僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都 新京極通り 錦天満宮~(四条パクチー)

2017-06-29 07:43:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 神社には「神社自体が発するエネルギーにあふれた神社」と「参拝する人々のエネルギーに満ちた神社」があると思います。
京都・新京極通りのアーケードの中にある錦天満宮は後者にあたると思いますが、信仰の方・地域の方・参拝者・観光の寄り道の方などのエネルギーに満ちた活気のある神社だと感じます。

錦天満宮は平安時代前期の10世紀初頭に菅原道真の生家の「菅原院」に建立されたとされます。
道真死去後には「歓喜寺」という寺名となり、移築・他寺院への寄進などの紆余曲折を経て、明治の神仏分離令により天満宮だけが現在の地に独立する形で建てられたと伝えられています。



神社の鳥居は、寺町通りと新京極通りの間にある通りに建てられてありました。
商業テナントのビルは後から建てられたのだと思いますが、ミリミリの位置にビルが建っていますね。



提灯が掲げられている内部が天満宮の本宮になりますが、新京極通りを歩いている人はほぼ白人系の外国人なのが京都ならではというところです。
境内にも外国人の方が多く見られる国際観光都市・京都らしい光景です。外国の方にはこういう日本の神社・仏閣の文化を見てどう感じるのか気になりますね。



錦天満宮は「菅公聖跡二十五拝」の第2番とされ、道真ゆかりの天満宮で由緒深い神社を順拝する菅原道真の聖跡25社に選ばれています。
菅公聖跡の25社は京都からスタートして奈良・大阪・兵庫・香川・広島・山口・福岡と巡っていき、最後の第25番の京都・北野天満宮になるとされます。
まさしく道真の足跡を追っていく巡礼ということになりますね。





本宮に参拝されているのは「観光客・アジア系外国人・白人系外国人」、着物姿での参拝の方もおられますのでまさに多種多様な参拝客の神社です。
御朱印を頂く時に前に並んでいた方がお守りを買われていたのですが、宮司の方はお守りを三方(さんぽう)に乗せて、祝詞をあげてから渡されていましたので、非常に丁寧な作法の神社だなぁと感心致しました。

天満宮らしく撫で牛が祀られていて、撫でられた部分はすっかり色が変わっています。
横に建てられた石標には明治と書かれていましたので、明治の頃から学業や健康を祈願して撫で続けられてきたのでしょう。



さて、身を清めた後はヘルシーなタイ料理をいただきましょう!ということで「四条パクチー」へ行きました。
店の雰囲気からしてタイ風(アジア風)なのが嬉しいところで、2階席もありましたよ。



吹き抜けになっている2階の席で食事をしましたが、料理は美味しかったですね。
タイ米にグリーンカレーとガパオ、生春巻きと揚げ春巻きに鳥唐、トムヤムスープにタイえびせん、デザートはタピオカココナッツと充分なボリュームです。
結構辛かったので額から汗をにじませながらの食事になりました。



京都市内はどこもかしこも人が多すぎるのが困りものですが、活気を感じさせてくれる場所が多いですね。
静寂な場所が好きなんだけど、活気あふれる場所も好き、...といった両面を満たしてくれる都市なのかなと思います。


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御朱印蒐集~岐阜県 両界山 横蔵寺~

2017-06-25 15:50:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「即身仏」とは衆生救済を願って厳しい修行のすえ、自らの肉体をミイラにして残した僧侶のこととされています。
日本で確認されている即身仏(ミイラ)は焼失してしまたものも含めて20数体あるといい、その内の1体が岐阜県にある両界山 横蔵寺に安置されていますので出先から足を伸ばして参拝に訪れました。

横蔵寺は西国三十三ヶ所観音霊場の満願寺の谷汲山華厳寺から10㌔程の山間にある寺院はありました。
紅葉の名所になっているようですが、「即身仏(ミイラ)の寺」として、また22躰の重要文化財の仏像などを所蔵していることから「美濃の正倉院」と呼ばれることのある古刹です。

 

横蔵寺の開山は寺伝によると、801年桓武天皇の勅願を受け、伝教大師・最澄が自作の薬師如来を祠って開山した寺とされています。
開山時に祀った薬師如来像は、最澄が比叡山延暦寺を開山する時に彫って比叡山に祀った薬師如来と同じ霊木から造ったと伝わる由緒から、織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちで焼失してしまった延暦寺へと移され、根本中堂のご本尊として祀られているとされます。
その代わりとなって横蔵寺に祀られている薬師如来は、元々は京都の北(深泥ヶ池)の畔に祀られていたものと伝わりますが、秘仏となっており御開帳は60年に一度ということです。



寺院は平安・鎌倉時代には、この辺りの学問所や文化の中心として栄え、鎌倉時代には38の僧坊があり、山内に百数十人の僧侶が住んでいたという記録が残っているようです。
しかし戦国時代には次々と寺領を侵略され、「元亀の法難」(延暦寺焼き討ち)ではすべての寺領を信長に取り上げられてしまったとされます。
信長死後の慶長年間(1596~1615年)になって再建の運びとなり現在に至るといいます。

石標の横を歩いていくと、まず赤い医王橋を渡ることになります。
城壁のような石垣と石畳が特徴的ですが、歩き進むと仁王門が見えてきて、古刹へ訪れた感が高まりテンションが上がります。



この仁王門は1675年に完成したとされる檜皮葺の楼門となっています。
2階部には鐘楼が見えますので、鐘楼門ということになりそうですね。
参道の横の土壁の筋が5本あり、五本筋塀になっている理由は不明ですが、落ち着いた雰囲気のある鐘楼門です。





仁王門ですから仁王様の大草鞋が奉納されていますが、現在は仁王様は瑠璃殿という重要文化財の所蔵館に安置されてあります。
仁王像は左に金剛力士、右に密迹金剛力士が納まるようになっていて、金剛力士像2躰は鎌倉時代前期の1256年、肥後別当定慶の名作です。



境内に入ると目に入ってくるのは檜皮葺の三重塔。
1663年の完成とされており、趣のある建築物になっています。初層には改修の跡が見られますね。





線香の火が絶えない香堂の前に本堂が建てられています。
1671年の完成とされており、他の建築物の再建時期からみても慶長年間に再建の運びとなった伽藍が1600年代後半になって次々と再建していったということなのかと思います。



本堂の左手から境内を進んでいくと観音堂を経て、仏像所蔵庫である瑠璃殿へ到着します。
内部には22躰の重要文化財の仏像が安置されていますが、さすが「美濃の正倉院」と呼ばれるだけあって素晴らしい仏像が並んでいます。

左列の手前側にはまず「金剛力士像」。
普段、仁王門に安置されている力士像を見ることが多いですが、手の届くような位置にある力士像は大迫力で、その力感には圧倒されるものがあります。


ポストカード

続いて鎌倉時代作の「十二神像」の内の6躰が安置。
正面には両端に南北朝期の「四天王像」。増長天・広目天の横には見慣れない仏像がありましたが、この仏像は「深沙大将立像」という仏像でした。

深沙大将立像は「西遊記」のモデルとなった玄奘・三蔵法師のお伴の沙悟浄とされています。
蛇を持って体に巻きつけていて仏教の守護神とされていて、毘沙門天の化身とも道教の泰山府君の化身とも呼ばれる平安時代中期の仏像です。


ポストカード

正面中央には厨子の中に本尊の胎内仏が祀られていますが、扉は閉じられています。
横にあったのはこれも今まで見たことない「板彫法華曼荼羅」が安置されていて関心を引きます。

1枚板に浮き彫りされた曼荼羅で、中心の多宝塔の中に釈迦・多宝の二仏が並び、左右に普賢・文殊の菩薩が2躰。
四隅には四天王が配置されている平安時代後期の板彫りの曼荼羅です。


パンフレット

「板彫法華曼荼羅」の隣にはかつては三重塔に安置されていたとされる「大日如来坐像」。
平安時代末期の1183年の作とされていて、金剛印を結んだ金剛界の大日如来で美しい仏像でした。


ポストカード

大日如来坐像の横には多聞・持国の2躰。
右列には十二神像の残り6躰とやはり大迫力の密迹金剛力士像が安置されていて、瑠璃殿でゆっくりとした時間を過ごしました。

さて、横蔵寺の名を有名なものとしている即身仏が祀られた舎利堂へと参拝します。
この舎利堂には妙心法師の即身仏、いわゆるミイラが祀られています。



即身仏になるための修行は、最初に五穀・十穀を絶って木の実などだけを食べて、体の脂肪や水分を落としていって即身仏への体を作っていく。
次に地面に3㍍ほどの穴を掘り、空気穴のある木棺に入り、途中でお経を読み続けるそうです。その際には漆を飲んで防腐剤として死後の腐敗を防止したともされています。

妙心法師は、横蔵の地に生まれたとされ、西国・坂東・秩父の三十三ヶ所、四国八十八ヶ所を巡礼した後に信濃の善光寺で受戒されたとされます。
その後、富士大行者と称して富士講の先達を勤め、1817年に山梨の御正体山の洞窟で断食して37歳の時に入定されたと伝わります。
この妙心法師は紆余曲折を経て、妙心の出身地である横蔵に1890年に移され、横蔵寺で祀られることとなったようです。

横蔵寺の即身仏は内陣まで入ってすぐ近くまで近寄って見ることが出来ます。ガラス越しではありましたが、輪袈裟をかけただけの裸体で手を結んだ姿です。
かなり小さく見えましたので、妙心法師は小柄な方だったのかと思われます。


パンフレット

全国で確認されている即身仏は20躰余りといわれますが、即身仏の荒行に挑まれた僧は実際はもっと多かったかと思われます。
途中で断念した僧もおられるでしょうけど、腐敗してしまったり、掘り出してもらえず未だに土中にいる即身仏もあるかもしれません。
妙心法師が即身仏となったのはちょうど200年前の1817年のこと。妙心法師は何を祈願して即身仏となったのでしょうか。


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山岸凉子展「光-てらす-」-メタモルフォーゼの世界-~京都国際マンガミュージアム~

2017-06-23 07:41:58 | アート・ライブ・読書
 京都国際マンガミュージアムで『山岸凉子展』の開催が始り、待ちかねたように足を運ぶことになりました。
マンガミュージアムへ訪れるのは2014年に開催された『青池保子 華麗なる原画の世界~「エロイカ」から「ファルコ」まで~』以来となりますが、今回の展示会も“よくぞ山岸凉子をやってくれた!”と開催決定からずっと楽しみにしていた展示会でした。

山岸凉子さんの作品はバレリーナ物の「アラベスク」と「舞姫 テレプシコーラ」以外はほぼ購入して愛読していた大ファンなんですが、何といっても「日出処天子」は衝撃の作品でした。
当時連載されていた「月間LaLa」の発売日には本屋へ駆けつけて購入して何度も読み返していた記憶があります。いつもいいところで話が終わってしまうのですが、LaLaは月刊誌でしたから発売日を待つ1ヶ月の日々の何と長かったことか。



タイトルに「変容」と付いている通り、展示会は山岸凉子の年代ごとのメタモルフォーゼ(変容)がひと目で分かるように14のコーナーで構成されていました。
ミュージアムの入口の等身大の厩戸皇子が置かれてあり、気の早い当方の心はその時点すでに飛鳥時代へ飛んでいってしまいます。

『1.マンガ家デビューと初期作品』
『2.大ヒット作「アラベスク」の誕生』
『3.「アラベスク第2部」の連載』

初期の作品は当時よくあった少女漫画の画風(目がやたらと大きい丸顔)でしたが、少し進むと山岸色の強い絵柄のものが伺われるようになっていました。
絵柄はファンの望むような絵と自分の書きたい絵柄との折衷の絵だったようなことが書かれてあり、描く絵に対する葛藤があったことも伺われます。



『4.短編・口絵名作選 1973-1979』
『5.「花とゆめ」「LaLa」:の創刊』
『6.「ASUKA」での仕事 円熟期』

1976年頃からの作品からが当方の読んだ作品になりますが、この頃から“人魚やメデゥサ”などの西洋の神話の世界を題材にしたものや、純日本的な題材を使った作品が主流になってきます。
共通するものの一つとして“後天的に精神の偏りを持った人(例えば親の異常な溺愛による精神的な偏り、思い込みが偏執的に強すぎることによる精神的な偏り”を持った人物が主人公として創造的な絵の構成と精密な心理描写の中で描かれ、独特の山岸ワールドの作風に魅了されます。
特にASUKA連載の作品(「わたしの人形はよい人形」など)は“日本の神話・民俗信仰に加えて「霊的な題材」”が増えてきて、夜に読むとゾッとしていまい一人でトイレに行けなくなるほど怖い!


ポストカード

『7.代表作「日出処天子」誕生』

超一流と呼ばれる作家は時に神がかり的な作品を書かれることがありますが、天才・山岸凉子にしてこの「日出処天子」はまさに神がかり的な作品といえるのではないでしょうか。
題名のごとく厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我一族(馬子・蝦夷・入鹿)を中心とした大河ドラマの設定ですが、超能力・同性愛・近親相姦・実母への憎悪などのおどろおどろした描写と並行して、各人の愛情物語が描かれているにも関わらず平穏に愛を成就できた人は誰も出ては来ないのです。

仏教伝来の時代に崇仏派であった蘇我氏との血縁関係のあった厩戸皇子ですから、仏が出てくるシーンも何度かありますが、登場する仏は何も語らず、そもそも厩戸皇子が仏を信じているのかどうかも怪しい。
しかし、仏を連想させるかのような厩戸皇子の姿はあまりに神々しくも美しく孤独です。
蝦夷への叶うことのない愛と嫉妬心に身を焦がしながら、最後は愛されることのなかった実母によく似た目をした幼妻と暮らすことになります。


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『8.モノクロームの美しさ』
『9.短編名作選 1981-1998』
『10.様々な題材を描いて』

山岸漫画に登場する人物(主役級)は細身で繊細なイメージが強かったのですが、この時期以降の山岸作品には「ヤマトタケル」のような力強い人物が主役となったり、ツタンカーメン・巫女、障害を持ちながらも不思議な力を持つ人の話が出てきます。
古代エジプト・日本的で民族的な話などにメタモルフォーゼ(変容)しながらも山岸作品の根底にある物語には一貫性があると思います。


ポストカード


ポストカード

『11.エッセイマンガ&ふろく』
『12.女性を描く』
『13.テレプシコーラ-舞姫-』

少女漫画家の方って自画のイラストを書くと、ホントは美形の方なのにコミカルな自画を描かれる方が多いですね。
大島弓子さんも自画を“モジャ・オバサン”みたいに描かれますが、山岸凉子さんも自画は“ロンパリのズッコケおばさん”のように描かれます。厩戸皇子を描く人と同じ手によって描かれているのですから面白いものですね。



『14.2000年代の作品』

山岸さんは現在、モーニング誌上で「レベレーション-啓示-」というジャンヌダルクを主人公とした漫画を連載されています。
コミックとしてはまだ2巻までしか出ていませんので話はこれからといった感がありますが、主人公のジャンヌダルクが厩戸皇子を連想させるような顔(目)をしており、イングランドとの戦争の中で超常現象を起こしていく話になるようですので楽しみな作品です。



京都国際マンガミュージアムは今年度から荒俣宏さんが館長となられたそうです。
荒俣宏さんも10代の頃からのファンでしたので、マンガミュージアムにも一層の愛着が湧きます。

「帝都大戦」で一般的に認知される以前の著作は、専門的な内容の本が多く、当方の頭では理解困難で読了することが苦行に思えるような本でした。
その頃は“これは読んでおかないといけない”などという妙な意識を持っていて、必死になって読んでいた記憶があります。



最後に我が家の球体関節人形で厩戸皇子(顔はカスタム)です。
妻が当方の熱い要望に答えて作ってくれた球体関節人形の「日出処天子」厩戸皇子バージョンで、“ボークスSDの13少年“にカスタムのヘッドを組み合わせて衣装を作製しています。





でもこの厩戸皇子は永遠の未完成品です。


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はんなり...京都の舞妓はん!

2017-06-18 18:39:39 | 風景・イベント・グルメ
 京都のとある神社に参拝していると、黒山の人だかりがありました。
観光バスのツアー客が到着して記念撮影でもやっているのか?と思ってよく見ると...なんと舞妓さんの撮影会をやっているではありませんか。

いくつかのグループに分かれ各ポイントで舞妓さんを撮影されていましたが、撮影されている大勢の方はカメラも本格的な機材をお持ちで、撮影にもかなり熱が入っているようでした。
さすがに集団と並んで撮影という訳には行きませんので、参道から見える範囲の場所からスナップ写真を数枚撮らせていただきました。



撮影会の中心部からは舞妓さんへのポーズの注文の声や、指導されている方からはカメラの設定(シャッタースピードなど)の声が聞こえてきておりましたので、参加されていた年季の入ったカメラマンの方々は素晴らしい写真を撮られていたと思います。
また、あれだけの数のカメラが向けられていても全く動じない舞妓さんも凄いものだと感心してしまいます。



最初の舞妓さんは“赤い傘と菖蒲?”をアクセントにして撮影されていましたが、次に見た舞妓さんは“ひょっとこ・おかめ”のお面がモチーフになっているようでした。
“ひょっとこ”のお面で半分顔を隠したポーズをとられてもいましたが、京言葉でいう「はんなりしたおなごはん」といった趣がありますね。



誰かにリクエストされたのでしょうか?舞妓さんが口をすぼめて“ひょっとこ”の顔真似をしてくれましたよ。
「どうどっしゃろ」なんて言葉が聞こえてきそうな雰囲気です。



境内に流れる川の畔には2人の舞妓さんが楽しそうに話をしている姿がありました。
もちろん撮影用のポーズですが、水に手を浸して水遊びする姿も見られましたので、撮影されていた方はシャッタ-チャンスにさぞや心躍ったことでしょうね。



遠巻きから見るだけでしたが、舞妓さんの何とも心和む姿を見せていただきました。
参拝した神社の神様から頂いた贈り物ということですね。


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御朱印蒐集(西近江七福神)~高島市 立石山 大崎寺~

2017-06-14 18:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 十数年も前のことになりますが、高島市の海津大崎にあるこの大崎寺に参拝した時のこと。
歩きながら妙に肩が重く、片膝も縛られるように痛くなってきました。

“なんか苦しい”と思いながら、お寺の裏手から琵琶湖の岸へ降りていくと、急に体が楽になってくる。
その時に目の前にあったのは、大きな岩穴の中に祀られていた不動明王(波切不動)でした。これが不動明王を意識した最初の出会いです。
別にオカルトめいたことを言うつもりはありませんが、あの時の不動明王をもう一度見てみたいと思い立ち、参拝致しました。



海津大崎は桜で名所として有名で、花の季節には大勢の花見客でごった返す場所ですが、普段は奥琵琶湖のすぐ横を走る湖周道路を観光する方がチラホラといった感じでしょうか。
大崎寺もさぞやひっそりしているかと思っていましたが、参拝に来られる方の姿はあとを絶たないようでしたから、信仰の方以外にも奥琵琶湖観光の方も立ち寄る寺院のようです。



石段を登っていくとすぐに朱色の本堂と美しい奥琵琶湖の姿が見えてきます。
大崎寺には実は昨年も御朱印蒐集をかねて参拝したのですが、今回は「西近江七福神」の札所としての参拝と前回は失念していた波切不動さんの参拝です。





拝所で参拝していると、境内の掃き掃除を終えてくつろいでおられる若い僧の方がおられたので、寺院の中で参拝したい旨を伝えてみました。
すると“畳の間(内陣)”までならどうぞお上がりください。”とのことでしたので上がらせてもらうことになりました。

我ながら関心事が変わったなぁと思うのは、昨年訪れた時には気にならなかった仏像にまず関心が向いてしまったことでしょうか。
いつの間にやら仏像好きになっているのは、寺院巡りで何度も衝撃的な仏像に出会った影響なのだと思います。



須弥壇には厨子の中に本尊の十一面千手観音立像が安置されているようですが、開帳はされておらず、巳年の特別な期間だけの御開帳ということでお前立ちが祀られていました。
ご本尊の左右に安置されている仏像は共に鎌倉期の作で、右に「不動明王」、左に「毘沙門天」が祀られています。ご本尊の千手観音は室町期の作とお聞きしました。



脇陣には高僧の像が2躰祀られていたのですが、大崎寺は真言宗の寺院ですから一人は弘法大師・空海として、もう一人どなたが祀られているのか分らない。
僧の方に聞いてみると、空海と興教大師と教えて下さいました。はて?興教大師とは?

興教大師は「覚鑁」という僧で、京都・仁和寺で学んだ後に高野山で修行し、平安時代の後期(後白河上皇の頃)の真言宗の中興の祖とされる方です。
その後、高野山金剛峰寺の座主に就任して真言宗の立て直しを図ろうとしたが、教義上の対立などがあり、高野山を追われて根来寺を建立した...というところ(根来寺の話)まで説明を受けてやっと思い出すことが出来ました。

覚鑁は新義真言宗を打ち立て、真言宗智山派(京都・智積院)や真言宗豊山派(奈良・長谷寺)の派の源流になる方とされます。
“大崎寺は「真言宗」となっていますが、智積院を本山とする智山派の寺院なんです。”と説明をいただき、少し前に参拝した京都・智積院の記憶が蘇ってきてなぜか嬉しくなる。



本堂を出て右手に行くと、「安土の血天井」と呼ばれる阿弥陀堂があります。
豊臣秀吉は天下統一を果たした後、安土城の城材を使って大崎寺を修復したとされ、現在は阿弥陀堂の天井に使われているその由来から「安土の血天井」と呼ばれているそうです。
ちょうど阿弥陀堂の天井を撮影されていた方がおられたので“血痕は見えますか?”と聞いてみたところ“木材の色に同化してしまっているよ”とのことで、写真を見せてもらっても全く判別は出来ませんでした。



境内にある一番奥の大岩まで登ると、今度は琵琶湖岸へ降りられる細い石段があります。
手すりがあったから良かったものの砂利や落ち葉が積もっていたため、何度も滑りそうになりながら湖岸へ降りて不動さんの岩穴を探してみる。

しかし、何ということか岩穴がジャングル化してしまっているではありませんか。
この草木を掻き分けて岩穴まで進むかどうかはかなり躊躇してしまいましたよ。



何とか草木を掻き分けて岩穴まで進んではみたものの、「波切不動さん」の姿が確認が出来ません。
お寺の方に聞いてみても、何年も行ってないので分らないとおっしゃってます。これは非常に残念なことでした。



最後に海津大崎から見た奥琵琶湖の光景です。
真ん中に見えるのは竹生島。湖西の岸部は断崖が多いのが特徴的です。
年々琵琶湖愛が高まってきているのですが、やはり琵琶湖の風景は美しいと思いますね。




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御朱印蒐集(西近江七福神)~高島市 白髭神社~

2017-06-11 17:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 高島市にある白髭神社は琵琶湖上にある湖中鳥居が有名な神社で、かねてよりの家族の希望もあって参拝することになりました。
個人的には湖西地方の神社・仏閣で作られている『西近江七福神めぐり』のお参りを兼ねての参拝ということです。

白髭神社は近江最古の大社といわれており、社記によると第11代天皇の垂仁天皇25年に皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が社殿を御創建とあります。
垂仁天皇25年が西暦で何年になるかは神話の世界になってしまいますので、詳しい年代は分かりませんが、紀元前か紀元の頃の年代になるようです。



第40代天皇の天武天皇の時代の675年には勅使を持って「比良明神」の号を賜るとありますから、古代から現代に至るまで続いてきた社になります。
神社は琵琶湖のすぐ横で道を挟んだ反対側にありますが、琵琶湖にある大鳥居へ行くには車がビュンビュンと通る道路を渡らなければならないのが少し難点でしょうか。



道路の琵琶湖側からみた神社の鳥居が上の写真で、境内の中から見た湖中鳥居が下になります。
2つの鳥居が重なって見えるため「鳥居in鳥居」となりますが、走行する車がなかなか途切れず写りこんでしまうのが困りものでした。



境内へ入るとすぐに拝殿・本殿があり、まず拝殿から参拝することになります。
拝殿は1879年の建築ですが、本殿は豊臣秀吉の遺命を受けて、秀頼が1603年に建立したもので片桐且元書の棟札が残されているそうです。

豊臣家が天下を治めていた頃の神社仏閣建立に片桐且元の名がよく登場しますので且元が普請を仕切っていたのでしょうけど、これだけあちこちで名前を聞くということは当時の豊臣家の財政はかなり豊かだったのだろうと思います。
尚、本殿は国の重要文化財に指定されています。



本殿のすぐ左には若宮神社があり、この社殿も秀頼による“再建の記録(棟札)あり”と棟札が残されているようです。
神社の境内は山に向かって連なっていて、本殿の後ろの石段を登っていくと境内社が並びます。



摂社は「伊勢両宮(天照皇大神宮・豊受大神宮)」「八幡三社(加茂・八幡・高良)」「天満神社」「波除稲荷社」「岩戸社」「寿老人社」「弁財天社」と10柱のお社があり、全ての社に参拝するのは大変です。



白髭神社の御祭神は、導き・道開きの神とされる「猿田彦命」を祀っており、“大にしては国の行く手を示す神であり、小にしては道の守り神として悪いものを防ぎ、よき方への導きの神”といわれます。
高島は南に大津・京都、北に敦賀へとつながる道中にあり、琵琶湖の海運の拠点の一つになりますから、道の守り神となってきたとも思えます。

七福神めぐりでの白髭神社の神は「寿老神」ですが、その寿老神の祠はひっそりとした感じで高台にある弁財天の祠と並んで建てられていました。



更に上へ行くと最後の祠は岩戸社があります。
この岩戸社は古墳の上に建てられていますが、この地域は「白髭古墳群」と呼ばれて古墳が多く残り、山の山頂には磐座と古墳群が残っているそうです。



岩戸社は古墳の石室を祀るようにして建てられており、祠の中には石室の開口部があります。
祠の後部には石室の天井部とされる石が祀られていました。





また、祠の横には大きな磐座が結界の中に祀られています。
神々しい感じがするこの磐座は、白髭神社の背後にある三尾山の上にある磐座に方位を示しているといわれていると書かれているものもあります。



さて、琵琶湖の湖中大鳥居はやはり見ごたえがありますね。
道路端から58.2㍍、高さ12㍍、柱幅7.8㍍の威風堂堂とした姿です。





高島市には複数の古墳群が残されているようですから、古墳時代には有力な豪族達が存在したと考えられています。
第26代継体天皇は高島市の生まれだそうですが、地方出身者で直接的な天皇後継者(血縁者)でなかった継体天皇がなぜ即位できたのか?
話には諸説あるようですが、継体天皇の出自とされる古墳時代の高島は特殊な地域だったのかもしれませんね。


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湖北の観音巡り~長浜市 朝日山 常楽寺(聖観音立像)~

2017-06-08 18:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市の旧湖北町にある「山本山」は、標高324㍍の“伏せたお椀のような形の山”と形容される山で、“毎年オオワシが飛来する山”として馴染みがあるかと思います。
山本山は「○○富士」と呼ばれたとしても全く違和感のない形をしている山ですが、なぜか“山本山を○○富士と呼ぶ”といった話は聞いたことはありません。
『湖北の秘仏特別公開』の最後となる4寺目はその山本山にある「常楽寺」に参拝致しました。

特別公開の機会があるたびに湖北の観音めぐりをしていますが、湖北には数多くの観音堂がありますので、これまで見てきた観音様は湖北の観音のまだほんの一部です。
湖北は極端な話、村ごと・集落ごとに観音堂があるような地域ですから、まだ見ぬ観音様が多いのは、それだけ楽しみがあるということ。機会を見てボチボチと参拝しようと思っています。



今回の特別公開イベントでは3つの観音堂や寺院を訪れましたが、どのお堂も集落の中のややこしい場所にあって、迷ってしまい地元の方に場所を教えてもらいながらの参拝になってしまいました。
この常楽寺も場所がわからなかったため畑仕事の方に場所を聞いてみると...
“山本山の上にあるわ!”とのことでしたので、もしや山本山登山しないと行けない寺院なのか?と不安になります。



実際は山道を100㍍ほど登るだけで到着しましたので一安心でしたが、集落の中にあるとばかり思っていましたので、これは思ってもいなかったハイキングとなりました。
さて、この山本山も湖北の山の例に漏れず、頂上にはかつて城があったとされており、頂上付近には城跡の痕跡が残されているそうです。



石標には「山本判官湖城址」と彫られていて、平安時代後期の寛治元年(1087年)に清和源氏の一族がこの地に山本山城を築き、一族は15代続いたとされています。
戦国時代になると浅井家中の重臣・阿閉貞征が山本城を任されていたものの、織田信長の「浅井攻め」の時に浅井家の支城の立場から織田方に主君を変えてしまいます。その後に浅井家は滅亡。

「山崎の合戦」では今度は明智光秀について、秀吉軍と敵対しますが明智軍は敗退、阿閉一族は全てが処刑されてしまったそうです。
その時に城が落ちた後は廃城になってしまったということですから、山本山城は時代に翻弄された城だったようです。



常楽寺は現在は「真言宗泉涌寺派」の寺院ですが、かつては山本山城主であった山本判官義定公が祈願所として七堂伽藍を配したとされますから、平安時代の後期に創建された寺院なのかとも考えられます。
その後の戦乱の世には何度も兵火により焼失したが、聖観音菩薩像・不動明王像・弘法大師像は難を逃れて村人により護持されてきたと伝わります。



明治になると神仏分離令により麓の神社から現在地に移されたそうですが、その頃の常楽寺は無住の寺院となっていたようです。
そのため困った村人たちが大津の石山寺に僧職の招聘を懇請して、明治6年に住職を迎えて寺院は再建を果たしたとされています。



「聖観音菩薩立像」は平安時代後期の作と伝わります。
像高は1㍍ほどの仏像ですが、衆生を救済するというよりも“穏やかでひかえめに衆生を見守ってくださる”という印象を受けます。





本堂には「灌仏会に使う釈迦の誕生仏」「役行者像」「不動明王像」や仏画が安置されていますが、印象に残るのは「聖観音菩薩」と「毘沙門天像」でした。
「毘沙門天」は石山寺から僧職を迎えた際に、石山寺より遷仏された仏像とのことですから元は石山寺に安置されていた仏像ともいえます。



須弥壇の真ん中に安置されているのは「薬師如来坐像」。
立派な厨子に収められていますが、かなり新しい仏像に見えます。
いつの時代に造られた仏像かは分かりませんが、これから歴史を刻んでいく仏像ということになりますね。



安置されていた中に板仏がありましたが、これは何だったのか非常に気になるものでした。
一番上におられる仏は不動明王のようにも見えます。そうだとすると下に見えるのは12童子?興味深い板仏です。



さて、本堂の奥には少し変わった鐘楼があります。
なぜか鐘は3つあって3つとも撞けるようになっています。
撞いてみると3つの鐘の響きが全て違い、それぞれの鐘の余韻がやがて調和していく、という何とも味わいのある鐘でした。



また境内や山道には多くの石仏が祀られています。
世話役の方に聞いてみると、“造られ始めたのは、ここ30~40年かな。わしらが子供の頃にはなかったよ”ということでした。
信仰深い方々の寄進によるものとのことで、寄進者の名も掘られているようです。



石仏は個性的なものも多かったのですが、どの石仏にも寄進者の想いが込められているのでしょう。
特にこの石仏は夫婦愛が感じられて、何とも和んだ気持ちになる石仏です。



ところで、山本山の麓には「朝日山神社」があり、神仏分離令まではこの神社の周辺に常楽寺があったということになるのでしょうか。
神社の由緒には明治5年に白山神社と八幡宮を合祀したとしか書かれていませんので、詳しいところはよく分かりません。



境内社の「稲荷社・宇賀社・神明社・春日社」の前には神馬と一緒に鹿の像が祀られています。
常楽寺が真言宗の寺院ですから、弘法大師・空海との関係からこの神社に神鹿が祀られているのかもしれませんね。



これまでも山本山付近へ行くことはありましたが、こんな立派な神社があるのは初めて知りました。
地元の村の方に大事にされている鎮守の神社といった感がある明るい光が射してくる印象の強い神社です。





その地に根ざした寺院や仏像、神社には長い歴史がありますが、1000年以上に渡って護り続け、再興してきた方々のおかげで今もその姿を見ることが出来る。
この村人の尽力(人力)には感謝するほかないですね。


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湖北の観音巡り~長浜市 小谷丁野観音堂(十一面観音坐像)~

2017-06-04 17:22:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市の旧湖北町、丁野観音堂に祀られている十一面観音は、奈良時代の僧・行基の作であるとされ、堂宇は比叡山延暦寺の末派の欽明山長教寺の本堂であったと伝わります。
また室町時代には正親町三条公綱が勅勘を蒙り丁野の地に左遷され、その寄進により十一面観音を本尊として大堂を再建したと由緒書きにはあります。

しかし、文明3年(1471年)になると時の住職が蓮如(浄土真宗)に帰依したことから無住の寺となってしまい、以後は村人達によって守り続けられてきた観音様とされています。
滋賀県の湖北地方は浄土真宗の信仰が盛んな地とされていますが、浄土真宗の門徒ではありながらも、村の観音様信仰をするという絶妙のバランス感による信仰が湖北地方にはあるようです。



観音堂は同じ敷地内にある岡本神社(山王大権現)と共に神仏習合の寺社に見えますが、これは明治の廃仏毀釈の折に形の上では分離されたようです。
お堂は過去3度の火災に見舞われて、現在の堂は19世紀の初期に再建されたものとされています。



特別開帳に訪れたのですが、まだ参拝客は誰も来ていない時でしたので、お役の方に堂を開けてもらって中へ入れていただいた後、厨子の幕を外してもらいましたが、やはり仏像が開帳される時の緊張感はたまりませんね。
厨子と本堂は、長浜曳山祭りの曳山も造った藤岡重兵衛という方が造られたとされていて、特に厨子は曳山祭りの山車を連想させてくれます。



藤岡重兵衛が手がけた長浜曳山祭りの山車は、「萬歳楼」「孔雀山(亭)」「青海山(亭)」 「月宮殿(亭)」「高砂山(亭)」となりますから、藤岡重兵衛は数多くの曳山を手がけた名工ということになります。
曳山祭りの山車と丁野観音堂の厨子を比較すると、確かに造りに共通点が見られるように思います。


2017年曳山祭り 御旅所に並ぶ山車

観音堂に祀られている「十一面観音坐像」は平安後期の作とされ、“東京藝術大学で開催された『観音の里の祈りとくらし展-びわ湖・長浜のホトケたち-』で有名になってから参拝客が多くなりましたよ。”とお役の方が言われていました。
像高99cmの六臂の十一面観音で八臂の仏像はよくありますが、六臂でしかも坐像なのは少し変わった仏像ですね。



観音様は柔和な表情をされていて、口には紅の色が残っています。
ふっくらとした体型になっていますが、彫眼の目はくっきりと周囲を見定めており、木地が見える仏像ゆえの独特の落ち着きが感じられるのが味わい深い仏像と感じます。





堂内には小ぶりな厨子が2つあって、左に「脇坂観音菩薩像」・右側に丁野山王社(岡本神社の前身)本地仏の「宇賀弁財天(*パンフレットには地蔵菩薩と表記)が祀られています。
竹生島の宇賀弁財天信仰と小谷の地の浅井家とは深いつながりがあったようですので、この宇賀弁財天は竹生島弁財天信仰に由来するものと考えられます。

この丁野観音堂のある地域は、浅井家の小谷城のお膝元ですが、丁野は浅井三代の浅井亮政(浅井三代としては初代)の出生の地でもあるようです。
境内には三条公綱公の御閑居時に手植えされたとされる銀杏の大木が3本あり、それらの逸話を表するように2つの石標が建てられてありました。



敷地内にある岡本神社は浅井家の祈願所でもあったそうですが、信長の小谷城攻めの戦乱で大半を焼失し、岡山(丁野にある低山)に鎮座していた神社を現在の地に再建遷座された神社とされます。
神社の鳥居と寺院の入り口は別々ですが、中で参道はつながっており隣り合わせで建立されていますので元は神仏習合の寺社だったのでしょう。





小谷丁野観音堂は、集落で祀っている観音堂ですから御朱印はありませんが、お役の方に勧められてスタンプを押して帰ってきました。
お寺でスタンプを押すのは初めてかも?



湖北に数ある観音様は、ほとんどが村人によって守り続けられてきた観音様です。
無住のお堂ばかりですが、どの観音様を見ても素晴らしい仏像が揃っているところは信仰深い湖北の農村の文化が伺われる思いがします。
東京で『湖北の観音』の評価が高まっているのも納得するものがありますね。


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湖北の観音巡り~長浜市 大井観音堂(聖観音坐像)~

2017-06-02 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北は『観音の里』と呼ばれて、数多くの観音菩薩像が祀られている独特の信仰のあった地域だといわれます。
しかし、観音様の大半は無住の寺院となってしまっていて、村人の手によって村の観音堂に安置されているケースがほとんどです。

事前予約しておけば拝観可能な観音堂がありますが、わざわざ世話役の人に待機してもらなければならず頼みにくいため、特別公開の機会を利用して拝観することが多くなります。
北陸自動車道の小谷SICの開通記念として小谷近辺にある4つの観音堂で秘仏の特別公開をされていましたので、既に拝観した小谷寺の如意輪観音以外のまだ見たこのない3軀の仏像の拝観に訪れました。



大井観音堂は琵琶湖へ注ぎ込む姉川の近くにあり、村の中にある小さな子供たちが遊ぶような小さな広場の一角にポツリと建っています。
場所の確認はしていたものの、村の中で迷ってしまい村の細い道を堂々巡りした後、農作業のお婆さんに道を教えてもらってやっとたどり着きました。



仏像は「木造聖観音坐像」が祀られており、平安時代の末期頃の造像とされているヒノキ材の寄木造・内刳りの仏像で、像高さは55cmの坐像です。
右足を上にした結跏趺坐を組まれており、立像の多い聖観音の中で坐像の姿は比較的珍しいと説明板に書かれてあります。



湖北の造像としては時代が古い仏像になるようですが、江戸時代に“宝冠・、胸飾り・手首・肘上の釧(うでわ)などの金具、髪の彩色や金泥色、玉眼”などの改修の手が入っていて、元のお姿より少し外観は変わってしまっているようです。
とはいえ、さほど広くはないお堂の中の厨子に安置されたその姿に美しい輝きを感じることが出来ます。
また宝冠台の内側に小さな穴が7個あったことから、改修前は11面坐像の観音様であったのではないかともいわれている仏像です。



開帳当日も数名の村の方々が参拝者のお世話にあたられて、町民(村民)一同で守られている仏像であることが実感できます。
湖北の観音信仰は、己高山の山岳信仰に始まり、奈良仏教や白山信仰・平安時代の天台宗の影響によって独自の観音信仰が出来上がったとされていますが、守り続けてきたのは民衆(村民)の信仰によるものだということになりますね。


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