僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

第40回『観音の里ふるさとまつり』4/5~井口~

2024-10-30 06:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の『観音の里ふるさとまつり』は朝から9つの観音堂を巡り、井口集落まで戻ってきた頃、そろそろ空腹を感じ始めた。
観音堂の境内に小綺麗なベンチがあるのを見つけ、お昼時の観音堂の参拝者は少ないので、ベンチに腰かけて駅で買った白蒸しを食べる。

眩しいばかりの日光を受けながら、甘く炊かれた黒豆と餅米のもっちり感を楽しみながらゆったりとした時間を過ごします。
白蒸しは空腹を満たすに余りあるボリュームでしたが、お腹を満たし休憩もしましたので午後の観音堂巡りを再開です。



毎年、観音の里ふるさとまつりでどこの観音堂に行くか悩ましいのですが、今年は高月町・木之本町の西側エリアを巡回して井口集落に戻って来ました。
井口集落にある「己高山 円満寺」は、元々は井口日吉大社の神宮寺だったため、日吉神社の鳥居から境内に入ることになります。
円満寺は、奈良仏教や白山信仰などの影響化にあり、平安時代以降は天台宗の影響を受けてきた己高山仏教圏の寺院として創建。



円満寺は境内の一番奥に隠れるように建てられているのですが、これは神仏分離令や廃仏毀釈の影響があってのことか。
かつての円満寺は惣山之七箇寺と称されるほどの寺院であったと伝わりますが、他の寺院と同様に織田信長と浅井長政の合戦で灰塵に帰したといいます。



須弥壇には「阿弥陀如来立像」「十一面観音立像」「地蔵菩薩坐像」が並び、出張中で写真だけながら日吉山王二十一本地仏が伝えられている。
湖北の観音堂はどこへ参拝してもよく整備されて綺麗に整った御堂が多いが、それだけ村人の観音さまに対する想いが強いのだと感じます。



「十一面観音立像」は室町期以降の作とされますが、とても美しく整った印象を受ける十一面観音です。
澄み切って落ち着き払った表情は観る人に安堵感を与えてくれます。





阿弥陀如来立像もすらっとした感じの立像でふくよかな表情をしておられます。
両仏とも大きな仏像ではありませんが、整った仏像という言い方が一番当てはまるような気がします。



円満寺を出てしばらく歩くと赤い観音の里ふるさとまつりのノボリが見えてきて、「己高山 理覚院」の門が見えてきます。
平安・鎌倉時代には隆盛を極めた長安寺という寺院があったというが、時代と共に荒廃していき、わずかに残った一坊が理覚院だといいます。



須弥壇には西国・坂東・秩父の霊場の観音像が百躰安置されており、最初の西国札所観音は江戸中期から始まったといいます。
湖北で百躰観音はこの理覚院だけだといいますので、特別な信仰が根付いていた地域と言えるかもしれません。



御本尊の聖観音立像は仏像に対して適切な表現ではないけど、チャーミングで躰に対して小さく華奢な手をした女性的な印象を受ける仏像です。
像高40cmほどの仏像ですが、百躰もの観音像の中心に安置された厨子に納まっています。





理覚院は真言宗豊山派の寺院で境内にも空海の修行像があり、湖北では数少ない真言宗系の寺院になります。
御本尊の聖観音や百躰観音がお祀りされている観音堂とは別に理覚院の本堂があり、そこには大日如来と不動明王が安置されています。



理覚院の「大日如来坐像」も智拳印を結ぶ金剛界の大日如来となっていて、他所では胎蔵界の大日が多いような印象のある中、湖北では金剛界の大日が多い。
躰の足の部分は線香の煙で色が黒ずんでおり、上へ行くほど金色に輝いています。



これで当初予定していた観音堂は巡りましたが、まだ時間もあるので高月駅付近まで歩いて行って、町の中心部にある観音堂に参拝します。
観音の里ふるさとまつりは一日だけですので訪れる観音堂は限られており、今年行けなかった観音堂は来年の楽しみということになりますね。


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第40回『観音の里ふるさとまつり』3/5~保延寺・雨森~

2024-10-28 06:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の『観音の里ふるさとまつり』は、まず高月町の西側の山麓にある観音堂を巡り、次に高月の西側の平野部にある観音堂を巡ります。
高月町には観音堂がほぼ集落ごとにありますので、隣接している集落だと歩いてすぐに次の観音堂へ到着することの出来る一帯もあります。

このエリアでは保延寺集落と雨森集落に集中する観音堂を巡り、「保延寺阿弥陀堂」「己高山観音寺(雨森観音堂)」「保延寺観音堂」に参拝します。
そこから一路東へ向かって歩きながら井口集落の観音堂を巡って、JR高月駅近くの観音堂に参拝することにします。



「保延寺阿弥陀堂」は白山神社の境内地にあり、入口にある太鼓橋を渡って鳥居をくぐって境内人入ります。
感覚的に白山神社は山麓近くにあることが多いように思いますが、これは白山信仰の影響なのでしょうか。



境内に入ると、建物としては白山神社より阿弥陀堂の方が大きな建物となっていて、阿弥陀堂が中心となっている。
しかし、鳥居から続く石の参道は神社の拝殿まで続いているので、あくまでも信仰の中心は白山神社のようである。



「保延寺阿弥陀堂」には三躰の阿弥陀像が安置されており、阿弥陀如来は中尊と右が「定印」を結び、左は「来迎印」を結びます。
製作時代は中尊と右が室町時代、左が江戸期、特に中尊と左の仏像の顔が酷似していていることから同じ系の仏師の作と思われます。



保延寺の一帯は、白鳳時代の寺の屋根瓦や古銭が大量に発見されており、この近くには花寺という大寺院が栄えていたと伝わります。
また、ここにも最澄の伝説が残り、最澄が彫刻した仏像に「保延寺阿弥陀」があったというが、あったとしても現在のものとは別物ですね。



方丈池から見た阿弥陀堂。
広い境内に立派な社務所、阿弥陀堂の右に白山神社の拝殿と本殿があります。



次の「己高山観音寺(雨森観音堂)」は、「保延寺阿弥陀堂」から少し歩いただけのところにあり、変わった形をした野神さんのケヤキが出迎えてくれる。
この野神さんは雨森集落と保延寺集落の2つの集落でお祀りしており、枝ぶりが歪な感じになっているのは2018年の台風で枝が折れたのだという。



雨森観音堂の横にも背の高いスギの木が複数あり、田園地帯の真ん中にある境内地にも関わらず、樹勢の良い木に囲まれた御堂です。
限られた境内の敷地内にこれだけの林が出来ているのを見ると、この観音堂の歴史の長さを思わざるを得ません。





御堂の正面の厨子には「十一面観音立像」、左に毘沙門天・右に不動明王ですから、この観音堂も天台宗系の三尊形式で祀られています。
他にも「薬師如来像」「弁財天」などの仏像が祀られており、立地的なこともあるのかこの辺りから竹生島信仰の弁財天を祀る観音堂が出てきます。



御本尊の十一面観音立像は湖北では特殊な仏像で、脇手の一対を頭上高く掲げ、組み合わされた両手の上に小座仏を戴く。
いわゆる清水寺式と呼ばれる仏像で別名「袋懸観音」といわれるそうです。



雨森観音堂は天台宗寺院だったことから織田信長と浅井・朝倉軍との兵火により御本尊以外は焼失したという。
その後、再建されたものの明治12年に御本尊・本堂が悉く焼失。
村人は比叡山に参り、十一面観音・毘沙門天・不動明王の三尊像を勧請し、本堂を再建して今もお護りされているといいます。



保延寺には阿弥陀堂ともうひとつ別の観音堂があって、そちらの観音堂の方はよく考えれば行った記憶がありません。
御本尊の「千手観音立像」は見ていますが、見たのは2018年に保延寺阿弥陀堂で、その時は台風21号の影響で仏像が避難してきていたのでした。





「保延寺観音堂」は田圃と民家の間のスペースにある小じんまりとした御堂で、厨子がひとつあり、その中に「千手観音立像」が安置されています。
大和の長谷寺から移されたと伝わるという千手観音像は、像高17cmのミニチュアサイズの仏像で浅井氏ゆかりの仏像だといいます。



造りは素朴ながらお顔の表情が柔和で手も緻密に出来ていて、室町時代の仏師の作だという。
仏像の長谷寺からの勧請には浅井大和という人が関係したといい、出家して仏像を勧請して観音堂を建てたという。
実際に浅井氏には浅井亮政の弟に政信(大和守)という人がいたようだが、その人が仏像を授かったのかは分からない。



保延寺集落や雨森集落から井口集落まではさほどの距離ではないので再び歩き出します。
お昼を過ぎるとやや強めの風も冷たくは感じなくなり、日光の暖かさが心地良い。


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第40回『観音の里ふるさとまつり』2/5~尾山・田部・渡岸寺~

2024-10-25 06:46:46 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年の『観音の里ふるさとまつり』は、巡回バスのIコースを利用しながら歩ける区間は歩いて移動することにしました。
当日はやや強い風に吹かれながらも空は晴天で、長閑な湖北の田園地帯をのんびりと歩きました。

田圃には渡り鳥のノビタキの姿が見え、林の中ではエゾビタキの姿があり、渡りの野鳥が季節を感じさせてくれます。
琵琶湖にはすでにコハクチョウやヒシクイが飛来していますので、季節は一気に冬の季節を迎えようとする気配があります。



観音の里ふるさとまつりの最西の石道寺の拝観が終わったので、次は「安楽寺釈迦堂」へと向かいます。
己高山仏教圏は、奈良仏教に己高山の山岳信仰・白山信仰・天台宗などが混在して広がっていったとされています。
湖北には少ない「白山神社」は、己高山の山麓近くで見かけることが多いのは、白山信仰の影響かもしれません。



「安楽寺釈迦堂」は白山神社の境内にあり、この一帯には寺院があったとみられる寺跡や、坊や堂や殿の付く寺院由来の小字名が点在しているという。
しかし、寺勢盛んだった一山寺坊もやがて衰微して諸堂が老朽化していったといいます。
昭和56年には国県町の援助や、町内有縁の方々のご芳志により現在の収蔵庫が完成し、仏像を安置出来るようになったそうです。



安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)には半丈六の座像が2躰あるので迫る迫力に圧倒されます。
「木造釈迦如来坐像」は像高156cmで平安期の作、「木造大日如来坐像」は像高139cmで平安期の作だという。
しかし、後世(室町~江戸初期)に大きな修復があったようで文化財指定は去れていないそうです。



「大日如来坐像」は金剛界の大日如来を示す智拳印を結んでいます。
胎蔵界の大日如来は法界定印を結び、密教では「理」を示すのが胎蔵界、「智」を示すのが金剛界とされるが、理解するのは難しい。



顔も手も大作りになっていて重量感を感じるのが釈迦如来坐像で、平安時代の中頃(10世紀頃)の作とされています。
収蔵庫に2躰の仏像が並ぶと圧倒されるように迫るものがあり、大きな修復を経てもその姿をとどめているのはありがたいことです。



話が違うやんかと思ったのは、巡回バスの時刻表で安楽寺釈迦堂(尾山釈迦堂)から次の西光寺までの所要時間が2分とあったのにかなり遠かったことです。
バスの所要時間が5分なら20分くらい歩けばいいという感じだったのですが、20分以上歩いたように思います。
しかも集落の入口にはこの看板!集落の奥でなく入口にこの看板(多分外から来る人向け)だからちょっと怖いですね。



田部集落には長亀山 西光寺があり、御本尊は伝教大師(最澄)の作とされる十一面観音菩薩をお祀りしています。
延暦年間(782~805年)にこの地を訪れた最澄が観音菩薩・不動明王・毘沙門天(天台宗系三尊)を刻んで開基したとされます。

仏像の三尊は「阿弥陀三尊(阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩と勢至菩薩)「釈迦三尊(釈迦如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩)がある。
これに対して天台宗の三尊形式は「天台宗三尊(観音菩薩と脇侍の不動明王と毘沙門天)」になるそうです。



西光寺は現在地より北西2百mの山麓に観音堂・阿弥陀堂・薬師堂の3つの堂宇があったが、1491年に現在地に移転したとされます。
現在ある西光寺薬師堂は1987年に浄財によって再建されたものだといい、同じ境内に本堂となる西光寺と薬師堂が並びます。



須弥壇には立派な厨子を挟んで不動明王と毘沙門天が、厨子の中に祀られた十一面観音立像を守護しています。
十一面観音立像は先述の通り最澄のお手彫りですが、寺院などを巡ると最澄・空海・聖徳太子のお手彫りや伝承がとても多い。

天台宗では最澄は聖徳太子の弟子であるとか、生まれ変わりであるとか言われており、天台宗王国だった近江に聖徳太子や最澄の伝承が多い理由になっているようです。
そこには新仏教との信者の競合や政治的な理由もあったでしょうから、聖徳太子≒最澄はある意味で宗派の生き残り戦略だったのでしょう。



隣に並ぶ薬師堂にも伝承があって、954年にこの地で苦患に喘ぐ里人のために薬師如来像を撮り出し御本尊として祀るように申されたという。
この旅の僧こそが恵心僧都(源信)といわれ、薬師如来像は源信の手になるものだと伝えられているとされます。





さて、田部集落から巡回バスに乗って一旦、JR高月駅まで戻って渡岸寺の観音堂の門前市会場をのぞいてみます。
この渡岸寺の前にも野神さんが祀られていて、川沿いに生えたケヤキは幹周3.2m樹高10mで推定樹齢300年だとあります。
毎年8月16日にはシャギリ囃子でにぎやかで盛大な野神祭りが執り行われるそうです。



渡岸寺の山門から参道は出店が並んで、多くの方が祭りを楽しんでおられます。
湖北の寺院にはあまりない山門には阿吽の仁王像が睨みを効かせており、かなり修復されているようだが平安時代前・中期の像とされます。



渡岸寺には国宝の「十一面観音立像」や重要文化財の「胎蔵界大日如来座像」が安置されていますが、ここは観音まつりの時に行かなくても会える仏像です。
露店を見て回りましたが、雰囲気だけ味わって本堂前まで行って折り返し、次の観音堂へと向かいます。





歩いている途中の湖北の長閑な風景です。
稲刈りの終わった田圃が多いのですが、この田圃はまだ刈り取られておらず、ノビタキの遊び場になっていました。
後方の山は馬上山と後方に小谷山でしょうか?湖北の西側は山ばかり。




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第40回 『観音の里ふるさとまつり』1/5~柏原・高野・石道~

2024-10-23 17:25:52 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 『観音の里ふるさとまつり』は今年で40回目を迎えており、当方は2017年より巡礼を始めて昨年全ての観音堂への参拝を終えました。
途中コロナ渦で中止の年や拝観見送りの観音堂があったものの、西浅井町や余呉町の観音の御開帳があった年もあり、まだ見ぬ仏像との縁が結ばれました。
通常予約拝観の観音堂に行くのはなかなか敷居が高いのですが、このイベントでは気の向くままの参拝が叶います。

さて今年はどの観音堂へ行こうかというところですが、今年は31の観音堂で御開帳があり、一日で全てはとても回れないので選択に悩みます。
最後に拝観して何年も経っている観音堂がありますので、今年は巡回バスのIコースを利用することにして高月町・木之本町の西側の観音堂を巡ります。



JRの高月駅に着くと既に大勢の方がおられ、お昼ごはん用に白蒸し(しらむし)を買っている一瞬の間に始発の巡回バスが満席となる。
まだ発車まで時間があるにも関わらずの満員御礼となり、次のバスまで40分ちょっとの待ち時間がある。

とはいえ、今年はなるべく歩いて移動するつもりでしたので、時間を無駄にしないように歩き出します。
この日は一部区間で巡回バスも利用しましたが、歩いた距離は20㌔近かったのでいい運動になりましたね。



最初の観音堂は「柏原阿弥陀堂」で正式には「白寿山 来光寺」という寺院です。
圧巻なのは境内入口に聳える「八幡神社のケヤキ(野神ケヤキ)」で、親しみを込めて「柏原の野神さん」とも呼ばれるそうです。
このケヤキは幹周8.96m、樹高22m、推定樹齢300年以上という湖北最大の巨樹です。



地名の“高月”は槻(ケヤキ)の大木が多かったことから“高槻”と呼ばれるようになり、その後平安時代の歌人大江匡房が月見の名所と詠んだことから“高月”になったとされる。
高月町の観音堂や神社を巡るとケヤキの大木が多いことに驚きますが、野神ケヤキには及ばないものの、境内にあるケヤキも巨樹と呼べる大木です。



「柏原阿弥陀堂」には御本尊の阿弥陀如来立像と薬師如来立像・脇侍の日光菩薩と月光菩薩、眷属の十二神将が祀られています。
薬師如来立像(像高97.6cm)は平安期の作とされますが、現存保存されていないとのことで国の文化財指定はされていないようです。

湖北には数多くの観音さまや如来がおられますが、何らかの手が加えられていることで文化財になっていないものが多い。
とはいえ、観音さまはあくまでも信仰や村人の心の拠り所な訳ですから、文化財評価はあまり関係ないといえます。




(阿弥陀如来立像)

柏原から北西方向に歩いて行くと、小さな祠が祀られており、その後方には「佐味神社の三本杉」という巨樹があります。
御神木の樹高はそれぞれ12m/25m/25m、幹周は295cm/460cm/470cmあり、かつては何か祭礼の場所あるいは有力氏族の埋葬地だったのかもしれません。



井口集落の理覚院まで歩いて行くと、ちょうど巡回バスが来たので、先に山側の観音堂に参拝するべくバスに乗ります。
山麓に面した高野集落には村外れの村の出入口となる場所に「野大神」の石碑が立てられた野神さんが出迎えてくれます。



野神さんは村の出入口にあって農耕の神・五穀豊穣を祈願するものと考えられており、村の外れに結界のようにして祀られています。
野大神は幹周450cm、樹高30mほどあり、樹冠が大きく広がっている。
根元に祀られた石仏や石塔は土地を整備した際に掘り出されたものかと想像する。



「高野大師堂」の境内には高野神社・満願寺・大師堂が横並びにお祀りされており、他の幾つかの観音堂と同様に神仏習合の名残りが濃い寺院です。
湖北の神仏の信仰は、村に神社と寺院(主に浄土真宗寺院)がそれぞれあって更に観音堂があるという独特の信仰形態があります。

湖北地方には己高山を中心とした山岳信仰に、奈良仏教や白山信仰の影響が入り、天台宗が混じり合っていった己高山仏教圏があったとされます。
天台宗は戦国時代に勢いを失い、その後の明治維新の際の神仏分離令や廃仏希釈によって湖北の信仰は随分と様変わりしていったことが想像されます。



「満願寺(薬師堂)」には薬師如来坐像・脇侍の日光・月光菩薩立像と眷属の一二神将が祀られています。
また薬師如来を中心にして天台宗特有の三尊形態となる不動明王と毘沙門天が並びます。



御本尊の薬師如来坐像は恰幅の良い大病院のお医者さんのようなイメージがあり、願えば病気を治してくれそうな仏さんです。
この仏像はいつの時代の仏像か分からなかったのですが、織田信長と比叡山との対立や浅井長政との合戦がなければ...。
もっと数多くの仏像や堂宇などが残されていたと思うと残念でなりません。



「大師堂」には伝・伝教大師像とされる座像が安置されています。
高野神社・満願寺・大師堂共に己高山を背にして建てられており、どの建物も傷みがあまり見られず、地元の方の信仰の篤さを感じます。



大師像は鎌倉期(1283年の墨書あり)の仏像で国の重要文化財に指定されているという。
この像は伝教大師・最澄の肖像とされてきたようですが、現在は第十八代天台座主の慈恵大師こと元三大師の肖像と考えられているようです。
元三大師は同じ長浜の虎姫出身ということもありますが、そのお姿から元三大師ではないかとみられているようです。



さて、次は更に己高山に近づいて石道の「石道寺」へと向かいます。
石道寺も己高山を背にした寺院で726年に開基された後、伝教大師により天台宗として再興し、己高山五箇寺として繁栄したという。



石道寺は鶏足寺と並ぶ紅葉の名所ですが、その鶏足寺は石道寺の別院で東へ1㌔ほど山の中にかつては寺院があったそうです。
寺院は戦国時代に織田信長の兵火で全焼し、明治期には無住の寺院になったという。
大正3年に現在の場所に移築して、厨子・仏像を新しい石道寺に移してお守りされているといいます。



御本尊の「木造十一面観音立像 (平安時代中期・重要文化財)」は唇に紅をさしたかのような穏やかな表情で慈しみの観音さま。
欅の一木造りで像高173.2cmと等身大の観音さまは右足の親指が上を向いていて、今にも人を救いに歩き出しそうです。



『観音の里ふるさとまつり』はまずは西の最奥まで行って、東へ向かう巡回バスを待とうと思います。
高月町の観音堂から木之本町の観音堂まで来ましたが、もう1つ木之本の観音堂に参拝してから高月町に戻ります。


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『侍タイムスリッパー』を見逃さないで!

2024-10-19 19:46:15 | アート・ライブ・読書
 最近、映画のタイトルを短縮して呼ぶのが流行りみたいで、『カメラを止めるな!』は「カメ止め」、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は「エブエブ」だったりする。
今回観に行った映画の『侍タイムスリッパー』は「侍タイ」で通じるようですが、それで会話が成立するのは映画ファンの間だけかもしれませんね。

『侍タイムスリッパー』はインディーズ発の低予算映画で、最初は1映画館のみで一般公開されていたが、人気をよんで全国309館で上映されているという。
監督は安田淳一さんという“米農家 兼 映画監督”の方で、映画を撮影するまでは結婚式などのビデオ撮影業を営んでおられたといいます。(映画は3本目)
映画は安田監督の脚本に感銘を受けた東映京都撮影所の全面協力によって製作されたといい、それによる本格的な殺陣の様子など低予算映画にはない質の高さを感じます。



映画は山口馬木也演じる幕末の会津藩士が現代の京都の時代劇撮影所にタイムスリップして騒動を起こす。
現代にやってきた高坂新左衛門は、斜陽の時代劇業界の斬られ役のプロ集団「剣心会」へ入門し、斬られ役として暮らすようになる。

映画の舞台設定としてはよくあるようなテーマのように受け取られがちですが、ここから思いもよらない方向へとスト-リーは展開していきます。
主役の高坂新左衛門役の山口馬木也さんの真面目で感動屋さんながら時折見せるとぼけた演技に面白さがあり、奇想天外なスト-リー展開に引き込まれていきます。



当方は映画を劇場で観るのは年間何本か程度ですが、『侍タイムスリッパー』は邦画を中心に年間50本以上観ている人から面白かったと教えてもらった映画です。
実際に映画館に観に来ている人も多く、評価の高さからSNSなどで話題になって大ヒットにこぎ着けた映画なんだと実感することが出来ます。

時代劇が好きな人で典型的な時代劇スターってやっぱ恰好いいなと思える人。いい意味での(蒲田行進曲的な)日本映画の良さが詰め込まれた映画でした。
役柄としての悪役の演技以外には悪人が一切登場しないのも好感が持て、観ている人が安心感を感じられる時代劇の良さに感じ入ります。



予告編で公園で斬られる演技の練習中(普通の人から見たらおかしな人に見える)の山口馬木也さんを見た小さな子供連れのおばさんの焦ったような驚きよう!
“ちょっ、あかん!あかん!見たらあかん!行こ!”と子供の手を引いて即座に消えていくシーンなんかは爆笑あるあるですね。


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雑草の茂る休耕田にノビタキが飛び交っていた!

2024-10-15 07:10:15 | 野鳥
野鳥にのめり込んでいた頃は、秋の渡りの季節には探鳥で休日は大忙しでしたが、熱が冷めた訳ではないものの、探鳥に行くことが減ってしまいました。
感覚的には渡りの途中に湖北に滞在する野鳥が以前に比べると減っているようにも感じてしまっていることもあるのかもしれません。

探し方が悪いとか、熱意に欠けるといってしまえばそれまでですが、フィールドに出てもちょっと変わった野鳥に出会うことがなくなりました。
そんな中、見つけやすいノビタキを探しに行くと、何ヶ所かで二桁を越えるノビタキの姿が確認出来ました。



雑草に覆われた休耕田に姿は多く、鶏糞のような匂いの漂い出した蕎麦の花が広がる田圃にもその姿は多かった。
ノビタキはスズメ目ヒタキ科の鳥で大きさはスズメくらいの大きさですが、警戒心が強いので距離を縮めることは出来ないので撮るのに苦心する。



ノビタキは♂と♀で目の周囲などの顔の黒さやお腹のオレンジの濃さに違いがあり、夏羽と冬羽では違う鳥かと思うほど色合いが変わります。
田圃の畔の雑草の上に留まったり道に降りることも多いとはいえすぐに飛ぶので「ぼんさんがへをこいた」 状態になります。



逆光位置からになってしまいましたが、♂の特徴が分かりやすい個体です。
夏羽の真っ黒な♂の姿のノビタキに会えるのは春でしょうね。



多い場所では視界に納まる範囲に数羽。
どいつを撮ろうかと思いながら、なるべく距離の近い奴を狙うが、どいつもそれなりに遠い。



♂と♀が近くに居たり、2羽で飛んで行ったりすることがあり、下は♂♀が一応写った証拠写真です。
ピントは♀に合っていて、その前に居た♂はゴーストノビタキになってしまってます。



ノビタキは比較的長い間滞在する鳥ですので、もうしばらくは見られると思います。
コハクチョウが飛来したようですので、ジョウビタキももう入ってきているのかもしれませんね。


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小倉宗さん(アトリエ笑)と長谷川良夫さん(アベイユ)の偶然!~アートインナガハマ~

2024-10-06 17:39:39 | アート・ライブ・読書
 「アートインナガハマ」は湖北・長浜市の市街地に全国から芸術家や作家が集まり、持ち寄った作品を展示販売される年に一度のイベントです。
AIN(アートインナガハマ)は今年で38回を迎え、すっかり長浜の地に根付いた芸術の秋の始まりを告げるイベントになっています。

当方が最初にAINを訪れたのは、当時習っていた陶芸の先生の作品を見にいったのが始まりで、その頃は圧倒的に陶芸作家の出展が多かったように記憶します。
2007年に小倉宗さんというアクリル画家を知ってからは、毎年お会いして作品を見たり買ったりするのがAINの楽しみのひとつになっています。



まだイベント開始前で準備中の小倉さんのブースに押し掛けたのですが、それには理由があります。
「まどろみ」という作品がもし出店されていたら押さえてしまいたかったからでした。

最初に小倉さんの作品や個展の情報をUPされているnorikoさんのインスタで「まどろみ」を見ていい作品だなぁと魅かれる。
「まどろみ」は大阪は高槻市の「ギャラリーからころ」で開催された小倉さんの個展で実物を見て増々気に入り、AINで再会できるのを熱望していました。
小倉さんのブースに「まどろみ」があるのを見つけて、速攻で購入を申し出て待望の入手となった次第です。



とてもゆったりとした時間を過ごす女性と猫は、小さな子供と母親が和やかで優しい時間を過ごしているように見え、その絵からは愛情が溢れているように感じます。
小倉さんの絵画には幾つかのシリーズがありますが、こういう穏やかで優しい作品もよく描かれるテーマのひとつかと思います。



今年はもう1枚購入しており、「くるりん」という絵を購入しました。
これは新居祝いのプレゼント用に買ったのですが、初日の午後の段階でかなりの絵が売れていて、再訪した時は残り数枚となっていて人気の高さに感心します。



ブースにCDがあったので何か聞いてみると、小倉さんの1975年と1977年のライブの音源なんだそうです。
オリジナルで小倉さんが作詞作曲されていてボーカル&ギターを担当されています。
10代?の頃の若い声は随分と印象が異なりつつも、多才さが伝わってくる音源です。



街中を巡りながら何度か足を運んだのは「アベイユ」という障がいのあるアーティストのマネジメント・プロデュースを行う芸術家プロダクションです。
お話を伺うと、障がい者の支援施設ではなく、アーティストとしての社会進出をサポートしてプロの芸術家への道を支援しているプロダクションだそうです。

多様で個性に溢れる絵画を中心にTシャツやカバンや小物などのグッズも販売されており、8人のアーティストの作品が展示。
精密に描かれた絵やカラフルに塗り込まれた絵、力強くもほのぼのさを感じさせる絵など表現は多岐に渡り見応えがあります。



絵本も販売されており、長谷川良夫さんの「日だまりのアイロニー」を手に取ってみると、個性的な絵の面白さと添えられている短い文章に感じ入る。
言葉は思わず笑ってしまうものや、本のタイトルにあるようなアイロニーが込められた言葉もあり、その言葉の感覚から伝わってくるものは大きい。

ブースにおられた方が今日長谷川さんがAINに来られているということでしたので、ダメ元でもし戻られたらサインをもらえませんかとお願いしてみる。
不躾なお願いにも関わらずサインを頂くことができ、無理なお願いをして申し訳なかった気持ちと苦心しながら書いて頂いたサインに感動する気持ちが交差していました。



エ~そんなことあるの!?と驚いたのは、PE袋に入った長谷川さんの本をぶら下げて小倉さんのブースに行くと、以前に長谷川さんと小倉さんは二人展をしたのだと言われます。
同じ本を持っているよ!とのことでしたが、アベイユの数おられる作家の中から選んだ作品(本)を巡る偶然に驚くばかり。

AIN 2日目の話...
新居祝いに小倉さんの絵をプレゼントした処、小さな額に入った絵も一緒に並べたいと更に2枚追加で購入したとのこと。
禿ユミンの「きっとね」のミニ版でとても綺麗な作品です。



もう一点は浮酔絵師の小倉さんらしく「のんべえ」。
小倉さんの絵が我が家から別の家へと増殖し始めています。





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