



大きな堂宇が並ぶ中にあって本堂(普賢堂)は一番奥にひっそりと建てられています。
江戸時代の宝形造りの建物で禅宗様式の感がある堂ですが、堂内には重要文化財の「普賢延命菩薩像」が祀られていて、毎月14日の縁日に開帳されているようです。



寺院に入ってすぐの場所には植樹された蘇鉄があります。
養生されていたので何かよく分からなかったのですが、形が面白いので興味深く見てしまいました。
蘇鉄は温暖な気候の場所の樹木ですから冬越しの養生が必要なのでしょうね。

この蘇鉄は、明治期の廃仏毀釈で衰退した仏教界の鼓舞振興策としてタイ国より仏舎利の分骨運動を行い、分骨してもらった仏舎利を妙法院で4ヶ月奉祀した時の記念樹ということです。
超宗派で行った運動であったことから宗教振興の象徴とされたとありました。



境内散策だけの寺院めぐりはあまり経験がないのですが、行ってみると寺院にはいろいろな縁起があるのが面白いですね。
偶然とはいえ、三十三間堂を拝観した後に三十三間堂の本坊である妙法院へ行ったのには何がしかの縁があったのかもしれません。
といった風にすぐに縁付たくなるのも寺院めぐりの楽しいところです。



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御朱印蒐集~京都東山 蓮華王院 三十三間堂~

2017-05-10 20:36:36 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都には全国的に有名な寺院が数多くありますが、三十三間堂もその中の一つの寺院になると思います。
特に三十三間堂は仏像の素晴らしさを目当てに訪れる観光客の方や海外からの来訪者が多く、TVでもよく取り上げられているため実際には行ってなくても少し様子を知っている寺院ということになるのかもしれません。

当方も京都へ行って際に三十三間堂の近くを通ったりすることはありましたが、これまで縁がなく初めて参拝することが出来ました。
到着してみると、さすがに有名寺院とあって次々と観光バスが入ってきますし、外国人の方もお国を問わず姿が多く、国際的にも人気の高い寺院であることが分かります。



三十三間堂は後白河上皇が離宮としていた法住寺殿内に建立した堂宇の一つであったとされています。
1165年に上皇が平清盛に建立させたのが始まりで、その後焼失してしまいますが、1266年に後嵯峨天皇により現在の本堂だけが再建されたといいます。

焼失前には五重塔や不動堂などが建てられていたといいますから、かつては堂宇が立ち並ぶ大寺院だったようであり、法住寺殿の復元図を見ると阿弥陀峰から鴨川の河原まで続く広大な寺院だったことが分かります。
現在も三十三間堂には周囲を5本筋塀に囲まれた広い境内には東西南北に門があり、長大な本堂と共にその名残は充分にとどめています。



各門からの出入りは出来ないようになっていたため、上の西門は門をくぐった先にある小さなスペースから入門の気分だけを感じることになりました。
門には“三十三間堂”の看板と一緒に“洛陽古跡 通し矢射場”の看板が掲げられていて、有名な通し矢を示す看板となっています。

重要文化財に指定されている南大門は、1600年に豊臣秀頼によって建立されたとされている八脚門の造りになっています。
元々この門は、豊臣秀吉が東大寺を模して建立した大仏殿方広寺の南門だったそうです。
三十三間堂にはこの南大門の他にも西大門があったのですが、西大門は1895年の平安遷都1100年の記念として「東寺の南大門」へ移築されたそうで、この話は全く知りませんでした。



秀吉は大仏殿 方広寺の境内に三十三間堂を取り込んだと伝わり、その際に整備したとされる築地塀(太閤塀)が現在も残っていて、重要文化財の指定を受けています。
「太閤塀」の石碑には“天正14年 豊臣秀吉築造”と彫られていましたが、秀吉にとっての1586年は、全国統一をほぼ果たし、関白・太政大臣となって朝廷から「豊臣姓」を賜った頃ですから秀吉にとっては“我が世の春”の時代になりますね。





境内で本堂以外に目を引かれるのは朱色が鮮やかな「東大門と北門」でしょうか。
大きな東大門から北門には28m続く回廊がありましたが、東大門は1961年に後白河法皇770回忌に新造されたものだそうです。





ところで三十三間堂を建てさせたという後白河上皇の時代を紐解くと...。

保元の乱(1156年)では天皇の地位を巡って争い、摂関家藤原氏・源氏・平家がそれぞれ一族分裂して戦う。(勝利側)
平治の乱(1159年)で源氏と平家が争い、平清盛が源義朝(頼朝・義経の父)に勝利。(勝利側)
平清盛の台頭による対立があり、清盛を追放・討とうとするが失敗に終わる。
源頼朝が兵をあげ清盛死去(1181年)。
1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、頼朝は法皇に征夷大将軍を望むが、権力を頼朝に握られることに反対して与えず。
法皇死去後に頼朝は征夷大将軍となり、時代は鎌倉時代へと変わる。

摂関家・藤原氏、平家、源氏が群雄した時代に政治の権力をしっかりと握り続けて、院政を敷いた方だったようです。



それでは本堂の話になりますが、この堂は三十三間というだけあって長大な建物で全長は約120mあるといいます。
そのとてつもない長さに驚いてしまいますが、正面から見たのでは人間の視野では全景が見えないのではないかと思えてしまうような長大な建物です。





内部は画像などでは知っているとはいえ、あっと息を呑むような仏像群が並びます。
須弥壇にはまず国宝の雷神像(鎌倉期)が安置されていますが、絵での風神:雷神はともかく像としては初めて見ることになり、その迫力を下から横からと眺めることとなりました。


パンフレットより

あの有名な1001躰の「木造千手観音立像」(重要文化財)は想像していた以上の姿で、何段にも折り重なる姿には恐れ入るしかありません。
1001躰の観音像のうち、124躰は平安期のものとされ、他の800余躰は鎌倉期のものだそうですが、数が多いので1躰1躰をじっくり見比べるのは不可能です。


パンフレットより

むしろ「木造二十八部衆立像」(国宝)の方をじっくり見てしまうことになりますが、それぞれ155~165cmくらいの高さの個性豊かな仏像に見とれてしまいます。
インド起源の神々が多いと書かれていましたが、確かにゾロアスター教起源やバラモン教起源の像が見られます。
鎌倉期の仏像とされ、よく言われる鎌倉期の仏像の“写実的で力感のある”という表現がうまく当てはまるのかと思います。


パンフレットより

正面の仏像ばかり見て進んでいったので突然見えてきた「千手観音坐像」には思わず声を上げてしまいそうになります。
333cmと大きな千手観音で、堂のちょうど中央(仏像群の中央)に配置されているため、この厳粛な空間にこの仏像。線香をあげて何度も見返してしまいました。



パンフレットより

須弥壇には千手観音坐像を挟んで、残りの二十八部衆像と風神・千体千住観音像が並び、鎌倉仏の力強さとリアルさを堪能出来ました。
後陣は資料を中心に展示されていましたが、「不動明王(+眷属2)」・「地蔵菩薩」・「役行者」などが安置されていて、本尊・千手観音坐像のちょうど裏側にももう1躰の「千手観音」が祀られていました。
これだけの仏像を見ていると極楽へ来てしまったような気持ちになりますが、堂内の天井の垂木には極彩色の模様が残っていますから堂全体として極楽浄土をイメージしたものとなっているのかと思います。

さて、三十三間堂には他にも有名な「通し矢」の射場があります。
江戸時代に始まったとされる行事で、現在は新成人になった男女が毎年1月に60m(かつては約112m)先の大的を射って腕を競われているようです。



江戸時代には「大矢数」(一昼夜にどれだけ射通したか)などの種目があり、膨大な数の矢を射ていたこともあってか、射損じることあって堂を矢から保護するために鉄板を貼り付けたようです。
確かに矢の飛んでくる方向にだけ鉄板が貼られていますね。



これも有名な話ですが、堂の垂木の部分には射損じた矢が1本突き刺さっています。
随分昔のものかと思っていたのですが、実は昭和の時代に刺さった矢なんだそうですよ。



三十三間堂はいろいろと見所の多い寺院ではありますが、やはりこの寺院の仏像群には圧倒されてしまいます。
やや暗めの堂内に浮かび上がるかのような仏像群の空間に身を置いていると時間が経つのを忘れてしまいそうになります。時間を置いてもう一度行くべき寺院なのかもしれません。


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京都大原『マリアの心臓』~少年愛の美學展~

2017-05-07 18:22:22 | アート・ライブ・読書
 若い頃、バリ島の民芸品の木彫りや東南アジアのお面、福助人形や日本のお面などを集めるのが好きでした。
しかし、妻が球体関節人形(スーパードルフィー)のカスタムやドールウエアーの製作を始めた時に感化されて、球体関節人形の世界を知ることになりました。
その頃は一部のファンの間で、VOLKSのスーパードルフィーが熱烈に歓迎されていた時期だと思います。

『マリアの心臓』という人形博物館は、1980年代から2011年まで東京で拠点を表参道・元浅草・渋谷と変えながらも開館されていたといいます。
その東京の美術館は2011年に閉館してしまいましたが、京都大原の地で再開し、不定期開館ではありますが、このGWには展覧会が開催されています。



今回の展覧会のタイトルは『少年愛の美學展』と付いていて、さらなる関心が高まります。
「少年愛の美學」というタイトル。京都という土地。まず稲垣足穂への憧憬が思い浮かびます。

稲垣足穂はコアなファンを持つ大正~昭和に活動した作家で、その天体嗜好症と同性愛的なエロティシズムに影響を受けた方も多いかと思います。
足穂は後半生を京都で過ごしたのですが、有名な代表作の一つに「少年愛の美學」があるという次第です。

大原の三千院界隈は京都の寺院でも独特の雰囲気のある聖地といえますし、静寂さを兼ね合わせた大原の地に人形達が暮らしている。
思い入れたっぷりで大原・マリアの心臓へ訪れることになりました。



大原の参道には漬物屋や工芸品・食べ物屋・土産物屋が軒を連ねていますが、マリアの心臓は川沿いの路地を少し入った奥まったところにある古民家が人形館になっています。
開場の少し前に到着してしまったため、玄関横の長椅子で待つことになりましたが、応対してくれた人は“長髪・初老”の男性で如何にもアーティストといった風情の方でした。
実はこの方が「マリアの心臓」の主催者であり、人形蒐集家・写真家の「人形屋佐吉こと片岡佐吉さん」だったのは、この時は露知らず。



庭にも西洋・東洋の陶器・石の人形があり、玄関には天狗・バリの仮面と一緒に元三大師のお札まで貼ってあるというチャンポンな雰囲気になっています。
この日は開館後すぐに何人かの来場者あったため、シンボルマークの「『古自転車と小便小僧』は出されていなかったのは残念でした。



 追加! 後日マリアの心臓へ行かれた方にお願いして『古自転車と小便小僧』の写真を撮ってきていただきました。
いい感じの写真ですので2枚UPします。Mさんありがとう!

 
(Mさん撮影)

建物の中へ入ると、まずは西洋のビスクドールの部屋でした。フランスやドイツの1800年代のアンティークドールが並びます。
室内には球体関節人形の作家「三浦悦子」さんのドールや「四谷シモン」さんのベベドールも展示されていましたので、自然と気持ちが高ぶってきます。

三浦悦子さんの“裸体の少女の胸からお腹の部分が弦楽器(バイオリン)になっている義躰の少女”のサディステックな姿にまず衝撃を受けます。
義躰標本となった痛々しくも儚い少女の人形の世界ですが、三浦悦子HPはメディカルな実験室のごとくの構成で、薄暗い実験室で義躰少女が作られるゴシック小説のような世界です。
同じ部屋には「天野可淡」さんの「胎児31の顔」という胎児の顔を粘土で製作した作品があり、それだけでも強烈な印象を受けますが、先述の片岡佐吉さんの撮影された写真で見ると更に“異形の魂”とでも感じざるを得ない作品へとなります。



続く和室2室には明治・大正・昭和期の日本人形の「市松人形」「抱き人形」「福助人形」などが並びます。
部屋へ入ったとたんにある種の緊張感が走りますが、すぐに薄れてきます。

妻に言わせると、“人形が侵入者に対して不安感を抱いて緊張して雰囲気が張り詰めたが、こちらが人形に対して無害であることに安心して人形たちの緊張感がほぐれたから。”と言っていました。
古道具屋などにある市松人形と違って、日常から持ち主の愛情を受けている人形だから変な怖さがないのだろうともいえます。



1階の一番奥にある部屋へ入った時にはその圧倒されるような美しさに思わず声を上げてしまいました。
部屋には人形作家・恋月姫の「天草四郎が2躰」。

ほぼ等身大の人形の鬼気迫るような迫力と美しさ。
カリスマ的なキリシタンでありながらも悲劇の最期を迎えた天草四郎を天に誘うように舞っている天使たち。
異常なまでの迫力のある天草四郎の周囲には、天使が舞う燭台やシャンデリア。添えるように飾られているシャクナゲの花が美しい。

天草四郎に見惚れて元の部屋に戻ってくると、作品を展示しようとしている作家さんがいます。
少年の裸像人形の写真だと思いましたが、あまりの精巧さに思わず作家の方に話しかけてしまいました。

聞いてみると、それは創作人形の写真ではなく、コンピューターグラフィクスで造った作品とのことでした。
この方は、中村淳次さんという作家さんで“この分野でCGでの作品を造られている人はほとんどいないんだけど、10年ほど前からやっていて今回が初めての展示会なんです。”とおっしゃっていました。

ブースには「横たわる裸像の少年」「ハクトウワシを背にした少年」「奥行のある額に入れられた蜻蛉の羽を生やした少年」(全て正式な題名は分かりません)などの4つの作品が次々と並べられていきます。
精密でリアルでありながらも耽美な作品としか言いようがないのですが、ご本人は“昆虫標本を集めるのも趣味なんです”とのことで、“蜻蛉の羽の裸体の少年(タイトル不明)”などはまさに少年を標本にしたような作品ともいえると思います。



梯子を登って天井裏になる屋根裏部屋へ行くと「天野可淡」さんの世界が広がっています。
丈の30cmほどの杖を頼りに低い天井裏の梁をくぐりながら、見るドール達のおどろおどろしくも耽美な世界。
屋根裏部屋に鳴り響いている音楽は、寺山修司の映画に流れるような怨や念の情念の音楽で、何者かが屋根裏部屋を徘徊しているような錯覚を起こしそうになります。

天井裏で書いた拙メモをそのまま書きます。
“古民家の天井裏の梁をくぐって這い蹲りながら可淡のドールを見る。
魂が入っているかのような球体関節人形ではあるが、人形から魂はすでに抜け、魂は現世を漂い、人形(ひとがた)だけが屋根裏部屋に棲んでいる。”

受付まで戻ってくると1冊の写真集が気になって仕方ありません。
片岡佐吉さん撮影の天野可淡作品集なんですが、ドールの魅力を引き立たせるような写真を撮られています。
大原を含めた屋外ロケでの撮影もされていて「可淡+佐吉」の世界が拡がります。


「天野可淡 復活譚」 写真:片岡佐吉

本(写真集)の解説文は大原在住の作家「綾辻行人」。
室内展示を見て、そのイメージを連想しながらも名前が思い出せなかったのは漫画家の「丸尾末広」。
受付に綾辻行人と並んで丸尾末広の本が置かれていたため、名前を思い出すことが出来ました。

“丸尾さんって昔「ガロ」で書かれていた方ですよね。”と佐吉さんに聞いてみると、“友人なんです。”とその世界の方との一瞬の出会いに嬉しくなる。
受付の女性の言葉もあって、写真集に片岡佐吉さんのサインを頂きました。



天野可淡さんは1953年生まれの女性で、美大卒業後に球体関節人形の創作活動を始めて個展などを開かれていたが、1990年にオートバイの交通事故により37歳で逝去されてしまいます。
片岡佐吉さんの写真集は、天野可淡さんの死後25年後に【 天野可淡 復活譚 】として発売されたものです。

マリアの心臓(特に屋根裏部屋)で人の心の内面にある非常にディープな部分を刺戟されてしまい、見た後しばらくは日常的な現実に戻ってくることが出来なくなりました。
京都大原の地には“日常とは違う、もう一つの日常の空間が存在している”とでもいえばよいのでしょうか。


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