僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~福井県 吉祥山 永平寺~

2017-09-29 19:50:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 仏教の教義はよく分らないままに寺院参拝を続けているのですが、日本の仏教を大きく分けるとすると「奈良時代の南都六宗」「平安時代の真言宗(空海)・天台宗(最澄)」「鎌倉時代の浄土宗(法然)・浄土真宗(親鸞)・臨済宗(栄西)・曹洞宗(道元)・時宗(一遍)・日蓮宗(日蓮)」となると思います。
その中で禅宗(ZEN)と呼ばれる仏派は臨済宗・黄檗宗と曹洞宗になるのですが、同じ禅宗でありながらその違いは何なんでしょうか。

イメージとしての臨済宗は、“京都五山や鎌倉五山”に代表されるように幕府や武士の信仰を集めていたように感じます。実際に臨済宗の本山と呼ばれる寺院には“庭園や障壁画”などの“わびさびと絢爛さ”が両立しているような寺院が多いと思います。
それに対する曹洞宗の本山とはどんな寺院なのか?という疑問もあって曹洞宗の大本山「永平寺」への初めて参拝に訪れることにしました。



門前町に入ると食べ物屋さんやお土産屋さんが駐車場へ呼び込もうと次々と招き入れてくれます。
大半のお店では一旦駐車料を取った後、店で買い物や食事をするとキャッシュバックしてくれるシステムになっていました。少し得した気持ちになる面白いシステムです。



門前町を抜けると、巨大な石標が見えてきていよいよ参拝開始ということになるのですが、永平寺はアクセスのいい場所ではないのにも関わらず、想像以上の参拝客の方が来られています。
それだけ永平寺という寺院は著名な寺院であり、訪れてみたくなる寺院なのかもしれません。



参道の前に建てられた石標には「杓底一残水、汲流千億人」と彫られていて、この言葉には“一杓の水でも元の川に流れることによって、多くの人々が恩恵にあずかる”という意味があるそうです。
この言葉は曹洞宗の開祖である道元禅師の言葉とされています。道元禅師は14歳の時に比叡山延暦寺で出家し、24歳の時に中国・宋で4年間禅を学び「正伝の仏法」を受け継いで帰国されたと寺の案内にあります。

34歳の時には京都に興聖寺を建立して禅を広めていったそうですが、旧仏教宗派からの風当たり(迫害)が強くなってきたため、福井県へ移り永平寺を建立したとされます。
鎌倉時代の新しい仏教宗派には旧仏教派からの何らかの迫害があったようですが、国家権力と結びついた感のある臨済宗と山へ隠遁した曹洞宗の違いはZENに対する考え方の違いになるのかもしれません。



参拝者は通用門から入場して「吉祥閣」という信徒や参禅者・参拝客のための研修道場へと入ります。
ここで若い雲水の方より境内図を指し示しながら寺院の説明や参拝時の注意事項などを聞きます。

「傘松閣」という156畳敷の大広間の天井には230枚の花鳥図がはめ込まれていましたが、絢爛さを感じるのは寺院の中でここだけです。
「絵天井の大広間」がある傘松閣は昭和5年に建築され、平成6年に改築されたといいますから比較的新しい建築物になります。



ここから先へ進んでいくと、かなりの驚きを感じます。
永平寺は禅道場の色合いが強く、修行の場でもあるのですが、ここには2つの世界が共存していました。

一つは禅道場としての修行の場としての雲水の日常があり、もう一つはそこに参拝者(観光客)が物見遊山で歩いている。
このような寺院は始めてでもあり、違和感を強く感じてしまいます。
しかし、物見遊山の気分もここまで。これより先には緊張感のある禅寺の空気が満ちてきます。



「文殊菩薩」が祀られた僧堂は座禅の場で、日々雲水の方がここで座禅修行をされている場所です。ここが曹洞宗の只管打坐(しかんたざ)の修行の場なのでしょう。
壁に向かって黙々とひたすら座り続けて自分と向かい合う姿が想像されます。

さて、寺院内は全て回廊と階段でつながっているため室内のみを歩くのですが、若い雲水の方の姿をあちこちで見ます。
髪を剃って黒い僧衣を来ておられるので若く見えてしまうのかもしれませんが、20代前半か、もしかすると10代の方も居られるように見えます。
その年齢で禅道場のストイックな修行を行えることにまず感心しますが、どの雲水の方を見てもキリッと引き締まった表情をされていて余分なもの削ぎ落としたかのような印象を受けました。



廊下を歩いていって法堂の近くまでくると、雲水の方が合掌して“こんにちわ、これから法要が始まりますのでよろしかったらお参り下さい。”と声をかけて下さいました。
法堂では「盂蘭盆施食会(うらぼんせじきえ)」というお盆供養の法要を営まれています。永平寺の盂蘭盆は旧暦のお盆に先祖供養されていたのですが、偶然とはいえ貴重な経験をしました。



堂内には50~60名の僧の方が読教されている声明の美しさに神妙な気持ちとなり、最後に響き渡る“磬子・リン・妙鉢・太鼓”の美しい響きに聞き惚れてしまいます。
法要が終わると法話を聞かせてもらい、法話の終了後にはご焼香までさせていただきました。



永平寺の御本尊が祀られているのは「仏殿」で、ここには御本尊の「釈迦牟尼仏」と過去を表す「阿弥陀仏」、未来を表す「弥勒仏」の三尊が祀られていました。





また堂内の欄間には禅宗の逸話を図案化したとされる12枚の彫刻がはめこまれています。
逸話の内容は分からないものの、その細かい細工は実に素晴らしい出来だと思います。



この仏殿を出た頃から回廊に雲水の方の姿が多くなってきたのですが、これは食事の準備が整ってきたからだったようです。
食事の合図をする雲板(鉄の板)のところでは合図がきたら鳴らすべく雲水の方が雲板に手を添えて待機されています。
雲板を叩かれた時はビックリしてしまうような大きな音がして、音と同時に雲水の方が次々と廊下を歩いていかれます。



食事を作られるのは「大庫殿」という典座になるようです。
禅宗では食事も排泄もお風呂も全て修行。つつましい食事を音も立てず、ただ黙って食されている姿が想像されます。

大庫殿に祀られているのは「韋駄天像」。
韋駄天の足の速さで食事を運ぶようにということなんでしょうかね。



また、大庫殿には長さ4mほどもある巨大なすりこぎ棒が置かれています。
このすりこぎ棒をさすると料理上手になるといわれていますので、さすってきました。
さらには、料理上手を目指して永平寺の典座和尚の料理本まで買ってしまいました。これで料理上手を目指します(妻が)。





永平寺には江戸時代に再建された山門があり、廊下伝に山門の下へは入ることはできるのですが、入出門は出来ません。
山門は住職だけが通ることができるとされ、修行僧は2回だけ通ることが出来るようです。一度目は修行のために上山する時、もう一度は修行を終えて下山する時。
永平寺には毎年100人ほどの修行僧が入門を求めてやってくるといい、永平寺で修行する僧は200数十名の修行僧が厳しい修行に励んでおられるのには驚きました。





もう一つ入門することのできない門に「唐門」があります。
勅使門として皇室の使者が来られた時にこの門から入門されるそうです。それもあって壁は格式のある五本筋塀となっています。



この唐門の石段の横には凄まじいエネルギーの大きな杉の木が見られます。
根っこの部分に巨石を挟むようにして2本の杉が生命力の溢れた命のパワーを見せてくれます。



永平寺近くには「玲瓏の滝」という滝があるようでしたので立ち寄ります。
落差は15mくらいでしょうか。この滝は、真っ直ぐに落ちている滝と筋状に流れる滝に分かれているようでした。





永平寺は近代的な建物と古い堂宇が回廊や階段でつながってはいますが、やはり厳しい修行道場であるという印象を強く感じます。
“そんな修行の道場を雲水たちが行き来する中、参拝客がウロウロと歩いている。”この異空間のような違和感は強烈でした。

同じ時間に同じ場所にいながら全く時間の進んでいく速さが違うといったらいいのでしょうか。雲水の方々と一般参拝者が違う速度の時間の中にいるような感じさえします。
また堂内にいると人が多いので忘れがちになりますが、縁側などから周辺の山々の景色を見た時に“この寺院は寂寥たる山の寺院”なんだと思い出すことにもなります。


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エゾビタキ・コサメビタキ・チョウゲンボウをパチリ!

2017-09-26 20:39:39 | 野鳥
 快晴の日曜日、前日に取りこぼしたコサメビタキを探しに行きました。
もちろん他に何か入っていることを期待しながらでしたけどね。

最初に出てくれたのはエゾビタキでした。
2羽いたと思いましたが、見やすい方のやつを狙ってパチリ!



エゾビタキは、秋に移動途中の小鳥では最初の頃に姿を見かけるように思います。
これから入ってくるぞ!と期待していても、続いて入ってくる年と続かない年がありますが、これは相手があってのことですから予想は出来ないですね。



コサメビタキは数羽の姿がありましたが、よく動くやつなんで目線を離すとどこへ行ったか分からなくなりそうです。



背中だけでなく腹を見せておくれよと待っていたら向きを変えてくれましたよ。



小鳥は他には見つからずでしたが、田圃にはチョウゲンボウの姿が増えてきましたね。
ざっと巡回しただけでしたが、3ヶ所で出会うことが出来ましたよ。





おまけでコムラサキをパチリ!
高めの位置に留まっていたため変な角度でしか撮れすでしたので、羽の紫の光具合がよく見えませんが、おそらく♀だと思います。



秋分の日を境に野鳥の様相が変わってきたように思います。
これからどんな野鳥と出会えるでしょうか。楽しみな季節になってきましたね。


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ノビタキとチョウゲンボウをパチリ!

2017-09-24 17:17:17 | 野鳥
 毎年9月の後半、秋分の日の頃になると恒例行事のように姿を見せ始めてくれるのがノビタキですね。
今週あたりに見られるかなと期待していたノビタキは、案の定その可愛らしい姿を見せてくれましたよ。

ウロウロと農道を徐行している時に留まっているノビタキを見つけたのですが、入ってきたばかりの頃のノビタキは警戒心が強い。
なかなかいい位置に戻って来てくれないので、少し時間がたってからもう一度見に行ってみました。



湖北は一時的に過ごす場所とはいっても野鳥には好みの場所があるようで、予想通り元の場所に戻ってきていました。
今度は飛ばれないようにと、慎重に場所を確保してからのパチリ!です。



渡りの野鳥は面白いもので、1羽見つけると別の場所でも見つかるようになります。
何㌔か離れた田圃にもノビタキの姿がありましたので、ここ何日かで一気に入ってきたのでしょう。。



田圃に目線を送りながら移動していくと、チョウゲンボウが低空飛行しながら田圃で餌探ししている姿を発見しました。
いよいよチョウゲンボウやノスリが田圃に来る季節なのかと見ていると、道路脇のポールに留まってくれます。
しかし、完全な逆光位置で証拠写真ですね。



今はまだ稲刈りされていない田圃が多く残っていて、頭を垂れた稲穂の下にはキジの姿がありました。
最近キジの姿をよく見るようになりましたが、今年生まれの若鳥たちが独立して動き出したのかもしれませんね。



羽の模様を見ていると、まだ成鳥になりきれていない様子の羽毛です。
ここには♂2羽と♀1羽がいましたが、♂は2羽ともまだ羽が生え変わっていない若鳥でした。



♀の方は成鳥なのか若鳥なのかはよく分からないのですけどね。



ノビタキはしばらくは滞在してくれると思いますが、ノビタキが去る頃にはジョウビタキの姿が見られるかもしれません。
季節はどんどんと動いていってしまいますが、アマサギも去る鳥ですので、姿を見るのはこれが今年最後になると思います。



林ではコサメビタキの姿はありましたが、他はまだ寂しい限り。
カラ軍団だけはにぎやかにやっているのですけどね。


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ホシホウジャクの吸蜜をパチリ!

2017-09-22 06:15:15 | 花と蝶とトンボと昆虫
 ホシホウジャクはチョウ目スズメガ科の昆虫ですので正確には『ガ』の仲間になるのですが、吸蜜しようとホバリングしている姿にガのイメージはなく、むしろ小さなハチドリのようにも見えます。
蜂に擬態しているといわれるホシホウジャクですが、ホバリングしながら花に長い口を伸ばして姿は蜂のようで蜂でない特徴ある姿です。



ホシホウジャクの面白いところは、吸蜜中はけっして花には留まらず口だけを伸ばして蜜を吸うことかと思います。
花に留まって蜜を吸う方が簡単そうに思えますが、何らかの理由でこういう形に進化したのでしょうね。



長い口は用のない時は丸めて収納するようですが、次から次へと花を移っていくので納める間はなさそうです。
少し丸めた状態で飛んでいますが、羽も羽ばたき通しですので羽の止まった写真は撮れませんね。



再び花へ口を伸ばそうとしていますが、よくこんなに長くて細い管みたいなのをコントロールできるものです。



おまけでハチドリの吸蜜の様子を再UPしますが、ホシホウジャクとハチドリは何となく似ていると思っているのは当方だけかもね?




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ニラの花は蝶の楽園か?

2017-09-19 18:50:00 | 花と蝶とトンボと昆虫
 台風が通り過ぎて平穏な気候が戻ってきましたが、台風で楽しみな三連休が二日も潰されてしまいましたね。
連休最終日には晴れ間が出るようにはなったものの、風は相変わらず強かったのが難点でした。

フィールドはというと、1週間前には姿のなかった彼岸花があちこちで咲き出し、花の周りでは春のツクシのようにニョキニョキと茎が伸ばして今にも花を咲かさんとしている彼岸花が数多く見られます。
ツクツクボウシも最後の時間を愛しむように鳴いていますが、鳴き声のトーンは心なしか弱くなっていて、夏の終わりを連想させます。



ニラの花には幾種もの蝶が集まってきて、ちょっとした蝶の楽園のようになってきていました。
一般種の蝶ばかりですが、一網打尽のまとめ撮りです。

ミドリヒョウモンは初夏の山で見られる蝶ですが、秋にもう一度姿を見ることが出来るようです。
生息地域を季節で変えているのか、元々違った地域に生息しているのかは不明なんですけどね。



タテハチョウの仲間には似たような連中が多いので紛らわしいですが、下はツマグロヒョウモンの♂。
ヒョウモンチョウは種類の多い蝶ですが、もっとも身近なヒョウモンチョウはツマグロヒョウモンでしょうね。



アカタテハもとても身近な蝶になりますが、春の早い頃から見ることが出来る蝶かと思います。



一番数が多いのがヒメアカタテハでした。
この場所に全部で何頭いるのかは数えていないので分かりませんが、やたらと数の多い蝶です。



黄色系のタテハチョウで余り彩度のないくすんだ羽色をしているのがキハテハ。
この蝶は遅い時期まで見ることの出来る蝶ではないかと思います。



アゲハチョウの仲間も姿を見せてくれました。
まずは吸蜜中のナミアゲハをパチリ!



キアゲハは蜜を吸うよりも羽を広げて休んでいる姿の方が多かったように見えました。



クロアゲハもヒラヒラと飛んできて留まってくれましたよ。



セセリチョウの仲間やモンシロチョウ・モンキチョウの姿も見られますが、ここは代表でモンキチョウをパチリ!



蝶の季節は彼岸花が花期を終える頃に終わりを迎えてしまう印象があります。
季節が過ぎるのは早いものですね。


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御朱印蒐集~京都 高雄 栂尾山 高山寺~

2017-09-16 21:21:21 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小学校の時の教科書にも載っていたこともあって「鳥獣戯画(鳥獣人物戯画)」は誰もが知っている絵巻物ですが、京都・高山寺に所蔵されていることは実際はあまり知られていないかもしれません。
高山寺は紅葉の名所として有名な場所とされ、「世界文化遺産・古都京都の文化財」にも登録された寺院ですので知名度は高いはずなのですが、当方は高山寺が鳥獣戯画を所蔵していることも世界文化遺産の寺院であることも知りませんでした。

世界文化遺産「古都京都の文化財」に登録されている17の寺社の一つではありますが、他の16の寺社のように年間通して観光客が押し寄せてくる寺院ではないようです。
もっとも高山寺のある栂尾(とがのお)は、高雄・槇尾(まきのお)と合わせて三尾(さんび)と呼ばれる紅葉の名勝だそうですから紅葉シーズンは観光客でにぎわう寺院なのかもしれませんね。



高山寺は高雄山(標高428m)の北東の栂尾にある古刹で、山村を抜けて山合いの道路を進むことになります。
この道は京都北部から山間部を通るルートで、福井県との県境を超えて小浜市までつながっているようですから、自然豊かな場所を抜けていく道路のようです。



高山寺は、駐車場のすぐ近くにある裏参道から参拝することが出来ますが、やはり最初は表参道から入りたいということで、国道を少し歩いて表参道から入ることにしました。
短い石段を登った先には「栂尾山 高山寺」の石標があります。やや苔むした感があるのがいいですね。



境内の入口には「史跡 高山寺境内」の石標があります。
境内はとても自然の多い場所で、京都の有名寺院とは思えないような山の中の古刹の印象を受けます。誰も人に会うことがなかったため少し寂しい感じのする参道です。



参道を歩いていると、さほど遠くはない場所から聞こえてくるのは鹿のいななき。木立の間を鹿が抜けるようなバキバキをした枝の折れるような音までしてきます。
にぎやかな蝉の声に混じってヒグラシの涼しげな鳴き声も聞こえてくる。



高山寺は寺伝によると奈良時代末の774年に光仁天皇(天智天皇の孫)の勅願によって開かれ「神願寺都賀尾坊」と称したとされます。
「高山寺」の寺号は、鎌倉時代の初期の1206年に高山寺の中興開祖である明恵上人が後鳥羽上皇によりこの地を与えられ「日出先照高山之寺」の勅額を賜った時からとされています。



明恵上人は、奈良・東大寺で受戒した華厳宗の僧ですが、真言密教や栄西の禅を学ぶなど宗旨の枠にとらわれず仏教を学んだ方のようです。
その明恵上人像が祀られているのが「開山堂」ということでした。
この開山堂は江戸時代に再建された建築物で、重要文化財にも指定されていますが、当初あったお堂は室町時代後期に兵火により焼失してしまったそうです。



明恵上人御廟を通り過ぎていくと、仏足石(江戸時代)が簡易的な祠の下に祀られています。
仏足石などに刻まれた紋様の意味は分らないのですが、おそらくそれぞれの紋様に意味があるのだと思います。



境内の最上部までの石段を登っていくと高山寺の本堂にあたる「金堂」が見えてきます。
金堂の建てられている場所にはかつて本堂(1219年完成)があったとされ、運慶作の丈六盧舎那仏が祀られていたとされます。

室町時代に焼失してしまったため、江戸時代に仁和寺真光院から移築された古御堂が現在残っているもの(重要文化財)のようですが、中へ入ることは出来ません。
開山堂も法要の時しか開けられないようですね。



山の斜面には井戸なのか祈祷所なのか分らない岩穴があります。これは一体何なんでしょうね。



さて、鳥獣戯画が見られるのは「石水院」になります。
この石水院は明恵上人時代の唯一の遺構とされ、明恵上人が後鳥羽上皇の御学問所を移築した建物といわれます。
鎌倉時代の1216年に建立されており、国宝に指定された建築物です。



建物の外観を見られる場所はなかったのですが、南縁からは栂尾の風景を眺めることが出来ました。
奥に見えている山は向山というらしく、周囲を山と渓流に囲まれた高雄の風景には心落ち着く思いがするとともに、山寺の良さに感じ入ります。



「鳥獣人物戯画絵巻」は甲・乙・丙・丁の四巻からなりますが、記憶にある図柄は主に甲巻に描かれているようです。
この鳥獣戯画の興味深いところは、国宝でありながら作者は不詳。描かれた時代も平安時代後半から鎌倉時代とかけ離れた時代の作となっていることでしょうか。

時代ごとに別の絵師が描いたのですが、絵師ごとにモチーフや筆使いに違いが見えます。
なぜ鳥獣戯画を描くことが時代を超えて受け継がれてきたのか?などの謎はまだ解明はされていないようですね。



上の兎と蛙の絵は、「兎と蛙の相撲」の絵。
下は猿追という「兎が猿を追いかけている」絵。

鳥獣戯画は「日本最古の漫画」と称されることがありますが、イラストの原点とも見方によっては風刺画ともいえるかもしれません。
こういった絵からは日本人の遊び心やデザインの絵心のようなものが見えてきて面白く思います。



明恵上人は華厳宗の僧侶であるとともに真言密教や臨済宗も学ばれたといわれる幅広い考えを持った僧だったようですが、高山寺にある茶園は栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵が貰い受け栽培を始めたことが起源といわれています。
高山寺の茶園は「日本最古の茶園」「日本茶発祥の地」と呼ばれて中世以来、栂尾の茶を「本茶」・それ以外は「非茶」と呼ばれていたことから、銘茶として名高かったことも伺われます。
また有名な宇治茶は栂尾の苗木を移植して栽培されたとも伝わります。



寺院へは表参道から入りましたので、帰りは裏参道から帰ることにしました。
同じ寺院への道でも木々に囲まれた表参道と石積みの兎えに白壁が続く裏参道では随分と趣が違いますね。



高山寺の「鳥獣人物戯画絵巻」のオリジナルは、甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館にあるため、寺で見ることが出来るのは模本となります。
博物館の展示室で本物を鑑賞するのがいいか、寺院の中で模本とはいえ見るのがいいのか。
オリジナルを見るのが一番かとは思いますが、画が本来あった場所(寺院)で見るのも趣があっていいのでは?などと思いながら寺院を後にする。


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オオタカが狩った獲物とは...?

2017-09-14 07:10:10 | 野鳥
 田圃のシギチを探して田園地帯をウロウロとしていると、電柱に怪しい猛禽の姿がありました。
トビではないなと思って確認すると、そいつはオオタカです。

距離のあるままに飛んでしまいましたので、あぁ~残念と思いつつ農道を行くと、運良くオオタカが急降下して獲物を捕まえる場面に遭遇しました。
獲物は捕まえたようなんだけど、草陰になってしまい何を掴んでいるのか見えない。



周辺では2羽のカラスがオオタカの獲物の様子を伺っていて、オオタカは周囲に対して警戒モードに入っています。



車の中に潜んでいたこちらの様子も確認している模様ですが、爪に掴んだ獲物に集中しているようでした。



オオタカは時々、獲物の状態を確認していましたが、まだ食べないようです。



この後すぐに獲物を掴んだまま飛んだのですが、掴んだ獲物には驚きました。
獲物は何とカラス!

体のサイズ的にもオオタカとカラスはそれほど変わらないと思いますが、見事に持ち上げて飛び去ります。
周辺にいたカラスが後を追いましたが、しばらく追いかけていって諦めたのか戻ってくる。

オオタカの狩りは何度か見たことはありますが、獲物はサギか小鳥でしたのでこれには驚きましたよ。
獲物を掴んで飛んでいくオオタカの写真は撮れなかったんだけど、何とも興味深い光景には唖然としてしまいました。


(電柱から飛んで狩りをした場所へ移動するオオタカ)

おまけはホオジロの若鳥とヒバリです。





鳥見をして野鳥の日常的な行動を見て納得することがありますが、時に以外な行動に遭遇することがあります。
まさかオオタカがカラスを狩るシーンに遭遇するとは思いもよらない出来事でしたよ。


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御朱印蒐集(番外編②)~三重県熊野市 鬼ヶ城と獅子巌~

2017-09-12 06:56:56 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 琵琶湖の近くに住んでいますので湖については慣れ親しんだ風景ではありますが、海へ行くとその広さはともかくとして海岸の景勝地には感動してしまいます。
滋賀県から那智勝浦への往復の途上にはいくつかの景勝地があるのですが、この名勝・天然記念物の「熊野の鬼ケ城 附 獅子巖」の迫力には恐れ入りました。

位置的には三重県熊野市になるのですが、北から行くと尾鷲の山中を通った後、海岸に出てしばらくすると見えてくる場所でした。
これより北になると七里御浜というゆるやかな海岸が延々と続き、新宮市・那智勝浦へと続きます。



鬼ヶ城も「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている名勝の一つで、熊野灘の荒波に削られた大小の海蝕洞が続く大岸壁です。
リアス式海岸での海の波風の侵蝕には凄まじいものがありますが、ここは地震による地盤の隆起の影響も受けているようです。



この景観から何を連想するかはその人の感性により違うかと思いますが、1枚目は肉食獣の顔に見えたりしますし、2枚目の写真では岩の波が押し寄せてきたようにも見えます。
床面部は平らな板状ですが、上の岸壁部分には激しい風蝕跡が見られます。



いわゆる蜂の巣状ということになりますが、近くでみると深い風蝕跡が顔のようにも見えてきます。
熊野灘の激しい波と風がこのような奇怪な侵蝕跡を造ったのかと思うと、自然の力の凄さを感じます。



この場所は鬼ヶ城の中で「千畳敷」と呼ばれる場所ですが、その巨大な空間は古くは「鬼岩屋(おにのいわや)」と呼ばれていたとされており、まさしく鬼の棲家の呼び名に相応しい場所かと思います。
千畳敷から海を見下ろすとエメラルドブルーといえる美しい熊野灘の景色が見えました。



この鬼ヶ城には伝説があって、桓武天皇(737~806年)の頃に、この地に隠れて熊野の海を荒らし廻り、鬼と恐れられた海賊・多娥丸を天皇の命を受けた坂上田村麻呂(751~811年)が征伐したと伝わります。
また、鬼ヶ城の沖合1.5㌔にある魔見ヶ島(マブリカ)には坂上田村麻呂の鬼征伐の際に、この島に童子が現れ舞い唄い、鬼が油断して岩戸を開けた一瞬に田村麻呂の放った矢が鬼を一矢でしとめたとも伝えられています。



鬼ヶ城から少し南には「獅子巌」という巨大な獅子が海に向かって咆哮するような姿の奇岩がありました。
高さ25mもあり、狛獅子のような姿勢の大きな巨岩ですから、その姿も相まって迫力満点といったところです。



御浜町の七里御浜というゆるやかな海岸には宮崎県を彷彿させるヤシの木の公園までありました。
ここから数キロの場所にある海岸にはウミガメが産卵にやってくる浜があるということで、近畿地方とはいってもここには違った世界があるような印象で、南国調の景色が続きます。



さてランチの話になりますが、昼食は新宮市の速水というお店で和歌山ラーメンを頂きました。
豚骨醤油味の中華そばで、いわゆる屋台の味なのかと思います。(和歌山市にある井出商店直伝の味だそうです)

このラーメンを食べながら連想したのは、京都の屋台ラーメンからスタートした“ラーメン横綱”の中華そばでした。
同じ豚骨醤油味の中華そばとはいっても味は同じではありませんが、傾向が似ているということです。





駆け足で巡った那智勝浦への旅でしたが、順調に行きたい所をクリアー出来たと納得しています。
とはいっても、家族からは“神社・仏閣ばっかりやんか~!”というご指摘も受けましたが、それは一切聞こえてなかったということにしておきます。


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御朱印蒐集(番外編①)~和歌山県那智勝浦 大門坂~

2017-09-10 17:03:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 熊野古道は古来より熊野三山と各地を結ぶ、熊野詣への道だったとされています。
熊野詣の参詣道としてはいくつかのルートがあるようですが、その全てが熊野三山へとつながるルートのようです。

大阪から熊野へのルートは紀伊路とし、和歌山県の田辺~熊野本宮~新宮~那智へのルートを中辺路、田辺~那智の浜のルートを大辺路とされています。
興味深いのは、高野山~熊野本宮を結ぶ小辺路、吉野・大峰~熊野本宮を結ぶ大峰奥駈け道、伊勢神宮~熊野新宮を結ぶ伊勢路になるのではないでしょうか。

“真言密教の高野山・修験道の吉野(大峰)・神の国の伊勢”と聖地と聖地とを結ぶようにして熊野古道は張り巡らされています。
熊野三山が仏教・修験道・神道の要素を持った信仰になっているのは、聖地と聖地が影響し合ったこともあるのかもしれません。



大門坂は、熊野古道の面影を現在も美しく残している古道といわれ、那智山への石段・石畳の道が続くとされます。
全長約600m、高低差100mといわれる石畳の道は雰囲気たっぷりの風情がありました。



大門坂駐車場から少し歩くと大門坂の石碑があり、棚田や民家を横目に歩いて行くと鳥居が見えてきます。
30分程度歩けば熊野那智大社まで着けそうな距離に思えましたが、すでに熊野那智大社・青岸渡寺・飛龍神社は参拝済みでしたし、前日の那智速玉大社・神倉神社を含めて苦しい石段昇降が続いていたため、石段登りはもう限界です。
戻ってくる道のりも考えて大門坂は少し歩いて先へ進むのを断念しました。



大門坂の登り口では樹齢約800年の「夫婦杉」が出迎えてくれます。
夫婦杉は高さが約55m、幹周りは8.5mの巨木で、その後の参道には樹齢200~300年の杉並木が続きますから、熊野の地は古来からの自然がよく残されていると感心せざるを得ません。



大門坂近くのお茶屋では平安衣装の貸出をされているようでしたが、酷暑の中でのコスプレは不可能と諦めます。
物好きな方が平安衣装で古道を歩いてくれるかな?とわずかに期待をしていましたが、さすがにこの季節にそんな酔狂な方はおられませんでしたね。



駐車場まで戻ってくると、ここにも八咫烏の姿がありました!
サッカーボールを抱えた八咫烏ですが、八咫烏は日本サッカー協会のシンボルマークですからね。



さて、熊野那智のスイーツといえば那智黒飴になってしまいますので、もう少し魅力的な甘物をさがしてみました。
お店を探して、“和か屋”さんというお土産屋 兼 茶屋で“お滝もち”というお餅を頂きました。
餅の中に小豆餡が入っていて、手焼きしたばかりの熱々を出してくれるので何とも言えないくらいうまい!

妙な形をしていますが、よく考えてみるとこの形は那智の滝をイメージしているのでしょうね。
結局、この“お滝もち”はいいお土産になりましたよ。



ランチの方は“勝浦といえばマグロ!”ということで“マグロひつまぶし御膳”を注文しました。
近海天然生まぐろを使用と書かれてありましたが、赤身の美味しさを味わうことが出来て勝浦らしい昼食になりました。
茶碗に移して、1杯目はマグロ丼で食べ、2杯目は薬味を加えたマグロ丼、最後は昆布とカツオの旨みの出汁をかけて汁かけにするのですが、魚の臭みは全くなく美味しく頂くことができましたよ。



ところで、大門坂の夫婦杉の辺りを散策していた時にタマムシを発見しました。
子供の頃は何度が捕まえたことがありましたが、タマムシはもう随分と長い間見ることがなかったんですよ。

ここ数年、真夏の季節に玉虫を探していたのですが、どうしても見つけることが出来なかった甲虫でしたので、これは嬉しい出会いでしたね。
こんなところで出会えるとは参詣の御利益があったからと思いたいところです。


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御朱印蒐集~和歌山那智勝浦 那智山 青岸渡寺~

2017-09-08 20:01:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「那智山青岸渡寺」は西国三十三所札所巡礼の第1番札所ですが、三十三所の位置を地図上で見た場合に青岸渡寺だけが南の離れた場所にあることに気付きます。
これは平安時代中期から熊野三山信仰が「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど盛んとなった頃、第65代花山天皇(968~1008年)が出家後に熊野で3年間参籠され、那智山を1番にして三十三所の観音巡礼をされたことが始りとされています。

花山法皇は各寺院の「御詠歌」と作った方ともされており、花山法皇の三十三所巡礼が盛んになっていくことによって御詠歌も人々に広まっていったそうです。
ただし三十三所巡礼にはそれ以前の話があって、奈良の長谷寺の徳道上人が718年に亡くなった時、“冥土の入口で閻魔大王に会い、巡礼によって人々を救うよう”託宣を受けて現世へ戻された時に三十三所巡礼を始められたのが最初のようです。
その時には三十三所巡礼は根付かなかったようですが、その後の花山法皇によって再興されたと伝わります。



青岸渡寺の縁起としては、仁徳天皇の世(4世紀)に印度天竺の僧・裸形上人が那智の滝で修行を積み、現在地に草庵を営んだのが開基だと伝承されています。
那智では裸形上人の名前がよく出てきますが、自然崇拝の場であった那智勝浦の地に仏教を伝来して神仏習合の場へと変遷していく中で裸形上人は大きな役割を果たされた方のようですね。



推古天皇の頃には大和の生佛上人が来山して、一尺の如意輪観音を彫み勅願寺として本堂を建立されたそうです。
しかし、本堂は織田信長の焼き討ちで焼かれてしまい、その後の1590年に豊臣秀吉によって再建されたと伝わります。
この堂の高さは18mで那智の滝の落口の高さと同じだといわれていますが、これは建築時に計算して建立されたのでしょうね。(重要文化財)



青岸渡寺は熊野那智大社と隣接していますが、最初に熊野那智大社の鳥居から入ってしまったので青岸渡寺の仁王門まで一旦石段を降りて、また登り直してと律儀な参拝をしてしまいました。
石段好きなことなこともありますが、寺院や神社には山門や鳥居から入らないと気がすまない性分なのかもしれません。



仁王門にはガラス張りではありましたが、阿形と吽形の金剛力士像が山門で睨みを効かせています。
山門は1933年の再建とされており、同じ時代に造られた金剛力士像かどうかまでは分かりませんが、迫力十分の仁王様でした。





仁王門の内側面では狛犬が寺院・神社を守護しています。これも神仏習合の寺社らしいところなのでしょう。
石段を登りきると手水舎があり、那智の滝の滝壺の水が汲み上げられていました。
冷たい水が出ていましたので横にあった蛇口の水にタオルを浸して体をクールダウンしてしばしの休憩です。



青岸渡寺は、神仏習合の「那智山熊野権現」の時代には最盛期に7寺36坊を有していたとされる大寺だったようですが、明治の神仏分離令によっていくつもの寺や坊が取り壊されたといいます。
かつて如意輪堂と呼ばれた現在の本堂だけは、西国三十三所霊場の第一番札所であったことから取り壊しを免れたそうですが、一時期は熊野那智大社の一部として空堂になっていた時代があったようです。
神社から独立したのは1874年のこと。天台宗の寺院として再興を果たし、現在に至ることになります。



本尊は「如意輪観音菩薩」ですが、秘仏ということですので、お前立ちの如意輪観音坐像が安置されてありました。
お前立ちとはいっても充分に魅力的な仏像だったと思いますし、御本尊も年に3回開扉されるそうですから実際に目にされた方は多いのではないかと思います。



青岸渡寺の境内にはいくつかの伽藍がありましたが、やはり目を引くのは三重塔ということになります。
三重塔は1581年に戦乱によって焼失してしまったようですが、1972年に無事再建されています。



この三重塔の後方には那智の滝が見えますので、これぞ観光写真の定番のような場所です。
朱色の三重塔と滝、山の緑と空...写真撮影されている方が多かったのですが、多分みんな同じ写真なんでしょうね。



那智の滝の後方には広大な原生林が広がっているそうです。
33.5haの森林とされていますが、熊野那智大社の禁伐林として保護されてきたこともあって、温帯性と暖温暖性の植物が入り混じった豊富な植物相の森林だといわれています。



那智の滝の落口をよく見てみると3本の筋が見えます。
3本で落下する滝がすぐに1本の太い滝になって落下していることから「三筋の滝」の別称もあるようです。

また、滝の上部にはしめ縄が貼られていますが、以前にTVで滝の落下口でしめ縄の張替えをされているのを見たことがあります。
133mの高い場所で、水で足元も滑りやすい所での作業は命懸けということになりますね。



日本人は単一民俗だと現在では思い込んでいますが、古代の日本には多種多様な文化を持った民族がそれぞれの土地にいたとされます。
この熊野の地にもかつては独特の世界観を持った民族が暮らしていたのかもしれません。

また熊野には「黄泉の国」への入口があるとされて、熊野灘の遥か彼方には補陀落浄土(観音浄土)があると伝えられてきた土地です。
熊野詣には死んで再生するという「甦り(黄泉帰り)」の意味もあったといわれており、甦りの思いを込めて旅するのは今も昔も変わりはないということですね。


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