僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~大阪府藤井寺市 紫雲山 葛井寺~

2019-05-30 07:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所第五番札所の葛井寺は、昔ながらの商店がアーケードに並ぶ庶民的な街の一角に馴染むようにして建てられている寺院でした。
西国札所寺院は山中に潜むように建てられている寺院や街中の寺院など、それぞれの寺院によって有り様 は様々なんだと感じます。

葛井寺は7世紀に百済からの渡来人である葛井氏の氏寺として建立されたと伝えられています。
725年には聖武天皇の勅願によって「十一面千手千眼観世音菩薩像」を祀り、行基が葛井寺を創建したといわれます。



当時の葛井寺は、東西に2つの三重塔を有する薬師寺式伽藍配置を持ち、非常に栄えた寺院だったようです。
しかしその後、1493年の兵火と1510年の地震で堂塔を失ってしまい、現在の堂宇は江戸期に再建されたものだといいます。



入母屋造の楼門「南大門」は1790年に再興されたもので、金剛力士像が安置されています。
南大門は住宅街と続く門前町にあり、アーケードの入口付近にある西門と共に、繁華な街中に忽然と現れる門といった感があります。



仁王門には阿吽の金剛力士像が安置されていますが、やはり金網越しの仁王様になります。
南大門が完成した時に仁王像が安置されたとすると、200年以上は風雨にさらされながらも寺院を守護してきたことになります。





南大門から見る境内は本堂を正面に幾つかの堂宇が並びますが、街の中のこじんまりとした寺院の印象を強く受けます。
ただし、近隣の方らしき方が絶えず参拝に来られていましたので、西国巡礼札所寺院である以上に地域の方に親しまれている寺院のような印象を受けます。



南大門から入山した左側には巨木があり、その後方には西国三十三所の本尊を彫った石碑が並びます。
石碑に本尊が彫られ、文字は御詠歌でしょうか。これほど手の込んだお砂踏みは葛井寺だけかもしれません。





本堂の前には「紫雲石灯篭」があり、「聖武天皇御寄附 寫紫雲石燈篭」の石碑が建てられています。
この石灯篭には“花山法皇が本尊を参拝した時、本尊の眉間から光が射し、灯籠から紫雲がたなびいた”という伝承があるようですが、残念ながらこれはレプリカで本物(鎌倉期)は本堂裏の庭園に保管されているそうです。



石灯篭の右手には「旗掛けの松(三鈷の松)」があり、この松は南北朝の時代に楠木正成が息子の正行・正時・正儀と共に葛井寺の境内に陣を敷いた際に非理法権天の菊水旗を掛けた木だとされます。
細川顕軍に勝利した後、この松からは三人の息子にちなみ三葉の松ができるようになったといい、三葉の松からは不思議な力が授かることが出来るといいます。
現地には落ちた三葉の松の葉を熱心に探している方がおられましたので、有名な松なのかと思います。



旗掛けの松の後方には「弘法大師堂」が建てられ、横に大岩の上に乗った「弘法大師修行像」があります。
真言宗系の寺院ではよく見る弘法大師像ですが、大岩に乗っている弘法大師は岸壁に立つというより、雲の上に乗って空を飛んでいるような印象さえ受ける御姿です。





本堂の西には「護摩堂」があり、「不動明王」「千手観音」「役行者」が祀られていました。
葛井寺の護摩堂は、大峰山入峯の最初に行場として修験者の信仰を集めてきたといい、地図で見ると確かに吉野から熊野へと続く道の入口に藤井寺は位置するように見えます。





「本堂」は1744年に起首し、30余年に及ぶ難事業の末に完成されたとされる建築物で、堂内には御本尊の国宝「十一面千手千眼観世音菩薩像」と脇侍に「地蔵菩薩像」「聖観音像」が祀られているといいます。



御本尊は秘仏ではあるものの、毎月18日に開扉されているといい、一度はこの目で観てみたいが、縁がないのかどうしても日程が合わない。
やむなく外陣から閉じられた扉に向かって手を合わせる。



葛井寺の「十一面千手千眼観世音菩薩像」は現存する千手観音の中で最古のものとされ、1041本の手を持つ仏像だといいます。
千手観音は数多くありますが、一般的には42本の手の仏像が多く、実際に千本以上の手を持つのはこの極めて珍しいと聞きます。
昨年は東京国立博物館で公開されたそうですが、仏像公開が東京一極集中となっているのが残念なところです。





ところで、南大門の裏側には御本尊を描いた絵と地獄絵図が展示されていました。
御本尊はいつか拝観するとして今回は額絵を見て納得することにいたしましょう。





参拝が終わり寺院から出たのは重要文化財となっている「四脚門」からでした。
「四脚門(西門)」は1601年に豊臣秀頼によって南大門として建てられたものだとされます。
四脚門を出た右方向には昭和の匂いがプンプンと漂う葛井寺一番街のアーケードが続いており、雑多な大阪の街に寺院が溶け込んでいるのが面白い。



西国三十三所札所寺院の巡礼は、2016年3月に第三十一番札所の長命寺に参拝したのが始まりで、西国巡礼に特別にこだわって参拝してきたわけではありませんが、満願まではあとわずか。
急ぐ旅ではありませんが、いつの日か満願して谷汲山 華厳寺へもう一度お参りしたいと思います。




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御朱印蒐集~大阪府和泉市 槇尾山 施福寺(槇尾寺)・満願滝弁財天~後編

2019-05-26 10:38:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 西国三十三所第四番札所「施福寺(槇尾寺)」は、西国三十三所の第四番札所であり、西国巡礼の寺院の中でも有数の難所寺院として有名な寺院です。
前編は石段登りの話ばかりになりましたので、後半は本堂参拝以降の話になります。

施福寺は修験道の寺院(槇尾山寺)を原型として、仏教公伝の欽明天皇の時代に施福寺(槇尾寺)として創建されたと伝わります。
また空海が出家剃髪した寺院の伝承があり、真言宗の寺院として栄えたとされますが、度重なる戦火によって焼失してしまいます。
その後、豊臣秀頼の援助・徳川家の援助によって復興されて、西国札所巡礼の天台宗寺院として現在も信仰を集めています。



施福寺への参拝は約30分の石段登りが必要となりますが、本堂は参道入口の看板にもあるように、実は仏像の一大宝庫でもあります。
看板の文言は“いずみの国の大仏(おおぼとけ)”“山上大堂不思議仏の世界”“山上大堂立体マンダラ仏の世界”など書かれています。
しかし、これは過剰な表現でもなんでもなく、まさしく大仏(おおぼとけ)の宝庫でした。



これだけの寺院でありながら文化財指定を受けているのが“大縁起(書籍)や曼荼羅図”だけなのが不思議なのですが、仏像には年代等の記載もありませんでした。
本堂は1845年の火災による焼失後、安政年間(1854~1860年)に復興されたものといいますから、仏像もそれ以降に作製されたものなのかもしれません。



本堂へ到着した時には団体の方々が参拝中で般若心経の読教の中、山のように積まれた御朱印帳に驚きながらも御朱印の列に並びます。
御朱印待ちの間に団体の方の内陣拝観が終わって出て来られましたので、独りでゆっくりと仏像を拝観するには丁度良いタイミングです。





外陣は西国札所寺院らしい活気、熱のようなものが感じられます。
彫り物も見応えのあるものとなっており、線香を焚いてから大きくて響きの良い鰐口を鳴らして手を合わせます。



外陣には大きな提灯がさげられ、賓頭盧さんの姿もあります。
上部には本尊「弥勒菩薩」右に「文殊菩薩」左に「観世音菩薩」の扁額が須弥壇に祀られている仏の位置に合わせて掛けられています。



内陣の正面には施福寺の御本尊である丈六の「弥勒菩薩坐像」が安置され、向かって左には脇侍で西国巡礼の本尊である「千手千眼観音菩薩立像」が等身大の姿で祀られています。
向かって右には同じく脇侍で等身大の「文殊菩薩立像」が安置され、3躰の仏像の四隅には「四天王像」が菩薩・観音を守護していました。
どの仏像も見応えのある仏像ばかりで、さほど広くはない場所に並んでいますから“山上大堂立体マンダラ”の呼び名は決して誇張ではありません。



仏像は脇陣・後陣にも多数安置されており、丈六の「方違大観音坐像」は日本で唯一施福寺にだけ祀られている観音様だといい、凶方を吉方に変えてくださる御利益があるといいます。
後陣には「七福神」「二十八部衆」「撫で仏」と10数躰の小さな仏像、「槇尾不動坐像」「槇尾弁財天」と並びながら、「空海坐像「「最澄坐像」と施福寺の歴史を感じさせる密教の2大巨頭の坐像が祀られています。
「元三大師坐像」の前には「象」の像が置かれていましたが、これは須弥壇におられた「文殊菩薩」のものかと思います。

日本で唯一という「方違大観音坐像」の他にもう1躰日本で唯一といわれるのが「足守の馬頭観音」。
この仏像の珍しいのは坐像でありながら足の裏が見えるように正面に向けていること。

西国巡礼を再興された花山法皇が粉河寺から施福寺に向かっているときに道に迷っているところへ馬が現れ道案内したという故事によるものなのでしょう。
三面八臂で憤怒の表情をされていますが、足の裏をこちらに向けている姿には何となく愛嬌があります。
(仏像の一部は施福寺さんのフェイスブックでご覧になれます)



本堂のあるエリアには「西国三十三所観音堂」があり、各西国札所の御本尊のレプリカが祀られています。
これだけ並ぶと壮観なものがありますが、当方の西国三十三所巡礼も残す所あと3寺というところまで来ることができました。



参拝を終えて石段を再び下って駐車場まで戻ると、山上へ行く前に気になっていた「満願滝弁財天」へと参拝を致します。
お祀りする御本尊は弁財天で朱の鳥居から入り、稲荷大明神や白龍大神などを祀りますが、「満願滝」に「愛染不動明王」「役行者」「「弘法大師」を祀る神仏習合の寺院です。



本堂には弁財天をお祀りしており、中は暗くて見えなかったものの本尊「弁財天」の他にも「毘沙門天」「護法魔王尊」が祀られているようです。



境内を横切るように槇尾山から流れ出る川が流れており、透き通るような清流に架けられた橋の奥には「稲荷大明神」。



圧倒されるのは高さ70~80mはありそうな「満願滝」になります。
激流の滝ではないとはいえ、あの高さから落ちる滝にはある種の荘厳さを感じます。

滝の下には滝修行の場が設けられてあり、寺院の方(老齢の女性)に聞くと、“私たちはあそこで滝修行をしています。”ということでした。
槇尾山から流れ出る冷たそうな清水を見ると、やはり修行とは厳しいものだと実感することになります。





滝の落口の左右には「弘法大師像」「不動明王像」「役行者像」が祀られていて、この地が修験道や空海の真言密教の影響が如何に強かったかがよく分かります。



施福寺の石段登りでつくづく感じたのは、参拝される方に高齢の方が多く、足腰が達者そうに見えない方もゆっくりと自分のペースで本堂まで行かれていたことでしょう。
かなり登りづらい所もあるにも関わらず参拝されるのは、それだけこの寺院あるいは西国札所巡礼に想いがあるからなんだろうと感じざるを得ません。


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御朱印蒐集~大阪府和泉市 槇尾山 施福寺(槇尾寺)~前編

2019-05-22 06:00:01 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 大阪府和泉市の槇尾山(標高600m)の中腹(標高500m)に、西国三十三所第四番札所「施福寺(槇尾寺)はありました。
大阪府内といってもこの辺りまでくると田舎の山村風景が拡がり、かつて参拝道だった道は待避所はあるものの対向車と交差するのも困難な道を進んで行くことになります。

施福寺は西国巡礼の中でも難所といわれており、約30分の石段登りが必要な寺院。
他の巡礼寺院にも難所とされる寺院はありますが、施福寺の場合はショートカットをする術がありませんので、唯々登ることになります。



現在の施福寺は天台宗の寺院ですが、元は修験道の山岳寺院として槇尾山寺と呼ばれていたといいます。
寺史では34第天皇・欽明天皇の時代(500年代)に、弥勒菩薩を安置して施福寺が創建されたと伝わりますので、仏教公伝の頃に創建された寺院ということになります。



寺院には役小角・行基・弘法大師に関係する伝承が残されているといい、鎌倉時代には仁和寺(真言宗御室派総本山)の支配下にあった寺院とされます。
その後、南北朝の戦火、織田信長による焼き討ちを受けますが、1603年に豊臣秀頼の援助によって復興されたといいます。
江戸時代には徳川家の援助によって栄え、寛永寺(開基:家光・開山:天海)の末寺となって真言宗から天台宗に改宗されたようです。



駐車場に到着してまず驚いたのは停めてある車の多さだったでしょうか。
花のない寂寥とした季節にも関わらず、これほど参拝者が多いのは、それだけ信仰を集めている寺院ということなのでしょう。
また、ツアー・バスも入ってきて人がドヤドヤと登っていかれますので、しばらく周辺を散策して人が減ってから登ることにしました。



参道へ入ってすぐに“八丁”の石碑があり、1丁ごとに目印のように石碑が残りの距離を教えてくれます。
1丁は約109mですから本堂エリアまでは約1㌔といったことになります。



参道は最初はなだらかなアスファルトの道が続きますが、なだらかな登り道は石段の道よりも逆に登りにくいし、下りにくい。
最初はペースを上げて登っていきましたが、すぐに息があがってしまいペースを落とすことになる。
慣れている方はしっかりペースを守って登っていかれていましたので、自分の一番いいペースを守るのも修行の一つなのでしょう。



舗装した道から土の道へと変わり始めると寂しい光景が続くことになります。
独りっきりで登ると少し怖いくらいの寂しい道ですが、途中で参拝者に会えるのが救いで挨拶を交わしながらすれ違う。

「仁王門」へは数分歩けば到着しますが、そのすぐ近くには「十三重石塔」が祀られてありました。
正面横に真言宗の祈願文が彫られた石碑(萬邦協和諸人快楽)があることから、石塔に彫られている僧は弘法大師ということになりそうです。



施福寺は1845年の山火事で仁王門以外の伽藍を焼失したといいますから、この仁王門が寺院最古の建築物としてよいのでしょう。
仁王門に付けられている人型の小さな木柱には多数の“開運招福/手づくりお願いわらじ守”が奉納されており、西国巡礼の信仰の厚さを感じることができます。



仁王門には阿吽の金剛力像が安置されていますが、こちらは金網越し。
とはいえ、腰をひねった力強い姿からは古寺の仁王様ならではの雰囲気の良さと迫力を感じます。







仁王門から入山すると、ここからが石段登りが本格化します。
高齢で足腰が充分ではないように思われる方も黙々と登っていかれ、同行者がおられる方はお互いの足元を気遣いながら登り降りされるのは何とも微笑ましくも優しい。



最初は広かった参道もやがて狭く傾斜のきつい石段となってくる。
参道の脇の石垣にはチェーンやロープなどが付けられ、杖と共に参拝者の助けとなってくれる。



登るに連れて、ただ黙々と登るだけになってきますが、あちこちでウグイスが囀っているのが心地よい。
また見落としはあったものの、残りの「丁」を示す石柱を見つけると、つい“あと○丁!”と声を出して自分を励ましてしまう。





石段の途中に唯一下界が眺められるビューポイントがあります。
残念ながら天候に恵まれすスッキリとは見えませんが、天気の良い日には大阪湾や六甲山が望めるそうです。
貼られている案内には“まだまだじゃ 施福寺の段と 人生は・・”と書かれてあり、あと240段あることも記されています。





石段の終わりが近づいた場所には「愛染堂」と「弘法大師御剃髪所跡」の石柱が見えてきます。
伝承としては、20歳の空海が793年にここで出家剃髪したとの伝説が残ることが由来となっているようです。
空海は唐から帰国した807年頃に施福寺に篭ったとの説があり、由緒通りだとすると空海にとって施福寺はたいへん縁深い寺院ということになります。



愛染堂の少し上には「弘法大師剃髪堂」があり、弘法大師が剃髪した髪が祀られているといいます。
空海の得度は、東大寺戒壇院で得度したとされていますが、和泉国槇尾山寺(施福寺)で出家した説もありますから事実は謎となります。



剃髪堂の後にある傾斜の強い石段を登りきると参道は終わりとなります。
約30分といわれる参道を予定時間より少し遅れて登り切り、本堂のあるエリアにやっと入ります。
まずは手水で身を清めてから参拝しますが、吐水する龍はなかなかの迫力のある龍です。



施福寺は西国三十三所の札所として、西国巡礼の中でも有数の難所寺院としても有名ですが、実は仏像の宝庫でもあります。
今回は石段の話ばかりになってしまいましたが、長くなりましたので残りは後編とさせていただきます...続く。


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虎御前山から見る水田風景と田圃の野鳥たち(栄光山 玉泉寺)

2019-05-20 05:55:05 | 野鳥
 田圃が一番美しく感じられる季節は、やはり田圃に水が張られて田植えの始まった頃ではないでしょうか。
この時期の田圃は水を溜め込んで鏡のようにも見え、初夏の日本の風景を感じさせてくれます。

劇的な棚田風景などではありませんが、この虎御前山から眺める水田は田園地帯の景観の良さを感じさせてくれると共に、いつも変わらないその姿に心落ち着くものがあります。
前方に見えるのは山本山ですが、この位置から見ると山本山は単一の独立した山ではなく、他の山へと連なっている山だということが分かりますね。



東側を眺めると、朝は逆光ながら山に沿うような盆地に水田が拡がっています。
東南の田んぼには例年、虎姫出身の元三大師に縁の「角大師」が“田んぼアート”で描かれる場所でもあります。



さて、田園地帯で探鳥ということになりますが、新顔の姿はなく顔ぶれに大きな変化はない様子でした。
ゴイサギは何ヶ所かで姿を見かけたものの、それぞれ単独で過ごしているようでホシゴイの姿もありません。





田圃にはケリ・シラサギ・アオサギ・ムクドリ・ヒバリ・ツバメなど最近の常連さんばかり。
シギチの仲間で残っていたのはチュウシャクシギで3ヶ所で計7羽。いつも最後まで残ってくれるシギですね。



面白かったのは、こちらに見られているのに気付いたチュウシャクシギがしゃがんで隠れたことでしょうか。
最初から見ていたので姿は目で追えましたが、この格好で隠れている時に通りがかってもまず見落としてしまいますね。



水辺を見てみましたが、まだ水鳥のヒナには早いようです。
まぁいつも気付いた時には若になっていたなんてことがよくあるのですけど...。
数合わせみたいになってしまいましたが、コチドリをパチリ!



ところで、虎御前山にいた時は知らなかったのですが、5月19日は“田んぼアート”の田植えの日だったようです。
早朝に山に居たため、田圃に人の姿はなく気づきませんでしたが、7月下旬には田んぼアートが見頃になっていると聞きます。



現時点でもう田んぼアートの田植えはされていると思いますが、当方が見たのは輪郭線だけの「角大師」でした。
今年の図柄は「SL北びわこ号」と「角大師」と「令和元年」の文字だそうですので、また虎御前山へ行くことになるかもしれませんね。



虎御前山の近隣には「慈恵大師(良源・元三大師)」を本尊として祀る「玉泉寺」という寺院があります。
良源は912年、虎姫に生まれ、比叡山延暦寺で仏門に入り、天台座主として延暦寺中興の祖ともされる方です。
「角大師」は良源が夜叉の姿に変化して疫病神を追い払った姿とされ、現在も魔除けの護符とされています。



元三大師の生誕地の三川に建立されているのは天台宗寺院の「玉泉寺」。
本堂は平安時代中期に建立されたといいますが、戦国時代に焼失した後、彦根藩井伊家の寄進により1780年に再建されたといいます。



本堂の脇にはかつて使われていたと思われる屋根の装飾瓦がありましたが、角大師の恐ろしいイメージとは違う優しげな天女の姿をしています。





また寺院を出てすぐの細い村道には「元三大師御産湯井」が残されていました。
石柱は新しいものなので平安時代から湧き続けている井戸なのかどうかは分らないものの、三川地域には元三大師由来の遺構が幾つか残されているようです。




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豊郷小学校旧校舎群~「けいおん!」の聖地~

2019-05-18 12:50:00 | アート・ライブ・読書
 豊郷小学校旧校舎群は1937年に建設されたヴォーリズ建築の小学校で、アニメ(コミックス)『けいおん!』の高校校舎のモデルとなったことから“けいおん!の聖地”とされているそうです。
移動途中に校舎が見えましたので立ち寄りましたが、カメラを持った若い人が多く、一部の方はコスプレに身を固めエレキ持参の方までおられました。

そもそも「けいおん!」ってどんな話かを知らなかったのですが、簡単に言うと“女子高で廃部寸前の軽音部を続けるために4人の生徒が集まってバンド活動を始め、その彼女たちの日常を描く。”といった内容のアニメのようです。
ネットでコミックスの無料立ち読みを読むと、確かに登場するシーンの各場面に豊郷小学校を思わせる校舎が登場しています。



舞台となる豊郷小学校の旧校舎は1937年に、卒業生である古川鉄治郎氏が私財を投げ打って建設された建物だといいます。
古川氏は丸紅の専務だった方で、「世間から得たお金は世間へ還元する」という近江商人の“三方よし”の教えを体現されたということになります、
尚、当地は伊藤忠商事・丸紅の創業者で近江商人の代表格となる伊藤忠兵衛の生誕地でもあります。





校舎80年以上経過しているとはいえ、建物は十数年前まで小学校として使用されており、現在も複合施設として使用されていて古臭さは感じられない。
自分が通っていた小学校のことを思い出せば、残されている豊郷小学校は随分ときれいな校舎に見えます。



広い校庭には池があり、大きな鯉のオブジェが水を吹き上げていました。
今の小学校にもこういった池があるのかどうかは知りませんが、かつて通った小学校や近隣の小学校にも校舎の正面に池があったことを思い出します。



豊郷小学校で印象深いのは2002年頃にニュースで報道されていた“校舎解体と解体に抗議する住民とのトラブル”でしょうか。
経緯はよく分からないものの激しいやり取りの映像が記憶に残っていますが、現在は町おこしにも一役買っているようですから残しておいて正解だったのではないかと思います。



校舎は3階建てになっており、長い廊下を行ったり来たりすることになります。
夜に誰もいない校舎を歩いたらさぞや怖いだろうなと思いながら歩いていくと、階段にこの小学校のシンボルの一つであるブロンズ製の“ウサギとカメ”がありました。
イソップ物語の寓話に例えて児童たちの教育をされてきたのでしょう。階段の上に行くと居眠りするウサギや追い抜いてゴールしたカメの姿が残されていました。



渡り廊下を進んでいくと講堂へと着きます。
教会のような造りになっているのはヴォーリズ建築ならではということになりますが、ヴォーリズと滋賀県(東近江辺り)は縁深い場所が多いですね。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズは近江八幡市を拠点とされていたため、近江八幡市を中心としてヴォーリズ建築やメンソレータムの近江兄弟社が今も残ります。



校舎には音楽室があるのですが、室へ入った瞬間にコスプレの方がステージに立たれていて、これには驚きました。
部屋にはコスプレ衣装が置かれていて自由に着用出来るようになっており、なかには自前の衣装で来られる方もおられたりして、校内を独特の衣装で歩いていかれるのはまさにアニメの世界です。
また、軽音部の部屋の黒板にはファンが書き込まれたメッセージが書き込まれていて、おそらくは何度も消されて何度も書き込まれてきたのだろうと思われます。



部屋の中には“けいおん!”のメンバーが勢ぞろい。
でも誰が誰だか分かっていないのは申し訳ないところです。



けいおん!には「放課後ティータイム」を過ごす部屋が登場するようなのですが、これも実際に再現されています。
熱烈なけいおん!ファンが持ち寄った物もあるようなので、ここが“けいおん!”の聖地と呼ばれているのも分かりますね。



螺旋階段を降りた1階には“けいおん!”に登場した楽器のレプリカなどが展示。
当方が中学生の時に初めて買ったエレキがチェリー・サンバーストのレスポールでしたから、懐かしい思いで眺めておりました。



このスペースには“けいおん!”のコレクション品やグッズの販売・カフェなども併設されており、テーブル席には湖東・湖北の伝統的なゲーム「カロム」で遊べるようにもなっています。
部屋の隅の席には“野洲のおっさん”が独りで萌えていましたよ。



ところで、最近は開催されることの少なくなった盆踊りでは、滋賀県というと江州音頭ということになりますが、江州音頭の発祥の地は実はこの豊郷町だったようです。
一般的に音頭は仏教の声明や念仏踊りから始まったと言われますが、江州音頭は豊郷の「千樹寺」で明治元年に踊りを披露したのが始まりとされています。

盆踊り(江州音頭)の行事は、もっと古い時代から続いてきたものかと思っていましたが、その成立が比較的新しい時代だったことに驚きを感じます。
その歴史があって豊郷町のマンホールには“江州音頭を踊る人々”“町の花ツツジ”“提灯”がデザインされており、江州音頭発祥の地の歴史を伝えています。



豊郷小学校旧校舎群は誰でも無料で入れるようになっており、古い小学校の中を歩き回れるのは他に例がなく、中々面白いものです。
時代によって建築方法などは変わっていきますが、旧校舎群からはその時代の建築物の良さや時代の雰囲気が伝わってきます。


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セイタカシギ・アマサギ・ゴイサギをパチリ!

2019-05-16 17:56:56 | 野鳥
 毎週のように鳥見に行っていた頃、探鳥の目安に花の開花を参考にしていました。
例えば“○○の花が咲いたら○○が来る”とか“○○の花が終わる前までにどこそこへ行かないといけない”という類のものですが、最近はあまり参考にならないことが多くなっています。

鳥見をさぼってきたつけで経験値が落ちて、鳥感がなくなってきていることもありますが、花の開花時期や野鳥の飛来時期自体が変わってきていて、感覚とのズレがあるように思えてなりません。
GWが終わってさてどこへ鳥見に行こうかということなのですが、通常巡回コースを回るとセイタカシギの番が入っておりました。



この2羽はじっとしたままで動きがほとんどなかったのですが、♂は求愛なのかよく鳴いていましたよ。
♂は何度かディスプレイを掛けるものの不発。



一旦飛んで空を一回りして元の場所に戻ってきたけど、2羽の様子は変わりなし。
しばらくすると空にミサゴの姿があったが、ここは無視してセイタカシギに集中する。



先週は何種か見られたシギチの仲間も1週間経って姿を消してしまい、いたのはチュウシャクシギとタシギのみになってしまっています。
田植えの時期で野鳥も落ち着きが悪いということもありますが、これだけ暑いと野鳥の動きも変わってしまいますよね。





田圃にはダイサギ・コサギ・アオサギに混じってアマサギが数羽。
並べて見るとアマサギはかなり小型のサギになのが良く分かります。





枝かぶりになってしまいましたが、ゴイサギも定位置をキープしているようです。
どこかにゴイサギのコロニーがありそうですが、場所は不明なのです。



ぼちぼちと山へ入っての探鳥に行きたい季節になってきました。
初夏の山ではどんな野鳥との出会いがあるのでしょうね。期待したいところです。


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御朱印蒐集~伊奈波神社・金神社・橿森神社の「三社参り」~

2019-05-14 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 岐阜市内にある「伊奈波神社」「金神社」「橿森神社」の三社にお参りすることを「岐阜三社参り」というようです。
3社とは、父にあたる「伊奈波神社(五十瓊敷入彦命)」、母にあたる金神社(渟熨斗姫命)、子にあたる「橿森神社(市隼雄命)」となり、夫婦・親子関係の家族にあたる巡拝コースになると聞きます。

岐阜の中心地では、この三社を中心として4月に「岐阜まつり」が催されるといい、この祭りは伊奈波神社および三社の神幸祭と、斎藤道三に因んだ道三まつりを合わせて岐阜まつりとして行われるといいます。
橿森神社に参拝した時に神職の方から“是非、三社参りをしてみなさい。”と勧められて、駆け足にはなってしまいましたが、三社参りをしてきました。

 

「伊奈波神社」は三社の父にあたり、第11代天皇・垂仁天皇(3世紀後半から4世紀前半とされる)の第一皇子とされる五十瓊敷入彦命を御祭神として祀っています。
神社の規模としては三社の中でも最大で、境内社も立派な社が多い神社です。



一之鳥居・二之鳥居が続く参道には桜の木が並び、季節になるとしだれ桜が美しく咲く道となります。
参道の最後に「楼門」があり、その存在感のある佇まいは、さすが美濃国三宮の風格を感じさせます。(美濃一宮は南宮大社)



楼門を抜けるとこれまた見事な「神門」がある。
本殿から神門・楼門・参道・鳥居と続く一直線の道はまさしく神の道ということになります。



拝殿の左右には石造りの狛犬が祀られているのですが、狛犬の後方下部に「逆さ狛犬さん」がありました。
この逆さ狛犬さんを撫でると御利益があるということでしたので、左右の狛犬の後ろにそれぞれある逆さ狛犬さんを撫でてお願いをしておきました。



神門の中に本殿があり、神門からは弊殿しか見えませんが、実際は奥から「本殿」「拝殿」「弊殿」と3つの殿が並んでいるようです。
神門から拝んでいると、次々に参拝される方が来られたり、小さな赤ちゃんを抱いたお宮参りの家族も見かけます。



神門の左には「龍頭岩」が結界の中に祀られており、確かに岩が龍の頭に見えるのが面白い。
方向としては「黒龍大神」を祀る社に向いていますので、何らかのつながりがあるのでしょう。



伊奈波神社には境内社を含めて非常に明るい気を感じるのですが、「黒龍社」(御朱印2枚目)からは少し異質な空気が流れています。
御祭神は高竉神で、伊奈波神社が現在地に遷座(1539年)する前からこの地に祀られていたといいます。



三社参りは結果的に子(橿森神社)→母(金神社)→父(伊奈波神社)と巡ることになりましたが、2社目は「金神社」になりました。
何度か参拝したことのある神社とはいえ、当日は骨董市が開催されていたこともあって人波が凄かったですね。

 

金神社(こがね)の主祭神は「金大神」とされ、金大神とは「渟熨斗姫命」を指すといわれます。
渟熨斗姫命は、伊奈波神社の御祭神・五十瓊敷入彦命の妃とされ、五十瓊敷入彦命は朝廷の命により奥州を平定したものの、讒言によって朝敵とされて討たれてしまったとされます。



妃である渟熨斗姫命は美濃の地で討たれた夫を慰霊しつつも、当地でその生涯を終えられたと伝えられています。
渟熨斗姫命は地域の方から慈悲深い神と慕われ、やがて“財宝をもたらす神”として信仰されるようになったようです。
確かに鳥居もキンキラ金の大鳥居になっていて金運の御利益がありそうですね。



金神社の社は朱色の本殿と右につながるように境内社である金祥稲荷神社が並びます。
両方共に金の字がついていますので、金運向上で何度かお参りしたのですが、これまで御利益は...。
まぁ金運向上を目的にお参りすること自体が不純で浅ましい動機なのかもしれませんけどね。



ところで、金神社の手水舎の柄杓は知る人ぞ知る有名人の名が書かれた柄杓があります。
“錦織圭”“藤井聡太”“大谷翔平”と並びますが、3人とも岐阜県とは関係はなさそうなのでファンの方が奉納されたのかもしれません。
次に参拝した時にはどんな勝負師の奉納柄杓があるのでしょうね。



最後に三社参りのスタートとなった「橿森神社」を簡単に...。
橿森神社は、伊奈波神社(父)、金神社(母)に対して子にあたる市隼雄命を御祭神として祀る寺院です。
岐阜城のある金華山に連なる山の麓にある寺院になり、三社参りでは伊奈波神社と金神社の間に位置します。

 

橿森神社の神職の方から「三社参り」を勧められて、これも縁だと思って三社を巡ることになりましたが、3社の間の距離はさほどではなくレンタサイクルで巡ったら心地よい距離になるかと思います。
強く大きな父・慈悲深い母・信長に代表される近代の礎の子の3つの社と仮に書いておきます。





清楚な本殿の裏には磐石「駒爪岩」、信長が楽市楽座を開いた時に市神を祀った御神木「御薗の榎」が今も残ります。
古代の遺跡、近世に信長が天下布武に向かっていった地の名残りが今も残されているということになります。



また、織田信長を神として祀る「岐阜信長神社」も小さな宮ながら岐阜市民の信長に対する愛着が感じられる社ですね。
信長の出世物語にはさしもの斎藤道三も叶わずといったところですが、岐阜城から安土城に移った信長も最期は志半ばで死を迎えてしまいます。



駆け足ではありましたが、想定していなかった「三社参り」をすることになったのも一つの縁なのでしょう。
西日本の風習といわれる三社参りは、正月の初詣に3社の神社に参拝する事といわれるようですが、意識はしていないものの元旦と2日には初詣に出かけることが多いですね。


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御朱印蒐集~岐阜市 橿森神社・岐阜信長神社~

2019-05-12 18:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 岐阜市の中心部に祀られている「橿森神社」には織田信長を神として祀る「岐阜信長神社」があるといいます。
歴史的な人物が神となることは存外に多く、織田信長なら京都の「建勲神社」・豊臣秀吉なら同じく京都の「豊国神社」・徳川家康なら「日光東照宮」といった次第となります。

他の戦国武将でも神として祀られていることが多く、それは猛々しい大名への御神徳としての崇敬であったり、領民からの崇敬からくるものや、祟りを怖れて神として祀ることなどあるのでしょう。
信長は尾張・美濃の国とは切っても切り離せない方であり、当神社は岐阜城(稲葉山城)の近くにありますから、信長由来の伝承が多く残されている神社のようです。

 

岐阜市内を走行していた時にふと思い立って橿森神社へ参拝しようと立ち寄ったのですが、岐阜信長神社とはどんな神社かと興味があったことは大きかった。
移動中に金華山の上にある岐阜城が見えていたのも影響があったと思いますが、都合よく解釈すれば“おいで”と呼ばれたってことでしょう。



神社は岐阜の繁華街の柳ケ瀬からものの数分のところにあり、大通りに面する山の麓に建てられていました。
御祭神は「市隼雄命」。
父を『伊奈波神社』の「五十瓊敷入彦命」、母を『金神社』の「淳熨斗媛命」とするため、この3社は非常に関係が深いとされます。



神社の創建は第12代景行天皇の御代(4世紀前半)と伝えられており、1600年に兵火・1649年には火災にあったとされています。
再建について詳細は分かりませんが、1706年の古地図にあるといいますから、神社として途絶えることはなかったようです。



鳥居から入って横には公園が設けられており、その一角に見事な大木が植えられています。
この木は椨(たぶ)の木という照葉樹林といい、長良川以西の太平洋側に多く樹生している木のようです。

椨の木から橿森神社の参道へ向かうとそこに「岐阜信長神社」がありました。
御祭神はもちろん織田信長で、明治天皇によって京都の建勲神社から御分霊を勧請したとされます。





織田信長は1567年に当地を井の口から岐阜に名を改めて、城下町の発展を進めるために「楽市楽座」を開いたとされます。
“美濃を制するものは天下を制す”といいますが、信長はこの岐阜を足がかりに天下布武へと向かっていったのでしょう。



橿森神社には摂社の岐阜信長神社の他にも末社として「稲荷社」「秋葉社」「琴平社」があり、その中心部に本殿を構えています。
本殿の外拝には「橿森神社」の扁額。殿内には「神風殿」の扁額が掛けられており、右大臣・左大臣・狛狐が祀られた清楚な本殿でした。





本殿の前には「大王松」という三本葉の松があり、家族繁栄(夫婦・子)を示しているといいます。
落ちている葉を探して見ると、実際に3本葉となっているのが分かります。





本殿の後方はすぐに山となっており、山の一角には天馬が残したとされる「駒爪岩」があります。
市隼雄命(御祭神)が天馬に跨り、瑞雲寺山に降りたちお休みをされた際に、天馬が付けた駒爪跡だという伝説が残されています。



駒爪岩は、神社を守護する磐座ということになりますが、横から見ると生命力豊な樹木が岩の間から幹を伸ばしてきています。
自然の姿には力強いものがあるなぁと感心してしまいます。



織田信長は当地(上加納村御薗)に楽市楽座を始めて、商工業者の保護・育成に努めたわけですが、その際に市神(市の守護神)がこの榎の下に祀られたといいます。
その榎は「御薗の榎」と呼ばれ神木化されて民間信仰の対象となりますが、実際は御薗の榎の孫になるといいます。

明治11年の明治天皇行幸の際の道路改修によって現在地に移植されたといい、橿森神社の大門を出た場所の道路沿いにあります。
交通量が多いところのようですから、少し可哀想な気もしますね。



御朱印を頂きに社務所へ行くと、話好きな神職の方から“岐阜へ来たらなら「三社参り」をした方が良い。”と紹介をして下さります。
「三社参り」は「伊奈波神社(父)」「金神社(母)」「橿森神社(子)」の三社にお参りすることをいい、それぞれ父・母・子を指し、3社には深いつながりがあるといいます。

“三社には御朱印の順番があるので他の2社の分は御朱印帳を開けておきます、さらに各社にはもう1種の御朱印があるからその分も開けておきます。”ということでした。
実は残りの2社には参拝したことがあったのですが、良かれと思って紹介して下さっていることもあり、又これも縁だと思いそのまま三社参りに行くことに...。


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御朱印蒐集~岐阜県各務原市 日之出不動尊~

2019-05-09 06:10:10 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 岐阜県各務原市に「日之出不動」という神社とも寺院とも言い切れない神仏習合の寺院があります。
実際は、さほど遠くはない場所にある大安寺という臨済宗妙心寺派の寺院の奥の院にあたり、不動明王を本尊としていますから寺院ということになるのでしょう。

美濃地域には「美濃三不動」と呼ばれる不動明王を祀る寺院があり、「迫間不動(関市)」・「山中不動(各務原市)」とこの「日之出不動」の3つの寺院を指すといわれます。
日之出不動尊は巨石を御神体として祀り、数多い石碑には霊神の名が彫られているにも関わらず、観世音菩薩が祀られている独特の空気感があります。

 

寺院は(という呼び方に違和感はありますが...)、まず鳥居をくぐって入山することになります。
寺院の平面部はさほど広くはないものの、山の上に向かって広がっており、上の方にものぼりが立っているのが見えます。



ウィキペディアによると“現在のように鎮座したのは1887年頃というが、それ以前よりこの地域は霊地とされていたという。”とあり、“1914年には奥の院が設置された。”と書かれています。
廃仏毀釈・神仏分離の時代よりも後の年代にこのような神仏習合的な寺院が建てられたところは興味深いところです。
本堂の前には大きな5円玉のモニュメントと打出の小槌があり、弘法大師像が祀られているのも奇妙に思えてしまいます。



山の上へと登る石段の横には「日ノ出滝不動尊」という修行の滝場があり、修行場の如何にも冷たい空気に包まれています。
岩が赤茶色に染まっていますが、この辺りの山から流れ出る水には鉄分が多く含まれているのでしょう。



本堂エリアには、本堂の他にも大黒天を祀る祠や奉納された達磨を祀る達磨堂がありました。
驚くのは住宅地とは離れているにも関わらず、次々と参拝者が訪れて来られることでしょうか。
本堂でお経を上げて帰られる方も居られ、信仰する方の多い寺院だということに驚かされます。





さて、ここからが石段登りになります。
参拝者は多いものの上へ行かれる方はなく独りで登っていくと、この寺院の持つ独特の空気感に少し怖さを感じてしまいます。



山の上は上中下の3段に分かれており、下段には巨石を御神体に「身代石不動明王」が祀られています。
2つの巨石が微妙なバランスで重なっている姿は「落ない岩」と呼ばれていて、受験生からは「おちないわぁ~」と縁起担ぎのパワースポットになっているとか...。





更に中段・上段と登っていくと、最上段に御本尊である「御岳大神」の巨石が祀られています。
御岳大神は大日如来と同体と言われており、この岩(大日如来)はこの世界そのものといいます。
寺院の御本尊が巨石とされている寺院はあるとはいえ、御神体として大神を祀るとはまさしく神仏習合の寺院と言えるでしょう。



この最上部からの景観になりますが、とにかく奉納されたのぼりの多い寺院です。
また、あちこちに奉納された石像や奉納樹がみられることから、信仰の強さに感じ入ります。



折り返し下段まで降りてくると「見晴天狗」が祀られており、火伏せの神として大岩の上に鎮座しています。



「行者五代八大龍王」は、龍頭が彫られた石像でした。
下から見上げる位置にありましたが、5頭の龍が確認出来ます。



日之出不動尊は道路を挟んで両方に寺域がありますが、本堂側と反対の場所には「日乃出 観世音菩薩」が祀られ、山側には数多くの石碑が奉納されています。



寺院とは名が付くものの、空気感としては神を祀る場所の印象があります。
寺院で時に許容されるような感覚・菩提の弔いといった空気とは違って、冷水を浴びたような冷気と怖さすら感じる空気感は神の世界から受けるものかもしれません。


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春の湖北のシギチ祭り?

2019-05-06 20:05:06 | 野鳥
 野鳥の分類で“チドリ目 シギ科・チドリ科”の鳥を野鳥ファンは短縮して“シギチ”と呼び、春と秋の渡りの季節になると、追い立てられるように田圃や湖岸(海岸)へ探鳥に行きます。
“シギチ”の仲間は派手な色彩の鳥は少なく、茶色系の地味で似たようなやつが多いので、“好きな人は好き”の世界かもしれませんね。

当方が最初にシギチに興味を持った頃は“数年前までと比べるとシギチは少なくなった。”と言われてはいたものの、何種類ものシギチが大量に集まる田圃なんてのもありました。
その頃と比べても近年はシギチの数も種も減ったように思えてしまいますが、“何かいるだろう”ということで湖北の田圃を巡回してみます。



まずはムナグロが10~20羽。
何年か前までは数百羽のムナグロが飛来してきていましたが、随分と数が減ってしまいましたね。





田植え待ちで水を張った田圃に差し掛かると、何か飛んで畦に留まった。
留まったのはキアシシギが2羽でしたが、自分から目の前に出てきてくれた愛想のいいやつです。





“タカブシギが多い春はシギチが多い”と勝手なジンクスを作っているのですが、タカブシギは計4羽いました。
これからシギチが入ってくるという前触れだといいけど、もうシーズン最終コーナーだしな...。





ちょっと小ぶりなシギチはウズラシギ。
ちょこまか動いて顔を見せてくれないので困りますが、何とかパチリ!





ウズラシギと同じく小ぶりのハマシギは数羽が入ってきていました。
ムナグロと一緒だと、そのサイズから親子のように見えてしまいますね。





見つけやすいのは中型のチュウシャクシギでしょうか。幾つかの田圃で計20羽程度入っています。
チュウシャクシギは湖北へは、シーズンの早めに入ってきて遅くまで残っているような印象があります。



コチドリは渡りのシーズンだけに見かける鳥ではありませんが、やはりこの時期は水田に入ってきています。



春のシギチは何とか10種を確認したところで力尽きてしまいましたが、あと3~5種は入っていても不思議ではないのに...。
田圃には他にはサギの仲間、ヒバリ、ムクドリ、セキレイなどがやって来てにぎやかになっていますが、巣材集めのツバメも愛嬌のある姿を見せてくれます。





猛禽か?と思って空を見上げると、飛んできたのはゴイサギでした。
もう湖北にやって来てたんやね。





おまけは麦畑で休憩していたキツネとにらめっこ!





これからの湖北は野鳥のベビーラッシュを迎えますし、夏鳥が身近な場所で観察出来るかもしれません。
琵琶湖周辺の野鳥は冬とは全く異なった鳥相になるでしょうし、山で一夏を過ごす夏鳥にも出会いたいものです。


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