僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

「松尾神社」松尾神社庭園と磐座~滋賀県東近江市八日市~

2020-12-26 12:55:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 近江鉄道・八日市駅の近くにある「松尾神社」には、安土桃山時代の作庭とされる「蓬莱式枯山水」があり、本殿の後方にある延命山には巨大な磐座があるといいます。
「松尾神社」は、聖徳太子に創建されたと伝わる「瓦屋寺」の別院であった「延命山尊勝寺」の鎮守社だったとされ、由緒記には“852年、建御雷神一柱を祀る”という。

「尊勝寺」は東大寺所属の寺院だったと伝わりますが、1568年に織田信長による佐々木六角氏攻めの兵火により衰退し、鎮守社であった神社も維持困難となっていったといいます。
1755年になると、山城国より松尾神社の御分霊を勧請されて、現在の松尾神社となったと伝えられ、御祭神に大山咋神、配祀神に市杵嶋姫命を主祭神として祀るようになったようです。



神社は鳥居を抜けた先に拝殿があり、奥の山麓の小高くなっている場所に本殿を構える。
鳥居の左側には稲荷神社が併祀社として祀られ、赤い鳥居が何層も連なる参道から入ると奥で松尾神社と境内を共有している。



手水舎の吐水する龍が乗っている石には、赤紫の稲妻のような模様が出ています。
創建時からあったものか、後から置いたものかは分かりませんが、参拝した人がまず最初に行く手水舎に特徴的なこの石があるのは個人的には興味深く感じます。



本殿は山の斜面に石垣を組み、一段高くなった場所に建てられており、山を背負った形で祀られている。
本殿は1825年の再建とされ、拝殿は1830年の上棟とされているため江戸時代後期の建造物となります。
神社の鳥居の前は交通量の多い道であったが、一歩神社の境内に足を踏み入れるとひとけはなく、静まり返った静寂の空間となる。



境内には注連縄を巻かれた御神木が2本あり、そのうちの1本は摂社の「琴平神社」の横にある。
樹はツブラジイでしょうか。圧倒されるとまではいかないものの、見応えのある巨樹です。





本殿に参拝した後、本殿の裏山にある磐座を探しに行く。
磐座は想像以上に大きな巨石でしたので、見つけるのは容易でしたが、山へ連なる森の中に鎮座するこの巨石の神々しいこと。



さらに磐座に近づいていき、磐座の大きさを実感しながら横長の磐座の正面へと回り込む。
竹が立てられて注連縄が張られてあり、神の依り代とされてきた磐座だと分かるが、巨石があって信仰の地となったのか、信仰の地に磐座を鎮座させたのかは分からない。





磐座を拝した後、境内へ降り「松尾神社庭園」へ向かいます。
松尾神社庭園は、寺院または武家屋敷の書院に面していたとされる庭園ではあるが、建物等はすでになく石組が往時を偲ばせる庭園遺構となっています。

一説には1566年、室町幕府15代将軍・足利義昭が近江の佐々木義賢を頼って近江に赴いた際に、将軍を迎えるためにこの庭を造ったのではないかともされます。
それは足利義昭を越前に迎えた朝倉義景が、義昭を迎える際に造園した庭園と時期・様式的に似ていることからの類推だという。



作庭が桃山時代と考えられていることもあり、京都の禅寺のような落ち着いた庭園というよりも、ゴツゴツした石が組まれた枯山水からは、武家らしい印象を受けます。
庭園様式は「蓬莱式枯山水」と呼ばれ、山側には「蓬莱石組」、「須弥山石組」を中心に「鶴島石組」と亀頭石を置いた「亀島石組」は、迫力と大胆さを感じる作庭がされているように思う。



上は左手にある「鶴島石組」と思われる部分。
鶴島と亀島をつなぐ石橋の右側には「亀頭石」という奇石が配置されてあり、亀島は少し高くなっている鶴島と比べると平坦で島と見立てられる領域は広い。



山側にあるのは「蓬莱石組」。
「蓬莱山」は遠い海にある島に聳える山とされ、不老不死の仙人が住むとされる。
長寿のシンボルとされる鶴と亀を従えた蓬莱山は日本庭園の一つの基本なのかもしれない。



庭の正面と思われる場所から杉の木の間に垣間見える蓬莱山の姿。
蓬莱山とは決してたどり着けない山なんだろうと思いながら眺める。



現在の松尾神社ある場所は、1568年に織田信長の佐々木氏を攻めた際に、佐々木氏の配下の建部氏の館があった場所とされ、戦国時代の武将ならではの作庭かと想像します。
信長に攻められ、建部氏の館が灰塵に帰すも庭園は残り、そこに松尾神社が建てられたという説があるようです。

歴史上に近江建部氏という血筋があり、戦国時代~江戸時代を生き抜き、明治維新後に子爵を賜った一族がいるというが、松尾神社の建部氏との関係は不明です。
そもそも建部氏の館があったというのも確証はないようですが、旧八日市に隣接する一帯には“建部”という地名が残っていますので、この地の有力な豪族だったと考えられます。

さて、松尾神社へ向かう途中に見つけて気になった地蔵堂へと足を運んでみます。
地蔵堂には「人宿地蔵尊」の額が掛かり、堂内に石仏2躰の姿が祀られている。



石仏の年代も経緯も全く不明ですが、この地で守り続けられてきた石仏なんだろうと思います。
向かって左が「人宿地蔵尊」で“子どもをお授け、お守り下さる地蔵尊”だとされます。
右は「薬師如来」で“母乳の出を良くし、母・子・共にお守り下さる如来さま“と書かれてあり、それぞれ唱える真言も書かれていました。



最初に見た時は、おばあさんが跪いて手を合わせておられる姿がとても気になりました。
御堂や常夜灯も新しそうに見えますので、この地域の方に大事にされてきた地蔵尊なんだろうと思います。


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「北山古墳」「市神神社」~滋賀県東近江市~

2020-12-22 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 滋賀県の八日市地方には山岳信仰の山と、飛鳥とのつながり(すなわち聖徳太子との関連)など独特の信仰形態が古来よりあったようです。
山でいえば、太郎坊宮(阿賀神社)のある赤神山、瓦屋寺のある箕作山、岩戸山十三仏のある岩戸山といった峯が連なる山々が霊的な場所といえます。

現在の市町村で言う東近江市には縄文・弥生・古墳時代から奈良・平安時代を含めて近世に至るまでの遺跡が数多く残されているといいます。
先述した箕作山には縄文時代の遺跡や、古墳時代の古墳群(瓦屋寺山古墳群・延命寺山古墳群・北山古墳)があるといい、その歴史は白鳳時代を経て聖徳太子とのつながりを深めていくようです。



“聖徳太子と空海の伝承は至る所にある”と言われる方が居られるほど、あちこちに伝承を残しますが、湖東地方には聖徳太子の伝承が残る寺院が幾つもあり、聖徳太子信仰が強く根付いています。
そこには古都の建造物の資材の供給地であったことや、渡来人の定着などが関わっているといわれることが多い。



目的だった「北山古墳」には車を停める場所がなかったので、すぐ近くの瓦屋寺の旧表参道の登り口へ駐車し、歩いて北山古墳に向かいます。
瓦屋寺は聖徳太子が四天王寺を建立する際に帰化人の秦氏が瓦を焼成した瓦窯が造られたり木材を調達した山に聖徳太子が建立した寺院と伝わり、ここが旧表参道の入口となる。

瓦屋寺(瓦屋禅寺)へは太郎坊宮の参集殿から続くルートで参拝したことがありますが、旧表参道から登ると石段2000段という道のりになる。
したがって旧表参道の入口とゴールしか知らないが、なかなかの苦行コースになるようです。



長閑な里山の風景を楽しみながら北山古墳へと歩いていくと、ほどなくして古墳の看板まで到着する。
説明書きを見るとこの古墳は昭和48年に発掘された古墳で、この北山古墳を含む瓦屋寺古墳群の中では最も大きく工法も精巧な古墳になるのだとされる。
瓦屋寺古墳群では確認されている古墳が57基あるといい、未確認の古墳を合わせると100基以上の古墳があるという古墳群ということです。





道路からすぐの所に看板が設置され、少し進むと石室の入口らしきものが見えてくる。
石室の入口まではよく整備されているので、恐々と雑草の中を歩くこともなく容易にたどり着けた。



北山古墳は7世紀頃に造られた古墳とされる横穴式石室の古墳で、当地にいた帰化人か豪族の首長の墳墓を考えられているといいます。
玄室の長さは4.1m、羨道の長さは5.4m以上とされていて、石室の一部が残されている。



古墳の石室へ行くといつも驚くのは、よくこれだけの巨石を これだけ整った形で 崩れることなく 積み上げたものだと当時の技術の凄さです。
東近江市を含む湖東地方一帯には数多くの古墳が確認されていることから、この地方に大きな集団を形成していた首長が多くいたということになり、この地の繁栄ぶりが伺えます。



古墳は「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されたこともあって注目を集めるようになっており、滋賀県の古墳は大規模古墳はあまりないものの、石室に入れる古墳は多い。
古墳は北海道や東北の一部を除く各都道府県で確認されていますが、古墳時代に古墳文化が全国に伝播していった経路にも興味深いものがあります。



北山古墳を出た後、聖徳太子ゆかりということで八日市駅近くまで戻り、初めて訪れる「市神神社」へ参拝する。
かつて八日市市は単独の市でしたが、市町村合併で現在は東近江市となっており、かつては街道沿いの交通の要所の市場町として栄えていたといいます。

八日市の駅前は整備された都市となっており、ローカル鉄道の近江鉄道しか通っていない町とは思えない盛況ぶりです。
また、市神神社の近くには「延命新地」という花街があったといい、県下有数の歓楽街であったともいいます。



市神神社は「近江七福神」に数えられる神社で、地元では「市宮ゑびす(商売繁盛の神)」として親しまれているという。
(【近江七福神】:金剛輪寺・長命寺・長寿院・青岸寺・興福寺・天寧寺・市神神社)
御祭神は「事代主命」をお祀りし、御配祀は「大國主命」「猿田彦大神」「額田王」の3柱。境内社には「金刀比羅神社」と「鎮宅神社」が祀られている。



聖徳太子が四天王寺を造営する際に白鹿山(現箕作山)の東麓で10万8千枚の瓦を焼かせ、新たに「瓦屋寺」を営し、かつ捊川の北に民家数百戸を置き、事代主命の神像を刻し一祀壇に納めたとある。
その縁起に従ってか、拝殿の横には「聖徳太子象」が凛とした姿で立たれている。



縁起には、推古9年(601年)始めて市店を開きとあり、一説によると8日に市場が開かれたことから八日市という地名になったともされている。
また、正暦の頃(990年から995年)、安倍晴明白鹿山に詣で此神像を拝し、太子の遺志を継ぎ市店鎮護の祈を奉り云々とあり、安倍晴明との縁もあるようです。
「鞍馬石」の碑には「清風払明月」と彫られているようですが、禅語なので解釈するのは難しい。



飛鳥時代の万葉の歌人で市神神社の御配祀である「額田王」は、大海人皇子(天武天皇)に嫁いで子を生しますが、天武天皇の兄・中大兄皇子(天智天皇)の寵愛を受けた方ともされます。
大津京の時代に、皇族が東近江市の蒲生野(天皇の御料地)には「薬猟」や「遊猟」に訪れることがあったといい、近江と関わりのあった額田王が詠んだ歌の歌碑があります。



歌碑は昭和60年に建ったもののようですが、歌は万葉の昔の7世紀に詠まれた歌。
『君待つとわが恋ひおればわがやどの簾動かし秋の風吹く』
額田王が天智天皇を恋焦がれて待っている気持ちを詠んだ恋歌と解釈されています。


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「藤ヶ崎龍神」と「五所神社」~滋賀県近江八幡市~

2020-12-19 14:30:30 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 琵琶湖に沿って南北に走る湖岸道路のすぐ側に、龍神様の依り代といえる磐座や竜宮城と名の付く洞窟があるといいます。
大中の湖干拓地を進み長命寺方面と守山方面の分かれ道を琵琶湖岸に沿って南下していき、見落としてしまうような細い道を進むとほどなく神社へと到着します。

「藤ヶ崎龍神社」は、琵琶湖にせり出した磐座を祀る外宮と、岸壁に開いた洞窟に「妙得龍神」を祀る内宮とがあり、心地よさと怖さの両方を感じる神社でした。
当方が参拝して周囲を歩いている間にも、参拝者が2人ほど入れ替わり立ち返り参拝に来られていましたので、参拝される方の多い神社なのでしょう。

 

外宮の磐座の先には穏やかな琵琶湖が広がり、何艘かの漁船が「貝曳き網」と思われる漁法でグルグルと船を旋回させている。
獲っているのはおそらくセタシジミとかの貝類なのだろう。
「藤ヶ崎龍神社」には手水舎がないので、砂浜に出て透明感のある琵琶湖の湖水で身を清めます。



外宮の鳥居や磐座がある場所は砂浜になっていて、ゴミ一つない綺麗さと掃き清められた跡がくっきりと残る境内は、歩いて足跡を付けるのが申し訳なく思うほど清められています。
心地よさと書いたのは、外宮やその境内から磐座の向こうに広がる琵琶湖の美しさと、手入れの行き届いた聖域にうっとりするような清涼感と穏やかさを感じたからです。



祠は留め具を外して扉を開くことが出来、火の後始末さえすればロウソクを立ててもよくなっていて、祭壇には龍神さまと思われる神が祀られている。
御朱印には「五社神社」と書かれていましたので、「藤ヶ崎龍神社」を管理されているのは五社神社の氏子の方や地元の方なのだと思われます。



2つの巨石を祀る磐座は、琵琶湖を挟んでその先に見える長命寺山(330m)と津田山(425m)をあらわしているのかもしれない。
長命寺は聖徳太子ゆかりの天台寺院。津田山は巨石の多い山で磐座がいくつかあると聞きます。
湖南地方は山岳信仰や磐座が盛んだった地域で、独特の宗教圏がここまで広がっていたのかと思います。



琵琶湖の北部に浮かぶ竹生島の「竹生島神社」の御祭神は「市杵島比売命(弁財天)」「宇賀福神」「浅井比売命(産土神)」「龍神(黒龍)」の4柱で、弁才天は本来は水神として信仰されてきた神。
近江八幡市のすぐ前に浮かぶ沖島の「奥津嶋神社」の御祭神・奧津嶋比賣命は航海の守護神とされ、いづれも水に関する神で龍神も言わずと知れた水神。
琵琶湖の水辺や島にある神社では古来より水神様を祀って航海や漁の平安を祈ってきたのでしょう。



また、平安前期の宮廷画家・巨勢金岡がこの地を訪れて風景を描こうとしたが、絶景雄大過ぎて描けず終に筆を折ったという伝承があるようです。
巨勢金岡は、大和絵成立に関わった最初の画家とされ、宮廷の絵所で活躍する巨勢派の始祖となった人物とされています。
しかし、その作品は現存していないとか。

心地の良かった外宮とは打って変わり、内宮は怖ろしさすら感じるスピリチャルな宮となる。
絶壁のようになった巨岩の壁の間にある洞窟に「妙得龍神」が祀られています。



“琵琶湖命の水の守り神である「妙得龍神」は、天地創造の大天霊御祖の御使いであり、天・人・地 三界を治め給う最高の守護霊さまです。
其の本体は白大蛇であり、水龍神でもある 弁才天が妙得宮に坐し坐、御祭神です。”と書かれた説明書きがかつてあったといいます。

洞窟の入口には金網が掛けられているが、これはカラス防止のためで、金網をどけて中に入って礼拝することが出来ます。
恐る恐る金網をどけようとしている時、何やらガサガサと小さな物音がしてドキッとする。
一瞬肝を冷やしたが、その音は木の葉の間で動くヤマガラの羽音。驚いたけど姿は可愛いいものです。



洞窟の中へ入ることは出来たものの、岩壁の幅が狭く、無理して入らないと奥まで行けそうになかったため、ここから参拝をさせて頂く。
中には白蛇が祀られてあり、「妙得龍神」が祀られていると思われる祠があるが、暗くて内部までは確認が出来なかった。



岸壁になっている巨岩にはもう一カ所割れ目があり、穴の前には供え物が置けるようになっていました。
穴の中を覗こうとしてみるも、あまり顔を突っ込むのも怖い感じがして、奥がどうなっているのかは分からず。



ところで、御朱印に「五社神社」と書かれていたことが気になり、この後の予定を変更して五所神社へと向かいます。
五社神社のある牧の地は天智天皇の大津京時代に牧場に定められた地だったといい、「下照姫命・大國主命・事代主命・大巳貴命・思兼命」の五神を祀ったことにより社号が付いたとされます。

延暦十八年、桓武天皇が皇子・神野親王(嵯峨天皇)に下賜して、後に皇室の御領から日吉神社の社領となり、日吉神を合祀したため「六社明神」と呼ばれることもあるといいます。
境内は想像以上に広く、境内の木々も森のようになっています。
毎年5月には独特の形をした松明(上部にヨシで作った笠がある)を使った火祭りが行われるそうです。



境内社は「天照皇太神社・八幡神社・稲荷神社・子安神社・護国神社・弁天神社」があり、それぞれ立派な宮を構えています。
社殿は1609年、1790年に再興されたものの、1961年の第二室戸台風で倒壊した後、再び再興されたといいます。
御神木も第二室戸台風になぎ倒されてしまい、新たに植えられた御神木はまだ細い幹にしか育っていない。



地元の方に話を聞かせて頂くと、本殿の裏は以前はもっと木々の茂った森だったが、2018年の台風21号で何本もの木が倒され、倒れた木によって本堂の一部が傷んでしまったという。
すでに本殿の修復は済んでいるが、“鎮守の森がスカスカになってしまい寂しく思っている”と言っておられました。
帰りに神社の裏の通りをの森を見渡せる場所から見ると、確かに森はスカスカ。台風21号は各地に大きな爪痕を残した台風だったことを痛感します。





境内社の「子安神社」は、岡山(標高187m)の山麓に奥宮があるといい、写真で見ると山の中にひっそりと祠が祀られ、「受胎の樹」という樹があるようです。
その岡山にはかつて「水茎岡山城」があったといい、室町幕府11代将軍・足利義澄が都落ちした城とされ、後の12代将軍・足利義晴が誕生した地とされています。

大河ドラマ「麒麟がくる」では義晴の息子である第13代将軍・義輝からの時代が描かれていますが、義輝に“世を平らかに出来よう、さすれば麒麟が来る。この世に麒麟が舞い降りる”と教えたのは父・義晴。
ドラマのセリフとはいえ、干拓される前までは湖面に囲まれていた水茎岡山城に都落ちしていた義晴の言葉として連想してみると、興味が高まります。



境内を歩いている時に、神社の横の集会場の一角にクスノキの巨樹があるのを見つけました。
樹齢は分かりませんが、幹周は5mくらいあるのではないだろうか。
地元の方に聞くと、元は2本あったが集会所を建てる時に1本は伐ったということでした。



このクスノキは根元近くの幹に一部痛みがあるものの、樹冠はこんもりと茂り、樹勢は良さそうです。
今は広々とした駐車場に1本だけ単独で立っていますが、かつて神社の周辺には広大な鎮守の森が広がっていたのかもしれません。





根元も大地に根を張っている様子が見て取れ、太さも見事なもの。
「五所神社」まで足を伸ばした甲斐がありました。




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湖東の巨樹を巡る5~「昭和町のムクノキ(西の椋の木)」「大隴神社のスギ」~

2020-12-15 05:50:05 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 八日市市「昭和町のムクノキ(西の椋の木)」

旧八日市市(東近江市に合併)には「八日市市昭和町のムクノキ」と呼ばれる巨樹があり、別称「西の椋の木」と呼ばれています。
かつてこの付近には「東の椋」と「西の椋」という2本のムクノキの巨樹があったといいますが、現在は「西の椋」のみが残っているといいます。

「東の椋」は太平洋戦争の時に飛行場建設の邪魔になるということで伐採されてしまったようですが、「西の椋」は住宅地の中の一角にランドマークのように立っている。
通りすがりに偶然見つけたのですが、圧倒されるような巨樹でしたので車を停めて、しばらくその姿に見惚れていました。



「昭和町のムクノキ」は幹周が7.3m、樹高が22mで推定樹齢は650年だといい、ムクノキとしては県内最大級で滋賀県自然記念物にも指定されている。
まず最初に目を引くのは、根元近くの幹部分の特徴的な形でしょうか。見る方向によって随分と形が違います。



力強く立ち上がって見える幹、横に広がりやや内側に湾曲したように見える幹、根からせり上がったような幹がゴツゴツとした凹凸を与えている幹。
どの角度から眺めても威圧感や力感があります。



これだけの巨樹ですから寄生するサルノコシカケもあまり見かけることのないくらい大きい。
子猿なら腰掛られるように思えるが、昔はこのような大きなサルノコシカケを置物にしている家があったような記憶があります。



ムクノキの全体を見ても、よくこの狭いスペースで樹勢良く残っているものだと、その生命力に驚いてしまいます。
窓を開けたら目の前にこんな巨樹があるというのも、ある意味で不思議な感じがしますね。



愛荘町「大隴神社のスギ」

愛知郡愛荘町の「大隴神社」は、かつて大領堂・大領宮と呼ばれ、古代の郡衙(郡の官人が政務を執った役所)の長官職が大領であったことが社名の由来となっているといいます。
大隴神社の境内は愛知郡衙跡だったといい、古代愛知郡を治めていたとされる渡来系氏族・依智秦氏(秦氏の一族)との関係が指摘されているそうです。



大隴神社の御祭神は「伊邪那美命」、配祀神は「建速須佐之男命」「大山咋命」「大物主命」の三柱となっています。
境内は広く木々が茂り、拝殿へと向かう参道の右側には森、左側には大きな御神田があり、かつての境内地が広大な物であったことが伺われます。



参道を抜けると、拝殿の左に見上げるような御神木が見えてきて圧倒される。
境内に木々の多い神社ですが、さすが御神木だけあってサイズ感が全く違います。





大隴神社は天正元年(1573年)の兵火で社殿・古文書・社宝などが焼失、江戸初期の正保慶安年間に本堂を再建、明治に入ってからは拝殿・幣殿・渡廊・社務所等を建立したとされます。
拝殿からは渡廊と幣殿が拝めるが、幣殿の中にある本殿へは渡廊を通らないと行けないようでした。



本殿は三間社流造で重厚感のある社となっていて、拝殿→渡廊→幣殿→本殿とつながるまさに神の道。
反対側の道は、鳥居や太鼓橋へと一直線につながっていく。



さて、「大隴神社のスギ」はその大きさもさることながら、右回りにねじれた姿に驚きます。
何の影響でこのようにねじれながら巨樹となっていったのか分かりませんが、不思議なエネルギーのようなものを感じます。



ねじれたスギの木は、他の地方にもあるのかもしれませんが、この「大隴神社のスギ」のねじれは藁を綯ったような規則性があり、木肌の茶色が生々しい感じがします。
幹周は4.8m、樹高28m、推定樹齢300年の見事な巨樹です。





境内地には広い御神田がありましたので、林沿いに少し歩いてみる。
鳥居と垣の中にあり、横に木の鳥居がありますので御神田に間違いはないのですが、それにしても広い田圃です。

大隴神社の向かいには造り酒屋「藤居本家」の大きな酒蔵があり、愛荘町には他にも「愛知酒造」という酒蔵があるといいます。
酒蔵があるということは上質な伏流水と酒造好適米がある地ということになりますので、お米もお酒も美味しいのでしょう。とびっきり美味しいお酒を冷やで一杯やりたいものです。



ところで境内を歩いている時に小川に架かる橋の下にホシゴイを発見!
ゴイサギやホシゴイは滋賀では夏鳥ですので、冬にはあまり見かけない鳥ですが、稀に冬のホシゴイ(ゴイサギ)に出会うことがあります。
無事に越冬して欲しいものです。




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湖東の巨樹を巡る4~「池寺の大杉」「小八木の山の神と野神さん」~

2020-12-12 06:10:10 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 <池寺の大杉>

甲良町池寺には湖東三山の一つに数えられる「龍応山 西明寺」があり、「池寺」の地名は平安時代の僧・三修上人が西明寺を創建した縁起に由来しているといいます。
“834年、三修上人が琵琶湖の西岸を歩いていると、琵琶湖の東方より光が差し、その光明を目指して湖東の山中へ分け入ると、一筋の光明を放つ池があった...”

「池寺」の地名の由来には農業用の溜池が多く存在していたことも影響しているといい、現在も「二十俵門溜」「新右衛門溜」「船溜」「新溜」「長溜」「湯屋溜」「若宮溜」「柿ノ内溜」が整備されて残ります。
池寺は、犬上川が近くを流れているとはいえ、犬上川は山を挟んで隔たった場所にあり、農業用水を溜めておく池が必要だったのかもしれません。



溜池の内、最も田園地帯に近い場所にあるのが「若宮溜」で、若宮溜の畔には「若宮の大杉」あるいは「池寺の大杉」と呼ばれるスギの巨樹があります。
「若宮溜」はビオトープ型に整備されており、池の周りには桜並木や四季折々の野草が見られるといい、池沿いに少し歩くと大杉に辿り着く。



「若宮大権現」の祠の両端に2本の杉がありますが、祠の奥にある「若宮(池寺)の大杉」と呼ばれるスギは何本にも枝分かれしています。
大杉は幹周7.4mの太さを誇り、樹高は26m。樹齢は推定400年とも500年以上ともいわれます。



杉の巨樹には太い幹が一直線に伸びているものと、何本にも枝分かれして伸びていく杉がありますが、このスギはどれが主幹か分からないほどそれぞれの幹が太い。
荒々しくも力強い姿に圧倒される猛々しい若宮の大杉は、後方に広がる田園地帯が低くなっていることから、かなり遠くからでもこの大杉の姿が望めるのではないでしょうか。



祠の反対側からスギを見ても、その姿は猛々しい。
大杉の根の部分が埋まっているのは、平成14年(2002年)の農村自然環境整備事業での「若宮溜」の整備で、堰の周遊路を造った時の影響かも知れない。





「若宮溜」はビオトープ型の生態系保全施設として整備されているため、野鳥の姿を見ることが多いと書かれてありましたが、この日水辺に現れたのはカワウ1羽のみ。
しかし、溜池の周囲を歩いている時にメジロのグループがエサ取りするに来ているのを発見。

葉や枝の影にチラチラと見えるメジロの姿をカメラで追いましたが、野鳥用のカメラは持ってきておらず姿を捉えることは叶わず。
しばらくメジロが見やすいところに出てくるのも待つも空振り。とはいえ、そんな時間も心地よい。



<小八木集落の「山ノ神社」>

国道307号線を南下して西へ進み、工業団地を抜けて小八木町の集落へと入る。
小八木町集落の田圃の中心あたりに「山ノ神社」が祀られており、ムクノキの巨樹があるといいます。



置かれていた「縁起書」には、“「山之神」は山神社とも称して山村ではほとんどのところに祀られていた。”
“祭礼には、木の股で男女の像に似たものを作り、藁づとや白酒と共に供物とする風習があった”といいます。
「藁づと」とは、藁を束ねて中に供物を包んだものだそうで、供物を昔よくあった藁に包んだ納豆のように包んでお供えするもののようです。

山の神様への怖れと崇敬の念を、ハレの日の祭礼として祀るようですが、縁起書に書かれた説明からは当時の祭りの盛り上がりが伝わってくる。
“その祭礼には村人が集まり、酒食を捧げ、神と共に饗宴をくり広げ、男女の交歓が夜を徹して續けられたものと想像される。”
(縁起書)



通常、山の神は山の麓や中腹に祀られているように思っていましたが、小八木集落は鈴鹿山系の山には近いが距離がある。
少し離れてはいるものの、集落からよく見える鈴鹿山系の山々への信仰がここまで広がったのではないかと想像してみる。

鳥居の横にも大きな木があり、御神木となる山の神は境内の一番右奥に控えておられました。
山の神はムクノキ(椋)で幹周が5.7m、樹高は29mとされ、推定樹齢は600年(伝承では1500年)の老木です。



縁起書に“根元にある瘤は男性の象徴そのものに見え、大樹の精の迸るのが感じられる”とあり、その姿から子宝祈願として信仰されているといいます。
毎年8月に行われるという例祭では、子孫繁栄・五穀豊穣・稼業繁昌への祈願と共に、安寧に過ごせたことへのお礼という意味もあったのでしょう。



縁起書には面白い言葉が書かれていて...
やや(子供)欲しと まこと心に のぞむなば かならず神は み子を授けむ
先頭の文字をつなげると『や・ま・の・か・み』となります。



かつての日本では先祖代々の田畑を守っていくためには後継ぎがどうしても必要だったでしょうから、それが子宝祈願の祈りにもつながっていたのだと思います。
土地に縛られることのなくなってきた世の中ですが、残せるもの・残すべきものは何らかの形で残って行って欲しいと思います。

<小八木集落の「野神さん?」>

田圃の真ん中にある「山の神」から集落の入口方向を見ると、小さな森があるのが見えます。
古くからの田園地帯では集落の外れに小さな祠が祀られていることがありますが、それは道祖神であったり、野神さんであったりすることがあります。



小さな森の中には祠があり、地蔵さんが祀られています。
夏の終わりにはここで地蔵盆が行われているのかと思われ、祠の横にあるムクノキの樹もなかなかの巨樹でした。

勝手な想像をすると、集落の山側にあたる場所にあるのが「山の神社」だとすると、集落の入口にあるこの塚はかつての「野神塚」といってもよいのではないでしょうか。
そう思わせるほど、集落での位置関係に「山の神」と「野の神」の特徴的なものを感じます。



幹は4~5mはあり、樹幹がこんもりと茂っているのは樹勢も良さそうで、瘤が出ているところもあります。
山の神のムクノキには荒々しい迫力がありましたが、こちらのムクノキには柔らかい印象を受けます。



裏側となる田園から見ると、根がよく伸びて、しっかりと大地に根を張っているのが分かります。
同じ小八木集落のさほど遠くはない場所に2本のムクノキの巨樹が、それぞれ祠と共に祀られていることの意味することは何なのでしょうか。



こういった自然界にあるものは、壊すのは一瞬ですが、元の姿を見ようとすれば数百年かかると思います。
現代に残るものを、より多く後世に伝えていくのも今を生きる人間の仕事だと思います。


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湖東の巨樹を巡る3~「正楽寺の野神さん」「ヒイラギの森」~

2020-12-08 05:22:22 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 <正楽寺の野神さん>

「野神さん」は、農耕の神・五穀豊穣を祈願する神として祀られ、滋賀県の湖北地方では祭事として野神祭りを行われる集落が多く見られます。
湖北での野神さんは集落の入口や隣村との境などに祀られていることが多く、祀られている樹が樹齢の古い老木であることから、古くから信仰されてきたことが分かります。

滋賀県の湖東地方にある甲良町を走行していた時、地図に「野神さん」の表記があるのを見て寄り道してみると、それは「正楽寺の野神さん」という野神さんでした。
野神信仰は滋賀県でも湖北地方に集中していると思っていたのですが、湖東地方を丹念に探せば数多くの野神さんに出会えそうに思えます。



甲良町は、多賀町などと隣接する小さな自治体で、湖東三山の一山である西明寺が有名な町となります。
歴史的な有名人といえば、勝楽寺城を築いたバサラ大名の「佐々木道誉」や戦国大名「藤堂高虎」の出生地とされ、古墳時代や飛鳥時代の遺跡も残されています。

正楽寺集落は世帯数が40足らずと思われる小規模な集落で、犬上川の扇状地にある長閑な農村といった佇まいです。
そんな集落の西に広がる田園地帯の一角に祀られている野神さんは、村を守る神であり、悪いものが入ってこないように祀られた結界なのでしょう。



祠の後方に立つのが野神さんとして祀られる樫?の巨樹と思われます。
塚のように囲まれた中心部に野神さんがあり、取り囲むように生えている木々の葉に覆われて薄暗い場所にあるものの、近くで眺めるとその姿は神々しい。



正確な樹種や樹齢やサイズは分かりませんが、力感のある姿は見事で周辺に綺麗に手が入っていることから、この集落で野神さんが大事に扱われていることが伺えます。
幹は途中で二股に分かれ、上部ではさらに枝分かれして樹勢が良さそうです。



少し離れたところから塚を見ると、近くで見た時の印象以上に背が高い木であることが分かる。
こういった感じの塚のような茂みを移動中に見かけましたが、そこには野神さんが祀られていたのかもしれません。



野神さんは、農業の神として祀られる以外にも、地霊の魂を鎮めるという考え方があるといいます。
いずれにしても、万物に宿る魂が共存しながら生きているということを思い起こさせてくれるのが野神さんや山神さんと言えるかと思います。

<ヒイラギの森のヒイラギ>

甲良町池寺に「ヒイラギの森」というかつて野神塚だったと思われる小さな森があります。
その塚(森)には祠が祀られており、信仰の対象として祀られていたヒイラギの巨木(老木)は、この地における野神さんだったのではないでしょうか。



このヒイラギの森も隣の集落との間に広がる田園地帯の間にあることからも、野神塚であったことが伺われる。
森の中には十数本のヒイラギと一本のカゴノキがあり、森の中にある用水路には豊富な水量の水が流れています。

ヒイラギの巨樹は、樹高7m・幹周4.2mで樹齢は推定で300年に及ぶといい、ヒイラギに抱くイメージからすると異常に大きい。
また、枝は妖しく感じるほど横に広がるようにクネクネと伸びており、単独でも森のような樹幹を形成している。



ヒイラギに関して面白い話があって、ヒイラギの葉には縁にギザギザしたトゲがありますが、老木になると葉が丸くなるそうです。
樹高が低い若い樹の時は草食動物に食べられないようにトゲがあるが、老木になって樹高が高くなるとトゲがある必要がなくなって丸くなるのだそうです。





「ヒイラギの森」ではヒイラギの巨樹と並んで「カゴノキ」の巨樹が姿を見せてくれます。
カゴノキも上部に行くに従って枝分かれが多くなり、くねったような枝の姿が幻想的に見えます。





特徴のある樹皮の模様が、シカの子供の体にある斑点のように見えることが「鹿子の木」の由来となっているといい、確かに小鹿の斑点を思い起こすような模様です。
ヒイラギの老木とカゴノキの巨樹が2本並んでいる姿は実に壮観な光景です。



ところで、農耕というと水とは切っても切り離せない関係がありますが、「ヒイラギの森」には“円形分水工”が設けられ、勢いよく用水が流れ出していました。
分水工は、地下を流れる農業用水を地上に噴き出すものだといい、噴き出す水量の豊富さは人工物とはいえ、見応えのあるものでした。



野神信仰は、滋賀県を含む近畿地方に分布して信仰されている神とされますが、現在もその姿を残し、あるいは痕跡を残している地としては湖北地方が中心になると思います、
とはいえ、野神信仰が湖北地方に限らず、湖東地方にも野神さんが今も息づいているのは実に興味深いことでした。
湖北地方の特に高月ではほぼ集落ごとに野神さんが祀られていますが、湖東地方にはどれくらいの野神さんがあるのかも気になるところです。


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「泉神社の湧水」と「杉沢のケヤキ(野神)」~滋賀県米原市~

2020-12-05 11:01:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 泉神社の湧水

米原市の山麓側を走行中、R365に合流する道を探していた時に泉神社の案内看板を見つけ、名前だけは知っていた「泉神社」へ参拝に訪れることにしました。
「泉神社湧水」は銘水と呼ばれて環境省選定の「名水百選」にも選ばれている湧水で、遠方から水を汲みにくる方が多いと聞きます。

泉神社湧水の辺りは縄文時代中期から人々が住み着いた地と考えられており、天智天皇の頃には御領所となり、天泉所と名付けられたと社伝に伝わります。
天泉所では伊吹の大神を水の神として祀り、「素戔嗚命」と「大己貴命」の2柱を産土の神として祀ったといいます。
その後、村名を「大泉」から「大清水」へと改められたといいますが、いずれも水にまつわる村名を表しています。



村内の道に“クマ出没注意”の看板がある中、神社へと向かうとまず御神木のスギが見えてきます。
泉神社には御神木として祀られているスギが数本ある樹木に囲まれた境内を有し、山麓の神社らしい張り詰めた雰囲気に身が引き締まります。



鳥居の正面から見るだけでもこの神社の神々しい空気感が感じられるのが心地よい。
伊吹山(標高1377m)は、神の山・山岳信仰の山。当方には霊山というよりも神山のイメージが強い山です。



鳥居の前の両脇を固めるように古木が2本(上の写真)。
巨樹巡りを趣味としているにも関わらず、樹の種類が見分けられないのですが、これはスダジイでしょうか?
ゴツゴツとした木肌をした力強い迫力を感じる古木です。



境内へ入ってすぐのところにも御神木がありました。
境内には注連縄を巻かれた御神木のスギが数本ある中で、一番大きいのはこのスギのようです。
幹周は5mほどあるように思われ、横にある石垣が食い込むように成長しています。



「泉神社湧水」は境内に入ってすぐのところにあり、立ち入りは禁止されているものの石造りの祠が祀られ、気圧されるような神聖な雰囲気が感じられます。
湧出量は1日当たり約4500トンと豊富な水量を保ち、雪深い伊吹山の恵みの水といえます。



伊吹山は世界最深積雪記録の積雪量1182cmの記録を持つ雪深い山で、山の雪解け水が石灰岩の間を縫って湧き出しているといいます。
米原市には他の集落にも湧水が幾つかあると聞きますので、山に蓄えられた豊富な水は人々の命の水として、畏敬の念を持って守られてきたのでしょう。





湧水から本殿へは段数はさほででもないものの急な石段が続いており、静寂の中を石段を登っていく。
石段の横にも注連縄を巻いた御神木があり、よく茂った森と整備された石段のアンマッチさも面白い。



拝殿・本殿は伊吹山を背に建ち、山への崇敬を持ちながらこの静かな山村で守り続けられてきた神社の感がある。
山の山林は整備されており、境内の落ち葉も綺麗に掃き集められているのが見て取れ、地元の方の尽力も感じ取れます。



境内の一角には梵鐘堂があり、この梵鐘は滋賀県文化財に指定されているという。
梵鐘の詳細については不明なものの、神仏習合の時代があったのか、鐘の音が集落内に響くように高台に設けられているのかと興味深いところです。



泉神社湧水へは立ち入り禁止となっていましたが、境内を出た所には「拝水所(水源の森)」が設置されていて採水が出来るようになっています。
何本ものホースから水を採水出来るようになっていることから湧水を採水しに来られる方も多いと思われ、泉神社湧水の人気の高さが伺われます。

注意書きを読まずに水を飲んでしまいましたが、注意書きにはこう書いてある。
“この湧水は自然水ですので、飲用時には必ず煮沸してください。”



杉沢のケヤキ(野神)

大清水集落と隣接する杉沢集落には「伊吹町杉沢のケヤキ(野神)」がありますので立ち寄ることとします。
野神さんは田の神とされると共に集落に悪いものが入ってこないように守る神として信仰され、湖北地方でも高月町ではほぼ集落ごとに野神さんが祀られています。

野神さんは一般的に巨樹を神の依り代として祀ることが多く、集落によっては石を祀っているところもあります。
米原にも野神さんが祀られているのは知りませんでしたが「杉沢のケヤキ(野神)」はケヤキとスギが根の部分で交わるようにして立つ堂々たる姿をしていました。



米原市は米原町・伊吹町・山東町・近江町が市町村合併で市となっており、杉沢は旧伊吹町だったこともあって伊吹山が近い。(後方の山は伊吹山)
「杉沢のケヤキ(野神)」は、集落が山麓側にあった頃の西南結界にあたると推定されており、集落の中心部に豊臣秀吉等にまつわる勝居神社があることから北の結界ともされている。
野神さんを巡っていうと、どの野神さんも集落の端にあり、結界をしての役割があったことが分かります。



「杉沢のケヤキ(野神)」は滋賀県指定自然記念物に指定されており、幹周5.1m・樹高27mで樹齢は推定で600年の巨樹です。
ケヤキの横には背の高いスギが並び、2本まとめて注連縄が巻かれていることから、2本ともが野神さんとして祀られているのかと思います。



根っこを見ると、一部が根の部分で交じり合っているようにも見える。
看板には御祭神 大地主大神と書かれてありますから、土地を守る地主神ということになります。
杉沢の野神“田畑の豊かな実りを守る神さま”の説明通りです。

 

すぐ横にアスファルトの道路が通り交通量がそこそこある環境の悪さの中でもケヤキは力強く地に根を張っています、
季節柄、落葉してしまい枝だけになっているものの、樹勢の良さが感じ取れます。




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ハヤブサとチョウゲンボウをパチリ!~湖北の野鳥たち2~

2020-12-01 18:02:02 | 野鳥
 山本山にオオワシが飛来していますので遅ればせながら山本山へ向かいました。
しかし、相変わらず人が多いし、山の前に並ぶ車の列を見て引き上げることにしました。遠征組も多いですね。
鳥見を始めた頃は寒くても冷たくても山の下でオオワシを眺めていましたが、近年はちょっと気力がなくなってきたのも影響しているかな。

山本山を後にして田園地帯を走行していると電線にチョウゲンボウ?ちょっと違う。
田圃に降りたので姿を確認するとハヤブサでした。





何度か田圃で小ジャンプして獲物を獲ろうとしているものの、収穫はなし。
途中から諦めたのか、周りの田圃を見回しながら獲物を探し出す始末。
風が強かったので電線や電柱の上だと揺れてしまって居ずらかったのかもしれませんね。



元々ハヤブサは人が居てもあまり気にせず、堂々と居座るやつですが、田圃でも全く動きません。
首から上だけの動きでしたので、逆にこちらの方が場所を移動する始末です。





冬の湖北の猛禽ではオオワシの他にも何種類かに出会えることがありますが、定番中の定番というとトビ・ノスリ・チョウゲンボウといったところでしょうか。
運が良ければチョウゲンボウでもちょっと変わったやつやノスリのちょっと変わったやつが来ることもあるようですが、運が良ければということになりますね。



上のチョウゲンボウと下のチョウゲンボウは別個体ですが、同じような恰好で電柱に留まっています。
冬も盛りになると、あぁチョウゲンボウかぁ~ノスリかぁ~なんて贅沢にも通り過ぎてしまうくらい湖北では定番の光景です。





この日のノスリは遠かった。
ノスリには縄張りのようなものがあるようですが、頻繁に見るようになるとノスリの顔の違いが分かるようになったりもします。
それぞれのノスリにあだ名でも付けると面白いかもしれませんね。



野鳥ファン特有の言葉に『ライファー(初めて見た鳥の意)』があります。
鳥見を始めた頃は見るもの出会うもの全てがライファーでしたが、出会った野鳥が多くなるにつれてライファーの野鳥には出会えなくなってきています。
湖北野鳥センター発行の『湖北の野鳥図鑑』には見たことのない野鳥が山ほど掲載されているのですけどね。




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