僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「太神山不動寺」参拝と「三筋の滝」~LAKE BIWA 100~

2023-10-28 16:32:38 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖西の山へ行くか?鈴鹿の山へ行くか?と迷った末に間を取って、以前から気になっていた湖南アルプスにある太神山へ訪れることにしました。
湖南アルプスの一山である太神山には「太神山不動寺」という天台宗の寺院があり、太神山不動寺は平安時代に三井寺の開祖・円珍が創建し、三井寺の末寺となっているという。

湖南アルプスの山は巨大で剥き出しの花崗岩の山が多く、その神々しさから霊山として修験の道場となっていたと考えられ、特に甲賀市の辺りは修験道が盛んだった地のようです。
予定では瀬田川側から入って堂山や笹間ヶ岳、矢筈ヶ岳のある方向から登るつもりでしたが、ナビに信楽側へ案内されてしまい、大津市と甲賀市の境界にある駐車場に車を停める。



看板には太神山不動寺4.2㌔とあり、東海自然歩道を沢沿いに未舗装の林道を進むことになります。
どんよりした曇り空で何となく気持ちが悪い道でしたが、途中から何人かトレランの方が走って行かれたるのに出会い、人がいる安心感から怖さは消えていきます。

歩き始められた方に聞いてみると、この日は100マイル(169㌔)のトレラン大会が開催されているとのことでした。
コースは、
・湯の山温泉からスタートして御在所岳・鎌ヶ岳・仙ヶ岳・油日岳を越えて鈴鹿峠の鈴鹿山脈パート。
・太神山・矢筈ヶ岳・音羽山を越えて大文字山までの湖南アルプスパート。
・最後に比叡山と蓬莱山の比叡・比良山系パートを登り下りして、琵琶湖側へと下ったらゴール。
夜を徹して走る気が遠くなるような長距離レースですが、この過酷なコースを52時間以内に走り切らなければならないようです。



林道の横にはずっと清流が流れており、岩がゴロゴロとした川には透きとおるような清流が流れています。
当方を抜き去っていくトレイルランナーの方々は、この時点でスタートしてから24時間近く走っているにも関わらず、全然ボロボロになっていないのが凄すぎます。





林道の終わり近く、寺院の山門の前までには荷物を上げる単軌条運搬機 (モノレール)があり激坂となる。
約500m程度でしょうか、急勾配の激坂に息が上がってしまいます。



さすがにトレイルランナーの方は鈴鹿山系の難コースをクリアーされているので、この程度の坂では足取りは軽い。
ただ歩いているだけの当方はヘタっているのに、当方とは遥かに違う軽やかな足取りに恐れ入ります。
また、トレラン大会に出場されているランナーの女性比率が高いのにも驚きます。



山門まで登ってくるとそこから境内になり、石段で本殿まで登って、その後に太神山山頂へと進みます。
途中の分岐でランナーの方は矢筈ヶ岳方面へ向かわれますので、寺院の境内は静寂に包まれて、むしろ怖いくらいの静けさです。



山の上の寺院ですから石段でどんどんと上に進んで行くことになり、最初の広場から次の広場に進むと不動明王が2躰祀られています。
1躰は巨石の前に立ち、もう1躰は岩の上に祀られており、どちらが先に祀られたのかは分からなかった。





本堂へと登って行く石段の横には杉の巨樹があり、一説には「天狗杉」と呼ばれているという。
環境省の巨樹・巨木データベースでは幹周6m・樹高35mといい、幹の辺りの太さはかなりのものです。



本堂へと続く石段の途中には磐座と呼べそうな巨石が祀られています。
太神山には巨石があちこちに見られますので、霊験を感じてこの地に修行道場を作ったのも何となく納得できます。
もしくは古代より山頂近くの巨石は信仰の対象として捉えられていたのかもしれません。



室町時代前期に建てられたという懸造りの本堂は改修中でその姿は隠されています。
養生されてしまっているので外観は見えませんが、不安定そうな場所に上手く建てられている重要文化財に指定された建築物です。



御堂の中に入ることは出来ますが、中は暗闇です。
開けたままになっていて、不審者や獣が侵入してこないか心配になるほど、境内に人の姿も気配もない。



本堂の横には巨石が積み重なっている場所があり、胎内くぐりが出来るようです。
胎内くぐりは、いったん死んで生まれ変わる擬死再生の行為ですので、当方も岩の間に潜ってみます。





写真では中の様子が分かりませんので動画を撮りながら潜ってみました。
これで肉体と魂を浄化して新たに生まれ変わることが出来たでしょうか?



では生まれ変わったところで山頂を目指します。
山頂への道の横にあった祠には「神変大菩薩(役小角)」「毘沙門天王」「魔王大僧正」を祀っており、修験の影響が色濃い。



三角点への案内板のところを登ると、あっという間に太神山の山頂(599.7m)に到着です。
中央付近には二等三角点もありました。





山頂にある岩の裏側には「奥之院」が祀られています。
しかし、ここまで来て気が付いたのは、写真などでよく見る「制多迦童子」と「矜羯羅童子」の石仏を見てなかったことです。



境内にあった細い道の先かと思って歩いて行きましたが、鹿には会うが途中からは踏み跡のない道になってしまい引き返す。
参道を下っていくと分岐があって田上公園の方向へ向かう道がありましたので下っていくと二尊像のある場所に出た。よかった。



「制多迦童子」と「矜羯羅童子」は不動明王の脇侍を務め、不動三尊として祀られます。
不動明王の石仏が祀られている場所からは随分と離れていますが、山全体がお不動さんの山と考えればいいのでしょう。

  

今回はナビの案内で信楽側からの入山となってしまい、「泣き不動」や「中不動」の場所まで行けなかったが、トレランの様子を真近に見ることができたのは印象深い出来事でした。
せっかく信楽側に来たので近くにある「三筋の滝」へ立ち寄ってみる。



三筋の滝は田代川流域にある落差15mの滝で、水の流れが3本の筋になって流れ落ちていることから名が付いたといいます。
雨の多い時期ではないにも関わらず、水量は豊富で信楽の山の水資源の豊かさを実感します。



「LAKE BIWA 100」では、100マイル(169㌔)・累積標高10500メートルを52時間以内(2日と4時間)に走破しなければ完走とされません。
大会は今年で3回目ということですが、第一回の大会ではトランスジャパンアルプスレース(TJAR)の優勝者で最高記録保持者の土井陵さん。
トレラン関係の番組で印象に残る飯野航さんや板垣渚さんが出場されて優勝を争そわれたようです。

下山時にすれ違ったランナーは約80㌔・約24時間を走破してきたランナーでしたが、みなさん信じられないほど元気だったことに驚きます。
当方はこの日14キロ歩きましたが、マイルに換算したらたったの8.7マイルですのでお恥ずかしい限りです。


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日本五大山城「小谷城址」から小谷山に登る!

2023-10-24 06:25:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 戦国時代を舞台としたドラマに必ず登場するのが近江・浅井氏に嫁いだ織田信長の妹のお市、浅井長政とお市の娘である茶々・初・江の浅井三姉妹かと思います。
三姉妹はそれぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠に嫁ぎ、茶々は豊臣秀頼を、江は徳川家光を生んだとされ、その血筋は将軍家に脈々と続いていったという名門です。

お市を長政に嫁がせて同盟を組んだ織田・浅井は六角氏を壊滅させ、将軍・足利義昭を擁立して上洛しますが、これに抵抗したのが越前の朝倉氏。
信長は浅井氏が恩義のあった朝倉氏を攻めないと約束していましたが、信長は約束を反故にして朝倉氏を攻める。
ここで究極の選択で朝倉氏に浅井氏が味方したことにより、今度は信長と浅井・朝倉の戦いとなり、姉川の合戦・小谷城落城へと展開していきます。



織田軍と浅井・朝倉軍は1570年に姉川の合戦で激突して、織田軍が勝利して攻め込んだが、小谷城の堅固さを考慮して城攻めを断念。
1573年に織田軍は攻撃をしかけ、浅井軍は小谷城に籠城したものの離反が相次ぎ、朝倉氏の援軍は撤退し織田軍は一乗谷まで攻め込んで朝倉氏を滅亡させる。
小谷城へと引き返した織田軍は総攻撃をかけ、小谷城は落城し長政は自刃したとされます。



城址巡りは登城口の格ルートと林道が合流する地点にある「番所」から本丸・中丸・小丸・山王丸を経て、六坊へ下って最後は小谷山の山頂のある大嶽へ登り返します。
登り口で地元の方に“この山は熊の出没が多いと聞いてますが最近どうですか?”と聞くと、“出没したという情報はありますが自然の多い場所ですからいろいろ居ます。”とのこと。



当日は番所までシャトルバスの運行があり、要所で地元語り部ガイドがご案内されていたので、まぁ熊は出ないでしょうと安心して登ります。
とはいえ、小谷山山頂まで行かれる方は、みんな熊鈴をぶら下げて鳴らしながら登っておられました。

すぐに到着する虎御前山展望所からの絶景です。
眼下に虎御前山、奥に山本山、琵琶湖には竹生島。余談ですが、小谷山の熊は山麓から虎御前山までが活動範囲だそうですね。



「御茶屋跡」という曲輪はその名前とは似つかず軍事施設だったそうです。
小谷城址は各所にこのような石碑や案内板、復元図が設置されていて、城址としてはかなり整備されていると思います。



まだ城の中核ではなく「御馬屋(馬をつなぐ場所)の向かい辺りには「首据石」という石があり、これは六角氏に内通していた家臣のを誘殺し首をさらした場所だという。
戦国時代は謀略や裏切り、密約など何を信じたら分からないような世の中だったように思いますが、如何に勝ち馬に乗るかの判断が生死に関わりますので必死です。



ここで声を掛けられた方から“時間に余裕があったら長政が自刃した赤尾屋敷跡があるから行ってみるといい。”と教えてもらう。
少し寂しい道を歩いて行くと「浅井長政公自刃之地」の石碑のある屋敷跡に出る。



1573年9月日、浅井長政 享年29才。
石碑の近くに1頭だけアサギマダラが飛んできて木の葉に留まる。
何かの暗示なのでしょうか?



さていよいよ城の中核部に入り、まずは「黒金御門」ですが、ここでは戦国タイムスリップAR(Augmented Reality)でリアルと拡張現実が比べられます。
まずは現実世界の「黒金御門」です。秀吉によって破城された残骸です。



浅井攻めの功績によって浅井氏の旧領を拝領した秀吉は、小谷城の資材や竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用して長浜城を築城したという。
これにより堅固な山城だった小谷城は廃城となり、湖水運や北国街道の通る長浜城の時代となりますが、「黒金御門」の材料も移築されたのでしょうかね?



小谷城址は途中に景色が開けているところが幾つもあり、「桜馬場」からは虎御前山・山本山・竹生島が見降ろせる。
小谷山から見える光景は山側を除けば田園地帯が広がっており、城下が米どころであったことが伺われ、また虎御前山に陣取った信長の動きが監視できたと思われます。



浅井長政の家族が居住したとされる曲輪の「大広間」を抜けると、いよいよ「本丸跡」に到着します。
前回、この場所を訪れた時は戦国時代のコスチュームに身を固めた「長浜武将隊 天下泰平」の面々が勢ぞろいして撮影させて頂きました。



「本丸跡」でもARでかつての天守を見ることができますが、この時代はまだ江戸時代のような天守閣ではなく、山城や砦のような造りだったようです。
天守の後方に聳える山が小谷山の山頂ですので、あそこまで行って折り返すことになります。



「本丸跡」から「大堀切」「中丸」「京極丸」を越えると「大石垣」への分岐に来ます。
小谷山へは崩れた石垣を真っすぐに登って行きますが、この辺りもかつては石垣が築かれていたのかと思います。



「大石垣」は高さ5mほどの石垣で、長い年月を経てよく残っていたなぁと感心するほど原型をとどめた石垣です。
この先に「展望岩 ロープあり 15分」と書かれていて、帰りに立ち寄ろうと思っていたが、帰り道では忘れてしまっていて通り過ぎてしまった。



小谷城址として整備されているのは山王権現が祀られていたという「山王丸」までで、そこからは登山道に入ります。
山王権現は現在は小谷神社と名を変え、麓にある小谷寺の一角に祀られているようです。

登山道の途中で小谷山の山頂方向が見えてくるが、一旦「六坊」まで下っていくことになり、鞍部の分岐から山頂にかけては急登が続きます。
「六坊」は領国内にあった六つの有力寺院の出張所が置かれたところだといい、軍務や政務を司っていた六つの寺院を集めた場所とされる。



山登りはここからが本番。
200mくらい続く急な木段があり、途中にある見晴らしのよい一角で話した人は「心臓破りの木段」と呼ばれていました。
後から到着された方も“なんてキツイ階段なんだ。”と息を切らしておられました。いつまで続くんだろうと心が折れそうになる木段でした。



木段をある程度登り切った所には小谷山で一番の絶景ポイントではないかと思うような素晴らしい景色の広がる場所があります。
左に伊吹山と伊吹山系の山並み。手前の池は物部守屋の伝説が残る西池。
右手には姉川の合戦で織田軍が陣取った横山が見え、その手前には姉川の堤防が東西に走っているのが見える。



右には大きく湾曲した琵琶湖が見え、秀吉が小谷城を廃城にして築き、領地として城持ちとなって出世街道の始まりとなった長浜城も微かに見えます。
手前に連なる稜線は今日登ってきたルートで、ここから見える一帯は自然が多く、古代からの歴史の宝庫でもあります。



さて、長くつらい木段を登りきると小谷山の山頂の「大嶽城跡」に到着します。
「大嶽城」は浅井三代の初代・亮政が築城し、織田軍との戦いでは朝倉氏の援軍が守備していたが、織田軍の攻撃によって落城したという。



苦しい木段を熊鈴2つを付けて木段を先行して登っておられた方に山頂で追いつくと、その方は山頂写真だけを撮って休むことなく、山頂の反対側の周回コースを歩いて行かれます。
“この後どこから下りるつもり?”と声を掛けられたので“分岐に戻って清水谷から下りようかと思います。”と答えてお別れする。



山頂には小谷山の三等三角点(点名:大岳)があり、少し山頂を散策してもと来た道を引き返す。
途中の展望台でこの山に詳しい人に清水谷ルートについて教えてもらった処、“樹林帯の間を下っていく道なので尾根歩きで城址を歩く方が自分は好きだな。”
これであっさりと清水谷ルートから城址ルートに変更してピストンで戻ることにします。



「番所跡」まで戻ってくると、ちょうどシャトルバスが昼休憩時間でしたので舗装された林道を歩いて下ります。
大手道登山道と舗装された林道が交わる辺りに「望笙峠」という景観の良い場所があります。
「望笙峠」は竹生島を望めることから、「望」める「笙(竹生)」峠という意味もあるのだとか。



本来なら大手道登山道へ合流すべきですが、林道にある「太平(おおべら)の磐座」に立ち寄りたかったので林道をそのまま下ります。
「太平の磐座」の横には“観音の里”ののぼりがあり、この磐座は夕暮れ時や早暁時にフラッシュ撮影すると観音(立像)の姿が現れるのだという。



浮き上がるという観音像はおそらく岩の上の方の少し赤味を帯びた部分のことだと思います。
あまり知られていない場所だと思いますが、夕暮れ時か早暁時に行けば観音立像を撮影出来るかもしれませんね。



最後に登山道で見かけたキノコです。
小谷山はキノコの多い山だなぁと感じましたが、このキノコは食べるのはもちろんの事、触るのもヤバそうなキノコです。
しかし、その姿は自然が生んだアート・キノコとでも呼べるそうな美しさ、妖しさです。




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「第39回 観音の里ふるさとまつり」2/2~赤後寺・浄光寺・大円寺・渡岸寺門前市~

2023-10-20 06:18:18 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 第39回を迎えた今年の「観音の里ふるさとまつり」は、巡回バスⅡコースで巡ってみました。
前編は光明寺~横山神社~赤分寺~磯野寺でしたが、後編は赤後寺~浄光寺~大円寺~渡岸寺門前市を巡ります。
巡回バスの時間待ちがある時は好天の田圃道をのんびりと歩いて移動するという心地よい半日となりました。

昼過ぎから通り雨の頃には観音堂巡りは終わっていたので影響はなく、晴れていた時に田圃道を歩いているとノビタキの姿を見かける場面もありました。
高月の観音巡りで全ての観音さまを拝観するには何年も掛けて巡ることになりますが、最後の観音堂である光明寺の観音さまを拝観して観音さまコンプリートとなりました。
来年からは何度でも会いたい観音さまをゆっくりと時間を掛けて拝観することになりそうです。



高月の観音堂には特に人気の高い観音さんが何躰かおられますが、赤後寺の「転利(コロリ)観音」こと「千手観音」と「聖観音」は人気の仏像です。
赤後寺は集落の中を真っすぐに通る参道を歩いていくと、その先の高台に見える赤後寺の御堂や日吉大社社殿の雰囲気がとてもいい。



後方に湧出山を抱いた日吉神社の鳥居を抜けて登る石段の先の高台に赤後寺はあり、その右には日吉神社がある。
村の観音堂というよりも巡礼寺院の雰囲気がありますが、赤後寺は江州伊香西国15番札所になっているそうです。



「転利(コロリ)観音」と呼ばれる「千手観音立像」と「聖観音立像」は、平安初期の作とされており重要文化財の指定を受けています。
「転利」は「災い転じて利となし私利を転じて衆利となす」の意でしたが、いつのころからか「天寿を全うした者は何の苦しみもなくコロリと極楽往生できる」と喧伝されるようになったという。



「転利(コロリ)観音」は頭上の宝冠・光背・手・足先などがなく、これは柴田勝家と豊臣秀吉の賤ケ岳の戦いで火災に見舞われた時に川に沈めたため流されたといわれている。
兵火による火災の夜、村人が仏像を背負って村の中を流れる赤川に沈め、その時に枕として使われた石が「御枕石」と呼ばれて手水の横に置かれています。



石段を登って本堂前までくると、かつて御神木であったであろう伐られた巨樹の切り株が残されている。
幹回り5mはあったであろう巨樹の切り株は圧倒されるような太さで、2016年に参拝した時にはその姿は健在でした。



本堂は西国三十三所巡礼札所のような雰囲気がある立派な造りの御堂です。
須弥壇に2躰の「転利(コロリ)観音」が祀られていますが撮影は禁止。

腕をもがれたような痛々しい姿が衆生の苦しみを背負っている姿を想像させる美しい仏像です。
赤後寺の観音さまにお会いするのは3度目ですが、初めてお会いした時は閉まっている厨子を開けてもらって一人で対面するという至福のひと時でした。





観音堂の右にある日吉大社も立派な社殿の神社です。
湖北の村々の神社は立派な造りの社殿が多くみられ、信仰の篤さに驚きます。



赤後寺の堂宇のある高台から集落を見降ろすと、まさに一直線の道が続いている。
村の真ん中を通る道からはいつも赤後寺と日吉神社が見える。
これはこの集落で暮らす人にとって意識していなくても大きな心の拠り所になっているのではないでしょうか。



次は柏原集落の柏原阿弥陀堂ですが、都合により巡回バスの中から「野神ケヤキ」を見て、落川集落の「浄光寺」へと向かいます。
浄光寺も最澄に己高山鶏足寺の末寺として開かれたと伝わる寺院で、己高山仏教圏の一寺として繁栄したといいます。

その後、幾多の戦乱で寺勢は衰退し、浅井氏と織田軍の合戦により堂宇は焼失したとされます。
湖北では天台宗の興隆と衰退の歴史が時として垣間見えますが、今では観音さまだけが歴史の目撃者となっています。



雰囲気のある御堂の中には室町期とされる「十一面観音立像」「阿弥陀如来立像」「薬師如来立像」の三尊が安置されている。
中央に本尊の観音さまがいて、脇仏に如来さまがいるという少し変わった三尊ですが、同じ仏師の手によるものだと考えられています。



十一面観音を際立たせるように幕が掛けられているので両側の如来さまは見えにくいですが、浄光寺の仏像は湖北の観音さまの中でも個性的な仏像です。
お顔が目立つように見えるのは躰は古色なのに、お顔はくっきりと鮮明になっているからでしょう。





浄光寺から次の高月観音堂「大円寺」までは再び歩いて移動します。
大円寺の「十一面観音立像」もこの地に滞在した伝教大師・最澄が彫刻し、七堂伽藍を建立して像を安置したと伝わります。
空海や聖徳太子の伝承の残る地域は数々ありますが、滋賀県や湖北地方では最澄にまつわる伝承が数多く残っています。



大円寺は道路から見ても斜めに傾いた巨樹の姿が目に入ってきます。
「おしどり杉」と呼ばれるスギは樹高20m、幹周5.15m、樹齢800年とされる見事なスギです。
ピサの斜塔のように(あるいはそれ以上)に傾いたスギは今にも倒れそうですが、頑丈な支えがあって支えられています。



観音堂の中には「十一面千手観音立像」「薬師如来像」「弁財天像」「毘沙門天像」「不動明王像」「地蔵菩薩像」と仏像の数が多い。
インパクトのある「釈迦苦行像」は「高月観音の里 歴史民俗資料館」に展示されているので不在ですが、この像は他では見ることの出来ない仏像です。



御本尊の「十一面千手観音立像」は像高154cmで書く十九臂の脇手を持つ像で、室町時代の作とされています。
合掌手と宝珠手を含めて四十二臂の千手観音は、脇手の開き方や頭上の化仏といい、実にバランスの良い仏像だと思います。



この仏像は戦乱の昔に兵火から逃れて、岩の上に立たれたとされ、火災から村人を守る「火除けの観音さま」として信仰されているそうです。
北近江は京極氏の内紛や六角氏との争い、織田信長との戦いなど幾たびも戦乱の兵火に見舞われて焼失した仏像もあると思います。
仏像の損失に関しては廃仏毀釈の影響もあったでしょうから、失われた仏像は数知れずあったのではないでしょうか。



これで今年の観音巡りは終わりですが、最後に巡回バスに乗って渡岸寺観音堂前の門前市会場をのぞいてみます。
渡岸寺観音堂では山門から人が溢れるかのような人の多さで、人ごみに慣れない当方は少しだけ見て帰路につきます。





渡岸寺観音堂の参道を出るとJR高月駅の駐車場が見えてきて、高月駅の前には出店がたくさん出ています。
時間的に売り切れが多かったのですが、赤飯や栗ご飯が並ぶ中、白蒸のおこわがありましたので購入しておみやげにしました。
白蒸はお盆や法事の時に食べるとされますが、湖北では慶事のお祝いの席でなくても“おこわ”が売っているのを見かけますね。


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「第39回 観音の里ふるさとまつり」1/2~光明寺・横山神社・赤分寺・磯野寺~

2023-10-17 18:03:03 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「観音の里ふるさとまつり」は今年で第39回を迎え、2017年の第33回から始めた拝観も今年の開帳で全ての観音さまにお会いすることが出来ました。
2023年も31の観音堂や寺院・神社で仏像が開帳されますので、どのコースで巡るか嬉しい悩みとなります。

これまでただ一カ所だけ拝観出来ていなかった東物部の「光明寺」を含めたコースとして、巡回バスのⅡコースを選んで始発便からスタートしました。
昨年の第38回では木之本と余呉・西浅井方面を巡りましたので、今年のⅡコースは高月の中心部エリアを巡ることになります。



普段は田園地帯に村々が点在する静かな地域ですが、今日だけは周遊バスは走る、巡回バスは走る、レンタサイクルは走る、自家用車は走る、人も歩くとにぎわいを見せます。
遠方から来られている方も多く、巡回バス待ちで立ち話した方は東京から2泊3日で来て今日は一日観音の里巡りをするのだとか。

最初に参拝した東物部の「光明寺」は724年、行基菩薩がこの地に伽藍を建て十一面千手観音を安置したのが始まりとされています。
その後、伝教大師最澄が当寺を比叡山の末寺として七堂伽藍を建立したとされますが、度重なる兵火によって本尊以外は焼失したと伝わります。



湖北の観音堂は、村の神社と観音堂が同じ境内に祀られていることが多く、各家の檀家寺は別にある。
主に浄土真宗が多いようですが、檀家寺としての真宗の信仰、野神さんやオコナイ神事を含めての神社の信仰と並行するように観音信仰が根付き守り続けられています。



そこまで観音信仰に篤いのは、やはり在所( 郷里)で何百年と観音さまを守り続けてきた自負とアイデンティティがあるのでしょう。
戦国時代の光明寺は湖北の戦国大名・浅井壱政に庇護されていたといいます。
歴史にIFはありませんが、もし浅井氏が違った選択をしていたとしたら乱世に影響はあったのか、なかったのか。



光明寺の御本尊の「十一面千手観音」は室町時代の作とされていて、まだその時代には天台宗の力が湖北に及んでいたようです。
信長の比叡山延暦寺攻撃や天台宗の淘汰がなければ、明治の廃仏毀釈がなければ、、、仏像のIFがあります。



光明寺の観音堂を出たところで巡回バスの待ち時間があったので「横山神社」まで歩いて馬頭観音像を拝観することにします。
この日は巡回バスの時間が合わない時は歩いて移動しましたが、集落が密集している場所と広い田圃の向こうに隣の集落があるので歩くと広いなと感じます。



横山神社には高月で唯一の「馬頭観音像」が安置されており、観音さまは平安時代末期の作とされます。
平地の横山集落に馬にまつわる観音さんがおられるのは少し不思議に感じますが、これには理由があるようです。

593年に横山大明神が高時川の上流の木之本町杉野の横山岳の五銚子の滝のほとりの杉野巨木に降臨したと伝わる。
その大木を彫って作ったのが馬頭観音で、957年に杉野から高月町横山に勧請されたといいます。
深い山の中にあった杉野の横山神社ゆえに輸送に欠かせない馬への信仰から馬頭観音だったのかもしれません。



高月は古墳の多い地域で横山神社の参道には「横山神社古墳」という前方後円墳があり、6世紀頃の古墳とされています。
高月一帯に兵主神社古墳・古保利古墳群・湧出山古墳・姫塚古墳などがあり、この地には古墳時代に有力者がひしめいていたと考えられます。



古墳の墳丘は結界が張られて特別な場所となっており、この場所は集落の野神さんでもあると聞きます。
目に入ってくるものだけでもいろいろな信仰や祀りが混じり合うようにして残るのは、観音さんだけに留まらず関心深い。



「馬頭観音像」は像高99.6cmのヒノキの一木造の像で、三面八臂のお顔は忿怒の相を示し、頭上には馬頭をいただいている。
この馬頭観音像はほぼ全面にわたって補修が入っているそうですが、湖北では珍しい馬頭観音像は整った感じのするバランスのいい仏像です。



横山神社では待ち時間なく巡回バスが来ましたので、1区間だけ乗って東高田集落の「赤分寺」へと参拝します。
赤分寺観音堂は伝教大師最澄によって開かれ、室町末期には兵火により荒廃するも、後に堂宇を再建し観音像は氏仏として尊崇を集めたといいます。



本尊の「十一面観音立像」は室町時代の作とされますので伝承に伝わる最澄手彫りの作ではありませんが、滋賀における天台宗の勢いはかなりのものだったようです。
古代からの神への信仰や白山信仰に平安期の天台宗の影響で己高山仏教圏が築かれたとされますが、かつて天台宗寺院だったという御堂の何と多いこと。



天台宗の信仰は、東近江へ行くと天台宗や最澄からさらに遡って聖徳太子信仰となっていきますが、同じ天台宗の影響下でも地域によって違いがあるようです。
赤分寺は宗派に属さず、地元の老人会9人でお守りされているそうで、檀家寺と観音さまの信仰がそれぞれ両立しています。



「十一面観音立像」は像高101.3cmの仏像で、以前は秘仏として守られてきたそうです。
本尊の左には「辨財天」が安置されており、像高46.7cmの江戸期の制作とされています。

この仏像は「宇賀弁財天」といった方が正確で、竹生島の宇賀弁財天信仰と小谷の浅井家とのつながりが信仰へとつながっているという。
他の観音堂にも「宇賀弁財天」は祀られていましたので湖北独特の信仰のひとつといえるかと思います。



本尊の右には像高48.2cm、江戸期の「地蔵菩薩半跏像」が安置されています。
赤分寺のある東高田集落は38世帯約130人が暮らしているそうで、この人数は明治の初期から規模は変わっていないとのことです。
その規模の集落の大きさでありながら、江戸期に仏像が次々と安置されてきたのは、信仰の強さに他ならないということになるのでしょう。



境内に立つ樹に紙垂の付いた竹が置かれていたので、野神さんかと思い聴いてみると御旅所だということでした。
かつてはここに祠があったということで現在は石組の土台だけが残っています。



赤分寺からは歩いて次の観音堂である「磯野寺」へと向かいます。
磯野寺は赤見神社の境内地の中にあり、村の西に余呉川・集落内を赤川が縦断しており、かつては川の氾濫による水害の多い村だったという。

磯野は土豪・磯野氏の本拠地であり、磯野氏は戦国大名・浅井氏の重臣で姉川の合戦でも活躍した武将だったといいます。
西には磯野山があり、磯野山城址の看板がありますので、かつて磯野山に山城があったことを偲ばせます。



磯野寺観音堂には室町~江戸期に制作されたという「十一面観音立像」が祀られていますが、この観音堂では撮影禁止です。
像高63.2cmと大きな仏像ではありませんが、お顔は凛として温和な表情をされています。



拝観が終わりましたので、次の巡回バスを待って唐川集落の「赤後寺」へと参ります。
「観音の里ふるさとまつり」で全ての観音さまを拝観するには、何年もかけて巡る必要があります。
今年で一応全ての観音堂を巡ることができましたので、来年からは何度でも見たい仏像に会いに行くことになります。
...続く。


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金勝アルプス~「後天狗岩」と「九品の滝」~

2023-10-13 12:39:58 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 金勝山へは短い周期で登りに来ていますが、気持ちが疲弊してきた時、この山を駆け巡ることで随分と気持ちが晴れる思いがします。
何度か登る間にいろいろなルートを通って見ごたえのあるポイントにも立ち寄りましたが、「後天狗岩」へは行ったことがありませんでした。
ですので、今回は「後天狗岩」をコースに組み入れました。

金勝山というと「天狗岩」が人気の場所となっていて、岩塊を登られる人が絶えませんが、隠れスポットとして「後天狗岩」という場所があります。
「後○○」とアルプスの山名のような響きも恰好が良く、登山口でもらえるハイキングマップには記載のない場所。ということで秘境感があって楽しみです。



場所は思い込みで勘違いしていて「竜王山」の山頂から行けるものだと思い込み、竜王山の山頂へ登ってしまいました。
金勝山には竜王山(標高604.7m)、鶏冠山(標高490m)の2つのピークがありますが、両方とも木に囲まれて眺望はあまり期待できません。



「後天狗岩」は、竜王山の山頂から反対方向へ下るのかと勘違いしていたのですが、そちらは道らしきはあるが藪漕ぎの道でなんか違う。
ヤマップで調べると、「後天狗岩」は竜王山とは方向違いで、今来た道を戻った先に分岐があるようです。





「後天狗岩」への道は分岐があるとはいえ、とても分かりにくい感じのところにあり、道もその先に目的地があるとの確信がなければ躊躇してしまうような道です。
天狗岩にはいつも大勢の人の姿がありますが、後天狗岩方向には人の姿がない。
というかこの日は結局誰一人として出会うことはありませんでした。



どうやらここが「後天狗岩」という場所に辿り着き、次は写真奥の岩塊に登ることになります。
後天狗岩は天狗岩より規模は小さい感じとはいえ、どうやって登るか登り道を探さないといけない。



実際に岩の前まで来ると、かなり傾斜のある岩の間を登って行かないとならない。
危なそうなのでリュックやトレッキングポールは岩の下にデポして身軽な状態で登ります。
下は岩塊の反対側の風景です。



では登りましょう!ルートは岩の間の裂けめのような場所で一応足場はあります。
岩の上の方まで登ると足場が悪くなりますが、ロープが垂らされていますのでロープを頼りに登ります。
ただしこの岩塊は登るよりも下りる方が怖いやつです。



後天狗岩の最上部から見えた光景。
鶏冠山が手前にあって、その先は琵琶湖や湖西の風景ですが、残念ながら雲がかかってきました。
下山するまで雨が降らないことを祈る。



岩直下の木には「後天狗岩590m」の標示があります。
岩自体は「天狗岩」の方が大きいですが、「後天狗岩」は一味違った岩塊でした。



帰り道、金勝山の麓にある「九品の滝」へと立ち寄ります。
過去にこの滝を訪れたのはもう5年も前。石碑や小道に記憶はあったが滝の姿はもう忘れていました。



「九品の滝」は、3段に分かれて流れ落ちるさまが、仏教用語の九品浄土を思わせることからその名がついたといわれている。
上滝(約10m)、中滝(約8m)、下滝(約3m)からなる滝は総高約20mの滝で、渓流を含めると100mになり見応えは充分です。



滝と太陽光の角度が直射してしまい滝の岩や水に反射してしまったのが残念でしたが、水量もあって迫力がある。
上滝は大きな一枚岩を滑り落ちるように落下していて、中滝は上滝の滝壺から傾斜のある岩を流れ落ちる。





傾斜は段々と緩やかになっていき渓流へと変わっていきます。
『九品』について言い伝えがあり、江戸時代中期に島津藩の側室だった方が、近くの観音寺の尼として住んでおり、時折この滝に訪れて歌を詠んだという。
その歌を要約すると「この滝の音のすがすがしい響きは、さながら極楽浄土の美しい音楽を聴く思いである」という意味だという。



下が最後の下滝かと思いますが、小さいながらもしっとりとした感じのする小滝です。
滝は渓流になり、湿地になっていきます。湿地は草に覆われ生き物の豊富そうな場所です。






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金勝アルプス~「狛坂寺磨崖仏」から「後天狗岩」~

2023-10-09 09:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 今年何度目になるのか、また金勝山(金勝アルプス)を登りにやってきました。
何度登っても未だに全コースを走破していないため、まだ未知のコースが残っている山ですので、今回は「後天狗岩」へ行くことを目的に訪れました。

金勝山では巨石を登る「天狗岩」が人気の場所となっていますが、「後天狗岩」というもう一つの隠れスポットがあります。
「後天狗岩」はまずネーミングが北アルプスの“後立山”みたいで何とも格好が良く、「前〇〇」とか「後〇〇」とかミーハー的に名前に関心が魅かれます。
今回は久しぶりの「狛坂寺磨崖仏」まで行って折り返し、「後天狗岩」へ行く予定としました。



馬頭観音堂の登山口から入ってしばらく歩いていると、リスの姿を発見!
慌ててカメラを構えたが、枝を伝って逃げていき撮ることは出来ず。
岐阜の金華山のリスとは違って餌付けされていない野生のリスですから、そう簡単には撮らせてくれませんね。



登山道は最初は緩やかなアップダウンのトレランする人が走りそうな道が続き、稜線なら走れそうです。
実際に金勝山では「金勝アルプス ラウンドトレイル」が行われていますが、この山のハードさを知っているので走破する人に感心してしまいます。

山でトレランの人を見かけることが時々あり、絞られた体と一瞬で姿が見えなくなる走りっぷりを羨ましく思い、真似事のようにジョキングを始めてみました。
トレランはビギナーレベルのレースでもロードを10㌔以上走れるのが条件だといいますが、ハードルが高すぎる。
走ることなどすっかり忘れた体ですので、まずはロードを安定して1㌔のラップ6分台で5㌔を走れるようになれるのを目標にしていますが、、、。



さて、最初だけ軽やかに歩いているとまもなく「金勝寺八大龍王」の祭場に到着します。
「金勝寺八大龍王」は山麓にある「大野神社」の境外社で、金勝山の 分水嶺である龍王山山項の古祠として天之水分神を祀っているという。
麓の村々に水を与える水の神として信仰され、旱魃時には雨乞行事が行われたといいます。



登山道は何ヶ所かプラ段の登り下りがあり、段差がある場所が多くなります。
段差はあるもののさほど苦しい訳ではありませんが、30℃越えの気温と湿度の高さで汗が止まらないのが難点。



ここから「狛坂寺磨崖仏」への道は、金勝山の北側のルートに比べると平坦な道となりますので、通り道にある有名ポイントに立ち寄りながら進みます。
最初に出会うのは「茶沸観音」の石仏で、アーチ型の石塔窟の中に観音さん(蓮華座の上に立つ如来立像ともされる)がおられます。



登山口に置かれている「近江湖南アルプス ハイキングマップ」によると「茶沸観音」は、平安時代初期に彫られたとされる「狛坂寺磨崖仏」と同時期に彫られたものとある。
ここは金勝寺から狛坂寺へのルートとも言えますから、かつてここを移動した僧や参詣者が一休みして茶のもてなしなどを受けたのかもしれません。



金勝山の面白いところは沢や滝や岩場や遺跡など見所が多いところですが、白石峰がひとつのキーステーションのようになっていて白石峰から各方面に向かうことができます。
この看板の前まで来ると、ルートは決めて登山しているものの、気分次第でコース変更してしまって別の場所へ向かったこともあります。



白石峰を越えて狛坂線をしばらく歩くと「重岩」に出会います。
金勝山は巨石の宝庫ですので岩自体に驚くことはありませんが、2段重ねに積み重なった不思議な岩です。



この「重岩」には下の岩に線刻された摩崖仏が2躰あり、右の1躰はほとんど識別出来ないが、中央の1躰は姿が読み取れる。
室町期頃に彫られたものとされていますが、かろうじて確認出来る状態です。



気持ちの良い山歩きの小休憩で、狛坂寺磨崖仏へのルート上にある「国見岩」に立ち寄って景色を眺めながら一息入れます。
金勝山には絶景ポイントが何ヶ所もありますが、この国見岩の風景も絶景ですね。



少し見る角度を変えてみると右に岩塊の山、その少し奥左に鶏冠山の姿があり、右の奥には近江富士こと三上山。
その奥の琵琶湖に近い山は長命寺山や津田山でしょうか。この1年くらいの間に登ったことのある山ばかりです。



パノラマで見る風景では琵琶湖の向こうに比叡山。
こんな場所で時間を過ごせるのはホントとても贅沢な時間です。



「狛坂寺磨崖仏」へ行くにはこの岩門を通ります。
「狛坂寺」は金勝寺が女人結界の霊地のため、女人の参拝が許されないために金勝寺の別院として建立されたといい、ここは金勝寺と狛坂寺の間にある結界かもしれません。



途中まで道は整備されているのですが、狛坂寺への最後の坂は岩ゴロゴロの道でコンゼ(金勝)ならではの道です。
過酷な道ではありませんが、復路で登り返すことを考えると少し雑作に感じつつ、多少の試練も必要だしとかどうでもいいことを考えながら下る。



岩ゴロゴロの道を下りきると開けた場所に出て、そこに狛坂寺跡(狛坂寺磨崖仏)があります。
山中奥深いこの場所にはかつて狛坂寺があったといい、その狛坂廃寺跡に摩崖仏は残っています。



摩崖仏は奈良時代に新羅系渡来人が彫ったという説。それ以前の白鳳期に彫られたという説。
藤原時代末期という説があるようです。
縦約6m・横約4.5mの花崗岩には三尊仏が彫られ、その周囲には小ぶりの石仏が9躰彫られている。



滋賀県は奈良と日本海との経路上にあり、渡来人の行き来が多かったとされますが、鉱物資源を求めて滋賀の山々を探し歩いたとされることがあります。
定着した渡来人も多かったため、渡来人ゆかりの文化や技術が山中にまで伝播して仏教圏を築いていったともされます。



摩崖仏の横には狛坂寺の石垣が残されているものの、明治まであったという狛坂寺の廃寺跡は石垣を残すのみで150年という歳月の長さを感じます。
寺院は平安初期に建立されたと伝えられていますが、そうすると摩崖仏が白鳳期や奈良時代に彫られたのかどうか悩ましいところです。
正式な寺院は建立されていないけど、摩崖仏は先に祀られていたということなのでしょうか。



また、白洲正子さんは1970年前後に「かくれ里」を書かれていますが、当時は道が荒れているということで一度は断念されています。
今では一部歩きにくい場所もありますが、石段が設置されていて山歩きが苦でなければ誰でも到達できますので、金勝山は随分と整備されてきています。



廃寺跡に転がる巨石の周辺にはいつの時代に彫られたか分からない石仏が祀られており、この独特で特殊な空気感のある場所にいると何とも言えない緊張感を感じます。
湖南地方は摩崖仏が多い地域ですので古代からの信仰が深い地であったといえ、日本古来の信仰のみならず、渡来人やアジアの息吹きが今も残されています。



「狛坂寺磨崖仏」に訪れましたので、ここで折り返して今日の目的地である「後天狗岩」へ向かいます。
ハイキングマップには記載されていない「後天狗岩」ですが、無事にたどり着けるでしょうか?...続く。


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彼岸花とアゲハ蝶とノビタキをパチリ!

2023-10-05 07:02:22 | 花と蝶とトンボと昆虫
 彼岸花が例年より遅かったとニュースでも取り上げられていますが、確かに毎年ならお彼岸の頃に満開になっている彼岸花が10月に入ってから満開になっています。
もちろん日照条件等の影響がありますので、お彼岸に咲いていたような場所ではもう花期は終わっていますし、先週末から見頃を迎えている場所もあります。

彼岸花が遅いのは、この夏が記録的な暑さで10月に入っても日中はまだ暑いことが影響しているようで、まだツクツクボウシが鳴いていたりしますので季節勘も狂います。
ツクツクボウシの声が聞こえなくなると、秋の渡りの小鳥たちや渡りの蝶のアサギマダラがやってくるはずなんですが、会えないままに冬鳥が来てしまうかもしれませんね。



モンキアゲハは日本最大級のチョウで後翅の白い斑紋が目立ちますのですぐに見分けられる蝶です。
大きくて白い斑紋で識別しやすいこともあって、目に付きやすい蝶で低山を歩いていて見かけることもある。



彼岸花の群生でもモンキアゲハが飛んでくる頻度は高く、最初は夢中でカメラを向けるものの途中から“モンキかぁ~パスやね。”と贅沢なことをつぶやいてしまいます。
それだけ数が多いということになりますが、生息地は関東以西の温暖地だといいます。今後は温暖化で北上していくことも考えられますね。



その温暖化の指標蝶とされているのがナガサキアゲハで、もとは九州以南に分布域が限られていたのが現在は関東北部にまで分布域が拡大されているといいます。
「ナガサキアゲハ」の名前の由来は、シーボルトが長崎で最初に採集したことに由来して付いた名前だとされますので当時は九州でだけ見られたのかもしれません。





ナガサキアゲハは地味な♂に比べると、♀の方は後翅に白い細長い斑点が数個並んで派手さがあります。
しばらく♀の登場を待ってみたが結局現れずで♂のみパチリ!です。



クロアゲハは翅が傷んでいる個体が多かった中、こいつは痛みの少ない個体でした。
カラスアゲハも姿を見せてはくれましたが、翅がボロボロで痛々しくて撮れませんでした。



キアゲハやナミアゲハも時々姿を見せてくれるが、吸蜜よりも求愛行動をしている方が多かった。
求愛行動は2頭から始まって、途中からもう1頭加わってきましたので、蝶の世界にも子孫繁栄の戦いはあるようです。





さて、田園地帯を通ってみるとやっとノビタキが入ってきたようです。
数羽がいるのが確認できましたが、警戒心が強くって距離が遠い。



収穫期が近くなってきた蕎麦畑の畔に留まってくれたところをパチリ!
ノビタキは、しばらく滞在しているうちに警戒心が薄れてくると思いますので、また探しに行ってみよう!


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「アトリエ笑 小倉宗」さんと「画道レイ」さん~アート・イン・ナガハマ 2023~

2023-10-01 17:08:15 | アート・ライブ・読書
 「長浜芸術版楽市楽座 第37回 アート・イン・ナガハマ(通称AIN)」は9月30日と10月1日の両日に全国から約160組のアーティストが集結して作品を出展されます。
毎年AINでご本人と新作の作品に出会えるのを心待ちしているアクリル画の小倉宗さんは、今年も出展されていて今回が21回目の出展になります。

小倉さんは「浮酔絵師」を名乗られていた時代もありましたが、最近のAINでは「アトリエ笑」と名乗られていることが多いのかな。
最初に小倉さんの絵を購入したのが2007年ですから、コロナでAINの開催が中止になった年もあったとはいえ、絵との最初の出会いからもう17年にもなります。



到着したのはまだ開催前の時間だったことあって、準備中のブースが多い中、まずは小倉さんのブースを探してアーケードの中を歩き回ります。
かつて帽子屋さんのあった店舗の前に小倉さんのブースはあり、展示されている絵と限られたスペースのため展示しきれていない絵の写真のファイルを見せて頂きます。

パッと見て目を引くのが上段左に掛けられている“渡り鳥になったユミン”の「ほらね」と上段右の“鳥が大津絵の鬼の念仏になった”「鳥鬼の念仏」でした。
小倉さんに大津絵のことや卑弥呼のことなど、当方も興味を感じている話などを聞かせてもらい、鬼の念仏では片方の角を折るのが大津絵の正しい描き方なんだとか教えてもらう。



「ほらね」と「鳥鬼の念仏」の2枚のどちらにするか悩みましたが、昨年は鳥の絵を購入していますので、今年は渡り鳥ユミンの「ほらね」を選びます。
他にも「鬼の念仏」になった女性の絵とウクレレを持つ豚さんの絵以外は鳥をモチーフにした絵が多くなってきているようです。



小倉さんは個展を各地で開催されており、今週から来週まで名古屋市千種区の「ギャラリ想」で9/28~10/8まで開催中(写真左)。
また11/11~11/19は東京都世田谷区の「Gallery来舎KIYA梅猫庵」で「小倉宗・上田朱 2人展」が開催とのことです。(写真右)。



もう一人、今回のAINでお会いしたかったのは画道レイさんで、今回は「RAYライブペイント」と題して、襖に墨で絵を描くパフォーマンスでの参加です。
レイさんは昨年10月に安土の「浄厳院現代美術展」で本堂に通じる渡り廊下に並べられた「守・破・離・光」という作品を見たのが始まりです。
その時にお話を伺ったり、自作の歌を聞かせてもらったりして作品を含めて面白い方だと感じた方です。

今回はどんな作品に仕上がるかとても楽しみですが、まずは絵を描き始める前の真っ白な襖の前で姿を撮らせて頂きました。
毎回服装も育った地である倉敷や生まれ故郷の北九州市にちなんだ衣装を身に付けてられて常に個性的な佇まいです。
襖の外周に止められたネクタイは「賤ヶ岳の七本槍」の七人の武将を表し、手には鹿の角。鹿の角を持って何を考えるか?



レイさんはアーティストをして活躍されると同時に、モデルや俳優として二足の草鞋を履いて活躍されている方ですので、個性やキャラクターも強烈です。
今年のAINは戦国がテーマですので、戦国時代の長浜とお茶をテーマに瓢箪型の竹籠や茶筅などが準備されており、ヒマラヤ岩塩を墨に溶かし込んで絵を描かれるとか。



最初に訪れた時点では、まだ人が集まっていなかったので製作まで少し時間があるようでしたので、一旦離れて時間をおいて見に行く。
その時は、製作はかなり進んでおり、中央の円の中には既に富士山が描かれ、襖の右の龍を描かれている最中でした。
変な姿勢で描かれていますが、これは龍のヒゲを描くのに、自分の顎ヒゲに墨を付けて筆代わりにして描いている姿です。



レイさんは5年ほど前から創作活動を始められたといい、レイとはゼロの意味。
ゼロから始めた芸術活動は2018年の初個展以降、各地で個展やライブアートを精力的に開催されているようです。
最終日に覗いてみたら双龍図が既に描かれていて絵はかなり完成に近づいています。

10/21~11/5は安土町の浄厳院で開催される「浄厳院現代美術展~解き放つ」に出展。
11月早々には長浜市高月町の高月まちづくりセンター?で十一面観音にちなんだ11の作品とギャラリートークを開催とのこと。(まだネット上に情報が出ていない)



ところで、アート・イン・ナガハマの初期の頃は、信楽焼系の陶芸作品が多かったように記憶していますが、近年は信楽焼の陶器は減ったものの、焼き物という括りでは出展が多い。
岡山から出展の川原将太さんの器はカラフルな柄のカップが印象に残り、流木のような古木を取っ手に使ったカップなど実に個性的な作品です。
元々は絵を描がく人だったといい、陶芸の技術はないけど専門の上絵で作品を作り上げており、焼きは最大4回焼く場合があるとのことです。



洗練されて上品な作品が多かったのは草津焼きの「淡海陶芸研究所」でした。
草津焼きとは草津市内で採れる鉄分を多く含み大小様々な粒子が混ざった土を使った焼き物のことをいうそうです。
中高年の方がブースで足を止めて器を手に取られる方が多かったのは、シンプルな上品さに魅かれているのではないでしょうか。



インパクトがあるのは空き缶で作ったオブジェ作品と木彫りのフクロウを展示されていた「木楽工房」でした。
空き缶のオブジェは巨大な釣り針のようにも見えますが、通る時に否応なく目に入ってくるオブジェです。



大通寺の山門前からはにぎやかな音楽が聞こえてきます。
HONEYSというバンドがリハーサルをしていたのですが、顔ぶれからするとかなりのベテランバンドのようですね。



いくつになっても自分がやりたいことをやれる時間を持てるのは、とても幸福なことだと思いますし、そういった方々には羨ましさを感じる。
逆に言えば、やりたいことをやれる時間があるので、いろいろと苦しいことや辛いことに耐えられるのかもしれませんね。




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