僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

杠葉尾(ゆずりはお)春日神社のスギとイチョウ~伊勢国・近江国の境の集落~

2021-10-30 16:12:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県東近江市の杠葉尾集落は、現在も人の住む集落としては三重県との国境にあたる集落で、この方面での滋賀県最奥の集落になります。
杠葉尾集落の産土神である「春日神社」には、推定樹齢300年を超えるイチョウと同じく樹齢400年を超えるスギの御神木があるといい、最奥の集落への関心もあり杠葉尾集落を訪れました。

かつての八風街道、現在の国道421号線は三重県桑名市と滋賀県近江八幡市を結ぶ整備された道となっており、周辺には神崎川岸のキャンプ場やキャニオニングのツアー場所があって、アウトドアのメッカのような地です。
杠葉尾集落は国道を折れて進むとすぐの場所にあるため、辺境の集落といった印象は感じられないものの、集落の中へ入っていくと山と川に挟まれた山村の長閑な佇まいに包まれる。



集落の道をマイクロカーが走っていて、時々家の前に留まってはカゴに入れられた農作物のようなものを取りに行っては積んでいかれます。
追い越せるほどの道幅がないので、そのたびに待つことになるのだが、なぜ家々を回っておられるのか不思議に思う。
帰り道に道の駅に立ち寄った時にその車を発見した時に納得。どうやら道の駅に出荷する農作物を集めて回っていたようですね。



「春日神社」に到着して鳥居から参道を進むと、拝殿の前にイチョウとスギの巨樹が見えてきます。
杠葉尾集落は鈴鹿山系の窪地のような場所にあるように思えますが、神社は集落の中心辺りにあり、険しい雰囲気というより集落に根差した神社の印象を受ける。



スギは幹周5.74m、樹高38m、推定樹齢400年とされており、幹の中ほどから下の枝は枝打ちされている。
下部が枝打ちされていることによって、樹高の高さに対して枝があまり伸ていない特徴的な形のスギとなっている。





そのスギに対してイチョウの樹は、老木感があるにも関わらず樹勢が豊かでこんもりとした樹幹になっている対比も面白い。
イチョウは幹周4m、樹高27m、推定樹齢300年とされており、この2本が神社の御神木として祀られています。



イチョウの樹の前には地蔵さんの祠が祀られており、玉垣の中にあるスギが本殿を守る御神木だとすれば、イチョウの樹はお地蔵さんを守る御神木のイメージなのかもしれない。
このイチョウの樹が老木だと感じるのは、長い気根(乳)が枝の基部から垂れ下がっているからで、見応えのある乳銀杏となっています。





春日神社の御祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・姫大神の4柱で本殿のエリアには3つの祠が祀られています。
興味深いのは、杠葉尾集落の春日神社に惟高親王の参詣伝承が残ることで、鈴鹿山系を隔てた蛭谷や君ヶ畑で隠棲した惟高親王とつながりがあったということ。

惟高親王は、文徳天皇の第一皇子であったものの、藤原家の血筋ではなかったことによって皇位に就けなかった悲運の皇子とされ、東近江で隠棲して木地師の技術を伝え、木地師の祖とされる皇子です。
春日神社は元は八幡宮でしたが、875年に惟喬親王が君ヶ畑から参詣し、その令旨によって春日社と称えることとなったと伝わります。



鈴鹿の山の中にある村々は、峠道を介して交流があったということになりますが、この山間部にある一帯には惟喬親王伝承が集中しており、惟喬親王を崇めるような文化圏が構成されていたようです。
尚、滋賀県では日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」が選定されていて、その構成要素に「永源寺と奥永源寺の山村景観」が選定されているとのことです。

境内には3つの社が建つ本殿とは別に石段を登った先にもう一つ祠が祀られています。
春日神社に祀られる神は4柱ですから、地蔵堂のようにも思えますが、地蔵さんはイチョウの前にも祀られている。
1神1祠だとするとこの祠を含めた4柱になるのかもしれませんが、祠の後方に巨石がありますので磐座信仰とも受け取れます。





境内には「薬師如来堂」もあり、神仏習合の寺社となっています。
杠葉尾集落には光林寺という浄土真宗の寺院があり、その側にある春日神社には神社と薬師如来堂がありますので、湖北の寺院・神社・観音堂と似たような感じがありますね。



参拝を終えて国道に戻り、三重県方向へ車を走らせると「京の水」と呼ばれる湧き水への道を示す看板が見えてきます。
かつての八風街道の旧道の脇に湧き水があったが、人気の名水なのでしょう、軽トラに数十本のペットボトルを積んだご夫婦が水を汲んでおられました。

よく来られるんですか?と聞いてみると時々来ては水を汲んで帰っているとのことでしたが、ご飯を炊いたりお茶を入れたりする時にでも使われるのでしょう。
県境にありながら「京の水」と呼ばれるのは、京の都を目指して伊勢(三重)から峠道を越えてきた旅人が、この湧き水まで来て「京都圏」に入ったと感じたことにちなむといいます。



大量のペットボトルに採水されていたので気を使われて、先に飲みますか?と聞かれたものの、その辺を歩いていますのでごゆっくりどうぞということで散歩をしてみる。
京の水のある部分だけは旧の八風街道のままになっていて、湧き水の奥は山へと連なる自然の多い場所。
山中の奥深い所には廃村や鉱山跡があるといいますが、先客の方に聞いてもそんな話は聞いたことがないとのことでした。



湧き水が空きましたので両手で水をすくってみると、実に冷たい。
横に水の検査成績書の写しがあったので見てみると、塩素イオン・硬度が低く、蒸発残留物も基準の1/10程度で臭気の異常もなし。

かつての街道脇にある水場で水を飲んでいると、歴史を感じて気持ちが和んできますが、ふと気が付くと後ろに車が停まってペットボトルやタンクを担いで車を降りてくる人がいる。
どうやらこの京の水は、人気の湧き水スポットのようですね。



帰り道に見た愛知川の渓谷の風景です。
水量が少ないこともあって岩がよく見えますが、ゴツゴツとして荒々しい感じのする川です。




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大聖寺不動堂「不動明王座像」特別公開~長浜市大門町~

2021-10-26 07:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 旧浅井町の大門村にある「神道山 大聖寺」の不動堂には「不動明王座像(平安時代後期)」が祀られており、24日に一日だけ・時間限定の特別公開をされました。
不動明王座像は、経年による痛みが激しく、不動堂での公開や博物館での企画展などを通した支援を受けて修理が進められていて、今回が修理前の最後の公開になるようです。

大聖寺は修験道の祖・役小角の創建したという下草野五山の一つとされていたといい、室町時代には48坊を有する天台宗の大寺院だったといいます。
しかし、1572年の織田信長による比叡山攻め、一向宗攻めと時期を同じくして焼き討ちに遭い、その後寺院は衰退していったようです。
江戸時代には不動堂のみが存続して、真言宗豊山派の信徒によって密かに守られ、現在は4軒の世話方によって守られているという。



大聖寺のある大門町は、金糞岳(鳥越林道)へと続く草野川沿いの道路近くにあり、草野川に近い田園部から山に突き当たるような奥まった場所にある山麓の集落です。
集落の入口にある臨時駐車場に車を停めて坂道を500mほど歩いて行くと、山に面した最奥の場所に大聖寺があり、設けられた獣除けの柵から内側は別空間となっています。



参道の終点には「大聖寺 不動堂(本堂)」と「神宮寺である若宮神社(旧観音堂)」があり、地元の世話方の方々が受付や説明などをされています。
大聖寺に向かう道すがらも地元の方に“ようお参り!”と声を掛けられ、地元の方のもてなしの気持ちを嬉しく思いながらの参拝です。



今回は「不動明王座像」など仏像の他に仏画13点が公開されており、不動堂の中は仏像・仏画が隙間なく祀られています。
大聖寺の全ての寺宝が堂の厨子・東西の壁面に祀られるのは年に一度の「大般若法会」の時だけということで堂内は仏の密な仏空間となっていました。

右の厨子には「役小角と前鬼・後鬼像」が祀られており、左の厨子には「釈迦十六善神図(1402年)」の仏画が祀られています。
「釈迦十六善神図」には、お釈迦様を中心に文殊・普賢の釈迦三尊と十六善神、下方には深沙大将と玄奘三蔵の姿が描かれているという。
壁面に6枚づつ吊るされた計12枚の仏画も室町期の画が中心で、3枚だけが江戸期の画でした。



「不動明王座像」は像高135cm、幅108cm、奥行き63cmとされ、滋賀県では2番目の大きさの像だといいます。(最大は「比叡山東門院守山寺」?)
キリリとした眉が長く険しく、目鼻がくっきりとしていて目の間の瘤が際立っていて、憤怒の表情を際立たせています。
堂外に展示してあったパネルからは足や台座を含む全体像が見て取れます。



仏像は美術館などで見ると全方位からの姿が見られる利点があるとはいえ、本来の御堂で厨子に納められた姿を拝むと場の空気感が分かりありがたみがありますね。
不動堂の厨子の様子は、堂の外に出てから撮らせていただきました。





境内では世話方の方に、かつての寺坊の領域や大門町の名の残る大門に関して、湖北における天台宗や伊吹山修験道・白山信仰などとのつながりなど、大聖寺についての話を聞かせて頂くことができました。
不動堂の横の「若宮神社」は、若宮神社は大聖寺48坊の寺坊を守る神宮寺だったようで、後述の配置図には旧観音堂と記されています。



下は「大聖寺院坊配置図」のパネルを撮った写真と現在の大聖寺の参道の写真ですが、山が迫っている窪みのような場所に寺院や境内があったことが分かります。
今も寺院の前は空き地となっており、大門跡の手前辺りから民家が立ち並んでいるという姿が残されていて、信長の兵火から450年たった今もかつての大聖寺の姿が垣間見えます。





大門集落を散策しているといつの時代の物か分かりませんが、石仏群が祀られています。
かなり手の込んだ石仏もありますから、かつての天台寺院・大聖寺の寺坊に祀られていた石仏かもしれませんね。




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ジョウビタキとノビタキをパチリ!~湖北で見られる野鳥たち~

2021-10-24 16:20:21 | 野鳥
 コハクチョウやヒシクイ・マガンなど冬鳥が湖北へ飛来し始めているとのことで、琵琶湖を眺めてもカモの姿が増えてきているのが実感できる季節となりました。
今の時期は移動中のノビタキと、冬の使者ことジョウビタキが同時に見られ、季節の変わり目を感じられるいい季節です。



ジョウビタキは今シーズン初見でしたが、3カ所で見かけたもののすぐに飛ばれ、4カ所目でやっと撮れました。
複数の場所でジョウビタキが見られるということは、それだけ数が入ってきているということになりますね。



ノビタキも少し数が減ってきたように思いますが、まだ姿を見ることが出来る田圃がありました。
とはいえ、もう移動していったノビタキの方が多いのかもしれません。



♀のノビタキは豆畑で一休みといった処です。
今年の秋のヒタキ科の鳥は縁がなくあっさりとシーズンが終わってしまいましたので、冬のヒタキには楽しませて欲しいですね。



少し前から猛禽の姿も見かけるようになってきています。
電柱バックのノスリですが、こいつは冬の間は飽きるほど出会えますので、またの出会いに期待。



電線のチョウゲンボウもチラホラと見かけます。
チョウゲンボウはハヤブサ科の鳥なのに、カラスにモビングをかけられて逃げ回っていましたよ。



最後は日向ぼっこ中のイタチをパチリ!
せっかくくつろいでいたのにお邪魔しました。




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湖北のアールブリュット2021~十里街道生活工芸館テオリア~

2021-10-22 19:12:12 | アート・ライブ・読書
 滋賀県では戦後まもなくの時代から知的障がいを持った子供たちの教育の一環として、近江学園で粘土による造形が始まったといい、アールブリュット作家の作品展が県内各地で開催されています。
「アールブリュット」は“専門的な美術教育を受けていない人が、湧き上がる衝動に従って自分のために制作するアート”と定義づけられており、アートの一つの分野として確立されています。

県内では近江八幡市の「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」で年間を通じて企画展が開催されており、滋賀県立近代美術館を始めとする県内の施設とのコラボ展の開催も数多い。
長浜市では2011年より「湖北のアールブリュット展」が毎年開催されており、ヤンマーミュージアム・曳山博物館・十里街道生活工芸館テオリアなど会場を変えながらも企画展の開催が続けられています。



昨年に引き続き会場となった「十里街道生活工芸館テオリア」は、無礙智山 大通寺の境内を通って東門から出てすぐのところにあるカフェ・ギャラリーで「湖北のアールブリュット展」の会場は2階に設けられている。
作品は湖北在住の作家作品が絵画25作品・陶芸102作品に加えて、近江学園の陶芸作品が並び、その作品群は個性に溢れて独特の作品が多い。



展示作品のいくつかを紹介すると...。
ぼんやりと淡い背景に力強い線で描かれている作品は、高橋由洋さんの「可燃ゴミ収集」。
家ではお母さんのゴミ出しのお手伝いをされているそうですが、混沌とした作品の背景には人物のような姿が読み取れますね。



匿名の方の「無題」にも人物の顔のようなものが読み取れます。
描かれる対象には作者のもっとも身近な人が映し出されているように感じる作品です。



いくつかの鮮やかな絵の具で書き殴ったような作品は、清水希さんの「無題」。
キャプションには“全身で気持を表現されるため、なかなか腕の動きをコントロールすることが難しい希さんですが、キャンパスに向かう姿からは「描きたい」という情熱が伝わってきます。”とあります。



湖北のアールブリュット展で毎回楽しみにしているのは、吉居裕介さんのカッパシリーズです。
今回もかっぱの集団が楽しい世界を演じてくれていますよ。


プレゼントかっぱ


まつたけかっぱ


かまくらかっぱ

近江学園からの出展作品は、先駆者としての歴史もあって毎回力作が多い。
縦長の大きな壺の作品からは、森の樹にツタが巻き付いていて、猿たちが自然の中で楽しんでいるような作品。
イギリスの童話「ジャックと豆の木」のような冒険譚を思い出すようなワクワク感もありますね。



次はオブジェの下部が突起物で作られた人?カミ?の上にせり出した舞台や頂上部に生き物たちが暮らしているような作品。
創造された空中都市のような世界には、幻想的な古代都市のような印象や楽しい夢の楽園のような印象を受けます。



線路と電車の作品では、重力を無視したかのように垂直な線路を登る電車が造られています。
全ての電車が終点に到着しているように見えますが、この先に線路が延長されていくのかもしれませんね。



「湖北のアールブリュット展」は、2年前までは「アート・イン・ナガハマ(AIN)」と同時開催でしたが、コロナ渦によりAINは2年連続で中止になっています。
来年はコロナ渦が終息して、同時開催にこぎつけて欲しいと思います。

帰り道に「文泉堂」という江戸時代から続く商家(両替商)から後に本屋さんとなったお店へ立ち寄ってみます。
滋賀県や湖北に関係する書物が豊富に置かれている本屋さんなんですが、特色のある町の本屋さんがなくなりつつある中では貴重な本屋さんです。



店内で白洲正子さんのコーナーを見ていた時に面白そうな本を発見して購入しました。
「白洲正子と歩く琵琶湖」の《江北編》と《江南編》という本で、安土城考古博物館副館長や滋賀県保護協会普及専門員などを歴任された大沼芳幸という方の本です。
白洲正子さんが訪れて著書に書かれた滋賀県のカミや仏を、解説文を添えて写真満載の本となっていて、白洲正子さんの観た世界を一望に収められている本です。



まだ訪れたことのない場所も多数紹介されている本ですが、滋賀県の中だけでも行きたい場所はまだたくさんあるのです。


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写真展「琵琶湖源流の美と暮らし」~長浜市余呉町菅並~

2021-10-18 17:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 長浜市余呉町菅並集落は現在この方面での滋賀県最奥の集落となっていますが、かつてはその奥に「奥川並・小原・田戸・ 鷲見・尾羽梨・針川・半明」の7つの集落が存在したといいます。
それらの集落の内、「奥川並・針川・尾羽梨」の3つの集落は炭焼きが生業だった為、ガスや石油の普及に伴い生計が成り立たなくなり、昭和40年代に集団離村したとされます。

残る「小原・田戸・ 鷲見・半明」の4つの集落に関しては、丹生ダム建設計画により1995年に移住させられ、離村した集落にはかつての面影はなくなってしまい、自然に帰ってしまっていると聞きます。
尚、丹生ダムは「もったいない」を合言葉に「新幹線新駅・産廃処理施設・ダム事業の凍結、見直し」を公約して滋賀県知事に当選した嘉田由紀子の推進もあり、2016年に国土交通省により丹生ダム建設中止が決定しています。



今回の写真展は、1969年頃から無人となる1995年まで吉田一郎さんが撮りためた集落の記録を公開する写真展です。
写真展は、近隣集落となる菅並で公開された後、滋賀県立美術館での巡回展などを経て、「地図から消えた町-琵琶湖源流七集落の記憶と記録-」として出版が予定されているそうです。



展示会場は「妙理の里」と曹洞宗の「洞寿院」の2会場で屋外展示され、会場には元滋賀県知事で現在は参議院議員の嘉田由紀子さんの姿もありました。
丹生ダム建設中止に深く関わった嘉田さんと丹生ダムで離村された方々とのつながりは深いのでしょう、地元の方々と立ち話されていました。



7つの集落の耕地は棚田だったとされますが、高低差が大きく小さな棚田が多かったようで、耕作にはかなりの苦労があったと思われます。
奥丹生谷では自家用米の自給も出来ない状態にありながら、国によって減反されたり、水害や台風の被害も多かったようです。

 

耕地の少ない鷲見では畑で粟やキビやヒエを栽培して、餅や団子にしたり米を加えて雑穀米として食べていたという。
また、高栄養価というバイの実やトチの実、トチの蜂蜜を採集していたそうです。
ヒエや粟、キビ団子となると、何か昔話のような錯覚を起こしますが、写真は1969年以降に撮られたものですから、その時代でも日本の原風景のような生活が残っていたといえます。



吉田一郎さんが撮影された写真は、集落の方の生活や信仰、民俗に根差した写真でありつつも、人との垣根を感じない写真となっているのはそれだけ集落の人にとけ込んでおられたからなのしょう。
四半世紀に渡って村を訪れ、しっかりとした信頼関係を築いていなければ撮れない写真ばかりだと感じ入りました。

余呉町は滋賀県下でも豪雪地帯で有名な地域で、あの五六の豪雪では4m近い雪で道も家屋も埋まってしまったそうです。
そんな豪雪地帯ゆえに小原・田戸・鷲見の集落では埋葬する墓(埋め墓)と雪の中でもお参りできるよう村の近くにある(詣り墓)の2つがあったといいます。
上記の3集落では離村するまで土葬を続けられてきたといい、魂が山へ帰る「埋め墓」と現生の人が墓参りの出来る「詣り墓」というのは理にかなった独特の供養方法だと思います。





信仰の篤さは、「野神さん」「氏神さま」にも表れており、離村の際には野神さんも氏神さまも御神体を別の寺社に遷したようです。
余呉町の丹生地区は野神さんとして祀られる巨樹が多く残る一帯ですが、鷲見の野神さんは高時川を渡って行った先にある洞窟に鎮座していたようです。
野神さん・氏神さま・山の神と自然神信仰の色濃い丹生谷には、離村していない集落にも自然信仰の姿が今も残ります。





第一会場の妙理の里を見終わると、坂道を歩いて「洞寿院」の境内へと向かいます。
寺院は山と山の谷間に流れる妙理川横の渓間にあり、巨樹に囲まれた山門は曹洞宗の寺院らしい厳格さを感じます。



山門の前には大きな巨岩があり、岩の上には仏が祀られています。
洞寿院に参拝するのは3度目ですが、同じ菅並集落に祀られる六所神社同様に気が引き締まる厳かさを感じます。



山門の右側には何本かの樹が合体したような独特の姿の樹があり圧倒されます。
こういう感じの山村を歩いている時間は、実に心穏やかな気持ちになり、何か心が満たされていくような感覚を覚えます。



「塩谷山 洞壽院」は1406年に如仲天誾禅師により開山され、曹洞宗中本山の格を持ち、皇室の御祈願所であったという。
2代将軍徳川秀忠より寺領30石が寄進され、寺紋には徳川家の家紋と同じ葵の紋を掲げる事が許された寺院だといい、現在の本堂は1863年に造営されたものだといいます。



写真は本堂前のほか、庫裡や座禅道場などの前にも展示されています。
洞壽院での展示は人物写真が多かったのですが、写っている人の表情を見ると、いかに吉田さんが集落の人々の中にとけ込んでいたかが分かるような自然な笑顔が見られます。



写真展に来られている人は年配の方が多く、話されている内容からすると離村された方や集落の方と付き合いのあった方のように聞き取れます。
“○○さんは写真で見ると思い出すなぁ。”、“この写真の辺りに○○があった。”、“懐かしいだろうから家のばぁさんを連れてきてやろう。”など。



昔を懐かしむような会話が多く、会話から悲壮感は全く感じませんでしたが、聞いているこちらの方がなぜか切なくなってくる。
もう戻れない、もう戻ることもない、もう何も残っていない。
貧しくとも人のつながりや自然の恵みに助けられながら暮らした祈りの村は「地図から消えた町」となった。



余談になりますが、変な虫がいたのを発見!
からじ結いの髪形に大笑いしたような顔に見える虫。こいつ何て虫だろう?
(後日判明。アカスジキンカメムシ終齢(5齢)幼虫でした。)




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「白鳥と古代史(芦野泉)」後編~東近江市の古代白鳥の足跡を辿る~

2021-10-14 17:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「白鳥と古代史(芦野泉)」によると、古代は「白鳥(シラトリ)」のことをハクチョウ・コウノトリ・ツル、場合によってはシラサギを含めた総称としており、白鳥に関係する地名が全国的に数多く残ると書かれています。
また、その地名を線で結ぶと北北西24度の線となる場所が多く、この方向は日本海を横断して渡りを行う白鳥のルートを示していると考察されています。

前回は東近江市の最奥の甲津畑集落から和南集落へ下り、平野部に祀られる5つの「白鳥神社」を目指すところまで来ました。
甲津畑・和南・多度神社(和南)は全て白鳥由来の地名であり、そのルートは東近江市南東にある「白鳥神社」を経て、琵琶湖近くにある「白鳥神社」まで北北西の1本の線上にあるといえます。



<池之脇町の白鳥神社>

東近江市の南東部(日野町との境辺り)の一帯には「白鳥神社」が4社祀られ、他にも近隣に「若宮白鳥神社」「白鳥若宮神社」が祀られている地域です。
滋賀県では「白鳥神社」は東近江市にしか確認できないという特異な傾向があり、まず最初にもっとも東にある池之脇町の「白鳥神社」から参拝します。



あっ!と驚いたのは神社の鳥居の先に勧請縄が掛けられていたことです。
勧請縄は“集落の入口や鎮守の参道に大縄を掛け渡し、魔除けとして集落を守り、人々の安全や五穀豊穣を祈願する年頭行事”とされていて年初に掛けられるものです。
10月の中旬のこの時期に勧請縄があるとは思ってもいず、これは勧請縄の行事が今も色濃く残っている東近江市ならではということになります。

今年は年初から2ヶ月くらいかけて滋賀県の勧請縄を見て歩いたのですが、それは全県のごく一部でしかなく、まだ見たことのない勧請縄が県内には数多くあります。
白鳥のルートを追いかけて参拝した「白鳥神社」でまさか勧請縄が見れるとは!



トリクグラズはさすがに枯葉になってしまっていますが、祈祷札は充分に読み取れます。
「天下泰平・五穀豊穣・息災延寿・交通安全」。祈祷札は湖東地方で多くみられる印象があります。



本殿へは石段を登ってお参りします。
御祭神は日本武尊。本堂は山麓にひっそりと祀られています。





この辺りの田園地帯は、広々として見晴らしが良い。
なんとも長閑な田園風景が続きます。



<高木町の白鳥神社>

次に参拝した「白鳥神社」は高木町に祀られた白鳥神社です。
この白鳥神社にも勧請縄が掛けられており、トリクグラズもすっかり茶色に変わってはいるものの、形が確認できる。





高木町の白鳥神社の御祭神も池之脇町の白鳥神社と同様に「日本武尊」で、“社伝によれば古日本武尊此地に薨去あり、依て当社に祀る”と伝わります。
伊吹山に日本武尊(ヤマトタケル)が山の神と戦って、傷ついて亡くなった後にハクチョウに姿を変えて飛び去ったという伝説があり、ヤマトタケルとハクチョウとの関係が気になります。
「白鳥と古代史」では“伊吹山で傷ついたヤマトタケルがハクチョウに姿を変えた伝説”についても解明されており、“余呉湖の羽衣伝説(ハクチョウ)”についても考察がされています。

高木町の白鳥神社の拝殿・本殿ともに立派な造りとなっていて、歴史を感じさせる建物になっています。
滋賀県の古くからの農村部や山麓の集落には立派な神社が多く、信仰の深さを感じることが多々あります。





高木町の田園も片側は山になっていますが、広々とした田圃が広がります。
古代の湿田とは姿を変えているはずとはいえ、白鳥が飛来してきて越冬しても不思議ではない感じがしますね。



<市原野町の白鳥神社>

続いて3社目となる白鳥神社は、市原野町にお祀りされています。
市原野町の白鳥神社にも勧請縄が掛けられており、掛けられた主縄は太く、大きな頭は両端に付けられている力強い勧請縄です。
すでに取り外されていましたが、この神社の勧請縄には小縄は下げられず、蛇を形取ったような細い縄を七曲り・五曲がり・三曲がりにして割竹に串刺しして御幣のように3本立てるそうです。





最初、4社の白鳥神社は小さな祠のようなものが祀られているだけかと思っていたのですが、想像は外れてどの白鳥神社も立派な社殿なので驚きます。
それだけ東近江市(旧永源寺地域)は信仰の篤い地域だったことが伺われ、今も守り続けられていることに感銘致します。



<石谷町の白鳥神社>

さて、東近江市東南部の「白鳥神社」は石谷町の白鳥神社が最後になります。
この神社には勧請縄はありませんでしたが、年初には両端に頭の付いた勧請縄が掛けられ、中央にはトリクグラズが吊るされるそうです。



この石谷町の白鳥神社も立派な神社となっていて参道の両脇の樹木の奥に見える拝殿と奥にある本殿からは、落ち着いた佇まいが感じられます。
石谷町の白鳥神社も池之脇町や高木町の白鳥神社と同様に御祭神は「日本武尊」を祀ります。





ここまで参拝した4社の白鳥神社の中で、石谷町の白鳥神社だけが平地のど真ん中に祀られていました。
日野町側の山の下には棚田も見えますが、残りの3方向は蒲生野の平野が広がる立地です。



この旧永源寺エリアの白鳥神社から琵琶湖近くにある種町「白鳥神社」までは20キロ程度の距離があります。
愛知川を中流域から下流域に向かうイメージで、道中の左方向には太郎坊宮のある赤神山や安土城のあった安土山がある位置関係です。

<種町の白鳥神社>

種町「白鳥神社」は、天平時代に行基が勧請したと伝わる寺院で、この白鳥神社でも御祭神に「日本武尊」を祀ります。
種町の平野部は琵琶湖近くとはいえ少し距離がありますが、内湖の多かった湖東地方からすると、ここより琵琶湖寄りは内湖になっていた可能性もあります。
神社は武家の崇高が厚かったといい、社紋の「丸に2つ引」は足利将軍家より奉られたものと伝わりますが、明治28年に村中に大火があり、類焼したが同33年10月再建したとされる社殿です。



境内社は「日吉神社・野神神社・稲荷神社」の3社で、境内社と本殿の間には奉納されたツルの像が祀られている。
「白鳥神社」にツルの像を祀るのは、神社名や縁起物の意味合いもあると思いますが、白鳥(シラトリ)の古代史を感じてしまうのは自分だけでしょうか。



種町の白鳥神社には少し離れた場所に奥宮址が2カ所あり、畑の一角に石標のみが残る場所と、石碑と石標が残る広い場所がありました。
そこに置かれた石碑には「丸に2つ引」の社紋が彫られた石碑があり、これが足利将軍家より奉られたという社紋なのでしょう。



「白鳥と古代史」を巡る東近江の短い旅はこれで終わりです。
この冬に飛来してくる白鳥(シラトリ)への想いも新たに、新鮮な出会いとなりそうです。


(過去撮影の写真)


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「白鳥と古代史(芦野泉)」前編~東近江市の古代白鳥の足跡を辿る~

2021-10-10 18:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県各所の最奥の集落を巡ることが多いのですが、地名に似通った字が使われていたり、同じ地名の場所が同じような地形のところにあるのを不思議に感じていました。
例えば、君ヶ畑・大君ヶ畑・甲津畑・今畑・畑などの「○○畑」は、山中の奥地のような集落の地名となっており、山に向かって最奥の湖東の集落には甲津原・甲頭倉・甲津畑など「甲津○○」の地名があります。
甲賀と名の付く集落も米原市と甲賀市にあり、甲が付く地名は滋賀県に数多く数えられます。

この甲の付く地名に関して、「白鳥と古代史(芦野泉)」という本を紹介してくださった方がおられて、さっそく読んでみたところ白鳥の渡りのルートと地名との関係を始め、数々の謎を解明する内容に驚くばかりでした。
作者の芦野泉さんは、古代史家であると共に白鳥研究家で、古代白鳥を主要テーマとして古代史研究をされている方と作者紹介されている方です。



古代白鳥と地名のつながりは、鳴き声などの擬音語に由来するといい、古代白鳥と人間(初期農耕)との関係から幾つかの地名の由来となっており、例えば「甲」は白鳥の鳴き声「コウ」に文字を当てはめていったものとあります。
さらに興味深いのは、白鳥の渡りのルート(北北西24度)線上に古代白鳥に由来する地名や神社があり、東北地方を除く本州・四国・九州にその線が確認できるのだと考察されています。
尚、この場合の「白鳥(シラトリ)」は、ハクチョウ・コウノトリ・ツル、場合によってはシラサギを含めた総称とされています。

グーグルマップで確認したところ、東近江市には甲津畑集落→和南→多度神社が北北西の線上にあり、谷あいの地形から広い田園地帯に出た辺りには「白鳥神社」が4社確認できます。(他に若宮白鳥、白鳥若宮もあり)
北北西の方向で琵琶湖を目指すと琵琶湖近くの能登川町との境辺りにも「白鳥神社」があり、滋賀県内ではこの一帯でしか白鳥神社は検索でヒットしません。



古代白鳥と初期農耕との関係は、高地湿地で白鳥の糞が肥料として効果が高かったとされ、山に挟まれた谷あいの甲津畑は高度が高いと想像されますので、該当しているように思えます。
また、甲津畑をグーグルマップの航空写真で見ると、白鳥の頭のような地形(甲頭)にも見えます。これは伊吹山麓の甲津原にも同様のことがいえますので地形の影響もあるのかもしれません。


(甲津畑集落)

甲津畑の向こうは鈴鹿山系になるドンツキの場所に甲津畑集落はあり、田圃は山が迫っている場所に棚田が作られています。
シラサギが一羽いましたが、棚田に白鳥(シロトリ)が多数飛来して、糞によって田圃を豊かにしていたのかと想像を膨らませてみます。


(甲津畑集落の棚田)


(棚田のシラサギ)

甲津畑集落と隣接する和南は、棚田の多い甲津畑よりも田圃が少し広くなったような印象を受ける場所です。
「和南」の語源は、わな網から来ているとあり、鳥がよく集まり、網に気付かれにくく、鳥が掛かった時に人が容易に近づける場所を表す地名と書かれてあります。
他にも古代からの長い年月とともに字や読みが変わった地名として「川並・和野・難波」などが紹介されています。


(和南集落の棚田、手前は和南川)


(和南集落の田圃)

和南集落の中へ入っていくと「多度神社」が祀られており、「多度(タド)」も田鶴(タヅ)」からの変形の可能性が考えられるとあり、白鳥に由来する地名の系統とされています。
初期農耕の時代の収穫量は現在とは比較にならないようなごく僅かだったと考えられているといい、冬の季節に飛来して田圃に残す白鳥の糞は肥料として有効だったとあります。

田圃に恵みを与えてくれる白鳥をありがたいものとして祀ったのも当然のことなのかもしれません。
本では糞の肥料効果についても分析がされていますが、逆に白鳥による食害によって追い出さざるを得なかった歴史や食鳥の歴史についても語られています。



多度神社の御祭神は、製鉄・鍛冶の神とされる「天之御影神」で、伊勢国多度大社より勧請して氏神として祀るとされます。
和南集落に製鉄・鍛冶の神を祀る意味は分かりませんが、後方の鈴鹿山脈には複数の鉱山があったとされますから、鉱山と和南に何か関係があったのかもしれません。



本殿の横の道を進むと「多度神社 奥宮」の社が祀られています。
あまりにも距離が近いので、もしかすると奥宮はかつて山の上にあったのを遷移したことも考えられます。



奥宮の境内には幾つかの遥拝所があり、「皇大神宮・多賀大社・愛宕神社・桃山御陵・神武天皇」と書かれた柱が立ちます。
尚、和南城跡は奥の獣害防止柵の奥から登ることになり、山中には城址跡が残っているようです。
「和南城」は南北朝期に築城され、1563年の和南山合戦(近江小倉氏が信長の千種越えに協力したため六角義賢に攻め滅ぼされた)で焼失したとされます。



白鳥の首のような谷あいの地域から平野の広がる山上集落へ出ると、蒲生野へと続く広い田園地帯に出ます。
ここから先には日野町との境の山に沿って「白鳥神社」が4社並び、北方向には「若宮白鳥神社」や「白鳥若宮神社」が地図上に確認できます。
滋賀県の白鳥神社は、東近江市の南東のこの一帯と東近江市の北西にあたる琵琶湖近くの1社しか滋賀県内には白鳥神社は存在しないようです。

ところで、広い田園地帯に出て「白鳥神社」を目指して進んで行った時に、野神さんの碑を見つけました。
野神信仰は滋賀県の湖北地方に多いのですが、東近江市や日野町などの湖東や湖南地方にもある五穀豊穣などを祈念する民俗信仰です。



さて、この後に「白鳥神社」5社に参拝しましたが、あまりにも話が長くなりますので、ここで一旦話を打ち切り前編・後編の2回に分割します。
「白鳥神社」は祠がある程度の神社かと思いきや、立派な神社揃いで勧請縄まで見ることができ、白鳥による豊かな実りに感謝してきた先人の気持ちの名残りを感じることが出来ました。


(過去撮影の写真)

白鳥はどんなルートで渡っていくのか、ガンカモ類重要生息地ネットワーク支援・鳥類学研究者グループの「米子水鳥公園におけるコハクチョウの発信器による調査」資料を確認しました。
資料によると、白鳥の渡りのルートは、列島内の移動・日本列島沿いの移動と共に日本海を渡る渡りのルートが確認されています。
古代白鳥が列島を横断して日本海に向かっていく際に北北西へ向かった可能性は充分にありそうです。...後編に続く。


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「円山神社の御影大岩」~近江八幡市円山町~

2021-10-07 07:10:10 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江八幡市には「重要文化的景観」の選定を受けている「近江八幡の水郷」があり、西の湖・長命寺川・八幡堀と周辺のヨシ地、円山・白王の里山とその周辺の水田の約354ヘクタールが選定されています。
「重要文化的景観」は、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」と定義。
全国では現在70件選定されているといいます。

滋賀県で剪定されている重要文化的景観は、高島市海津・西浜・知内の水辺景観・市針江・霜降の水辺景観・大溝の水辺景観(高島市)、東草野の山村景観(米原市)。
菅浦の湖岸集落景観(長浜市)、伊庭内湖の農村景観(東近江市)があり、中でも「近江八幡の水郷」は重要文化的景観選定制度適用の第一号として選定されたそうです。



「近江八幡の水郷」の構成要素に含まれている「円山集落」は、ヨシの産地として知られ、ヨシ加工による簾(すだれ)や葭簀(よしず)などの高級夏用建具の製造が行われているといいます。
円山(標高183m)は、水郷めぐりの乗り場がある辺りから見ると、お椀を逆さに置いたような山で、その名前の通りの姿の山ですが、その山麓にある「円山神社」は巨岩を背にした本殿のある神社だという。



円山集落は西に八幡山、東に西の湖に挟まれ、集落の中に円山がある集落で、民家は円山の周囲を取り囲むような山麓に立ち並びます。
「圓山神社」「毘沙門天王」の石標が両脇に立つ鳥居を抜けると、100段くらいの石段があります。



石段の横に最初に見えてくるのは地蔵堂。
玉垣に囲まれてお祀りされており、祠を修復しながら守り続けている様子が伺えます。



最初の100段ほどの石段を登りきると、横のスペースに「寶珠寺」という天台宗の寺院がありました。
「寶珠寺」は、1754年に澄尭大和尚によって中興された寺院だといい、奥の収蔵庫には国の重要文化財の本尊毘沙門天が安置されているようです。

寶珠寺本堂は老朽化が著しい状態だったものの、「近江八幡の水郷」が重要文化的景観の構成要素として選定されたことから2007年に修理工事が行われたといいます。
修復工事に伴い発見された棟札には1847年とあり、現在の本堂が弘化四年に造立されたことが記されているそうです。



寶珠寺から先は少し傾斜のある石段が約50段。
キジバトとヒヨドリのにぎやかな声を聞きながら登ります。



石段を登り終えると開けた場所に出ることができ、拝殿と本殿が見えてきます。
この位置からでも本堂の後ろの大岩は見えており、想像していた以上の大きさに驚きは隠せない。



「円山神社」は御祭神に「天津彦火瓊瓊杵尊」を祀り、天照大神の孫にあたるこの神は三種の神器とともに日向の高千穂峰に天降ったとされ、稲作をもたらした農業の神として祀られることが多いといいます。
左に「祇園神社」「津島神社」「愛宕神社」、右に「行事神社」の境内社に挟まれ、中央には大岩を背にして本殿が建ちます。



今にも本殿に倒れ掛かってくるような大岩ですが、絶妙のバランスで座っています。
円山の守護神のように祀られる大岩は、磐座として円山集落を守り続けてきたのでしょう。





社殿を右側から見ても大岩の大きさが目立ちます。
近江八幡市の市街地に行くたびに何度も近くを通っているにも関わらず、こんな神社があったのは全く知らず、湖東の琵琶湖側にも巨石信仰が何ヶ所か見られることに驚きを感じます。





参拝を終えて合計150段ほどの石段を降りていきます。
円山集落は、神社の鳥居を出るとすぐに西の湖畔に出ることになり、葦原の中の水路が見えてきます。





ところで、円山集落はヨシの産地・簾(すだれ)や葭簀(よしず)などの高級夏用建具の製造地とされており、西の湖の近くにはヨシの倉庫のような場所があります。
加工待ちのヨシが保管されているのかと思いますが、現在はどの程度の製品が流通しているのでしょうか。



稲を干すハサのような場所に掛けられているヨシは、もう色が変わってツタのような植物が茂ってしまっていますので、これはもう使わないヨシなのかもしれません。
ヨシの群生は、水質浄化の役割に加えて野鳥や魚たちの生息や繁殖地となり、人の暮らしや祭事にも使われて共生してきたものです。
近年では「西の湖 ヨシ灯り展」や「ヨシ笛コンサート」などが開催されて、ヨシの保全に役立っているようですね。



帰り道には面白いカカシが3体あり。
チコちゃんに叱られる!のチコちゃんとキヨエ?
一番右はお菓子のカールのおじさんでしょうか?



最後に円山と田園風景です。
円山は、字の通りに丸い山に見える場所と、横長に見える場所があります。
湖東地方に火まつりの神事が多いのは、ヨシの供給量が豊富だからなのかとふと思う。




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東近江市のカカシ畑(案山子街道)~東近江市山上町~

2021-10-03 17:15:15 | アート・ライブ・読書
 田園や畑の広がる場所を移動していて、ふと案山子(カカシ)を見かけると、つい写真に撮りたくなります。
近江八幡市のボーダレス・アートミュージアムNO-MAでもこれまで東近江市の小西さんのカカシを企画展で展示が企画され、そのリアルさとユニークさには随分と楽しませて頂いていました。

一年前に開催されたボーダレス・エリア近江八幡芸術祭『ちかくのまち』の西の湖畔では“コロナウイルスを殺菌しているカカシ”なども展示され、時代を反映するようなカカシも登場しました。
今回、東近江市に立ち寄った際に、小西さんの「案山子街道」まで足を伸ばしてカカシの畑をのぞいてみることにしました。



バス停にはバス待ちの方が並んでおられます。もちろんカカシです。
「ちょこっとバス」は、東近江市のコミュニティバスのことのようですが、ここは本物のバス停なのでしょうか?



“一旦停止 左右確認”の看板の横には手押し車を押して歩くおばあさんのカカシ。
ドキッ!とする姿ですので、思わず車のスピードを落としそうですね。



道路の反対側には自転車に乗る中学生とその奥には飛び出し坊やの姿も見えます。
この交差点は車と自転車の出会い頭の事故が多かったそうですが、このカカシは交通事故防止に一役かっているそうです。



バス停の横の空き地で石を積んでいるおばあさんがいましたが、ほんとリアルですね。
今にも動き出しそうな姿です。



この集落には達者なおばあさんが畑仕事をしていることが多く、あちこちの畑で同じような衣装のおばあさんを見て、あれはカカシか人間かと迷うことになります。
畑仕事をしているおばあさんは同じような服を着て、同じような姿勢で作業されてますから間違うのですが、そもそもそういったおばあさんをモデルにしているのでしょうから似るのは当たり前ですよね。



梯子に乗って作業しているおじさんを支えるおばさん。
“落ちないようにしてくださいよ”と心配しそうになる姿。



こちらは脚立に乗って作業するおじさんとネコ車で何やら運んでいるおばさん。
後ろの田圃は稲刈りが終わって精米した後のもみ殻が田圃に積まれていますね。
田圃でもみ殻焼きをされていると、なんともいい匂いだと感じてしまいます。



畑では何人ものカカシが作業中。
普通のカカシ(シンプルな一般的なカカシ)がいるのも気が利いていている。





見ていて飽きないカカシたちですが、ちょうどこの一帯の田園風景ににとけ込んでいて違和感を感じません。
ここまでリアルなのは稼動する関節を作って、人間らしくみせているからのようですが、むしろ人間以上のリアルさを感じてしまいます。



どのカカシも勤勉に働いていると思いきや、昼間っからビールを飲んでいるカカシもいます。
頬が真っ赤になっていますが、どれだけ飲んだんでしょうね。



姿はリアルなカカシですが、顔はカカシらしい“へのへのもへじ”のアンバランスさも面白い。
このカカシは左手の肘にセミの抜け殻を2個付けていますが、細かいところにもジョークが散りばめてあります。



畑仕事に精を出して疲れましたので、家へ帰って休むとしますかとでも言いたげな後ろ姿でサヨウナラ。
このカカシの畑に居た時も楽しかったけど、帰り道に“カカシみたいな恰好で作業する畑のおばあさん”を見る度に、笑えることではないのに思わず笑えてしまえましたよ。




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