僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

【関ヶ原の戦い 】を巡る!①~松尾松尾山城跡 小早川秀秋陣跡~

2025-01-19 16:20:24 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「関ヶ原の戦い」で小早川秀秋が陣取った松尾山城跡では「挑め!松尾山城AR」という企画が期間限定で開催されていました。
ARは合計10カ所あるARスポットで武将の家紋をカメラで読み取ると歴史学者の小和田哲男さんの解説が聞けるというものです。

「関ヶ原の戦い」は当初は西軍優勢であったとされますが、小早川秀秋が東軍に寝返ったことで一気に東軍の勝利に突き進んだと伝わります。
戦いに関する逸話には「問い鉄砲」や「宰相殿の空弁当」などがあり、裏舞台での逸話がいくつか残ります。
諸説ある中で、開戦前に小早川秀秋や吉川・毛利勢は家康に調略されていたという説が有名です。



合戦の陣形図を見ると、笹尾山に石田三成が陣取り北国街道を島津勢・小西行長が固めており、中山道は宇喜多秀家や大谷吉継が陣どる。
東軍は中山道に福島正則・井伊直正・藤堂高虎などが西軍と向き合い、家康は桃配山に陣取っています。
家康の背後の南宮山には吉川広家と毛利秀元がおり、松尾山にいる小早川秀秋と共に麓に陣取る赤座・小川・朽木・脇坂が東軍を攻めれば勝てた可能性があります。

しかし、松尾山の秀秋らは同じ西軍だった大谷吉継に攻撃を開始し、南宮山では吉川・毛利が動かず、安国寺・長束・長宗我部は本戦に参加出来ませんでした。
毛利・宇喜多・小早川・島津らが参加していた西軍はまともに戦えば勝機はあったのでしょうけど、戦いの前に各大名は家康の手中にあったようです。



登山道は最初は緩やかな勾配の林道を歩いて行くことになります。
林道の横には旧道らしい道がありましたが、その道は“行き止まり”と書かれており、この先には崩落個所があるようでした。



松尾山城は室町時代の応永年間に最初に築かれ、その後は織田信長に帰属して浅井長政が修築したが浅井氏討伐後は廃城となる。
三成の目論見では西軍総大将の毛利輝元を招き入れようとしたが動かず、関ヶ原の戦い前日に小早川秀秋が入城して西軍の喉元に小早川が陣取りました。



林道が終わると道は登山道に変わり、切れ落ちた崖の横の道を登って行くことになります。
登山道の脇に「山之神神社」と彫られた石碑が建っており、その上に小高いピークがありましたので寄り道して登ってみます。
広めのピークには祠が祀られており、麓の集落の「山之神」が祀られている場所のようでした。





ここから先はアップダウンの道と何ヶ所かの木段が続きます。
登るのが辛いような急な木段ではないものの、所々に段差の高い場所があるので登りやすい木段の脇の道を登って行きます。



紅葉は、黄色く焼けた葉の木が何本か残り、ほとんどの紅葉は落葉している状態でした。
不思議に感じたのは歩いている途中で甘い香りがする場所があり、花の季節ではないので樹液の香りかと思います。
しかし、一体あの香りは何の木から香っていたのか?



道にまたがっている枝には看板が吊るされ、“ようこそ!松尾山へ 山頂まで240M 頑張れ!”と書かれてありました。
登山道からの景観のない山でしたので、こういう看板は心が和みますね。



この日は年明けの雪が降る前でしたが、枯れ木の上やシダの葉の上に僅かに前夜に降ったらしい雪が残っていました。
地面と直接接していない部分(地熱を受けない部分)にだけ残るわずかな雪がこの冬初めて見た雪でした。



さらに木段は続きますが、一カ所だけ下りの木段があり、せっかく稼いだ高度が下がるのが何となく惜しかった。
階段は登るのに足の疲れを感じますが、下りる時にも膝に負担がかかります。



最後のカーブを曲がりながら登りきると松尾山城の主郭(本丸)のあった広い場所に到着します。
小早川軍は総勢1万5千人居たといいますが、ここには100名程度が限度ではないでしょうか。
他の兵は登山道や麓に分散して戦いの時を待っていたと想像されます。



関ヶ原を見降ろせる場所には三角点。
見晴らしの良い場所なので、ここから合戦の戦況を見極めて大谷軍に襲い掛かったのでしょう。



城跡遺構図を見ると現在居るのが主郭があり山頂でもある真ん中の位置です。
主郭の周囲には7つの曲輪があり、曲輪の遺構は東西400m、南北250mにわたっていることから松尾山城は美濃地方最大級の山城と呼ばれているようです。



また、城跡への道や周辺は切れ落ちた崖になっているため、鎧を付けて刀や槍を持って登るのは困難そうであり、松尾山城の堅固さを感じる所以となる。
「松尾山 小早川秀秋陣処古址」の石碑が残りますが、秀秋自身は西軍を裏切った卑怯者と罵られ、21歳でアルコール中毒で早世しています。



主郭跡の平坦地にどんな山城があったか知る由もありませんが、関ヶ原の戦いでは重要視されていた城として整備されていたと思われます。
城跡は主郭(本丸)を散策しただけなので全貌は分からないものの、土塁や虎口は現在も確認することが出来ました。



「桝形虎口」は、城の出入口になり、城内側にL字型に土塁が設けられています。
虎口をL字型にすることで直線的に侵入出来なくしてあり、南側からの敵の侵入を防御しています。



主郭は四方を土塁で囲んでおり、土が盛り上がったこの土塁は分かりやすい形をしています。
当方は城郭の素人ですので、堀切・空堀・土塁・虎口など案内板などがある場所は分かりますが、何も案内がないと判断に迷うばかりです。



この日は山頂で雨がパラついてきたりして天候に恵まれませんでしたが、山頂からは関ヶ原や山側の陣が見通せます。
ただこの位置にいて家康の「問い鉄砲」が確認出来たかは疑問なものの、麓の兵からの伝達があったと考えると有り得る話になります。



関ヶ原の平野を取り囲む山に積雪はないが、雲の切れ間から見える伊吹山は中腹まで白く見えます。
笹尾山には「石田三成の陣」が見えるものの、松尾山からは人の姿は確認出来るかもしれないが細かな動きは分からないと思います。



小早川秀秋が戦いを仕掛けた「大谷吉継の陣」は松尾山からよく見えます。
秀秋が攻撃を仕掛けた後、松尾山の麓に陣取っていた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱・脇坂安治の4武将も東軍に寝返ります。

脇坂安治は戦いの前に家康に東軍に加担する内容の書状を送っており所領安堵。
赤座・小川・朽木の3将は、事前に裏切る意志を明確にしなかったため、改易または減封処分。
「返り忠」で味方についた人間は、現代社会だけでない戦国時代でも信用されることはないということ。



「関ヶ原の戦い」では西軍か東軍かで迷っているところに「問い鉄砲」で西軍に攻撃したとされますが、大谷吉継は初めから秀秋の寝返りを警戒していたともされます。
以前に訪れた「大谷吉継陣跡」からは秀秋の陣取る松尾山の様子が伺え、ここから秀秋軍の監視をしていたとの話にも説得力があります。



当方は元々は城跡ファンではなかったのですが、山登りなどで城跡を見る機会が多くなってきて関心を持ちました。
関ヶ原は建物や住宅は建ってはいるものの都市化されていないため、かつての古戦場の様子が思い浮かぶような一帯かと思います。
登場する戦国武将にも聞き馴染んだ名前が多く、気候の良い時に「関ヶ原の戦い」巡りをしてみるのも面白いかも知れませんね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「長浜十日戎」の甘酒と福餅まき~太閤さんの豊国神社~

2025-01-10 17:30:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年も♪商売繁盛で笹持ってこい!♪の掛け声もにぎやかに、今年も豊国神社の「長浜十日戎」が始まりました。
「長浜十日戎」は今年で復活六十年祭を迎えるといい、甘酒のふるまいや福餅まきがあり、「本戎」には宝恵駕籠錬行が行われます。

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、織田信長の浅井長政の小谷城攻めの際、横山城に陣取って小谷城落城寸前にお市と浅井三姉妹を救出したという。
浅井氏が滅亡後、秀吉は浅井氏の領地の大部分を賜り、今浜と呼ばれていた地名を信長の長から長浜と改める。
そして長浜の地に長浜城を築き、羽柴秀吉と名を改め、その後は関白にまで出世して天下人となったのは周知の通りです。



秀吉は長浜の町で楽市楽座で商工業を発展させ、年貢米や労役を免除し、秀吉に待望の男子が生まれた際には各町に祝儀の砂金を振舞ったといいます。
町民は、その砂金を元に曳山を作り、子供歌舞伎を演じるようになったのが「長浜曳山祭り」で、祭りは現代に至っても続いています。



太閤さんが1598年に亡くなると、豊国神社を建立したものの、徳川幕府の政権下で太閤さんを神格化できず、豊国神社は取り壊されたといいます。
江戸時代には太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていたが、1793年に彦根藩に「戎宮」を建立する許可を得て一社を建立。
宮では表では戎さんをお祀りし、太閤さんは裏に隠してお祀りしていたといいます。



明治維新後になると「豊国神社」を名乗ることが出来るようになり、大手を上げて太閤さんをお祀りできるようになったようです。
本殿の横にある「出世稲荷神社」は秀吉の大出世にあやかろうと参拝する方が絶えない神社で、回廊で「お百度めぐり祈願」が出来るようになっています。



立身出世して天下人にまで昇りつめた秀吉の銅像は、福笹と熊手を片手に一万円札(旧紙幣)をぶら下げています。
何とも裕福そうな姿にあやかりたいところですが、福笹や熊手は縁起物とはいえ結構高いんですよね。





境内の中央辺りではお焚き上げをされており、寒い夜でも暖まれることが出来ます。
昨年の福笹や熊手やお札をお焚き上げに持って来られる方も後を絶たず、勢いよく燃える炎に煩悩も焼かれる。(といいのにね。)



お焚き上げで少し体を温めた後は、手洗池の横で振舞われている甘酒を頂きます。
紙コップに注がれた甘酒に、すりおろされたショウガをたっぷりと入れて飲むと体の芯から温まります。



というところで、お待ちかねの餅まきの時間がやってきました!
撒かれるのは、紅白それぞれのお餅と鯛を模ったカマボコ。
お餅に「福」のシールが貼ってある福餅を掴めば「おたね福銭」がもらえて、1年間財布に入れておくとお金に困らないとか。



お餅はたくさん撒かれるのですが、手に当って刎ねてしまったり、頭上高く通り過ぎたりと中々の苦戦です。
飛んでくるお餅に「福餅」が見えたので、手を伸ばしたら見事に手中に納まりました!



掴んだお餅と鯛のカマボコは12個。
ちょうど12月分に相当する数で何となく縁起が良い感じで、福餅を「おたね福銭」と交換しました。
ところが帰ってから見たらもう1個「福餅」があり、気付かないところにもう一つ「福」があったと都合良く解釈しておきます。



さて長浜十日戎の「本戎」は、今年初めての大雪で夜が明けて午前中は真冬の雪景色となっていました。
昼頃には雪が止み晴れ間が広がって雪解けとなりましたが、神社では宵戎の夜とは全く違った光景が広がっていました。



出世稲荷神社の屋根や境内に積雪があり、白い雪に鳥居の朱色が映える光景は爽快な冬の景色です。
早朝から午前中に吹き荒れていた吹雪が嘘のような晴れ間となり、この寒波は取り合えずは終了となるのでしょう。



「本社」も屋根には雪が残っており、太閤さんの銅像は福笹と熊手を持って、恵比寿協賛会の法被を羽織っています。
参拝者は途絶えることなく来られていましたので、豊国さん・えべっさん・太閤さんの御利益にあやかりたい人は多いようですね。



「初詣」が終わって「十日戎」が終わると、やっと正月が明けたような気分になります。
「十日戎」が終わると入れ替わるように慶雲館の「長浜盆梅展」が始まり、少しづつですが春に近づいていくことになります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2025年の初詣は巳年にちなんだ神社に参拝!~兵主大社・百々神社~

2025-01-03 17:01:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 静かな年明けとなった2025年。初詣は、巳年にちなんで蛇にゆかりのある神社に参拝を致しました。
滋賀県で巳にまつわる神社は、“白蛇”と“大蛇”に分かれ、「白蛇」は神の使いとして、もう一方は「退治された大蛇」として信仰の対象になったようです。

白蛇は、いわゆるアルビノと呼ばれる白化現象を起こした蛇の事とされ、その希少性と神秘性から信仰の対象となってきたとされています。
野洲市にある「兵主大社」は“神様が「白蛇」の姿で亀の背中に乗って、鹿に守られながら琵琶湖を渡ってきたという伝承”がある神社です。



「兵主大社」の御鎮座は718年。
「兵主の神」は、中国の八神信仰に由来する八千矛神を渡来人が奉斎し、但馬国を中心に全国にお祀りしたのが始まりとされます。
兵主神社と名の付く神社は、全国に50社近くあって延喜式神名帳には19社記載されているが、名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみだという。



「兵主」を“つわものぬし”と読むことにより、武将の信仰が厚く、源頼朝・足利尊氏による社殿の造営や寄進があったといいます。
社伝では足利尊氏の寄進とされる「楼門」は、室町末期の1550年に建立されたとされ、江戸期に大修理が行われて江戸後期の様式に変えられているそうです。



神社は一之鳥居から松並木参道へ入り、太鼓橋を渡って二之鳥居から楼門を抜け、参道を歩いて拝殿へと向かう。
楼門を入って右に稲背入彦神と菅原道真公を祀る「己殿神社」があり、兵主神社と同じ718年に鎮座して農地開田の神として崇敬されてきたといいます。



拝殿の横には「平安の庭」という国指定名勝の約22000㎡の大きな庭園には、水の流れを利用した祭祀が行われていたという国内でも数少ないとされる神社庭園がある。
また、境内の奥には兵主神の本地仏(不動明王)を祀る「旧護摩堂」があり、仏教色の痕跡が残る神社ともいえます。



楼門から拝殿までの参道には参拝者の長い列が出来ており、拝殿まで到達するのにかなりの時間を要しました。
兵主大社の御祭神は、主祭神に八千矛神(大国主神)をお祀りし、配祀神に手名椎神・足名椎神をお祀りします。



社伝では第12代天皇の景行天皇が皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市)に八千矛神を祀らせたという。
その後、「兵主大神」と称して近江国・穴太を経て、琵琶湖を渡る形で現在地に遷座したとされます。
景行天皇は、日本武尊(ヤマトタケル)の父にあたり、皇子の稲背入彦命は播磨直(播磨国造)祖とされる皇子です。



行列に並びながら交替で手水舎でお清めをしましたが、兵主大社の手水の吐水口は亀でした。
これは「神が白蛇の姿で亀に乗って琵琶湖を渡って来た」という降臨伝承によるものと思われます。



順番が来て参拝を済ました後は、冷えた体を温めるべく「甘酒」を頂きます。
また、神社の拝殿横では“書き初め”をすることが出来るようになっており、書き初めをした半紙を持ち帰る方が多く見られました。



社殿の南側にある庭園は、国指定の名勝庭園となっており、正月3ヶ日は無料開放です。
庭園は無料ながら誰も入って来ないので、何度も参拝されている方が多いのか、特に庭園には興味がないのか、で貸し切り状態でした。



庭園は池泉廻遊式庭園となっており、池の中心には出島、奥には築山の石組みがあります。
廻遊すると広さを感じる庭園となっていて、春や秋には新緑や紅葉、苔の美しい庭園であろうことが推測できます。
また、木々の間にはメジロの小グループが飛び交っておりましたので、梅や椿の季節に訪れたら花に留まるメジロが見られるかもしれません。



池の横にはツワブキの花。
椿も一部花を咲かせており、花の少ない季節に見られる花に気持ちが和みます。



兵主大社には南北朝時代前期の作と推定される「石造宝塔」があり、市指定文化財になっています。
石造宝塔は、高さが181cmほどあり、相輪・笠・塔身などに大きな欠損は見られず、長い歴史を経て存在してきた美しさを感じます。



兵主大社は「白蛇」にまつわる伝承のある神社でしたが、次の「百々神社(もも神社)」は「退治された大蛇」にまつわる神社になります。

宇多天皇の時代に長命寺川に架かる橋の下に棲む大蛇が、行き来する人を悩ませていたという。
人々はたまたまとおりかかった敦実親王(宇多天皇の第八皇子)に退治を依頼すると、敦実親王は見事に大蛇を退治する。
その後、村人達が橋のそばに蛇の魂を祀ったのがこの神社の始まりとされるといいます。



少し前に日牟礼八幡宮から鶴翼山(八幡山)に登って山を縦走して下山したのが百々神社の社殿の横でした。
その時に百々神社が大蛇を祀る社だと知ったのが、今回の初詣につながりました。



百々神社は北向きの神社で、これは目の前を流れる長命寺川に架かる落合橋から悪人や疫病が入らないように結界を張る道祖神が祀られていたからと伝わります。
また、冬の北風に向かい立つ神社として「風除け」「ぜんそく封じ」の神様として御利益があるとして信仰されてきたといいます。





2025年の干支は「乙巳(きのと・み)」。
「乙」には「木々や植物が地面を突き破っているさま」の意があり、「巳」には蛇のイメージから「再生と変化」の意があるといいます。

前回の「乙巳」の1965年は、「いざなぎ景気」が始まった年だった半面、ベトナム戦争の反戦運動が高まり、中国では「文化大革命」が始まった年。
さて2025年は、どんな一年になりますやら...。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菩提寺山(甲西富士・龍王山)~辰年の最後は龍王山~

2024-12-31 14:31:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年も数だけはそこそこ山に登ったなぁ~。と年の瀬に2024年登った山を思い出してみますが、低い山ばかりなんですよね。
当方が山登りに行くのは3月から6月頃の春のシーズンと、9月から12月前半までの秋のシーズンで積雪のない時期(山)だけになります。

雪山大好き!と雪山シーズンを楽しみにしておられる方も居られますが、スキルも雪山登山の装備もない当方には雪山はちょっと無理怖いですね。
そもそもが、スノーシューやチェーンスパイク・アイゼンや、グローブ、アイウエア・ピッケルとか必要な道具を所持していないのです。
まぁ登ってみたら数cm雪があったくらいなら有り得る話ですが、ラッセルとかして登ることはないので装備は取り合えずは必要はなさそうです。



この日は午後に用事があり、午前中に下山したかったのでサクッと登って下りれる菩提寺山(甲西富士・龍王山)に登ってみました。
菩提寺山は以前にも登ったことがある山で、何ヶ所か景観の良い展望台があり、353mほどの低山ながら岩場も多い楽しい山行です。
林道を歩き始めると途中に手作り感が満載の水場があり、飲めそうな感じはしないものの、鍋が掛けられていて足場も組まれています。



林道の終点からは登山道になり、岩を削って階段状になっている登山口にはロープが下げられています。
山中で出会った人の話だと、この山は何人かの人が手入れをされているとのことで、山頂までに何本ものロープ場が整備されています。



しばらく進んだ場所には石垣があり、上には何層も石垣が見える。
石垣を見ていると後から登ってきた方が地元の方らしく、詳しい話を聞くことが出来ました。

元々この山には山名にもなっている「小菩提寺」はかつて良弁が開基した寺院があり、金勝寺の大菩提寺に対して小菩提寺と呼ばれていたという。
この石垣のある場所には小菩提寺の宿坊が並んでいたとされますが、織田信長と佐々木六角の戦いによって焼かれて廃寺になったとのことでした。



道は段々と急登や岩場が増えてきて楽しみが増してきます。
菩提寺山は何時間もかけて登る山ではありませんので、多少は急登部があっても疲れる山ではないのが何よりです。



岩が縦に並んだように見える大岩があり、この巨石群は「重ね岩」と呼ぶとのことです。
ここで先述の方が追い付いてこられて“今歩いている場所も土の下は大きな岩で、ここは巨大な一枚岩の上にいるんだ。”と教えてもらう。
山の中にいた間中、何度も追いついたり追い越されたりで、その都度山の説明をして頂いたので、ガイドツアー付き山登りのような感じでありがたかった。



最初に展望が開けた場所からは「十二坊」が望めます。
思えば、まだ登ったことのない山は多いとはいえ、滋賀の低山はいろいろ登ったなぁと山から見える過去に登った山を見て記憶が蘇ることも多い。



菩提寺山の見所の一つに、せり出した岩場へ渡る手作りの橋でしょうか。
渡っても大丈夫かと最初は不安を感じますが、きっちりメンテされているので安定した橋です。



橋に使われている木はまだ新し感がありますし、岩の上には予備の木も準備されています。
こういう手作りのアドベンチャー感ってワクワクしますし、メンテされている方々には感謝の橋です。



橋を渡った先には東展望所という幾つもの巨石が重なるような小さなスペースがあります。
見えているのは菩提寺の町並みや十二坊でしょうか。
それぞれの岩の形の面白さもあって絶景が望める場所です。



ここからしばらくは巨石の間を抜けたり迂回したりと金勝山のような雰囲気があります。
急登や岩場には必ずロープが張られて整備されていますので、岩場の急坂でも難なく登ることが出来ます。



湖東の山を登ると必ず目にすることが出来るのが三上山で、この角度からだと逆お椀型の三上山と女山がよく見えます。
三上山は別称「近江富士」、菩提寺山は別称「甲西富士」と呼ばれ、見る位置によって菩提寺山は富士のような逆お椀型に見えるようです。
また甲西の由来となっている地名は、甲西町が甲賀市の西側に位置することから甲西の地名が付いたのだといいます。



三上山の周辺にはこの菩提寺山の他にも妙光寺山や東光寺日陽山・東光寺不動山や天山などがあり、三上山の見え方がかなり違います。
一時期、三上山が近くに望める山登りをしていた時がありましたが、個人的には菩提寺山や天山もいいけど東光寺日陽山から見る三上山が好きかな。



西に目をやれば、守山の平野の向こうに琵琶湖が見え、その向こうには比叡山。
直下に流れる野洲川は、琵琶湖への流入河川では最長であり、「近江太郎」の通称があるという。



岩場を越えて山頂を目指しますが、岩場は途中でなくなり、木々の間から明るい光が見えてきてゴールが近いことが分かる。
あっという間の山登りとはいえ、岩場や東西の展望台など見所の多い山です。



そして山頂です。
山頂表示が幾つもあり、「菩提寺山(甲西富士)」と書かれているものがあれば、「菩提寺山 別名 竜王山」と書かれているものもある。
何が正しいか不明なものの、一般的には「菩提寺山」が正式で別名が「龍王山」。
「甲西富士」は、「三上山」を「近江富士」と呼ぶのと同じようなもののように思います。



菩提寺山には北峰と南峰の2つのピークがあり、山頂とされて三角点があるのは北峰になります。
知らないと北峰の山頂で折り返してしまいそうですが、龍王の名と深いつながりがあるのは南峰のようです。



南峰には「龍王社」という祠があり、雨乞いの竜神を祀っています。
野洲川は農耕する人からは水をもたらし、時に渇水で水争いが起こったり、洪水や氾濫してきたと考えられます。
「龍神社」は、流域の人々は川を竜に例え、水の恵みを与え、氾濫を抑える龍神として祀り続けてきた祈りの場であったのでしょう。



眼下に流れる野洲川は、御在所岳を源流とし鈴鹿スカイラインと並行しながら甲賀市・湖南市に至り、栗東・守山・草津の平野部を通って琵琶湖に流れ込みます。
野洲川下流では弥生時代中期からの遺跡が見られるという長く人と関わってきた川ですが、水争いや水害がなくなったのはダムや放水路が完成した1980年代頃だといいます。



2024年は辰年で「龍」の年で、来年は巳年で「蛇」の年。
“来年の事を言えば鬼が笑う”という諺はありますが、もう2025年の干支の話をしてもいいでしょう。
ホント、あっという間に年を取ってしまいますね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩の山「金勝山」に登る!-竜王山~後天狗岩~天狗岩~国見岩を巡る!-

2024-12-26 07:03:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 年に何度か登るお気に入りの山が幾つかあるのですが、金勝山もその中のひとつになります。
一言で金勝山と言っても全ての登山コースを歩くには1日では足らず、その日に見たい光景によってコースを決めて登っています。

オーソドックスなコースは、上桐生から落ヶ滝~(鶏冠山)~天狗岩~狛坂摩崖仏~逆さ観音~上桐生コース。それに白石峰~龍王山まで足を延ばすコースがあります。
ショートカットコースだと、馬頭観音堂~龍王山~白石峰から天狗岩(鶏冠山)方面または狛坂摩崖仏のピストン。



今回は馬頭観音堂~龍王山~後天狗岩~白石峰~天狗岩~国見岩をピストンで巡り、「後天狗岩」「耳岩」「天狗岩」の巨岩を登る計画でした。
登山口には熊注意!の看板。以前はあった記憶がないけど熊の目撃情報が多くなってきたということでしょうか。
今まで金勝山ではあまり熊は気にしていなかったのですが、急に怖くなって熊鈴をダブルで鳴らしながら山へ入りました。



金勝山は上桐生から登っても、馬頭観音堂から登っても最初のうちはフラットな尾根筋が多く、体慣らしに丁度良い。
歩き始めてすぐに「金勝寺八大龍王本殿」の祠のある場所に到着します。
金勝寺八大龍王本殿は金勝寺鎮守の大野神社の境外社で水の恵みの神。かつては旱魃時に雨乞い行事が行われたといいます。



登山道を進んでいくと「龍王山」への分岐がありますので、龍王山の山頂に立ち寄ります。
金勝山は「龍王山(標高604.8m)」と「鶏冠山(標高490.8m)」の2つのピークがあり、馬頭観音堂から龍王山はあっという間に登頂出来ます。
山頂からの景観はあまりありませんが、山頂表示の板が少し変わったようでした。





さて次は知る人ぞ知る「後天狗岩」へ行きます。
道ははっきりしているものの、この道でいいのか不安になるような道ですが、時々細い枝にテープが巻いてあるのが目印。

以前にも後天狗岩を登ったことはありましたが、こんなに急な岩登りだっけ?と少し足が竦みます。
天狗岩だと万が一落ちても人が多いので何とかなりそうですが、ここでは人に会うことがほとんどないので転落して動けなくなったら...。
想像するだけで怖い。



岩のやや突き出た部分に手を掛けて登っていると、脆い花崗岩ゆえにボロッと崩れて肝を冷やしたりもする。
岩の上は天狗岩ほど広くはないものの、歩き回っていると590mの山頂標識があった。



見晴らしは良いのですが、この日は強い風が吹きつけていたので、不安定な岩の上では体勢を崩してヨロメキそうになる。
西側からの景色は、円錐形の鶏冠山とその奥には琵琶湖も見える。
鶏冠山へ縦走することも出来ますが、急登が続き山頂には景観がないので一度行ったらもういいかといった山です。



元の登山道に戻って歩き出すと、舟形に内刳りされた巨石の中に「茶沸観音」が祀られています。
この「茶沸観音」は鎌倉時代に彫られたと推定されているといい、かつてお茶屋さんがあったことからこの名前が付けられたとも言われているようです。



観音さまは像高24cmと小さな摩崖仏で、如来立像と言われていますが、今となれば「茶沸観音」でよいのではないでしょうか。
誰かお世話をされているのでしょう。色づいた葉とお水が添えられていました。



分岐となる「白石峰」は金勝山の交差点のような場所になっていて、ここを分岐の起点として金勝山の各所への分岐となります。
まずは「耳岩」から「天狗岩」方面へと向かい、岩登りを楽しむことにします。



白石峰から天狗岩方向には道沿いに巨石が増えてきて、写真を撮り始めるとキリがないほど次々と巨石に巡り合います。
巨石好きには堪らない山で、ザレた道と巨石の間を歩いて行くと思わず “コンゼ~♪は 信楽守るヤマ♪”なんて鼻歌を口ずさんでしまう。



「耳岩」なぜ耳なのか未だに分からない名前が付いた巨石です。
上に登ってみましたが、やはりなぜ耳なのかの疑問は解けず、また次の機会に理由を探ってみよう。



登山道沿いの巨石の中でも何か曰くありげに見える岩です。
巨石一つ一つに名前が付けられるようないろいろな形状の岩があり、それぞれの岩に名前を付けて楽しまれている方もいるのでは?



この辺りから見る景色は、手前に天狗岩、次に三上山みたいな形に見える鶏冠山、奥に三上山が見える。
三上山のある野洲の方は雲がかかってきているみたいですが、金勝の辺りは晴れているのでこれはありがたかった。



そうこうしている間に「天狗岩」の真下に到着。
いつもは大勢の人でにぎわっているのにこの日はなぜか閑散としたもの。



「天狗岩」はロープや鉄橋が掛けられているので登りやすいとはいえ、ちょっと誤れば落下して大怪我につながります。
リックをデポして登りますが、先ほど「後天狗岩」に登ったばかりなので怖さはあまり感じずに登ることが出来ます。



高さがあるのに素人でも登れてアドベンチャー気分が楽しめる岩って、この天狗岩だけかもしれませんね。
何年か後には、山には登るけど岩を登るのは自重するような年齢になるのかも知れないと思いつつ今を楽しむ。



天狗岩は下から見ると尖った岩のように見えますが、岩の上から見ると象のお尻のように見えます。
いつもなら人の多い最上部ですが、この日は独り占めです。
ゆっくり散策しても良かったのですが、風が強いので寒いのと岩の端で風に煽られたら怖いので短時間の滞在で下りることにします。



「天狗岩」から下りるとその先へは進まず白石峰まで戻り、まだ時間があるので「重岩」「国見岩」へ立ち寄ります。
今にも落ちそうな姿で重なっているこの岩には、室町期と推定されている摩崖仏が薄く残っています。





「国見岩」まで行き、広場から眺める景色は左に「鶏冠山」、中央奥に「三上山」、右に「天狗岩」と先程とは違った配置で山が見えます。
三上山は、滋賀県のあちこちでかなりの確率で見ることができ、今いる場所が大体どの辺りか図るには最適な指標になる山です。



「狛坂摩崖仏」へは何度も行っているので今回はパスして、「国見岩」で折り返し「馬頭観音堂」方向へ下山します。
下山後に別の摩崖仏へ立ち寄ろうということで「泣き地蔵」に立ち寄りました。



泣き地蔵は栗東市から信楽に抜ける難所の旧道があったため、通行人の安全を祈願して1865年に彫られたものといいます。
右から薬師・釈迦・阿弥陀の3躰の如来像は、長らく草木に埋もれていたものを2014年に現在の形まで整備されたそうです。



金勝山は急登箇所もあるとはいえ、歩きやすい道も多いのにも関わらず、毎回足に疲労が残ります。
山登り以外に岩登りをしますので、いつもとは違った筋肉を使うからだと思いますが、変化に富んで楽しみの多い山です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡山(鶴翼山)縦走!後編~八幡山・高取の峠・八王子山・北ノ庄山・望西峰・岩崎山~

2024-12-22 15:50:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 八幡山(鶴翼山)の縦走は、「八幡城跡」散策から「高取の峠」を越えて「八王子山」までやってきました。
八幡山の全景の写真で見ると、一番左のピークが八幡山(鶴翼山)の山頂で、鞍部を経て2つ目のピークを過ぎた辺りまで来ています。
写真は下山してから撮りましたが、登山時は晴れていた空も下山後には雲がかかってしまいましたので、いいタイミングでの縦走でした。




「北ノ庄城跡」のエリアに入ると城の縄張図がありますが、「北ノ庄城(岩崎山城)」は詳細がよく分かっていない「謎の山城」とされています。
一説には六角氏綱の二男の八幡(川端)左馬頭義昌の居城であったともされていますので、豊臣秀次の八幡城より前にあった城になります。



城跡に入るとまず「土橋」があり、これは空堀を渡るための土の橋だといい、渡ったところで斜めに土塁を上がって城内に入るという。
敵が攻めてきたら土塁の上から矢を射かけて、戦が始まれば土橋を崩して撤去することができる構造になっている。



土橋を過ぎると「北ノ庄山」山頂の「南西側監視台」があります。
ここからは八幡山城・水茎岡山城・星が丘城が遠望でき、毎年11月に開催される「琵琶湖一周のろし駅伝」ののろし上げ会場になっているという。
また、「北ノ庄山」は標高254mの山で別名には「八ツ岩」「深谷山」「鶴尾山」などの呼び方があるようです。



ここには南西側の監視台と南東側の監視台があり、西の湖や安土山が望めます。
有り難いのは西南方向は朝は曇って暗かったが、蜘蛛が消えて太陽の光が差し込むようになり、視界が明るくなったこと。



「北ノ庄城跡」の城内には4つのルートがあり、城跡全てを見て回ることはしなかったが、西土塁ルートを散策してみます。
城跡ファンだと土塁や虎口などが人目で分かると思いますが、城跡に詳しくない当方には説明看板の記述を見て現地を確認することになります。



土地を読む能力が不足していますので、多分これが土塁・空堀だろうとか、ここが虎口のようだという程度しか地形を読み取れない。
開けている広い平坦地は「上段曲輪」といい、約8700㎡の土地には城本丸が建てられていたのではないかと考えられているようです。



直径2mくらいの窪地が六ケ所点在するのは「七つ池」という場所で、豊臣秀吉が飲料水確保のために掘らせたという伝説がある。
また秀次の息女が履き慣れないポックリで足を滑らせて溺死したという悲話が残るという。



北ノ庄城跡を出るとまた展望台があり、ここは「長命寺港展望台」と名が付いている。
長命寺港と名前は付いてはいるが、実際には長命寺港は樹木が邪魔で見えず、水茎岡山城跡や比叡山・比良山系がよく見える。



北ノ庄城跡を出た場所には「北虎口上展望台」があり、西の湖・安土城側と琵琶湖側の眺望が広がる。
いったい何ヶ所の展望台があるのかと数の多さに驚く事となるが、景色は同じように見えても場所は縦走で移動しているので少しづつ違いがあります。





北虎口上展望台から鞍部に向かって急坂を下った後、「望西峰」へと向かう急坂が続きます。
縦走中に急坂の登り下りは何ヶ所かあったものの、この登りが一番きつかったように思え、額にうっすら汗をかきながら登ります。



縦走の間に見た唯一の巨石です。
磐座かと思ったが信仰の形跡はないようでありましたが、湖東の山にしては珍しく巨石があまり見られない山でした。



「望西峰」は「向山」「ボンサン山」などの呼び名があるようですが、八幡山山系のピークの分類は複数あるようでどれが正解か分からない。
いずれにしろこの「望西峰」が標高278mと山系の中では最高点となるのには違いがないようです。



いよいよ最後のピークの「岩崎山」になりますが、ここも標高278mでカッコの中には「向山・望西峰」とあり、どこが正しいか分かりづらい。
看板が新しいので現在はこちらが正解ということかと考えた方が良いのかと思います。



「西の湖展望台」からは西の湖と安土山、その後方には繖山山系(繖山・猪子山・観音寺山)が見える。
あの辺りの山は当方にとっては慣れ親しんだ山で、登ったことのある山を別の山から眺めるのも山登りの楽しさのひとつです。



たくさんあった展望台はこの「重要文化的景観展望台」が最後となり、西の湖とヨシ原の様子を確認することが出来ます。
「近江八幡の水郷」は「重要文化的景観」として文化庁にから選定されています。

滋賀県では高島市の「海津・西浜・知内の水辺景観」「針江・霜降の水辺景観」「大溝の水辺景観 」や東近江市の「伊庭内湖の農村景観」。
米原市の「東草野の山村景観」、長浜市の「菅浦の湖岸集落景観」があり、東草野の山村景観を除けば、琵琶湖や周辺の内湖が対象となっています。



最後に日陰の地味な道を下っていくと「百々神社」の本殿横に下山できます。

「百々神社(ももじんじゃ)」は宇多天皇の時代に長命寺川に架かる橋の下に棲む蛇が行き来する人を悩ましていた。
人々はたまたま通りかかった宇多天皇の第八皇子・敦実親王に蛇を退治してもらい、橋の側に蛇の魂を祀ったのが始まりとされている。
従って主祭神は渡合橋に現れた大蛇となる。来年は巳年ですので来年に向けて少し巳と縁が結ばれたかな?



さて車の方はと言うと「日牟礼八幡宮」にありますので、「百々神社」から歩いて戻ります。
バスの路線ではあるものの、バスに乗り慣れていないので歩きましたが、結局1時間近く歩くことになりました。

「ラコリーナ近江八幡たねや」までが遠い。ラコリーナから「日牟礼八幡宮」も遠い。
せっかくなのでラコリーナでバームクーヘンを買ってお土産にする。



八幡山の山頂から百々神社までの縦走にかかった時間は約2時間で、百々神社から日牟礼八幡宮までが約1時間。
ピークの前後に急坂が何ヶ所かあったけど、展望台が何ヶ所もあり、山の中にいた間は天候にも恵まれました。
琵琶湖と西の湖の景観を楽しむという意味では、お腹いっぱいになるくらい景観を楽しめましたよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡山(鶴翼山)縦走!前編~八幡山・高取の峠・八王子山・北ノ庄山・望西峰・岩崎山~

2024-12-19 06:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市の八幡山(鶴翼山)は標高272mの低山ですが、近江八幡市のシンボルとも言える山で、羽柴秀次の居城があったことで知られています。
秀次の築いた城下町は商業都市として発展し、近江商人発祥の地のひとつとして八幡伝統的建造物群保存地区が現在も残ります。

時代劇の舞台としてよく登場する八幡堀は、かつては近江商人が利用した水運として、現在は観光地として観光に訪れる人が多い場所です。
八幡堀の横には「左義長まつり」「八幡まつり」で有名な日牟禮八幡宮があり、神社は八幡山縦走のスタート地点になります。



日牟礼八幡宮は主祭神に誉田別尊・息長足姫尊・比賣神を祀り、室町時代には足利将軍家や六角氏より寄進を受けたという。
秀次の時代には八幡山城を建築するため山頂から麓の社に合祀したといい、近江商人の守護神として八幡さんは崇敬を集め現在に至ります。



日牟礼八幡宮をスタートして山を縦走して百々神社に下山する予定ですが、百々神社から日牟礼八幡宮へのロード歩きが1時間ほどかかります。
そこで何度か登ったことのある八幡山まではロープウエイを利用してショートカットで4分間の観光の旅です。



山頂に到着するとまず「西の丸址」へ向かいます。
天気は良かったものの気温は低く、風が強い日でしたので帽子を飛ばされそうになりながら景色を撮ります。

眼下には平野が広がりその向こうには青い琵琶湖。
右は長命寺山で左は水茎岡山城跡、対岸の比良山系もこの日は綺麗に見えていました。



平野部に目をやると、右奥に比叡山が望め、左に三上山が見えます。
この山を縦走すると何ヶ所も展望台があるので、山の上からの景色を楽しみたい人には打ってつけの山です。



山の下からも目にすることが出来る出丸跡の石垣は、1585年の築城当時のものだといいます。
石垣の周囲が登山道になっているのですが、冷たく強い風に吹きさらされて中々の苦行でした。



出丸跡の石垣の進行方向には三上山。戻ってくると今度は長命寺山が見えます。
ここから見る琵琶湖は、対岸に比叡山と比良山系が見えるのですが、琵琶湖の水面が青く見えたのがこの日の特典でした。





城跡を石垣に沿って進んで行くと八幡山(鶴翼山)の頂上に着きます。
山頂は271.9mとあり、山頂部の城跡を一周すると約30分くらいの散策コースになっているようです。





山頂部で「西の丸跡」から「出丸跡」を経て「北の丸跡」に行くと、今まで見えていなかった「西の湖」側が見える場所があった。
朝のうち西南の琵琶湖側は晴れていたものの、東南側は曇り空。
手前は晴れているのに安土の辺りは曇ってるので、景色は雲のご機嫌次第ってところになるかな。



北の丸跡からは石垣に沿った道を歩いて行き、分岐から登山道に入ります。
八幡城跡では何組かの観光客が城跡を散策されたり「村雲御所瑞龍寺門跡」に参拝されたりしていましたが、ここから先は一人っきりでした。





分岐から先は歩きやすい城跡とは打って変わって、登山道へと変わります。
少し紛らわしい場所があったが、いくつもテープが貼ってあって分かりやすい道なのでコース通りに登れます。



「北ノ庄沢展望台」からは紅葉の残る山の向こうに西の湖が見えます。
この辺りにはシダが多いため、シダと紅葉がグラディエーションになっている。



登山道はアップダウンを繰り返しながら3つあるピークの前後は急坂となる。
しかし道は整備されていて各所にロープが張ってあるので登り下りの時に頼りになります。
坂以外の道は尾根筋になり、道の両方に低木が生えているため風を遮ってくれるので、急坂ではむしろ汗ばんでくる感じであった。



「高取の峠」を越えて、まず最初にあるピークは「八王子山(標高220m)」となる。
この八王子山の山頂からは長命寺山と奥津山がよく見え、対岸の比良山系がよく見えます。





八幡山(鶴翼山)縦走!はまだまだ続くのですが、長くなりそうなので前編と後編に分けます。
後編は「北ノ庄山」から「望西峰」を経由して「岩崎山」へ縦走して、百々神社へ下山します...続く。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太郎坊山(赤神山)は紅葉に染まる!~「太郎坊だんご」に舌鼓~

2024-12-08 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 紅葉のシーズンも終盤に差しかかり、急に思い立って「太郎坊宮(阿賀神社)」の紅葉を見ようと車を走らせました。
道中は曇り空でしたので心配しながらの走行だったものの、到着とほぼ同時に空は晴れに変わり、天気予報も当たるもんだと関心する。

車を停めて歩き出すと紅葉で色づいてカラフルになった赤神山に見惚れることになる。
太郎坊宮に向かって歩いている人は、顔を上にあげて柔らかい表情をされている方が多いので、美しく染まった山を見て心が和んでおられるのだと思う。



下から眺めると雑木が多いのか黄土色の雑木紅葉が多く見られるが、山の中に入ると紅く染まったモミジが多い。
色の染まり具合も見事ですが、赤神山の南峰の剥き出しの岩や参集殿がアクセントになって見映えがします。



よく観光写真に使われているアングル(紅いモミジと黄色い銀杏の後方に赤神山が見える)がどこか探してみたものの一致する場所は見当たらない。
角度的に合っていると思われる場所に銀杏はあったがモミジがないので、おそらくかつてはあったが折れたか枯れたかで無くなったものと思われます。



太郎坊宮や赤神山には参拝や山登りで何度も訪れていますが、紅葉の季節は初めてでこんな綺麗だったのかと驚く。
今までここを知らなかったのは損したなと思うくらいの見事な紅葉です。



太郎坊宮へはまずは赤神山 成願寺への石段を登ります。
石段は742段あるといい、一番上の阿賀神社(太郎坊宮)は勝運の神様をお祀りしていますので、勝運に恵まれたかったら石段を登りきれということになります。



参集殿のある所まで登ってくると今が見頃の紅葉が出迎えてくれます。
色彩豊かに鮮やかに色づいた紅葉は一瞬のキラメキの後、静かに散っていき、ある意味で桜の開花と散り際にも似た感性を感じます。
それだけ自然や季節の微妙な変化を日本人は愛しているということなのでしょう。



石段を上から振り返ってみると、紅葉が覆いかぶさる石段の下に団子屋さんがみえます。
初詣の時期にもこの「ふる里」の「太郎坊だんご」のお店が出ていますが、紅葉の時期にも出店されているようで団子はよく売れていましたよ。



石段を更に登ると「龍神舎」という御神水の井戸があります。
この井戸の横から縦走登山が出来るのですが今回は見送って紅葉を楽しみます。



「阿賀神社」の本殿の前にある夫婦岩は、神の霊力によって切り開かれたといい、高さ数十mの2枚の巨岩があります。
夫婦岩の間の道は、善良な者が通れば願いが叶い、邪悪な者が通れば岩に挟まれるという伝説がある。



幅80cm長さ12mほどの間道を通ったが、幸いにして挟まれることはなく当方が善良な人間であることが証明されました。
と冗談はさておき、いろんな場所で岩の間をすり抜けたりしているので幅80cmもあれば結構余裕があるように感じました。



通り抜けた後、振り返って夫婦岩を見る。
滋賀県の湖東地方から湖南地方にかけては巨石が多く、また磐座として祀られている場所も多いので巨石の宝庫と呼べるかと思います。





本殿に参拝して見晴台に出ると、紅葉した黄色い葉と赤い実を付けたタマミズキと湖東平野が見降ろせます。
タマミズキは初詣の季節だと赤い実だけが残っていますが、今の季節だと黄色く紅葉した葉が残っていて、これは初めて見る光景でした。





裏参道から下りてくると咲いている花がありましたが、モチツツジの狂い咲きのように見えます。
花の少ない季節ですから、美しく咲いている花を見ると穏やかな心持ちになれます。



というところで、“花(紅葉)より団子”とはいいませんが、紅葉を充分に堪能したのでお腹が減ってきました。
団子は「みたらし団子」「黒蜜きな粉団子」「抹茶団子」がありましたので、普通のみたらしと抹茶を注文。

もちろん一人で6本食べるわけではありませんが、食べ比べると抹茶団子の方が好きかなという感想です。
初詣の時に並んで食べる場所が空かないので持ち帰ることがありますが、今のシーズンは空いている場所があるので暖かいまま食べれます。



駐車場まで戻って山を振り返る。
何度も登った山だが、右から太郎坊山~箕作山~小脇山~十三仏が連なり、4山の縦走が出来ます。



縦走路は変化が多くて楽しめるで縦走路ですが、十三仏から太郎坊宮前まで戻って来るロード歩きが結構長い。
この日もそのルートを歩いているらしい二人組を見掛けましたが、天気に恵まれて楽しそうにおしゃべりしながら歩いておられましたよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小谷城シャトルバスで戦国タイムスリップ!

2024-11-25 07:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小谷城では毎年春と秋にシャトルバスが運行しており、城跡では観光ガイドの方を語り部として小谷城についての解説が聞けます。
いつもならシャトルバスを降りたら小谷山山頂のある大嶽城跡まで行くのですが、今回は家族と一緒でしたので山王丸跡まで行って折り返しました。

小谷山は低山ながら熊出没注意!の看板のある山ですが、シャトルバスが運行される時期は山中に人が多く、安心して散策出来るのが助かります。
また普段バスに乗る生活をしていませんので、バスで林道を登っていくと観光気分にひたれるのもこの企画の好きなところです。



絵図では麓から現在地と記載された“番所”までシャトルバスで登り、そこからは各ポイントでガイドさんの説明を聞きながら“本丸”まで進みます。
“本丸”で説明は終わりとなりそこで解散しますが、すぐ下りてしまうのも勿体ないので、中丸~京極丸~小丸~山王丸まで行きました。



まず絵図を見ながらガイドさんの城跡全体の説明があり、その先は山道を登りながら説明を聞きます。
ガイドさんが子供の頃の小谷山は松茸が豊富に採れた山で、松茸の季節には弁当のおかずに松茸が入っていたと羨ましい話をされていました。



登り始めてすぐの場所に眺望の良い「虎御前山展望所」があります。
眼下には虎御前山、琵琶湖の手前にオオワシの居る山本山、琵琶湖には竹生島が見渡せます。
湖北では珍しい爽快な晴天に恵まれて視界は良好、空と琵琶湖のブルーが美しい。



城郭の主要部への入口となる場所には「番所跡」があり、ここは検問所の役割があったといいます。
もし番所の入口を突破したとしても、その上部にある曲輪から攻撃されるので、正面突破は困難な堅牢なお城ということになります。



「御茶屋跡」は茶屋でもあったような優雅な名前をしているが、実際は軍事施設だったようです。
主郭の先端にあり、番所を怪しいものが突破すればすぐに攻撃できてその先には進めない。



「御馬屋跡」への道は三方を高い土塁で囲まれていて、ここまで突入してきても崖下へ追いやられ逃げる場所がなく討たれてしまいます。
番所や御茶屋を抜けられてもここで攻撃されて、先へ進めたとしてもごく僅かな人数になってしまうと説明がありました。

御馬屋跡には井戸跡があり、雨水などを溜めて籠城しても水が得られるようにしていたそうです。
しかし、数千人もの人が必要な水は雨水だけでは得られず、清水谷というところから汲み上げてもいたという。



ガイドさんに付いて20名少々が説明を聞きますが、止まって話を聞いていると少し寒さを感じる。歩いている時は心地よい天気なのですけどね。
小谷城は浅井氏滅亡後に羽柴秀吉らによって完膚なきまでに破城されたといい、この周辺にあった石垣は跡形もなく消えて、隅石だけが残っています。





眺望が開けた場所に出ると、横山や伊吹山に姉川の堤防が見えます。
「姉川の戦い」は“血原”や“血川”が地名に残ったりした血生臭い激戦だったと伝わります。
が、ガイドさんの話だと姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲があっただけで、大きな戦ではなかったとの説があるとも言われていました。



「首据石」は浅井家初代・亮政が六角氏との合戦の際、敵に内通していた家臣の今井秀信の首をこの石の上に晒したと伝わる石です。
戦国時代は下剋上・内通・裏切りの時代にあって、裏切り者は見せしめの意味で裏切ったらこんな仕打ちを受けるということを示したのでしょう。



かつてここに門があったことが容易に想像出来る両側にある巨石と真ん中にある石段は「黒金門跡」。
VRでは往年の黒金門は扉に黒金(鉄)を貼った門扉ではありませんが、門扉など関門の仕組み全体を「黒金門」と呼ぶことがあるそうです。





「桜馬場跡」には浅井家家臣供養塔があり、崖側まで行くとパノラマが広がる展望所があります。
桜馬場から見る景色はお市や浅井三姉妹が眺めた姿と、400数十年たった今でも変わりないのかもしれないと思わずにはいられない光景です。





さてガイドの最後は「本丸跡」です。
いまは石垣の一部を残すのみですが、VRでは上下2段の城で安土城建築以前の山城の姿がバーチャルの中で再現されています。
また城の後方(大広間跡の反対側)には尾根を寸断して作られた巨大な大堀切があり、重機のない時代に人力で作った労力に驚かされます。





ここから先はガイドなしでの散策ですが、まずは「中丸跡」を通り抜けます。
中丸は大堀切の北側にあって三段からなる階段曲輪となっており、上段には「刀洗池」という井戸跡が残ります。



「京極丸跡」は京極氏(浅井氏の主家)の屋敷があった場所とされ、大広間に次ぐ広大な曲輪だという。
小谷城は正面から攻めると難攻不落の堅固な山城ですが、秀吉は調略で仕入れた情報から城の裏側に侵入して浅井久政と長政の間を分断したという。
策略家の秀吉の戦の巧妙さは、正面からの攻撃には強くても後方から攻められると弱いという小谷城の守りの盲点を突いた作戦勝ちだったのでしょう。



「小丸跡」は2代城主・久政が居住していた所とされており、秀吉の攻撃によって長政軍と分断されてしまった久政はここで自刃したとされます。
時に久政49歳、長政享年29歳。ガイドさんの話だと長政は歴女に人気が高く長政が自害した「赤尾屋敷跡」には長政の命日に訪れる歴女の方がおられるとか。



「山王丸跡」は4段から成る詰めの曲輪とされ、崩れてはいるが石垣の一部が残っている。
矢印に「大石垣」とあり、そちらへ行くと高さ5mほどある石垣が往時の姿を偲ばせる。

大石垣は規模で本丸の石垣を上回るといい、石垣は浅井氏の権力の象徴でもあったという。
それ故かどうかは分かりませんが、秀吉が石垣の大半を完膚無きまで破壊し、痕跡すら残さなかったのにも意味があったのかと思います。





「山王丸」は主郭部の最も北にあり、名前の通り山王権現が祀られていたとされる場所です。
山王丸から大嶽城跡(小谷山山頂)への道の途中には「六坊」という6つの寺院があり、この一帯は神と仏が祀られていた場所になります。



11月は小谷城スマートIC利用促進キャンペーンで「秋の紅葉散策✖小谷城スマートインターチェンジ利用キャンペーン」が開催中でした。
高速道路を利用して小谷城ICから降りれば、シャトルバスの料金の割引・カフェのコーヒー2杯無料券・御城印2枚プレゼントの特典があります。
キャンペーンをフルに活用しましたので総額2000円分のプレゼント特典を頂くことが出来ましたよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武平峠から鎌ヶ岳・岳峠をピストンで登る~後編 西多古知谷大滝が見えた!~

2024-11-08 07:17:17 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 鎌ヶ岳の山頂まで登ってきた後、一度見たいと願っていた岳峠から眺める鎌ヶ岳の岩壁を目指し、雲母峰方向へと進みます。
山頂から岳峠方向への下りは、足の置き場に気を付けないといけないような急登が続き、その後は岳峠へ向かって岩場の急登を下ることになります。

武平峠から鎌ヶ岳の登山コースより厳しいやんかと思いつつも、分岐の看板が見えている峠を目指して岩の道を下ります。
岳峠までの距離感を把握はしていませんでしたが、それほどの距離ではなかったものの、急な岩場下りはちょっとしたアドベンチャー気分でした。



岳峠まで下りて後ろを振り返ると、想像を絶する岩壁が望めます。
これ位の標高の山で、さほど過酷な道のりでもない場所にこんな迫力のある場所に来れる鎌ヶ岳の良さが満喫出来ます。



世の中にはこの岩壁をよじ登っていく強者がおられるのかもしれませんが、登山道は2つの岩壁の間にあるゴロゴロした岩の急登です。
怖々しながら下りたけど、ピストンなのでもう一度登り返すことになります。



岳峠は標高1070mの場所にあって鈴鹿山脈では一番高い峠とされています。
岳峠では反対側から登って来た人にも会いましたが、岳峠は鈴鹿山脈の縦走路と交差し、湯の山温泉にも下りられるようで登山コースは複数あるようです。

左側の岩壁ですが、凄まじい岩壁です。
いったい今自分はどこに居るのだろう?どこか別の惑星に降り立ったのか?と不思議な感覚になってしまいます。





右の岩壁もかなり高さがありますが、何mくらいあるのでしょうか。
鎌ヶ岳は武平峠側のガレ場に見応えがありますが、岳峠側からの岩肌も圧倒されてしまう魅力があります。



峠から見下ろす先は、雲母峰や濃尾平野。その奥には伊勢湾が広がります。
半島も微かに見えていますが、朝は晴れていたのに段々と雲がかかってきて肌寒くなってきた。



雨になっても困りますので再び鎌ヶ岳の山頂を目指して登り返します。
岩ゴロゴロの道は、降りる時は怖かったけど、登るのはそれほどでもない。
登る時は四つ足動物になって手が使えるのは大きいな。



岩の道を登って振り返ってみると鎌尾根でしょうか?色づいた紅葉と鈴鹿の連なる山々の景色が楽しめます。
この日、紅葉が楽しめた唯一の場所でしたので、岳峠まで行ったのは別の意味でも正解でした。



鎌ヶ岳の山頂まで戻って、武平峠までの帰路に着きます。
次に伊勢湾が眺められるのがいつになるか分かりませんので、名残りを惜しみます。



鎌ヶ岳登山道で花は全く見かけなかったのですが、唯一咲いていた花です。
ノギクの仲間でしょうか?白くてやや小ぶりな花です。



下山して車で鈴鹿スカイラインを走行していると、山の上に大きな滝があるのに気付いた。
後で調べたら「西多古知谷大滝」という落差50mの直瀑の滝で、山の中腹辺りにありました。



あんな奥まった所にある滝なのでひとを寄せ付けないのかと思いきや、踏み跡を辿れば滝の下まで行けるみたいです。
もっと驚いたのは、この滝を登攀する人たちがいるようなのです。
まさに命知らずのチャレンジャーと思えてしまうのですが、そこは技術や経験・体力の裏付けがあってのことなのでしょう。



大滝の最下流のひとつになるのか、分岐流になるのか、道路沿いに小さな滝がありました。
鈴鹿山系には見応えのある滝が多いようなので見てみたい処だが、バリ・ルートだと行くのを躊躇してしまいますね。



さらに道路沿いにもう一つ滝があるのを見つけました。
名前があるのか?無名の滝なのか分かりませんが、滝は滝。
水は透きとおっていて、いずれ三滝川につながっているのでしょう。



久しぶりの登山でしたが、光が燦燦と降りかかる樹林帯の山登りから始まり、ガレ場・ザレ場を歩き、巨大な岩壁に圧倒される山行でした。
途中ではヤマドリに遭遇したり、やや季節外れの蝶、花と滝、プチ紅葉など好きなモノに沢山出会えたのも大きな収穫でしたね。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする