僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都市右京区 五台山 清凉寺(嵯峨釈迦堂)~

2018-04-30 17:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 清涼寺には初めて訪れたのですが、何か既視感のようなものを感じてしまいました。
身近にあって馴染み深い寺院と何となく雰囲気が似ていることが既視感につながったのだと思いますが、宗派も規模も堂宇の数も種も違うのにも関わらず奇妙な気持ちになってしまいました。

清涼寺は京都嵯峨野の地にある浄土宗の寺院で「嵯峨釈迦堂」の名で親しまれている寺院だと伺います。
寺院の案内によると“「源氏物語」の光源氏が造営した「嵯峨の御堂」と目される寺院”と書かれており、平安の昔より信仰を集めてきた寺院とされています。



門前にある石標には『三国伝来 釈迦如来』と彫られており、これはインド~中国~日本と3つの国を伝来したとされる本尊釈迦如来像(国宝)に由来するものと思われます。
その仏像への信仰から嵯峨釈迦堂として名が広がったというのが実際のところのようです。



清涼寺には見応えのある仁王門にまず気を惹かれます。
この仁王門は度重なる焼失がありましたが、1776年に再建されており、門の左右には室町期の金剛力像が守護し、楼上には一六羅漢が祀られているそうです。



室町後期の作とされる金剛力士像は表情もよく力感のある仁王像ですが、残念ながら金網越しになります。
玉眼の眼の睨みは強く、凄みを感じさせてくれる仁王像だと思います。





清涼寺の梵鐘は撞くことは出来ませんが、石垣の上に組まれた鐘楼は江戸時代のものとされ、梵鐘には1484年の日付と足利義政・日野富子・足利義尚の銘があるそうです。
この銘にある方々は応仁の乱に大きく関わった方々でもありますね。



本堂となる釈迦堂は945年に等身大の釈迦像を祀って建立されたのが始まりとされますが、その後たび重なる焼失によって堂を失ったと伝わります。
1701年に再建された釈迦堂は五代将軍・綱吉とその母・桂昌院の寄進され、桃山建築の名残を残す建築物といわれます。
須弥壇に安置された本尊釈迦如来には幕がかかっていますが、内陣に入ることができて、鎌倉初期の地蔵菩薩立像(重文)や壁画、10幅からなる五百羅漢図などは拝することが出来ます。





寺院としての清涼寺は、東大寺の僧・ちょう然が983年に開山したと伝えられ、最初は華厳宗の寺院として開かれたとされます。
ちょう然はインドから中国へ伝えられた釈迦37歳の生身の尊像を拝し、その尊像を模刻して日本に持ち帰り清涼寺の御本尊として安置したと伝わります。

ちょう然が持ち帰った御本尊・赤栴檀の釈迦如来(国宝)の体内には絹で作られた五臓六腑が収められていたともされます。
三国伝来と伝わる仏像ですから、日本の仏像的な尊顔とは少し違ったインド風の印象を受けますね。



本堂の右手にある阿弥陀堂は、嵯峨天皇の第12皇子・源融が山荘・棲霞観を建て、源融没後の895年に遺族が御堂を建たのが始まりとされており、幾度かの焼亡を経て再建されたのは1863年とされます。
この源融よいう人仏は、光源氏のモデルの一人と目される方とする説があるようですね。





阿弥陀堂の近くには江戸中期の一切経蔵が建てられ、中には輪蔵が納められています。
回すと一切経を読んだのと同じ功徳があるとされていて、大きな輪蔵を回すことが出来ます。
正面に傅大士と笑仏でしょうか。写真では反射光がきつくて堂内の輪蔵が写りませんでした。



多宝塔は1703年の建立で、背後のある石塔は源融の墓といわれています。
異説もあるようですが、古い石塔ですので分らないことも多いのでしょう。



余談になりますが、実はこの清涼寺の境内にはお茶屋さんがあって“あぶり餅”が食べられると期待をしておりました。
しかし、湯豆腐屋さんはあったものの“あぶり餅”屋さんは見当たらず、諦めて寺院を後にしました。
西門を出る頃には湯豆腐屋さんものぼりを降ろして店仕舞のようです。



西門から愛宕道を歩いていると地蔵堂のような堂がありましたが、小窓から堂内を覗くと何と「千手観音立像(鎌倉初期・像高58.1cm)」が安置されていました。
この界隈は藤原定家の山荘があった場所とされており、現在は慈眼堂(中院観音)として、定家の念持仏であった千手観音を祀っているそうです。
街中に何気なく建てられた小ぢんまりとしたお堂に、このような仏像が祀られているのは京都ならではということですね。


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バングラディシュ・カレーを探せ!~岐阜県垂井町「バンドゥビー」~

2018-04-29 20:13:13 | 風景・イベント・グルメ
 インド料理屋さんと名の付くお店にもいろいろあって、インド人系・ネパール人系などお店によってシェフの国が違います。
当方はもっぱらネパール人系のインド・ネパール料理屋さんを贔屓にしておりますが、新しいお店を探すのもまた面白さがあります。

シェフによって何が違うんだと言われると具体的には答えられませんが、通っているネパール人系のお店の味が合うということなのでしょう。
ただ、いつも安定した味に馴染んでしまうと、少し違うお店にも行ってみたくなるのが人の常。
新規開発ということで、バングラデイシュ人がシェフを務めるBANGLADESH&india CURRYの店「バンドゥビー」へ味見へと参りました。



珍しいなと思ったのはオーナーシェフがバングラディシュ人で、スタッフがインド人だったことでしょうか。
少々不思議な取り合わせのように思いますが、そのおかげで料理は北インド料理とバングラディシュカレーの両方から選べるようになっていました。



セットにはスープ&サラダバーが付いてきて8種類くらいある中から好みのサラダを取ることが出来ますので、カレーが来る前に食べ過ぎてしまいそうになります。
ただし、サラダはバングラ風やインド風の味付けではなく、ファミレスのサラダバーのような感じかな。



カレーはインドカレーの“エビマサラカレー&チーズナン”とバングラディシュカレーの“ダルカレー・セット”を注文。
エビマサラカレーはエビが6尾ほど入っていて、エビの風味がよく香っているカレーです。
食べても食べてもエビが器の底から出てくる感じのカレーなのです。



ダルカレーはスープカレーと言った方がいいカレーですが、とにかく口に広がる香辛料の味の強さに驚きます。
バングラディシュのカレーはこんなに香辛料が効いているのかと思うほどバングラディシュ・カレーの香辛料の濃度は濃い。



ランチにはカレーとナン以外にもライスと1品物、カバブが付いていました。
少し遅れて出てきたカバブは熱々だったのが嬉しいところ。



香辛料の味に口の中がスースーしてきましたので、仕上げにホットチャイを頼みます。
チャイがメニューにないお店もありますが、チャイがメニューにあると頼んでしまいますね。



このお店なかなか繁盛しているようで客足は絶えないようで、次々とお客さんが入ってきます。
お洒落なカウンターバーまであり、地味な垂井の町で異彩を放ったような店ですので人気があるのでしょうね。


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コムクドリ・チュウシャクシギ・オオヨシキリをパチリ!

2018-04-28 17:55:55 | 野鳥
 今年のGWは人によっては9連休と大連休になると思いますが、今年は一時は崩れるものの好天が多くなりそうな1週間になりそうですね。
もっとも当方は前半後半に分断されますので、休んで働いてまた休んでということになります。

まだ早いのかもう遅いのか分かりませんが、GWのスタートは朝の鳥見からということで始まりました。
身近な場所を巡回しただけですが、何か入っている所もあれば、期待しつつも閑古鳥が鳴く場所と、いろいろあるのも鳥見の楽しさなのでしょう。
まずは小グループで入っていたコムクドリからです。



ムクドリが地面に降りていたので通り過ぎようとすると、中にコムクドリが見えた。
電線に留まったので見てみると、ムクドリ組とコムクドリ組に分かれて留まっている。
(下は昨日、所用の合間に通りかかった時にチェックしておいたコムクドリ)



なかなか地面に降りてくれないので、ありえない角度でコムクドリの串刺し写真を撮ってみる。



伸びてきた葦の中からはオオヨシキリの金属的な声が聞こえてきます。
しばらく見ていると姿を見せながら囀ってくれたところをパチリ!





田圃ではやっとチュウシャクシギの姿が見られるようになりました。
2~3羽のグループになったチュウシャクシギが数カ所の田圃に分散しておりました。



渡りのシギチを探してみるも、他には姿はなし。
チュウシャクシギは早めにきて遅めに抜ける鳥ですからシギチはこれからかな?



春の渡りとは関係はないけどタシギがいたのでパチリ!



けたたましく威嚇しているケリはそろそろ子連れも登場といった感じですかね。
この季節はケリにオオヨシキリにキジのホロ打ちとにぎやかになってきています。



GW中に何回鳥見に行けるかは分かりませんが、久しぶりに見るやつとかにも会いたいね。


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御朱印蒐集~京都市右京区嵯峨 小倉山 二尊院~

2018-04-26 18:56:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 北嵯峨には幾つかの寺院がありますが、「釈迦如来立像」と「阿弥陀如来立像」が並び立つ二尊院はかねてより参拝したい寺院の一つでした。
北嵯峨一帯は徒歩で移動可能な寺院が多く、花のシーズンではない北嵯峨の寺院巡りに訪れる方は多くはありませんがチラホラと見かけます。

二尊院は紅葉に桜と花期には大勢の方が押し寄せる寺院と聞いていますが、季節外れのこの時期に訪れる方はわずかのようです。
境内を歩いていても本当に静かですれ違う人はいるものの、木の葉の間から聞こえてくる小鳥の囀りだけが静寂を破るものといった感さえあります。



二尊院は嵯峨天皇の勅願により慈覚大師・円仁が承和年間(834?848年)に建立したことが始まりとされています。
以後、荒廃したものの鎌倉時代の初期には法然上人が二尊院に住んで法を説かれ再興させたとも伝わっています。
法然上人ゆかりの寺院ということで浄土宗を思い浮かべますが、元は天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学の道場であり、江戸時代後期より天台宗の寺院となったようです。



伏見城の薬医門を1613年に移築したとされる総門には「小倉山 二尊院」と「九頭竜弁財天」の寺号額が掛けられています。
皇室由来の寺院ですから壁には五本筋塀となっており、優雅な古刹感を感じる寺院です。



総門を抜けると広い参道が一直線に続く。
この100mほどの参道には桜とモミジが交互に植えられており、季節ごとに景色を楽しめるようになっているようです。
この参道は「紅葉の馬場」と呼ばれているそうですので、かつては乗馬で紅葉を楽しんだこともあったのかもしれませんね。



参道の終わりには短いが道幅の広い石段が続いている。
紅葉の季節には石段の上から振り返ると絶景の紅葉が広がる紅葉狩りのポイントとなっているようです。



まずは鐘楼で鐘を撞かせて頂きましたが、この梵鐘は「しあわせの鐘」と名付けられていて“自分が生かされていること、生きとし生ける物に感謝、世界人類の幸せのために”と3つの願いを3回鐘を撞いて祈願するようになっているそうです。
梵鐘は嵯峨天皇千二百年御遠忌法要記念として平成4年に鋳造されたもので歪みのない良い音色で響いていました。



本堂は非常に間口の広い造りの壮麗な堂で、約350年振りとなる平成の大改修が完了したのは2016年だということでした。
建物自体は当初の堂は応仁の乱で焼失してしまっていますが、1521年に三条西実隆が再建したものを大改修したようです。





「二尊院」と書かれた扁額は後奈良天皇の自筆によるものだとされ、再建時の1521年に与えられたものといわれます。



さて、二尊院の御本尊である「木造釈迦如来立像」「阿弥陀如来立像」は向かって右に釈迦如来、左に阿弥陀如来が上げる手まで対称にした仏像でした。(鎌倉期・重文)
釈迦如来は現世から来世へと送り出す仏、阿弥陀如来は西方極楽浄土へ迎え入れる仏となりますから、浄土へ迎え入れられ、来世送り出してくれる二尊ということになります。

二尊は厨子の中に納められていますが、その姿は外陣に座ればよく見える位置に祀られています。
像高が両像とも78.8センチだったのは想像していたよりも小さく感じましたが、やっと拝することが出来ましたので線香をあげて感謝の気持ちとさせていただきました。



本堂の横には九頭竜弁財天を祀った弁天堂があります。
九頭竜弁財天の話は二尊院の『二尊院縁起』に伝わるようで霊蛇の伝説があるそうです。
九頭龍大神・宇賀神に化身した弁財天を祀っていますが、弁財天と宇賀神にはやはり深いつながりがあるのでしょうね。





本堂としあわせの鐘の間には寂しげな雰囲気の石段が続いていました。
石段の上には法然上人廟(湛空廟)。堂内には碑が納められています。
周囲には墓廟が広がり、お墓が多い場所はあまり好む雰囲気ではありませんので、すぐに元来た石段を降りていくことになりました。



この石段の先にある山が小倉山(標高296m)ですが、百人一首の“小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ”に詠まれた山ということになります。
昔、中学生の時に百人一首を暗記させられた記憶がありますが、今では“そういえば聞いたことがある”程度の記憶しか残ってないので、ただの暗記指導じゃ役に立たないということなんでしょう。



二尊院への入山は右にあった黒門から入ってしまったため、帰りは唐門から出ることとしました。
普通門に掛かる扁額は外側に付けられていますが、ここは本堂に向かい合うように付けられていました。
「小倉山」と書かれた扁額が入山側ではなく、本堂すなわち小倉山に向いているのは少し不思議な感じも致します。





二尊院は比叡山延暦寺の円仁に始まって、天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学の道場から天台宗の寺院となっていますが、密教的な雰囲気よりも法然由来の浄土宗の寺院としての色合いが非常に濃い寺院だと感じます。
尚、二尊院は釈迦如来と阿弥陀如来の二尊像が有名なため、一般的には二尊院と呼ばれていますが、正しくは「小倉山 二尊教院 華台寺」が正式な寺号だそうです。


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御朱印蒐集~京都市右京区嵯峨 嵯峨山 大覚寺~

2018-04-23 07:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都の街は面白いもので平安京由来の碁盤目に区切られた地域から少し離れると、自然豊かで静寂に包まれた寺社が点在する地域へと変わります。
嵯峨・嵐山は京都の観光拠点の一つになっていて大勢の観光客が訪れられる場所ですが、北嵯峨まで行くと人の出は急に少なくなり、落ち着いた雰囲気が漂い始めます。

もっとも花の季節には大勢の方が来られるようですが、季節外れの北嵯峨では静かな時間が過ごせるようです。
北嵯峨にある旧嵯峨御所・大覚寺は、門跡寺院としての華やかさと落ち着きのある佇まいを併せ持った寺院で穏やかな時間を過ごさせて頂くことが出来ました。



大覚寺は弘法大師・空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の大本山であり、別称・嵯峨御所とも呼ばれる門跡寺院です。
明治時代初頭まで代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を努めたとされますから、近代まで続いた格式の高い寺院だったようです。



今に至るまで「嵯峨御所」と呼ばれるのは、平安初期に嵯峨天皇が離宮として建立されたことによるようで、当時は「離宮嵯峨院」と称されていたとされます。
876年には恒寂入道親王を開山として嵯峨院が大覚寺へなったと伝わり、1200年近くの年月を刻んだ寺院になります。



玄関の横には生花が数点展示されていましたが、大覚寺は“いけばな(華道)”の「嵯峨御流」の総司所(家元)であることから、境内に“いけばな”が展示されていたようです。
大きな作品が多かったのですが、“いけばな”は理解するにはあまりに難解な世界ですね。



大覚寺の堂内は全て廊下でつながっていて、最初に宸殿(重要文化財)へ入ることになります。
宸殿は江戸時代の初めに後水尾天皇より賜った建築物で、前面の庭には大海を表すとされる一面に白川砂が敷かれており「右近の橘」「左近の梅」が植えられていました。

宸殿の部屋には狩野山楽による襖絵が描かれ、桃山時代の美しい伝統美を感じることが出来ます。
狩野山楽は戦国大名・浅井長政の家臣の子として生まれ、浅井家滅亡後には豊臣家に重用された絵師だったようです。





白川砂が敷かれた庭の先には江戸時代の再建とされる勅使門が見えます。
庭の中央には皇族の籠をつける場所なのか、1段高い位置に台が設けられてあり往時を偲ばせます。





大正14年に建造された御影堂には大覚寺の歴史に大きな役割を果たされた方の尊像が祀られており、内陣の正面は開けられ、その先には心経殿が拝めます。
心経殿からは五色紐が内陣までつながっていて、内陣で心経殿の奉安されている勅封心経とつながることが出来ます。
内陣には1周回せば、お経を1巻読んだのと同じ功徳が得られるとされる「摩尼車」や「なで五鈷杵」が五色紐によって心経殿とつながっていました。



心経殿は1925年に法隆寺の夢殿を模して再建された建物で嵯峨天皇・後光厳天皇・後花園天皇・後奈良天皇・正親町天皇・光格天皇の直筆の般若心経が奉安されていて、60年に一度の開扉となっているそうです。
嵯峨天皇が書された般若心経は弘法大師空海のすすめによって書かれたものとされており、その由来から般若心経写経の根本道場ともなっているようですね。



大覚寺の諸堂は回廊によって結ばれていますが、迷路のような廊下の床は鶯張りになっていて音が出ます。
ウグイスの囀りのような音とまではいかないものの、歩くたびに音が出るので「忍び返し」の役割は充分果たしています。
また刀を振り上げられないように低くなっている天井によっても守られているようです。





大覚寺の諸堂の中で少し雰囲気が違うのが「安井堂」でした。
安井堂は1871年に京都東山にあった安井門跡蓮華光院の御影堂を移築したもので、内陣の格天井鏡板に描かれた花鳥や雲龍図など趣の異なる内陣となっている堂宇です。
須弥壇には尊像が祀られており、門跡寺院としての歴史ゆえということなのでしょう。





鮮やかな丹塗の霊名殿は二・二六事件で射殺された第30代総理大臣の斉藤実が建立した東京池袋の日仏寺の本堂だったものを1958年に移築したものだそうです。
80年ほど前の昭和・日本ではクーデターが起こるような国だったということになりますが、長い歴史からみればわずかな時間で日本人の国民性は大きく変わったともいえますね。



寺院内を巡った後は大沢池に向かい池の周囲を散策となりました。
大沢池は平安前期に造営された人工林泉ですが、水は澄み切って池の底までよく見えます。山から流れてくる水が清流なのでしょう。
蓮も生えている池の向こうには心経法塔が見えます。



さらに池の畔で歩を進めると、十数体の石仏がありました。
鎌倉中期の石仏で「大沢池石仏群」と呼ばれているそうですが、なかなか見応えのある石仏群です。



ここで寺院の方を振り返ってみると大覚寺の本堂である五大堂が見えます。
迷路のような廊下を歩いているうちに五大堂へ参っていなかったことにここでやっと気が付きました。

もう一度寺院の中へ入れてもらって、無事に五大明王を拝観して御札を収めることが出来ました。
祀られている五大明王像(金剛夜叉明王・降三世明王・不動明王・軍荼利明王・大威徳明王)は人間国宝・松久明琳師の作の比較的新しい仏像とはいえ、気迫を感じる明王像です。

平安後期の五大明王像(重文)と室町時代の五大明王像(同じく重文)は霊宝殿に安置されていますので、もし見る機会があれば平安仏と室町仏の五大明王を一緒に見ることができそうですね。
また、五大堂の舞台からは大沢池も見渡すことが出来ます。



さて大覚寺に参拝したのにはもう一つ理由がありました。
それは牡丹の障壁画が描かれた御朱印帳の購入でしたが、布地に絢爛な牡丹の花がプリントされている愛着の持てそうな御朱印帳です。
宸殿の牡丹の間に描かれていた狩野山楽の障壁画の一部ですね。





大覚寺は“春は桜”“夏は観月”“秋は紅葉”が楽しめる寺院だといいます。
しかし、季節の風物詩の時期でなくても優雅な平安時代の息吹を感じられる寺院だと思います。


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御朱印蒐集~野洲市 兵主大社・栗東市歴史民俗博物館 企画展「仏像美術を中心に」~

2018-04-20 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「八千矛神」は出雲大社の祭神で須佐之男命(スサノオ)の子とされていますが、馴染みのある「大国主」と呼んだ方が一般的なのかもしれません。
「大国主」は国津神の代表的な神で、日本神話の神々の中で古くからの土着の神のことだとされています。

また大国主は「国譲りの神」とも呼ばれており、これは高天原にいた天照大神らの天津神に国を譲ったことが由来となっているようです。
この国譲りの話は“神々の間での領土争いや取引き”の話として解釈されることが多く、人間臭い神々の逸話と考えれば興味深い説ですね。

滋賀県野洲市にある兵主大社は、その八千矛神(大国主神)を御祭神として、建立1300年を迎える奈良時代より続く神社といわれています。



一之鳥居からは約300mといわれる松並木三道が続きます。
毎年春の例祭(兵主祭)では約30の御輿や太鼓が神社の参道に集まり、にぎやかに神輿渡りの行列が行われているようです。



一之鳥居からの参道を終えると、太鼓橋の向こうに朱色の二之鳥居と楼門が見えてきます。
この日はどこかの宗教団体の参詣があったようで数十名の方が列を組んで参詣しておられました。
団体の人数があまりに多かったため、団体の方々が参集殿に入って境内が落ち着くのを待ってからゆっくりとお詣りをさせてもらうことになりました。



兵主大社には国の名勝となっている平安時代の回遊式庭園もあるようですが、兵主大社といえばやはり朱色の楼門が魅力的ですね。
足利尊氏が寄進したといわれる楼門の左右には、かつては摂社が祀られていたようであり、現在は扁額だけが7枚掛けられています。





あまり見慣れないのは手水舎で吐水している亀になっていることですが、これは御祭神の八千矛之神が亀に乗って鹿に護られながら琵琶湖を渡ってきて神社に入られたとの謂われと関係がありそうです。
また同じ神を御祭神として祀る出雲大社の神紋が亀甲紋であることも関係しているのかもしれません。



楼門を抜けると約100mほど歩いた先に拝殿があり、ここでお詣りをします。
拝殿の前にいる狛犬に包帯が巻かれていて不思議に感じましたが、この狛犬に包帯を巻くと参拝者の体の痛みを和らげてくれるという御利益があるようですね。



本殿は1643年に建築された切妻造の一間社ですが、神社の本殿ゆえに回廊越しに垣間見るしかありません。
楼門は滋賀県指定の有形文化財、本殿は野洲市指定の文化財となっています。



境内の一角には生命力にあふれた木の根が張っており、その生命力と逞しさに驚かされます。
後方右手の建物は江戸時代後期に建立された護摩堂で、かつて神仏習合時代は兵主大社の本地仏である不動明王を祀る護摩堂だったそうです。



兵主大社の参詣を終えた後、今度は栗東歴史民俗博物館で開催されている収蔵品展『仏像美術を中心に』を観に参りました。
仏像は栗東市の範囲以外にも旧栗田郡・湖南・近江から寄託された仏像が25点ほど展示されている見応えのある仏像展でした。



『仏像美術を中心に』の展示では平安仏15躰・鎌倉仏2躰が置かれ、通史展室にも平安仏7躰・鎌倉仏1躰が展示されています。
全体として平安仏が特に多く見られ、平安仏が残されていることに湖南特有の歴史を感じることになりました。
地蔵菩薩や阿弥陀菩薩も展示されてはいましたが、薬師如来や毘沙門天・四天王などが圧倒的に多いのはこの地に密教の影響が強かったことが伺われます。

最も印象に残ったのは「薬師如来坐像(像高139.8cm・旧善勝寺・重要文化財」と並んで立つ「日光菩薩・月光菩薩(像高168.3cm・160.4cm)の立像でしょうか。
スラリとした日光・月光の造形には平安仏の気品が溢れている美しい仏像です。
また神社の本地仏像が多く展示されており、この地では神仏分離での被害が少なかったのかもしれないとも受け取れます。



展示室外には石仏が幾つか展示されており、レプリカではあるものの金勝山中にある「狛坂磨崖仏」など見応えがある石仏が並んでいます。
金勝山中にある「狛坂磨崖仏」の本物は奈良時代後期に刻まれたといい、高さ6.3m・幅4.5mの花崗岩に刻まれた磨崖仏を見に行ってみたいと思っています。



近江の栗東市周辺には多くの鋳物師が活躍していたとされますが、特に辻村鋳物師は名鋳物師とされています。
その辻村鋳物師(辻村という村出身の鋳造師のことを呼ぶ)の梵鐘が6つロビー横に並べられていて、何とも不思議な光景となっていました。



栗東歴史民俗博物館の敷地内には「旧中島家住宅」という江戸末~明治初年頃に建てられた古民家が移築されています。
中へ入ってみると土間にある土製のカマドで薪でお湯を沸かしている方がおられましたが、子供達が来ると昔の暮らしについて教えてくれたり、カマド体験をさせてくれたりするそうです。
大きな美術館の企画展も見応えがありますが、地域に即した博物館を巡るというのもなかなか興味深いものがあります。


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御朱印蒐集~大津市 建部大社~

2018-04-17 20:40:40 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「一宮」とは一般的には令制国の一宮の事を指すといい、近江(淡海・滋賀県)の国の場合、近江一宮は「建部大社」になります。
これまで近隣府県の一宮の何宮かへ参詣したことはあっても、近江国の一宮へ参詣するのはこれが初めての参拝となりました。

近江の国・滋賀県で「二宮」にあたる神社は広大な境内の中にある「日吉大社」になり、「三宮」は表参道が大変にぎやかな「多賀大社」ですから、その上にあたる「一宮」の建部大社とはどのような神社なのか興味深いところがあります。
当日は小雨混じりの天気の影響から早足でのお詣りになってしまいましたが、雨にも関わらず初宮詣のご家族が何組か御祈祷に詣られていた姿が印象に残ります。



瀬田唐橋を渡って道を進むと建部大社まではあとわずか。
「一之鳥居」を車で抜けて駐車場に車を停めた後、元来た参道を一旦神社の外まで歩いて戻ります。



神社へ参詣する時には極力「一之鳥居」から入るようにしているため戻ったのですが、十数分歩く必要のある神社と比べて建部大社の一之鳥居までは距離はあまりなかったですね。
小雨の降る中、一之鳥居から石灯籠の並ぶ参道を往復するのも神社参詣の自分の流儀ということです。



参道を左に直角に曲がると、今度は「二之鳥居」とその奥に「神門」が見えてきます。
幹が右傾した特徴的な松が2本ありますが、なぜこのように極端に曲がっているのでしょうね。



建部大社は西暦46年、神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが草創とされ、675年に瀬田の地に祀られたのが現在の建部大社とされます。
御祭神は「日本武尊(第12代景行天皇の皇子)」と「大己貴命(出雲大社の祭神)」が祀られており、参道には神剣「草薙の剣」を持った日本武尊の姿と剣を与えた「倭姫命」のヒロイックなイラストが貼られていました。



参道の終点には立派な造りの「神門」があり、ここから神域に入ります。
まず神門のまでの場所にある手水舎でみを清めますが、近づくと龍が吐水して音楽が鳴るという省エネタイプの仕組みなんですね。



「神門」は寺社観光案内などでよく見る門ですが、実物もさすが一宮といえるような立派な門です。
この門を境にして向こう側は神域ということになり、大きな提灯には“御神燈”の文字が読み取れます。





手前にあるのが「拝殿」で、奥にある日本武尊を祀る「本殿」と大己貴命を祀る「権殿」まで直線に配置されています。
まず拝殿にお詣りすると、ちょうど室内で御祈祷をされていて神楽鈴でのお祓いの最中でしたので、当方も一緒に頭を垂れてお祓いに便乗させていただきました。



拝殿で拝んだあと、本殿・権殿の前へ行くと、こちらにも拝所がありましたので再度柏手を打たせていただきます。
建部大社の御神紋は境内にある御神木にちなんで「三本杉」ですが、拝所には菊の紋も見えます。





菊の紋との関係は、拝所の裏側へ回ると「菊花石」が「菊紋壺」「神鏡」とともに祀られていることにも由来がありそうです。
「菊花石」は自然の造形とは思えないほどの見事な菊の模様が入っており、「菊花壺」は伝承や由来は残されていないものの建部大社の社宝となっている信楽焼の古壺とされています。





拝所の横には鎌倉時代のものとされる石灯籠があり、この石灯籠は県内最古にして重要文化財の指定を受けているものだそうです。
歴史のある古い燈籠と新しい囲いのアンバランスさが面白いですね。



石灯籠の横には絵馬所があり、願いを込めて奉納されたたくさんの絵が掛けられています。
キラキラした堂内にはなぜかドラエモンのぬいぐるみまで置かれています。何か事情があってのことなのでしょうかね。



境内には摂社・末社が幾つかあり、小さな祠に祀られています。
末社の中には建部大社が瀬田の地に遷される前に地域の地主神として祀られていた大野神社も残されていました。



水琴窟の音が流されている社務所で御朱印をお願いして待っている間に周囲を歩いていると、本物の水琴窟がありましたので竹の筒に耳を当てて音を聞いてみます。
美しい響きが聞こえてきて心和みますが、この信楽焼と思われる瓶も釉薬のかかり方が独特ないい壺ですね。



建部大社は猛々しい日本武尊を御祭神とし、源頼朝が伊豆に流される際に参籠したという逸話も残る神社ではありますが、雄々しいというよりも穏やかな感のある神社です。
それは一宮としての社格なのかもしれませんし、この神社に安置されている木造女神坐像から受ける印象からなのかもしれません。


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代掻き中の田圃に集まる野鳥たち!~ムナグロ・チュウサギ・ユリカモメ~

2018-04-15 17:50:00 | 野鳥
 湖北の農家に生まれた人の話を聞くと“子供の頃からゴールデンウィークは田植えの記憶しかない!”と少し不満そうに言われることがあります。
確かに友達が家族で遊びに行ったりしてGWを楽しんでいる時に、農作業に追われているのですから子供心に不満を感じてしまったのも分かるような気がします。

田植えの時期を前にして田圃では代掻きが始まっていて、掘り起こされて水を張られた田圃には野鳥が集まり賑わいをみせています。
わずかな晴れ間を狙って田圃へ野鳥探しに出てみるとやはり来てましたね。ムナグロの第1便が到着しておりました。



数は約30羽くらいかな?
水を張っていない田圃にはもっと居たようですが、保護色で見分けにくいため数は大雑把にしか分かりません。



田圃にはサギの仲間も集まってきていましたのでチュウサギを探してみます。
春が来てやっと冬眠から覚めたばかりなのに、運の悪いカエルがさっそく捕まっていました。





代掻き中の田圃はいくつかある中で、田圃によってダイサギ・コサギ・アオサギが多かったり、トビ・カラスが多い田圃などがあります。
理由はよく分かりませんが、ちょっとした縄張りみたいなものがあるのかもしれませんね。
別の田圃では真っ黒な顔になったユリカモメがトラクターを追い回している季節の風物詩もみられました。



不幸なカエルさんはこの田圃にもいて、さっそくユリカモメに捕まっています。
飲み込むには大きすぎたのか、弱らせようとしているのか、ユリカモメが何度も落としては咥えてを繰り返していました。





田圃には他にはツグミ・ツバメ・ヒバリ・カワラヒワ・セキレイ・スズメ・ムクドリ、水を張った田圃にカルガモ数羽といったところ。
農道ではたくさんのオオバンが道を横切っていき、遠くからはウグイスの囀りも聞こえてくる。
春らしい風景に見とれていると、突然飛んできて目の前に留まったのはタシギです。



“春から初夏の湖北”は“秋から冬の湖北”と並んで、何が出ても不思議なしの野鳥シーズンになります。
“どこへ鳥見に行くか、果たして鳥運に恵まれるか”など嬉しい悩みが増えそうですね。


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御朱印蒐集~岐阜県大垣市 金生山 明星輪寺~

2018-04-12 19:03:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 金生山 明星輪寺のある金生山は標高217mの低山ではありますが、実に興味深い山でした。
金生山は石灰岩や大理石の有数の産出地になっていることから石灰が豊富なことから、石灰のカルシウムから殻を作る陸貝の生息地になっているそうです。

金生山では陸貝が固有種を含めて約40種類が確認されているそうですが、“タニシみたいなカタツムリの仲間が水辺ではなく山の中に生息しているのか?”と大変驚きました。
また、明星輪寺の境内はヒメボタルの生息地でもあることから、この一体は自然豊かな場所なのだと思います。



明星輪寺へは散々迷った末に到着することが出来ました。なぜかと言うと山に沿って石灰の採掘会社が立ち並んでいて、どうしても山へ入ることが出来なかったからです。
地元の方をつかまえてややこしい道を教えてもらいましたが、知らなかったらとても行けそうにはない場所にある寺院です。



傾斜のきつい林道を車で登っていくと駐車場がありましたが、そこからまだ上まで行ける道があると教えてもらっていたので寺院前の駐車場まで登っていきます。
石標に「日本三大虚空像」と彫られていますが、道を教えてもらったおばさんが“こくぞうさん”と呼ばれていましたので、地元では“こくぞうさん”で親しまれているのでしょう。
また、三大虚空の残りの2つは「京都法輪寺」「伊勢朝熊山金剛證寺」と言われているそうです。



右方向に濃尾平野を眺めながら歩いていくと、すぐに仁王門が見えてきて爽快な気持ちになります。
やはり山の寺院はいいなぁと仁王門へ向かいますが、交通の不便な場所にあるにも関わらず次々と参拝者が来られていました。





仁王門では金剛力士像が待ち構えられていて、この木造金剛力士像は岐阜県指定重要文化財に指定されている鎌倉時代初期に製作された力感のある力士像です。
阿形は像高254.8cm・吽形は252.5cmとサイズ感もあり、見応えのある仁王様でした。





手水舎の龍には松とスイセンが飾られていて、岩もこの山のものなのでしょう大石をくり抜いてしつらえてあります。
ロウバイも花を咲かせていましたが、金生山には季節の野の花が数多く咲き、秋には美しい紅葉が見られる花の豊かな山でもあるようです。



まず最初に参道途中にある地蔵堂にお参りを致しました。
かつて地蔵堂に祀られていた木造地蔵半跏像は、平安時代の作とされ国の重要文化財に指定されていることもあって収蔵庫に納められています。
地蔵様の半跏像をこれまで何躰かだけしか観たことはありませんが、好きな仏像の一つで写真でしか見られなかったのは残念でした。





地蔵半跏像は拝観出来ませんでしたが、代わりに祀られていたのは虚空像菩薩?と不動明王像でした。
仏像の履歴は分かりませんが、明星輪寺には新しい仏像も含めて各所に仏像が安置されています。
境内入口近くには無造作に10躰を超える仏像が安置されていたのにも驚きます。





本堂へお参りする前に鐘楼へと向かいます。
“強く撞かなくても大きな音がします。”と注意書きに書かれてあった通りに軽く撞いてみたら、想像以上に大きな音のする梵鐘でした。
平成9年の銘のある梵鐘でしたが、寺院には室町時代の1393年の梵鐘も保管してあります。



明星輪寺は686年、持統天皇の勅願により役小角が開山したとされますから、修験道の色濃い霊場だったようです。
その後衰退していたところへ空海が来山し再建を果たし、真言宗へと改宗したとされます。

しかし1148年に焼失し、再建されたものの往時の規模より縮小したものとなって1609年に美濃国高須藩藩主徳永寿昌の援助により再建されたと寺伝にあります。
江戸時代には大垣藩藩主戸田氏の代々の祈祷所となって保護されてきた寺院だとされ、現在も参拝者の多い寺院です。





御本尊の「虚空蔵菩薩」は秘仏となっていますので、お前立ちを拝むことになりますが、お前立ちとはいえなかなか厳かな仏像でした。
左の脇陣には智拳印を結んだ「大日如来坐像」、右の脇陣には天井にも届きそうな「阿弥陀如来立像」、他に四天王と思われる4躰の仏像も安置されています。



本堂に入って驚いたのは、御本尊が祀られているのはなんと内陣に納められた巨大な岩窟の中だったことです。
内陣まで入ることが出来るので入らせていただきましたが、その岩窟の大きさたるや数十トンありそうな巨大な巨石に見えます。
近年「パワースポット」という言葉がよく使われますが、そのような言葉を凌駕するような強い気を感じる岩窟で、修験道で始まった寺院の歴史を感じさせてくれます。


HPより

ところで明星輪寺から更に上には「岩巣公園」という奇石・怪石が剥き出しとなった景勝地があります。
明治の神仏分離令によって分離された蔵王権現宮の社が点在する一帯には迫力のある巨石が並び何とも迫力のある場所です。



石段を登るとまず見えてくるのは「蔵王堂」になりますが、この金生山の岩石群には驚かされながらも心沸き立つ思いがしてきます。
この岩山は通り抜けが出来たりもしますので、随分長い時間を岩窟探検に費やしてしまいましたよ。



岩には幾つかの彫り物があり、蔵王堂の横の巨石には彫られた虎や置かれた牛の姿が見られます。
虎の彫り物は彫刻師・清水金峯翁が昭和29年に掘り上げたものとされており、牛があるのは虚空像菩薩が丑虎の守護仏であることからと推定されます。





岩の一番目立つ所には「磨崖仏聖観音」が彫られていましたが、高い場所ですのでさぞや難作業だったことでしょう。
このような特別な場所で見ると、やはりありがたさが湧くというものです。





さて、岩の隙間や登山道を歩いていると、神社・仏閣とは全く違う意味で圧倒される景色に遭遇しました。
山の下に並んでいた採掘会社の採掘現場なのですが、なんと巨大な現場なのでしょうか。



砂利トラが豆粒のようにしか見えず、興奮したまま風に煽られて崖から落ちそうになりながらも眺めてしまいました。
エジプトのピラミッドを見たことはありませんが、現代のピラミッドを思わせるように削られた山にも唖然としてしまいます。
この自然豊かな金生山の一角にこのような現場があるのは複雑な気持ちもありますが、異常に迫力のある光景には唖然としてしまいます。



ところで恥ずかしい話になりますが、圧倒されたまま山道を歩いるうちに方向感覚を失って山の中で迷ってしまいました。
なんとか舗装道路に出たのは良かったけど、車で登っていった林道をもう一度徒歩で登りなおす羽目になりましたよ。

もう一度寺院に入った先にあったのは「琴子」という方が描かれた絵の展示場所です。
自己紹介文によると、琴子さんは成人になった頃に自閉症スペクトラム障がいの診断を受けられたそうです。
見た目では人には分らない病気であることから誤解を受けやすく、ストレスから二次障害も抱えてしまったとされます。

しかし“たどりついたこの場所で心に浮かぶ世界観から来る絵と詩を書いています。”とポジティブな生き方をされていて、最後は“自閉症の世界感と私の言葉です”と結ばれています。



絵はどの絵も明るいトーンで色彩豊かに描かれていて、透き通るような冷たさを感じながらも光に溢れている作品です。
惑星(もしくは地球)がモチーフになっている幻想的な絵が多く“この空のような宇宙のような海底のような内面的な世界感”が琴子さんの“私の言葉”ということなのかもしれません。

琴子さんの言葉に「トウメイなヤミ」という考えさせられる言葉があり、言葉からも感性の鋭さや豊かさ、絵の素晴らしさを知ることが出来ます。
寺院の一角の堂の仏像の前に展示された絵画。この寺院に来て本当に良かった、優しい気持ちになれたと感じながら帰路に着きます。


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桜が散ってノビタキがやって来た!

2018-04-08 20:50:05 | 野鳥
 「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ」

このあまりにも有名な詩は、唐の詩人・于武陵の詩「勧酒」を作家・井伏鱒二が訳したものです。
例年より少し早く咲いていた桜でしたが、金曜日の春の嵐によって一晩で散ってしまう劇的な変化には驚くばかり。
とはいえ、散りゆくものを儚んでばかりいられませんので“さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう(寺山修司) ”とばかりに春を探しに出る。



別れがあれば次の出会いもあるわけですが、田園地帯には春の野鳥のノビタキが到着しておりました。
ノビタキはもうすっかり夏羽で顔は真っ黒になっていましたので秋のノビタキとは随分と様子が違います。
例年、ノビタキは夏鳥の季節の先陣となる野鳥ですから来週辺りから楽しみが増えてきそうですね。



田園地帯では冬鳥の最終組となるツグミが多く見られ、ケリが縄張り争いをしたり、キジのホロ打ちも聞こえてくる。
巣材を集めているツバメの姿や田圃に集まるカモの姿もあり、変わらない春の景色が楽しめます。

水を張った田圃がチラホラありましたので、渡りのシギチを探してみたけどコチドリだけしか姿は見えず。
渡り鳥の到着はまだ少し先なのかもね。



好きな花のシャガもそろそろ開花してきていますが、群生が一同に花開くまでには至らずで、こちらもこれからのようです。
木陰などのひっそりとした所に地味に咲く花で、何となく妖しさを感じてしまう花です。



湖北では少ないシロバナタンポポも既に花が開いていますね。
黄色いタンポポを見て育った当方にとって白いタンポポってのは今だに不思議でしょうがない。



週単位で大きく変化していくこの季節、まだ先の話なのにゴールデン・ウィークが楽しみになりますね。


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