僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

第68回 長浜盆梅展(2019)~慶雲館~

2019-02-28 06:48:39 | 風景・イベント・グルメ
 今年で第68回を迎える「長浜盆梅展」が慶雲館で開催されています。
例年なら閉幕ギリギリの頃に訪れるのですが、今年は暖冬ということもあって花が早いだろうと少し時期を早めての梅見です。

会場となる慶雲館は明治20年、明治天皇の京都行幸の途中に長浜へ立ち寄られた際に休憩所として建てられた国指定名勝の指定を受けた建物です。
長浜の実業家・浅見又蔵は、私財を投じてこの建物・庭を建設されたといいますが、天皇皇后両陛下の滞在時間はわずか45分ほどだったといいます。



とはいえ、130年以上にわたって各種イベント等に利用されて市民に馴染んでいるのですから、浅見氏も大金を投じた甲斐があったというものです。
慶雲館は表門をくぐると中門までの間に前庭があり、中門から本館の間には玄関前庭。本館の裏側には池泉回遊式庭園の主庭が広がります。



前庭には“芭蕉の句碑”や明治の大横綱“常陸山の石像”“大灯篭”などが並びますが、目を引くのは高さ5m・重量20㌧と言われる大灯篭の大きさでしょうか。
庭には他にも巨石が多く、その巨石のほとんどは大津市(旧志賀町)から琵琶湖上を船で運んできたといいます。



よく船で運べたものだと驚きますが、かつての慶雲館の主庭の後方は琵琶湖に面しており、湖上交通の要所であったこともあるのでしょう。
停泊している船の横が慶雲館の主庭のあたりだそうです。



本館へ入るとまず2階へと階段を登り、明治天皇皇后両陛下をお迎えした「玉座の間」があり、犬養毅の書、「群鶴図襖」や屏風「風景曼荼羅(まんだら)-紅白梅図屏風」などが展示されています。
「群鶴図襖」は、明治~大正時代に描かれたとされ19羽根の鶴が描かれています。
写真は一部だけで、襖を締ると2面が鶴の襖、正面は主庭、隣の部屋の一段高い場所に玉座という造りです。



「風景曼荼羅(まんだら)-紅白梅図屏風」は東京都の写真家・小川勝久さんが今回の盆梅展に合わせ、寄贈されたものだそうです。
屏風には真っ白な孔雀を中心に紅梅の梅が咲き、ウグイスらしき小鳥が花の蜜を求めて枝に留まっています。



本館から眺める主庭の松は雪囲いされていますが、今年は暖冬でしたので出番はなかったでしょうね。
かつては慶雲館から伊吹山や琵琶湖が眺望出来たそうですから、琵琶湖を借景にした優雅な庭だったことでしょう。



梅は満開のもの、蕾のものと様々なものの、室内にはほのかに梅の香りが漂う春らしい気配を満喫出来ます。
皆さんスマホなどでの撮影に余念がないようでしたが、本格的に撮影に来られている方もチラホラと姿があります。


「蓬莱」


「雪乙女」

当方も写真を撮ってみるものの、何とも工夫のない写真にしかなりません。
梅の下に黒い鏡面になっているところで“鏡面梅”を撮影する方が集まっていましたが、難易度が高すぎてすぐに諦めましたよ。


「芙蓉峰」


「不老」

さて、それでは“花より団子”ということで恒例のお茶席での和菓子タイム。
お菓子は3店の和菓子屋さんの和菓子が日替わりで出るそうですが、この日は藤本屋さんの「梅だより」でした。
求肥のお餅の中に梅羊羹が入っていて甘いのですが、梅茶にはよく合います。



最近、庭を眺めながら和菓子をいただくことが多くなっていますが、それだけ年を取ったということでしょうか。
ゆったりしてボーとする時間が好きになったのかもね。


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世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて~京都国立近代美術館~

2019-02-24 16:16:16 | アート・ライブ・読書
 京都市左京区岡崎にある京都国立近代美術館では『世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて』をテーマに世紀末ウィーンのグラフィック作品約300点が公開されました。
このコレクションはアパレル会社キャビンの創業者である平明暘氏が蒐集したもので、現在は京都国立近代美術館の所蔵品となっているようです。
(キャビンはファーストリーディング社の子会社となった後に消滅したブランド)



美術作品を理解するには縦の系譜(美術史)を概要だけでも知っていた方がいいのか?観た時の感覚が大事なのか?ということがありますが、今回の世紀末ウィーンのグラフィック デザイン展は後者の方でした。
唯一名前を知っていたのはグスタフ・クリムトだけでしたし、そもそも「ウィーン分離派」とはなんぞやといった状態でした。

美術の世界では(だけではないが...)常に新しい芸術の潮流があり、時代背景の影響などを受けてきたとすると、このウィーン分離派とはどの辺りの位置になるのでしょうか?
流れを大きく分けると、写実主義・印象派・象徴主義・キュビズム・形而上絵画・アールヌーボー・アールデコ・ダダ・シュールレアリズム・ポップアートといった流れがあると思いますが、ウィーン分離派はアールヌーボーからシュールレアリズムの辺りと書かれているものもあります。

ただし、展示されている膨大なコレクションに登場する作品には統一感はなく、それぞれのアーティストが独自の作品を作られている印象です。
入館した入口には「リヒャルト・ルクシェの女性ヌード(1905年頃)」像と窓の奥には「分離派会館」が見えるように構成されています。



展示は「Ⅰ ウィーン分離派とクリムト」「Ⅱ 新しいデザインの探求」「Ⅲ 版画復興とグラフィックの刷新」「Ⅳ 新しい生活へ」の4部構成でしたが、やはり人気のあったのはクリムトのコーナーでした。
クリムトの絵は女性を題材にしたものが多く、実際にクリムトの家には多くの女性が出入りしていて、生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあったといいます。
「パラス・アテナ(1898年)」はギリシャ神話の登場する最高の女神の名をタイトルとしているようです。



「ユディットⅠ(1901年)」は旧約聖書外典に出てくる美しい女をモチーフにしている官能的な絵でした。
クリムトの作品はインパクトが強いのでじっくりと見ましたが、これらは原画ではなく「グスタフ・クリムト作品集(1918年発行)」のもの。
実際にウィーンで見てきた方に聞くと、原画はもっと大きなキャンバスに描かれているそうです。



「接吻(1907-1908年)」はクリムトと恋人エミーリエ・フレーゲをモデルにした絵。
見れば見るほど虜になるような絵で、崖には花がたくさん描かれていますが、実に危うい愛の印象があります。



そのエリーミエを描いたのが「エリーミエ・フレーゲの肖像(1902年)」。
クリムトは黄金色を使った作品もインパクトがありますが、色彩が鮮やかで色の表現が見事な方ですね。



「乙女(1913年)」はクリムト晩年近くの作品だとされ、何と6名?7名?の女性が折り重なるように描かれています。
美術展にあったクリムト作品の中ではかなり異質な感じがします。



クリムトは「ウィーン大学講堂天井画」も描いたそうですが、残念なことに第二次大戦でナチスの手によって焼失してしまったそうです。
18才だったアドルフ・ヒットラーがウィーン分離派とほぼ同時代の1907年にウィーン美術アカデミーを受験して失敗し、失意のどん底にいたことを考えると人生とは皮肉なものです。



「Ⅱ 新しいデザインの探求」では「ウィーン・ファッション1914/15」が気になります。
今の時代なら服飾デザインとしてよく見かけるようになっていますが、当時の最先端のファッションスタイルを斬新に伝えるものだったのでしょう。



19世紀末の芸術文化には貴族趣味のようなものから、新しい(現代的な)デザインへの試行が始まって、数多くの図案集が発行されたようです。
ベルトルト・レフラー 「ディ・フレッヒ(平面}」の図案集には、かなり現代的なデザインが見られます。



「Ⅲ 版画復興とグラフィックの刷新」になると写真の発明によって衰退方向にあった版画の模索が始まったようです。
特にウィーンで公開された日本の浮世絵に影響を受け技法を学び、さらにそれぞれの芸術家たちが独自性を生み出していったといいます。
ルードリッヒ・ハインリッヒ・ユングニッケルの「七羽の鸚鵡(1914年頃)」にはどこか日本的なものを感じますね。



「Ⅳ 新しい生活へ」では人々の生活とより直接的な関係を持つ応用芸術で生活や社会を刷新することを目指したウィーン分離派の作品が展示されています。
今の時代には雑誌や街角のポスター、インターネットなどに様々なグラフィックが溢れていますが、媒体を使って作品を発表するのはその先駆けだったのかもしれません。
作品はフランツ・フォン・ツューロウ「月間帳(1914/15年)」



個人的に好きなのはフランツ・ヴァツィークの「ミュンハウゼン男爵(1904年頃)」でした。
ミュンハウゼン男爵とは「ほら吹き男爵の冒険」の冒険奇譚の主人公として有名で、子供の頃に何回読み返した物語です。
この絵は、カモ狩り名人を自称するほら男爵があまりの大猟だったために、飛び立ったカモと一緒に飛んでいってしまう話の一場面なのでしょう。



展示作品は多岐にわたり多様性を感じる作品揃いでしたが、少し前の日本の漫画に出てくるようなデザインのものもありました。
上:ベルトルト・レフラー「童子(1910年頃)」、下:コロマン・モーザー「フリッツ・ヴェルンドファーの蔵書票(1903年)」





お腹が少々空いてきたので、近代美術館のカフェ(café de 505)でランチをいただきましたが、これがなかなかの優れものでした。
自家製生パスタ(デュラムセモリナ粉100%)のパスタはコシのある麺で、ソースによく絡みます。
特殊な皿を使っていて最後まで熱々ですので、猫舌の方は食べ終えるのに時間がかかるかも?

注文したのは“パンチェッタとフレッシュマッシュルームのカルボナーラ仕立て”で、ソースはくどくないけど濃厚な味で美味しかったですね。
カフェではカルボナーラソースとトマトソースのドリアがメニューにありましたので、あのソースの濃厚な味で作ったドリアも美味しいだろな...とは今後の楽しみ。



あとは恒例の平安神宮の大鳥居。
工事中の京都市美術館は今年中にはリニューアルオープンの準備を終える予定だそうです。



ところで、2019年の春から12月にかけて東京と大阪で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」の開催が決定しているようです。
クリムトは今回は作品集でしたが、次の美術展では絵画が見られそうなので今から楽しみです。
同時に日本へ上陸するエゴン・シーレも魅力的な作品を描かれる28才で早世した画家です。


「世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて」展 図録


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御朱印蒐集~和歌山県紀の川市 風猛山 粉河寺~

2019-02-21 06:16:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所の札所人は、天台宗・真言宗・奈良仏教の流れを汲む寺院が多いのですが、西国3番札所の「粉河寺」は「粉河観音宗」という聞きなれない宗派の総本山になっています。
粉河寺の開山には独特の逸話があり、奈良時代末の770年に猟師・大伴孔子古によって開創されたと伝わります。

孔子古は、“一夜山中に猟し樹根に居して猪鹿を窺うに光明赫奕たるを見て菩提心を起し小堂を営む”との霊験談があり、翌日に“童男行者来りて孔子古の為めに金色等身の千手観音を作る”とあります。
漁師が開基した寺院というのは不思議な話に思えますが、この逸話は「粉河寺縁起絵巻(国宝・京都国立博物館寄託)」に描かれた縁起だそうです。



また、粉河寺縁起絵巻には河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていたところへ童行者が現れ、祈祷により娘は全開したとの逸話も描かれているようです。
“長者一族が童行者の行方を探したところ、粉河の畔りに庵を見つけ、中には娘が差し出したさげさやと袴を持たれた千手観音が安置されていて、童行者は千手観音の化身であったことが分かった”とされます。



粉河寺はその後、繁栄を続け、鎌倉時代には七堂伽藍・五百五十ヶ坊・東西南北各々四キロ余の広大な境内地を有していたといいます。
しかし、1585年の豊臣秀吉の紀州征伐によって堂塔伽藍と寺宝を焼失してしまったようです。
この紀州征伐によって根来寺が炎上し、根来衆(僧兵・鉄砲等)や雑賀衆(鉄砲)も壊滅的になったとされ、高野山降伏へと秀吉は駒を進めていったようです。



粉河寺は紀州徳川家の庇護があって、江戸中期から後期に現在の諸堂が完成したとされます。
「大門」は1707年の建築物だとされ重要文化財にも指定されている大きな楼門で、和歌山県では高野山・根来寺に続く大きさを誇る楼門だそうです。
大門には仏師・春日の作と云われる「金剛力士像」が祀られており、桂の巨木を用材とする非常に大きな仁王様で見応えがあります。





境内へ入ると「仏足石」が祀られているのが目に飛び込んできます。
紋様は“千輻輪相”をあらわしているといい、仏足の大きさは人徳の偉大さを象徴しているとあります。
後方の碑は江戸時代の願海上人の筆によるものだそうです。





境内を進むと「出現池」があり、粉河寺の縁起にある童男行者にまつわる逸話をあらわすものとなっています。
本尊・千手観音の化身である童男行者が、柳の枝を手に白馬に乗ってこの池より出現したという逸話が伝わるようです。



池の周囲には「馬蹄石」「童男大師石像」、三角堂には「千手観音立像」が安置されています。
中へ入ることはできないものの、格子越しに内部がよく見え、まずここで童男大師の逸話を紹介するような形になっているのでしょう。





粉河寺は大門を抜けると中門まで境内が横長に延び堂宇が並びますが、そのあいだに鋳銅仏像の「阿弥陀如来坐像(露座仏)」の姿があります。
1862年に鋳造された総長210cm・像長144cmの仏像で、紀州藩8代藩主:徳川重倫などによって寄進された仏像です。



寺院に楼門や山門があるのはよくあることですが、粉河寺には本堂へ到る道に立派な「中門」がありました。
この中門には四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が表裏2躰づつ祀られており、1832年に建立された重要文化財の楼門となっています。



さていよいよ本堂まで来ると、本堂前には珍しい「粉河寺庭園(国指定名勝)」がありました。
基本は巨石で造られていますが、枯れ滝・石橋・鶴亀の島などが表現されており、見たことのない類の庭園です。
寺院の説明によると“本堂の前庭と下の広場との高低差を処理する土留め”としての役割もあるという桃山時代に作庭された庭だとされます。



本堂は1720年の再建で西国三十三所の寺院の中では最大となる礼堂と正堂が結合した複合仏堂でした。
敢えて言うなら、第十番札所の三室戸寺の本堂を連想することがあるかもしれませんね。



外陣は西国三十三所札所らしい雰囲気が漂うものの、この日はほとんど参拝者がなく、静かさに溢れた中での参拝でした。
嬉しかったのは外陣の中央に懸けられた懸仏を見つけたことでしょうか。
御本尊の千手観音が海の中を龍に乗って現れる姿が彫られています。





内陣へ入れてもらうと正面の厨子の本尊は秘仏で扉は閉じられているものの、修理中の仏像を除く二十八部衆の半分と雷神が祀られていました。
さらに横には珍しい「鬼子母神像」、「大日如来坐像」「不動明王坐像」「弁財天」の仏像が祀られており、「元三大師像」「弘法大師像」「善光寺式阿弥陀三尊」なども祀られていました。

仏像は他にも後陣に「千手観音像」が3躰、「香像」「地蔵菩薩立像」「薬師如来坐像」「閻魔大王像」などの仏像が並びます。
変わったものでは左甚五郎作とされる「野荒らしの虎」の彫り物でしょうか。徳川吉宗公(紀州藩出身・8代将軍)が寄進したものだと伝えられています。



本堂の右方向には「鐘楼(割鐘)」や「薬師堂」があり、「六角堂」「丈六堂」「地蔵堂」へとつながっていきますが、その途中に1564年の銘がある「石造地蔵菩薩立像」があります。
高さ2.1mの石仏は風化している感はあるものの、柔和な表情をされており衆生救済の菩薩として信仰されてきたのでしょう。



「丈六堂」にはその名に相応しく丈六の「阿弥陀如来坐像」が安置されていて、丈六の大きさの迫力もさることながら、射るような目が印象に残ります。



西国三十三所の巡礼寺院へ参拝すると、巡礼者や参拝者の数と熱気に驚かされますが、今回参拝した粉河寺は参拝者の姿もまばらでとても静かな寺院との印象が残ります。
仏像が並ぶ広い内陣でも参拝者はおられず、ゆっくりと落ち着いた参拝となりました。
寺院境内には「粉河産𡈽神社」や霊木などがあり、見所の多い寺院といえます。


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御朱印蒐集~兵庫県宝塚市 紫雲山 中山寺~

2019-02-17 18:05:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 兵庫県宝塚市にある中山寺は、安産祈願の寺院として信仰を集めており、我が家でも妻が懐胎した時に中山寺のお腹帯を頂いた記憶があります。
中山寺のお腹帯は「鐘の緒」と呼ぶそうですが、古くは鐘を打ち鳴らすための大綱の緒を少しづつちぎって安産の祈願に使っていたことからきているようです。

中山寺が安産祈願の霊場として信仰を集めたのは、豊臣秀吉が祈願して秀頼を授かったことによって子授け・安産の寺として有名になったこと。
明治天皇の母である中山一位局が明治天皇を出産する時に安産祈願され、ご平産だったことから「明治天皇祈願所」となったことによって、さらに「安産の寺」として有名になったといいます。

 

中山寺は聖徳太子の創建による日本で最初の観音霊場だとされ、十一面観音菩薩(重要文化財)を御本尊として祀ります。
聖徳太子が蘇我馬子との抗争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立したという説がありますので、寺院としては1400年以上になる歴史のある寺院ということになります。



中山寺は1995年に起こった阪神・淡路大震災によって被害を受けたようですが、その後復興に努めて現在はその傷跡は微塵も見られなくなっています。
重厚な造りの「大門」は1646年、徳川家光によって再建されたものといわれ、阪急宝塚線の駅から目と鼻の先に門を構えています。



大門は仁王門となっており。阿吽の金剛力士像が睨みを効かせていますが、仁王像自体はそれほど古いものではなさそうです。
仁王様の後方には巨大な草鞋が奉納されており、柵には西国巡礼の無事を祈願してか奉納された草鞋が数多く奉納されています。





大門を抜けると塔頭寺院が並ぶ参道が続きます。
塔頭寺院は左側に「総持院(文殊菩薩・福禄寿)、「宝蔵院(大日如来・弁財天)」、「観音院(普賢菩薩・大黒天)」。
右側には「華蔵院(阿弥陀如来・毘沙門天)、「成就院(虚空蔵菩薩・布袋尊)」と並びます。



手水は蓮の蕾をあしらったものとなっており、各方向から手水が出来るようになっています。
後方は民家のように見えますが、「宝塚警察警備詰所」となっていますので、混雑時には警察の方が詰めているのかもしれませんね。



中山寺には西国三十三所巡礼にまつわる逸話があります。
西国巡礼の開祖・徳道上人が閻魔大王からお告げを受け、宝印を授かって西国観音巡礼の流布に努めますが、世には浸透しなかったとされます。
徳道上人は宝印を中山寺の「石の櫃」に埋めたと伝わります。

その後、西国観音巡礼を再興させた花山法皇が石の櫃から宝印を取り出し、西国三十三所観音巡礼は発展していったようです。
現在の中山寺にある石の櫃は古墳跡だとされていますが、石窟があり中には石棺が安置されています。





中山寺は阪神淡路大震災の後に復興をされ、復興の際にはエレベーターやエスカレーターを設置されたようです。
安産・子育てなどの祈願で参拝される方や老人の方の参拝が多い中山寺に、人に優しい設備を取り入れられたのはいい選択だったと思います。



中山寺の境内は下の境内と上の境内がありますが、エスカレーターで本堂などのある中心地へ上がると、まず「護摩堂」があります。
「護摩堂」は1603年に豊臣秀頼の命で片桐且元が再建したものとされます。
秀頼は秀吉の代から中山寺と深い関わりがあった方ですから、再建には尽力されたのでしょう。



「護摩堂」の須弥壇には不動明王を中心に五大明王(大威徳・軍茶利・降三世・金剛夜叉)が安置されています。
中山寺には平安期の重文の仏像がありますが、この五大明王は再興以降の仏像なのでしょう。





大門の辺りからでもよく見えていた深い青色をした五重塔はなんと平成29年の再建建築物です。
東方を守護する聖獣・青龍の名を冠して「青龍塔」と名付けられており、ネパールの寺院から請来された仏舎利が安置されているそうです。



中山寺は真言宗の寺院ですから「大師堂」があり、須弥壇に弘法大師を祀っています。
中央に弘法大師像を安置していますが、気になるのは右に祀られた石仏です。
石の真ん中に弘法大師が座っておられるようで細かい部分までは見えないものの、気になる石仏です。





多宝塔は「大願塔」と呼ばれる塔で、大日如来を祀っているようです。
内部は特別永代供養のお位牌安置所となっており、特別永代供養は100年間位牌をお祀りするとのことです。



「本堂」も1603年に秀頼の命により片桐且元が再建した建築物とされています。
中山寺は、子授け・安産・お礼参り・初参りのメッカですから、赤ちゃん連れや若い夫婦の方が多く参拝されており、初々しい活力に満ちた本堂では神社へ参拝しているような雰囲気も漂います。





中山寺は堂宇が多く広い敷地にある寺院で、「奥之院」にも参拝したかったのですが、徒歩50分の標識を見てこちらは諦めることにしました。
「閻魔堂」は徳道上人と閻魔大王の縁起があり、堂内には閻魔大王像が安置されておりました。



「五百羅漢堂」には釈迦如来と700躰を越える羅漢像が安置されていて、壮観な光景となっています。
五百羅漢堂は震災後に再建された堂宇ですが、よく羅漢像は無事だったものだと感心致します。





参拝を終えて参道に5つある塔頭寺院を一つ一つ巡っていき「成就院」で御朱印を頂くことにしました。
成就院は本堂に虚空蔵菩薩と布袋尊を祀り、本堂横には大聖歓喜天を祀る堂宇が建てられています。





中山寺は西国観音巡礼の開祖である徳道上人、巡礼を発展させて定着させた花山法皇と深い縁を持つ寺院で、西国観音霊場の第1番札所だったこともあったといいます。
現在は安産祈願と子供の無事成長を祈願する寺院として信仰を集めており、観音霊場としては他の霊場とはかなり雰囲気の異なる初々しい活力に満ちた寺院でした。


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ボーダレス・アートミュージアムNO-MA~『障害のある人の進行形』~

2019-02-15 06:12:12 | アート・ライブ・読書
 近江八幡市にある美術館「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」では、現在『第15回滋賀県施設・学校合同企画展 ing… ~障害のある人の進行形~』の後期展覧会が開催中です。
滋賀県内の27ヶ所の福祉施設の作家たちが思いのままに造った作品が展示されているのですが、純粋に驚くのは滋賀県だけでもそれだけの施設が必要で、多くの方が支援して福祉にたずさわっておられることでしょう。
障害者雇用促進法で企業に雇用義務は設けられてはいますが、それはごく一部の方であり、実際には施設で過ごされている方が想像以上に多いことに気付かされます。

企画展で展示されている各作家の作品は、どれもその人らしい表現で造られていて“現在進行形”と題されてはいるものの、実に面白くユニークな作品が多かったと思います。
そこにはアールブリュットやボーダレス・アート云々といった言葉よりも、創作することの楽しさが凝縮されているような展覧会でした。



興味深かった作品を紹介すると...
和紙に色鉛筆で塗り進めていくと毛羽立ち(「もけもけ」)が出る。その「もけもけ」がグラディエーションのような絵の中で他の色に移って出来たパステル画のような作品。
展示方法が実に素晴らしく、他の作家の作品を含めてホテルのロビーに展示されていても全く遜色のない出来栄えの作品の一つでした。

家族への愛情に満ちた書の作品がありました。
「母」という字を書いた書ですが、書を観ていると母の視線や鼻を想像させる優しい顔に見えてきます。
これは彼の家族への愛情が、書からにじみ出るようにこちらに伝わってくるということなのだと思います。

“何事も動作がとても早い”という彼は、作業の待ち時間があるとありとあらゆる紙製のものに絵を描き込むという。
しかもその絵は描き終わるとすぐに破り捨ててしまうそうで、捨てる前にくださいと頼むと絵をくれるそうですが、その絵を見つけると破って捨ててしまうと紹介されていました。
絵を描く行為そのものを楽しんで、そこで全てが完結するということなのでしょうか。会場には実際に破り捨てられた絵をつなぎ合わせられるコーナーがありました。



2階へ行くとワークショップが開催されていて、「クレヨンでつぶつぶづくり」というイベントに参加しました。
クレパスでカラフルに四角形を描き続ける彼が求めているのは絵を描くことではなく、クレパスで描くうちに出てくるカスを集めて指でこねて集めること。

実際にやってみると最初はうまくいかないのですが、コツを覚えるとカスを集めて丸めることができるようになります。
先に始めていた方と向かい合いながらの沈黙の中、クレヨンをこすり続けているとどんどんと夢中になりのめり込んでしまう。



ただひたすら単純な繰り返し動作をしていると“何か目の前の光景とは違うものが頭に浮かんでくるような状態”にもなってくる。
6色のつぶつぶと絵?が出来たところで終了としましたが、これは一応は“緑の野原と菜の花畑、琵琶湖と太陽、青空と雪のshigaの風景と滋賀の子供たち”。
終わった後に急に目眩がしてクラクラしていたのは、それほど集中してこすり続けたということなのでしょう。



NO-MAでは通常、1階・階段踊り場・2階・蔵での展示があり、今回も全ての場所での展示がありました。
この日の近江八幡市は雪が積もって寒々としているものの、来場者がチラホラとあることからすると、NO-MA美術館を訪れる方の多さが分かります。





作品は他にも“新聞紙を丸めら棒(「ぽかぽか」)を作って曲げたりつないだりした作品”や“将棋好きの彼が仲間に将棋を教えるため土で作った駒で遊ぶ将棋”、“思いのままに作った人生ゲーム”など子供の頃の遊び心を思い起こさせる作品も多数。
ドングリを飾りに使った作品も幾つかあり、温かみを感じる企画展で楽しめました。
言葉が足らず魅力を伝えることが出来ませんが、興味深い展覧会を準備された方々の労力に感謝したいと思います。




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「アールブリュット・ジャポネⅡ ライブ展」~大津プリンスホテル~

2019-02-13 07:20:19 | アート・ライブ・読書
 フランス、パリにあるル・サン・ピエール美術館では「パリ東京文化タンデム1018」として昨年9月より今年3月にかけて「アール・ブリュット ジャポネⅡ」展が開催されており、日本の作家52名が出展されているようです。
その52名の出展作家のうちの15名の作家の作品が、大津プリンスホテルでの「アールブリュット・ジャポネⅡ ライブ展」として公開されましたので、ライブ展へ訪れました。
出展作家は、青木尊、阿山隆之、井上優、岡一郎、カズ・スズキ、古久保憲満、酒井友章、魲万里絵、高橋甫、鶴川弘二、西山洋亮、はくのがわ、藤田雄、山根暁、渡邊義紘の15名の個性豊かな作家たちです、



出展作家の中には魲万里絵さんや古久保憲満さんなどの出展がありましたが、全15名の作家の作品にはそれぞれの個性や特徴が強く表現されていることから、会場内を何度も巡って見直してしまいます。
特に興味をひかれた作家は「阿山 隆之」さんという作家です。
古い木材に焼きごてで輪郭線を描き、色鉛筆で彩色された作品で、南国的な楽園をイメージさせる作品群でした。



マウンテンゴリラを中心に、カラフルな動物はカバでしょうか。
キリンや象に鳥や小動物に果実。色が豊富に使われているため一目で毒蛇と分かる薄気味悪いやつが地を這っていますね。



音符が空を舞っている背景の前に立つシマウマには何とも言えない可愛さがあります。
シマウマの耳は音楽を聴いているのか?一緒に音を奏でているのか?
「カエルの正面アマガエル」や「まんどりる」という作品にも独特の味わいがあり、南国楽園趣味を刺戟される作品です。





手織り作家の「カズ・スズキ」さんは綿やウール・化繊で造った作品を空間に展示します。
栃木県の「手織り工房 のろぼっけ」で作品を創作しながら、その作品は日本から海を越えて海外でも評価されているそうです。
後方から覗くように顔が見えるのは「青木尊」さんが描いたアブドーラ・ブッチャーの顔です。



超絶技巧で切り絵を造られるのは「渡邊義紘」さん。
ハサミを使ってフリーハンドで作品を造られるようですが、細かい部分まで見ても全く切り損じが見られない神の手といっても過言ではない作品でした。



アクリブボードに挟んで展示してある「渡邊義紘」さんの切り絵の作品の透明板越し左側に見えるポップアートのような作品は「岡一郎」さんの作品。
岡さんの作品は横顔を描かれることが多いようで口や舌は強調して描かれるが、目にはこだわりがないように見えます。
後方右の白い顔はパリの「アール・ブリュット ジャポネⅡ」の様子を伝える映像に写っていた「青木尊」さんの作品です。



「藤田雄」さんは数字や鬼をモチーフにされる作家で、数字を主題にした絵と鬼の面が展示されていました。
藤田さんが鬼の作品を造るのは決まって節分の季節だそうですが、何か感じるものでもあるのでしょうか。



統計では日本人の約7%が何らかの障がいを持つといわれていますが、障がいを理解し、サポートし、支援する人が数多く存在されます。
そういう中で、個人の個性を認めていこうという一つの手段がアールブリュットなのでしょう。
もちろん、支援やサポートといったことを遥かに超えたところにあるのがアールブリュットという考え方も出来るかもしれません。


(大津プリンスホテル)


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「優れてたパフォーマンスが全国から集結!」~大津プリンスホテル~

2019-02-11 08:50:00 | アート・ライブ・読書
 「障がいのある人の文化芸術活動の未来を創る2日間」と題して、障がい者によるステージ・パーフォーマンスと研究フォーラム・トークショーが、大津プリンスホテルで2日間に渡って開催されました。
また、同時開催として15名の作家による美術展や「アール・ブリュットネットワークフォーラム2019」が開催されていたこともあって、障がい者芸術の祭典として非常に多くの方が集まってこられたようです。

イベントは初日の8日にオープニングセッション~ダンス~即興音楽~トークセッション~ダンス+トーク、9日には研究フォーラムが2つ~ダンス~トークセッション~伝統芸能・石見神楽~ダンス~クロージングセッションとプログラムされています。
今回は2日目のトークセッション(福島智さん+小室等さん)を聞かせてもらい、「アールブリュット・ジャポネⅡ ライブ展」を見たのみでしたが、両方共に中身の濃い内容に堪能することが出来ました。



昨年もこのイベントに参加したのですが、驚くのは障がい者に関係する、あるいは障がい者芸術に関心を持つ方の多さではないでしょうか。
ホテルへ入った時は、パリ公演が決定している「湖南ダンスカンパニー from 滋賀」の障害のある人・ディレクター・支援者を含む7名のダンサーによるステージパフォーマンス中でした。

途中入場不可でしたのでホールの外で待っていると、部屋の中からは拍手と歓声が漏れ出し大いに盛り上がっている様子が伝わってきます。
パフォーマンス終了後の人の入れ替え時には、観客が長蛇の列で部屋から出て来られていましたので、中は超満員だったのでしょう。



退場される方の列を待って入場したのは「光と音のない世界から音楽が生まれる」というトークセッションです。
トークセッションは福島智さん(東京大学先端科学技術研究センター教授)と小室等さん(ミュージシャン)によって行われ、主題は“見えない、聞こえない盲ろう者に音楽は伝えられるか”となるかと思います。



福島智さんは9才で目が見えなくなり、18才の時に耳が聞こえなくなる盲ろうの障がいを持ってからは“指点字”でコミュニケーションを取りながら東大の教授を務められている方です。
指点字は、指先の触覚により読み取る視覚障害者用文字のことで、福島さんと母が作り出し、盲ろう者のコミュニケーション手段として拡がっていったようです、
トークでは福島さんが作詞・作曲した歌を小室等さんがアレンジして完成させた曲で、さわりの部分を生ギターで唄ってくださいましたが、実に心に響く歌でした。

福島さんは1962年生まれで、中学生の頃はビートルズのイエスタディやサイモンとガーファンクルのスカボロフェアーや明日に架ける橋・カーペンターズなどが好きで、高校時代にはバンドを組まれていたそうです。
バンドでの担当楽器は当初はトランペットを、その後はピアノに転向してオリジナル曲を中心に演奏されていたそうで、時にはジャズのセッションもやられていたと語られます。

福島さんが作られた曲は、かつて夢の中で音楽が鳴ったメロディを記憶してストックしたものに、今回新たに作った部分を合わせて完成させたそうです。
小室さんがトークセッションの前半にさわりの部分を唄ってくださいましたが、残りの部分はセッションの後半に福島さんのリクエストで唄っていただけました。
とてもいい曲でしたのでフルバンドでの演奏を聞きたくなる名曲でした。(当日のナイトコンサートで演奏されたが参加することは出来ず)



小室さんが盲ろうとはどんな感覚か?と質問されると...
 “宇宙に放り出されたような孤独や不安を感じる。宇宙は暗い・冷たい・怖い。”
 “時間も空間も永遠につながるというイメージで、孤独が永遠に宇宙につながっている感覚がある。”

宇宙飛行士の野口聡一さんと話した時は...
 “宇宙飛行士が宇宙で船外活動をしている時と同じ感覚かもしれない。”と野口さんから言われたと語られます。

福島さんからは...
 “人はいつまで生きるか、どこから来たのか、どこへ行くのか分からないのは皆同じである。”
 “人が孤独を感じる事には似たような側面がある。”

福島さんは東大の教授ということで難解で専門的な話になるかと思っていましたが、軽妙な関西弁でユーモアたっぷりに話され、小室さんとの掛け合いも絶妙でしたので、笑いあり、拍手ありの盛り上がりでした。
大笑いすることなど滅多にない当方ですが、この1時間弱のトークセッションでは大笑いしながらも話に引き込まれるように聞き惚れ、手が痛くなるほど拍手した貴重な時間となりました。


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御朱印蒐集~兵庫県三田市 東光山 花山院菩提寺~

2019-02-08 05:39:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所観音巡礼には三十三の札所以外に“番外札所”が3ヶ所あり、その3つの番外札所とも西国観音巡礼の創始者にまつわる寺院のようです。
奈良県桜井市にある発起院は開祖・徳道上人が晩年を隠棲した寺院、京都市山科区にある元慶寺は中興の祖の花山法皇が出家した寺院。
そして今回参拝した兵庫県三田市の花山院菩提寺は花山法皇が隠居生活を送った寺院とされています。

長谷寺を開いた徳道上人は西国観音巡礼の開祖とされる方で、病に倒れ冥土に行った時に閻魔大王からのお告げにより宝印を授けられてこの世に戻り、最初に観音巡礼を始められた方です。
しかし、徳道上人の三十三所観音巡礼は根付かず、宝印を第24番札所の中山寺に埋めたとされます。



それから270年後に花山法皇が中山寺の宝印を掘り起こし、観音巡礼を再興すると大いに信仰を集め、現在に至るまで西国三十三所観音巡礼が信仰される起源となったようです。
兵庫県三田市にある番外札所「花山院菩提寺」は、当寺院で992年頃から14年間の隠居生活を過ごした寺院とされたこと、花山法皇の御廟所を祀ることから菩提寺の名が付いたとされます。



寺院は651年に天竺から紫雲に乗って飛来したとされる法道仙人によって開基されたと伝わります。
花山法皇は984年に17歳で65代天皇に即位したものの、有力な外戚に恵まれなかったこともあって、19歳で退位して仏門に入り法皇となったとされる方です。
西国三十三所観音巡礼を復興した花山法皇は観音巡礼の各札所で和歌を詠んだとされており、その和歌が現在の御詠歌として残っているともいいます。



山門には山寺の雰囲気に満ちており、門には力感のある金剛力士像を祀っています。
観光客のあまり来ない低山にある寺院には独特の清々しさがあって心地よさというものを感じます。





仁王門を抜けると短い石段を登ることになり、本堂へと通じています。
石段の曲がり角には手水があり、その後方には石仏が安置されており、ここで身を清めてから入山していきます。





境内には「花山法皇殿(本堂)」と「薬師堂(本堂)」と2つの本堂が並び、この2つの堂宇を中心として寺院が形成されています
堂宇は他に「荒神堂」「不動堂」と「鐘つき堂」がありますが、想像していたより境内は広く、堂宇の数が多かったように感じました。



まず薬師堂へお参りに行くと、小さな前庭の砂が綺麗に整えられており、気持ちのよい参拝が出来ます。
薬師堂の右方向には「幸福(しあわせ)の七地蔵」が安置されており、悩みを聞いてくださる地蔵様を探して手を握ると「お力」が頂戴出来るとありました。
「賢者地蔵」さんの手を握らせていただきましたが、どのお地蔵さんも手の部分が何度も握られて摩耗して光っており、悩みから開放されたい人の多さが分かります。





薬師堂の須弥壇には御本尊の「薬師如来立像」と「日光菩薩」「月光菩薩」の薬師三尊が安置され、左右の須弥壇には薬師如来の眷属である「一二神将」が守護しています。
山の中の寺院であるにも関わらず、参拝者がチラホラと見られたのはやはり西国札所ゆえということなのでしょう。





もう一つの本堂である花山法皇殿にも「薬師如来像」は安置されており、本尊の右の厨子には「花山法皇坐像」が安置。左の厨子には「弘法大師坐像」が安置されています。
3躰の仏像の前に神鏡が置かれているのは神仏習合の名残りなのかどうか分かりませんが、寺院では時々見かけることがありますね。





内陣は外からみると薄暗いのですが、仏像の部分はライトアップされています。
細かい部分までは確認出来ませんが、内陣の厨子はとても厳かな雰囲気があります。



花山法皇殿と薬師堂の向かい側には「花山法皇御廟所」が一段高いところに祀られています。
西国観音巡礼の中興の祖らしく、立派な御廟に祀られており、御廟に手を合わす方がおられました。



この後、納経所へ行って御朱印をいただきましたが、住職と思われる方がとても穏やかで柔和な表情をされて対応してくださいました。
“私は訪れられた方の御朱印帳を見せてもらうのが楽しみなので、よかったら中を見せてくださいますか?”とおっしゃってましたので、どうぞと自分の御朱印帳に記された御朱印を見てもらいました。

さすがに寺院のことに詳しく、いろいろと説明していただきましたが、少し前に頂いた番外札所の発起院のところまでくると、番外札所についての説明も受けることができました。
まだ西国三十三所の札所を全て巡ってはいないのですが、話を聞いている間に先に番外札所を巡礼しようかなと思ったりもします。

展望台からは有馬富士(標高374m)の姿が見え、後方には六甲山脈が控えています。
右方向には千丈寺湖があり、瀬戸内播磨灘の向こうには天気がよければ小豆島が見えることがあるそうです。





ところで、花山院には境内近くまで車で行けますが、非常に勾配のきつい道路で難儀しました。
歩いて登られる方もおられると思いますが、なかなかの難所に思えます。

登り道の途中には「琴弾坂」の石碑があり興味を引きます。
これは法皇を慕って都から来た女官たちが女人禁制の山であるため入山出来ず、山裾に草庵を結んで暮らし、法王のために琴を弾いてお慰めしたとの故事を伝えるものだそうです。
女官達は尼となって山裾に住んでいたため、当地を「尼寺(にんじ)」と呼んだことから、現在も地名となって残っているそうです。



また、彼女たちの墓は「一二尼妃の墓」として山裾の尼寺地区に現在も残されています。
懐妊したものの亡くなってしまった弘徽殿女御(藤原忯子・花山天皇の妻)を祀る五輪塔と、取り囲むように祀られた11人の女官の石塔が平安の昔を偲ばせます。



番外札所は、開祖・徳道上人の菩提を弔う「発起院」、中興の祖・花山法皇の菩提を弔う「花山院菩提寺」、花山法皇が出家した寺院が「元慶寺」と西国観音巡礼の祖を祀った寺院になります。
花山法皇は1008年、41歳でその生涯を閉じられますが、千年の歳月を越えて巡礼者に希望を与えてくださる方であると言い切れるでしょう。


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御朱印蒐集~奈良県宇陀市 宀一山 室生寺~

2019-02-03 20:20:20 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 室生川を上流に向かって秘境へと向かうが如くの山道を進んでいくと、室生山の中腹に室生寺はありました。
室生寺は「女人高野」の別名があるように女性が入れる高野山ということになりますが、高野山と比較されるほどの厳しい立地にある山岳寺院だとも言えると思います。

また写真家・土門拳が雪で薄化粧した五重塔と石段を撮ろうとして、何日も旅館に泊まり込んで待ち、最後の日に奇跡のような写真を撮ったことでも有名な寺院です。
かなり辺鄙な場所にある寺院にも関わらず、参拝者が多いのは語弊があるかもしれませんが、京都大原の三千院のように女性からの人気の高さが影響しているのかもしれません。

 

「女人高野室生山」と彫られた石標と、後方にある太鼓橋を渡ると、そこから先は女人高野・室生寺の境内になります。
太鼓橋の手前左にあるのは、土門拳が雪の室生寺を撮った時に雪待ちしていた旅館かと思われます。
土門拳はこの旅館で雪が降るのをひたすら待っていたのでしょう。



太鼓橋の反りの場所まで来ると、その先に入山門が見えてきます。
室生寺ではあちこちで補修工事をされており、入山門からも工事中であることが分かります。



太鼓橋から室生川を眺めると、水量は多くないものの水は透き通るような綺麗さを保っています。
この室生川に沿って門前町が続き、活気のある門前町の町並みが続いていました。



入山口から間もなく、仁王門が見えてきますが、山側は一部工事中なので景観を損ねているのが残念なところです。
この仁王門は近年の再建とされており、傷みはなく朱色が鮮やかに映えます。



仁王門が近年の再建ということは金剛力士像も新しいものかと思われますが、赤と濃青に塗られた仁王様はなかなかの見応えです。
柱が一部分だけ朱色が剥げてきていますが、これは風雪のせいなのかもしれません。





雰囲気のいい石段の先にあるのは金堂。知らずに行ったのですが、金堂では運良く特別拝観中でした。
もし金堂の特別拝観がない時期に訪れていたら“寺院に対しての印象が全く変わっていたかもしれない”と思ってしまうかもしれないような素晴らしい金堂内部でした。



金堂の正堂部分は平安前期に建立されたものを鎌倉時代末期に大修理されたもので、前方の礼堂部分は1672年に建て替えられたものとされ、国宝に指定されています。
室生寺は奈良時代末期に興福寺の僧・賢璟によって開かれ、平安時代は興福寺の別院としての色合いが強かったようです。

室生寺はその後、法相・真言・天台などの各宗兼学の寺院として、密教的な要素を強めながら、江戸時代になって真言宗寺院となったといいます。
現在は真言宗室生寺派の大本山になっていますが、時代に合わせてその信仰にも変遷があったということなのでしょう。



金堂の特別拝観がなかったら寺院に対するイメージが全く変わっていたというのは、金堂の須弥壇に並ぶ仏像群を見たからになります。
実に見事な仏像は左から「十一面観音立像(国宝)」に始まり、「文殊菩薩立像(重文)」「本尊釈迦如来立像(国宝)」「薬師如来立像(重文)」「地蔵菩薩立像(重文)」が並び、その前には表情がとても豊かな「十二神将立像(重文)」が並び立ちます。

また右の脇陣には「大日如来坐像」「蔵王権現立像」が並び、左の脇陣には存在感のある「聖観音菩薩立像」が立ちます。
この内陣に並ぶ仏像のあまりの素晴らしさには名残り惜しくてなかなか金堂を後にすることが出来ませんでした。





次に本堂へと向かいますが、本堂(灌頂堂)は1308年の建立で、こちらも国宝に指定された建築物です。
この御堂は灌頂という密教儀式を行うための堂で、室生寺の密教色の濃さが感じられ、内陣中央の厨子には如意輪観音坐像(平安期・重文)を本尊として祀っています。
また、左右の壁には両界曼荼羅(左:金剛界曼荼羅・右:胎蔵界曼荼羅)が掛けられていて、さらに密教色を強くしています。





本堂の横にある石段の先にはあの有名な「五重塔(国宝・奈良時代後期)」が見えてきます。
室生寺の五重塔は、法隆寺五重塔に次ぐ古塔でありながらも、屋外に立つ五重塔としては我が国で最も小さいとされ、女人高野をシンボライズする塔になります。



少し高い位置から見ても小ぶりでやさしい感じが伝わってきます。
1998年には台風7号の被害で、直系2m・高さ60mの杉の巨木が倒れ掛かり、大被害を被ったそうですが、現在は完全に修復されて傷跡は全く分かりません。



最後に「奥之院」へ向かうことになりますが、これがなかなかハードな石段登りになりました。
登りばかりで約400段ありますが、各所に“マムシに注意!”の看板があり、蛇に遭遇してもいないのに肝を冷やします。



石段の先には門をイメージするかのように2本の杉がそびえ立っています。
どことなく熊野古道を思い起こしながら進みますが、全体図が分からないためひたすら登るしかない。



朱色の橋が見えてきたが、その先の石段は勾配がさらに強くなりそう。
石段の両サイドには樹齢年数の長そうな大木が林立しており、霊山・修行場としての歴史を感じます。



山側には巨石が剥き出しになっている部分もあり、苔むした巨石の下には不動明王の石仏が安置されています。
お不動さんの手入れをする時はどのルートで行かれるのでしょう。下からよじ登っていかれるのでしょうか。



さらに石段を登っていくと、やっと掛造りの奥之院が見えてきます。
ただしここからでは背面が見えただけで、御堂まではまだ石段を登り続けなければなりません。



奥之院にたどり着くと鎌倉時代後期に建築されたという「御影堂(大師堂)」があり、この大師堂は各地にある大師堂の中でも最古級の堂だとされています。
後方には岩山の上に七重石塔が立ち、そのゴツゴツとした岩肌の上に立つ石塔の独特の姿には神々しいものすら感じてしまいます。





奥之院の「常燈堂(位牌堂)」の中には数多くの位牌が祀られており、ここが供養の場であることを強く感じます。
さすがに気持ちのいい場所ではありませんので再び石段を下りもと来た石段を下りますが、下り中心の石段は疲労感が軽いのはいいとはいえ、つまずいて転落しないように注意が必要ですね。



五重塔から本堂へ戻る時にもう1枚五重塔の写真を撮りました。
今度はスマホで撮りましたが、写真ってスマホで撮った方が色が綺麗に色合い出る時があるのが悔しいところです。



室生寺のことは「女人高野」「土門拳の雪化粧の室生寺」としか知りませんでしたが、行ってみると高野と名の付くのも納得できる山岳寺院でした。
繊細な美しさを持つ寺院でもあり、国宝・重文の仏像が惜しげもなく並ぶ密教的な寺院でもある。
また女人高野と名の付く厳しい修行道場でもあり、実に多彩で魅力的な寺院だったといえます。


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