僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~京都市山科区 吉祥山 安祥寺~

2019-06-27 19:25:25 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 仏像、特に「十一面観音像」に魅力を感じているのですが、京都市山科区にある非公開寺院の「安祥寺」で非公開の十一面観音像が特別公開されると知り、山科の地へと向かいました。
安祥寺の十一面観音像は、過去に奈良国立博物館での平安遷都1300年記念「大遣唐使展」(2010年)で公開されたことがあるらしく、絶対秘仏ではないとはいえ、ほぼ拝観する機会のない仏像だといえます。

今回は、春の「京都非公開文化財特別公開」で特別公開される20社寺の一つとしての公開で、安祥寺での十一面観音像の一般公開は初めてとなるようです。
山科区の寺院といえば「毘沙門堂」が有名ですが、山際にある毘沙門堂よりも市街地にごく近い場所に安祥寺はありました。



安祥寺は平安時代の848年、藤原順子皇太后(54代・仁明天皇の女御)の発願により、恵運僧都(空海の孫弟子)を開基として建立されたといいます。
恵運僧都は入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人とされ、真言密教の中でまだ日本に伝わっていないものを求めて唐へ渡り、日本に移入した高僧といわれます。



安祥寺へと向かう道の途中には「安祥寺橋梁」と呼ばれる大正10年に建築された東海道本線の橋梁があり、通り抜けることになります。
現代的な庭付き邸宅などが並ぶ閑静な山科の町並みの中に、レトロな煉瓦の橋梁が溶け込んでいる風景が面白い。



寺院の前には琵琶湖からの湖水が流れる「琵琶湖疏水(山科疏水)」が豊富な水量で流れています。
山科疏水の周辺は桜の名所だといいますが、桜の花期が終わった後の「青紅葉」の疏水にも味わいがあります。



開門時間より少し早く到着すると、すでに表門横のフェンスの前には20名くらいの方が列を作って開門を待たれていました。
初めての一般公開を楽しみにしていた方々だと思いますが、通常時は寺院の入口にフェンスが張られて立ち入り禁止区域となっているのは非公開寺院ならではの光景なのでしょう。



「観音堂(本堂)」へと続く参道に山門はなく、右手に「薬医門」があるという造りになっており、門の中は寺務所あるいは坊舎のようになっています。
寺務所の横には、1306年に鋳造されたという摂津渡邉安曇寺の梵鐘「洪鐘」が吊るされた鐘楼(鐘楼は宝歴年間の再建)があります。
梵鐘は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に陣鐘として安曇寺より差し出されたものですが、返納の時に謝って安祥寺に返送されたものがそのまま残されていると伝わります。



観音堂(本堂)へと続く参道は、木々に囲まれて御堂自体は大きなものではありませんが、奥に本堂をのぞむ実に雰囲気がある参道でした。
自然の中に共存するような寺院建築には人の気持ちを引きつける魅力がありますね。

安祥寺の造営が完了した875年頃には、上・下両所の大伽藍を始め、塔頭の坊舎7百余寺を有し、定額寺(官寺)として栄えていたようです。
しかし、平安時代の末になると同じ山科にある勧修寺が実権を掌握するようになって安祥寺は衰退していき、ついには応仁の乱によって廃寺となってしまったといいます。
江戸時代の1613年になってから藤原順子皇太后施入の山林および境内地復旧の令により、現在の寺域となって再興されたのが現在の安祥寺となるようです。



観音堂(本堂)には奈良時代末期の「十一面観世音菩薩立像(像高252.5cm・総高311.5cm・重要文化財)」と、平安時代の「四天王立像」が安置されています。
四天王立像は広目天・持国天・多聞天が平安期の仏像で、増長天は江戸時代の後補とされています。



本堂の内部は建物に組み込まれた須弥壇が厨子となっており、中央には漆で黒く光る十一面観音像が安置されています。
この仏像の履歴については“平安時代に創建された寺院にも関わらず、奈良仏がなぜ祀られているのか?”という謎があります。

一説によると奈良の興福寺の起源が山背国(現在の山科区)に創建された山階寺であり、元々山階寺に祀られていた十一面観音像が安祥寺で祀られるようになったのかもしれないともいわれています。
十一面観音像は右手を垂らして中指と薬指を立てた印相(印相名不明)を示し、やや前傾姿勢で衆生を見下ろすような姿勢を取ったカヤの一木彫像の仏像です。



漆塗りの黒が引き締まった印象を与えており、バランスのいい体型で凛として立たれている姿には感嘆の声が上がっていました。
観音堂内では最も仏像に近いお供物壇から観る人、厨子の横から覗き込む人など熱心に拝観されており、当方も間近で拝観した後、堂内の壁際に座ってしばらく十一面観音像を見つめていました。



安祥寺に現存する堂宇は「観音堂(1817年建立)」の他にも「地蔵堂(1772年建立)」「大師堂(1773年建立)」があります。
地蔵堂には鎌倉時代後記の「地蔵菩薩坐像(像高134cm)」が祀られており、目視での確認は出来ませんでしたが玉眼が入っているといい、天井にある花天井絵も状態よく残されていました。



「大師堂」には僧像5躰が祀られており、向かって左から「興雅僧正(江戸期)」「恵運僧都(平安期)」、中央に「弘法大師(江戸期)」、右に「宗意律師(平安期)」「宥快法印(江戸期)」の尊像が祀られています。
中央の厨子に納められた弘法大師像は清水隆慶の作とされており、清水隆慶は江戸時代の仏師であると共に、人形など世俗の彫刻も彫られていた多彩な方だそうです。



安祥寺が江戸時代に復興された際には「多宝塔」も一緒に復興されたようですが、1906年に火災にあって焼失してしまい、現在は多宝塔跡だけが朽ち果てたように残されています。



多宝塔には平成31年(令和元年)に国宝に指定される「五智如来坐像」が安置されていたといいますが、火災の時には幸いにして五智如来坐像は京都国立博物館に寄託されていて無事に難を逃れたそうです。
尚、令和元年に重要文化財から国宝に格上げされる文化財としては、安祥寺の「五智如来坐像」・「キトラ古墳壁画」・「唐招提寺の6躰の仏像」となるようですね。



特別公開の運営は関西学生古美術連盟に所属する大学生たちが担っており、観音堂・地蔵堂・大師堂では学生さんによる簡単な説明が行われていました。
檀家さんを動員しての特別開帳にも趣きがありますが、大学生による警備や案内の光景もまた京都らしいと思えてきます。


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『2019 しがらきから吹いてくる風 日本 台湾 ベトナム交流展』~滋賀県立陶芸の森~

2019-06-23 05:08:08 | アート・ライブ・読書
 「滋賀県立陶芸の森 信楽産業展示館」では「社会福祉法人しがらき会」が主催する『2019 しがらきから吹いてくる風』(日本 台湾 ベトナム交流展)が開催されています。
この展示会は2011年から日本と台湾を中心に開催されてきたといい、今回の一六回目にはベトナムの障碍者の作品を含めての三国交流展となっています。

しがらき会は「滋賀県立信楽学園」で指導を受けていた生徒の保護者が浄財を持ち寄って1955年に設立した知的障がい者授産施設だそうです。
地域に根ざした視点で支援し、入所者の方は地域住民の一人として当たり前に働き、暮らし続けられているとされ、活動のテーマは“①働きたい、②楽しく生きたい、③無用な存在ではなく、有用な存在であると思われたい、④皆と一緒に暮らしたい”とされています。



滋賀県立陶芸の森 信楽産業展示館での展示スペースは想像していたよりも広く、作品は多岐に渡り出品数も多く、実に見所の多い展示会(Outosider Art Exhibition)でした。
出品リストには日本から14名の作家、台湾から32名の作家と団体からの出品。ベトナムからは8名の作家の名前が載っています。



会場へ入ってすぐの壁にはポスターにもなっている「池田邦一」さんの「僕の顔」と「コーヒーカップ」の2作品が展示。
ポップな絵で特に自画像の「僕の顔」では絵を通じて作家本人の存在感が強く浮き上がるように感じられます。
解説によると池田さんは70才代の方で、現在もワークセンターで活動されているといいます。



パステル調の淡い色彩が美しいのは「村田清司」さんの無題という作品群。
村田さんは生まれつき体が弱かったため、家で絵を描くのが好きだったといいます。
1987年からは絵本作家の田島征三さんと出会い、絵本を出版されるようになり、その絵本は受賞歴もあり高い評価を受けているようです。



会場の中央部のスペースにそびえ立つのは「川越壮真」さんの「ソウマタワー」。
彼はワークセンターでの作業(和紙のポチ袋に絵を描く)や週1回の絵画クラブで創作活動を行いながら、家に帰ってからは毎日、絵を描くのが日課だといいます。
“夢は芸術家になること”で志は高く夢は大きい。



林(リン)さんは仏教や道教の祭りに興味津々で、粘土で独特の神像を造られるようです。
“五府千歳”の祭りについてはよく知らないのですが、台湾では盛大に行われる祭りのようで、独特の宗教観が感じられて惹きつけられる作品です。
また台湾では知的障害者の親の立場から子供の声を人生に生かすため、きめ細かいサービスを提供しているといい、台湾各地に41の親の会があり支援をされているそうです。



「大江正章」さんは陶器で造る動物が有名な方で、他のアールブリュット展でも作品を見かけることのある作家です。
この「ねこ」という作品も愛らしさに溢れていて、素朴ながら古い民芸品のような味わい深い作品となっています。



アールブリュットらしい陶芸作品というと語弊があるかもしれませんが、「大杉和夫」さんの「千顔」という作品には無数の顔が寄り合っています。
元々は食器などの実用品製作を得意とされていたといいますから、信楽の陶器事業所での就労の経験が作品に活かされているのでしょう。



「謝宗叡」さんの「誕生」という作品は不気味なまでの奇妙な姿の作品です。
週3回の陶芸レッスンの時には少なくとも10点以上の作品を完成されるそうですから、この作品も心の赴くままに造られた作品なんだろうと思います。



大きな画用紙にペンを叩きつけるかのように描かれるのは「木野良和」さん。
ペンで線を描き込んだように見えるが、独特の力強さや生命感を感じます。
ペンや筆、あるいは素手で書き殴るようにして描くアンフォルメルのような作品は他の作家にも見られますが、内側から湧き出るような力と混沌を感じさせるこの絵に凄くひかれます。



数多くの作品・作家の中の一部分だけしか掲載していませんが、どの作品も個性豊かで面白い作品が多買ったと思います。
日本の作家が多くなったのは、タイトルの言葉からより連想するものが大きくなったこともあると思います。
それは例え「無題」であっても、その言葉に宿るものを感じたということになるのでしょう。


滋賀県立陶芸の森 信楽産業展示館

信楽産業展示館では今回のアールブリュット作品の展示会場の横に、信楽焼の作品の展示場が併設されています。
伝統と磨かれた技術から新しい作品を造形しようとする信楽焼と、内面から湧き出るような衝動から造られたアールブリュットの作品群との対比も表現スタイルの違いという意味で面白く感じます。


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コウノトリとゴイサギをパチリ!~姿が見えないサンコウチョウの囀り~

2019-06-19 17:58:18 | 野鳥
 コウノトリは全長約1m、翼開長約2mという大型の野鳥ですが、人家と近い田園などでごく普通に観察出来るのは不思議な感じさえします。
湖北では冬になるとコウノトリと同じくらいのサイズのコハクチョウが100羽単位で観察されますから、湖北にはそれだけ豊かな土壌があるということなのでしょう。

豊かな土壌というのは昔の田園の状態が残されているということにもなり、エサになるカエルやドジョウ等が多く生息しているということで、それは安全な食物を人に恵んでいると言い換えることが出来るかと思います。
田園地帯をウロウロしていると遠くの田圃にコウノトリが見えたので細い農道へ入ると、農道を立ち塞ぐように2羽のコウノトリが歩いていました。





コウノトリは静かにしていれば警戒心が薄い鳥とはいえ、先行く道に立ったままでほぼ動きがありません。
農道にはUターンするほどの道幅がなかったため、コウノトリが一定の距離まで移動してくれるのをじっと待つことになりました。



田圃にいる野鳥のいい所は、田植え前後の水を張った田圃での姿・初夏には緑の稲の上での姿・秋には黄金色の稲穂から首を出す姿・稲刈り後の2番穂を啄む姿と季節ごとの姿が美しいことでしょう。
この日は晴天の午後でしたので日差しが強く、羽毛の美しさが目に焼き付きます。





いつまでたっても道路側からコウノトリが移動してくれないので、そろそろ行きたいんだけど...と思いつつ、いつまでもコウノトリの移動を待つことになる。
少々待ちくたびれてきた頃になっても、コウノトリの方はどこ吹く風であくびまでしておりました。



ところで、とても残念だったのは声が近い距離で確認出来たのに、姿がどうしても確認出来なかったサンコウチョウです。
声は近いし、枝が変わっても声は追えるのだけど、葉が多すぎて見つけられない。

結局、姿は見えなかったのは残念だったものの、いい声だけは聞かせてもらえたので良しとしておきましょう。
*動画の最初と15秒の2回囀ります。



そろそろ水鳥の雛の季節ですが、確認出来たのはカイツブリの親子だけで、かなり遠かったので証拠写真すらなし。
代わりに相変わらずのゴイサギの世代別の姿の変化をパチリ!



この日のゴイサギは世代別に成鳥・ホシゴイ・その中間体の3つの姿が見られました。
少し成長して典型的なホシゴイの姿ではありませんが、一応はホシゴイと呼べる個体。



更に成長が進んでいる2年生の中間体らしくなっているホシゴイサギ。
なんか中途半端な感じがしますね。



最後はおそらくもうしばらくすると声が聞こえなくなるオオヨシキリをパチリ!





田園地帯では、黄金色の麦穂が揺らいでいた麦畑(田圃)が収穫の時期を向かえており、あちこちで刈り取りをされています。
収穫の済んだ麦畑(田圃)では焼畑をされている様子も見え、麦の茎の焼ける香りと炎になぜか懐かしさすら感じてしまいます。何とも情緒のある美しい田園風景です。


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御朱印蒐集番外編~京都府木津川市「当尾の石仏巡り」~

2019-06-15 17:33:33 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都木津川市加茂町の当尾地区は、南都仏教の影響を受けてきたとされる地域で、世俗化した奈良仏教を厭う僧侶が草庵を結び、尾根の間に寺々の塔が見えたことから「塔ノ尾(当尾)」と呼ばれたとされます。
「浄瑠璃寺」と「岩船寺」の周辺には鎌倉~室町期の石仏・石塔・磨崖仏が多く、「当尾磨崖仏文化財環境保全地区」として保全されています。

また、当尾地区には花崗岩の岩石が豊富で、山肌に現れている所も多い事から磨崖仏が次々と刻まれたといいます。
少し周辺を散策しようと「当尾の石仏」という地図を買って、一部だけですが石仏巡りをしてみました。



「当尾の石仏」というマップには35の石仏・石塔が記されています。
当然、全てを見て歩くことは出来ませんが、幾つかの石仏には出会えることが出来ました。
歩いて山道を進んでいくのはいいのですが、同じ距離を戻ってこなければならないのは辛いところです。



地図では浄瑠璃寺と岩船寺のルートと、浄瑠璃寺から加茂山の家までのルートが書かれており、これだけでもかなりの距離(5.1㌔)ですので歩けた分だけということになります。

まず最初に見つけたのは「やぶの中三尊」。
正面に「地蔵菩薩」、右に「十一面観音菩薩」、左の岩に「阿弥陀如来坐像」の三尊です。
銘文に1262年とあるといい、当尾の石仏にある年号銘の中で最古のものだとされます。



次に岩船寺から歩き出すと「一願不動(岩船寺奥院不動)」へと下る急な石段があり、降りた先に大きな巨石がありました。
最初はどこに不動明王が彫られているのか分かりませんでしたが、よくよく見てみるとその姿を確認することが出来ました。





再びコースに戻りますが、寂しい山道が続きます。
途中で2組の方にはすれ違ったったものの、独りでこの道を歩いていると孤独さが逆に楽しくなってくるのが不思議です。





道の途中には「天狗」か「大猿」かと見えるような岩に出会うが、マップにはなかったため“そう見えてしまった”ということになのでしょう。
日常から離れた場所では錯覚もまた楽し、聞こえるのは多くのウグイスとコゲラのノッキングだけです。



更に山道を進むと、100t級の巨石がややアンバランスな状態で道にはだかっています。
これもマップにはありませんでしたが、ここまで大きいと信仰に近いものを感じてしまいます。



夢見るように穏やかな表情をされて眠られているのは「眠り仏(埋もれ地蔵)」。
南北朝期の石仏とされていますが、長い間土の中で休んでおられ、いつの間にか「眠り仏」の名がついたようです。



「眠り仏」の横には巨石に彫られた「わらい仏(岩船阿弥陀三尊磨崖仏)」があり、笑顔の三尊磨崖仏に気持ちが和みます。
「わらい仏」は風蝕の影響が見られず、新しいものに見えますが、1299年の銘があるようです。
風蝕が少ないのは上部の屋根石が廂となって保存状態が良好だったことによるものとのことです。



「わらい仏(わらいぼとけ)」は「阿弥陀如来坐像」を中心にして、脇侍に「観世音菩薩坐像」「勢至菩薩砂像」となり、全ての石仏が穏やかな笑顔でほほ笑みかけています。
700年以上もの長い間、同じ場所で行き交う人を見守るように微笑んでこられたのでしょう。



当尾周辺には「九体阿弥陀如来坐像」や秘仏「吉祥天女像」および数々の仏像と国宝建築物を有する「浄瑠璃寺」や見事な本尊「阿弥陀如来像」などを有する「岩船寺」と寺院巡りに心躍らされる仏閣があります。
また、2つの寺院の間や地域一帯には「当尾の石仏」と呼ばれる石仏群が存在します。
木津市は京都府にありながら、奈良の文化が色濃いところも実に興味深い地域です。


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御朱印蒐集~京都府木津市 高雄山 岩船寺~

2019-06-12 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 京都府の南山城と呼ばれる地域には古刹寺院が多く、国宝や重要文化財を有する寺院が幾つか点在しています。
「岩船寺」は京都府というよりも奈良県の仏教文化の影響が特に強い地域だとされ、九体阿弥陀仏などを安置する「浄瑠璃寺」とは車で数分の場所にあります。

岩船寺では本尊として平安時代の「阿弥陀如来坐像」などを安置し、また「関西花の寺」としてアジサイ寺と呼ばれるなど花の名所でもあります。
この界隈は「当尾の石仏」と呼ばれる石仏や石塔が数多く点在する一帯でもあり、実に見所の多い寺院でした。



岩船寺の創建は729年、聖武天皇が霊夢により、行基に命じて阿弥陀堂を建立したことに始まるといいます。
806年には空海と姉の子・智泉大徳が報恩寺を建立し、813年には堂塔伽藍が整備され、寺号を岩船寺としたとされます。



最盛期には39の坊舎を有する大寺院となったとされますが、1221年の承久の乱の兵火により堂塔の大半を焼失して荒廃していったといいます。
江戸時代になる頃には十宇ほどになり、文了律師の勧請や徳川家康・秀忠の寄進により本堂・仏像等の修復が図られたようです。



現在の岩船寺の境内はさほど広くは感じないものの、堂宇や石仏がうまく配置されて、池を中心として巡回出来るようになっています。
山門の前には「石風呂(鎌倉期)」が置かれてあり、これはかつて寺塔三十九坊の僧呂が身を清めたとされる石のお風呂がありました。



山門は質素な造りをなっていますが、山門の奥に見える「三重塔」が気持ちを高揚させてくれます。



境内へ入ってすぐの左側には鎌倉時代の「石室不動明王(重要文化財)」があり、1312年の銘が刻まれているといいます。
この不動さんには“眼病平癒”の御利益があるといい、700年以上も風雨にさらされながらも姿をとどめているのは石室の中に祀られていたからということもありそうです。



不動明王の石室の左には同じく鎌倉時代の「地蔵菩薩」が祀られています。
地蔵菩薩は不動さんより彫りが深く残っており、輪郭がはっきりと分かります。



更に横には鎌倉時代の「五輪塔」があり、こちらも重要文化財に指定されています。
五輪塔は元々は東大寺別当・平智僧都の墓で、昭和初期に岩船寺に移されたとされます。



境内だけでも石仏や石塔が多く見受けられますが、花崗岩の岩石が豊富な当尾の地域性があるのかもしれません。
池の横には高さ6.3mの「十三重石塔」がそびえ立っています。
この塔は鎌倉時代の1314年に妙空僧正が建立したものと伝えられているそうです。



さて、阿字池の向こうに見えるは「三重塔」。
三重塔は室町時代の1442年に建立された重要文化財の塔になります。
池の手前には紫陽花の群生がありますから、紫陽花の花期にはさぞや美しい風景となるのでしょう。



三重塔の中には入れませんが、内部の壁面は建築当初の紋様・色彩・壁画が明らかになり、平成15年に復元されたとされます。
ちなみに平成15年は西暦で2003年。元号と西暦が混在する日本では年代が分かりにくくなりますね。



本堂は昭和63年(1988年)の再建といいます。
寺院には池越しに堂宇を観られる事が多いですが、池の向こうにある堂宇には落ち着いた雰囲気が感じられます。





本堂の須弥壇には本ぞ「阿弥陀如来坐像(重文)」と四方を守護する四天王が安置されています。
阿弥陀如来坐像は像高284cmあり、穏やかなというよりは迫力を感じる阿弥陀像でした。
阿弥陀如来は胎内にあった墨書銘から946年の製作と推定されているようで、四天王は墨書銘から1293年とあるようです。





須弥壇の左前には室町期とされる「不動明王立像」、後陣には象に跨った藤原期の「普賢菩薩騎像像(重文)」。
少し頭でっかちの「十二神将(室町期)」、同じく室町期の「阿弥陀坐像」「四天王像」、江戸期の「弁財天」「羅刹天」、室町時代の「菅原道真像」と仏像は多彩です。



仏像はさらに「十一面観音菩薩立像(鎌倉期)、「薬師如来坐像(室町期)」と仏像は並びます。
また、一角には平安時代と鎌倉時代の「鬼面」が置かれてあり、独特の形相をした鬼面は大護摩供養に時に使用されるそうです。



本堂の横には「身代わり地蔵」が数躰安置されており、これらも「当尾の石仏」と呼んでもいいのかと思います。
参拝した頃にはお地蔵さんの周囲にショウジョウバカマが咲いていたのが嬉しかったですね。





土に埋もれそうになっていた石仏には文久3年(1863年)の銘が見て取れます。
幕末の騒然とした時代に奉納された石仏となるのでしょう。



「当尾の石仏」と呼ばれるこの地には、数多くの石仏や石塔・磨崖仏が存在するといいます。
少し山道を歩いて石仏群を巡ってみることにします。...続く。


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御朱印蒐集~京都府木津川市 小田原山 浄瑠璃寺~

2019-06-07 07:07:07 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「九体の阿弥陀如来」や美女秘仏「吉祥天女像」で有名な浄瑠璃寺は、京都府の最南端に位置し京都市内よりも地理的には奈良の東大寺などの方に近く、奈良仏教の影響が強い寺院(地域)になります。
京都・奈良・滋賀の仏像を特集した記事に九体阿弥陀や吉祥天はほぼ登場しますが、京都というより奈良のカテゴリーに取り込まれている感があるのは立地や文化圏の影響なのでしょう。

浄瑠璃寺には前述の仏像の他にも国宝の仏像や建築物、重要文化財の仏像数点などがあることから、かなり辺鄙な場所にありながらも参拝者の多い寺院でした。
朝一に入山しましたが、寺院を出る頃には続々と参拝者が来られておられましたので、その人気ぶりが伺われます。



木津川の辺りは全く土地勘のない場所でもありますから、カーナビの指示に従って進んでいくと、京田辺を越えた辺りから細い林道に誘導されてしまう。
おそらく一般車は通らないような道で、対向車とすれ違うことも出来ない道幅しかなく、一部の場所では車一台が通るのもやっとの道が数㌔続く。
山の斜面では3頭の若い鹿が朝日を浴びて駆け登って行く姿が美しかったが、車の運転に必死でゆっくりと眺めている余裕もありませんでした。



寺院の創建については奈良時代の739年に行基によって創建されたという説もありますが、寺院の歴史抄では“1047年に薬師如来を本尊に創建”“1107年に九体阿弥陀堂造”“1150年に浄瑠璃寺庭園造”“1178年に三重塔を京都より移建”とあります。
浄瑠璃寺はかつて興福寺一乗院の末寺であったとされますが、現在の宗派は真言律宗で、奈良西大寺が本山とする寺院のようです。



参道の右側には馬酔木が花を咲かせていましたが、浄瑠璃寺ではほぼ年間通して季節の花が見られるといい、「関西花の寺二十五ヶ所」の寺院の一つになっています。
参道の先には山門がありますが、有名寺院にしては簡素で小ぶりな門となっていたのは意外な感じがします。



境内に入ると「浄瑠璃寺庭園」と呼ばれる庭の中央部に池があり、太陽の昇る東側には薬師如来を祀る「三重塔」。
太陽が沈む西の西方浄土には阿弥陀仏を祀る「本堂」が建てられている配置となっており、池の周囲を一回り歩くことが出来ます。



三重塔は1178年に京都から移建されたといい、国宝に指定されています。
やや小ぶりな印象を受ける塔の内部には「薬師如来坐像(重文・藤原期」が安置されていますが、決められた期日の好天日にしか公開はされていないようです。



三重塔側から池を望むと、1107年に建てられたという「九体阿弥陀堂(国宝)」が正面に見えます。
御堂は横に長い形になっていますが、これは「九体の阿弥陀仏」や諸仏を横一列に配置するため、この形で造られたのだろうと思われます。





九体阿弥陀堂に入ると、まず目に入ってくるのは「九体の阿弥陀如来(国宝)」です。
映像や画像で見た九体の阿弥陀如来そのものと言ってしまえばそれまでですが、その姿は圧巻です。
ただし九体阿弥陀仏は2023年頃まで2躰づつ修理中ということで、現在安置されているのは7躰のみだったのが残念でした。

須弥壇は鎌倉時代に造られたものとされ、「供物壇」とも呼ばれる魔除けと火除けの模様が入っています。
連珠・剣頭・巴の紋は春日大社や秋篠寺にも同様の紋があるといい、この供物檀には結界と供物を乗せる檀の両方の意味があるといいます。


(ポストカード)

阿弥陀仏は中尊が丈六仏で、中尊を挟むように左右に半丈六の阿弥陀仏が4躰づつ安置。
中尊の光背には千体の化仏と4体の飛天が彫られた装飾豊かなものになっており、泰然とした表情をされていたのが印象的です。


(ポストカード)

須弥壇の並びは堂内に入ってすぐの場所に「持国天像(国宝・藤原期)「増長天(国宝・藤原期)」が力強い姿で東と南を守護しています。尚、四天王の残りの2躰(広目天・多聞天)は国立博物館に寄託されているとのこと。
九体阿弥陀の左の4躰(1躰は修理中)の横で、中心に安置された中尊の左には「吉祥天立像(重文・鎌倉期)」を安置。

仏像は実物を見てこそ分かることがあると思ったのは、やはりそのサイズ感がその一つにあげられます。
約90cmの吉祥天立像は想像していたよりは小さかったものの、最も美しく見える大きさではないかとも言えます。


(ポストカード)

吉祥天の作製年などはよく分かっていないそうですが、1212年に浄瑠璃寺に安置されたことは判明しているとか。
“みうらじゅん”が「心の恋人」と評しているのも確かな話だと納得するほど美しい天女像で、厨子も彩色豊な装飾になっています。


(ポストカード)

仏像は吉祥天・中尊と並んだ右に「地蔵菩薩立像(重文・藤原期)」が安置され、脇陣には「不動明王立像(重文:鎌倉期)と眷属の「矜羯羅童子」「制多迦童子」が安置。
驚くのは、この2童子の顔でしょうか。独特の迫力のある表情で迫ってくるものがあります。


(ポストカード)

境内には幾つかの石仏が置かれてあり、苔むした石仏が素朴ながらもいい雰囲気を醸し出していました。
この石仏は鎌倉時代以降のものとされていますが、近在に祀られていた石仏が集められて祀られているのかもしれません。





調べてみると木津市東南部は石仏が非常に多い地域で、平安時代から室町時代の石仏や石塔が数多く点在するといいます。
一般的には「当尾の石仏」と呼ばれており、京都府によって「当尾磨崖仏文化財環境保全地区」に指定されているようでもあります。
昔ながらのよろず屋さんにマップが売っていたので購入しましたが、実に広い範囲に渡って石仏が点在しており、一部だけでも散策してみることにしました。...続く。


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御朱印蒐集~滋賀県米原市 吸湖山 青岸寺~

2019-06-02 20:00:00 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 新幹線の停車駅のある米原市は、京都・大阪・神戸方面と岐阜・名古屋方面、北陸方面への電車の乗り換え駅になっており、交通機関のキーステーションとなってます。
古くは中山道の宿場町(番場宿・醒井宿・柏原宿)が置かれていましたが、アクセスのよい近代的な都市というよりも豊富な自然が多く残されている地域で、伊吹山に近い地域は豪雪地帯(伊吹山では11.82mの積雪記録がある)でもあります。

米原駅の新幹線のホーム側とは反対側となる東口方面から、入り組んだ古い住宅街を抜けていった先の太尾山(標高254m)の麓に青岸寺があります。
青岸寺は、国の名勝となっている「青岸寺庭園」が有名な寺院であり、ゆっくりとリラックスした時間を過ごせる寺院だなぁと印象に残る寺院です。



南北朝の時代、近江守護職であった佐々木京極道誉により「米泉寺」という寺院が開創され、本尊として「聖観音菩薩」を祀っていたとされます。
1504年の兵火によって寺院は焼失してしまいますが、本尊聖観音菩薩像のみが難を逃れて、小堂に祀られていたといいます。



1650年になると、彦根藩第3代藩主・主井伊直澄の命により彦根大雲寺の要津守三が入山し、敦賀の伊藤五郎助の寄進により再興され、寺名を「青岸寺」として曹洞宗寺院になったと伝わります。
青岸寺は米原の地にありながらも“井伊家ゆかりの社寺めぐり”の16社寺に入っているのはそのような経緯によるもののようです。



米原駅からは車で数分の位置に青岸寺はありますが、周囲には複数の寺院や神社があることから、古くから大きな集落があったことが伺われます。
山門から入山すると、本堂と庫裡へ分かれる石畳の参道の間にイワヒバ(岩松)の群生が見られます。



正面に本堂があり、堂内へは庫裡で受付をして入ることになります。
こぢんまりとした本堂に見えますが、堂内は庫裡・本堂がつながっており、書院へは渡り廊下でつながる想像以上の広さがあります。



須弥壇には「聖観音菩薩坐像」が安置され、脇陣には「十一面観音菩薩立像」と「役小角像」が安置されています。
寺紋が3種類あるのは何故かは分かりませんが、何か意味があるのでしょうね。



御本尊の「聖観音菩薩坐像(像高79.7cm・南北朝期)」は1376年に、佐々木六角氏頼が金剛仏師・讃岐法眼尭尊に刻ませた仏像だとされます。
佐々木六角氏頼は戦争に赴く際に丈八寸程の聖観音を念持仏として竿頭に納めて出陣したといい、その念持仏を本尊の胎内に安置しているといいます。
そのためこの聖観音像は別名「御腹籠りの観音」「旗竿の観音」とも呼ばれるそうです。



仏像の中で一番古いと思われるのは鎌倉後期(と推定されている)の「十一面観音立像(像高56.2cm)になります。
躰が少し左に傾きながらもお顔は正面を見据えていて、元は赤茶けた染料が塗られていたようです。



青岸寺がかつて修験道や密教の影響を受けていた土壌があると思われるのは聖観音・十一面観音と一緒に「役小角」が安置されていることでしょう。
役小角像は米原市の有名な和菓子屋に安置されたものだったそうですが、その土地に残る文化(土壌)には興味をひかれるものがあります。



さて、青岸寺といえば「青岸寺庭園」。実に魅力的な庭園でした。
青岸寺庭園は青岸寺の開祖である守三和尚の入山と共に築庭されたといいますが、彦根城下の楽々園を築庭される時に石が取り出されて消滅してしまったようです。
1678年に庭園を再興し、近年には京都造形芸術大学の学生の学習・ボランティアとしての協力の元、素晴らしい庭園を守り続けておられるそうです。



庭園は実はそれほど期待していなかったのですが、実際に見てみると太尾山を借景にした広い空間を感じる庭です。
また、石を豊富に使っていることから迫るような迫力を感じるのでしょう。



珍しいのは庭の端にある「降り式井戸(蹲)」でした。
茶道では客人が這いつくばるように身を低くして、手を清めるのが習わしとされ、確かにこの井戸で手を洗おうとすれば身を屈め這いつくばなければならないようになっています。

更に面白いのはこの井戸の水量が多くなると、庭園に水が流れるようになっており、枯山水の庭園が池泉庭園に姿を変えるといいます。
1つの庭園が全く違う姿を見せる技法は実に面白いですね。



また、庭園の片隅には見慣れぬ様式の灯篭がありました。
この灯篭は「織部灯篭(キリシタン灯篭)」といい、茶人・古田織部が天正のキリシタン全盛時代に信者や茶人の好みに合うように創案したものだと伝わります。



庭の一番奥の場所には「六湛庵」という書院が建てられています。
この建物は明治時代に永平寺64世である森田悟由禅師が接化に趣いた地方から永平寺に帰る際に立ち寄り、休憩・宿泊するために建てられた建物だといいます。
片面の縁側には庭園が望め、後方には山が迫る建物の中は意外に広く、東司や浴司なども残されています。





最近は寺院に行って楽しみにしているのは“寺院の庭園を眺めながらスイーツを楽しむ”なんですが、この青岸寺には「-きまぐれ寺カフェkissako-」というカフェがあります。
素晴らしい庭園を眺めながらカフェを楽しむというのはとても贅沢な時間ですね。



注文したのは“ほうじ茶プリンと煎茶”のセットで、このプリンはほんのりとほうじ茶の香りがあり、甘さは控え目。
黒蜜も付いてきましたので最初はかけずに味わい、残り半分は黒蜜をかけて味わいと2種の味が楽しめました。



感心したのは、テーブル上や壁にさりげなく添えられた季節の野の花でしょうか。
実にセンスのいいおもてなしにすっかり心が和みます。

また、器にもセンスの良さが感じられ、丁寧な対応も嬉しかったですね。
煎茶の茶碗は、お茶が入っている時は“目が点”になっていますが、お茶を飲み干すと“笑顔のおたふくさん”が現れてくる。



寺院巡りをしていると、“歴史ある大寺の建築物や庭園の見事さ”や“仏像の素晴らしさ”“寺院にまつわる歴史の面白さや修行の厳しさ”などに出会いますが、もう一つ“心が落ち着いてリラックスして自分を取り戻せる”という魅力があります。
青岸寺は自分的には後者だと感じる寺院で、実に開放的な寺院である印象を強く受けました。


コメント
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