僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「南花沢のハナノキ」と「北花沢のハナノキ」~滋賀県東近江市~

2021-03-31 06:06:06 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 南花沢のハナノキ

国道307号線を走行していると「南花沢のハナノキ」の案内板がいつも目に入ってきます。
「南花沢のハナノキ」は2010年に倒壊したと聞いていましたので訪れてはいなかったのですが、国道307を移動中に急に思い立って訪れてみました。

ハナノキは北花沢と南花沢の2カ所にあり、両方の樹ともに1921年に国の天然記念物の指定を受けているそうです。
「南花沢のハナノキ」は八幡神社の境内にあり、御神木として信仰されてきたといい、崩壊した時は推定樹齢300年以上、伝承では1200年ともされていたといいます。



境内の中央にはかつてあったハナノキの跡地が残されており、石碑が建てられている。
この跡地を見ると、ハナノキがいかに大事に扱われてきた御神木かが伺われます。





跡地に残るのは根っこの部分だけですが、よく見ると何本もの枝が成長しているのが分かります。
落雷等によって空洞化し、腐朽して倒壊したとされますが、この生命力は大したものだと思います。



往時の「南花沢のハナノキ」は幹周が5.2m・樹高が15mだったとされますが、倒壊した主幹は今も御神木として祠の中に安置されています。
その幹たるや歴史的な価値のある御神木そのもので、ゴツゴツした幹の瘤からは樹齢の長さと、生き続けた期間の長さに凄みすら感じます。



ハナノキにまつわる由緒には、聖徳太子が百済寺建立の際に「仏法が末永く隆盛していくなら、この木も成長していくだろう」と箸を南・北花沢に各々1本差されたものが成長したとの伝承があります。
聖徳太子や空海・最澄など食事を終えた箸を植えたものが巨樹になったという伝承は実に多いですね。



境内の横の方には次世代のハナノキが新しい御神木として祀られていました。
このハナノキが何百年か経ったら、巨樹に育ち人々に感嘆の声をもたらすのかもしれません。



北花沢のハナノキ

南花沢から数百mの場所には「ハナノキ公園」があり、公園内には4本のハナノキがありました。
北花沢のハナノキも国指定の天然記念物となっており、国の天然記念物に指定されたハナノキの中で個体指定木3株の内の2株が南北花沢のハナノキだとされます。



北花沢のハナノキは幹周4.4m・樹高17mで樹齢300年以上とされているが、かつては2本の幹に分かれていたといい、1866年の暴風で1本が折れ、1950年のジェーン台風では倒れてしまったという。
その後、手厚い保護によって樹勢を回復してきているようですが、今の姿はかつての半分ほどの大きさだとされています。



ハナノキの下には石仏や五輪塔が祀られ、地域の祈りの場としても祀られているようです。
ただし、この公園は国道沿いの場所にあって環境が良いとは思えず、車の騒音以外に聞こえてくるのは向かいのガソリンスタンドの人の高らかな声だけ。





別角度からハナノキを見てみる。
ハナノキは、おもに木曽川流域の湿地周辺に自生する樹とされていますので、いつの時代かにこの地に移植されたものと考えられているといいます。



さほど広くはない公園ですが、公園内には御神木のハナノキを含めて4本のハナノキが植えられ、それぞれ樹齢の差はあれど、次世代への引継ぎが行われています。
こういう尽力によって花沢のハナノキは歴史を伝えていくのでしょう。




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「西本願寺(龍谷山本願寺)」とイチョウ~京都市下京区堀川通花屋町下る~

2021-03-28 17:35:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都駅の北側には七条烏丸に「東本願寺」、七条堀川には「西本願寺」が対面するかのように建ち、それぞれ親しみを込めて「お東さん」「お西さん」と呼ばれています。
車では何度も前をとおっていたにも関わらず、参拝していなかったのは不思議なくらいですが、所用で京都を訪れた時に京都駅で時間が出来ましたので新幹線の時間調整と称して参拝してきました。

浄土真宗は鎌倉期に親鸞聖人によって開かれ、室町期に蓮如上人によって発展したとされますが、勢力を持つに従って権力者との対立を招いて本拠地を転々とすることになったといいます。
「西本願寺」が秀吉の政策によって京都六条堀川に移ったのは1591年、「東本願寺」が家康の宗教政策によって烏丸七条に寺地を寄進されたのが1602年、以降東西の本願寺が分立し現在に至るといいます。



京都駅から歩いて行くと巨大な寺院が見えてきますが、そちらは真宗興正派の本山の「興正寺」。
西本願寺に隣接しており、そのまま進むと西本願寺の「御影堂門」へと至る。
重要文化財に指定されている御影堂門は、車の行き交う国道1号線に面して「阿弥陀堂門(重文)」と並んで建てられているのも京都の街ならではの光景といえます。



2つの門から入るとそれぞれ「御影堂」「阿弥陀堂」が正面にある境内となり、2つの堂宇ともに長い屋根の巨大な建築物が並び、真宗寺院にお参りするある意味での安堵感を感じてしまう。
御影堂の前には「本願寺のイチョウ」と呼ばれる独特の形状をしたイチョウの巨樹がありました。



「本願寺のイチョウ」は幹周6.5m、樹高7mで推定樹齢が400年以上とされており、根っこを天に広げたような形から「逆さ銀杏」と呼ばれたり、大火の際にも生き抜いてきたことから「水吹き銀杏」と呼ばれたりするといいます。
後方にある御影堂が東西48m、南北62m、高さ29mという巨大な建築物ですから、その枝の広がりに驚かされるとともに、こんな形のイチョウがあるのは初めて見ることになりました。



幹も見る角度によってそれぞれ別の姿を見せてくれ、その力強さに圧倒されます。
枝には新芽が出てきていますが、幹の部分だけを見るとまるで巨石のような印象さえ受けてしまします。





西本願寺の「阿弥陀堂」「経蔵」の近くにはもう1本イチョウの巨樹があり、こちらは京都市指定保存樹の指定を受けています。(「本願寺のイチョウ」は京都市指定天然記念物)
剪定されてはいますが、幹周4m、樹高16.5mとされるイチョウは防火樹としての役割を果たしており、境内には他にもイチョウの樹が見受けられました。



「阿弥陀堂」前のイチョウには気根が垂れて「イチョウの乳」のようなものが数個見れれます。
樹齢は不明なものの、老木の部類に入る乳銀杏の樹といえるのではないでしょうか。



境内を一回りした後、まず「御影堂」へ上がらせてもらってお参りさせていただきます。
「御影堂」は1636年に再建され、国宝に指定されている建築物で、他の宗旨では“みえいどう”と呼ぶのに対して西本願寺では“ごえいどう”と読む。
浄土真宗独特の言葉としては、他の宗旨での“檀家”“信徒”に相当する言葉として“門徒”という呼び方をするといいます。



御影堂に入った瞬間に圧倒されるのは中の広さで、外陣が441畳・内陣は270畳ととてつもない広さがあり、外陣だけでも1200人の門徒が収容できるといいます。
また、装飾の美しさも見事なもので、真宗寺院特有の荘厳さがあります。

内陣・外陣に人が多いなぁと思いながら座ると間もなく、数名の僧侶の方が出てこられて法要が始まりました。
これも何かの縁かと思い、そのままお経を聞き、法話まで聞かせていただくことになりました。
日常の言葉や考え方とは違う仏さまの言葉が聞けたのは何かの巡り合わせの縁だったのかもしれないと手を合わせる。



「御影堂」と「阿弥陀堂」の間は渡り廊下でつながっており、風通しの良い広い廊下を心地よく歩く。
リーフレットに“渡り廊下で龍を探そう”とありましたので、さて龍はどこに?と探してみるといましたよ。





御影堂や阿弥陀堂の縁側や廊下には「埋め木」という遊び心のある細工があり、これは廊下の節穴や亀裂を修復する時にいろいろな形の埋め木をしたものだそうで、至る所に見られます。
こういった大らかさは庶民に広く受け入れられた真宗ならではの感覚なのかもしれません。





探しかけるとキリがないほどたくさんの埋め木が施されていますので、何度も立ち止まって埋め木を見ることになります。
立ち止まりながら足元を見直すというのは緩やかな形の教えなのかとの拡大解釈も出来ます。



西本願寺では建築物の改修工事が行われており、「阿弥陀堂」の内陣や「唐門」は工事中で、国宝や重要文化財の建築物が揃う西本願寺ですから、修復工事も大規模なことになるようです。
変わらないのは、1636年の再建時に作られたという御影堂の天水受けを四隅で支える邪鬼でしょうか。





御影堂門から境内を出て、堀川通りをわたった先には「総門」があり、そこから先には仏具店・仏壇店・表具店・お香屋などの老舗が軒を連ねる門前町が続きます。
この門前町は、かつては京都の町とは違う行政組織の「寺内町」だったといいい、その通りにはなんともモダンな「本願寺伝道院(重文)」が異彩を放っています。



伝道院は1895年に真宗信徒生命保険株式会社の社屋として建てられ、現在は浄土真宗本願寺派の僧侶の布教・研修の道場となっているといいます。
建築のコンセプトは“石材や鉄に依存しつつも欧化でも和洋折衷でもなく、日本建築の木造伝統を進化させること”とされています。



西本願寺のすぐ前には「龍谷ミュージアム」があり、京都駅に向かって歩く途中には「東本願寺」が見える。
京都駅ビルの「ジェイアール京都伊勢丹」には、美術館「えき」KYOTOもありますので、“東本願寺参拝とアートミュージアム巡り”の歩き旅に再訪したいところです。


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「上古賀の一本杉」~滋賀県高島市安曇川町~

2021-03-26 06:33:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 琵琶湖の湖西・高島市安曇川町に「上古賀の一本杉」という荒々しくも奇妙な形をしたスギの巨樹があると聞きますが、何とそのスギは陸上自衛隊の演習場の中にあるといいます。
演習場での訓練では迫撃砲や機関銃・銃などを使用しての実射が行われるといい、一般的な日本人の日常生活とはかけ離れた世界がそこにはあるようです。

自衛隊の演習など見たことのない当方が思い描けるとしたら、その光景は映画の一シーンかドキュメンタリーの世界としてしか想像できないでしょう。
演習が行われる日は途中の山道に検問が設けられて立入禁止になり、演習のない日は入れるとはいえ、そういう場所に足を踏み入れるのは経験したことのない違和感を感じてしまいます。



集落の外れの田園地帯に古めかしい行先看板でおおよその方向は分かったものの、演習場への案内板などあろうはずもなく、周囲を何周もうろうろするばかり。
誰か地元の人に聞こうにも人の姿は見当たらず、出会うのは猿ばかり。やむなくそれらしい細い山道へ入ってみる。



少し進むと自衛隊の無人の検問所があり、どうやらこの道で間違いなさそうと思う反面、未舗装の道路に難儀する。
どれだけ進んで行ったらいいのか不安を感じつつ進むと、突然「上古賀の一本杉」が見えてきました。
遠目に見ても他に類を見ないような荒々しくも奇妙な姿に思わず。息を吞むことになりました。



このスギは主幹は上方へ向かって伸びているものの、太い2本の支幹が一旦地に這うように横に伸び、再び上方へ向かって伸びています。
主幹は上部でさらに分岐し、支幹と同じように一旦曲がりながらも上方へ伸びています。



「上古賀の一本杉」の主幹の幹周りは5.6mとされ、左右の支幹もそれぞれ3m以上ある巨樹です。
樹高は20m以上はあり、伝承の樹齢は600年ほどだという。
支幹や分岐した枝の上部に苔が生えているのもこのスギを味わい深いものとしており、この場所の湿気の多さが伺えます。



まさに荒々しく猛る神の姿とでもいうべき威圧感があり、植林されたスギ林の中で、一本だけが残されてきたのはある種の信仰のようなものがあったのでしょう。
神は万物に宿るという日本人独特の信仰の中でも、山や巨樹・磐座などに特に崇敬の念を抱くのは、それらを神の依り代として捉える独特の感性なのかと思います。



一本杉を別の方向から見ると、少し様相が異なり巨大な釣り針のような姿に見えます。
角度的には入口側から見る方が迫力があるように思います。



「上古賀の一本杉」を荒々しく猛る...と書きましたが、この樹の興味深いところは正面から見ると奇妙としか言いようのない姿をしていることでしょう。
どう感じるかは人それぞれとは思いますが、女性が足を開けて座っているように見えないでしょうか?
見ている方が少し気恥しく感じてしまうほど女性的な姿に見えます。



左側から見る姿は荒々しい男性的な姿。正面から見ると女性的な姿。
雌雄両方を兼ね備えたような姿がこの樹の最大の魅力なんだと思います。



しかも左右の支幹の分かれ目のところには小さな祠が祀られています。
この何とも不思議な巨樹は高島市の天然記念物に指定されているといいます。



尚、このスギには「一本杉と弘法大師」という昔話があり...
《昔、弘法大師・空海が朽木の途中に行こうとして、ここ(一ノ瀬谷の入口)でお昼の弁当を開き、道のそばの杉の枝を折って箸にし、食べ終って、その箸を地面に挿したところ、その箸が杉の木になった。
杉の木は、ぐんぐん大きくなって、上古賀の一本杉と言われるようになり、饗庭野への道しるべとなりました。》
弘法大師の伝説は実に多いですね。

<熊野神社>

「上古賀の一本杉」へと進む山道の入口近く饗庭野台地の南麓に「熊野神社」があり、参拝してから帰ることに致しました。
まず驚くのは立派な社殿のある神社でありながら、入口が獣害防止のために閉鎖されていたことです。
山で祠や磐座への道が柵で囲われていることはありますが、熊野神社の柵の中には参道・拝殿・本殿・7社の境内社がある立派な神社です。



「熊野神社」の御祭神は、「伊邪那岐命」「伊邪那美命」の2柱で創祀年代は不詳なものの、弘仁十四年(823年)の再建だとされています。
江戸時代には「白山宮」と称していたそうですが、明治以降は「熊野神社」となったようです。
また、「熊野神社」はかつて熊野山(饗庭野丘陵)にあったとされていますが、自衛隊演習場になっているため、遙拝所であった上古賀の「熊野神社」と今津町にあるという「熊野神社」の2つが残るといいます。



参道には鬱蒼とした森があり薄暗いのですが、参道を抜けた先には境内が開けて拝殿が見えます。
境内には山から流れ出る清水が流れており、寒さも相まって身が引き締まります。



寒いのもそのはずで、本殿前の石畳の部分には解けなかった雪が残っています。
本殿は近年修復されたのでしょう、真新しい色をした部材を使った部分があります。
雪を踏みしめながら参拝しましたが、雪は固まっていて足を取られることはない。



本堂の左側には7つの境内社が並びます。
「住吉神社」「神明神社」「春日神社」「甲州神社」「飯綱神社」、一段屋根が高いのが「愛宕神社」と「天満宮」。
境内には砂利が敷かれてよく整備されていますので、獣害除けの柵の中にいるとはとても思えません。



本堂の修復部分に掛けられた龍の彫り物もなかなか見事なものです。
おそらく氏子さんたちによって、段階的に改修されていっているのでしょう。



信仰深い山里でありながらも、その山の中には自衛隊の演習場があるというのはかなり特殊な一帯という印象を強く受けます。
逆に言えば、特殊な環境の中にあってこそ守れれてきた巨樹の1本という言い方も出来るかもしれません。


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旧長浜市の野神さん2~小一条町~

2021-03-24 06:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市高月町以北の集落では野神信仰が盛んで、今も村の野神さんとして祀られ信仰される集落も多いといいます。
平成の市町村合併前の旧長浜市(現在の長浜市の南部)では野神信仰はあまり聞かないものの、現在3カ所の野神さんが確認されているそうです。
これまで口分田町の野神さんと新庄寺町の野神さんを巡ってきましたが、今回の「小一条町」の野神さんは古い形式をもっとも残している野神さんでした。

小一条町は米原町との境界にあたる小高い山の麓にある集落で、集落の外れには東海道新幹線と北陸自動車道が交差している田園地帯にある集落です。
小一条町の野神さんは山の麓の一角にあり、その雰囲気から野神さんというより山の神といった感があります。



未舗装の細い道を山に向かって移動すると、竹藪の前に野神さんは祀られていました。
山には獣除けの金網が張り巡らされており、木々から滴る雪解け水の音に慣れるまで近くに動物でもいるのかと錯覚を起こしてしまう。



野神さんの横にはスギとエノキがあり、本体となるのは石で飾られた御幣は屋外にも関わらず汚れはなく新しい。
野神さんの前には平面のスペースがあり、そこで神事が行われるのでしょう。



祀られた石の前にも幾つかの石積みがあり、お地蔵さんなどの石仏も祀られている。
周囲に木々と竹藪しかない山の麓ということもありますが、野神さんの厳粛な空気に思わず身震いしてしまいます。



野神さんの横に立つのはエノキの大木。
巨樹と呼ぶほどのサイズはないが、幹が数本絡み合うように伸びている姿は壮観です。



石積みの左にはスギの樹が立つ。
こちらも巨樹という太さはありませんが、全く外観の違うエノキとスギが並び立つ光景には独特のものがあります。



野神さんの右には道祖神の石仏や石塔が祀られています。
大通りの道路が出来た時に旧道に祀られていた石仏がここに集まられたのかもしれません。



エノキの根元にも幾つかの石仏や石塔の笠が祀られています。
かなり風化している石仏もありますが、赤っぽい石の石仏には2躰の仏がはっきりと見えます。



野神さんの巨樹が倒壊してしまったり、枯死してしまっている野神さん、綺麗すぎるくらいに整備されて形骸化している野神さんなどあります。
しかし、この小一条の野神さんは本来の姿を色濃く残しているように思います。



帰り道に見た伊吹山。
この山も湖北のシンボルのような山ですね。


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旧長浜市の野神さん1~口分田町・新庄寺町~

2021-03-21 08:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜の地域情報誌『長浜み~な』で「野神信仰って何ですか?」が特集されて長浜市・米原市の野神さんが詳細に紹介されていましたが、旧長浜市に野神さんがあるのは誌上で初めて知ることになりました。
旧長浜市とは2006年の浅井町・びわ町との合併、2010年の虎姫町・高月町・木之本町・余呉町・西浅井町との合併以前の旧市をいい、人口規模は5万人程度の行政区域でした。

湖北の野神さんの信仰は、高月町を境として北部に多く、野神さんを祀る集落では今も野神祭が行われていることが多いと聞きます。
旧長浜市には3カ所の野神さんが確認されているということであり、どのように野神さんが祀られているか知りたく訪れることとしました。

長浜市口分田町の野神さん(天満宮)

口分田町は室町時代の郷土口分田氏が、北野神社の御祭神菅原道真公の御分霊を勧請して氏神として祀ったと伝わる「天満宮」があり、8月25日には「野神祭」の神事が行われるといいます。
まずは「天満宮」を探すわけですが、古い農村集落によくある細い路地のような道を進み、神社を見つけたものの、今度は車を駐車する場所に難儀する。



止む無く路駐して小走りで神社に向かい鳥居から境内に入ると、想像以上に立派な神社であったことに驚く。
境内を進むと目に入ってくるのは大きな岩とその裏側にある巨大な切り株です。



切り株は伐採されてからかなり年月が経っているように思えるが、これはさしずめこの神社の磐座と御神木といったところです。
これだけの大きさの切り株ですから往時にはかなりの巨樹だったと思われ、もしかするとこの樹が本来の野神さんだったのかもしれないと考えてしまいます。





本殿と境内社である白山神社の間から裏側に行くと、少し高く仕切られた場所があり、数本の樹があるがこれが野神さんの樹なのか分からない。
近くには石仏が集められて祀られていて雰囲気はそれらしいが、石碑や御幣などもなく判断出来ず。



長浜市の保存樹(第1期)に口分田「天満宮」のケヤキが指定されていますが、そこには幹周4m・樹高29m・推定樹齢400年とある。
保存樹のケヤキは、昭和51年~55年に指定されたもので、現在はそのような樹は見当たらず、該当するとすれば境内にあった大きな切り株がそれだったのかと思います。



本殿は一間社流造の建築物で、拝殿から渡り廊下で本殿前までつながっている。
滋賀県の神社を巡っていると、有名な神社でなくても集落で祀られる神社には立派な社が多いことに驚きます。



口分田町は南にイオンなどの店が並び、近くには高速のインターもある繁華な場所に位置する反面、東西北は田園地帯になる新しい住宅地と昔からの農村が混在する集落になるようです。
口分田町(くもで)は律令制の口分田(くぶんでん)を由来にしている歴史深い農村とも考えられることから、野神さんの信仰が残っているともいえます。

長浜市新庄寺町の野神さん

旧長浜市の野神さんの2つ目は「新庄寺町の野神さん」でしたが、こちらの野神さんも探すのに苦労することになりました。
新庄寺町の周辺は新興住宅が立ち並ぶ区域で、手掛かりとなる「神明神社」を探すが見つからず、神社を見つけたと思えば「熊野神社」だったりして、何度も入り組んだ細い道でつながる集落内をグルグルと巡ることになった。



やっと野神さんに辿り着きましたが、場所の姿を写真で見ていなければ、野神さんとは気づけない雰囲気であった。
集落の外れの田園地帯が広がる場所にあって、ケヤキの樹と石塔などの祠があるので野神さんだと分かりますが、整備はされているものの石碑も御幣などは見当たらない。



旧長浜市にも田園地帯は多く残りますが、野神信仰は元々なかったのか、完全に廃れてしまったのか。
野神信仰は、滋賀県北部の高月町や木之本町や余呉町にあって、南の米原市にも残りますが、その間にある旧長浜市が空白区となっているのは不思議に思います。



ケヤキの後方にある祠には幾つもの石塔が祀られている。
五輪塔が多いように見えましたので、かつて墓地があったのかもしれませんし、廃寺となった寺院があったのかもしれません。



古くからの農村も立地場所によっては開発が進み、しきたりや信仰の形もどんどん変化してきているのだろうと感じるような野神さんでした。
簡略化されたり形を変えつつも姿を残しているのは、その土地に代々住む方々にある畏怖する気持ちや慈しみの心が今も伝わっているということだと思います。
続く...。


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「勧請縄 個性豊かな村境の魔よけ」~近江の勧請縄のまとめ~

2021-03-17 12:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「勧請縄 個性豊かな村境の魔よけ」は、日野町在住の西村泰郎さんという方が近江の各所を探し歩いた県内161ヶ所の勧請縄やトリクグラズを取り上げた本です。
出版社されているのは彦根市の「サンライズ出版」で、湖国「滋賀」の文化情報発信を行い続ける創業90年にもなる出版社だといいます。

本が出版されたのは2013年のことで、その後に勧請縄を取り止められた集落も多くなっているようですので、この本は失われつつある勧請縄の民俗を伝える貴重な記録といえます。
勧請縄が全てオールカラーで紹介されているのも嬉しい限りですが、構造や各部の名称・形態や吊り下げ時期・県内での分布図など資料としても充実した内容になっています。



本には他にも祈祷札に書かれた文字の読み取り、木札に書かれた仏の名なども記載されていたり、近江の年頭行事がオコナイ文化圏と勧請縄文化圏に分化したのではという推論も書かれていて興味深い。
今回は、これまで見てきた近江の勧請縄のまとめと湖北で唯一の「森本神社」の勧請縄についての話です。

実際に見たのは十数カ所の勧請縄だけですが、地域によって傾向の近さは多少あるものの、全てその集落独特の勧請縄になっており、見る度に驚きを感じていました。
最初から「勧請縄 個性豊かな村境の魔よけ」の本を知っていたら、もっと簡単に見つけられたと思いますが、分からないままか細い情報を頼りに探し歩いていたのも楽しい日々でした。



「馬見岡綿向神社の勧請縄」(滋賀県蒲生郡日野町村井)



「熊野神社の勧請縄」(滋賀県蒲生郡日野町熊野)



「奥石神社の勧請縄」 (滋賀県近江八幡市安土町東老蘇)



「内野の勧請縄」( 滋賀県近江八幡市安土町内野)



「行事神社の勧請縄」(滋賀県野洲市行畑)



「新川神社の勧請縄」(滋賀県野洲市野洲)



「諸木神社の勧請縄」(滋賀県蒲生郡日野町北脇)



「北脇の勧請縄」(滋賀県蒲生郡日野町北脇)



「マキノ町下の勧請縄」(滋賀県高島市マキノ町下)



「伊庭仁王堂の勧請縄」(滋賀県東近江市伊庭町)



「伊庭高木観音の勧請縄」(滋賀県東近江市伊庭町)



「長勝寺の勧請縄」(滋賀県東近江市長勝寺町)



「高野神社の勧請縄」(滋賀県東近江市永源寺高野町)



「岡田八幡神社の勧請縄」(滋賀県東近江市岡田町)


ところで、勧請縄は滋賀県では湖東地方・湖南地方に集中していおり、湖西地方にもいくつか見られるものの、湖北地方では唯一といえる勧請縄の風習が長浜市高月町森本にあるようです。
「森本神社」は天石門別神を御祭神として祀る神社で、境内はさほど広くはないものの参道には長い大繩が張られ、御幣が刺さっている。





森本集落の在所の半分ほどは近くにある大きな工場の倉庫が立ち並び、田園はもうないような集落にも関わらず、森本集落にだけ勧請縄の風習があるのは不思議な感じがします。
また、森本集落には野神さんが祀られており、野神塚にはまだ新しい御幣が奉じられていることから、森本集落にはまだ古くからの信仰が伝承されているようです。





「勧請縄 個性豊かな村境の魔よけ」で紹介されている勧請縄は、県内161ヶ所で、当方が確認できたのはその一割にも満たない数です。
勧請縄が集落によって集落独特の作り方や祀り方が受け継がれているのを確認できた反面、受け継ぐ人が少なくなってきたとの話を複数の集落で聞きました。
行ってはみたものの勧請縄がなかった集落や既に廃止になったことを確認できた集落が何ヶ所かあったことは大変残念に思います。


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「上賀茂神社の勧請縄と睦の木」~京都市北区上賀茂本山~

2021-03-14 15:55:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「上賀茂神社」に参拝する機会があり、駐車場に車を停めて境内に入ろうとした時に驚いたのは、各鳥居に勧請縄が吊るされていたことでした。
過去に参拝した時の写真を見てみると同じように勧請縄が吊るされていましたので、以前は興味がなく目に入っていなかったということになります。

そもそも「注連縄」と「勧請縄」の何が違うかは分かりませんが、大きくは注連縄のカテゴリーの中に勧請縄が含まれるのかと思っている次第です。
さがり・御幣・榊が4本づつ吊るされた「注連縄」は、「勧請縄」と呼んでも差し支えないのではないでしょうか。



上は「二の鳥居」の勧請縄で、下は「酉の鳥居」の勧請縄。
駐車場からは「酉の鳥居」から入りましたが、この勧請縄を見た時は“あれっ上賀茂さんの鳥居に勧請縄が!”と心躍る瞬間でした。



「上賀茂神社」は正式には「賀茂別雷神社」といい、神代の昔、本殿の背後に位置する「神山」に御降臨になり、天武天皇の御代の678年には賀茂神宮が造営されたといいます。
平安遷都以降は「山城国一之宮」となり、有名な葵祭(賀茂祭)は平安時代から貴族の祭りとして、その神事は今も続きます。



長くて広い参道を歩いて「一の鳥居」へ行くと、一の鳥居にも同じ勧請縄が掛けられていました。
上賀茂神社の4つの鳥居には全て同じような勧請縄が掛けられてあり、上賀茂神社共通の祀り方をされているようです。





境内を流れる「ならの小川」の東側にあるのは「なら鳥居」。
本殿・権殿の前には楼門があり、境内地へつながる道には鳥居があるのは各方面に結界が張られているということでしょうか。





上賀茂神社の参道には「斎王桜」と「御所桜」という2本の枝垂れ桜があり、紅梅の桜が見事だとされていますが、咲きそうな気配は全くなくまだ開花はかなり先のようです。
「渉渓園」を歩いていると「陰陽石」の近くに御神木とされる「睦の木」があって、しばし魅入ってしまいました。



スダジイの横の案内板には「このスダジイの木は、300年以上昔よりこの大地に根差し、一つの根より大樹が何本も伸びているところから一つに結ばれた仲睦まじい家族を表す。
家族の絆や家内安全を見守って下さいます。そっと手を合わせてお祈り下さい。」とある。



裏側から見ると幹は大きくは3本あるように見え、上部ではさらに何本にも分岐しています。
前回の参拝時に「陰陽石」は見ていましたが、すぐ横にあるこの「睦の木」が記憶にないのは当方の趣味趣向の変化ということなのでしょう。



本殿参拝を済ませた後、「八咫烏みくじ」を買ってみました。
神武天皇の東征の折、一行を導いたとされる八咫烏のみくじは、3本足の八咫烏の胸に双葉葵が描かれたもの。



今回は別の用事があって上賀茂神社にも参拝したのですが、やはり京都の神社仏閣には独特の雰囲気があります。
奈良にも行きたいのですが、勝手気ままな旅が出来るようになるのはいつになるのでしょうね。


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湖東「歳苗神社の勧請縄と巨樹」と「岡田町の勧請縄」~滋賀県東近江市~

2021-03-11 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 歳苗神社の勧請縄と巨樹

東近江市の高田神社に参拝した折、このあたりに勧請縄を吊るしている場所はないですか?と聞いてみました。
以前は隣村でも吊るしていたが今はもうやっていない。あるとしたら「歳苗神社」へ行ってみたらどうかと教えていただき愛知川に面した「歳苗神社」へ参拝いたしました。

「歳苗神社(としなえ)」は、滋賀報知新聞の記事によると
貞観年中(八五九~八七七)、惟喬親王は「帝位に望みなし」と出家され、愛智の深山に入ろうと御巡輦(ごじゅんれん=各地を巡られること)された。
その節、当地に休憩所を設け、川辺に斎殿(いわいどの=神をお祀りする建物)を置き五穀豊穣を祈願され、天児屋根命(あめのこやねのみこと)をはじめ三柱の神をお祀りされた。土地の人々がこれを産土(うぶすな)の神としたことが歳苗神社の始めとしている。とあります。



一之鳥居から離れたところに朱色の鳥居があり、そこからが社のある境内になりますが、石造りの鳥居と朱色の鳥居の配置はこの地方独特のものなのでしょうか。
まず驚くのは鳥居の横に立つスギの巨樹です。また、この辺りには石垣で囲まれている建物が多いことにも驚きます。



解説板はなかったが、環境省の巨樹・巨木林データベースにある幹周5m・樹高27m・樹齢300年以上と記載されているスギはこの樹かもしれない。
限られたスペースに目いっぱい根を張って、幹の下部は圧倒されるほど太い。



本殿には「天児屋根命」「経津主命」「武甕槌命」の3柱を御祭神として祀り、配祀神として「大山咋神」「市寸島姫命」「菅原道真公」を祀るとされます。
本殿には社の梁のところに勧請縄というより注連縄の様式の〆の子を吊るした注連縄が張られています。



5本の〆の子が吊るされていますが下部まで藁になっているものと、金色・銀色のものがあるのが不思議です。
これまで〆の子を気にして見てきていませんので詳しくは分かりませんが、少し変わった形になってるのかと思います。





本殿の裏側横には真っすぐに伸びた御神木のスギが祀られており、御神木にも本殿と同じ様式の注連縄が巻かれています。
朱の鳥居のところにあった巨樹スギとは太さとしては及ばないものの、凛として立つその姿には神々しいものがあります。





さて、境内で不思議な石を見つけました。
2つの岩があり、その奥には注連縄で結界を張られた場所にまん丸い石が祀られています。



これは神社の磐座として祀られているのか、何らかの神として祀られているのか、菩提なのか、よくは分かりませんでしたが、神の依り代であることには違いはないようです。
注連縄が巻かれた丸い石の後方には、上に乗せるためと思われる石が数個ありましたが、乗せ換えることがあるのでしょうか。



「歳苗神社」は愛知川の西の田園地帯に位置する農村で、南東には一部鈴鹿山系の山を含み、その位置関係から山上町というのかと思います。
目の前を流れる愛知川にはなぜか石が並べられています。
この辺りは愛知川が湾曲して曲がっている場所でもあり、水位が高くなった時に水の勢いを緩和させるためかとも思われますが、不思議な光景ではあります。



東近江市岡田町の勧請縄

勧請縄やトリクグラズは東近江市に多いとされているのを実感したのは、国道307号線を走行していた時に勧請縄が目に入ってきたことです。
東近江市岡田町は町内に工場やスーパーがあるとはいえ、大部分は田園地帯で集落は一角に集中している典型的な農村です。

村の外れの境界線に八幡神社があり、鳥居の外に勧請縄が吊るされていました。
かつては道を横切って吊るされていたのかと思われますが、今は電柱と勧請杭に吊るされています。



勧請縄は大繩に小勧請縄が吊るされ、上部には御幣の付いた矢が3本。
中央部には護符の木札が吊るされています。



勧請縄は、集落に邪悪なものが入って来ないよう安全祈願のため、集落の出入り口に張り渡したものとされていますが、この勧請縄はまさに集落の出入口に張った結界といえます。
山上町は農村ですから五穀豊穣を祈願するためのものでもあるのでしょう。



木札に書かれた意味を調べてみると...
「福寿海無量」: 観世音菩薩の福徳が広大無量であることを、海にたとえた語
「鬼子母神」:安産、子育ての守り神であるとともに、釈迦が鬼子母神に渡したざくろには豊穣や魔除けのちからがあるとされます。
「十羅刹女」:鬼子母神らとともに仏の説法に接し、法華行者を守る神女。
「諸縁吉祥」:色々なかかわりあいが幸せにつながるよりよい縁となるように願う意味があるという。
読めない漢字もあって解釈を間違えているかもしれませんが...。



参拝した「八幡神社」は小さな森の中にある祠で村の鎮守の神様という感じです。
滋賀県の古い集落には必ずと言っていいほど、村の神社があります。



勧請縄は湖東地方・湖南地方独特の民俗行事になり、山の神信仰・野神信仰と融合しながらも独自の形を維持しているようです。
いくつかの勧請縄を見ただけですが、みな違った個性があり見る者の興味は尽きません。
見て回る間に、勧請縄を取り止めてしまわれたことを確認できた集落が何ヶ所かあったことはやむを得ない事情があるとはいえ残念なことです。


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湖東「高野神社の勧請縄(トリクグラズ)」~東近江市永源寺高野町~

2021-03-08 05:38:24 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 東近江市永源寺高野町は、臨済宗永源寺派の大本山「永源寺」の所在地になっており、山の麓沿いにある「高野神社」には勧請縄(トロクグラズ)が吊るされています。
「高野神社」の近くには織田信長の八男・信吉が本能寺の変の後に館を構えたという「高野城跡」も残る静かな山村です。

「高野神社」の由緒ははっきりしないようですが、地元の方の話だと「嘉禄(1227年)」の記録があるとのことでしたので、古くからの信仰を集めていた神社といえます。
神社の本殿には「日枝四社之神」「歌姫五社之神」「高皇産霊尊」「天御中主尊」「神皇産霊尊」「野神大明神」「豊満五社之神」「南三方大将神」と数多くの神が祀られています。



また、「東小宮」に3柱、「西小宮」にも3柱、さらに「豊魂神社」が山を背に横並びになって祀られています。
神社には鳥居がいくつかあり、一之鳥居から三之鳥居まで結構距離があるので、神域とされる場所がかなり広かったことが伺われます。

スギが植林された石段は苔むしており、林道が通っていることもあって石段を登って参拝される方は少ないのかもしれません。
何とも雰囲気のある石段を登っていくと、3月初旬にも関わらず山の方からウグイスの囀りが聞こえてきて、もう春かと季節感を感じます。



緩やかな石段を登っっていくと、石段の上に勧請縄を張られているのが見えてきました。
静かで自然の囲まれた山の神社で見る勧請縄は、集落の道切りの勧請縄と受ける印象が少し異なります。



大繩の中心には四角いトリクグラズが吊るされ、このトリクグラズも集落独特のものです。
この日は、神社で月例祭が行われていましたので、地元の人に話を聞かせていただくことができました。

正月の3日には、集落の方が神主役を務めて「かりない しょうじき」と祝詞をあげながらトリクグラズに矢を通す儀式があるのだそうです。
正規の神主さんがおられないので、神主役は集落の人が務めるとのことでしたが、段々とやる人が少なくなってきて、隣の集落ではもう取り止めてしまったとか。

かつては大繩も結っていたが、現在は業者に作ってもらった大繩を使用しており、トリクグラズだけは今も手造りで行っている。
以前は稲穂も吊るしていたが、省略した形をなっているとのこと。
昔は林業で生計を立てていた集落だったとのことでしたが、今は随分と様変わりしたと言われます。



トリクグラズは割った竹で四角を造り、中心に輪が付けられており、藁と榊が吊るされています。
勧請縄の下にいると雨が降ってくるのですが、離れると雨が止む、また下に入ると雨が降る...。





勧請縄を張っている勧請樹の横の樹には、大きな洞があり、その中に何枚もの祈祷札が納められています。
地元の方が正月の儀式の時に納められたのかと思われますが、この洞は本殿や山の方向にあり祈祷札もそちらに向けられている。



勧請縄が張られている場所から本堂へと向かう途中には朱色の鳥居があり、ここからが神社の聖域となる。
この日は月例祭で人が来られていたのですんなり入れましたが、普段は獣除けの柵で閉ざされているようでもありました。
この鳥居は三之鳥居と思われますが、鳥居を抜けると山村の神社としてはかなり立派な神社だったことに驚きます。



参道の横には「忌明けの塔」と名付けられた宝篋印塔があり、欠損や修復の跡が見られるものの、時代はかなり経っているように思えます。
塔の下に土台を作られていますので、地元で丁寧にお祀りされているようです。



「本殿」「東小宮」「西小宮」に参拝している時に、誰か知らない人が来ていると社務所におられた方が様子を見に来られました。
勧請縄を見に来て参拝している旨を伝えると、神社や勧請縄にまつわる話をいろいろと聞かせてもらうことが出来たのは助かりました。



本殿の前には阿吽の狛犬があり、特に子供の狛犬を従えた阿形はなかなか迫力があります。石灯籠の丸い笠も特徴的です。
聞くと、ここには元々イチョウの樹があったが根が張りすぎて狛犬が傾いてしまったので伐採して狛犬の下台を直したとのこと。
神社や寺院にイチョウが植えられているのは、イチョウが神聖な樹であるとともに燃えにくいために防火の役目を果たすからなのだそうです。



高野神社には巨樹スギが2本あって、1本は勧請縄の近くにあるスギでもう1本は境内にある御神木のスギです。
環境省の「巨樹・巨木林データベース」に登録されている樹だとすると、幹周3.8~3.9m、樹高32~33m、樹齢300年以上となるが、確証はない。
ただ目視で幹周4mくらいかと思えたので、御神木も勧請縄の所のスギもそのクラスのスギだと思います。





境内社の「豊魂神社」の社の後方には「山の神」が祀られています。
鈴鹿山系は多賀町から日野町や甲賀にかけて続き、東は三重県にまたがる山系で、高野町はその麓にある集落ですから山の神への信仰が強かったのだと思います。



「山の神」を祀り、本殿には「野神大明神」を祀る高野神社の本祭礼に来られる神職の方の名字が“野神さん”というというのも興味深い話です。
山の神・野の神を祀り、悪いものの侵入を防ぐ勧請縄を張り、この地には古くからの信仰や文化が守られているようです。



ところで、神社におられた方にこの近くに勧請縄があるところを御存じないですか?と聞くと、隣村はもうないし、あるかどうか分からないが...と別の神社を紹介していただけました。
勧請縄はあちこちにあるだろう?と聞かれたので、湖東地方や湖南地方にはありますが湖北地方や湖西地方(大津は除く)にはないんですと答えると...
へぇ~それは知らなかったと驚いておられたのが印象に残ります。


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能登川町の勧請縄(トリクグラズ)~伊庭仁王堂・高木観音・長勝寺~

2021-03-05 07:13:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 伊庭仁王堂の勧請縄

東近江市「能登川博物館」の資料によると、能登川町で「勧請吊」を行っているところが4カ所あると紹介されています。
「勧請縄は、村の入り口・村境・境内入り口などに道を横切って吊され、そのことにより悪霊 ・厄神の侵入を防ぎ、さらに秋に豊作を祈る意味あいが込められています。」(「能登川てんこもり」より)

能登川町は繖山や伊庭山が連なる山系の西側の平野部に位置し、古代より山や巨石に対する神奈備信仰が盛んだった地とされており、岩神・岩船・磐座などが残る一帯です。
巨石を神と敬う文化がありつつも、農村部での勧請縄の文化は野の神を祀るという面では野神信仰とよく似ており、貴重な民俗文化だと思います。



伊庭集落の東の入口には「大濱神社」「仁王堂」「文殊堂」「高木観音堂」などが集まっている一角があり、道路を横切るように「伊庭仁王堂の勧請縄」が掛けられています。
典型的な「道切り」といえると思いますが、集落の入口にあって悪いものの侵入を防ぐという意味では野神さんに通じるものを感じます。



「内野の勧請縄」も道を横切って掛けられていましたが、勧請縄には道を横切るものと神社などの参道に掛けられるものがあるようです。
この勧請縄の横には「道祖神社」の祠に猿田彦命が祀られており、“外部からの悪霊、禍神、疫病神の侵入を防ぎ郷土を災難から守っておられます”との説明書きがある。
また、以前はお嫁入や遠方への旅立ちの際には当社に参拝して道中の無事を必ず祈願したとも書かれてあり、ムラとソトの概念がはっきりしている。



勧請縄の中央には、縦横3本づつの竹の周囲を円形にしてスギの葉を添えられた形をしたトリクグラズが吊るされています。
勧請縄にはさがりが吊るされ、トリクグラズには3本の竹に御幣とさがりが付けられていますが、この様式はこの集落特有のものなのでしょう。



竹の部分に文字のようなものは見えないが、大繩の上あたりに黒い2本線がある。
意味は分かりませんが、この形には決め事があって、集落に継承されてきたのだと思います。



勧請縄の横にある「仁王堂」は、「大濱神社」の本殿と隣り合わせのところにあり、「伊庭祭坂下し」など年間を通じて祭礼の舞台になっているといいます。
鎌倉前期の建立とされる「仁王堂」は、茅葺の屋根が美しく、屋根に見える白い点はアワビの貝殻。

カラスなどの鳥の巣作りの材料にされるのを防いでいるためのものですが、効果は如何ほどか。
境内がやたらとうるさいのは大濱神社の本殿横の森にアオサギのコロニーがあるからで、アオサギが巣材の枝を運んでいる姿を参拝中に何度も見ました。



伊庭高木観音の勧請縄

「大濱神社」と「仁王堂」のあるエリアのすぐ横に「伊庭高木観音の勧請縄」はあり、「高木観世音菩薩正福寺」の御堂の前に掛けられている。
伊庭仁王堂の勧請縄と隣接した場所にありながらも、似たような部分もあれば少し違いも見られます。





トリクグラズは同じような円形で3本の竹串と御幣は同じようになっていますが、こちらは吊るされた葉に御幣がたくさん付いています。
勧請はそれぞれ属する講中の人で造られるとされますので、2つの勧請縄は別の人達が影響を受けながら造ってきた歴史があるのかもしれません。





長勝寺の勧請縄

能登川3つ目の勧請縄は「長勝寺の勧請吊」でしたが、長勝寺集落へ入って「長勝禅寺」の境内を探してみたものの見つかりません。
ふと後方を見ると勧請縄は寺院の石段の反対側にありということで、まさに灯台下暗し。
「長勝寺の勧請縄」は集落の東側、山へ向う道に掛けられてあり、山へ続く道の道切りといった感じです。



トリクグラズには3本の竹串に付けられた御幣がそれぞれ挿され、下には藁とスギのさがりが吊るされてあります。
離れて見ると大きな鍋材のシイタケのようにも見えてしまうトリクグラズですが、それぞれの集落独自の独創性にはいつも驚かされます。



トリクグラズの真ん中のものには何か書かれた紙が挟まれていたものの、残念ながら読み取れず。
とはいえ、今まで見たことのない個性的なトリクグラズには違いはありません。





大繩もかなり手の込んだ造作がされていて、右側には輪っかが、左側にはぼんぼりのようになっています。
どちらも年季の入った方がおられないと造れそうにはありません。





能登川では、「長勝寺」「伊庭仁王堂」「伊庭高木観音」「能登川毘沙門堂」の 4 カ所で勧請縄が行われているとこことですが、「能登川毘沙門堂」だけは場所が分からず諦めることになりました。
地元の方に聞いてみたのですが、“能登川の毘沙門堂”だけでは漠然としすぎでしたね。

乎加神社と神郷亀塚古墳

帰り道に旧神崎郡では最も古い神社で平安時代の「延喜式」にも記されている神社だとされる「乎加神社」へ参拝しました。
気になったのは神社の裏に「神郷亀塚古墳」という古墳があるということでしたので、参拝を済ませた後、神郷亀塚古墳へと向かいます。



「神郷亀塚古墳」は3世紀前半(220年頃)に造られたという日本最古級の前方後方墳とされ、大和の古墳とは形・墳丘の構造・埋葬の形式が違うことから、狗奴国の有力者の墓との説があるようです。
神社の裏側の寂しい道を進んで開けたところへ出ると、古墳の墳丘の周りに畑が広がっていて、何人の方がそれぞれの畑を耕しておられてビックリする。
前方後方墳だと分かる位置まで移動して写真を撮りましたが、農作業の方には古墳見たさに畑の縁をうろうろしている変わった人に写ったことでしょう。




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