僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

ボーダレス・アートミュージアムNO-MA20周年企画 vol.2 ボーダレス ー限界とあわいー

2024-11-30 07:20:20 | アート・ライブ・読書
 ボーダレス・アートミュージアムNO-MA美術館の20周年企画のvol.2は『ボーダレス ー限界とあわいー』展でした。
今回の企画展はフォークシンガーの小室等さんが企画され、詩人・谷川俊太郎さんの詩と音楽がミックスされた美術展となっています。

会場内に流れて、ヘッドフォンによるリスニングも出来る音楽は谷川賢作さんの音響デザインによるもので、常時流れている詩の朗読は佐野史郎さん。
普通の美術展とは少々趣向の異なるこの企画展には7人の作家の絵やオブジェが展示され、多様性に富んだ音・絵・言葉が交差する空間になっていました。



入館して最初のスペースには辻勇二さんの絵「心でのぞいた僕の街」と谷川俊太郎さんの「死んでから」という詩が展示されています。
「死んでから」はもう一つの詩と口語に会場内で繰り返し朗読され、環境音楽のような音楽も流れている。



辻勇二さんは、記憶と空想が混在したような架空の街を鳥瞰図で精密に描かれます。
5点の絵は制作年代は違うものの、全て「心でのぞいた僕の街」というタイトルが付いていて、夢の中で鳥になって見た風景とでもいうような作品群です。



西岡弘治さんは、楽譜を模写することで作品を生み出されているというが、描き進むにつれ絵は歪みはじめて、独特の構図の絵になっていくようです。
絵と一緒に展示されているのは「ジョン・レノンへの悲歌」という詩で、死を前にしたジョンへの悲しみを感じる詩です。



描かれた譜面がどんな音を奏でるのかは分かりませんが、どことなくユーモラスな五線譜作品からは可愛いさが伝わってきます。
譜面を模写する際に好きな音楽の楽譜を選んだりされるのか気になるところですが、音符を読むというより、音符の流れの美しさで選ばれているのかもしれませんね。



さて、個人的に一番の目玉作品は、塔本シスコさんの大作3点です。
塔本シスコさんは本格的に絵を描くようになったのは53歳で、その後92歳で亡くなるまで描き続けられました。

シスコという名は、養父が自身のサンフランシスコ行きの夢を託して命名された名で、大正時代にしてかなりモダンな名前です。
家庭の事情から小学校を中退して20歳で結婚、46歳の年には夫が急逝するも53歳より絵を描き始めます。



絵は幼少期の故郷の思い出や家族(夫と過ごした日々や一男一女の子供や孫たち)、近所の公演や自宅で見た花や生き物たちが色鮮やかに描かれる。
「私の窓からのながめ(1995年)」は、シスコ・パラダイスとでも呼べる華やかな対策ですが、阪神・淡路大震災の余震が続く中で描かれたという。

「アロエの花(2004年)」は晩年を迎えたシスコさんが描いた絵。
この当時、91歳を迎えたこともあって絵の華やかさや力強さはなくなって、アロエの花が最後の命が燃えているような印象を受ける絵です。



「自分で植わったカボチャ(1998年)」は、自宅の庭か家庭菜園かで勝手に育ったカボチャを絵にしています。
花々が咲き誇り、身近なパラダイスのような絵ですが、実になったカボチャの上にはカマキリの姿が見えますね。



絵を見て音楽が耳に入ってくるなかで詩が朗読されているが、詩は詩を効くというより断片的に言葉が響いてくる感じです。
あちこちに詩が文字として描かれていますので、絵を見るように詩を読む。



2階への階段には古賀翔一さんの立体作品が並べられています。
古賀さんは最初に新聞紙で体のパーツを造って、セロハンテープで貼り固めて人形のオブジェを制作されるそうです。
作品は階段の隅などに置かれてあり、妖しい気配を感じるとそこにオブジェがあるといった感じです。





2階の和室にはソファが3つ用意されていて、ヘッドフォンで音楽や絵本の朗読を聞きながらくつろげる空間です。
絵本は平和や人の死がテーマとなっており、音楽を聴きながら谷川俊太郎さんの詩と3人の絵本作家の絵に埋没していってしまう。



信楽青年寮に暮らす村田清司さんの絵は、パステル調の色彩で暖かさを感じるやさしいタッチの絵です。
村田さんは田島征三さんと何冊か絵本を出版されているそうです。



村田さんの絵は展示されていた10点ともタイトルは「無題」ですが、なんともいえない味わいのある絵を描かれます。
思いのまま、心の赴くまま筆を進めて描いた結果、こういう絵になったと思われ、そこに作為的なものはないのでしょう。



紙をホッチキスで留めて立体的な家を作るのは後藤拓也さん。
自宅をリフォームした時に内装・外装・水回りの工程を見たことが作品制作のきっかけになったという。
子供の頃に頭の中に描いた設計図で紙工作をした記憶が蘇る作品です。





NO-MA美術館では小室等さんらが出演するイベント(ライブやトークショー)が企画されているようです。
以前に大津プリンスホテルで開催されたアールブリュットのイベントで小室等さんと東大の教授の福島智さん(盲ろう者)のトークイベントの記憶が蘇ります。

土砂降りの雨で蔵へ行くのにも難儀しましたが、中庭に展示されていた詩は駆け足で蔵に行ったので読み切れず。
蔵では展示されていた絵の画像と詩の朗読とエンドロール風に流れ、静かに響く音楽が暗い蔵の中で今日の復習のように空間を作っていました。



会場に置いてあった3冊のうちの1冊が販売されていたので購入。(文:谷川俊太郎、絵:noritake)
平和な時と戦争の時をシンプルな絵と言葉で表現されており、どんな状況(戦争でも平和でも)にあっても人も赤ちゃんも太陽も同じであると訴える。
描かれた絵と短い言葉に心が締め付けられるような作品です。

 

ところで、『ボーダレス ー限界とあわいー』展に訪れたのは谷川俊太郎さんの訃報を聞く前でした。
まさか開催中にお亡くなりになるとは誰も考えてはおられなかったでしょう。

詩と絵本、音楽とアールブリュット。
シンプルな言葉が訴えかける力や深みやその余韻。
楽しさやわけの分からなさも含めて、もう少し谷川さんの詩を感じてみたいのでもう一冊読んでみる。




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小谷城シャトルバスで戦国タイムスリップ!

2024-11-25 07:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小谷城では毎年春と秋にシャトルバスが運行しており、城跡では観光ガイドの方を語り部として小谷城についての解説が聞けます。
いつもならシャトルバスを降りたら小谷山山頂のある大嶽城跡まで行くのですが、今回は家族と一緒でしたので山王丸跡まで行って折り返しました。

小谷山は低山ながら熊出没注意!の看板のある山ですが、シャトルバスが運行される時期は山中に人が多く、安心して散策出来るのが助かります。
また普段バスに乗る生活をしていませんので、バスで林道を登っていくと観光気分にひたれるのもこの企画の好きなところです。



絵図では麓から現在地と記載された“番所”までシャトルバスで登り、そこからは各ポイントでガイドさんの説明を聞きながら“本丸”まで進みます。
“本丸”で説明は終わりとなりそこで解散しますが、すぐ下りてしまうのも勿体ないので、中丸~京極丸~小丸~山王丸まで行きました。



まず絵図を見ながらガイドさんの城跡全体の説明があり、その先は山道を登りながら説明を聞きます。
ガイドさんが子供の頃の小谷山は松茸が豊富に採れた山で、松茸の季節には弁当のおかずに松茸が入っていたと羨ましい話をされていました。



登り始めてすぐの場所に眺望の良い「虎御前山展望所」があります。
眼下には虎御前山、琵琶湖の手前にオオワシの居る山本山、琵琶湖には竹生島が見渡せます。
湖北では珍しい爽快な晴天に恵まれて視界は良好、空と琵琶湖のブルーが美しい。



城郭の主要部への入口となる場所には「番所跡」があり、ここは検問所の役割があったといいます。
もし番所の入口を突破したとしても、その上部にある曲輪から攻撃されるので、正面突破は困難な堅牢なお城ということになります。



「御茶屋跡」は茶屋でもあったような優雅な名前をしているが、実際は軍事施設だったようです。
主郭の先端にあり、番所を怪しいものが突破すればすぐに攻撃できてその先には進めない。



「御馬屋跡」への道は三方を高い土塁で囲まれていて、ここまで突入してきても崖下へ追いやられ逃げる場所がなく討たれてしまいます。
番所や御茶屋を抜けられてもここで攻撃されて、先へ進めたとしてもごく僅かな人数になってしまうと説明がありました。

御馬屋跡には井戸跡があり、雨水などを溜めて籠城しても水が得られるようにしていたそうです。
しかし、数千人もの人が必要な水は雨水だけでは得られず、清水谷というところから汲み上げてもいたという。



ガイドさんに付いて20名少々が説明を聞きますが、止まって話を聞いていると少し寒さを感じる。歩いている時は心地よい天気なのですけどね。
小谷城は浅井氏滅亡後に羽柴秀吉らによって完膚なきまでに破城されたといい、この周辺にあった石垣は跡形もなく消えて、隅石だけが残っています。





眺望が開けた場所に出ると、横山や伊吹山に姉川の堤防が見えます。
「姉川の戦い」は“血原”や“血川”が地名に残ったりした血生臭い激戦だったと伝わります。
が、ガイドさんの話だと姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲があっただけで、大きな戦ではなかったとの説があるとも言われていました。



「首据石」は浅井家初代・亮政が六角氏との合戦の際、敵に内通していた家臣の今井秀信の首をこの石の上に晒したと伝わる石です。
戦国時代は下剋上・内通・裏切りの時代にあって、裏切り者は見せしめの意味で裏切ったらこんな仕打ちを受けるということを示したのでしょう。



かつてここに門があったことが容易に想像出来る両側にある巨石と真ん中にある石段は「黒金門跡」。
VRでは往年の黒金門は扉に黒金(鉄)を貼った門扉ではありませんが、門扉など関門の仕組み全体を「黒金門」と呼ぶことがあるそうです。





「桜馬場跡」には浅井家家臣供養塔があり、崖側まで行くとパノラマが広がる展望所があります。
桜馬場から見る景色はお市や浅井三姉妹が眺めた姿と、400数十年たった今でも変わりないのかもしれないと思わずにはいられない光景です。





さてガイドの最後は「本丸跡」です。
いまは石垣の一部を残すのみですが、VRでは上下2段の城で安土城建築以前の山城の姿がバーチャルの中で再現されています。
また城の後方(大広間跡の反対側)には尾根を寸断して作られた巨大な大堀切があり、重機のない時代に人力で作った労力に驚かされます。





ここから先はガイドなしでの散策ですが、まずは「中丸跡」を通り抜けます。
中丸は大堀切の北側にあって三段からなる階段曲輪となっており、上段には「刀洗池」という井戸跡が残ります。



「京極丸跡」は京極氏(浅井氏の主家)の屋敷があった場所とされ、大広間に次ぐ広大な曲輪だという。
小谷城は正面から攻めると難攻不落の堅固な山城ですが、秀吉は調略で仕入れた情報から城の裏側に侵入して浅井久政と長政の間を分断したという。
策略家の秀吉の戦の巧妙さは、正面からの攻撃には強くても後方から攻められると弱いという小谷城の守りの盲点を突いた作戦勝ちだったのでしょう。



「小丸跡」は2代城主・久政が居住していた所とされており、秀吉の攻撃によって長政軍と分断されてしまった久政はここで自刃したとされます。
時に久政49歳、長政享年29歳。ガイドさんの話だと長政は歴女に人気が高く長政が自害した「赤尾屋敷跡」には長政の命日に訪れる歴女の方がおられるとか。



「山王丸跡」は4段から成る詰めの曲輪とされ、崩れてはいるが石垣の一部が残っている。
矢印に「大石垣」とあり、そちらへ行くと高さ5mほどある石垣が往時の姿を偲ばせる。

大石垣は規模で本丸の石垣を上回るといい、石垣は浅井氏の権力の象徴でもあったという。
それ故かどうかは分かりませんが、秀吉が石垣の大半を完膚無きまで破壊し、痕跡すら残さなかったのにも意味があったのかと思います。





「山王丸」は主郭部の最も北にあり、名前の通り山王権現が祀られていたとされる場所です。
山王丸から大嶽城跡(小谷山山頂)への道の途中には「六坊」という6つの寺院があり、この一帯は神と仏が祀られていた場所になります。



11月は小谷城スマートIC利用促進キャンペーンで「秋の紅葉散策✖小谷城スマートインターチェンジ利用キャンペーン」が開催中でした。
高速道路を利用して小谷城ICから降りれば、シャトルバスの料金の割引・カフェのコーヒー2杯無料券・御城印2枚プレゼントの特典があります。
キャンペーンをフルに活用しましたので総額2000円分のプレゼント特典を頂くことが出来ましたよ。


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「人生はボーダレス! 作家たちの今と回想録」~ボーダレス・アートミュージアムNO-MA20周年企画vo.1~

2024-11-21 06:06:06 | アート・ライブ・読書
 ボーダレス・アートミュージアムNO-MA美術館は開館から20年を迎えるといい、滋賀県とアールブリュットの深く長い歴史が感じられます。
当方は2015年にぶらりと立ち寄ってNO-MA美術館を知ってアールブリュットの魅力にとりつかれて以来、沢山の作家さんの素晴らしい作品に出会うことが出来ました。

今回の企画展はキュレーターだった「はたよしこ」さんに同行していたカメラマンで、現NO-MA館長の大西暢夫さん始めとする方々の作家との出会い・再会の軌跡でもあります。
かつて出会い撮影した作家たちが20年の間どのように過ごしてきたかを聞きたいと企画た本展では、過去に取り上げられてきた7人の作家の現在と過去を見つめます。



館内は1F・2F・蔵の3ヶ所に分かれていて、それぞれの作家がブースのようにコーナーを構えて、作品展示やプライベート的な写真が展示されています。
入ってすぐの場所にブースのある宮間英次郎さんは自分自身が作品と化すパフォーマーといえます。
またガラクタ(愛着があるモノなのでしょう)を集めて並べたオブジェの数々。



大きな帽子にド派手な衣装。人形やら花やらを付けて横浜の街を疾走する姿は、街を歩く人の度肝を抜くような存在感があります。
それは人を驚かせて奇をてらいつつも、すれ違う人が思わず微笑んで思わず和ませるようなパフォーマンスのように感じられます。
今回の取材では89歳になられた宮間さんのインタビューをされているが、高齢になられた宮間さんはもうパフォーマンスを卒業されているそうです。



吉澤健さんは街で見た企業名や看板をノートに記録しながら歩かれているという。
ノートはかつては表と裏表紙に雑誌誌や新聞・広告などの切り抜きでコラージュしてセロハンテープで封印していたといいます。
現在はコラージュも封印もされていないとのことですが、作品の制作は続けられているようです。



ノートを埋め尽くすように書かれている文字は何て書いてあるか読めないが、吉澤さんには意味が分かっているはず。
吉澤さんはもう還暦近いはずですが、両親と暮らしながら30年近く仕事も制作も続けられているという。



喜舎場盛也さんはカラフルなドットで紙一面を埋め尽くします。
喜舎場さんも吉澤さんのように最初はアルファベットや漢字を書き込んでおられたそうですが、その後にカラフルなドット画に変わっていったそうです。



喜舎場さんに取材で会いに行かれた沖縄は4月にも関わらず25度を超えていたという暑さだったそうです。
制作現場での喜舎場さんは、急に姿が見えなくなったり、気が付くと自分の席で描いていたりするらしい。
毎日新聞を取りに行くのが日課で、図書館に行くと熱心に本に見入っておられたとか。



佐々木早苗さんには制作のブームがあり、紙に書かれた丸や四角、縫い込まれた刺繍作品などバラエティに富む。
2017年頃からは“丸”をモチーフにした作品が多いそうですが、多様な変化は続いているという。



佐々木さんを訪問された時の様子に“佐々木さんの制作風景を観察していて、喜舎場さんがそれに気づくと手は止まってしまう。”
“見ていた人たちは一斉に目を逸らして、他の人の作品を見たり、空を見たりする。そんな光景がおもしろかった。”とある。
その言葉だけでもシャイな佐々木さんと訪問者の暗黙のやりとりが目に浮かぶように思います。



西本政敏さんは札幌市内を走る実在のバスを木材で製作されていて、そのバスは細部に至るまで現物を再現しています。
バスの車体の側面にゴジラこと松井秀喜の応援の言葉が書かれていましたが、今なら大谷翔平なんでしょうね。
ちなみにバスは2005年の作品でしたのでニューヨーク・ヤンキース時代のゴジラ松井への応援です。



西本さんのバスの模型も面白かったのですが、個人的には腕や足、指などの関節まで動かせるほど精巧に作られた女の子の人形に魅かれます。
人形にはそれぞれフルネームで名前が付けられていて、調べるとタレントや声優など実在する人物がモデルになっているようです。



以前の人形作品は関節まで動くように作られていたとのことですが、現在は一枚板で製作されているようです。
髪の毛も以前は糸を骨組に編み込んでいたようですが、今は彫刻刀で彫られています。



2Fには西本さんの作品が展示されていて、次は蔵へというところだったのですが、外は雨足が強くなってきた。
焦って雨の中、中庭を歩いていく必要もありませんので、展覧会カタログや専門書籍などが置いてあるライブラリーで一休み。
ライブラリーにも宮間さんのコレクションが展示されてありました。



そうこうしているうちに雨が小降りになりましたので中庭を通って蔵の中へ。
蔵の中には伊藤喜彦さんの粘土作品が展示されています。

伊藤さんは信楽青年寮で約60年生活し、30年に渡って粘土作品を制作されていた方だそうです。
伊藤さんは松茸を取りに山へ行って、山の中で亡くなられたといい、それは2005年のことだったそうです。



最近、アールブリュット作品とコラボした商品やパッケージをお店やネットで目にする機会が増えました。
それは斬新なデザイン性や色彩の組み合わせの美しさが商品にマッチして、目にした人が興味深く魅かれるということなのではと感じています。
また、自分の作品が世に出ることで、新たな作品作りへの意欲につながるといいですね。


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浄厳院 現代美術展2024~現代美術編~

2024-11-16 06:10:10 | アート・ライブ・読書
 「浄厳院 現代美術展2024」では国内外のアーティスト36名が作品を出展しており、個性豊かで多様性に富んだ作品が寺内全域に展示されています。
開催期間中には座談会・舞踏・ライブ音楽・太鼓演武・ジャズ・舞・演劇・落語・お茶会など数々のイベントも開催されているようです。

前回は「観音堂」「釈迦堂」の現代アートの仏像と「本堂」の仏像群を見て回りましたが、今回は本堂・庫裡・書院・春陽院・方丈池の展示作品を見て回ります。
インパクトのある作品、思わず顔が緩むようなユーモラスな作品が展示され、作品は様々なれど作家の作品作りにかけるエネルギーが伝わる美術展だったと思います。



《わたしのなかの、わたし。》というシリーズの作品を展示されていたのは佐藤紘子さん。
動物の皮に描かれた絵は可愛らしいタッチではあるものの、顔は笑ってはいません。

“自分の中に、自分とは違う自分がいるような感覚。”、“何かをかぶったような、他人を演じているような自分。”
ここに“自分”は本当にいるのか、いないのか・・・そんな言葉が添えられていた。



深尾尚子さんは「食」や「ペット」などをテーマにインスタレーションを制作されている作家さん。
今は使われていない「おくどさん」や「井戸」のある台所にスペースインベーダーが侵入してきています。
アンマッチな違和感が独特の空間を作り上げていますね。



二部屋をぶち抜きでインパクト大の作品を展示されているのは中根隆弥さんの「ムスベルヘイムと7年7日」と「へや|ROOM」。
中根さんはジャン・デュビュッフェの言葉から「生(なま)」の芸術を体現させたいと作品を制作されているとある。



中根さんは“人間に内包されている本能”をテーマに「ドローイングマシン」という筆が付いたドローイングを行うための道具を使用するという。
それはアールブリュットの生の芸術をマシンによって生み出そうとするような道具でもあるようです。



部屋の一番奥には、不規則な線や墨の飛沫が描かれた紙の裏に「地蔵菩薩」が隠されていた。
この地蔵が何を意味するか分かりませんが、意外とも思える組み合わせもインスタレーションのひとつの部分を構成しているのかもしれません。



佐々木知良さんの「ねじれた寓話」は着物を着た狸と猿が神妙な顔をしてカルタに興じている作品で、通りがかる皆さんが微笑んでおられました。
佐々木さんは子供の頃に親しんだ昔話の世界が、記憶の中で攪拌され融合してできた「ある街」という作品を制作されていて今回の作品もその一部だとか。
カルタの言葉を見忘れましたが、なにか愉快なことが書かれていたのでしょうか。



「浄厳院 現代美術展」の主宰者という西村のんきさんの作品は書院二間ぶち抜きで「時代 era」というインスタレーション作品を展示されている。
作品は大きな屏風が5つ展示されており、全て5枚の作品を集めて「時代 era」という作品になっているとのことです。



作品は表と裏で違った世界観があり、上は「+」という作品を裏側から見たもので、天井には「∞」という作品が吊られている。
下の「-」という作品は裏に回ると何と庭が作られています。
裏側に回って見ないと分からない作品で、この作られた庭とその向こうの外にある庭との対比も面白い。



表側から見ると、縁側に置かれた鏡に反射した太陽光がそれぞれの作品の上を通り過ぎていくようになっている。
そんな時間を感じながら見て欲しいと書かれてありましたが、時間をおいて見に来ると光の位置が変わって作品の印象が異なって見えます。



浄厳院では庫裡(本坊)・書院・本堂と渡り廊下でつながり作品が展示されており、書院に面した方丈池や竹林にも作品が展示されています。
竹林にひっそりと展示されていたのは春成こみちさんの「祈」という作品です。
ひっそりとした祈りの作品のある竹林の竹が風に揺れてコンコン鳴るのが少し怖くもあり雰囲気もある。



寺院境内の一番裏側、方丈池の更に裏にはワダ コウゾウさんの「~風にふかれて~(デベソ)」という作品が展示されていた。
“ゆらゆらゆれる デベソを 楽しんで 頂ければ 幸いです。”とのコメントがあったけど、夜は怖くて一人では絶対行けないような場所に展示されています。



美術展ではウクライナ・ドイツ・スペインのアーティストたちが寺で共同生活をしながら取り組んだ「アーティスト・イン・レジデンス」の作品が展示されています。
境内にある春陽院は浄厳院の塔頭のひとつで、そこに「アーティスト・イン・レジデンス」のニコ・バイシャス(スペイン)さんの作品がありました。
床の間や額や障子に無数の手の写真が貼り付けられており、その手の形はそれぞれ違った形をしている。



部屋に吊り下がる不気味な物体は「舌」のようである。
野尻恵梨華さんの「引き延ばされた記憶」という作品は、何か辛い記憶がどこまでも延びて存在しない姿をあらわにしたかのような不気味さを感じます。



春陽院の一番奥の間まで行くと、天井裏から収納ハシゴが降りてきている。
何か展示がしてあるので見に登れという合図ですので登ってみると、狭い屋根裏に砂漠に太陽と三日月が描かれている絵があった。
北村瑞枝さんの「サハラ」という作品のようでしたが、“月の~砂漠を~はーるばると~♪”という童謡を思い出す。



気になった作品を取り上げましたが、書いていることはあくまで当方の主観を書いており、作者の意図するところと関係はありません。
これだけ多種多様な作品を見ると想像力の世界/表現の世界は無限だなぁと実感出来ます。


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「浄厳院 現代美術展2024」~仏像の過去と現代~

2024-11-13 17:17:17 | アート・ライブ・読書
 安土町にある浄土宗寺院の浄厳院で毎年恒例となっている「浄厳院 現代美術展2024」が開催されました。
美術展には国内外のアーティストが持ち寄ってきた作品が、寺の御堂や境内・庭など至る所で作品を見ることが出来ます。

「浄厳院」は、かつて佐々木六角氏頼が建立し、当地の地名にもなっている天台宗・「慈恩寺」があった地に織田信長が建立した寺院とされます。
寺院には重要文化財に指定されている「本堂」「楼門」があり、御本尊の「阿弥陀如来坐像(平安期)」など何点かの重文指定の仏像や寺宝があります。
以前は事前連絡しないと内部拝観出来ない寺院でしたが、「浄厳院現代美術展」が開催されるようになったことにより仏像群が拝観できるようになりました。



「浄厳院楼門(重文)」は室町時代後期の建造物とされ、佐々木六角氏の慈恩寺の楼門として建立されたものが浄厳院創建にあたり楼門が遺されたという。
楼門はもとは屋根が入母屋造だったそうですが、1889年の台風により2階部分が壊れたため、切妻造の屋根になったといいます。



楼門には阿形・吽形の仁王像(金剛力士像)が睨みを効かせており、表情からも体からも力強さを感じる仁王像です。
よく仁王門に仁王像が安置されているのを見ますが、参拝者としては嬉しい反面、屋外に保管されていて仏像が傷まないのか気になる時があります。





「本堂(重文)」は室町時代後期の建築物とされ、もとは近江八幡市多賀町にあった天台宗・興降寺の本堂だった弥勒堂を移築したものだという。
信長は、かつて天台宗だった寺院の遺構を再利用しながら寺院を建立したようで、合理主義者の一面を感じると共に、それまでの信仰を上書きしていった印象を受けます。

浄厳院は仏教論争の「安土宗論」が行われた寺院として知られており、信長の命により浄土宗と日蓮宗の宗論が行われたという。
宗論は日蓮宗の敗北となったというが、裁定には信長の強い政治的意思があったといいますので、信長によるある種の宗教弾圧があったともいえます。



浄厳院の境内には楼門・本堂・釈迦堂・観音堂・鐘楼・庫裡・書院・春陽院など多くの堂宇がありますが、現在の観音堂には仏像がありません。
過去に盗難に遭って仏像が失われたそうですが、現代美術展によって「観音堂」に仏像が蘇りました。



立体曼荼羅を蘇らさせたのは松山淳さん。金箔・色箔のカラフルな作品群です。
松山さんは乾漆技法と箔押し技法を用いて作品を制作されているそうで、中央の観音菩薩像はキンキラ金に輝いています。



観音像の横の脇侍には「ダイエット菩薩」が安置され、四隅に「モデル四天王」が観音さまを守護しています。
ダイエット菩薩は左がbeforで右がafterでしょうか。冗談半分のちょっと気持ち悪い感じの菩薩さんです。



逆にモデル四天王はというと、モデル体型でルックスも良さが際立ち、全く作風が違うかのような作品です。
金色の小さな仏が床面に並んでおり、須弥壇にはまた違った作風の仏?が安置されて曼荼羅を構成しています。



「観音堂」と同様に「釈迦堂」にも釈迦はおられないのですが、釈迦堂には毎年、釈迦が幻のように姿を現します。
今村源さんという作家の方がカラーワイヤーを使って製作された釈迦像ですが、やや荒んだ釈迦堂の中にぼんやりと浮かび上がる姿はある意味神々しい。



ここまでは「仏像の現代」でしたが、本来の姿である「仏像の過去」を本堂で拝観します。
浄厳院の御本尊である丈六の「阿弥陀如来坐像」は平安後~末期につくられた定朝様の仏像で、像高273cmの堂々たる座像です。



この「阿弥陀如来坐像」は愛知郡二階堂から移されたとも伝わり、大半の部分が当初のものであるとされているという。
ただし、光背の頂点部分は建立当時に御堂に入らなかったため先端が切り取られているとのことです。



「浄厳院 現代美術展2024」に感謝したくなるのは、数々の現代美術作品が見られるのもさる事ながら、仏像拝観が可能になったことです。
以前は事前連絡という敷居の高い条件がありましたが、美術展のおかげで後陣の仏像まで拝観出来るようになりました。



後陣に祀られている「薬師如来立像」は鎌倉期の造像とされ、珍しくも碁盤の上に御立ちになっています。
碁盤の上に乗る仏像は他にも例があるようで、京都の因幡堂(下京区)にも碁盤の上に安置された薬師如来立像があるようです。



同じく後陣には清凉寺式の「釈迦如来立像(南北朝期)が安置されており、縄目状の頭髪と衣文が波打ち首の下まで包み込むように彫られています。
「清凉寺式釈迦」は釈迦在世中にその姿を写した像として信仰を集め、鎌倉期には模像が多数制作されたといいますのでその1躰なのかもしれません。





さて、浄厳院では仏像の現代と過去を見てきましたが、次回は堂宇内に展示されている現代アートを見て回ります。
お庭を歩いているとジョウビタキの♂が姿を見せてくれました。
浄厳院は周囲を田圃に囲まれた自然の多い場所に立地しています...続く。




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駆け抜けろ、秋の水郷「水郷の里マラソン」を走る!~近江八幡市~

2024-11-10 17:22:22 | 風景・イベント・グルメ
 真似事程度でマラソンを初めて1年足らず。
ゴールデンウィークに初めて出場した「奥びわ湖健康マラソン」から半年、近江八幡市で開催された「水郷の里マラソン」を走ってきました。

秋のマラソン・シーズンを目指して夏の間に走ったりしてきて、秋の彦根市と近江八幡市の大会を目標にしてきたにも関わらず、なんと2つのレースが同日開催。
泣く泣く彦根市の「彦根シティマラソン」を諦めて、近江八幡市の「水郷の里マラソン」にエントリーしました。



マラソンとはいってもフルマラソンでもハーフマラソンでもない短いコースですが、何十年も運動らしい運動をしていない体には苦しくて苦しくて息も絶え絶えです。
とにかく止まらず足を動かし続けたら、いつかゴールの半円のエアーアーチをくぐり抜けられると極端にペースダウンしないよう粘りながら走ります。



コースは近江八幡市立運動公園からスタートして畑や田圃の広がる平野をグルッと周回するコースでした。
周辺にいた早いランナーは先に行ってしまい、近いペースを刻んでくれる人に付いて走ります。
最後の頑張りどころとラストスパートをかけて少し先を走る人を追い抜こうと思いましたが、残念ながらもうその余力は残ってはいませんでした。



で、タイムはどうだったかというと...練習も含めてこれまでの最高タイムだったGWの「奥びわ湖健康マラソン」から約3分縮めることが出来ました。
ゴールしてタイムを見た時に“早く走れた~!”と嬉しく思うのと同時に“このペースで走ったこと無いし、シンドイはずや。”と納得。


ゴール後にBODY MAINTEというコンディショニング ドリンクをもらってやっと一息。
ランの途中にあるエイドでドリンクを取りましたが、今回もうまく飲めず。走りながらの給水は練習が必要ですね。
「水郷の里マラソン」の参加賞はオリジナルタオルです。



さぁでは駐車場に戻ります。目の前には長命寺山。
これでしばらくはランニングは休もうかと思いきや、帰りにスポーツ用品量販店に寄ってナイキのランニングシューズ「ペガサス41」を衝動買い。
今使っているONの「クラウドモンスター」と比べて走り心地はどう違うでしょうね。では試しがてらに走りに行こう!




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武平峠から鎌ヶ岳・岳峠をピストンで登る~後編 西多古知谷大滝が見えた!~

2024-11-08 07:17:17 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 鎌ヶ岳の山頂まで登ってきた後、一度見たいと願っていた岳峠から眺める鎌ヶ岳の岩壁を目指し、雲母峰方向へと進みます。
山頂から岳峠方向への下りは、足の置き場に気を付けないといけないような急登が続き、その後は岳峠へ向かって岩場の急登を下ることになります。

武平峠から鎌ヶ岳の登山コースより厳しいやんかと思いつつも、分岐の看板が見えている峠を目指して岩の道を下ります。
岳峠までの距離感を把握はしていませんでしたが、それほどの距離ではなかったものの、急な岩場下りはちょっとしたアドベンチャー気分でした。



岳峠まで下りて後ろを振り返ると、想像を絶する岩壁が望めます。
これ位の標高の山で、さほど過酷な道のりでもない場所にこんな迫力のある場所に来れる鎌ヶ岳の良さが満喫出来ます。



世の中にはこの岩壁をよじ登っていく強者がおられるのかもしれませんが、登山道は2つの岩壁の間にあるゴロゴロした岩の急登です。
怖々しながら下りたけど、ピストンなのでもう一度登り返すことになります。



岳峠は標高1070mの場所にあって鈴鹿山脈では一番高い峠とされています。
岳峠では反対側から登って来た人にも会いましたが、岳峠は鈴鹿山脈の縦走路と交差し、湯の山温泉にも下りられるようで登山コースは複数あるようです。

左側の岩壁ですが、凄まじい岩壁です。
いったい今自分はどこに居るのだろう?どこか別の惑星に降り立ったのか?と不思議な感覚になってしまいます。





右の岩壁もかなり高さがありますが、何mくらいあるのでしょうか。
鎌ヶ岳は武平峠側のガレ場に見応えがありますが、岳峠側からの岩肌も圧倒されてしまう魅力があります。



峠から見下ろす先は、雲母峰や濃尾平野。その奥には伊勢湾が広がります。
半島も微かに見えていますが、朝は晴れていたのに段々と雲がかかってきて肌寒くなってきた。



雨になっても困りますので再び鎌ヶ岳の山頂を目指して登り返します。
岩ゴロゴロの道は、降りる時は怖かったけど、登るのはそれほどでもない。
登る時は四つ足動物になって手が使えるのは大きいな。



岩の道を登って振り返ってみると鎌尾根でしょうか?色づいた紅葉と鈴鹿の連なる山々の景色が楽しめます。
この日、紅葉が楽しめた唯一の場所でしたので、岳峠まで行ったのは別の意味でも正解でした。



鎌ヶ岳の山頂まで戻って、武平峠までの帰路に着きます。
次に伊勢湾が眺められるのがいつになるか分かりませんので、名残りを惜しみます。



鎌ヶ岳登山道で花は全く見かけなかったのですが、唯一咲いていた花です。
ノギクの仲間でしょうか?白くてやや小ぶりな花です。



下山して車で鈴鹿スカイラインを走行していると、山の上に大きな滝があるのに気付いた。
後で調べたら「西多古知谷大滝」という落差50mの直瀑の滝で、山の中腹辺りにありました。



あんな奥まった所にある滝なのでひとを寄せ付けないのかと思いきや、踏み跡を辿れば滝の下まで行けるみたいです。
もっと驚いたのは、この滝を登攀する人たちがいるようなのです。
まさに命知らずのチャレンジャーと思えてしまうのですが、そこは技術や経験・体力の裏付けがあってのことなのでしょう。



大滝の最下流のひとつになるのか、分岐流になるのか、道路沿いに小さな滝がありました。
鈴鹿山系には見応えのある滝が多いようなので見てみたい処だが、バリ・ルートだと行くのを躊躇してしまいますね。



さらに道路沿いにもう一つ滝があるのを見つけました。
名前があるのか?無名の滝なのか分かりませんが、滝は滝。
水は透きとおっていて、いずれ三滝川につながっているのでしょう。



久しぶりの登山でしたが、光が燦燦と降りかかる樹林帯の山登りから始まり、ガレ場・ザレ場を歩き、巨大な岩壁に圧倒される山行でした。
途中ではヤマドリに遭遇したり、やや季節外れの蝶、花と滝、プチ紅葉など好きなモノに沢山出会えたのも大きな収穫でしたね。


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武平峠から鎌ヶ岳・岳峠をピストンで登る~前編 ヤマドリに出会えました!~

2024-11-05 17:35:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 秋も真っ盛りの季節を迎えて毎週のように山登りをしているはずだったのですが、秋の季節性の不調に陥り、すっかり出不精になっていました。
夏中、太陽光をガンガン浴びて屋外活動していたのが、日照時間が短くなって太陽光を浴びる時間が減ったことに心身が慣れていないのでしょう。

雨の合間の晴れ日に鈴鹿の方へと出向いてみると、朝の8時過ぎにも関わらず駐車場には満杯近い車が停まっています。
みなさん晴れ予報の日を狙って来られたのだと思いますが、秋の晴れ日に山登りしたいのは皆同じですね。
何とか1台分のスペースを確保出来ましたので駐車して、武平峠まで鈴鹿スカイラインを歩きます。



駐車場に到着する前に“今日はきっとツイでるよ!”と思えたのは、途中でヤマドリの♀を見つけた時でした。
尾はちぎれたのか短かい尾をした個体で、なんとか証拠動画に撮ることが出来ました!



この日は鎌ヶ岳へ登るか、御在所岳に登るか直前まで迷っていて、距離的にも大して変わらないので、武平峠まで行って決めようと思っておりました。
しかしながら、高校の登山部の競技会なのか駐車場に大型バスが2台停まっていて、駐車場は引率された高校生でいっぱいです。
ただのハイキングでないのは全員登山仕様の装備をしていたのと、○○校登山部のユニフォームを着ていたので登山部だと分かりました。



多分、彼らは御在所岳だろうと推測して鎌ヶ岳へ行った方が混雑しないなと考えて、武平峠を左に進んで鎌ヶ岳方面に進みます。
武平峠は鎌ヶ岳・御在所岳・雨乞岳の分岐になっていて、雨乞岳には距離があるものの、鎌ヶ岳と御在所岳は1時間少々あれば登頂出来る最短ルートになっています。



鎌ヶ岳は武平峠までと峠を越えてからしばらくは急登だが、そこから先は緩やかな道が続きます。
しかし、しばしの楽な道を過ぎると、最初の岩場があり鈴鹿の洗礼を受けることになります。



岩場を越えると景観の良い場所が多くなり、連なる鈴鹿山脈の山々が良く見えるようになる。
ザレ場の先に見えるのは雨乞岳(1237m)。鈴鹿セブンマウンテンだけど未だに登ったことがない。



目前にデンと聳えるのは御在所岳(1212m)。
赤いロープウエイが上り下りするのが見えますが、ロープウエイから見る紅葉はどうでしょうね。



ザレた道の砂を踏みしめるザッザッという音と、落ち葉を踏みしめるカサカサした音を楽しみながら歩を進める。
前には岩場、奥には鎌ヶ岳。太陽光に照らされて無風状態なのがとても心地良い。



鎌ヶ岳の山頂の全景見えるようになりました。
あれはマッターホルンか、槍ヶ岳か、いえいえ鎌ヶ岳(1161m)です。
低山とはいえ、この山容を見ると心がワクワクとしてきます。



山肌はガレ場になっていて、落ちたらあの世行きなので近寄らないようにします。
右上に人がいますが、あの砂浜のようなザレ場を登って行くことになります。



山の向こう側は三重県で、その奥に霞んでいますが伊勢湾が見えます。
普段の山登りでは琵琶湖をよく見ますが、太平洋や日本海が見えるとより一層気分が高揚します。



崖の所にケルンがあり沢山の石が積まれています。
奥の岩にも小さなケルンが積まれていますが、誰かが奥まで行って積まれたのでしょうけど、行くのはちょっと怖い。



ガレガレの道。ここを登ることも出来ますが迂回路があるのでそちらから登ります。
少しこのガレガレの道を歩いて見ましたが、足元の悪さで躓く怖れよりも落石させて人に迷惑をかける危険の方が大きいですね。



山頂近くまでくると伊勢湾が見渡せる場所に出ます。
四日市コンビナートの煙突から昇る煙が微かに見え、奥には半島が伸びているのが見えます。



そして鎌ヶ岳の山頂部に到着です。
登ってすぐの場所には「天照大神皇大神宮社」の祠と鳥居があります。

祠は天照大神をお祀りされていますので、伊勢神宮の内宮と関連があるのでしょうか。
かつて国見岳と御在所山と鎌ヶ岳の3つの山を三岳とし、三山を巡る山岳信仰があったとされます。



鎌ヶ岳は岩場が山頂となっていて、重い看板を持って記念撮影することが出来ます。
以前登った時も今回もこの岩の裏側で休憩する人がいましたが、うまく岩の陰になって写真には写らなかったので助かりました。



山頂からは雲母峰と濃尾平野、伊勢湾が見渡せます。
少し色づいた紅葉が見えるものの、まだ時期が早いのかもしれませんし、この位置からの景色は紅葉のポイントではないのかもしれません。



山頂ではツマグロヒョウモンの♀を発見!
この時期にこんな場所になぜ居るの?と不思議に感じましたが、羽に全く痛みのない綺麗な個体でした。



武平峠から鎌ヶ岳まではほぼコースタイム通りに登りましたのでまだ余力がありますので、もう少し先にある岳峠まで進んでみます。
なぜかと言うと岳峠から見返す鎌ヶ岳の岩壁を一度みてみたかったからです。

別の登山ルートから登れば通る場所のようですが、今回は山頂からのショ-トカットのピストンで行きました。
時間的には大してかからなかったものの、低山とはとても思えないような迫力の岩壁でした...続く。


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第40回『観音の里ふるさとまつり』5/5~落川・高月~

2024-11-01 06:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 2024年の『観音の里ふるさとまつり』もあと2つの観音堂に参拝して終わりとします。
巡回バスに乗ってもう一カ所くらいは行ける時間はあったのですが、離れた場所の観音堂まで行くと戻るにはギリギリの時間しか残されていません。

それならばと、高月駅付近で歩いて行ける観音堂ということで落川の「浄光寺」と高月の「高月観音堂(大円寺)」に参拝します。
他の観音堂は田園地帯に囲まれた集落や山麓に面した集落にありましたが、この2つの観音堂は高月の中心部にあってふらっと歩いて立ち寄れる利便性があります。



最初は落川集落にある「浄光寺」に参拝して十一面観音・阿弥陀如来・薬師如来の3尊を拝観します。
浄光寺も他の観音堂によくある神社の境内地にあり、日吉神社の鳥居から中に入ります。



浄光寺は己高山鶏足寺の末寺として当地に厳長寺として建立され、天台宗の守護神である日吉大社の神様も勧請したとされます。
厳長寺も御多分に漏れず、浅井氏と織田氏の兵火にあって焼失し、その跡地に建てられたのが「浄光寺」だといいます。



十一面観音立像(像高96cm)、薬師如来立像(像高64cm)、阿弥陀如来立像(像高46cm)はすべて室町期のものとされます。
おっとりした感じの表情をされた御本尊の十一面観音は、薬師如来・阿弥陀如来と共に厨子の中に安置されています。

御本尊以外は暗くて見えないので、写真を見せてもらった処、素人目にも十一面観音と薬師如来は同じような表情をされていました。
同じ仏師または仏師集団による作の可能性が高いというお話でありましたし、修復の際に合わせたこともあったかもしれません。



仏像巡りをしているとその土地界隈に仏師が存在していたという話を聞くことがあります。
本格的な仏師集団も存在したでしょうし、器用な職人が兼任してその地方の仏像を彫っていたこともあったのではないでしょうか。
それぞれの地方の仏師(および集団)によって仏像に傾向があるのは、都から離れて当初の姿から地域独特の仏像になっていったのでしょう。



浄光寺の参拝を終えると、更に高月駅に近い高月観音堂(大円寺)へと足を進めます。
高月観音堂(大円寺)の境内には大きく傾いて自立困難になっている「おしどり杉」という巨樹が参道に寄り掛かります。



「おしどり杉」は幹周5.15m、樹高20mで推定樹齢が800年だといいます。
800年だと鎌倉初期ですから流石に樹齢が長すぎるように思いますが、伝承の世界なのでそれはそれでよいのでしょう。
それでも老樹には違いはなく、老いてなお樹冠に勢いがある健康な巨樹です。



寺伝では787年、伝教大師最澄がこの地に滞在して十一面観音像を彫刻し、人々は七堂伽藍を建立して寺勢は大いに隆盛したという。
戦国時代になり賤ケ岳の合戦の際には堂宇・伽藍はすべて焼失したが、観音像は自ら火難を逃れ半町余歩離れた石の上に立って、その姿は光り輝いていたという。



観音堂には御本尊の十一面千手観音立像の他、薬師如来像・弁財天座像・毘沙門天像・不動明王像・地蔵菩薩像が安置されている。
ここでも天台宗3尊である観音・不動明王・毘沙門天が安置され、竹生島信仰の弁財天もお祀りされている。



御本尊の十一面千手観音立像は室町期の作とされ、合掌手と宝珠手を含めて四十二臂の像で像高154cmと等身大に近い仏像です。
脇手の開き方や頭上の化仏といい、実にバランスの良い仏像で、湖北に多数ある訳ではないサイズ感の千手観音です。
高月町内としては唯一の等身大の十一面千手観音かもしれませんね。





高月観音堂(大円寺)の厨子はよく出来ていて、両横が開いていて横から仏像を観ることが出来ます。
大円寺は観光寺院ではないのですが、違う角度から仏像を鑑賞しやすくなっているのはありがたい。



須弥壇の横面には不動明王立像と地蔵菩薩立像が並んで安置されています。
この2躰は江戸時代にこの村の人が本尊の脇立として奉納したと伝わりますが、奉納するためには何年もかけ生活を切り詰めながらお金を溜められたのでしょう。



高月観音堂(大円寺)には高月観音の里歴史民俗資料館に預けられている「釈迦苦行像」を保有されています。
断食で皮と骨だけになったガリガリに痩せてぎらついた目をしている釈迦の姿は、苦行を極めても悟りを開けなかった釈迦の姿があります。

仏像には美しいものや人に安堵感を与えるもの、怒りを表して人を戒めるものなどいろいろな姿があります。
そこから受け取るものは、時世により、その時の精神状態により、その時の自分を取り巻く環境などにより、大きく違うかもしれません。
しかし、どの仏像も何か大事なことを伝えようとされているのだと想い手を合わせることがある。


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