僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

大晦日夜の寺院参拝~滋賀県長浜市 舎那院さん~

2018-12-31 22:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大晦日から新年にかけて長浜八幡宮では「除夜祭」として、カウントダウンイベントや干支の氷大彫刻・ちくわまき等が行われますが、その境内横にはかつて長浜八幡宮の別当寺だった「舎那院」さんが現在も寺院を維持されています。
寺院は814年弘法大師を開基として創建されたと伝わり、「新放生寺」という寺号で平安時代より長浜八幡宮の学習院だったとされます。

明治の神仏分離令によって新放生寺は子院の舎那院以外は廃されてしまったとされますが、舎那院には廃された他の寺院の仏像が集められたといわれます。
御本尊にあたるのは「木造愛染明王坐像(重文)」だと思われますが、「木造阿弥陀如来坐像(重文)」などの文化財を数多く有する寺院です。



舎那院さんは、一般的には芙蓉の名所として知られ、夏には約300株の芙蓉の華が咲き誇り、朝から夕刻にかけて花色が変わる酔芙蓉も咲きます。
境内を流れる米川にはカワセミの姿を見ることがあり、春にはオオルリやメジロなどの野鳥が訪れることもあって、心の拠り所のような寺院でもあります。



門を抜けて境内に入ると最初にある堂宇は「太子堂」で、聖徳太子ともつながりのある寺院です。
聖徳太子・空海ゆかりの舎那院さんには「源義経公都落ちの遺跡」の伝承までありますから、数々の伝承を持った寺院という言い方はできると思います。



本堂は1754年に八幡講を結んで資金をつくり、1810年に落慶されたとされます。
暗闇に一部ライトが灯されているだけですから外観は分かりにくくなっていますが、日中は静かで落ち着いた雰囲気のある真言寺院です。



山号は勝軍山といい、源義家による中興の時代(11世紀後半)に後三条天皇より賜ったと伝わるもので、外陣には賓頭盧尊者を祀り、内陣には10躰ほどの仏像が安置されています。



ところで、なぜ夜に肝試しまがいの寺院参拝をしたかというと、「護摩堂」で特別公開されている「不動明王像」を拝見したかったからということになります。
知らない寺院ではないのですが、初めて護摩堂の不動さんを観た時の神々しさに魅了されてしまい、夜の寺院に参拝したという次第です。
屋根にうっすらと雪がかぶっているのに驚きましたが、大晦日のにぎやかな雰囲気でなければ夜の寺院には来れませんね。



護摩堂は室町時代後期頃に建造されたとされており、滋賀県下では中世唯一の護摩堂の遺構だとされています。
正直ここが護摩堂とも知らず、ましてや中に不動明王像が祀られているとは知る由もなかったのです。





暗闇の中で顔だけがライトアップされた不動さんは、細部など全く分かりませんが、その姿はあまりに神々しい。
2018年の最後にこの不動さんの姿に会えたのは“戒め”の暗示なのでしょうか。2019年の生き方を考えるいい機会です。


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御朱印蒐集~京都市伏見区 伏見稲荷大社~

2018-12-30 17:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 伏見稲荷大社は外国人でいっぱいというのはよく聞く話ですが、まさかこれほど多いとは思ってもいませんでした。
伏見街道を走行していた時に、伏見のお稲荷さんも久しぶりだということで車が停められたら参拝してみようと立ち寄ったところ、駐車場には空きが幾つかありました。

人が多いと聞くけど大したことないなぁと思っていたのが大きな間違いで、境内へ向かうと人の渦でした。
日本人の参拝者もいましたが、圧倒的に外国人が多い。白人系や一部濃い肌の方も来られているなかで圧倒的多数は中国系の方です。

 

人口が多い国ですから自ずと来日客が多いのでしょうけど、今の中国の裕福さに驚きます。
日本がバブルの頃には、世界の有名観光地に旅行される方が多かったと思いますが、こんな状態だったとは思えないレベルです。
右から左から前から後ろから聞こえてくるのは中国語ばかり。英語で話されている声が聞こえると懐かしくなるくらいです。(英会話はできませんが...)



それはそれとして参拝に向かいましたが、やはり伏見稲荷は清々しくて気持ちのいい場所です。
稲荷山の上まで行く時間はなかったのですが、まずは人の流れに押されるように順路を巡ります。



伏見稲荷大社は奈良時代の711年の2月初午の日に稲荷大神様がこのお山に御鎮座されたことが始まりとされます。
御祭神は田中大神・佐田彦大神・宇迦之御魂大神・大宮能売大神・四大神の5柱で、主祭神は宇迦之御魂神になり、穀物の神といわれます。

一番鳥居と2番鳥居を抜けると朱色の鮮やかな「楼門(重要文化財)」前にきます。
楼門は1589年の建立豊臣秀吉が母の大政所の病気平癒を祈願して再興されたもののようです。
楼門には右大臣・左大臣の随身像が安置され、平安貴族の佇まいで大社を守護しており、仏教でいうと阿吽の金剛力士像のような役割ですね。



手水は横長で両側から手水が出来るように造られています。
インバウンドが多くなる以前から参拝者の多い大社ですから、かなりの過去からこういう形だったのでしょう。



「本殿」は1468年応仁の乱によって焼失したものの、1499年に再興。
稲荷造りと称される様式で大きな建築物となっており、拝所は分散してお参り出来るように何ヶ所も鈴が吊るされ、横長の賽銭箱が置かれています。





参拝者の流れにのって千本鳥居へ向かいますが、こちらも凄い人の数になっています。
途中で時間をかけて記念撮影される方や自撮り棒が何本もつき上がっていて、にぎやかだけど海外にきたかのように話されている言葉が分らない。





平日にも関わらず、正月3ヶ日の初詣並みの人波に耐え切れなくなって鳥居から出て、人の余りいない方向へ歩き出す。
「伏見神寳神社」は天照大神を主祭として稲荷大神・十種の神宝を奉安するとされ、かつては稲荷山の山上に祀られていたとされます。





十種神宝は「沖津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死返玉・足玉・道返玉・蛇比礼・蜂比礼・品物之比礼」のことをいい、物部氏の始祖・饒速日命(ニギハヤヒ)が天上よりもたらしたとする話があります。
面白いのは扁額に「六根清浄」と書かれていることでしょうか。
六根清浄は、一般的には仏教で聞く言葉で「眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根」に執着せず、心を清らかにするという意味だと聞きます。



伏見稲荷大社ではあちこちで狐の狛狐が祀られていますが、伏見神寳神社には「地龍」「天龍」の狛龍が祀られています。
これは摂社の龍頭社で龍頭大神を祀っていることからかと考えられますが、狛龍とは珍しいものです。

 

伏見神寳神社への道筋には竹林が続くのですが、かぐや姫の竹取物語に由来があるといいます。
叶雛という千代髪で折られた人形に願いを書いて奉納する信仰があり、絵馬もかぐや姫を描いたものとなっています。
また、山に向かって竹で造らてた鳥居があり、かぐや姫由来もしくは山への信仰を伺わせる鳥居となっていました。



よく分からない社だったのが「神道御徳社」という社です。
伏見稲荷大社とは別の宗教法人になっているようですが、どういう履歴を持った社なのでしょう。



神体部分にはいろいろな大神の名が彫られた石碑が建てられており、少し空気の違う場所です。
横には「月日之宮本宮」という社もあり、世界平和確立祈願根本霊場とあります。



さて、伏見山にはまだ数多くの社がありますが、ここで折り返して山を下り参道茶屋の方へ向かいます。
以前の茶屋通りにはウズラやスズメの焼いている店が多く、七味や一味を売っている店が多かったように記憶していますが、今はそのようなお店はなく縁日の屋台のようになっています。
ウズラやスズメの焼き物はとてもじゃないけど食べられないとはいえ、少し寂しい感じもしますね。



駆け足でのお参りとなってしまいましたが、やはり伏見稲荷大社はとても気持ちのよい場所です。
ただし何事にも表裏ありで、本殿辺りと摂社では随分と雰囲気が違うことも確かかと思います。
次ぎに伏見稲荷大社へ参拝する時には年号が代わって新年号になってからということになりそうです。


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御朱印蒐集~京都市中京区 紫雲山 頂法寺(六角堂)~

2018-12-27 17:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「紫雲山 頂法寺」といってもなかなかピンとこない方もおられるかと思いますが、「六角堂」あるいは“いけばなの池坊”が代々住職を務める寺院といった方が分かりやすいですね。
ここ数年、話題の多い大相撲が属する日本相撲協会の評議委員議長としてTV等での露出が目立っていた池坊安子氏は池坊家元の奥さんになります。

寺院巡りをしている間に「いけばな」にも興味を持つようになってはいますが、今回はあくまでも西国三十三所第18番札所としての「六角堂(頂法寺)」への参拝です。
六角堂(頂法寺)は烏丸通り、地下鉄烏丸御池からわずかな距離にあるオフィスビルの谷間にあるような寺院でした。



587年、聖徳太子が四天王寺建立の材木を求めてこの地を訪れた時に、当地にあった池で身を清めるために念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したとされます。
882年には嵯峨天皇の勅願所となり、996年には花山法皇の行幸があり西国三十三ヶ所観音霊場となったと伝えられています。



また1202年には親鸞上人が当寺に100日間参籠したとも伝わります。
比叡山で修行していた親鸞は夜になると比叡山から六角堂に籠り、朝には比叡山へと帰ったとされ、95日目に如意輪観音からのお告げを受けて、浄土真宗を開くきっかけを得たとされます。



山門から入ると、西国霊場であることは元より、烏丸通りから僅かな距離ということがあって外国人・修学旅行生・観光客と大いににぎわっています。
さほど広くはない境内ではありますが、寺院の関係者も多く、都会の霊場といった感があります。



まず手水舎へと向かうことになりますが、手水の後方には一六羅漢が祀られていました。
「和顔愛語」の実践でニコニコした顔をされていますので、最初はお地蔵さんかと思ってしまいましたよ。



本堂は2層の屋根からなる六角堂に、入母屋造の礼堂がつけられたもので1877年に再建されたものとされます。
高いビルの谷間にこのような建物が建てられているのは不思議な光景であり、ある意味で京都らしい光景といえるでしょう。



六角堂の後方にそびえ立つビルは地上11階・地下2階、高さ53mの「池坊」で、和と美の殿堂とされています。
「池坊」にはガラス貼りの展望エレベーターがありますので、エレベーターに乗って六角堂を見下ろしてみましたが、これがなかなか見応えのあるものでした。



六角堂は大きな建物ですので一見、六角に見えないのですが、裏へ回り込んで見てみると六角になっていることがよく分かります。
六角とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)による欲のことで、欲を捨て角を丸めることで「六根清浄を願う」祈りの形だとされます。



礼堂は間口が広く造られていて内部の様子がよく見えますので、御本尊の「如意輪観音像」のお前立ちがよく見えます。
大きな「観音菩薩」の提灯と「頂法寺」の寺号の扁額がかかるさまには霊場らしい熱気が感じられます。



手前の大きな香炉を支えているのは邪鬼でしょうか。
どなたかが前掛けを奉納されているようです。



御本尊の「如意輪観音像」は聖徳太子の護持仏だったとされ秘仏になっていますが、お前立ちの方の如意輪観音も充分見応えがあります。
秘仏として公開されない御本尊のお前立ちの中には、実は本尊よりも素晴らしい仏像が安置されていたりするのかもしれませんね。

本堂の内陣の横には「聖徳太子」の扁額が掛けられた拝所と「見直大師」の扁額が左右にあります。
もっと小さな御堂を想像していましたので、大きくて立派な御堂に驚くことになりました。



境内にある聖徳太子ゆかりの池の上には「太子堂」が建てられています。
京都へ訪れた聖徳太子が身を清めたという故事に因んで建てられているのだと思いますが、この池には何と数羽のコブハクチョウの姿までありました。





境内の右手奥には小ぶりな六角堂がありますが、そちらの六角堂は親鸞上人を祀る「親鸞堂」でした。
親鸞堂には親鸞「夢想之像」と親鸞「草鞋の御影」が安置されているといい、堂の前には六角堂での参籠から比叡山へと戻る親鸞上人像があります。





境内には他にも不動明王の石像と木造を祀る御堂が隣接して建てられてありました。
上は不動明王の石像の「石不動」、下は木造の不動明王になりますが、それぞれ見応えのあるお不動さんです。





六角堂の境内にはドバトがたくさんいいて参拝者を和ましていますが、これは六角堂のおみくじの「鳩みくじ」由来で保護されているのかもしれません。
鳩を幸運の使いとして縁起の良いものとする寺社はよくあり、六角堂の「鳩みくじ」も並ぶとなかなか壮観な光景です。



寺院の参拝順路として鐘楼が最後になるのはおかしなものですが、飛地になっている場所に鐘楼があります。
梵鐘は大戦の金属供出で失われたものの、1954年に再鋳造されたものが現存しています。



六角堂のある界隈はホテルやオフィスビルが並び、寺院の周囲には池坊関係の建物が立ち並びます。
寺院にはいろいろな形があるとはいえ、京都の街中の寺院には独特のものがあります。
都市開発されようがその地に寺院が存続していく京都の文化はさすがとしか言い様がありません。


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「フェスタ・ルーチェ」~本当のクリスマスに出逢える場所~

2018-12-24 17:01:01 | 風景・イベント・グルメ
 和歌山マリーナシティのポルトヨーロッパでは「フェスタ・ルーチェ」と題してイルミネーションやプロジェクションマッピングなどのイベントが開催されています。
この年になってイルミネーションとは気恥ずかしいところもありましたが、実際に行ってみると“本当のクリスマスに出逢える場所”にすっかり夢中になってしまいました。



ポルトヨーロッパの欧風の町並みと遊園地エリアがイルミネーションの対象となっており、広いスペースにイルミネーションが拡がります。
また、ステージイベントやあちこちから流れる音楽や音、光の渦にまるで夢の国へやってきたようなワクワクした気分になります。



会場内は、子連れの若い家族・韓国や中国からの来訪者、恋人たちやわずかに混じった中高年夫婦といった人であふれています。
入り口を入るとすぐにステージがあり、男のカメラマンが群れていて、何事かと思いきや、どうやら地元アイドルグループの撮影会だったようですね。



広場にはベアーのイルミネーションが輝いて、絶好の記念写真ポイントになっているようでもありました。
まさにクリスマス気分を満喫といった会場広場です。



イルミネーションは数秒ごとに色が変わっていくので飽きがきませんし、光りの中に埋もれていくような感じさえします。



大きなボール状のイルミネーションの中をくぐって遊園地エリアへと行きますが、この橋の上から見る遊園地エリアのイルミネーションは美しかったですよ。



ウエーブスインガーのアトラクションも色変化しながらライトアップされています。
実際に乗っている人もおられましたが、綺麗だったでしょうか?回転しながら怖かったでしょうか?



川沿いには無数の玉が置かれていて、決まった玉に触れると一気に全ての色が変わります。
実際に触れてみましたが、なかなか面白く、子供達が夢中になって触っているのがよく分かりました。



川からポルトヨーロッパ側ではプロジェクションマッピングが始まり、クリスマスソングが流れ出します。
見ている内に鳥肌が立つほど気持ちが沸き立ちましたので、動画でさわりの部分を撮っています。
 ドアが開いたらクリスマスソングが始まりますよ!



遊園地ではどの方向を見ても光の渦。
夜だけど寒さは全く感じず、和歌山の温暖な気候に感謝する次第です。





ポルトヨーロッパの建物の中を進むと、なんとも雰囲気のある場所が続きます。
何ヶ所かにイルミネーションされた椅子があってそこが撮影スポットになっていて、年齢に関係なく記念撮影している方が多かったですね。
老いも若きも童心で遊んでいるということです。



一番美しいなと思ったのは、無数の光りが漂い、光りのラインが動くスペースだったでしょうか。
実に幻想的な空間でどこか宇宙の彼方で漂っているような錯覚に陥ります。





こういう夜の過ごし方をしたのは何年ぶりだったでしょう。
いや、何年ぶりというより何十年ぶりと言った方が正しいかもしれません。
 すっかりクリスマス気分になって、2018年のいい思い出になりましたよ。


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御朱印蒐集~京都市中京区 霊麀山 革堂(行願寺)~

2018-12-17 18:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 機会をみて西国三十三所の札所巡りをしていますが、始めた頃は全ての札所はとても巡りきれないと思っていました。
まだ1/3の札所にはお参り出来ていないとはいうものの、いづれは満願できそうな気持ちになってきたのが不思議です。

京都市内の札所へはすぐに行けるという思いがあって、なかなか足を運ぶ機会がなかったのですが、縁あってやっと参拝に行くことが叶いました。
訪れた寺院は中京区にある行願寺・革堂で、京阪電車を乗り継いでの参拝となりました。



行願寺(革堂)は丸太町通りと河原町通りの交差する辺りの町並みに埋もれるような場所にあり、土地勘がなく最初は迷ってしまいました。
このあたりにあるはずなのに見当たらないと困ってしまい、近くのお店の方に聞いてみたところ、寺院から10m程度の所まで来ていたのが分かり、少し恥ずかしくなる。



通りに面した町並みから少し奥に山門があるため見つけられなかったのでしょう。
西国三十三所の札所とは思えないような佇まいではありますが、山門から入山致します。



山門から入った参道の左側に手水舎があり、身を清めることになりますが、手水の近くには熱心なカメラマンがおられます。
何を撮られているのか見ていると、寺院の飼い猫でしょうか?白黒の猫を撮られていたようでした。



狭い境内の奥には鐘楼があり向かってみます。
鐘楼は1804年に建てられたものとされており、堂々たる姿の鐘楼です。
梵鐘を撞くことは出来ませんが、一般住宅も数多いこの界隈ではしょっちゅう鐘を撞くのは少々無理がありそうですね。





行願寺(革堂)は1004年、行円上人により一条小川(上京区)に創建されたのが始まりとされており、1708年の大火により現在地に移されたとされています。
本堂は1815年に建てられたもので、西国巡礼の札所の雰囲気が漂い、参拝者が途切れることはありませんでした。



色鮮やかな大提灯の後方には数多くの奉納額が納められ、長きに渡る信仰の歴史が伝わってきます。
大提灯には「革堂観音」と書かれていますが、寺名が「行願寺」であるにも関わらず俗称「革堂」として親しまれているのは開祖・行円上人の逸話からきているようです。

行円上人は狩猟を業としていたが、身篭った牝鹿を射止めたところ、そのお腹から小鹿が産まれたのを見て、仏門に入られたそうです。
仏門に入った行円は、自分への戒めもあったのでしょうか、射止めた鹿の皮を常にまとっていたことから「皮聖(かわひじり)」とも呼ばれ、行願寺も革堂と呼ばれるようになったそうです。





行願寺(革堂)の御本尊は、行円上人の作と伝えられている「千手観音像」ですが、こちらは通常秘仏で拝観は叶わず。
お前立ちの姿は見えましたがが、内部が暗いためよく見えませんでした。


西国巡礼パンフレットより

境内には本堂の他に「都七福神」の一つとなる「寿老人神堂」、「愛染堂」、「鎮宅霊符神堂」などがあります。
また、「加茂大明神」の五輪塔が建てられていますが、加茂神社(上賀茂・下鴨神社)との関係があるのかもしれません。



中へ入ることは出来ませんが、庫裡も立派な姿で建てられています。
今は本堂と幾つかの堂宇(祠)を残すのみですが、巡礼札所としての歴史は続いているのでしょう。



「都七福神」は日本最古の七福神巡りとされており、“ゑびす神社・松ヶ崎大黒天・東寺・六波羅蜜寺・赤山禅院・万福寺・革堂”となり、七福神めぐりは京都が発祥の地とされているようです。
革堂には寿老人が祀られている他にも七福神の石仏が奉納されており、前には藤袴いい香りをただよわせていました。





境内に建てられた石碑には「開山行円上人布教之真影」と付けられた行円上人の姿が描かれ、「天台大仏師法印 公朝 画」と書かれています。
この「公朝」とは“最後の仏師”と呼ばれる西村公朝さんのことだと思いますが、いろいろな場所に足跡を残されていますね。
下には妙法院門跡・第五十一世門主だった大久保良順さんの言葉が書かれています。



行願寺(革堂)の宝物館には行円上人が身につけていた「牝鹿の皮」若い娘の幽霊が描かれた「幽霊絵馬」が所蔵されているといいます。
「幽霊絵馬」にまつわる悲しい話には江戸後期の幽霊奇譚が伝えられているそうです。


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御朱印蒐集~近江八幡市 普陀山 妙法寺~

2018-12-13 18:18:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市の観光の中心地となる八幡堀周辺には日牟禮八幡宮や近江商人の旧宅の資料館、かわらミュージアムなどが立ち並ぶ観光ゾーンになっています。
和菓子の“たねや”の横から八幡堀に沿って歩き、住宅街へ入ったところに秘仏「護船観世音菩薩」を特別公開している妙法寺という寺院があります。

妙法寺はかつて無住の天台寺院だったものを黄檗宗の寺院として1733年に開山された寺院と伝わります。
八幡山城を居城とした豊臣秀次は八幡堀を整備し、八幡堀には物流船が行き交い物資を運搬して大いに栄えていたようです。
当時の船は難破することが多く、船の守護として妙法寺に護船観世音菩薩が祀られたと伝わります。



以前までの護船観世音菩薩は100年に一度の御開帳だったそうですが、寺院公開記念へと大きく方針を変更して特別開帳されています。
現在の妙法寺では「坐禅会・寺ヨガ・読経体験(梵唄体験)」などを行われていて、「心と体の癒しの禅寺」として新しい寺院のあり方を進められているようです。



住宅地の中にひっそりとある妙法寺は地図は持っていたものの道に迷ってなかなかたどり着くことができません。
ご住職も“分かりにくいので看板を立てたいのだけど住宅地なので無理なんです。”とおっしゃっていたくらいです。
山門の前には護船観世音菩薩のオブジェがありますので近くまで来ればすぐに分かるんですけどね。



山門はシンプルな造りとなっていて中へ参道が伸びています。
山門の横に自動販売機がありましたが、寺院内では飲食OK・弁当の持ち込みもOKです。
寝転がって昼寝をしても歓迎ということでしたので、のんびりとした気分で時間を過ごせる開かれた寺院になっています。



山門の扁額には寺院の山号である「普陀山」は観音菩薩の浄土である補陀落からきているものだそうです。
妙法寺のかつての山号は「宝陀山」だったとされますが、いずれにしても観音菩薩の住む霊地を示す言葉に違いはありません。



寺院の建物としては本堂だけですが、民家のような佇まいとなっています。
本堂の正面の前に広い場所があるのは「施餓鬼法要」の時に位牌を祀る場所になるのかと思われます。



本堂の内部は御本尊の「護船観世音菩薩」を祀る須弥壇の間とヨガルームに分かれます。
須弥壇には「護船観世音菩薩」を中心に「釈迦牟尼仏」と「聖観音菩薩」の少し変わった三尊となっています。
「護船観世音菩薩」は1200年前に難破した船(入唐船)の竜骨を使って、慈覚大師が彫られたと伝わる観音像ですので平安仏ということになります。





「護船観世音菩薩」は下部から“海・船・雲・蓮華座”と彫られており、菩薩は長い竿を持って船を漕ぐようなお姿をされています。
菩薩像の中には喉仏が5本と巻物が納められているといい、100年に一度の御開帳だったことが幸いして傷みのみられない観音様でした。



一通り御住職の説明を受けた後に“お茶でもどうぞ。”とお茶をいただいて庭を前にして休憩させていただきました。
“横になって寝転がって自由にしてください。”ということでしたが、さずがにそれは遠慮して風通しのいい縁側で庭を眺めておりました。



しばらく休憩しているとあとからお参りにこられた方にご一緒させていただいて黄檗宗だけが用いている施餓鬼法要の経本『瑜伽焔口経』と『黄檗梵唄』について説明を受けます。
『瑜伽焔口経』は全体で7時間くらいかかる経本だそうですが、「施餓鬼法要」では2時間相当の部分だけを唱えるそうです。
「施餓鬼法要」は生前の悪行によって亡者の世界に落とされて飢えと乾きに苦しむ餓鬼を供養する法要とされ、亡者の世界にいる餓鬼や無縁仏・この世に存在するあらゆる精霊・ご先祖の供養をする法会だそうです。



教本は「唐黄檗壇式」という法要の際の配置図が決められており、釈迦の十大弟子の一人:阿難が餓鬼に誘惑を受ける場面、地獄の釜が開いて餓鬼や亡者が出てくる様子、餅や菓子を撒いて餓鬼が持ち帰る様子までがお経ごとに組む印と共に経典として書かれています。
説明の後に読教を本堂内に設置された高音質の音響装置で聞かせてもらいましたが、太鼓や鐘などの鳴り物を使ったまるで盆踊りの音頭のようににぎやかなものでした。



お経の横に各楽器が叩く場所を示した楽譜を渡されて見ていると“どうぞ一緒に演奏してください。”と「大引磬」と「小引磬」を渡してくださる。
お経に合わせて叩いてみるが、黄檗宗のお経は中国語読みのため今どこを唄っているのか分からず、リズムがずれてくる。
和太鼓のリズムも実演してくださいましたが、難しすぎてとても叩けそうにはない。

“黄檗宗の僧呂の方は全ての楽器の演奏の習得が必須ですか?”と聞いてみると“はい”とのことでしたので、黄檗宗の僧呂には楽器の演奏・声明など音楽の修行も必要なようです。
いづれにしても滅多にない体験をさせていただき感謝しています。


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御朱印蒐集~近江八幡市 繖山 教林坊~

2018-12-09 17:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 教林坊といえば紅葉の隠れスポットとして有名な場所ですが、有名な場所にも関わらず隠れスポットと呼ぶのには、白洲正子が「かくれ里」で紹介したことによる“隠れ”のイメージが影響しているのでしょう。
教林坊のある繖山の山頂には西国三十三所の第32番札所・観音正寺があり、繖山と近い地域には石馬寺など聖徳太子と縁の深い寺院が点在しています。

繖山周辺には独特の仏教圏があったようですが、教林坊も605年に聖徳太子によって創建されたとされており、聖徳太子自作の石仏を御本尊として祀る寺院です。
また、教林坊はかつて観音正寺の末寺の一つだったともされ、観音正寺の末寺として形をとどめているのは現在ではこの坊だけだともいわれています。



教林坊へと向かう道に「西国三十三所札所 観音正寺」の石碑がありましたので、かつてはこの教林坊から観音正寺とつながる道があったのかもしれません。
本堂へは緩やかな石段を登っていきますが、確かに「かくれ里」といった雰囲気に満ちており、実にひっそりと建てられている寺院です。



茅葺きの総門は江戸時代後期の門で“徳島県藍染庄屋 長屋門を移築”と書かれています。
覆いかぶさる楓の葉を見ると、紅葉の季節にはさぞや美しいのだろうと思いますが、その時期は紅葉狩りの方で溢れているでしょうからシーズン前に訪れることにしました。





総門から少し行くと今度は表門へつながります。
表門は江戸時代の建築物とあり、質素に造られた門でしたので「紅葉のかくれ里・教林坊」が紅葉だけでない素晴らしい寺院だったことにこの時点では想像もしていませんでした。



書院の土間で入山手続きをした後は、庭園を外回りに周回するようにして細い道を進みます。
本堂へ入るとまず驚くのが本尊「十一面観音菩薩」のお前立ちと、両脇を守護する「金剛力士像」です。
「繖山」の扁額の下に3躰の仏像が並ぶ姿に、余分な力が抜けて平穏な気持ちを取り戻していくような思いが深まります。



お前立ちとは思えないほどの美しい十一面観音菩薩は、胸の辺りに木の年輪が浮き出ており、穏やかな表情をされています。
躰はふくよかで衣もはっきりと彫られており、また観にいきたくなるような観音像でした。



十一面観音菩薩・金剛力士像の祀られた須弥壇の左には脇陣があり、こちらには秘仏「不動明王立像」と金剛力士像が安置されています。
金剛力士像は護摩で黒ずんでいて厨子も暗いため姿はかずかに観える程度ですが、ライトアップされた不動明王は神々しい姿を現しておられます。
正式には「願掛け不動明王」と呼ぶそうですが、秋の特別拝観時のみの御開帳だそうです。



後陣にももう1躰の「十一面観音菩薩立像」が安置されていました。
本堂の後陣で供養された方を導いて下さるお役目なのでしょう。



さて、本堂を出たすぐ側には御本尊を祀る岩窟があります。
御本尊は「赤川観音」と呼ばれ、岩屋(霊窟)に納められており、その苔むした巨石に圧倒されてしまいます。

巨石の下部の空間は「本尊霊窟」呼ばれ、中には太子自作の石仏が安置されており、上の岩は「太子の説法岩」の名があります。
この巨石は神山・繖山に造られた古墳の跡ともいわれている大岩です。





ここまで外回りに庭園を回ってきましたが、ここから庭園の正面へと道筋が変わります。
道の周囲には苔が雰囲気たっぷりに生えており、これは春と秋だけの期間限定公開の効果でもあるのでしょう。
茅葺き屋根の書院からは庭園をゆっくりと拝見することが出来ます。



庭園は桃山時代に作庭されたと考えられており、「地泉鑑賞式」という形式だそうです。
庭園のことがよく分らない当方でも美しいと感じるこの庭園は小堀遠州作と伝えられています。



書院が特徴的な造りになっており、床の間を作らず室内から「山水掛軸」に見立てる「掛軸庭園」との呼び名があります。
確かに部屋の中央にある障子の中が掛軸のような庭が広がり、独特の絵のように見えるこの書院は、室町期の名残りとされています。





書院には「釈迦如来像」と「聖徳太子稚児像」が祀られています。
新しそうな太子像ではありますが、前に置かれた小さなのホラ貝が印象に残ります。



書院は急勾配で狭い階段があって3階の天井裏まで行くことが出来ますが、3階まで登った時に思わず声をあげてしまいました。
茅葺き屋根の裏側を見る機会はあまりありませんし、安置されている「大黒天」も相まった驚きの声です。



教林坊の仏像や巨石、苔むした道・掛軸庭園を見ると「紅葉の教林坊」という言葉では収まらない寺院であり、まさしく「かくれ里」の寺という言葉がしっくりきます。
また教林坊には小堀遠州の考案といわれる「水琴窟」がありますが、この水琴窟の音色は実に美しい響きを奏でます。


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御朱印蒐集~京都市左京区 狸谷山不動院~

2018-12-06 06:15:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都左京区一乗寺に石窟に不動明王の石像を安置する修験道大本山・狸谷山不動院があると聞き、参拝へとまいりました。
神仏習合のみられる寺院は多々ありますが、この狸谷山不動院の醸し出す雰囲気は神道の色合いが濃く、独特のというよりも特殊な空気感を持った寺院という感があります。

寺院が点在する一乗寺の街から林道を登っていった先に寺院はありますが、かつて山伏の修行地辺鄙な場所にあるにも関わらず参拝者は多かったと思います。
寺院によっては“静寂・繁華・活気”など受ける印象は様々とはいえ、狸谷山不動院には少々異質なエネルギーのようなものが感じられる寺院でした。

 

狸谷山不動院は桓武天皇の勅願により平安京の鬼門封じとして「不動明王」を安置したことが始まりされ、その不動明王は「咜怒鬼(たぬき)不動明王」と呼ばれたとされます。
「咜怒鬼」は読んで字のごとく、鬼を叱り怒るということのようで、修験道の地の名に相応しい名前が付いています。



寺号を彫った石碑の下にタヌキの焼き物が奉納されているのは「咜怒鬼(たぬき)」とタヌキをかけたものかと思いますが、現在の寺院としてのご利益は“交通安全”“ガン封じ”となるようです。
寺院の結界に当たる場所には仁王門等ではなく、鳥居となりますので神道色を強く感じます。



狸谷山不動院には250段の石段を登ることになりますが、最初の石段を登った場所にはタヌキの焼き物と一緒に奉納碑がありました。
懐かしいのは1985年に日本一となった「阪神タイガース 監督・吉田義男」の奉納碑と、同じく「阪神タイガース 小林繁」の奉納碑でしょうか。
吉田義男さんは生粋の京都人。故小林さんも社会人野球時代に京都と縁があった方ですね。



参道は途中でスロープの道と「白竜弁財天」への道に分かれます。
白竜弁財天の朱色の鳥居をみると、伏見稲荷の千本鳥居を思い浮かべますね。



御堂に安置された白竜弁財天は1718年、木食上人が参籠修行の折に「一切衆生の苦難、恐怖を除き、財宝、福利を与え給え」との誓いをもとに奉安したとされています。
しかし御堂の中は真っ暗でしたので中に祀られている白竜弁財天の姿は確認出来ず。





石段を50段まで登ってきた先には御神木と「お迎え大師」と呼ばれる弘法大師像を拝むことになります。
弘法大師像の腰下に下げられているのは「健脚わらじ」で、弘法大師にあやかって足腰の健康を願って奉納されたものとのことです。





さらに石段は続き、途中には「七福神像」の姿がみえてきます。
前日が雨だったのか、寺院全体がじっとりと濡れた感じがあります。



次の石段を登りきると約200段の位置まで登ってきたことになります。
石段の区切りの場所でタヌキの焼き物が段数を教えてくれるため、今自分がどの位置にいるかが分かりやすくなっているのはありがたい。



この位置までくると舞台造りの本堂の下まで来ることができ、清水寺を思い起こさせるような姿を見ることが出来ます。
狸谷山不動院の寺院としての開山は、朋厚房正禅法師〈木食正禅養阿上人)によって1718年のことだったとされています。

木食正禅養阿上人は、若くして禅、律、真言、天台の四宗の要義を学び、また木食行を体得するため高野山で修行した後、狸谷にあった洞窟の中にある尊像を知り、参籠修行の場として開山したとあります。
平安京の時代に祀られたとされる「咜怒鬼不動明王」が蘇り、修験道の場として栄えたということになるようです。





本堂を左手に見ながら参道を進むとほどなく「三社明神堂」へ参ることになります。
三社明神堂は衣・食・住の神として朋厚房正禅法師(木食上人)により勧請祭祀されたものとされています。



さらに進んでいくと「宮本武蔵修行の滝」と呼ばれる小さな滝と御堂がありました。
時は1605年、京にのぼった武蔵は吉岡一門との決闘を前にこの滝に打たれて、己の恐怖、煩悩に打ち克ち、吉岡一門を倒したとされます。

吉岡家は代々足利将軍家の師範だったとされ、武蔵の父とされる新免無二が吉岡一門と戦い、勝利したことが決闘となった経緯のようです。
武蔵は2人と戦い勝利した後、吉岡門下生数百人に狙われますが、一門を蹴散らし自分の門人たちを退却させたとの武勇伝が残されているようです。





本堂への道は急な男厄坂と緩やかな女厄坂があり、女厄坂から登ると本堂の全景が見渡せる場所があります。
現在の本堂は昭和61年に建立されたとされますが、江戸時代に繁栄した狸谷山不動院も例に漏れず、廃仏毀釈によって随分と荒廃してしまったといいます。
明治後期から郷土の有志により整備が始まり、昭和になって再興を遂げたようです。



今年は「狸谷不動明王300年祭」の慶祝年となっていますので内陣まで入れますが、まずは舞台から京都の町並みを眺めてみます。
見える場所は左京区になるのかと思いますが、随分と山中まで来ていることが風景から分かります。



舞台から歩いてきた女厄坂方向を見下ろすと、三社明神堂・宮本武蔵修行の滝・地蔵石仏群が見えます。
中央の広場になっている場所は護摩道場で、ここで祭典などが行われるのかと思われます。



本堂の舞台の柱には膨大な数の護摩木が掛けられており、祈願は「ガン封じ 病気平癒」といわれます。
護摩木に描かれた人体図に自分が直したい部分をマークして奉納するようです。



本堂内へ足を踏み入れると、奥の洞窟の中に祀られた不動明王の鋭い眼光にハッとさせられます。
内陣まで入れますので至近距離で拝むことが出来ますが、まさしく全ての煩悩を焼き尽くす迫力に圧倒させられる不動さんでした。




広告用ポスターを撮影

さて、狸谷山不動院には本堂から山中を進んだ先に「奥之院」があり、幸竜大権現を祀っているといいます。
せっかくなので進んでみようと思いましたが、こちらは凄いことになっていました。



まず鳥居があるのですが、「不動明王」と書かれた扁額は割れて鳥居の下に置かれている。
鳥居の奥にある道はジメジメとしてどこまで続くのかも分らない。



分かれ道があったのでどちらへ進もうかと迷ったのですが、右の方向には道らしきものがすぐに途絶えてしまっている。



左へ進もうとしたが、行く手に木が倒れている。
そもそも道らしきものが見えなくなっている。
すぐに諦めて引き返しましたが、既に御堂はなくなっているのかもしれませんね。



神仏習合の寺院というより“修験と神”の印象の強い狸谷山不動院からは、ある種独特の雰囲気を感じます。
それが京の鬼門由来のものか、修験道由来のものかは分かりませんが、京都都心部から近いパワースポットとして人気を集めているのはこの地の力によることもあるのでしょう。
少し怖い感じもする狸谷山不動院ですが、300年祭特別千社札(シール)は可愛らしいタヌキさんが修験者に扮しているものなのが、面白いですね。




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御朱印蒐集~京都市東山区 補陀洛山 六波羅蜜寺~

2018-12-02 07:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 六体の阿弥陀仏を口から吐き出すように念仏を唱える空也上人の像は、学校の教科書にも載っているため、見覚えがある方が多いと思います。
残されている空也像での上人は、粗末な衣服で在俗の僧として伝道に励み、貴賎を問わず人々の救済に寄与した方とされますが、その出自は醍醐天皇の第二皇子だとされているようです。

空也上人は平安時代中期の僧で「かくれ念仏」とも呼ばれる「空也踊躍念仏」を始めた方とされます。
「空也踊躍念仏」は、空也上人が始めた「踊り念仏」(念仏を唱えながら踊る)が元になっているとされており、鎌倉時代になると幕府によって制限された念仏が「かくれ念仏」として守り続けられたようです。
六波羅蜜寺では12月に「空也踊躍念仏(重要無形民俗文化財)」として現在も厳修されているそうです。

 

六波羅蜜寺は951年に空也上人により開基され、西国三十三所第17番札所となる真言宗智山派の寺院です。
寺院は東山五条の入り組んだ町並みの中に溶け込むようにひっそりと建てられていますが、有名寺院だけに参拝者はあとを絶たず、にぎわいのある寺院でした。



かつての六波羅蜜寺はは天台寺院として境内に平家一門の邸館が栄え大伽藍を連ねたといわれます。
平家没落後は本堂のみが焼失をまぬがれたものの、その後に源頼朝・足利義詮による再興・豊臣秀吉や徳川将軍による安堵があり、変遷しながらも寺院は守られてきたようです。



六波羅蜜寺も例に漏れず明治の廃物希釈により寺領の縮小され小さな寺院とはなってしまっており、狭い境内に堂宇が建てられています。
十一面観音の銅像が建てられたその後方には本堂(奥に宝物収蔵庫)があり、手前には弁財天堂。
堂宇としてはほぼこの2棟となります。



弁財天堂は、日本最古の七福神めぐりとされる「都七福神まいり」の一神として弁財天をお祀りしています。
七福神信仰は室町時代に京都を発祥の地として始まったとされ、六波羅蜜寺の弁財天堂には「日本最古 都七福神ノ一」と書かれていましたから、ここが七福神めぐりの1丁目1番地ということになるのかもしれませんね。



この六波羅蜜寺は平家一門の邸館が栄えた地ということもあるのでしょう。境内には平清盛塚が祀られています。
清盛の墓所とされるところは幾つかあるようですが、五輪塔はかなり古い物であることは確かなようです。



境内には「六波羅浄心苑」と彫られた石柱があり、その奥に墓所があります。
正面には履歴は分からないものの、仏頭石が置かれています。



境内の端に弁財天堂の寺務所があり、七福神まいりの方の御朱印がいただけますので書いて頂いている間に見て回りましたが、地蔵菩薩石像と並んで「水掛不動」「銭洗い弁財天」などがありました。
「水掛不動」に水をかけて拝みますが、水をかけると石が水を含んで色が変わっていく様が面白いですね。





さて本堂は1363年の修営で明治以降荒廃していたそうですが、1969年に解体修理されて色鮮やかな姿に戻り、重要文化財に指定された建築物となっています。
内陣には厨子が3個あり全て閉じられているものの、お前立ちの十一面観音像が2躰安置されています。
厨子の中の「十一面観音立像」は平安時代の像高258cmの国宝に指定されている巨像ですが、12年に一度公開される秘仏だそうです。



外陣には「夜叉神」が2躰祀られていましたが、かつては祠にでも祀られていたのでしょう。
めったに観る機会はそれほど多くはない護法善神に驚きます。



本堂の縁を歩いて行くと宝物収蔵庫へ行くことが出来ます。
「木造空也上人立像」が有名な六波羅蜜寺ですが、宝物館にはなんと14躰もの重要文化財の仏像が展示されているのです。

入館してすぐ右には「薬師如来坐像(藤原期・重文)」と如来を守護する四天王(持國・多聞・増長・広目、全て藤原期の重文)。
大きさといい、造作といい圧倒されるような仏像群です。


ポストカードより

宝物館入って正面には「木造閻魔王坐像(鎌倉期・重文)が怖しい表情で鎮座しており、「司命」「司録」の眷属を従えています。
初めて観たのは「奪衣婆像」の木像でした。
奪衣婆は、三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼のことで“しょうづかのばば”とも呼ばれますが、上半身裸で何とも不気味な表情の像です。

さらに快慶の弟子長快の作とされる「弘法大師坐像(鎌倉期・重文)」、「夢見地蔵」とも呼ばれる運慶作の「地蔵菩薩坐像(鎌倉期・重文)」。
珍しいのは鬘を持った「鬘掛地蔵立像(平安期・重文)」で手には鬘が掛けられている珍しい仏像でした。

また「湛慶坐像(鎌倉期・重文)」や「運慶坐像(鎌倉期・重文)」などの人像では鎌倉仏ということもあって、表情のリアルさは実に見応えがあります。


ポストカードより

意外だったのは「井伊直政坐像」で、慶長7年の銘があります。
不思議な取合せに思いますが、六波羅蜜寺は井伊直政の菩提が納められている寺院だそうなんです。

井伊直政の横には「平清盛坐像(鎌倉期・重文)」。この清盛像も教科書などに載っている仏像で存在感がありますね。
その横に「空也上人立像(鎌倉期・重文)」があり、1.16mの像は評判に違わず見事な仏像です。

胸には金鼓、右手に撞木、左手には鹿の杖をついて口からは6躰の阿弥陀仏が吐き出されています。
宝物館の係りの方にいわれるままに左下から見上げると水晶が光り、左手の甲には血管が浮かぶような造作が確認できます。


ポストカードより

最後に並ぶ「吉祥天女立像(鎌倉期・重文)」を観て宝物館を後にしましたが、見事な仏像群の余韻はいつまでも引かず、素晴らしい仏像群に心が動かされます。
ホッと落ち着きを取り戻したのが“無事かえる”と書かれたカエルが彫られた石だったでしょうか。
“ご無事の帰宅をお祈りしています”と置かれた石には2匹のカエルの彫物が見えますね。



あまりにも有名な「空也上人立像」以外にも六波羅蜜寺には仏像ファンには堪らない仏像が数多く収納されているまさしく仏像の宝庫だと言えます。
西国三十三所巡礼の札所であるにも関わらず、民家の並ぶ街中にあって信仰を集めているのは、市井の人の救済に努めた空也上人ゆかりの寺院にふさわしい姿なのかもしれません。


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