僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

丹生谷文化財フェスタ~余呉町菅並「塩谷山 洞寿院」~

2019-08-31 16:36:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の「かくれ里」と呼んでも差し支えはないと思いますが、余呉町の丹生から菅並にかけての地域には古き良き日本の情景が多く残っている地域です。
山間の谷のような場所に集落が点在し、その道筋は福井県まで続き、周囲の山から流れ出る水は幾つかの河川となって高時川を形成して琵琶湖へと流れ込みます。

余呉町の丹生谷では「丹生谷文化財フェスタ」が去る8月25日に開催され、なかでも秘仏公開の2寺を含めて4つの寺院で特別公開がされました。
最初に感想を述べてしまうと、それぞれの寺院に祀られた仏像は実に見応えがあり、御堂を守っていこうとする地元の方の気持ちが伝わってくる特別公開でした。



さらに強く感じたのは上丹生の集落にしろ菅並の集落にしろ、居心地の良い場所で気持ちが安らぐ、とても気持ちの良い場所だということ。
木之本の町からも車ならさほど距離はなく、妻からは“そんなに気に入ったのなら空家を借りて住んだら?...独りで!”と言われる始末。



最初に参拝した寺院は「洞寿院」という曹洞宗の寺院で、「妙理の里」という施設から山沿いの参道を歩いて数分。
古めかしい石碑のような山門を抜けて道を進むことになりますが、道のアスファルトの新しさと巨木が連なる参道のアンマッチさも面白い。
片方は山となるが、もう片方には妙理川が流れており、清流からの冷気で夏とはいえ涼しく感じる。



山側には迫力のある巨木が生命感に満ちた姿を見せてくれます。
余呉には植林されている場所もありましたが、この巨木はまさに自然のエネルギーに満ちています。



ほどなく山門が見えてきて思わず漏らした言葉は“いい雰囲気の門やなぁ。”でした。
やはり寺院というのは自然のエネルギーの強い場所に建てられるのでしょう。
苔むした木々や積み上げられた石、五本筋塀の壁も気になりますね。



境内に入ると目に付くのは、特徴的な形をした灯篭の姿でしょう。
左右2塔の灯篭があって梵字が彫られていたものの、意味は読み取れずいつの時代のものかも分らない。



境内には六地蔵が祀られており、面白いのはそれぞれのお地蔵さんの目線の向いている方向が違うこと。
いろいろな方向を見て、救済すべき人を探していると勝手な感想を述べておきます。



「洞寿院」は1406年、如仲禅師によって開山された曹洞宗の寺院で、湖北の寺院では最北端に位置する寺院だといいます。
1605年には徳川秀忠より30石の領地と葵の紋章を寺紋とすることが許され、1788年には住職が京都霊鑑寺の戒師を勤めて以来、菊の紋章を本堂に付けることを許可されているそうです。
そのことから本堂の大棟には中央に“菊の紋章”両脇に“三つ葉葵の紋章”が付けられており、宮家ゆかりの格式である山門の五本筋塀がしつらえてあるのも分かります。



建物は中へ入ると新しいながらもその立派な造りに驚くことになる。
左に座禅場・右に本堂という配置になっており、座禅場には「単」が設けられて座禅座布団が並んでいることから、洞寿院で座禅修行される方が多いのだろうと思われます。



本堂の須弥壇には「釈迦三尊像」、「大日如来坐像(重文)」、「聖観音立像」、「祖師像」などの仏像が安置されており、外陣は想像以上に広く立派な造りに驚く。
壁には大きな「釈迦涅槃図」「地獄絵」「極楽浄土図」が掛けられ、特に「釈迦涅槃図」は絹に描かれた絵図に金糸などを使った刺繍がされており、ひときわ際立っている。
刺繍「釈迦涅槃図」は元禄時代の作のようですが、細かな刺繍による細工は見事という他ありません。



余呉は県内屈指の豪雪地帯でもあり、豪雪の年には6~7mの雪が積もったことがあるといいます。
そんな雪深い山と渓谷に囲まれた洞寿院は、かつては厳しい禅修行の道場であったと思われます。
“洞寿”という寺名の由来は「洞寿長寿」からきているといい、その意味は“幽仙に移って長生きする”ということのようです。




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黒山の「二体地蔵磨崖仏」と「石仏・石塔群」~滋賀県長浜市西浅井町黒山~

2019-08-28 19:25:25 | 風景・イベント・グルメ
 古来より琵琶湖の最北端である奥琵琶湖に位置する塩津の港は、万葉の昔から続く日本海の海産物や塩を京阪神に運ぶ湖上運送の要所だったといいます。
しかし琵琶湖は湖上運送が出来たものの、福井県の敦賀から滋賀県の塩津の運搬は陸路となり、交通の難所ともいわれた深坂古道を経由して物資を運んだようです。

近世に“新道野越え”というルート(国道8号線の元)が開かれるまで、西浅井郡黒山地区は敦賀と塩津を結ぶ街道筋として栄えていたといいます。
現在の黒山地区は里山風景の広がる長閑な集落になりかつての姿は想像できませんが、黒山地区には「黒山二尊磨崖仏」と呼ばれる磨崖仏が残されています。



黒山「二体地蔵磨崖仏」は、高さ1m強・幅2m強の花崗岩に二尊磨崖仏が彫られてあり、山際の田園地帯にポツンと佇みながらも地元の方により整備が行き届き、現在もその姿が維持されています。
磨崖仏が彫られたのは鎌倉時代後期の1304年だとされており、鎌倉期より黒山の集落の方や古道を行く人々に信仰され人々を見守ってこられたのでしょう。



蓮華座の上に立つ地蔵菩薩立像は700年以上の時を経て、風化はしてきているとはいえ実に見ごたえのある磨崖仏です。
左の地蔵菩薩は正面で合掌されており、右の地蔵菩薩は錫杖と宝珠を持たれているのが見て取れます。



右の宝珠を持たれた地蔵菩薩の光背に微かに文字が彫られているのが見えるが、風化が進んでおり読み取れない。
この文字には嘉元二年の銘が彫られているそうで、嘉元二年とは1304年ということになり、銘のあるものとして滋賀県では6番目に古いものとされています。



左の地蔵菩薩も風化はしていますが、合掌する手がはっきりと見て取れます。



磨崖仏を後方から見ると、迫る山の間にある田圃と黒山の集落が見えます。
何とも長閑で心地よい風景に気持ちが和みますが、この地は冬は雪の多い地方ですから降雪量によっては雪に覆われることもあるのでしょう。



集落への入口になる場所には7躰の石仏が安置されており、それぞれ前掛けをされています。
集落の方が出勤・通学の際に手を合わすまではしないとしても、目にするたびに“いつもそこにある”といった安堵の気持ちにさせてくださるのではないでしょうか。



さて、黒山の集落に入ると“東光院”という寺院(御堂)の境内に「黒山石仏群」と呼ばれる石仏が集められている寺院があります。
境内には数多くの「石塔群」と「石仏群」がありますが、まずは樹齢1000年といわれる椎の木が目に入ります。
この椎の木は樹高15m・幹周囲4.2mといわれ、樹齢1000年ということは平安時代に起源を持つ木ということになります。



石塔群は鎌倉期~室町期のものを含んで、“五輪塔”“五重石塔”“宝篋印塔”などが祀られていますが、その数の多さは1寺院としては異常な数になります。
これはかつての街道筋の町として栄えた黒山近在には多くの寺院があって、それらの寺院に祀られていたものが集められたと考える説に従うと納得がいきそうです。





法塔には元の形を残しているものもある反面、部分のみが残っているものも多数あります。
極端には火輪や風輪の部分だけが山積みに積み上げられているものもあり、独特の姿となって残っています。





境内の道路側にも五輪塔がズラリ。
法塔に囲まれている境内の中央部に石仏群が安置されている配置になっています。



黒山地区は、賤ヶ岳の合戦(1583年)で柴田勝家の輩下の武士達が負け戦となるであろうことを予測して、各々の家族を隠れ住まわした集落ともいわれています。
結局、合戦により武士達は討死してしまうわけですが、残された家族が石仏を奉って菩提を弔ったとの話が伝わっています。

しかし、石仏は明治の廃仏毀釈の折、当時の主だった人達の誤った解釈により山に埋没されてしまったといいます。
その後、山が開墾されて多くの石仏が発見されたといい、それらの石仏がこの東光院に集められたようです。
石仏が土中から発見された時、石仏の頭部は苔むすことなく地上に美しく出ていたとされたことから、頭の病・痴呆症にご利益があるとして信仰を集めているという。





“賤ヶ岳の合戦”は、豊臣秀吉が天下人へと大きく駒を進めた合戦であり、長浜市木之本町の賤ヶ岳から余呉町の柳ヶ瀬までの地域一帯で繰り広げられた戦だったといいます。
合戦の舞台となった余呉町や山を挟んで西にある西浅井町には賤ヶ岳の合戦に縁のある遺跡が知る限りでも幾つか残されています。

賤ヶ岳の合戦に関わった武将の菩提は、秀吉側・勝家側のどちらかだけではなく、両陣営の武将の墓が現在も地元の方によって弔われています。
合戦から400年以上もの時を経た今も、生前の立場を問わず、亡くなった者の菩提を等しく弔っているのは日本人の心のありようの良さと言えるでしょう。


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岩屋山 仙禅寺跡磨崖仏(岩屋観音)~滋賀県甲賀市信楽町~

2019-08-25 17:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 信楽焼の窯が点在する信楽の町から、朝宮茶(日本茶)の茶畑が続く地に鎌倉時代の磨崖仏が残されているといいます。
朝宮茶の産地は、宇治茶の産地である宇治田原と隣り合わせになる地域にあり、一帯は日本茶の産地となっています。

磨崖仏の祀られている岩屋観音(仙禅寺)へは茶畑の間に続く細い山道を行くことになる。
道路は舗装されてはいるものの、途中で茶畑の作業に向かわれる軽トラックとのすれ違いに難儀しながらも何とか目的であった寺院跡へ到着。



信楽の中心地にいた時には降っていなかった雨が朝宮に入った頃から急に降り出し、現地に着いた時は霧雨状態になる。
傘がいるほどではなかったが、横の渓谷には岩谷川が流れており、山の廃寺に独りでいることの心地よさと共に、多少の怖さも感じてしまう。



寺院の前には芭蕉の句碑“木隠れて茶摘みも聞くやほととぎす”(一声鳴いて飛び去ったホトトギスの声を、茶畑の茶の木に見え隠れする茶摘み女たちも聞いたであろうか…)と並んで「朝宮茶発祥の地の碑」が立てられている。
朝宮茶は、嵯峨天皇御代に岩谷山(現在の仙禅寺一円:信楽町朝宮)に茶の実を植えられたのを起源として現在まで続いてきたとされ、政所茶や土山茶と並ぶ近江の銘茶となっています。



岩屋山仙禅寺は奈良時代の723年に創建され、山城国鷲峰山金胎寺の別院として僧房五宇を有し栄えたと伝えられています。
その後、暦応(南北朝時代)・文明(戦国時代)の2度の兵火により焼失してしまい、現在は小堂を残すのみ。



仙禅寺の元寺である金胎寺(京都府相楽郡の寺院で滋賀県栗東市の寺院とは別)は山岳信仰の霊地で、山内には現在も奇岩怪石が連なる行場があるそうですから、この仙禅寺も山岳信仰の色濃い寺院だったことが伺われます。
また、小堂とはいえ手入れがよくされているのは地域の方による“オコナイ”という祭事が行われている(らしい)ことによるものなのかもしれません。

“オコナイ”は滋賀県の湖北地方で行われる「五穀豊穣や村内安全」を祈願する神事で、湖北特有のものかと思っていました。
調べてみると、甲賀・湖南でも“オコナイ”が行われているようで、村の神社をでの神事として行われる湖北のオコナイとは違って、甲賀・湖南では寺院を中心として行われる祭事だそうです。



面白いのは「浄水」と書かれた手水なのですが、よく見ると山の斜面に這わせたホースで水を引いています。
おそらく山の更に高い所にある湧水か何かを水源にしているのでしょうけど、中々手間のかかることだったと思います。



磨崖仏は、御堂の中に床下から2階にかけて安置されている3mあまりの巨岩に三尊形式の磨崖仏が彫られています。
しかし、堂内は真っ暗で裸眼では三尊は見えず、やむなくフラッシュを使って確認してみます。



かなり風化してはいますが、三尊のうちの中心である薬師如来の姿が確認出来ます。
脇像の下に建長元年(1249年)11月8日と陰刻されているといい、鎌倉時代の磨崖仏であることは確認されているそうです。



御堂の2階へ上がると、光が差し込んでくるので三尊磨崖仏が裸眼で確認出来るようになりました。
中尊は高さ80cmの薬師如来像、右に不動明王・左に毘沙門天が浮き彫りされているとされているようです。



下の写真の左の階段が2階(堂への入口)へつながるのですが、堂の後方には山の斜面に向かって巨岩が折り重なるように続きます。
この地にはかつて山岳信仰や巨岩信仰があったことが伺われ、天台系の三尊形式からは密教的な影響がみられます。



境内から道路と岩谷川を挟んだ向こうには木々の茂る山の斜面が続く。
ちょうど仙禅寺の辺りは、斜面に連なっていた朝宮茶の茶畑がなくなって険しい山間道が続く場所になるようです。
ここで折り返しましたが、そのまま進めばMIHO MUSEUN方面へ続くのかと思います。



信楽へと戻る道には祠が2ヶ所。
一つは「薬師堂」で、屋根には草がぼうぼうと生えていたものの、周辺の草刈は出来ており、出来る範囲での整備がされているようでした。



道中には何かよく分らない岩が祀られていました。
これは“さざれ石”なのでしょうか。見ようによってはそう見えます。



地蔵石仏が集められている場所もあり、周辺にはかつて墓石だったかのような丸い石が転がっています。
地域に散らばっていたものを祠に見立てたこの場所に集めてお護りしているのかもしれませんね。



国道から集落を抜けて茶畑のエリアへ入る場所には鎌倉期のものといわれる宝篋印塔がかつての名残を残します。
後方に朝宮茶園が見えますが、斜面でアップダウンの多い場所での茶摘みはさぞや重労働でしょう。

しかも茶摘みというのは年に3~4回(一番茶~四番茶)あることもあるようですので大変な作業です。
この日も軽トラの荷台に収穫した朝宮茶を収納する大きなフレコンを積んでいるのを見ましたが、雨にも関わらず収穫をされていたのでしょう。



薄暗い木陰には大きな白いキノコが生えていました。
何というキノコかは知りませんが、暗がりの中ということもあって妖しく咲く花のような印象を受けます。



滋賀県では古寺や探鳥で訪れる山間部に有名無名に関わらず茶園があることが多いように感じます。
滋賀県は茶畑が多い所だと思いますが、高級茶の茶所としての歴史と共に、農作物に適さない土地で作る家庭茶もあったのだと思います。
コーヒー豆の違いや焙煎法による飲み比べや酒蔵での利き酒のように、お茶の飲み比べがしてみたくなります。

<追記>
世の中には同じようなことを考えたり、目ざとく商品化したりする方がいるもので、「きき茶」セットなるものを見つけました。
このセットには滋賀県三大銘茶を呼ばれる「朝宮茶」「土山茶」「政所茶」が含まれています。
「きき茶」とはなんとも贅沢で優雅な趣向です。




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「おちょぼさん」参拝~岐阜県海津市 千代保稲荷神社~

2019-08-22 05:50:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 岐阜県海津市の「千代保稲荷神社」は「おちょぼさん」の愛称で親しまれている神社で、神社としてはもとより、参道120軒もあるというお店での食べ歩きや買い物が有名な神社です。
毎月末には「月並祭」という祭りが行われ、深夜になってもお店は開店していて活気に溢れる神社だと聞きます。

「おちょぼさん」は地元では京都「伏見稲荷大社」愛知「豊川稲荷」と並んで「日本三大稲荷」とされているそうですが、これには諸説があるようで当てにはならない。
参拝した日は「月並祭」の日ではなく、まだお店は開店準備に追われている時間帯でしたが、参拝者は多く、如何に「おちょぼさん」が地元の方や遠方からの参拝者が多い神社(街)なのかが分かります。



神社の本殿・拝殿のあるエリアはそれほど広くはありませんので、まずは南口大鳥居から参道を歩き始めます。
南口から入ってすぐの場所、青果店の横に「荷席稲荷神社」がありましたので先に参拝することにする。



荷席稲荷神社は早川家の先祖が創建した神社で、早川家は宇多天皇にみなもとを発し、佐々木源氏をして近江の国に栄え、源氏信が早川但馬守となり、早川を名乗ったといいます。
その後、9代目の早川兼明左近が1555年、当地で地頭となり荷席稲荷神社を創建されたといいます。



「荷席稲荷神社」には「おちょぼさん」の「霊殿」と同じように名刺が奉納されているのですが、こういう神社は初めて見ました。
小さな本殿の賽銭箱の横には無数の名刺が差し込まれてあり、これは神に自己紹介して御利益をいただこうということなのでしょうか?

神社に参拝して柏手を打つ時に自分の紹介をしてからお願い事を言うと御利益があるといいますが、それの名刺版ということなのか。
ただ神様以外の一般の方にも個人情報が漏れてしまいそうですね。



中鳥居までくるともう千代保稲荷神社は目と鼻の先です。
お店は開店している店、開店準備に追われる店があり、お食事処にはまだ準備中の札がかかっています。



鳥居ばかりになってしまいますが、参道は南口大鳥居から東口大鳥居まで続きますので、神社参拝は後にして東口大鳥居まで行ってみます。
500mほどの参道の両端にある大鳥居の外側には駐車場か田舎道しかありませんので、両鳥居の間にある参道だけが特別な空間になっているようです。



さて、東口大鳥居で折り返し、いよいよ本殿への参拝へと向かいます。
鳥居を入った所に手水があり、身を清めた後で「油揚げとろうそく」を購入して本殿へと向かいます。



「おちょぼさん」では「油揚げとろうそく」を買ってから参拝するのが一般的だそうで、名刺の奉納といい油揚げの奉納といい、少々変わった参拝方法です。
1セット50円という手頃さもあってか、拝殿に向かわれる人はみんな“稲藁に結んだ油揚げ”を持って歩いていかれるのが不謹慎ながらユーモラスな光景に見えてしまいます。



ロウソクは燈明場で献灯しますが、参拝が終わったら持ち帰って家で献灯すると縁起が良いようです。
ロウソクを灯す時に扉を開けると、立てられたロウソク以外にも底には膨大な量のロウソクがありましたので、置いて帰る方のほうが多いようです。



「千代保稲荷神社」の御祭神は「大祖大神・稲荷大神・祖神​」の3柱で、商売繁盛・家内安全などにご利益があるとされています。
神社としての規模はさほど大きくはありませんが、商売繁盛の神ということで参拝される方が多く、参拝者数は年間250万人といいます。



ところで、手に油揚げを持っていては柏手を打てませんのでどうしたものかと前に進むと、油揚げ専用の箱がありました。
朝の時間帯でこれだけ奉納されていますから、人が増える時間帯や休日、祭りの時には膨大な油揚げが奉納されるのでしょう。



拝殿・本殿は外周を一回り出来ますので、本殿の方へ回り込んでみる。
神社では神職の方を見かけませんでしたが、祈祷は社務所で受け付けて渡り廊下を通って本殿へ行くようになっているそうです。



境内には不思議な場所があり、密集するように狛狐と灯篭・石鳥居が集まっています。
ここはかつて安置されていたものがお役目を終えて保管されているのでしょうか。



神社ののぼりも祭典などの時まで保管されているようです。



参道のお店は“縁起物・お食事処・川魚店・たい焼きや草餅などの甘物・洋服店・おもちゃ屋・青果店・漬物屋”など多彩です。
“串カツや味噌串カツ”や“淡水魚の甘露煮”などが人気のようで、店頭で買って食べ歩きの方も見られます。
甘露煮屋さんの店頭には“もろこ・鮒・はえ”などが並び、珍しいところでは“いなご”の甘露煮まである。



お土産屋さんにも商品は色種類あり、昔ながらの門前町の雰囲気がたっぷりです。
ただ価格は観光地価格ではなく全体的に安く感じます。岐阜価格ということでしょうか。



門前町で串カツや甘露煮と並んでよく目立つのはナマズの蒲焼でしょう。
鰻の価格上昇に対抗して近大が「なまずの蒲焼」を開発したってのは聞きますが、ここのナマズは揖斐川のナマズなのでしょうね。
ナマズの大きな看板が誘いかけてくるが、ややグロテスクなナマズ料理にチェレンジしてみるには値段が少々高い。



買い物に入ったお店にナマズの生簀があったので写真を撮らせて頂きましたが、ナマズがうじゃうじゃと泳いでいます。
きれいな水が流れ込んでいる生簀にいるナマズですから、泥臭さや生臭さは抜けていると思われます。





「千代保稲荷神社」は神社の参拝法も個性的で、お稲荷さんに油揚げを奉納する神社は他にもあるものの、参拝者がみな油揚げを持って歩いていく光景は特徴的です。
「おちょぼさん」とうい愛称は神社だけではなく、境内に並ぶお店や露天も出る月に一度の祭りも含めて人々に慕われている神社で、街全体が活気に溢れています。


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御朱印蒐集~兵庫県加西市 法華山 一乗寺~

2019-08-16 07:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「法華山 一乗寺」には“法道仙人がインドより紫雲に乗じて中国・朝鮮を経て、谷は蓮華の如く峰は八葉に分かれた当山に降り止まり、山を法華山と名付けた。”という縁起があります。
実際に参拝してみると、確かに幾つかの峰に囲まれた山間の地に一乗寺はあり、八葉の蓮華の縁起が語られてきたのにも頷けるものがあります。

一乗寺の周辺は山間ということもあって自然が多い地域です。あちこちから夏鳥の囀りが聞こえてきます。
到着した時にはまだ駐車場の管理人の方が来られていなかったこともあり、周辺を散策して非常に野鳥の密度の濃い場所でのしばしの探鳥会を楽しむ。



一乗寺は650年に法道仙人を開山として創建され、988年に花山法皇が御行幸された折に「金堂」を「大悲閣」と命名し、“西国三十三所巡礼の第26番札所”に定められたといいます。
法道仙人を開基とする寺院には、同じ兵庫県にある西国25番札所の「清水寺」や西国番外札所の「花山院」があり、他にも播磨地方には法道仙人ゆかりの寺院が幾つか残っているようです。

この一帯に飛鳥時代から仏教文化が栄えていたのは、ひとつには北九州に来た渡来人が瀬戸内を通り、四国や中国地方に痕跡を残しながら畿内へ入ったという推定があります。
北九州ルートや北陸ルートなどを通って畿内へ入ってきた渡来人の集団が幾つかあったのだと思われます。



現在の一乗寺の入山口に山門はありませんが、寺院の入山口から500mほど東と、入山口を通り過ぎて500mほど西の場所にはかつての山門が残されています。
一旦入山口を通り過ぎて「西の惣門」へ向かい門を探すと、西の惣門は加西市と加古川市の市境の場所にありました。
かつての惣門を確認したあと加古川市に数m入った所でUターンして戻る。



再び一乗寺の入山口を通り過ぎて、今度は東の惣門へと向かいます。
東門も西門も簡素な造りの門ですが、かつては巡礼道を歩いてきた人々がこの門を抜けて寺院に参拝したと思われ、この両門の位置からしてかつての一乗寺の境内が非常に広かったことが伺われます。
東門の先には巡礼道が残されていてやや荒れた道にはなっていますが、今もこの道を歩いて巡礼される方がおられるのだろうと思われます。
 




一乗寺の境内に入るとまず鎌倉期の「石造笠塔婆」が総高2.9mののっぽな塔身が目に入ってきます。
笠塔婆には1316年の銘があるといい、頂部には蓮弁の請花と宝珠があしらわれています。
この丁石は金堂まで1丁(約109m)を示しているといい、巡礼者の道しるべとなっていたのでしょう。



笠塔婆の少し奥で受付を済ませながらも気になるのは急な傾斜の石段です。
この石段は60段程度だったと記憶しますが、一乗寺の本堂(金堂)までにはこんな石段が三つありました。
石段の段数については“まだあるのか?”“これで終わり?”と受け取り方は人によって様々だと思います。



最初の石段を登りきったところに建てられているのは「常行堂」。
この御堂は、念仏を唱えながら本尊の周りを回る常行三昧の修行道場で、天台宗の寺院に建てられることが多いといいます。
建物は聖武天皇の勅願によって建立され、焼失を経て1553年に再建されたものの焼失してしまい、明治初年に再建されたものが残ります。



2つめの石段を登った先にそびえ立つのは国宝の「三重塔」。
建立は平安時代の1171年で、塔身が上へ行くほど小さくなり、その率は特徴的なほど大きい。
各層の照り起くりが美しく、繊細な組物の見事さもあり、優美な塔という言葉がしっくりとくる塔です。



三重塔は本堂(金堂)へと続く石段からも眺めることが出来るため、いろいろな角度から見られるのも山の斜面に建てられた一乗寺ゆえの光景です。
一乗寺の三重塔は高さが約22mあるとされ、奈良・京都にある塔を除けば現存する最古の三重塔だといいます。



金堂へと続く石段が最後3つ目の石段となり、緑に覆われた石段を登って金堂へと向かいます。
金堂の扁額には花山天皇が命名したと伝わる「大悲閣」の文字が読み取れます。
初代の金堂は650年に創建され、数度の焼失を経て1335年・1562年・1628年に再建され、現在の金堂は1628年に姫路藩主・本田忠政による建立で重要文化財に指定されています。





金堂の正面は懸造の舞台となっており、景観が良さそうな造りになっている。
この造り方ですので当然正面からは入れず、裏面の登り口から入ることになります。
裏面の登り口の前には手水があり、金堂が仏殿として独立した存在となっているとも言えます。





外陣は西国三十三所の札所特有の熱気のある場所となっており、多くの奉納額が掛けられています。
格子の障壁で仕切られた内陣には入ることは出来ず、中を覗き込む事は出来るようになってはいましたが、ビニールが貼られているためよく見えない状態です。



外陣で興味深いのは天井に花が咲いたように打ち付けられた納札の紋様です。
これは江戸時代の巡礼者が納札(木札)を参拝の証として天井に打ち付けたものだといいます。
外陣の柱にも無数の釘跡が残っていましたから、当時は命懸けだったであろう西国巡礼への想いが込められた札なのでしょう。



懸造の舞台から見る三重塔は、この山中にあって木々に埋もれるようにしながらも存在感を感じさせてくれます。
金堂の外周の廊下や舞台から見る風景はほぼ周囲の山の峰しか見えませんから、一乗寺はまさしく八葉の蓮華の峰に降り立った蓮華の谷と言えるのだろうと思います。



さて、蓮華の花咲く浄土とは対称となるのが「奥の院」の「賽の河原」です。
金堂の裏から奥の院にある「開山堂」への幽谷の道を向かうことになります。



開山堂は開山法道仙人を祀る堂宇で、1667年に建立されたといいます。
シンプルな御堂に見えますが、龍や獅子などの美しい建築彫刻を施した建造物です。



開山堂から更に昇ると「賽の河原」があるといいますが、入口は見当たらず、賽の河原へは開山堂を取り囲む柵を自分で開けて進むことになります。
賽の河原は、冥土の三途の河原で子供たちが石を積んで塔を作るが、鬼に壊されてまた石を積む場所。
登り道は急傾斜ではないが、中々足が進まず、張られたロールを頼りながら登って行く。



道の横には岩の上を水が這うように滴っているが、これは三途の川に見立てたものとも見て取れる。
しかし川というような水量などなく、六文銭を持っていても渡し舟には乗れませんね。



道は巨石がある場所で行き止まりになっており、ここが賽の河原となる。
洞窟のような穴の前には無数の石の塔が積まれていて、悲しみに満ちたこの空間には怖れを感じてしまいます。





民間信仰での賽の河原では、子供たちが石で塔を完成させても鬼が壊すが、地蔵菩薩によって救われるとされます。
この賽の河原にも穴の奥に数躰の石仏地蔵が祀られていて、苦しむ衆生の救済をされているのでしょう。



一乗寺の伽藍は国宝の三重塔、重文の金堂(本堂)の他にも重文の「御法堂(鎌倉期)」「妙見堂(室町期)」「弁天堂(室町期)」などの伽藍があり、年に2日しか公開されないという宝物館には飛鳥時代から奈良時代の仏像が安置されているといいます。
播磨の地に飛鳥時代から大きな仏教圏が築かれていたのは意外でもあったのですが、渡来人の国内での拡がりを考えると納得する面があると思います。
また、播磨の一帯に溜池が数多くあることにも独特の風土が感じられて興味深いですね。


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『紫香楽宮と甲賀の神仏-紫香楽宮・甲賀寺と甲賀の造形-』~MIHOミュージアム~

2019-08-11 08:20:30 | アート・ライブ・読書
 MIHO MUSEUMは甲賀市信楽町の人里離れた山中にある美術館で、世界の古代美術品の膨大なコレクションを収蔵しており、場所の特殊性や独特の建築様式に特徴がある美術館です。
現在、夏季特別展として『紫香楽宮と甲賀の神仏-紫香楽宮・甲賀寺と甲賀の造形-』が開催されており、謎の多い「紫香楽宮」の成り立ちや遺跡、「甲賀の仏像・神像」”などへの関心から美術館を訪れることに致しました。
MIHO MUSEUMには特別展の他にもギリシャ・ローマからエジプト・アジアを経て日本の美術品に至るまでの膨大なコレクションが展示されているのも魅力の一つかと思います。



信楽の町は「タヌキの焼物」に代表される信楽焼きの窯元が多い地域として有名ですが、辺鄙な場所にある陶芸の里といった印象は否めず、短期間とはいえここに都があったとは思えないような土地です。
しかし天平の時代の745年、聖武天皇が紫香楽に離宮を造営して大仏造立に着手したとされており、盧遮那仏を祀る寺院を中心とした都造りをしようとしたのは確かな事のようです。
結果的に紫香楽宮での大仏造立は断念して奈良・東大寺に盧遮那仏を造立したといいますが、紫香楽宮遷都・東大寺建立・大仏造立には僧・良弁や帰化人たちが大きな関わりを持っていたとされています。

聖武天皇は10年程の間に何度も遷都を行ったといい、その変遷は「平城京」→「恭仁京(京都木津川市)」→「難波京(大阪市)」→「紫香楽宮(甲賀)」→「平城京」となるといいます。
仏像好きな方からすると、奈良→木津川→甲賀のルートはその周辺地域も含めて仏像巡りの重要なルートであり、仏像文化の繁栄ルートに遷都の歴史を思わずかぶせたくなります。



MIHO MUSEUMは信楽の幹線道路から大きく離れた山中にあり、ミュージアムでは最初にトンネルを通って美術館へと向かうこととなります。
その間は電気自動車の運行もありますが、歩いて行ってもさほどの距離はなく、行きは歩いていくのが楽しい。
また建築物は周囲の景観に配慮されているため、美術館の80%は地下に埋没しているといい、山の胎内に入っていくような錯覚さえ感じてしまいます。



美術館が現代的な神社の本殿のような造りになっているのは、母体が宗教法人であることの影響があるかと思われますが、優れた近代建造物の一つとして見た方が正解かと思います。
猛暑日にも関わらず、国内外からの来場者が多いのも、この美術館への関心の高さを表しているのでしょう。



展示場への入口は、陽光が燦燦と降り注ぐような幾何学的な屋根となっていて、光に満ち溢れている。
美術館自体を「現代の桃源郷」をモチーフにして設計されたといい、リゾート感を感じるのは見渡せる限りの周辺が山だけであることの影響かもしれない。



会場に入って数分もしないうちに場内放送で「ギャラリートーク」の案内があり、一旦会場を出てエントランスへと向かう。
ギャラリートークは秀明文化財団の高梨さんによる「特別展の展示解説ツアー」。説明を聞きながら特別展を観て回るという企画でTVの“ぶらぶら美術館・博物館”のように歩きます。

高梨さんは専門は仏像と言われていましたが、「聖武天皇と甲賀」「紫香楽宮の発見(出土品)」などの背景や遺跡について、「石山寺と金勝寺・甲賀の社寺」に関してなど1時間以上に渡るツアーで説明を受ける事が出来ました。
ご専門の仏像については「飯道寺・正福寺・櫟野寺」の仏像の展示があり、金銅誕生釈迦立像(重文)や二臂で半跏座の如意輪観音像など展示多数。

石山寺の「塑像金剛蔵王立像心木(重文)」は、石山寺の塑像の内部から発見されたもので、ほぼ観る機会のない姿に圧倒されます。
最も関心を引いたのは「金勝寺」の9躰に及ぶ「神像・女神像」、8躰の「飯道神社」の懸仏でしたが、中々拝観出来ないものがこれだけ並ぶと言葉も出ません。



甲賀市・湖南市・栗東市の辺りは独特の宗教圏があったといわれ、そこには修験道や神道・仏教が混在していると言われます。
東大寺を開山した良弁は上記地域を影響下に置いていたという説があり、地域に定着していたとされる帰化人との関係については、そもそも良弁自体が百済出身・新羅出身などの説があるようです。
良弁は石山寺の建立にも関わったとされ、その資材は廃都となった紫香楽宮から野洲川~琵琶湖を経て運んだといいますから、地域において文化を築いていた帰化人が活躍したとも考えられます。

しかし、“なぜ紫香楽が都に選ばれたか?”について高梨さんの見解では“学者によって諸説あるが、紫香楽が選ばれた合理的な説明は出来ない。”と解説されていました。
確かに辺鄙な山間部にあり、奈良からも遠い紫香楽に都を遷都する意味は我々素人が考えても不思議に感じます。

聖武天皇の時代、世は疫病・大飢饉・大地震・政争・反乱が相次いだといい、また聖武天皇の親王の毒殺などの不幸もある中で遷都を繰り返し、大仏造立の詔を出したとされます。
白洲正子さんは「近江山河抄」の中で“天皇は良弁と帰化人に、最後の望みを託されたのではなかろうか”という印象的な言葉を残されています。
  


こうして美術展を観て紫香楽宮の歴史に触れると、気になってくるのは紫香楽宮跡がどうなっているのか?だと思います。
紫香楽宮跡は複数発掘されているようですが、かつての甲賀寺(もしくは国分寺)があったとされる内裏野地区へと立ち寄ります。



美術館での「特別展の展示解説ツアー」でも“帰りに宮跡へ寄ってみるのも面白いですが、熱中症で倒れるかも?”とおっしゃっておられましたが、着いた時間はうだるような暑さです。
何かイベントをされていたようで、入口に居られた方からも“行く価値がありますよ。”と背中を押されて宮跡へと向かってみる。



かつての甲賀寺は発掘調査の結果から全体像がCGで再現されており、かつての存在したであろう甲賀寺の姿が伺われます。
寺院は紫香楽宮の造営にあたって建立されたとし、発掘された各堂宇の礎石がそれぞれ残されています。





「中門跡」から一直線に堂宇が並んでいたらしく、中門を過ぎると1段高くなっている場所に「金堂」跡があり、現在は礎石と「紫香楽宮」の祠が祀られています。
金堂には大仏造立が計画されていたようですが、礎石を見る限りこの面積では東大寺級の大仏造立は無理だったと思います。





金堂跡の奥には「講堂跡」と「僧坊跡」の石碑が立ちます。
講堂跡も礎石の位置を見ると、平城京の寺院とは比較にならない小さな規模の寺院だったのだろうと思われます。
もし3年程度ではない長期間の間、ここに都があれば寺院の規模も変わったのかと思いますが、その時間がないまま再び平城京へと遷都されていったのでしょう。





直線に並ぶ“中門・金堂・講堂・僧坊”の右手には「鐘楼跡」が残されています。
この鐘楼跡は奈良時代の遺構としては数少ない遺例だといい、資料として重要なものだそうです。



「塔跡」はかつての仏舎利塔で、恐らく五重塔だったと推定されている遺構です。
この日は『夢の学習』という特定非営利活動法人が『紫香楽宮を学ぼう教室』を開催されている最中でした。

『夢の学習』は「地域の小中学生と大人が、地域の居場所づくり・共生社会の実現を目指して活動されている団体」で数多くのボランティアにより運営されているようです。
係りの方としばらく話し込んでしまいましたが、“子供・大人、老齢の方や障がい者”が共生を目指して活動されている内容は、“学校では出来ない学習で子供達が安心出来る居場所の実現”と受け取りました。



ギャラリートークで高梨さんは「滋賀には弥生時代から人が住みついている場所が多く、連綿とつながる歴史に流れの上にいる。」とおっしゃられます。
遺跡や遺構が多く、奈良や京都の都の文化や渡来人の文化などの時代の影響を受けつつ続いてきた地を、断片的にでもその道筋を辿ることが出来るのは恵まれているとしか言い様がないですね。


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御朱印蒐集~京都市右京区 五台山 清涼寺(嵯峨釈迦堂)~

2019-08-06 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都嵯峨野にある「清涼寺」には2躰の国宝仏像が安置されており、一躰は「三国伝来の釈迦如来立像」、もう一躰は「阿弥陀三尊坐像」となります。
本堂に安置されている「木造釈迦如来立像」以外の仏像は「霊宝館」に安置されており、特別公開されている春季・秋季にしか拝観出来ない仏像です。
清涼寺へは1年ちょっと前にも参拝しているのですが、その時は特別公開の時期とは違ったため霊宝館は公開されていず、今回改めて参拝に向かいました。



清涼寺に釈迦如来立像と阿弥陀三尊坐像の2つの御本尊が存在しているのは、かつて「棲霞寺」と「清涼寺」の2つの寺院があったことによるものだそうです。
「棲霞寺」は『源氏物語』に登場する光源氏のモデルであったといわれる「源融(嵯峨天皇の皇子)」の山荘・棲霞が、融の死後の896年に阿弥陀三尊を祀り棲霞寺の本尊としたのが始まりのようです。

一方の「清涼寺」はインド・中国・日本の三国伝来となる「釈迦如来立像」を持って宋から帰国(987年)した奝然が「大清涼寺」の建立を計画したものの、志半ばで没し、弟子の盛算が「清涼寺」を建立して釈迦如来像を祀ったといいます。
現在は「清涼寺(嵯峨釈迦堂)」として残っていますが、2つの寺院の御本尊は現在も国宝としてその姿を残しています。



清涼寺の堂宇は大火による焼失や大地震の被害などでの破損を受けたため、ほとんどが江戸期の再建建造物となるようです。
仁王門は1776年の再建で、楼上には十六羅漢が祀られているという重厚な感のある門になっています。



阿吽の金剛力士像は室町後期の作とされ、力強く迫力のある仁王様です。
仁王門の前には“御寄進功徳のお願い”として仁王門・狂言堂 屋根ふき替え修復の寄進のお願いの看板が立てられていましたが、寺院の維持管理はどの寺院でも今後は課題になってくるかもしれません。





清涼寺へ初めて訪れた時、あくまでも印象だけですが、地元で馴染みのある寺院と雰囲気が非常に似ていることに驚いた記憶があります。
それは規模や配置によるものもあるとはいえますが、通りがかりの人が仁王門の前や拝所でさりげなく手を合わせて通り過ぎていくような地域で親しまれている寺院の感じがよく似ている。



清涼寺の手水は井戸から汲み上げられた水が樋を伝って手水鉢へ流れ込むという雰囲気のある手水です。
まずはこの手水で身を清め、本堂へと向かう。



放生池と思われる「八宗論池」の横の木陰には4面に仏が彫られた手水鉢のような石像があり興味をひきます。
上部に穴が開いており、手水鉢か蹲踞として使われているようにも思えますが、何らかの塔の塔身ではないかとの話もあるようです。



さて、いよいよ国宝「釈迦如来立像」がおられる本堂へと入ることになります。
本堂(釈迦堂)945年に建立された御堂を起源に持つといい、度重なる消失の後の1701年に再建された建造物だといいます。





「木造釈迦如来立像」は像高162cmで奝然が985年に宋で模刻させて日本に持ち帰ったもので、衣の首の部分が丸首のようになっており、肩もはだけていず、左右対称の独特の衲衣は「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています。
寺院によるとご分身は奈良「西大寺」「「唐招提寺」「大善寺」、京都「因幡薬師堂(平等寺)」、鎌倉「極集寺」、千葉八千代「正覚院」が紹介されており、他にも模作された清涼寺式釈迦像は数あるそうです。

仏像の見事さに負けじ劣らず見事なのは堂内にある宮殿でしょうか。
宮殿は徳川五代将軍・綱吉と生母である桂昌院の寄進により再建(1701年)された豪華豪壮な宮殿で、釈迦如来像と宮殿の見事さに感動してしまいます。
しばらくの間、内陣に正座しその姿を目に焼き付ける。



前回参拝した時は見ていないのが、本堂裏から続く渡り廊下と方丈の庭園でした。
本堂の裏からの廊下を突き当たり、右へ進むと方丈へと入ることが出来ます。



庭の中にポツンと建てられているのは弁天堂。
建築年代は不明だが、江戸時代後期とされている御堂です。





庭園は池泉回遊式の庭園と小堀遠州作と伝えられている枯山水庭園があり、両庭ともにそれぞれ魅力のある庭園です。
方丈に住む長老や住職はこの門を通って本堂との行き来をされていたのでしょうか。



再び本堂へ戻り堂内で、曼荼羅・聖徳太子画・桂昌院の使った蒔絵の木器などの展示物、鎌倉初期の重文の「地蔵菩薩立像」を拝観して、もう一度御本尊の「釈迦如来坐像」に手を合わせて退出します。
本堂を出たすぐ横には「一切経蔵」があり、傅大士と笑仏が祀られていて堂内で参拝が出来ます。



一切経蔵の内部には中心部に「輪蔵」、四隅に四天王像が祀られ、輪蔵を1周回すと一切経を読んだのと同じ功徳があるということで輪蔵を回させてもらう。
軽く回せるのかと思っていたが、実は結構重く、ゆっくりと重みも噛み締めながら回すことになりました。



一切経蔵を出ると目に入ってくるのは「弥勒多宝石仏」の姿。
この石仏は空也上人が造ったという伝承があり、背面には多宝塔が刻まれています。
空也上人は平安中期の僧ですから、そうするとこの石仏は平安期の石仏ということになります。



期待していた「霊宝館」に入り驚いたのは、収蔵されている仏像が予想を遥かに越える仏像群だったことでしょうか。
清涼寺の「阿弥陀三尊」は画像等で見ることが出来ますが、実際に自分の目で見ると唖然とするほど迫り来るものがあります。

入ってすぐの場所左に「阿弥陀三尊(本尊は坐像にして178cm)」が安置されており、入った瞬間に思わず声を上げてしまったほど。
そのまま床に正座して見つめていましたが、この阿弥陀様からはよく阿弥陀如来に感じる“慈悲”や“包容”といった印象は受けず、凛々しくも美形の阿弥陀様に感じられる。
また脇侍の「観音菩薩坐像(168cm)」と「勢至菩薩坐像(168cm)」も美しい仏像で、飾りも美しいが手の印相に何ともいえない魅力がある。



仏像は「文殊菩薩騎獅像(平安後期・重文)」「普賢菩薩騎象像(同左)」「釈迦十大弟子(同左)」「四天王立像(同左)」と重要文化財揃い。
珍しかったのは半跏坐像の「毘沙門天(12世紀後半・重文)」で、これまで半跏の毘沙門天は見たことがない。
更には「兜跋毘沙門天(平安後期・重文)」、平安後期の「如意輪観音坐像)」と仏像の宝庫です。

霊宝館の2階には御本尊の「釈迦如来立像」の胎内に収められていた封籠品の五臓六腑や国宝の「十六羅漢図」などが展示されています。
十六羅漢図は模写が置かれており、実物は東京と京都の国立博物館に寄託されているようでした。

ところで、霊宝館が建つまで「阿弥陀三尊像」は「阿弥陀堂」で祀られており、阿弥陀堂は旧棲霞寺に由来する堂宇だとされます。
阿弥陀堂は895年に建立された後、幾度かの消失を経て1863年に再建されたといいます。



この清涼寺には「豊臣秀頼公首塚」があり、少し違和感を感じますが、秀頼と清涼寺には縁があったようです。
秀頼のものと思われる頭蓋骨が大阪城の調査で出土(1980年)され、1602年に本堂の寄進・造営を行ったという縁により、清涼寺に首塚が祀られたとされています。
尚、清涼寺には“奝然上人(開山)、嵯峨天皇(第52代天皇)、源融(嵯峨天皇の皇子)、檀林皇后(嵯峨天皇の皇后)の宝塔があります。



参拝が終わり仁王門へと向かうと、仁王門と並んで本堂を見据えるように法然24歳の像(然上人求道青年像)が本堂を見守るように立たれています。
比叡山で修行していた若かりし頃の法然は清涼寺に七日間参篭したといいます。



この日、せっかく嵯峨野までやってきたのでもう1寺参拝してみるつもりでしたが、本堂(釈迦堂)の宮殿に安置される「釈迦如来立像」と霊宝館の「阿弥陀三尊像」を始めとする仏像群に圧倒されてしまい、余韻を残しながら帰ることにしました。
あまりに見事な仏像でしたので“この上、さらに別の仏像を観るのはもったいない。”という妙な気持ちになったということです。


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御朱印蒐集~京都市右京区 大内山 仁和寺~

2019-08-01 18:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 神社・仏閣へ参拝する事が多く、その中には何度も訪れている所や小さな観音堂などが多い反面、一度も参拝したことのない有名な神社・仏閣が数多くあります。
今回参拝した仁和寺もその一つで、何度も寺院の前(二王門)を通ることがあったにも関わらず、参拝するのはこれが初めてとなります。

参拝した時期には「霊宝館」で春季名宝展「物語・うたの世界」が開催されており、「観音堂」では「幻の観音障壁画初公開」が行われていることもあり、今回の初参拝となりました。
仁和寺といえば春には「御室桜」、秋には紅葉の絶景が有名で、桜見物や紅葉狩りの季節には訪れる人が多いようですが、花のない今の季節も「観音堂」へ参拝される方など多くの方が参拝に訪れておられました。



仁和寺は平安時代に光孝天皇により西山御願寺として着工され、888年に宇多天皇によって落成されたといいます。
門跡寺院として「御室御所」と呼ばれて親しまれて、真言宗御室派の総本山として世界遺産にも登録されている寺院になります。



しかし京都の寺院の例に漏れず、応仁の乱によって全焼してしまい、寛永年間に徳川家光により再興されたものが現在の姿につながるとされます。
寺院が見えてきた時に唖然としたのは、“二王門が工事中”だったことでしょうか。
何度も二王門の前を通ってきたのに、参拝の時に限って工事中とは...。



二王門の下は工事の方が行き交う中、部分的に入れるようになっていて、金剛力士像の所には小さな窓が設けられています。
完全に工事で封鎖して立ち入り禁止にしていないのは参拝者への配慮なのでしょうね。





入山するとかつて宇多天皇の御所があったという「御殿」へ入ることになります。
御殿から「宸殿」「白書院」「黒書院」が並ぶ建物は迷路のように廊下が続き、室内には襖絵を見、外は白川砂の「南庭」・池と樹木が茂る「北庭」を見、と門跡寺院らしい景観が続きます。
白書院の南庭からは勅使門がのぞめましたが、光が強すぎて砂紋が写真では分かりませんね。



白書院の各部屋には福永晴帆の襖絵(1937年)が描かれ、部屋の真ん中には信楽焼の「和風」という見事な壺が置かれています。
ただしこの建物はあくまでも出家した皇族の部屋になりますから、豪華絢爛なものというよりも静かな隠棲の場所という印象を受けます。





高貴な印象のある南庭とは異なり、北庭は池を中心として樹木の茂る庭の様相となっています。
後方に見える建物は「霊明殿」と「五重塔」で、池には色鮮やかな鯉が泳ぎ、姿は見えないもののカエルの声がよく聞こえてきて参拝者の関心をひきます。



渡り廊下を渡って行くのは「霊明殿」で歴代門跡の尊碑を安置する場所だとされています。
霊明殿は御殿内で唯一の仏堂で、1911年に竣工した建物のようです。





霊明殿には全高10.7cmの本尊「薬師如来坐像」が秘仏として安置されているといい、平安時代の1103年に造られ、国宝に指定されている仏像だといいます。
東京国立博物館で開催された特別展「仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―」展で公開されたそうですが、仁和寺で拝観出来るのはお前立ちのみになります。



御殿を出て境内を歩き始めると想像以上に広い境内に驚くことになります。
境内の広さと拝観場所の多さから、後から来られた方が参拝順路を係りの方に聞かれると“今から全部(八十八番札所を含む)回るには時間が足りませんよ。”といった広さ。

参道の途中には1644年に建立された重要文化財の「五重塔」が総高36mの姿を見せてくれます。
五重塔は上層へいくほど屋根が小さくなるものがありますが、この塔は“下層から上層の各層の屋根の大きさがほぼ同一”で、これは江戸期の様式の特徴だそうです。





さて「観音堂」の「幻の観音障壁画初公開」になりますが、公開は373年前に観音堂が建てられて以来、初めての公開となるそうです。
東京国立博物館での2018年の「仁和寺と御室派のみほとけ ― 天平と真言密教の名宝 ―」展では、壁画は高精細画像での再現だったようですから、仁和寺観音堂の公開はまさしく「373年前の輝きが今、よみがえる」となります。



観音堂も仁和寺が再建された江戸初期の建築物で重要文化財に指定されている建物です。
御堂の左側から入り、須弥壇を前にして説明を受け、後陣を一回りして壁画を見て、右側から出るという流れになりますが、用意されている席は説明の度にほぼ埋まります。



須弥壇には観音堂ご本尊の「千手観音立像」を中心に左に「不動明王坐像」、右に「降三世明王坐像」が両脇を固めます。
さらに横には左右に分かれた「二十八部衆」、その前には左に「風神」右に「雷神」が居並びます。

後陣の壁画には「補陀落浄土図」「三十三応現身像」「六観音」「六道図」が劣化も少なく残されています。
気になったのは内陣正面の長押に掛けられた「懸仏」でした。梵字が3文字彫られていましたが、何という字かは不明なのが無知ゆえに残念なところです。



観音堂では最初の説明が途中からでしたので、次の説明時には最前列で話を聞かせていただきました。
説明が終わりましたので椅子から降りて床に正座して拝観しましたが、やはり仏像は座った位置から見るのが一番いいですね。

観音堂を出た後は仁和寺の本堂にあたる「金堂」へと向かいます。
金堂は1613年に建立された御所内裏紫宸殿を寛永年間に移築したもので国宝に指定された建築物です。



金堂は通常非公開となっているため内部の様子は不明ですが、御本尊の「阿弥陀如来坐像(平安期・国宝)」は「霊宝館」に安置されています。
金堂で興味深いのは屋根瓦にある亀に乗った仙人でしょうか。
3000年から4000年に一度顔を出す亀を仙人(黄安)は3・4回見たとされる故事に由来するとのことです。





仁和寺の「霊宝館」では春と秋に名宝展が開催され、今年の春は「物語・うたの世界」をテーマに名宝展が開かれています。
テーマ展では「万葉集注釈」や「源氏物語などの歌謡を中心とした作品や信長・秀吉の「朱印状」などが展示されており、奥には仏像群が安置されています。



仏像は金堂の本尊である「阿弥陀如来坐像(平安期・国宝)」と脇侍である「勢至菩薩立像」と「観音菩薩立像」の阿弥陀三尊。
安置仏の左から「吉祥天(平安後期・重文)」「文殊菩薩坐像(鎌倉期・重文)」阿弥陀三尊を挟んで、「多聞天(平安期・重文)」。
厨子に納められた「不動明王坐像(江戸期)」「童子経法尊坐像(江戸期)」に上人像が並び、入口には「愛染明王坐像(江戸期)」。


「仁和寺と御室派のみほとけ」ポスター:左が仁和寺の阿弥陀如来坐像

仁和寺の建造物の中で14棟もが重要文化財の指定を受けていますが、その一つの「中門」に「多聞天(毘沙門天)」「持国天」が祀られています。
両天ともに鬼神を眷属に従えていますが、三尊で並ぶ姿はあまり見たことはない形式でした。





仁和寺には二王門」「中門」「本坊表門」と「御影堂中門」の4門が重要文化財になっており、御影堂中門
から入った「御影堂」も重要文化財に指定されています。
桧皮葺の仏堂は京都御所の新築により不要となった清涼殿の古材を要いって建てられたものとされます。



大きな造りとなっている鐘楼も重要文化財の建造物です。
朱色の鐘楼が覆いかぶさるような青若葉の緑に映えています。



二王門の外側は工事中で足場が組まれていますが、境内側(中門)から見ると通常の姿を見せてくれます。
最初に足場組みを見た時はガックリきたものの、寺院としてはその名に違わず見所の多い寺院でした。



仁和寺は昨秋の台風21号の暴風によって被害を受けて、この春より現在復旧工事をされているようです。
そのため一部、通常拝観順路とは違うものになっているそうですが、工事完了後に参拝した時には別の視野で拝観出来るかもしれません。
工事が完了した後の特別展の時にでももう一度訪れてみたいですね。


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