僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~岐阜市 金神社~

2018-02-28 18:46:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 欲に囚われてあさましいことをしてはいけないとは思いつつも、宝くじ当選の祈願で金運・財運の神にお参りに行きました。
お参りしたのは岐阜県の歓楽街・柳ケ瀬の近くにある「金神社(こがね)」で、この柳ケ瀬界隈は商店が並ぶ繁華街であるとともに岐阜でも有数の夜の街であり、ある意味で欲が渦巻くような場所と言えるかもしれません。
とはいっても、金神社は次々と地元の方らしき人が参拝に訪れる地に根ざした神社の印象の方が強かったですね。



何といっても驚くのは鳥居が金一色になっていたことでしょうか。この大きさの鳥居が金色に塗られているのは初めて見ました。
いかにもお金と縁が結ばれそうな鳥居に“いかにも御利益がありそう!”と、今回はちょっとおかしな神社参詣になってしまいました。





手水舎には奉納された尺が並んでおり、並びきれず横の棚に置いてある尺の中には誰でも知っている有名なアスリートの名前までありました。
それだけ各方面の方から信仰されている神社なんでしょうね。



手水の裏へ回ることが出来ましたが、この龍は立ち上がって水を吐いているのが分かります。
あまり手水を裏側から見たことはありませんけど、妙に愛嬌のある龍の姿ですね。
また、金神社では毎月最終金曜日には御朱印が金色字で書かれるため、御朱印を求めて大行列が出来る人気ぶりだそうですよ。



御祭神は「金大神」を主祭神に「渟熨斗姫命」「市隼雄命」「五十瓊敷入彦命」「日葉酢姫命」の4柱を祀るとされており、産業繁栄、財宝・金運招福、商売繁盛の御神徳あらたかな神として信仰を集めていると由緒書にあります。
神社の規模自体はそれほど大きくはありませんが、禰宜や巫の方が数名居られましたので、由緒のとおり繁栄した神社であるようです。



本殿や隣に続く金祥稲荷神社や裏側にある境内末社では何人かの方が掃き掃除をされ、鳥居も長い棒で拭き掃除される方がおられましたので、よく手入れされている神社なんだなと感心致します。
二礼二拍手一礼の時にはお参りできたお礼と、次は当選のお礼参りに来させて欲しいと少し欲張ったお願いをさせていただきました。



本殿と金祥稲荷神社の裏側には境内末社がありましたので、そちらにも併せて参拝させていただきました。
末社は「賀夫良城社」「金高椅神社」「猿田彦神社」「秋葉神社」「神明神社」「物部神社」「玉姫神社」と並びます。





さて、金神社にはもう一つ鳥居があり、そちらの鳥居を出た方向は柳ケ瀬の繁華街方向にあたります。
金運がついたかどうかは分かりませんが、その足で宝くじ売り場へ...。



この後、久しぶりとなる柳ケ瀬商店街のアーケードを少し歩いてみました。
近年は各地で古い商店街は活気を失っていることが多いですが、この商店街には昔ながらの昭和のレトロさと新しい店舗が入り混じり、活気は全く失われていないように見えます。
柳ケ瀬の街は、街の持つ活気と神社が発する活気が両方感じられる面白い街ですね。


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「はじまりは伊藤若冲」~細見美術館 細見コレクションの江戸絵画~

2018-02-24 16:48:28 | アート・ライブ・読書
 2016年に伊藤若冲の生誕300年を記念した美術展が大盛況だったのはネットや新聞で見ていましたが、その時は若冲を見る機会を逸してしまいました。
一度は自分の目で見てみたいと思っていたところ、京都の細見美術館で若冲展が開催されていましたので今回初めての若冲となりました。
伊藤若冲に対するイメージは、色彩豊かな鶏が折り重なるように描かれた濃密な絵という印象がありましたが、これはいい意味で裏切られましたね。



細見美術館は日本美術コレクター・細見亮市から3代に渡って集めた3000点以上ともいわれるコレクションを基礎として開館された美術館で、今回の若冲展は細見美術館の開館20周年記念展の第1回目の企画として開催されています。
初代の細見亮市という方は兵庫県の日本海側の村に生まれ、13歳の時に単身大阪に出て毛織物業界に見習いとして入り、毛織物製造・販売で財を成した方のようですので立身出世を果たした人なのでしょう。

亮市氏は30歳になる頃から美術品の蒐集を始めたそうですが、贋物をつかまされたりしながらも、それを肥やしとしながら鑑定眼を養われていかれたようです。
1998年に開館された細見美術館は、日本の美術品の展示館とは異質な雰囲気のある現代的なアートスペースになっていて、非常に垢抜けた美術館だと思います。



若冲展では美術館所蔵の若冲の作品約20点が展示されていましたが、多岐にわたる技法を駆使した若冲の作品がバランスよくコレクションされているように感じます。
また、展示会では若冲の他にも俵屋宗達・尾形光琳・池大雅などの作品も展示されていますので、日本画をダイジェスト的にも楽しめるものでした。

絵師・若冲について詳しい事は知らないのですが、「奇想の画家」と呼ばれる若冲の作品にはデザイン性の高さ、精密さ、ユーモラスさなどが感じられ、全て同じ絵師が描いたのか?と思ってしまうほど作品に違いがみられます。
下は「鶏図押絵貼屏風」の6枚の絵のうちの1枚で、墨の濃淡で描かれた鶏には躍動感が溢れているように感じます。
絵は6曲1双になっており、他の5枚には番の鶏だったり、ヒヨコを連れた番だったりと情緒豊かな屏風絵になっていました。



若冲の絵をみているとモチーフに生きものを使っている絵が非常に多く、特に鶏にはこだわりがあるのか何枚もの鶏の絵がありました。
下の「雪中雄鶏図」は雪の中で餌を探す雄鶏の精密な絵です。
この系統の鮮やかで派手な絵は、一般に若冲の代名詞のようになっている絵ですね。



「糸瓜群虫図」の絵の中には虫を中心とした11匹の生きものが描かれています。
若冲の絵には鶏をはじめとする鳥類の他にもモンシロチョウなどごく身近な生きものや、同じ方向へ向かって泳ぐ魚類の博物学的な絵、実際にはありそうでないような想像も含めた作品などがあります。
一度見ただけではつかみどころのない絵師だと感じてしまいます。

個人的には「糸瓜群虫図」などの絵を見ていると今森光彦さんを思い浮かべてしまいます。
一瞬を切り取った思いもかけない身近な生き物の姿を描写するということでは共通する面があると思います。



色彩豊かな華麗な作品群や生きものをモチーフとした絵とは別に「鼠婚礼図」などは非常にユーモラスな絵です。
鼠の婚礼に既に酔いの回った鼠が尾を引かれて到着しましたが、宴席から迎えに行こうとする鼠までいるというにぎやかな宴席を描いた何ともいえない愛嬌のある姿です。



展示作品には他にも「仔犬に箒図」「海老図」「瓢箪・牡丹図」などの水墨画とともに、独創的な「伏見人形図」などが展示されていて若冲の作品の幅の広さが分かります。
もっと若冲のことが知りたいと思って若冲の入門書を購入しましたが、本で紹介されている絵にはさらに奥の深い絵師・若冲の姿が伺われます。



細見美術館には平日にも関わらず、次々と来場者があり盛況な様子でした。
それだけ世の中には若冲ファンや若冲に興味のある人が多いということですが、もっともっと数多くの作品を観てみたい!と思える絵師だということには違いはありませんね。


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御朱印蒐集~京都 北区 龍宝山 大徳寺~

2018-02-18 17:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 臨済宗には大本山寺院が15の本山があり、その中で過去に訪れた臨済宗の大本山寺院は「萬福寺」「南禅寺」「東福寺」「建仁寺」などがありますが、「龍宝山 大徳寺」も臨済宗の大本山(大徳寺派)の一山に数えられます。
“なぜ臨済宗の大本山が幾つもの派に分かれているのか?”の理由は知りませんが、臨済宗以外の宗派でもいろいろな各派の大本山・総本山が見られますので、派による教え(師)の違いということがあるのかもしれませんね。

京都の市街を車で走行中に偶然「大徳寺」の前を通りがかり急遽参拝に訪れたのですが、「大徳寺」の境内のあまりの大きさには驚かされてしまいました。
予備知識なく参拝したため、広い境内の何処へ向かえばよいかも分からず、山内図を見ながらひたすら境内を歩き回る寺院巡りとなりました。



大徳寺は1315年に大燈国師(宗峰妙超)が開山したと伝えられ、応仁の乱で荒廃するものの室町時代には「一休宗純(あの一休さん!)」が復興したという歴史があるようです。
また桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営んだのも大徳寺であったといいますから、日本史に深く関わってきた寺院といえます。



駐車場を出て歩き出すと、間もなく勅使門が見えてきます。
勅使門は御所の門を下賜されて1640年に移築したとされる門で重要文化財に指定されている四脚門です。

三門も重要文化財に指定されており、秀吉と利休の決裂を伝える有名な話の舞台となった所です。
“千利休が1589年に上層を完成させて「金毛閣」としたところ、寺が利休の恩に報いるため、利休の木造を安置。このため門を通る者は利休の足の下を通ることになり、秀吉による利休切腹の一因になった。”
利休の仏像が安置されたことが切腹の直接の原因になった訳ではないのでしょうけど、歴史上の逸話には言いがかりめいた話がよく残されていますね。





三門の先には「仏殿」があり、唯一内部を観ることが出来ました。
1665年に再建されたという須弥壇には御本尊である釈迦如来坐像が祀られており禅宗の佇まいを感じる堂内でしたが、天井絵は劣化してしまったのか絵柄は全く読み取ることができませんでした。
仏殿の前を横切るように枝が伸びているのが樹齢350年といわれるイブキの木で、京都市指定天然記念物になっているようです。





勅使門から直線上に「三門」「仏殿」「法堂」と続きますが、法堂(重要文化財)は参道からしか見ることが出来ません。
1636年の建立で狩野探幽の「雲龍図」が描かれているそうですが、観られるのは特別開帳の時だけのようですね。



大徳寺には何と24の塔頭寺院があり、松の木の並木が続く参道には塔頭寺院が次々と並んでいます。
しかもそれぞれ小さな寺院よりも遥かに大きな寺院になっており、それぞれ立派な門を構えた中には本堂や僧坊があります。
ほとんどの塔頭は参詣禁止の寺院が多く、拝観可能な塔頭寺院を探し歩きながらの散策です。



松の並木が続く参道の両脇に壁に囲まれた塔頭寺院が並び建っているのは、それぞれの塔頭寺院が戦国武将などの菩提寺として庇護されたこともあるのでしょう。
参道を歩いていったら北門に辿り着きましたが、門を出た先は北大路通り。再び引返します。




拝観が可能だったのは塔頭寺院が4寺だけでしたが、その内の2つの塔頭を拝観することにしました。
最初に拝観したのは「大仙院(書院庭園)」という大徳寺4派(他に真珠庵・龍泉庵・龍源院)の一つに数えられる寺院です。



室町時代に建てられたという「本堂」は国宝建築物です。
特別名勝および名勝の「庭園」、重要文化財の「書院」と看板に書かれてあり、建築はもとより庭園が素晴らしい塔頭です。
まず門構えがあり、境内には広い本堂が拡がっていましたが、こんな規模の塔頭寺院が点在するのではなく参道続きで並び建つのですから驚かされてしまいます。





庭園は特別名勝・史跡になっている庭園だけあって枯山水のことがよく分からない当方でも思わずハッとするような庭園でした。
鴬張りの廊下の廊下を歩きながら庭園を見て歩くのですが、この寺院は内部はともかく庭までが撮影禁止になっています。(写真は大仙院の看板)

案内の方が丁寧な説明で薀蓄(うんちく)のある言葉を紹介して下さいましたが、その言葉は大仙院の閑栖(隠居した禅僧)の言葉だそうです。
著書も多く出されており個性的な魅力のある方のようですが、分かりやすい言葉で語りかけて自身を見直しつつも元気になれるような言葉だと感じました。







もう一つ訪れた塔頭寺院は「龍源院」でした。
「方丈」「玄関」「表門」全てが重要文化財になっており、方丈は大徳寺山内で最古の建物とされる1502年に建立された建物だそうです。
部屋の中には蒔絵の基盤が展示されていますが、この基盤は豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられている基盤だと伝えられています。





龍源院には方丈の三方に3つの庭園と庫裡に1つの庭園とがあり、それぞれ「龍吟庭」「一枝坦」「東滴壺」「阿・吽の石庭」と名付けられています。
とはいえ、やはり庭のことはよく分かりませんね。難しく考えず楽しめばよいのかもしれませんが...。







全くの偶然で、思いつきのように立ち寄った大徳寺でしたが、その規模と塔頭寺院の多さ・見事さには大変驚くことになりました。
有名寺院とはいえど、やはり実際に訪れてみないと分らないことが多いですね。


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日本と中国のアールブリュット「共融地点」~アールブリュット国際フォーラム2018~

2018-02-12 17:17:17 | アート・ライブ・読書
 大津プリンスホテルでは2月9日から11日の3日間、障がい者やアールブリュットに関する企画展『共融地点』『アールブリュット国際フォーラム2018』が開催されました。
1階では2泊3日の宿泊による『第22回アメニティーフォーラム』が開催され、障がい者に関する講義やワークショップ、コンサート(小室等)・映画上映、ポスターセッションなどが行われ、活発な議論がされていたようです。

アールブリュットの企画展「共融地点」は2階のコンベンションホールで開催されており、同じく2階で開催されていた「国際フォーラム2018」の一部を聴講してから、「共融地点」の会場へと向かいました。
「国際フォーラム2018」では、今回の企画展「共融地点」のキュレータ-をされている石塚亜希子さんのプレゼンテーションを聴かせていただきましたが、手話や字幕でも講義の内容を伝える会場の雰囲気といい、逐一メモを取りながら講義を聴く聴衆者の熱心さといい、たいへん緊張感のある講義だったと思います。



内容としては「社会学的な視点からのアールブリュットの調査研究」「中国におけるアールブリュットの現状」を中心として、“アールブリュットの社会学的な定義について”・“中国の様々なアクターによるネットワークの国内外への拡がりについて”の講義でした。
李忠東(リ・ジョンドン)という中国の作家の作品を例にとって、独自に造形表現していたモノが翻訳されて作品からアールブリュットへ昇華されていく過程についても語られていて、作家・支援者・キュレーター・聴衆者・アートとしてのアールブリュットの領域についての説明をしてくださいました。

主体としては「アクターネットワーク理論」という言葉を使って説明をされており、分かりやすいように説明はされていたものの、理解するのは中々難易度が高い内容で頭を捻りながらの聴講です。
今回キュレーターを務められた「共融地点」のタイトルは化学の領域でいう“融点”をベースにしていると言われますから、「共融地点」とは“個体と液体が共有して融け合うような場所”とでも理解すればよいのでしょうか。



会場には「Ⅰ 観察記 街、車、人.....」「Ⅱ パーツとパターン」「Ⅲ こころの風景」「Ⅳ 呼吸のように」「Ⅴ 日々の暮らしを綴る」の5つのゾーンに31名の作家の作品が約150点展示されている規模の大きな企画展です。
日本の作家では「宮川隆」「本城直」「土屋正彦」「澤田真一」など他の企画展でも馴染みのある作家さんの作品がありましたが、意外だったのは粘土造形作家として数多くの魅力的な作品を造られている澤田真一さんの作品が、今回は紙で造った精巧な車模型の作品だったのには驚かされました。

初めて見た作家の方の作品も、「石原峯明」さんはドットとマーカーの塗りつぶしで幻想的でデザイン性の素晴らしい作品でしたし、「与那嶺俊」さんはたくさんの地球に妖しい花と塔の大きな絵にメモのような無数の書き込みがされた作品で大作揃いで見応え充分。「西之原清香」さんの絵はつい蛭子能収の絵を連想してしまいそうになる無感情・無機質に笑う人が連なる興味深い作品です。

「林田嶺一」さんの作品は昔の映画の一場面のような作品で、“木を組み合わせたキャンバスにレトロでモダンでありつつも幻のようにありえないものが描かれている”。思わず気持ちが引きづられそうになるノスタルジックな作品です。
これは林田さんが満州国に生まれ、大連、ハルビン、上海、青島などを転々とした幼少期の記憶が影響しているようですね。



中国の作家の作品も日本のアールブリュット作品と同様に、精密で細かな線で色付けされた作品が多く見られ(「呉美飛」「三毛」「喬雨龍」「巴子」など)、15mもの長い絵巻の「ワン・ファ」さんの作品や仏教画のような「グオ・フォンイー」さんの作品。
山水画のような構図の中にコミカルな人物が描かれた「グオ・シウロン」さんの作品など多岐に渡った作品が並びます。

会場の出口近くに塗り絵ワークショップがありましたので「チャオ・ユーロン」さんのオリジナルな怪獣の下絵と、カンカカリヤ(宮古島の霊能者)として描く宮川隆さんの下絵をいただいて帰りました。
「チャオ・ユーロン」さんの細かい図柄をカラフルに塗り分けるのはちょっと難しそうですね。



キュレーターの石岡亜希子さんは案内文に
“文化や環境を異にした作者による、「表現の類似性と特有性に着目」していきます。日本と中国、主体と客体が融け合うように展示します。背景は様々でありながらも通底して見える物語を感じてください。”と書かれています。(抜粋)

各作家の持つ個別の背景や国や作風に違いはありますが、表現の類似性と特有性を感じ取れる構成になっているいい企画展だったと思います。
日中の作家の多くの作品が溶け合うように一堂に集められたこの企画展に今回訪れた意味は大きかったと感じています。


会場となった大津プリンスホテル


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御朱印蒐集~京都 上京区 瑞応山 千本釈迦堂 大報恩寺~

2018-02-09 18:50:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 寺院巡りを始めて2年、この期間にいったい何躰の仏像を拝観したのだろうと思うことがあります。
「三十三間堂の千体千手観音立像」の約千躰を除いたとしても、おそらく数百躰の仏像に出会ったと思います。
ひとつの寺院でも数躰の仏像が安置されていますし、他にも博物館や仏像展でも観ていますから今となっては全ての仏像を思い出すことは不可能になっています。

京都上京区の「千本釈迦堂大報恩寺」には、定慶作の「六観音像」や快慶作の「十大弟子像」が安置されていますので、仏像拝観を兼ねて参拝に訪れました。
千本釈迦堂は「北野天満宮」の近くにある寺院で、街中の一角の奥まった場所にある寺院でした。



「千本釈迦堂大報恩寺」は鎌倉初期の1227年、義空上人によって開創された寺とされます。
義空上人は奥州藤原氏の三代・藤原秀衡の孫と伝わる僧で、比叡山で修行した後、当地に大報恩寺を建立されたそうです。
余談になりますが、奥州藤原氏・秀衡の遺骸は現在も平泉にミイラとして現存しているようですね。



民家が連なる街中に忽然と寺標が現れるのが京都らしいところで、燈籠の並ぶ参道の奥には街道からでも山門と本堂が見えます。
山門の壁が五本筋塀になっているのは寺院の寺格を表す五本線となりますが、室町時代には将軍家からの帰依があったとされるの寺院ですからそれも頷ける話です。



本堂の前にあるのは「阿亀桜(おかめざくら)」と呼ばれる枝垂桜で、桜の季節にはさぞや美しい花を咲かせることでしょう。
桜の時期には観光の方も来られるのでしょうけど、むしろ近隣の方の憩いの花見場所になっているのかもしれませんね。



大報恩寺の本堂は1227年に棟上げされ、その後何度かの修理を経てきたとされます。
多大な被害をもたらせた応仁・文明の乱の時にも奇跡的に兵火を免れて、京洛最古の建造物として国宝に指定されている建築物です。





御本尊は、鎌倉時代の仏師・快慶の弟子・行快の作の「木造釈迦如来坐像(重文・像高約90cm)」が高御座式の厨子に安置されていますが、秘仏のため厨子の扉は閉められたままでした。
この「高御座式厨子と天蓋」も国宝に指定されており、須弥壇の奥の壁には同じく国宝の「本堂来迎板壁仏画」が描かれているようですが、外陣からは暗くて見えません。



須弥壇には「おかめさんの像」が座っていますが、実は千本釈迦堂は「おかめの物語」としても有名な寺院です。

本堂の造営の際、棟梁である高次が代りのない柱の寸法を切り誤って心憂していたのを見た妻のおかめが“いっそ斗組をほどこせばとアドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。
しかし、おかめは“女の助言により大任を果たし得たことが世間にもれ聞こえては...”と棟上式が行われる前に自害したとされます。

その逸話から“助け合う円満な夫婦でありたい”と願う方々が、おかめ信仰の寺院として参拝されるといわれます。
本堂の横では「おかめ人形展」が開催されており、“おかめ人形やおかめ面、おかめグッズ”などのおかめコレクションが展示されていました。



人形は愛嬌のあるおかめ人形やダルマ形のおかめさん、他にも生殖的に子孫繁栄を象徴するようなおかめ人形などがありましたが、能面のようなおかめ面の不気味な笑顔には妙な迫力を感じます。
境内にもおかめ像が祀られており、霊宝殿の鬼瓦もなんとおかめさんです。おかめさんと強いつながりの寺院だということが分かります。





さて、いよいよ本来の目的であった「霊宝殿」へと入ります。
まず室町時代作の一対の「太鼓縁」の巨大さに驚きます。片方には龍が彫られ、もう一方には鳳凰が彫られていますが、その高さは7mもある意表を突かれる工芸品でした。

どうしても見たかったのが定慶作の「六観音像(鎌倉期・重文)」で、如意輪・准胝・十一面・馬頭・千手・聖の六観音は見応え充分です。
像高も180cm近くあり(如意輪は坐像のため1m弱)、比較的近くから見られることもあって満足のいく拝観が叶いました。



また快慶作の「十大弟子像(鎌倉期・重文)」もリアリズムに徹した見事な出来栄えの仏像です。
他にも室町期の「傅大士と二童子像(重文)」、鎌倉期の「地蔵菩薩立像」、花まつりの「誕生釈迦仏」。
智拳印を結んだ室町期の「大日如来金銅坐像」、鎌倉期の「地蔵菩薩立像」、「毘沙門天(鎌倉期)」「阿弥陀如来坐像(鎌倉期)」、もう1躰の「大日如来坐像」と仏像の宝庫です。

興味深かったのは、定慶の「千手観音菩薩(鎌倉期)」と藤原期の「千手観音菩薩」の対比でしょうか。
鎌倉期の立体感のあるリアリズムの千手観音と、平安時代のふくよかさを感じる千手観音を見比べることが出来るのは大変ありがたいことでした。



境内には「北野経王堂願成就寺」と「不動明王堂」がありますが、「北野経王堂願成就寺」は北野天満宮の門前にあった寺院で、かつては三十三間堂の倍半という大きな大堂であったようです。(1401年)
その後、江戸時代に荒廃して1671年に千本釈迦堂の境内に縮小復元されたとされています。

北野天満宮は千本釈迦堂から近い場所にありますから、古くからのつながりがあったのかもしれません。
境内には弥勒菩薩の化身とされる「布袋尊」の石仏がありますが、これはおかめ像と並んで夫婦円満・子宝の神ということなのでしょう。



千本釈迦堂 大報恩寺は大きな寺院というよりも、街の中にある歴史のある寺院という印象を受けます。
しかし、霊宝殿に収納された仏像群は実に素晴らしいものでした。
仏像の凄さの魅力の反面で、「おかめ信仰」や「大根焚き」の行事での庶民的な一面を持つ寺院のようです。


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御朱印蒐集~京都 東山区 御寺 泉涌寺~

2018-02-04 20:10:10 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 泉涌寺といえば「楊貴妃観音像」が有名な寺院で、ぜひその美しい仏を一目見てみたいと泉涌寺を訪れました。
寺院の印象は抱いていた観音堂のような寺院とは全く違うもので、寺院に「御寺(みてら)」と名の付く皇室ゆかりの格式と厳かさを持つ菩提寺でした。
また今熊野観音寺をはじめとする山内塔頭寺院を数多く持つ広大な寺院でしたので、やはり寺院は参拝してみなければその寺院のことは分らないということですね。

創建は855年と伝えられますが、大伽藍が造営されるようになったのは1218年に月輪大師・俊じょうによって開山されてからと伝わります。
月輪大師は、律を基本に天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学の道場として開山し、現在は真言宗泉湧寺派の総本山となっています。



泉涌寺は中世以降、天皇家の御陵の地であり皇室によって保護されてきた寺院でしたが、大日本帝国憲法施行以来は宮内庁からの費用の負担が打ち切られて、維持困難な状態に陥ったようです。
現在は志を同じくする者が結集して「御寺泉涌寺を護る会」が結成され、寺院の維持や歴代天皇・皇后の奉祀にあたられているそうです。



寺院にはまず「大門」から入ることになりますが、この「大門」は元は京都御所の内裏の門だったとされ、桃山時代の建築と考えられている重要文化財の門になります。
横の壁は皇室との関係の深い寺院に見られる五本筋塀となっており、この大門から仏殿・舎利殿・本坊は一直線に配置されています。



入山して驚くのは参道の広さとその先に見える「仏殿」の大きさでしょうか。
幅はそれほど長くはありませんが高さのある唐様建築で、屋根の下の組物は複雑に組み込まれた見事な建築です。



「仏殿および泉涌寺の伽藍」は、応仁の乱でほとんどが消失してしまい、現在の「仏殿」は1668年に徳川家綱によって再建されたものとされており、国の重要文化財に指定されています。
京都の寺院には応仁の乱で失われたものが多いようですが、再建されずに消えていった寺院も多々あるのでしょう。





「仏殿」の中には入ることができますが、中央の大きな須弥壇には運慶作と伝わる「阿弥陀・釈迦。弥勒」の三世仏が祀られています。
幅に対して高い天井になっている特異な形のスペースの影響もあって、目の前に阿弥陀様が迫ってくるような感覚になる三尊像でした。

ふと天井を見上げてみると狩野探幽筆とされる「雲龍図」がありました。
よく見られる円を描いたような雲龍図ではなく、長方形に描かれた絵は見慣れないこともあって関心を引きます。


ポストカード

「仏殿」の中には開山・月輪大師の像が左隅に祀られ、御本尊の裏側にはこれもまた狩野探幽の作とされる「白衣観音図」が掛けられています。
「白衣観音図」の下には縦16m×横8mという日本最大の涅槃図が箱に入れられて保管されていましたが、「涅槃会」の日にしか公開されないようですので見ることは叶わずでした。

「仏殿」を後方からでるとすぐに「舎利殿」の前に出ますが、こちらも特別公開時以外は入ることは出来ないようです。
この奥には「御座所」があるのですが、この参道の広さは皇室御一行の行列が通りやすいようになっているのでしょうね。





「御座所」の中には御座所庭園があり、中へ入ることが出来ますが、部屋数の多さはさすが皇室の菩提寺だった歴史があるからなのでしょう。
皇族のための「御座所」、皇族のお付きの方の部屋の「侍の間」。ここは椅子とテーブルが置かれた間です。
また「女官の間」、「門跡の間」、「皇族の間」、「侍従の間(椅子とテーブル)」、「勅使の間(椅子とテーブル)」、一番格の高そうな「玉座の間」が並び、それぞれの部屋に襖絵や屏風絵がしつらえられた豪華な内装でした。





庭園で少し休んでいるとどこからともなく小鳥の囀りが聞こえてきます。
手水鉢に水浴しにきていたヤマゲラの声です。山の麓の寺院ですから小鳥の来訪者も多いのでしょうね。





勅使門の内側には「御車寄せ」というかつて皇族を乗せた牛車が車を寄せる場所がありました。
現在の建物は1818年に明治天皇よって京都御所から移築されたもののようですが、京都御所では牛車に乗って勅使門から御殿に入った雅な時代があったのでしょう。





泉涌寺の「浴室」は1897年に移築されたもので、いわゆるサウナ(蒸し風呂)だったようです。
大きな寺院では僧侶が多いため、湯に浸かるというよりも大勢が入れる蒸し風呂が重宝されたようですね。



浴室の隣には「泉湧水屋形」という寺号の起源となった清泉の湧き出す場所がありました。
内部は見えないので湧き出している様子は分かりませんが、湧いた清泉が溜められる溜めマスのようなものが前方に切り出されていました。



さて、「楊貴妃観音」になりますが、この仏像は絶世の美女と呼ばれる唐の皇帝玄宗の妃・楊貴妃をかたどった等身座像だとの伝承があるようです。
楊貴妃観音像は1230年に中国から湛海が持ち帰り請来されたと伝わります。

楊貴妃観音像(重要文化財)は像高約115cmと坐像としてはほぼ等身ですから大きな像ではありませんが、彫りが深く穏やかな表情をしておられます。
観音像の横には一六羅漢の内の六羅漢が祀られており、僧・湛海の座像も一緒に祀られていました。




ポストカード

御寺 泉涌寺には周辺に幾つかの塔頭寺院がありますが、今回は今熊野観音寺だけの参拝となりました。
泉涌寺および塔頭寺院が並ぶ泉涌寺道への入口には「総門」がありますので、最後に立ち寄って参拝の終わりとしました。

この総門から東山の山麓に至るまでが泉涌寺の寺域となるようで、この門から山麓に向かって広範囲に寺院が点在しており、塔頭寺院を巡る「泉涌寺七福神巡り(実際は九福神)」の行事があるそうです。
九福神の内、泉涌寺と新善光寺が番外。他に7つの塔頭寺院の七福神があり、成人の日に七福神巡りは開催されるようですね。



初めて観た「楊貴妃観音」には感慨深いものがありましたが、それ以上に仏殿の内部の空間での落ち着いた時間が印象に残ります。
京都には未知の寺院が数多くありますからまだ当分の間、寺社巡りは続くのかと思っています。


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