僕はびわ湖のカイツブリ

滋賀県の風景・野鳥・蝶・花などの自然をメインに何でもありです。
“男のためのガーデニング”改め

湖北のアール・ブリュット展2017

2017-11-28 06:33:33 | アート・ライブ・読書
 『アール・ブリュット』は、芸術の伝統的な訓練を受けず、何事にも影響されない、作家自身の想像力の源泉から湧き上がる、真に自発的で自然発生的な芸術のことをいいます。
(湖北アール・ブリュット展推進委員会の案内文より抜粋)

「アール・ブリュット=障がい」という捉え方は正確ではないと思いますが、障がい者施設などでの造形活動から生まれてきた作品も多くあります。
アール・ブリュット作品に興味を持ちだしたのは2015年頃からで、近江八幡市にある「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」の企画展や長浜市街で毎年開催される「湖北のアール・ブリュット展」などに毎回足を運んでいます。
「湖北のアール・ブリュット展」は2012年が第1回開催だったということですから、アール・ブリュットが世に認知されるようになってから当方はその魅力を知ったということになりますね。



ヤンマーミュージアムに設けられた展示室は四方の壁に絵画が展示され、室内の中のスペースには造形作品という形での展示でした。
入ってすぐに目に付くのは武友義樹さんの作品で「つぼ」。

この方は細長く引き伸ばした紐状の粘土を巻き上げながら壺のように仕上げていくそうです。
最近は長い紐を振ることに夢中になっているとのことで、過去にも他の美術展で作品を展示されている作家さんです。



大きな台に数点展示されていた作品はタイトルも作者も不明ですが、まずスフインクスか狛獅子かとも思えてしまうライオン?の造形作品が目を引きます。
顔の周囲や尾のたてがみの突起の密集は、伝説の幻獣の一種に見えてしまいます。





次の塔のようににも見える細長い壺には、数多くのイソギンチャクのような突起物とフジツボのようなものが付けられています。
一部分が顔のように見えてしまう面白い作品です。



楕円形の焼き物に突起物が規則的に並び、それぞれの突起に顔のようなものが付いている作品がありました。
アールブリュット造形作品には突起物が規則的に、あるいは不規則に組み合わされている作品が多いですが、“大量の何者かが生まれ出た時の最初の姿”のようにも見えてしまいます。





「いろんな顔」は松井正美さんの作品で“顔”に見えないものもありますが、素朴なオブジェの印象があり、味わいのある作品だったと思います。



次の作品はミニマムな反復のように同じ造形が規則正しく並んでいる作品で、とても愛嬌のある作品に感じます。
同じアール・ブリュット作品とは一括りには出来ない多様な作家さんがおられますね。



『湖北のアール・ブリュット展』では会場での展示(今回はヤンマーミュージアム)の他にも『まちなかArtBrut』と題して長浜市街地のオ-プンスペースなどを利用しての展示が行われました。
北国街道を歩いて行くといくつかのアール・ブリュット作品との出会いがあります。





長浜市では毎年「湖北のアール・ブリュット展」や「番外展」が開催され、近江八幡市にはボーダレス・アートミュージアムNO-MAで「ボーダレス・アートの企画展」が年に数回行われています。
また、滋賀県立近代美術館は2020年に「神と仏の美」「近代・現代美術」「アール・ブリュット」の3本柱で新生美術館として生まれ変わると計画されています。

障がい者福祉という観点ではなく、アート作品としてのアール・ブリュットが認知されてきていると言えるのではないでしょうか。
それだけの魅力と心奪われるものがアール・ブリュット作品にはあるのだと思います。


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ホシムクドリをパチリ!~湖北の野鳥たち~

2017-11-26 17:33:33 | 野鳥
 農村地帯を廻ってみて驚くのはツグミの多さですね。
ここ1週間くらいで入ってきたのでしょうか。あちこちでツグミの姿を見かけます。

例年、シロハラが先かツグミが先かといった感じなんですが、今年はツグミの方が早かったかな。
民家近くを探していると、電線に怪しい姿あり。ホシムクドリはもう入ってきていますね。



1羽だけだったと思いますが、柿の実をつついているムクドリの集団に合流しているようです。
うまく集団に溶け込んで危険を避けているのでしょう。



ツグミは姿は多いものの、中々撮らせてくれません。
冬のシーズンが深まってくると、ツグミはスルーするとはいえ、シーズン初見ですのでパチリ!です。



枯れたヨシにはエナガとシジュウカラのグループが集まっています。
連中は一気に集まってきて、しばらくすると一気に場所を移動していきますね。





さて、田圃には久しぶりにチュウヒの姿がありました。



尾の付け根のところに白いラインがあったので、ハイイロチュウヒの♀か?と思いましたが、これは♀のチュウヒでした。





空を飛ぶのはオオヒシクイのグループです。
今シーズンは早くから田圃でコハクチョウと混在していますね。



おまけは農道の縁のポールに留まっていたチョウゲンボウをパチリ!



11月最後の鳥見はこれで終了。
これからの3ヶ月間でどんな野鳥に出会えるでしょうね。


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御朱印蒐集~福井県小浜市 本浄山 羽賀寺~

2017-11-24 20:10:10 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 羽賀寺は“鳳凰が飛来し羽毛を残した”という吉祥に喜んだ元正天皇が行基に命じて建立させた寺院だと伝わります。
元正天皇は第44代天皇で女帝で、先代天皇で母である元明天皇も女帝であったことから歴代天皇の中で唯一母から娘への譲位だったとされます。

羽賀寺は1450年以降は高野山真言宗の寺院となっていますが、寺院の方のお話では“高野山よりも99年早く開基した寺院です。”ということでした。
小浜の寺院では開基が行基という寺院が多いのですが、これは「お水送り・お水取り」に代表される小浜と奈良のつながりの深さということになるのでしょうか。



最盛期には18坊を有したとされる羽賀寺でしたが、中世に何度か焼失し、唯一現存する本堂は1447年に再興された建築物だとされます。
真言宗に改宗するまでは天台宗の寺院だったとされますので、奈良仏教から平安時代の天台宗・真言宗と変遷していった寺院ということになるようです。



寺院の山門は再建されていませんが、かつて山門があったのではと思われる場所がありました。
ただしこれは後から山門替わりに作られたものかもしれません。



参道に入ると、その先の石段の上に本堂が見えてきます。
いつもの事ですが、石段の上に楼門や御堂が見えてくる時はワクワクするように気分が高揚してしまいます。





まず鐘楼を撞かしてもらってから本堂に向かいましたが、小浜の寺院はどこも人が少なく古刹感が楽しめますね。



本堂は室町時代の1447年の再建で、重要文化財の指定を受けています。
軒が反り上がった様式になっているのは室町時代の建築物の特徴の一つなのかもしれません。





本堂では内陣まで入って仏像を目の当たりに観ることが出来ますが、御本尊の「十一面観音立像」の何と美しいことか!
厨子に納められた十一面観音は女性的な印象の強い仏像で、色彩が綺麗に残っていてスラリと長い手と柔和な顔に心が惹きつけられます。


観光HPより

須弥壇には御本尊の左右に「千手観音立像(藤原期・像高135cm・重文)」と「毘沙門天立像(藤原期・159cm・重文)」が並び、後方には不動明王像が祀られています。
須弥壇の左には「延命地蔵菩薩坐像(鎌倉期)」、右には「子安地蔵菩薩坐像(藤原期)」が祀られてありました。

更に後陣には金色の残った「薬師如来坐像(藤原期)」が厨子の裏側に祀られ、薬師の眷属の二十八部衆が周囲を固め、平安時代に実在した三重塔の扉の一部も残されていました。
お寺の方の話によると、廃仏毀釈の影響などもあって御本尊以外の仏像は元々は他の寺院で祀られていたものということで、小浜には廃寺になった寺院も多いようです。



若狭小浜は「みほとけの里」と呼ばれますが、どの寺院を訪れても素晴らしい仏像に出会うことが出来ます。
特にここ羽賀寺の「十一面観音像」の美しさには圧倒されてしまいました。強さであるとか神々しさとは違う女性的で柔らげな表情の仏像といっていいのでしょう。


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御朱印蒐集~福井県小浜市 岩屋山 妙楽寺~

2017-11-22 06:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 小浜市は京都と鯖街道によって結ばれている街で、京の都からは都の文化を伝えられ、小浜からは若狭の海産物や大陸や朝鮮半島からの大陸文化を運んだとされています。
京都と福井では随分と距離があるように思いますが、若狭では「京は遠ても十八里」という言葉があるように、実は京都は近いという言い方をされるそうです。(1里は約3.9kmで、18里は約70km)

そのような都と深いつながりもあって、小浜は「文化財の宝庫」と呼ばれるほど寺院や仏像の多く残されている土地だといわれます。
小浜ではさほど遠くない範囲にいくつかの寺院があり、神宮寺に参拝した後に妙楽寺へ向かいました。



妙楽寺は高野山真言宗の寺院で、719年に行基が二十四面千手観音を彫刻してこの山腹の岩窟に安置したのが開基とされます。
797年には巡錫中の空海が瑞光が山中に現るとして岩窟中の尊像を感得し、堂宇を建立して安置したと伝わります。



此岸と彼岸の境界の橋の向こう側には1777年に再建されたとされる仁王門が見えます。
この門もシンプルな造りになっていますが、小浜の寺院の仁王門には何となく共通点がありますね。





門の両側で阿吽の金剛力士像が睨みを効かせていますが、妙楽寺の仁王様は力強く厳しい表情をしています。
仁王像は室町後半から江戸時代の作という話もありますが、近年に修復されているようです。





まず梵鐘を撞かせていただきました。
この梵鐘は1602年の鋳造と書かれてあり、1602年は関ヶ原の合戦の2年後で江戸幕府の始まる前年の鋳造となりますから、深い歴史を感じさせてくれる梵鐘です。



本堂は鎌倉時代末期の1296年に建立されたと推定される建築物で、桁行5間・梁行5間と正方形に近い桧皮葺の古刹感のあるお堂でした。
この本堂は福井県最古の寺院本堂建築物といわれ重要文化財の指定を受けています。



堂内では内陣にも後陣にも入ることが出来て、仏像を間近で拝観出来るのが嬉しい寺院です。
1296年の銘のある厨子には珍しい二十四面千手観音立像(平安期・像高176.3cm)が安置されており、この素晴らしい仏像を間近で観ることが出来るのは大変ありがたいことでした。
また、この仏像は永らく秘仏だったこともあって、黄金色が綺麗に残っています。


ポストカード

須弥壇には厨子に安置された本尊の周囲4方を「広目・多聞・持国・増長(鎌倉期)」の四天王が守護しています。
右側には平安期の聖観音立像(像高161.5cm)が安置されており、やや手が長く腰周りの細い美しい仏像でした。

右の脇陣には弘法大師坐像が祀られ、左の脇陣には平安期の不動明王坐像。
特に不動さんは苔の花を模した岩窟の造りの中に安置されていましたので、その迫力には見惚れるばかりです。



内陣にいた時に白人系外国人のおばさんが一人で拝観に入って来られて、その時に内陣にいたのは当方とその方の二人だけだったので英語で話しかけられたら困ったなぁと思っていると、案の定話しかけられてしまいました。
しかし、日本語の堪能な方で“裏にもうひとり千手観音がいるよ!”とこちらの方が教えてもらうこととなりました。

後陣へ回ってみるとおっしゃっていた通り、本尊の真後ろに千手観音立像(江戸期)が安置され、周囲には千手観音の眷属である二十八部衆が祀られています。
後陣の千手観音立像は、本尊が秘仏だった時代のお前立ちだったのかと思われますが、本尊の凄さには叶わぬものの魅力的な仏像であったと思います。



地蔵堂には平安期の地蔵菩薩坐像が安置されているとのことでしたが、ガラス張りで中は暗くそのお姿を見ることは出来ませんでした。
薬師堂も同様に内部の様子は見えませんでしたが、中には薬師如来が安置されているのかと思われます。



妙楽寺を出る時に寺院の方に“仏像を拝観するのが好きなんですが、小浜には他にどんな寺院がありますか?”と聞いてみると...
“近くの多田寺さんは仏像が多いですよ。高齢のおばあさんが一人でいますが今日は日曜なのでおられると思います。”ということで多田寺へ向かいました。

行ってみたところ残念ながら多田寺には誰もおられず、堂内へ入ることは出来ませんでしたので、外から参拝するのみで終わりました。
雰囲気のある本堂で拝観できなかったのは名残惜しかったのですが、神社・仏閣ではこういうことは多々ありますね。


多田寺 仁王門




多田寺 金剛力士像


多田寺 本堂(1807年再建)


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御朱印蒐集~京都山科区 護法山 毘沙門堂門跡~

2017-11-17 19:15:15 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 門跡寺院は皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院のことで、その由来から寺格の高い寺とされてきました。
現在も門跡寺院と称される寺院は約30寺程度あるようですが、これは解釈の違いによって数は多少変わるようです。

京都山科区にある「護法山 毘沙門堂門跡」は天台宗五門跡の一つとされ、他の4寺は「青蓮院・三千院・曼殊院・妙法院(三十三間堂の本坊)」となります。
山科区のある地域は、かつて東国から京都へ入る際の窓口にあたり、奈良時代の奈良街道や江戸時代の東海道などの街道が交差する要所であったとされています。



毘沙門堂は「天台宗五門跡」に数えらていることから、その名のとおり比叡山延暦寺を総本山とする天台宗の寺院です。
しかし寺院としての歴史は天台宗より古く、奈良時代の703年に文武天皇の勅願で行基により「護法山 出雲寺」として開山されたと伝わります。

延暦年間(728~805年)に伝教大師・最澄が毘沙門天を安置したことから「毘沙門堂」と呼ばれるようになったとされますが、平安時代末期以降に度重なる戦乱で荒廃してしまいます。
江戸時代になると徳川家康とも関係の深かった天台宗の僧・天海とその弟子・公海によって現在地に再建され、後西天皇の皇子 公弁法親王が入寺して門跡寺院となったと寺伝にあります。



山科駅から寺院まで20分ほど歩くことになりますが、寺院に近づくにつれ風情のある高級住宅がチラホラあって退屈はしない。
極楽橋を渡った先に建てられている門跡碑を超え、境内に入り石段の上に仁王門が見えてくると、浮世の憂さを忘れる時間が始まるように思えて嬉しくなる。



仁王門には大きな提灯が吊られていて、出迎えてくれます。
寺院の山門に吊るされている提灯には庶民的な活気が感じられて気分が高揚しますね。



また仁王門には1665年に建立されたという阿吽の金剛力士像が寺院を守護しています。
金網越しになりますが、力感のある二天像だと思います。





毘沙門堂にはこの仁王門の他にも「勅使門」と「薬医門」があり、勅使門は通り抜けは出来ないものの、見下ろせば紅葉の時期には紅葉がレッドカーペットになる表参道。
寺院側を振り返れば「毘沙門しだれ」という樹齢150年を超えるしだれ桜の大樹があります。(樹高:約10m、枝張り:約30m)



本堂へ入ると、僧侶の方が“本堂~霊殿~宸殿”を説明しながら案内して下さります。
寺院には「菊の御紋」と「葵の御紋」が同じ場所に並んでおり、権勢を誇った家康の力の強さが伺えます。



須弥壇には右の脇陣には徳川家康坐像。
これは家康が西の日光として毘沙門堂を考えていたことからとされています。

中央にはお前立ちの「毘沙門天立像」がありますが、本尊の毘沙門天像はお前立ちの後方にある宝塔の中に祀られているようです。
説明されていた僧侶も“本尊は絶対秘仏で一度も見たことはない”とおっしゃっておられました。



本尊の左の脇陣には岩窟の中で二童子を従えた不動明王立像が祀られていて、この不動明王は中々迫力を感じます。
不動明王の横に千手観音坐像が祀られていましたが、驚いたのは外陣に祀られいたもう1躰の不動明王像でした。

遠くからは流木のように見える不動さんは、仏像彫像というより木彫りの仏像といった感のある面白い不動さんでした。
天井には天井絵が描かれていましたが、護摩壇からの煤で真っ黒になって見えないのもそれだけ護摩が焚かれているということなのでしょう。



宸殿の内部には百十六面におよぶ障壁画が描かれていて、絵は全て狩野益信の作とされます。
益信は狩野探幽の養子とされる絵師で、どの角度から見ても鑑賞者が中心になるという逆遠近法の手法を用いた障壁画が公開されていました。江戸時代のトリックアート手法になりますね。



宸殿は京都御所から移築された建物で、「御成ノ間」「老人の間」「鷺の間」などの部屋が拝観できます。
中でも会いに来たけど会ってもらえない残念な人が通される「梅の間」は興味深い部屋です。

・“ヤマドリが梅の木に留まる絵”(本来ヤマドリが木に留まる絵はなく、梅の花に留まる絵に使われるのはウグイス)
・“竹の葉に留まるヒヨドリの絵”(竹の葉に留まる鳥の絵に使われるのはスズメ)
これは『鳥が合わない』ということから『取り合わない』という意味になり、「ぶぶ漬けでもどうどす?」に代表される京都の文化(察しておくれやす)を表していると説明を受けて思わず一同失笑してしまいましたよ。



縁側からは「晩翠園」という江戸初期に造園された回遊式庭園があり、落ち着いた気分にしてくれます。
池にはアオサギが獲物を探していましたが、人馴れしているのか逃げようともせず悠然とした姿が印象的です。
また、本堂からは「高台弁財天」がモミジに囲まれて朱に塗られた姿を見せてくれます。



太閤秀吉公の大政所高台尼公が大阪城内で念じていた弁才天を門跡中興第三世一品公弁親王が所望せられて当地に勧請せられたと伝わります。
毘沙門堂門跡は神仏習合の寺院ですので、高台弁財天は鳥居の中の宮ということになります。





経蔵には千手観音坐像が祀られています。
最低限の礼儀として、堂の外側から撮らせていただきました。





毘沙門堂では御朱印帳を購入して帰ってきましたが、ビロード地で手触りの良い御朱印帳です。
いま使っている御朱印帳があと1枚となってしまいましたので、終わったらこの御朱印帳が寺院巡りの友となります。



ところで、毘沙門堂は“桜と紅葉”の名所でもあるそうです。
『そうだ 京都、行こう。』キャンペーンのポスターにも過去に採用されていたのを発見しました。
毘沙門堂の美しい紅葉を楽しみたいとは思いますが、紅葉狩りに訪れる人の数が凄そうですね。




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ノスリとタゲリをパチリ!

2017-11-15 06:25:25 | 野鳥
 先日、コハクチョウがビオトープに入っているのを今シーズン初めて見て一安心でした。
どういう意味かと言うと、ビオトープでやっているあの工事。鳥が寄り付かなくなるのではと心配していたからなのです。
工事は築堤盛土工事ということらしいのですが、どうなる事やらってところで、もしかすると冬になったら盛土の上に何人も並ばれるこになるのかもしれませんね。



コハクチョウが空から舞い降りる姿を見ようと思いましたが、よく居る田圃に姿はなし。
東の空へ向かうコハクチョウを追跡しようとしたけど降りそうで降りず、大回りしてセンター前方面へ向かってしまいました。
オオヒシクイも東の空から琵琶湖へ向かって編隊を組んで戻ってきましたが、距離があり過ぎる。



時間が限られていたこともあって近くに居たノスリにしばらく相手をしてもらうことにしましたが、腹が減っているのか周囲を見渡しながらのエサ探し中で警戒心は薄かったようです。



木から木へ渡りながらエサを探しているようで、時折数m離れた木へ飛んでいきます。
キリがないのでここでお別れしましたが、エサは捕れたのかな?



田圃にはタゲリの小集団の姿がありました。
タゲリは陽が当たった方が綺麗に見えるのですが、雲がかかってしまったのが残念。





田圃では他にもオオヒシクイが1羽だけで休んでいました。
この田圃にガンカモ類が降りていた記憶はありませんが、こいつは少し疲れていたのかもね。



柿の実が熟してきたのを知ってかムクドリが柿の木に集まるようになってきていますが、まだツグミの姿は見ていない。
冬鳥の本番はもう少し先ってことなのでしょう。


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御朱印蒐集~福井県小浜市 霊応山 神宮寺~

2017-11-13 05:55:55 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 奈良東大寺の二月堂では毎年3月に「お水取り(修二会)」という伝統行事が営まれるといいます。
行事は奈良時代の752年から続く行事とされて、TVニュースでしか見たことはありませんが、二月堂の上から「お松明」の火の粉が舞う壮大な儀式だと記憶しています。

「お水取り」では「悶伽井屋」からお香水を組んで十一面観音にお供えする儀式があるとされ、東大寺二月堂で汲まれるお香水は若狭の鵜ノ瀬に流される「お水送り」によって、若狭(福井県)から奈良(東大寺)まで送られた水とされます。
儀式の上では福井県の鵜ノ瀬と奈良県の東大寺二月堂は地下でつながっているということになりますね。



若狭で「お水送り」を営んでいるのは「若狭神宮寺」で、鵜ノ瀬から流されたお香水は10日間をかけて奈良に到達するとされています。
若狭神宮寺を訪れたのは「お水送り」の寺院であることと、寺名の通り神仏習合の色濃い寺院であること、「みほとけの里」といわれる小浜の仏像を見たいなど、いくつかの想いを持っての参拝でした。



仁王門は、駐車場から寺院と反対方向になりますが、神社・仏閣には遠くても門から入ると決めておりますので、まず仁王門まで歩いていきます。
仁王門までの道に1m近い蛇が横たわっていて肝を冷やしましたが、これは出迎えの挨拶なんだろうと解釈して歩きます。

この仁王門は鎌倉時代末期の再建で重要文化財に指定されていて、どちらかというとシンプルな印象を受けます。
さすが神仏習合の寺院だと思えるのは、仁王門に神社のような注連縄(しめ縄)が張られていることでしょうか。



仁王門には1385年の造立とされる金剛力士像が睨みを効かせています。
ただし激しい表情の仁王というよりも、円やかで優しい感じをもってしまう表情をされている仁王像です。





仁王門からの参道は時代劇の撮影場所のような雰囲気がするのどかな田舎道が続きます。
獣害対策のネットがなければ時代感覚がなくなってしまいそうな場所ですね。



反面、寺院本堂が近くなってくると石垣に囲まれた本坊の横を通ることになります。
かつては七堂伽藍二十五坊の大寺院だったとされますので、その名残りなのでしょう。



創建は寺伝によると、714年和朝臣・赤麻呂により神願寺として創建されたとされ、翌715年には若狭彦姫神を根来白石(若狭)より迎え神仏両道の寺院となってと伝わります。
その後、鎌倉時代の初めに若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称されたそうです。



まず「悶伽井屋」で身を清めましたが、この井戸の水こそ「お水送り」に使われる水だそうです。
手に水を浸してみると冷たさに驚きましたが、儀式上のこととはいえ、この水が奈良まで流れていくと想像すると若狭と奈良の縁(えにし)に感慨深いものがあります。



本堂は1545年に雷火によって焼失したとされますが諸仏像は全て難をさけることができ、室町時代末期の1553年に再建された本堂が現存している堂になるそうです。
再建したのは戦国大名・朝倉義景で間口14m・奥行17mの堂々たる姿で、重要文化財に指定されています。



本堂の正面には注連縄(しめ縄)が張られており、神仏習合の寺院の珍しい光景が見られます。
この注連縄(しめ縄)が常世と現世の結界になっているのかもしれませんね。



外陣には廊下を回り込んで入ることになりますが、横手には雰囲気たっぷりの茅葺きの茶屋があり、落ち着いた境内になっていました。
この茶屋の中には茶室と堀ごたつ式の囲炉裏の部屋がありましたが、どういった方がここでもてなされるのでしょうね。





本堂内は外陣までしかはいれないため、外陣から拝んで格子越しに須弥壇に並ぶ仏像を拝観することになります。
外陣も内陣も広く造られていますので仏像までの距離はややあるかもしれませんが、様子は見ることは出来ます。



須弥壇の中央には本尊の「薬師如来坐像(藤原末期)」と脇侍に「日光月光菩薩立像(藤原末期)が2躰。
その前には「十二神将(鎌倉初期)」が周囲を固めています。
左側の須弥壇には中央に「千手千眼十一面観音坐像(伝奈良期)」が安置され、両脇で「不動明王立像(平安末期)」と「多聞天立像(平安末期)」が守護していました。


ポストカード

境内には樹齢500年といわれるスダジイの大木があり、この木は幹周り6.4m・樹高18mとされていて非常に生命感を感じる大木でした。
寺院の裏側にも独特の形をしたスタジイの老木がありましたので、寺院を取り囲む環境自体が不思議な空間となっています。



さて、この神宮寺の「悶伽井屋」で汲まれたお香水が奈良へ向けて流されるという「鵜ノ瀬」にも立ち寄ってみました。
道路に面した所に一之鳥居が建てられており、目と鼻の先の二之鳥居の横には小さな祠が祀られています。



鵜ノ瀬は水量が多く山から流れ出てきた清流ですが、どうやらこの辺りの場所で「お水送り」の儀式が行われているようです。
「お水送り」の場所ということもあって、ここは訪れる人が多かったですね。



川の向こうの巨石に注連縄が張られていますが、ここには奈良の二月堂につながる水中洞窟があるという伝説があるようです。
鵜が潜って奈良まで行ったとの話もあるようですが、これは後から作られた逸話なのでしょう。




ポストカード

神宮寺の案内文には“若狭は朝鮮語(ワカソ)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラが訛って宛字されている。”とあります。
小浜は朝鮮半島から大陸の文化が流れ込む窓口であったとともに、京都・奈良へ大陸の文化を運ぶ拠点であったことが伺い知れます。
そう考えると「お水送り」は当時の文化・民俗の流通を象徴化した儀式だったのかもしれませんね。


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御朱印蒐集~若狭国一宮 上社 若狭彦神社~

2017-11-10 21:22:21 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 若狭彦神社は、上社の「若狭彦神社」と下社の「若狭彦神社」の2社の総称のことをいい、併せて「若狭一宮」として扱われています。
「若狭彦神社」は、先に参詣した「若狭姫神社」から約1.5㌔ほど街から離れる奥の方へ進んだ場所に建立されていました。

「若狭彦神社」は、彦火火出見尊とされ、神話では“山幸彦と海幸彦”の山幸彦を祀る神社となりますから、山幸彦の妻である“豊玉姫命”を祀った「若狭姫神社」と2社で一つというのは理にかなっているようです。
ただし、現在ほとんどの祭典は下社である「若狭姫神社」で行われていて、神職の方も「若狭姫神社」にしかおられないこともあって、上社の「若狭彦神社」は静寂に包まれた社の感があります。



創建は715年とされ、下社の「若狭姫神社」より6年早く創建されているようです。
中世には上社を一之宮、下社を二之宮としたことがあったとされていますが、参拝順序は“どちらからでも可”と看板に書かれてありましたので、これで一安心。



一之鳥居から見える参詣道は鬱蒼とした森になっていて、その森が醸し出すエネルギーに凛とした空気を感じます。
神社としては若狭姫神社とよく似てはいますが、場の空気は随分と違うように思えてしまいます。



一之鳥居を抜けると、更に気持ちを高めるかのように二之鳥居に見立てた2本の杉の大木が迎えてくれます。
この杉の鳥居の“気”のようなものには、冷水を掛けられたように引き締まった気持ちになることが出来ました。



楼門(随神門)は上社・下社とも同じような建築物で、江戸時代後期に建てられた門だとされています。
八脚門の楼門で簡素な印象を受けますが、桧皮葺の美しい門でした。



通路の左右には若狭姫神社同様に「吉祥八人」が祀られています。
それぞれどういうお方なのかは分かりませんが、ほとんど見たことのない随神門の造りになっているのは「若狭姫神社」と同様です。





境内に入るとまず手水舎に向かいますが、ここは霊水が流れてきて池へ流れ込むようになっていました。
「伏水の幸(さち)[甘泉]」と名付けられた湧水は、龍前宇宮山の森に降り注いだ雨水が土中で浄化されて湧いているとされます。



境内にはかつて拝殿があったと思われる跡地が残され、先には神門・本殿の姿が見えます。
この上宮も下宮同様に、随神門・神門・本殿が一直線に並べられています。



神門・本殿は、上宮・下宮ともに雰囲気は似た建築となっていますが、この上宮は静寂に包まれた空間です。
誰も人の来ない、森の中の神社の静寂とでもいうのでしょうか、とても落ち着く空間と感じられました。



二之鳥居に見立てられていた杉の霊木はそれぞれ参詣道の両端にありましたが、参道脇にある幹の下部が1本で上部が2本に分かれている夫婦杉もその迫力のある姿を見せてくれていました。



若狭地方は地図で見ると海岸線が入り組んでいて、山が多く平地が少ない土地に見えます。
しかし、山から流れる水は豊かで森林の多く、海側では海産物にも豊かな資源があると聞き及びます。
ただ小浜市を含む福井県は、原発銀座と呼ばれていて賛否両論のある地域でもあるんですよね。


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御朱印蒐集~若狭国一宮 下社 若狭姫神社~

2017-11-09 19:58:58 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「若狭国」は江戸時代の藩区分では福井県の南部のことをいい、現在の小浜市から三方五湖の辺りになります。
小浜市は奈良時代には海産物を朝廷に献上したとされ、江戸時代には北前船の拠点として栄えるとともに鯖の産地として、隣国の京都や近江へ鯖を運んだといわれています。

現在もその物流道は、「鯖街道」として名を残し、今でも地域の方には馴染みのある街道になっています。
その若狭国の一宮(その地域で一番社格の高い神社)となるのが「若狭彦神社」で、神社は上社である「若狭彦神社」と下社の「若狭姫神社」の2社からなります。



市街地に近い下社の「若狭姫神社」から先に参拝しましたが、神木の多さに心身が緑に包まれていくような気持ちがします。
御祭神は、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)で、日本神話にある「山幸彦と海幸彦」の山幸彦に嫁いだ神とされています。



神話の世界の話ですので理解しにくい話ですので要約になりますが...。
山幸彦と海幸彦が猟具を交換し、魚釣りに行った山幸彦が釣り針を無くしてしまいます。
困って海神の宮殿にいったところ、豊玉姫命と恋におちて結婚。

夢のような3年を過ごした後、山幸彦は海幸彦(兄)に釣り針を返すために地上へ帰ることになります。
その後身ごもった豊玉姫命が山幸彦を訪ねてきて出産しますが、産屋の中を見ないでと言われていたのに山幸彦は覗いてしまい...(略)。

神話の世界は何かを比喩しているのかもしれませんが、ハッピーエンドで終わらない話が多いですね。
余談ですが、この神話は「浦島太郎」のモデルになったともいわれているそうです。



境内の中にある見返り鳥居の向こうには「楼門」「神門」「本殿」が一直線に並んでいます。
すぐ脇に手水舎があり、流れる水で手を清めましたが、とても冷たくて水量がありました。
この水は境内の地下12mの伏流水を汲み上げているとのことで、奈良 東大寺のお水取りゆかりの小浜の神水ということなのでしょう。



楼門(随神門)は江戸時代の1743年の建築とされ、桧皮葺の飾り気のない八脚門でした。
通路の左右には「吉祥八人」という若狭姫神の遣族が4神づつ祀られていて見慣れぬ光景に少し驚きます。
門の正面に左大臣・右大臣が祀られている神社はありますが、通路側両面に祀られているのは見たことがないと思います。



楼門を抜けて境内に入ると、まず目を引くのが「千年杉」といわれる霊木になるのではないでしょうか。
神門・本殿と大きさを比較しても、その巨大な神木の圧倒感には驚きを隠せません。



神社の創建は721年とされており、現存する本殿ははっきりしたことは分かりませんが、楼門と同じく江戸時代の建築物ではないかと思われます。
若狭姫神社の本殿・神門・楼門(随神門)は3棟とも福井県の指定文化財に指定された建築物とのことです。



霊木「千年杉」は幹周り6m・樹高30mといわれる巨木ですが、両手を挙げた巨大な生物のようにも、神宝「七支刀」にも見え、迫力とエネルギーの強さを感じます。



境内には若狭の俳人の村田眉丈という方の句碑が建てられてありました。
「姫宮を出て彦宮へ秋日和」という句。



秋のよく晴れた日に若狭姫神社の参詣を終えて、次に若狭若神社へ参詣に行こう。
まるで若狭姫神社から若狭彦神社へ向かおうとしていた当方の気持ちを表すかのような句碑に見送られ、若狭彦神社へと向かいます。


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ジョウビタキをパチリ!

2017-11-05 17:07:07 | 野鳥
 ここしばらく週末の天気が台風や大雨に見舞われて鳥見が出来ない日々が続いておりました。
久しぶりに快晴となった日曜日、いざ鳥見に出ようとしたけど“あれっ?今の季節ってどこへ行ったら良かったんだっけ?”とすっかり鳥勘が失われている。

取り敢えず巡回コースを辿ってみることにしましたが、早く勘を取り戻さないと冬の野鳥を見逃してしまうかもしれませんね。
前回の鳥見の時にはまだノビタキがいた頃でしたので、ジョウビタキは今朝がシーズン初見です。



民家近くから飛び出していったので見失ったかと思っていたら、場所は悪いが見やすい所に留まってくれました。



小鳥はアオジの姿も見かけましたので、少しづつ入ってきている感はありますね。
アオジには逃げられてしまったけど、平地に戻ってきたホオジロをパチリ!



猛禽も少しづつ増えてきたのかな?
ノスリがしばらく相手をしてくれました。



ノスリは2ヶ所で見かけましたが、数が増えるのはまだこれからでしょうね。



電柱にはチョウゲンボウの姿もありました。





田圃にはコハクチョウの姿あり。
久しぶりにコハクチョウを見ると、サイズ感が失われているのが分かります。凄く大きく感じてしまうんですよ。





今年は柿が豊作だと聞きます。
“柿が豊作の年は大雪になる”といいますが、今年の冬の雪はどうでしょうか。
多少大雪の日があった方が野鳥の出は面白いように思ってるんですけどね。


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