彦根北野神社は、彦根藩の第2代藩主の井伊直孝が上野国北野寺(群馬県)の天満宮から分霊を勧請したのが始まりとされています。
明治の時代の神仏分離令までの北野神社は、奈良時代に創建されたという北野寺を別当寺として、彦根藩主(井伊家)の祈願社とされていたようです。
創建時の時代を追ってみると、関ヶ原の合戦(1600年)の軍功により彦根藩初代の井伊直政が彦根佐和山城に入城。
1602年に直政は関ヶ原の合戦でおった傷により死去。
1606年に彦根城の天守閣が完成して2代目の井伊直継(後に直勝)が入城。
1620年に第2代藩主の井伊直孝が北野神社を創建。
...おやおやこれでは直継と直孝と2代目藩主が2人いることになってしまいます。
井伊直継は直政の正室(徳川家康養女)を母とする井伊家の後継者。
井伊直孝は直政の側室の子供(直継の異母弟)で、幼くして父と離れて上野安中(群馬県)にあった北野寺で養育されたといいます。
後継者であった長男の直継は病弱であったとか、家臣団を統制する能力がなく家督交替させられたなどとされていますが、400年以上前のことですので真偽の程はいかなるところなのでしょうか。
いずれにしても直継(直勝)は一旦は彦根藩の2代目藩主だった方ということになるのかもしれませんね。
「北野神社」は“天神さん”の社ですから、御祭神は学問の神様の「菅原道真公」。
これは直孝が群馬県安中の威徳山 北野寺で養育されていた頃に、境内に祀られていた天満宮を信仰していたという縁から勧請されたといわれています。
境内へ入るとすぐに神牛舎(俗称:撫で牛)があり、“なでてにっこり 心願成就”の看板が掛けられています。
天神信仰には“神様への願いを牛を撫でることにより叶えられるという信仰”があるとされていますので、この“撫で牛”をしっかり撫でて願いを伝えておきました。
金属製の神牛は、戦前にも先代の“撫で牛”が建立されていたそうですが、戦時中に国に供出されてしまったため、平成14年に再現して入魂されたそうです。
石の神牛の方は古くから安置されていたもののようで、古さを感じさせ味わいのある神牛です。お焚き上げの煙が境内に充満してきたため目が痛くなるなかでの参拝でした。
神門には今年の干支である酉の大絵馬が掛けられ、『必勝 合格』の文字が見えます。
毎年正月には合格祈願に訪れる家族が多いのではないかと思いますし、祈願の絵馬も合格祈願が圧倒的に多く見られます。
拝殿は間口4間・奥行4間でそれほど大きな建物ではなく小ぢんまりとした造りですが、後方では相の間と本殿につながって奥行があります。
社殿は江戸時代の1795年に焼失してしまった後に、彦根藩13代藩主の直中(井伊直弼の父)によって再建されたとされます。
本殿の横には過去に描かれた干支の大絵馬が置かれていて、これは毎年この神社の近くにある滋賀大学の美術部からの奉納によるものだそうです。
2009年から奉納が続いており、神社では将来は12枚(十二支)の大絵馬を飾りたいと考えられているようです。残りあと3枚ということで、いよいよ実現しそうになってきましたね。
北野神社の境内社は「白山神社・金毘羅神社・蛭子神社」の3社。
白山神社の右手には、神仏分離令まで神仏習合で北野神社と習合していた北野寺が隣接しています。
ところで、彦根藩2代藩主を異母弟の直孝と家督交替させられた直継には、「彦根城の人柱」という逸話があります。
“彦根城の天守の工事が難航していた時にお菊という娘を人柱を立てる話があったが、直継は人柱を立てたと見せかけて空の白木の箱を埋めて、工事を完了させた後に娘を親元に返した。”簡単書くとそんな話だそうです。
この話は、後年に作られたような話に思えてしまいますが、直継の人物像が伺われれる部分もあるのかもしれません。
「井伊の赤鬼」と称された父直政や「井伊の赤牛」と呼ばれた異母弟の直孝のような勇猛な武将(鬼を継いだ夜叉)とは性質の違った人物という印象を受けます。
明治の時代の神仏分離令までの北野神社は、奈良時代に創建されたという北野寺を別当寺として、彦根藩主(井伊家)の祈願社とされていたようです。
創建時の時代を追ってみると、関ヶ原の合戦(1600年)の軍功により彦根藩初代の井伊直政が彦根佐和山城に入城。
1602年に直政は関ヶ原の合戦でおった傷により死去。
1606年に彦根城の天守閣が完成して2代目の井伊直継(後に直勝)が入城。
1620年に第2代藩主の井伊直孝が北野神社を創建。
...おやおやこれでは直継と直孝と2代目藩主が2人いることになってしまいます。
井伊直継は直政の正室(徳川家康養女)を母とする井伊家の後継者。
井伊直孝は直政の側室の子供(直継の異母弟)で、幼くして父と離れて上野安中(群馬県)にあった北野寺で養育されたといいます。
後継者であった長男の直継は病弱であったとか、家臣団を統制する能力がなく家督交替させられたなどとされていますが、400年以上前のことですので真偽の程はいかなるところなのでしょうか。
いずれにしても直継(直勝)は一旦は彦根藩の2代目藩主だった方ということになるのかもしれませんね。
「北野神社」は“天神さん”の社ですから、御祭神は学問の神様の「菅原道真公」。
これは直孝が群馬県安中の威徳山 北野寺で養育されていた頃に、境内に祀られていた天満宮を信仰していたという縁から勧請されたといわれています。
境内へ入るとすぐに神牛舎(俗称:撫で牛)があり、“なでてにっこり 心願成就”の看板が掛けられています。
天神信仰には“神様への願いを牛を撫でることにより叶えられるという信仰”があるとされていますので、この“撫で牛”をしっかり撫でて願いを伝えておきました。
金属製の神牛は、戦前にも先代の“撫で牛”が建立されていたそうですが、戦時中に国に供出されてしまったため、平成14年に再現して入魂されたそうです。
石の神牛の方は古くから安置されていたもののようで、古さを感じさせ味わいのある神牛です。お焚き上げの煙が境内に充満してきたため目が痛くなるなかでの参拝でした。
神門には今年の干支である酉の大絵馬が掛けられ、『必勝 合格』の文字が見えます。
毎年正月には合格祈願に訪れる家族が多いのではないかと思いますし、祈願の絵馬も合格祈願が圧倒的に多く見られます。
拝殿は間口4間・奥行4間でそれほど大きな建物ではなく小ぢんまりとした造りですが、後方では相の間と本殿につながって奥行があります。
社殿は江戸時代の1795年に焼失してしまった後に、彦根藩13代藩主の直中(井伊直弼の父)によって再建されたとされます。
本殿の横には過去に描かれた干支の大絵馬が置かれていて、これは毎年この神社の近くにある滋賀大学の美術部からの奉納によるものだそうです。
2009年から奉納が続いており、神社では将来は12枚(十二支)の大絵馬を飾りたいと考えられているようです。残りあと3枚ということで、いよいよ実現しそうになってきましたね。
北野神社の境内社は「白山神社・金毘羅神社・蛭子神社」の3社。
白山神社の右手には、神仏分離令まで神仏習合で北野神社と習合していた北野寺が隣接しています。
ところで、彦根藩2代藩主を異母弟の直孝と家督交替させられた直継には、「彦根城の人柱」という逸話があります。
“彦根城の天守の工事が難航していた時にお菊という娘を人柱を立てる話があったが、直継は人柱を立てたと見せかけて空の白木の箱を埋めて、工事を完了させた後に娘を親元に返した。”簡単書くとそんな話だそうです。
この話は、後年に作られたような話に思えてしまいますが、直継の人物像が伺われれる部分もあるのかもしれません。
「井伊の赤鬼」と称された父直政や「井伊の赤牛」と呼ばれた異母弟の直孝のような勇猛な武将(鬼を継いだ夜叉)とは性質の違った人物という印象を受けます。